2017年09月 - 「高天原の縁側日記」
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2017/09/30

(続)『備前国分寺』の周りは古墳の宝庫だった!「両宮山古墳」と稚媛(わかひめ)伝説

前回は、岡山県第3位の大きさを誇る「両宮山古墳」のすぐそば、『備前国分寺跡』をご紹介しました。
備前国分寺の周りには、「両宮山古墳」をはじめとして、規模の大きな前方後円墳が数多くある両宮山古墳群(西高月古墳群)が有るともご紹介しました。
今日は両宮山古墳群の内、私が取材出来たいくつかの古墳をご紹介します。


P35976541.gif(両宮山古墳を中心に左に国分寺+古墳が点在しています。)

一帯には、「両宮山古墳」を含む前方後円墳4基・帆立貝形古墳2基などからなる「西高月古墳群」が存在しています。取材(偉そうですけど要は写真に収められたものです)出来た古墳をご紹介します。広い地域なので徒歩で廻れた分だけですその他は説明だけでご勘弁願います。

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P7300889.jpg(まずは両宮山古墳)




【両宮山古墳周辺の古墳】

両宮山古墳が築かれた平野をみてみると、同じく古墳時代中期の後半頃に造られた古墳が両宮山古墳の周辺に集中し、1つの古墳群を形成しています。これを「両宮山古墳群(西高月古墳群)」と呼んでいます。

これらの中には両宮山古墳の陪塚(ばいちょう)と考えられている古墳もありますが(和田茶臼山古墳)、それぞれの古墳に埋葬されている人物が、両宮山古墳の埋葬者の親族や政権を支えた官僚的人物、あるいは両宮山古墳の埋葬者とは別系統の首長であるのかなど、はっきりとわかっていません。

『うんちく「陪塚(ばいちょう)」って何?』大形古墳(主墳)の近くに計画的に造られたと考えられる小形の古墳の事で。陪塚に埋葬された人物は、大形古墳に埋葬された人物に対して、従属的な立場であったと想定されます。主墳の製作者、子供・妻・殉死した者などと考えられています。

参考にしてくださいね。
①今話題の『前方後円墳を嗜(たしな)む』見処と鑑賞法!
②備前地域最大の前方後円墳、『両宮山古墳』は倭への架け橋か!

【和田茶臼山古墳(陪塚)】

P7300852.jpg(陪塚・和田茶臼山古墳)
P7300876.jpg(和田茶臼山古墳の段築から両宮山古墳後円部を望む!)



両宮山古墳の後円部北側に造られた、墳丘全長55m、後円部径(推定かけて畑に成っています)41.5mの帆立貝形古墳です。後円部の高さは北西のくびれ部から5.65mの高さです。後円部は二段築成とかんがえられます。

両宮山古墳と同様に葺石や埴輪は伴わず、また、外濠が両宮山古墳の外濠と一部共有する二重周濠がめぐらされていました。こうしたことから、この古墳の埋葬者は、両宮山古墳の埋葬者と親密な関係であったと想定されています。5世紀後半~末の築造と考えられます。

『うんちく「帆立貝形古墳」てどんな形?』正にホタテ貝の形です(当たり前やんか、笑)円墳に低く短かい突出部がついた平面形が、帆立貝に似ているところからホタテ型と呼ばれています。奈良の纏向古墳群が始まりといわれています。大和政権と地方首長の間での政治的関係から、同じ形態の古墳が築造されたのではないかと推測できますね。

【森山古墳】

P7300898.jpg(森山古墳、二段築成が綺麗に目られますね。周濠は今は田んぼに成っています。)
P7300900.jpg(後円部の高さに比べて前方部は平たいイメージです。後に畑に変化したせいですかね?)

墳丘全長82m、後円部径63m、同高さ12.1m、総長136mの帆立貝形の古墳です。後円部は高さが際立ち、二段築成の可能性があります。周囲には周濠を巡らしていたことが分かっています。

両宮山古墳と異なって葺石と埴輪が伴っています。これふしぎですね~墳丘の縮小は両宮山古墳群の衰退を意味していると考えるのですか、飾りは派手になっているわけですからね~?形象埴輪では蓋(きぬがさ)や家が、朝顔形埴輪では肩部に鹿が描かれた破片が出土しました。5世紀後半の築造と考えらています。

『うんちく「蓋」』衣蓋とも表記されます。高貴な人にさしかける笠として形づくられたものです。埋葬された人物の権威の象徴を示すものとして重要だったと思われます。鹿ですが食料というよりも神聖な動物として扱われています。食料といえば猪ですね。

【正免東古墳】

墳丘の直径が23mをはかる古墳です。前方部の有無が判断できないため(道路に成って変形が激しいいです)、円墳か前方後円墳かわかりません。調査成果から葺石が認められ、二重周濠の可能性もあります。

周濠の底からは、鹿の線刻絵画や円弧文様をもつ埴輪や蓋・家の形象埴輪が出土しました。森山古墳と親密な関係が想定されます(森山古墳の陪塚の可能性もあります)。5世紀後半の築造と考えられています。 こちらの古墳道路の下に成ってしまっています。

【 廻り山古墳】

P7300907.jpg(朝日で写真が撮りにくい~!)
P7300910.jpg(近づいてみましょう。)
P7300913.jpg(説明版がありました。調査されていないそうです。)
P7300916.jpg(前方部正面の直線です。)

墳丘全長47mと推定される前方後円墳で、高さ5mの低い丘陵の頂部に造られています。墳丘は畑の開墾が著しいですが、大きく開いた前方部を北に向けています。墳丘を取り巻く周濠をもつ古墳は、周辺ではこの古墳が最後の古墳と思われます。

未調査のため、埋葬の主体部や葺石や埴輪などの外表の様子はよくわかりませんが、6世紀前半の築造と考えられています。

【 朱千駄古墳】

墳丘全長85m、後円部径40m、同高さ6.5mの二段築成の前方後円墳です。北に延びる丘陵斜面に平行して築かれ、前方部を東に向けています。

後円部には兵庫県の竜山石(たつやまいし)製の長持式(ながもちしき)石棺が置かれていたようです。中からは、この古墳名の由来となった大量の朱や銅鏡、玉類、刀剣類が出土しました。5世紀末に築造されたと考えられます。

『うんちく「石の宝殿・竜山石(たつやまいし)」』おもに古代の石棺、石碑、モニュメントなどに使われています1700年の歴史を誇る石切場といえます。姫路城石垣、皇居吹上御苑、国会議事堂、日本帝国ホテル等の建築物に使用されています。

参考にしてくださいね。
③日本三奇 石乃寶殿 !「オーパーツ?」『生石神社(おおしこじんじゃ)』の凄さ!

【 小山古墳】

墳丘全長67m、後円部径42m、同高さ7.9m、総長89mの前方後円墳で、二段築成の前方部と三段築成の後円部をもちます。低い丘陵の先端部分に築かれ、前方部を南に向けています。

後円部にある社殿の裏側には、熊本県の阿蘇(あそ)産の溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)製である家形石棺の身と蓋(ふた)が破片となって残されています。埴輪が列状にめぐっており、5世紀末の築造と考えられています。

【岩田14号墳】

P7300875.jpg(綺麗な横穴式石室)
P7300915.jpg
(出土品の雁木玉・トンボ玉です。きれいですね~!)

6世紀中ごろに築造された長さ11.8mの横穴式石室を有する後期円墳です。石室は片袖式で、7基の木棺痕跡が確認されています。山陽団地造成の際に発掘され、公園として保存されています。

中からは単竜環頭太刀や雁木玉を初めとする多量の須恵器や馬具類が出土しました。出土品は赤磐市山陽郷土資料館に展示・保管してあります。最初の地図には入っていませんが、両宮山古墳北側団地の中に有りました。

今回の資料データは岡山県赤磐市教育委員会作成のパンフレット(国分寺のポストに濡れぼそって入っていました。)を拝借しました。

【最後の前に両宮山古墳と稚媛伝説】

1500年前ほど前、このあたり備前地方は、吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)田狭(たき)という豪族が支配し、大和朝廷に並ぶほどの強い勢力を誇っていました。 両宮山古墳は、その田狭の墓ではないかと言い伝えられてきました。

田狭には稚媛という美しい妻がいましたが、あまりの美貌ゆえに雄略天皇は田狭を任那(または「伽耶」は、当時日本の勢力下にありました)の国司として派遣し自分の后にしてしまいました。 任那に国司として派遣された田狭は、留守中に妻を天皇に奪われたことを知り、新羅と結んで天皇に背こうとしました。

怒った天皇は田狭の子で弟君(おとぎみ)に父を討つことを命じましたが、弟君は新羅へは向かわず。田狭の軍と結ぼうとしました。 これを知った弟君の妻樟姫(くすひめ)は、夫に謀反の心があることを知り、夫を殺し百済から工人たちを連れて帰り、天皇に献じています。

妻稚媛を天皇に奪われ、わが子弟君を殺された田狭の嘆きはどのようなものであったのでしょうか。 しかし、田狭のその後は「日本書紀」に記されていません。

それから十数年後、雄略天皇が崩御(雄略23年・西暦479年)されると、稚媛は雄略天皇との間に生まれた星川皇子(ほしかわのみこ)を天皇にしようと 田狭の子・兄君(えぎみ)らとともに大和政権に対して反乱を起こし。皇太子白髪皇子(しらかのみこ)と争いましたが、やがていずれの反乱も鎮圧されてしまい、立てこもっていた大蔵に火が放たれて、無残な最期を遂げます。これらを機会に吉備の政治的衰退が始まったとされています。

「日本書紀」には、滅びゆく豪族の姿と稚媛の数奇な運命がこのように描かれています。壮大な両宮山古墳は、今もなお、古代の悲しい物語を語り続けているのですね。

P7300918.jpg(遠方より両宮山古墳を眺める、悲しい歴史が埋まっているのか?)

両宮山古墳と和田茶臼山古墳(陪塚)には葺石と埴輪が見つかっていません。埴輪に関しては森山古墳・正免東古墳・朱千駄古墳・小山古墳・廻り山古墳では出土しています。南西の造り出しからも古墳に伴う遺物は見つかりませんでした。二重の環濠に陪塚まで備えた巨大古墳に葺石や埴輪が無いのjは大変不思議ですよね?やはり雄略天皇や皇太子白髪皇子への反乱が大和の怒りを買い古墳の祭祀が完結しなったのかもしれません。これもまた古代のロマンです。

【本当に最後】

今回の取材で、吉備(今日の記事は備前ですが)地方が古代史において、近畿(奈良・大和)や九州と同等の勢力を持っていたと考えました。出雲国も入れて四巴の論争が今後展開されることは間違いないと思います。古代の歴史は感動的ですらありますね。

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リュミエールブラン ネージュ

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2017/09/28

『備前国分寺』の周りは古墳の宝庫だった!そして大仙古墳を上回る巨大古墳の噂!

今日は以前ご紹介した「両宮山古墳」のすぐそばにある『備前国分寺跡』です。備前国分寺の周りには、「両宮山古墳」をはじめとして、ある程度規模の大きな前方後円墳が数多くあるのです。一度ではご紹介できないかもしれませんが、次の機会に必ずご紹介したいと思います。

P7300808.jpg
(鎌倉時代後期頃の塔跡に立てられた石造七重層塔(赤磐市指定有形文化財)。何故いがんでる?笑)


さらに、今日Facebookのお友達の投稿読んでおりますと、凄い発見がありました。なんとあの仁徳陵墓よりも規模の大きい巨大古墳が吉備の国にあるというのです。私はびっくりしてしまいました~~!吉備国恐るべし(笑)

興奮がMaxになる前に、まずは基本の『備前国分寺跡』のご紹介です。

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【いつも説明している国分寺の復習】

国分寺は、聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、天平13年(741年)の国分寺建立の詔を発して、当時の日本の各国に建立を命じた寺院です、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれています。
正式名称がこれまた長いんですよ、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」といいます。なお、壱岐や対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられました(島なんですから当たり前の事なんですけどね)。大和国の「東大寺」と「法華寺」は総国分寺と総国分尼寺とされ、全国の国分寺と国分尼寺の総本山に位置づけられました。

【うんちく~!こちらもいっつも書いてるし~~!】

平安京の「東寺」(私も弘法市でたまに行くのですが)は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場としての役目を担ったのですが、その「東寺」正式名称を「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」といいます。「国分寺」に本当にそっくりでしょう。

役目も同じく都を守りそれぞれ国を守るために建立されたということでしょうね。ちなみに東寺の位置知っておられますか?京都駅の西南西方向にあるんです。京都の中心が今とずれているのに築かれましたでしょうか?東寺が有るということは当然西寺も有った事に成りますね、その中心を都大路が通っていたことに成ります。観光で良く行く東山のお寺群ど田舎です。(笑)

【さて備前国分寺ですよね】

P7300812.jpg(国分寺ですね~!説明板上達の兆し無し。)
P7300815.jpg
(結構大きい国分寺です。)
P7300803.jpg(必ずある七重の塔現存は一つもしていないと思います。)
P7300805.jpg(塔基壇は復元ですが、石の七重の塔は本物です。)

備前国分寺跡(びぜんこくぶんじあと)は、岡山県赤磐市馬屋(まや)にある古代寺院跡です。もちろん国の史跡に指定されています。

奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、備前国国分僧寺の寺院跡にあたります。備前国分尼寺跡(史跡指定なし)についてもご紹介したいと思います。

「備前国分寺跡」は岡山県南部、赤磐市南西部の扇状地斜面に位置しています。聖武天皇の詔で創建された国分僧寺の遺構に比定されています。寺域南方には古代山陽道が通り、現在は寺域西辺中央に国分寺八幡宮が鎮座するほか、寺域東方には両宮山古墳が、古代山陽道を挟んだ南方には国分尼寺跡が位置しています。

寺域では、宅地開発の計画を受けて1974年(昭和49年)に確認調査が実施されたのち、1975年(昭和50年)に国の史跡に指定されました。また2003~2012年度(平成15~24年度)に計6次(少ないですね但馬なんかの昨年34次調査が行われました。)発掘調査が実施されており、判明した主要伽藍の一部は史跡整備されています。

両宮山古墳の記事も参考にしてください。①備前地域最大の前方後円墳、『両宮山古墳』は倭への架け橋か!

【備前国分寺の歴史】

P7300820.jpg
(往時を思えば凄い景色だったでしょうね~!)


創建年は不明ですが、天平13年(741年)から暫らくしてと考えられます。延長5年(927年)成立の『延喜式』主税上の規定では、備前国の国分寺料として稲4万束があてられていました。
考古学的には、平安時代中頃から後半頃(10世紀代)に改修が実施されたのち、平安時代末頃(12世紀中頃-後半頃)には講堂および北側回廊が焼失したものと見られ、その頃には金堂・塔などの諸堂宇も機能を喪失したものと推測されます。「国分寺」は全国だいたい同じ造りに成っています。回廊で囲まれた中に講堂と金堂それに七重の塔の三点セットです。

中世期の変遷は詳らかではありませんが、考古学的には鎌倉時代前半頃に講堂東北部に堂宇1宇(中世期の本堂と推定)の再建が認められています。また鎌倉時代後期頃には、塔跡に石造七重層塔が建てられていて、現在も残っています(赤磐市指定有形文化財)。

16世紀後半~17世紀初頭頃には、上記堂宇(推定本堂)の廃絶が確認されていることから、寺院としての機能は完全に喪失したと考えられます。

江戸時代に諸国一宮・国分寺を参詣した人物の記録では、寛政3年(1791年)に備前国において円寿院・八幡宮(国分寺八幡宮か)・吉備津宮(吉備津彦神社)の3箇所に参った旨が記載されており、当時頃からは西方の円寿院が備前国分寺の法燈を継承する寺院と見なされていたようです。

また土肥経平の『寸簸之塵(きびのちり)』や松本亮の『東備郡村誌』においても、備前国分寺および国分寺八幡宮のことが記述されています。天明年間(1781年~1789年)には塔付近において銅製小塔(非現存が残念ですね)が出土したといい、その底面には「宝亀元年(770年)春三月慈園奉詔」と記されていたといわれます。

【伽藍について、パターン通りです】

P7300826.jpg(講堂跡黒い石が本物です。)
P7300830.jpg(手前のこれね。)
P7300833.jpg(横から見るとよくわかる4個の本物、手前は講堂に続く回廊の礎石です。左看板が僧房跡です)
P7300834.jpg
(僧房跡の説明版)


僧寺跡の寺域は東西175メートル・南北190メートルで、築地塀をもって区画されています。主要伽藍として南門・中門・金堂・講堂・僧房が南から一直線に配されるとともに、寺域南東隅には塔が配される東大寺式伽藍配置(国分寺式伽藍配置の通り)です。講堂左右からは回廊が出て中門左右に取り付き、金堂がその回廊に囲まれる変形の様式になっています。

本尊を祀る金堂の基壇は、東西116尺(34.45メートル)・南北74尺(21.98メートル)、基壇上の建物は桁行7間(88尺)・梁間4間(46尺)です。創建期の金堂は平安時代中期に倒壊し講堂に見られる中世期の瓦が見られないため、それ以前に廃絶した推測されます。

塔経典を納めた塔(国分寺以外の場合は釈迦の遺骨(舎利)を納めた)。基壇は一辺60尺(17.82メートル)、基壇上の建物は一辺30尺(8.91メートル)。礎石は心礎のみ現存します。平安時代中期頃には廃絶したと見られ、鎌倉時代には心礎上に石塔(石造七重層塔、赤磐市指定有形文化財)が建てられています。

経典の講義・教説などを行う建物の講堂は、金堂の北方に位置し基壇は東西127尺(37.72メートル)・南北70尺(20.79メートル)、基壇上の建物は桁行7間(111尺)・梁間4間(54尺)です。創建期の講堂は12世紀半ば-後半頃に焼失し、鎌倉時代前半頃に再建されたと見られます。再建建物は基壇東北部に位置し、半分ほどに縮小されました。16世紀後半~17世紀初頭頃までの存続が認められ、備前国分寺跡では最後の建物の1つとされます。講堂の位置で中世期の本堂が営まれる例は、讃岐国分寺など多くの寺院で見られます。

寺域からは大量の瓦のほか、銅印、泥塔、三彩、土器片などが出土しています。そのほか、現在では寺域西辺中央に国分寺八幡宮が鎮座しています。

P7300840.jpg(小さな祠と両宮山古墳、朝もやの中で綺麗ですね~。)
P7300842.jpg(国分寺八幡宮鳥居)
P7300848.jpg(国分寺八幡宮神門もしっかりあるのですが~?)
P7300845.jpg(国分寺八幡宮拝殿兼本殿がさみしいかな?)

【備前国分尼寺跡】

尼寺跡は、僧寺跡から古代山陽道を挟んで南方約300メートルに位置します。推定寺域は1町半四方(135メートル四方)で、現在ではその東半は溜池(仁王堂池)、西半は農地となっています(急いでいたので行けていませんつまり写真も無いのです、ごめん)。

本格的な調査が実施されておらず詳細は明らかでないが、推定寺域からは国分僧寺のものと同様の瓦が出土しているほか、かつては礎石と見られる岩が点在したと言われています。

【最後に周りの古墳群と驚愕の巨大古墳】

『備前国分寺』の周りには、両宮山古墳群(りょうぐんざんこふんぐん)は、岡山県赤磐市にある古墳群で「西高月古墳群(にしたかつきこふんぐん)」とも言われます。岡山県南部、吉備地方南東部の備前地方に分布する古墳群です。前方後円墳4基・帆立貝形古墳2基などから構成され、主墳の両宮山古墳は岡山県第3位の規模の巨大古墳になっています。こちらのまだご紹介していない古墳群の古墳は次回ご紹介したいと考えています。

最後の目玉は、大仙古墳を上回る巨大古墳の噂!

P9280400.jpg(600mの前方後円墳、グーグルアースの映像なので勘弁を、次回取材してきます。)


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リュミエールブラン ネージュ

関連記事
  
2017/09/26

ブリューゲル「バベルの塔」展 16世紀ネーデルラントの至宝―ボスを超えて―

昨夜毎月恒例となっている「馬肉会」がありました。今回はサプライズも無く、静かな?まったりした会に成りました。このような月ももちろんあってよいね~なんてね。(笑)来月は賑やかに大爆発するかもかも知れません。美味しいお酒と美味しいいお料理、気の置けないブログ仲間との楽しいいひと時が、栄気を養ってくれました。

さて今日は、昨夜の疲れもあるので(アッ!失言、笑)、ボイマンス美術館所蔵、ブリューゲル「バベルの塔」展 16世紀ネーデルラントの至宝―ボスを超えて―の美術展の様子と観覧の感想を少しお話したいと思います。

P9220051.jpg
(大阪国際美術館初めて来ました。)

その前に、今回の感想ですが、はっきり言って一言で終わってしまうものです。それに先に観覧に行かれたブログ仲間のビー玉さんが丁寧に記事を書いていらっしゃいますので、そちらも参考にしていただけると、私が疲れてどこかで眠りに落ちそうになったら途中で切り上げてUPしてもよいかなんて思っている、市郎右衛門です(他力本願・勝手にコラボ)。どんだけ大着するきやねん。

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(俺の足が写ってる?半ズボン!寒いね~。)
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(中国の方が空気読んでくださらなくて。)
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(人が多くてこの閉まった自動ドア撮るのに15分も待った私!頭悪いです。)

【バベルの塔への思い】

ヤッパリ横山光輝さんの「バビル二世」ですよね~~~ねえ!。(違うからね、楽しかったのは分かるけど)
私、これでも中学はクラブで、高校・大学時代は部活動も美術部でした~わりと絵も上手いんですよ。子どもたちも遺伝したのか美術だけはみなさん成績が良いようです。そんな私がどうしても見たかった絵画の一つがピーテル・ブリューゲル1世の『バベルの塔』です。しかしながら私は、先日ブログにUPした13年待ちコロッケ同様に大きな勘違いをしておりました。これは最後の最後バベルの塔の絵の前まで(少し前か)まったく気が付きませんでした。情けないかぎりです。

P9220076.jpg
(はいチケット買いました~1500円でした。)

忘れていました。眠くなっても大丈夫なようにまずは、展覧会のHPを載せておきますね。ブリューゲル「バベルの塔」展 16世紀ネーデルラントの至宝―ボスを超えて―

オランダを代表する美術館のひとつ、ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館から、ピーテル・ブリューゲル1世の『バベルの塔』が24年ぶりに来日する展覧会が実現しました。
副題に「16世紀ネーデルラントの至宝―ボスを超えて」とある通り、ブリューゲルのみならず、彼が手本とした先駆者ヒエロニムス・ボスの油彩2点、そして彼らが生きた時代、16世紀ネーデルラントの絵画、版画、彫刻を全体で約90点の出品作が鑑賞できます。
ネーデルラントは16世紀から18世紀にかけて現在のオランダおよびベルギー北部(フランデレン地域)に存在した国家です。

迫真の写実と輝くような美しい色彩が印象的な油彩絵画、ボスの怪物モチーフが所狭しと描かれる版画作品、そして木彫の粋を尽くした彫刻作品など、16世紀ネーデルラント美術の精華をご覧いただけます。

先にビー玉さんのおっちょこ主婦の家計救出ブログ 紹介しとこ、眠くなってきそう。(笑)とても素敵なブログに成っています。

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(ビー玉ちゃんも好きだと言っていた。ボスの作品です。なんとなく可愛い?諺が絵に成っています。)
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(聖クリストフォロス)
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(放浪人「行商人」)

【その前に 「AKIRA」「童夢」などで知られる漫画家・映画監督の大友克洋さんのバベルの塔】

原画を大胆に新解釈した絵画作品「INSIDE(インサイド) BABEL(バベル)」を発表する。塔にざっくりと切り込みを入れて、構造や中でうごめく人々、建設作業を想像し、ちみつに描き出した。作品を書かれていましたのでご紹介します

ブリューゲルのこの「バベルの塔」は、建築物としてかなり完成に近づいている。「中はどうなっているのか。カットして中を見たら面白いんじゃないか?」と考えたのが始まりだそうです。

準備のため、オランダ・ロッテルダムのボイマンス美術館で原画をつぶさに観察し、学芸員に話を聞痛そうです。ウィーンの美術史美術館でも、ブリューゲルが描いたもう一つの「バベルの塔」(1563年作)を見て来たそうです(羨ましか~~~!)。

P9220082.jpg
(バベルの塔の中が書かれています。)
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(同じくですが明るさがすこし違うかな?)
P9220086.jpg
(拡大)

大友克洋「INSIDE BABEL」。ブリューゲルの原画に基づき、切り込みを入れた中央部分を新しく描いた 2017年 デジタルプリント、紙 90×110.5センチ (C)マッシュ・ルーム 大友克洋

2点の「バベルの塔」は(ブリューゲルが実際に見た)ローマのコロセウムに基づいたと言われてはいますが、想像で補っているはずです。架空の建物を主役にしてここまで描き込む想像力のすごさ。建築物について相当の知識を持って、構造を考えて描いたのだと思います。

【バベルの塔って?】

旧約聖書の「創世記」中に登場する巨大な塔の事です。もちろん神話だともいますが、一部の研究者は紀元前6世紀のバビロンのマルドゥク神殿に築かれたエ・テメン・アン・キのジッグラト(聖塔)の遺跡と関連づけた説を提唱されている学者もおられます。

実現不可能な天に届く塔を建設しようとして、崩れてしまったといわれることにちなんで、空想的で実現不可能な計画を比喩的に「バベルの塔」ということもあるようです。

正確には「バベルの塔」という表現は聖書には現れず、"the city and its tower"もしくは"the city" と表される。バベル(𒁀𒀊𒅋𒌋)はアッカド語では神の門を表す。一方聖書によるとバベルはヘブライ語のbalal(ごちゃまぜ)から来ているとされます。

【旧約聖書の記述ギュスターヴ・ドレ『言語の混乱』】

バベルの塔の物語は旧約聖書の「創世記」11章にあらわれます。そこで語られるのは次のような記述で述べられています。位置的にはノアの物語(ノアの箱舟)のあとでアブラハムの物語(信仰の父と呼ばれ神の言葉に疑問を持たなかった人物)の前に置かれているようです。私キリスト教徒ではありませんので、間違いがあるかも知れません。そのときは遠慮なさらずにコメントをくださいね。

全ての地は、同じ言葉と同じ言語を用いていました。東の方から移動した人々は、シンアル(バベルの塔が有ったとされるバビロニアの元の名前)の地の平原に至り、そこに住みつきます。そして、「さあ、煉瓦を作ろう。火で焼こう」と言い合います。彼らは石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを用いました。そして、言った、「さあ、我々の街と塔を作ろう。塔の先が天に届くほどの。あらゆる地に散って、消え去ることのないように、我々の為に名をあげよう」。

神様は、人々が作ろうとしていた街と塔とを見ようとして天からお下りになり、そして言われます。「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。神様ははそこから全ての地に人を散らされたので。彼らは街づくりは完成しませんでした。その為に、この街はバベル(ごちゃまぜ)と名付けられます。神様がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全世界に散らされたからです。「創世記」11章1-9節より。

偽典(作者ではない人物の著書)の「ヨベル書(旧約聖書外典)」によれば、神はノアの息子たちに世界の各地を与え、そこに住むよう命じていました。しかし人々は、これら新技術を用いて天まで届く塔をつくり、シェム(名前?)を高く上げ、人間が各地に散るのを免れようと考えます。神は降臨してこの塔を見「人間は言葉が同じなため、このようなことを始めた。人々の言語を乱し、通じない違う言葉を話させるようにしよう」と言われます。このため、人間たちは混乱し、塔の建設をやめ、世界各地へ散らばっていってしまいます。

あれバベルの塔は?あまりに高くて神の怒りに触れて崩れ落ちたんじゃなかったの?ノアの箱舟での洪水、ゾドムとゴモラの滅亡、バベルの塔の破壊、神は自分にまねて人を作ったはずなのに、アダムとイヴは知恵のリンゴをかじったばかりに楽園から追放されるし、なんか納得できないことだらけ!唯物神の信仰って人が神に近づくことさえ許さない信仰なのかな?(気を悪くされませんようにお願いいたします。)

【信仰にケチをつけてもしょうがない】

私は信仰心を持っているのか?いつも疑問に思っています。実家(家)の宗教は仏教(日蓮宗)ですが結婚式は神前結婚でしたし。お正月は神社に初詣(近頃は初詣じゃなくても神社巡りしてますけどね)、お盆はお墓参りに行って、クリスマスでケーキ食べます。近頃はハロウィンまで盛り上がるようになって来ました。日本人には宗教心が無いのか?なんて外国の方に思われているかもしれません。けれどちゃんと「ご飯は一粒も残してはいけない」と教わりませんでしたか?これ仏教の考え方なんですよね。

キリストがキリスト教を作ったと思っていませんか?私はキリストはちょっと変わったユダヤ教徒だったと思います。キリスト教を実際に広めたのはキリストに会ったことも無いパウロさんですね。おなじくブッタも少し変わったバラモン教徒でした。仏教を広めたのは、アーナンダ達十大弟子とナーガールジュナ(大乗仏教の生みの親?)などです。ん~~?話がそれてますね~(-"-;A ...アセアセ。

【バベルの塔、教義と実践の狭間】

ピーテル・ブリューゲル1世の『バベルの塔』は古代バビロニアの世界ではありません。ブリューゲルが生きた16世紀の街並みがマクロなバベルの塔の中にミクロな超絶技巧で再現されています。素晴しい作品でした。

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(最後に目玉です!ピーテル・ブリューゲル1世による「バベルの塔」。1568年ごろ/油彩、板 59.9×74.6センチ)

最後に申し上げなければいけない一言ですが、「私の見たいピーテル・ブリューゲル1世の『バベルの塔』」はこれじゃなかった~(笑)
ブリューゲルは『バベルの塔』を三枚書いています。一枚は行方不明(焼かれてしまった?)と今回のボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館の『バベルの塔』です。

そして私が望んでやまなかった三枚目は1563年製作、オーストリア、ウィーン美術史美術館所蔵の『バベルの塔』だったんです。その大きさから今回の作品を小バベル、ウィーン美術史美術館の物を大バベルと呼んでいます。
「私が死ぬまでに見たかったのは、1563年製作、オーストリア、ウィーン美術史美術館所蔵の『バベルの塔』だったんです。」

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(これ~大バベル、1563年製作、オーストリア、ウィーン美術史美術館所蔵の『バベルの塔』)


おお神よ、私を見放さないでください、利他主義実践してます。隣人愛までは来てると思うけどな?

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リュミエールブラン ネージュ

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2017/09/24

信長に反旗を翻し、信長の死後茶人として復活した「荒木 村重」の生涯『花隈城』編

江戸時代に築かれ、復元が計画されている尼崎城について、尼崎市は2016年12月19日、完成予想図を公表しました。阪神尼崎駅の南東、徒歩約5分の場所に当時とほぼ同規模の天守閣が建てられるということです。12月20日に着工し、築城400年の2018年8月に完成する見込みです。

尼崎城は江戸初期に尼崎藩主の戸田氏鉄(うじかね)が築来ました。海が近いことから「琴浦城」の名で親しまれたが、1873年の廃城令で取り壊されています。

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(尼崎城は江戸初期に尼崎藩主の戸田氏鉄(うじかね)が築きました。海が近いことから「琴浦城」と呼ばれました。)

しかし、同市で創業した家電量販店ミドリ電化(現エディオン)の創業者が一昨年、私財で天守閣を復元した上で、市に寄贈を打診。完成後は市が管理することで協定を結びました。

尼崎城(あまがさきじょう)は、兵庫県尼崎市にあった日本の城です。江戸時代初期に築城された平城で安土桃山時代の天正6年(1578年)に荒木村重が織田信長に反旗を翻した際、有岡城から逃げ込んだ先である大物城は尼崎城(尼崎古城)とも呼ばれますが、今回復元が決定した尼崎城とは残念ながら別物です。

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【村重卑怯也】

P9220003.jpg(神戸高速鉄道花隈駅を上がったすぐにあります。『花隈城跡』)
P9220007.jpg(城址公園、三階建ての城内地下?駐車場に成っています。)
P9220008.jpg(JRと三陽電鉄の高架がすぐそばを通る神戸の中心地にあります。)

村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦したましたが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となってしまいます。まわりは全て織田の兵に囲まれ、兵糧も尽き始めます。期待していた毛利氏の援軍も現れずに窮地に陥ることとなりました。天正7年(1579年)9月2日、単身で有岡城を脱出し、嫡男・村次の居城である尼崎城(大物城)へ逃げ出してしまいます。

信長は「尼崎城と花隈城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束を、村重に代わって有岡城の城守をしていた、荒木村重の家臣たちと取り交わし、尼崎城の村重を説得に向かわせますが、村重は全く受け入れませんでした。信長は村重への見せしめの為、人質の処刑を命じざるをえなかったのです。

しかし肝心の村重本人は息子・村次とともに荒木元清(荒木一族)のいる花隈城に移り、花隈城の戦いで最後の戦いを挑むも敗北、最後は毛利氏に亡命し、尾道に隠遁したとされたところまでは前回もお話いたしました。

【茶人として復活~?】

P9220021.jpg(全てが近年に作られたものです)
P9220026.jpg
(池田侯爵とは、戦国武将池田恒興の末裔です。旧岡山藩池田家第15代当主ですね。)
P9220035.jpg(裏手に小さなお地蔵さんの祠が有りました。小さな五輪塔などは往時の物かも知れません!)

村重は、天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で明智光秀に殺害されると、堺に戻りそこに居住しています。豊臣秀吉が覇権を握ってからは、大坂で茶人として復帰し、千利休らと親交を持つようになりました。しかし有岡城の戦いでキリシタンに恨みを持っていた村重は、小西行長や高山右近を讒訴して失敗し、秀吉の勘気を受けて長く引見を許されませんでした。

注)小西行長や高山右近の二人はキリシタン大名で有岡城の戦いで村重を裏切り?信長についています。
注)讒訴とは、他人をおとしいれようとして、事実を曲げて言いつけること。陰で人の悪口を言うことです。

さらに、秀吉が出陣中、村重が秀吉の悪口を言っていたことが北政所に露見したため、処刑を恐れて出家し、荒木道薫(どうくん)と名乗るようになりました。はじめは過去の過ちを恥じて「道糞」(どうふん)と名乗っていたが、秀吉は村重の過去の過ちを許し、「道薫」に改めさせたと言われています。天正14年(1586年)5月4日、堺で死去しました。享年52歳。戒名は、秋英宗薫居士心英道薫禅定門 。墓所は大阪府堺市堺区南宗寺と兵庫県伊丹市荒村寺に在ります。

【謀反の原因と理由を考察する】

P9220032.jpg(天主様の石垣も組まれています。)
P9220029.jpg(登ってもベンチも無いので夜景を眺める程度ですか?)
P9220039.jpg
(城跡?ただの公園に成っています。)

村重の織田信長に対する謀反の理由は、諸説があって今でも定かではありません。現在検証が進められているいくつかの説について、ご紹介いたします。ただ、信長は村重を重用していたため、その反逆に驚愕し、翻意を促したと言われています(信長公記、フロイス日本史など)。

村重は足利義昭や石山本願寺とも親しかったため、両者の要請を受けて信長に反逆したと考えるのはどうでしょう。村重が支配していた摂津は当時、中国方面に進出していた羽柴秀吉と播磨、丹波方面に進出していた明智光秀らにとって重要な地点であり、村重が反逆した場合、両者は孤立することになるため、義昭や本願寺の意向を受けての謀反だったのではないかという説ですね。この説では、幕府奉公衆の小林家孝が有岡城に入城して連絡係を務めていたといわれています。

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(幽閉は黒田官兵衛の事です。この図面を見るといかに有岡城が重要な地点に在ったか理解できます。)

村重の家臣(中川清秀という)が密かに石山本願寺に兵糧を横流ししていたため、それが信長に発覚した場合の処罰を恐れての謀反であったという説が有ります(こちらはNHKの大河ドラマで採用されていました)。

信長の側近・長谷川秀一の傲慢に耐えかねたという説(『当代記』)。同書では秀一が村重に対して小便をひっかけたとしている。これは竹中重治と同じ逸話であり信頼性は乏しいが、信長の側近衆と何らかの対立があったとみる説もあります。

黒田孝高(当時は小寺孝隆)と相談の謀略説もありました。信長暗殺のため手勢が手薄なところへ誘き出し夜襲する計画であったといわれます。そのため信長の遺産を継いで天下人となった豊臣秀吉・徳川家康などからは厚遇されることになったとされる説です。これを採用すると「本能寺の変」自体を豊臣秀吉・徳川家康が仕組んだか、そこまでは言えなくとも、知ってはいたことに成りそうです。実際、信長は孝高を村重方に寝返ったと決めつけ、人質としていた孝隆の子・松寿丸(のちの黒田長政)の処刑を秀吉に命じています。処刑について大河ドラマでは、軍師としての器量をかった竹中半兵衛が、自分の領地にかくまって助けた設定でした。

将来に希望が持てなくなったからという説はどうでしょう?石山合戦では先鋒を務め、播磨国衆との繋がりもありましたが、本願寺攻めの指揮官が佐久間信盛になってしまった上に、播磨方面軍も羽柴秀吉が司令官に就任したことから活躍の場がなくなったからといもいわれています。

歴史のいたずらか、本願寺攻めの指揮官、佐久間信盛は功を立てられず。信長から19ヶ条にわたる折檻状を突きつけられて、嫡男の信栄と共に高野山へと追放されました。信盛失脚後に信長の実質的な本拠地である近畿地区で大軍団を統率することになったのは明智光秀であり、この事件は「本能寺の変」に動機(信長に仕え続けることの難しさ)と機会(近畿地区の掌握)の両面で影響したといえます。

摂津国内では信長勢力の進出までは国衆や寺内町・郷村などが比較的独自の支配体制を築いてきたが、信長はこうした勢力を統制下に置こうとしたために織田政権への反発が強まり、その矛先が村重に向けられつつありました。村重は国衆や百姓からの突き上げに追い込まれた結果、かえって信長に叛旗を翻して彼らの支持を受けた方が摂津支配を保てると判断したとする説はどうでしょう。

実際、村重の反逆の直後にこれまで石山本願寺の目の前にありながら石山合戦に中立的であった摂津西部の一向一揆が蜂起し、尼崎城や花隈城の戦いではむしろ彼ら百姓主導による抵抗が行われました。信長軍も西宮から須磨の村々を焼き討ちにして兵庫津では僧俗男女の区別なく皆殺しにしたと伝えられます。

P9220040.jpg(東からの眺め、立地的に便利なので私も良く使っています。)
P9220050.jpg
(人通りも多くて人が居ない時の撮影に苦労しました。)


【荒木村重という男】

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(「太平記英勇伝三十八:荒木摂津守村重」(落合芳幾作))

『絵本太閤記』が何らかの史実に基づいてこの場面を描いたのかは不明ですが、これによると、天正元年(1573年)、信長を近江の瀬田で出迎え拝謁した村重は、「摂津国は13郡分国にて、城を構え兵士を集めており、それがしに切り取りを申し付ければ身命をとして鎮め申す」と言上しました。これに対して、信長は腰刀を抜き、その剣先を饅頭を盛っている皿に向けて饅頭3、5個を突き刺して、「食してみろ」と村重の目の前につき出します。周りにいたものは青ざめてしまったが、村重は「ありがたくちょうだいします」と大きな口を開け剣先が貫いた饅頭を一口で食べ、それを見ていた信長は大きな声を上げて笑い、その胆力を賞して摂津国を村重に任せたといわれています。(こちらも大河ドラマで再現されていたような気がしますね)。

村重はこの時38歳。信長は村重が高槻城を攻略した(高槻城攻城戦)事を激賞して、村重がどのような人物なのか、どのような態度をとるのか試したのではないか、とも想像できる逸話です。信長は村重を信頼していたのかもしれません。

【殺害を免れた子孫の人々】

江戸時代初期に絵師として活躍し浮世絵の祖といわれる岩佐又兵衛は、信長による処刑から乳母の機転によって生き延びた子孫のひとりとされています。
荒木善兵衛も荒木村重の子であり、有岡城落城の際に幼い善兵衛を細川忠興が預かって家中で育てた。成長すると無役の御知行三百石を賜り、後に丹後大江山の細川家高守城代などを務めています。
現在の大阪府岸和田市荒木町には、伊丹城陥落時に村重の子の岩楠が乳母と共に当地へ逃れ来て、吉井村の荒地だった当地を開墾して土着し、後に荒木村が成立したという伝承があるようです。
熊本藩に息子・荒木村勝の子・荒木克之の系統が仕官しています。
荒木流拳法は創始者を村重の孫・荒木夢仁斎源秀縄としています。

【最後に有岡城の歌碑をご紹介】

P9220180.jpg(最後にと思ってとっておいた有岡城の歌碑をご紹介します)

有岡城での抗戦の最中にもかかわらず、荒木家家臣、その家族を置き去りにして村重は一人子息の尼崎城へ脱出する際に、妻荒木ダシが村重に送ったとされる歌である。

「霜がれに残りて我は八重むぐら 難波の浦の底のみくづに」
(私は霜枯れた路傍の雑草のようなもの。このまま難波の海の底に沈む水屑となるのでしょう)
これに対し、村重は次の歌を返したと言われています。
「思ひきや あまのかけ橋ふみならし 難波の花も夢ならんとは」
(自分が築き上げてきたものは夢のようにはかなく、このようなことになるとは思わなかった)


重村さんもう少し考えましょうね~(;^_^A アセアセ・・・

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リュミエールブラン ネージュ

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2017/09/23

池田家を乗っ取り、信長にに反旗を翻した「荒木 村重」の生涯『有岡城』編

昨日は定期通院で神戸県立中央病院に診察に行った後の時間を利用して、ブリューゲル「バベルの塔」展に行ってきました。
そちらの話題は近々にブログにUPしたいと思っておりますが、ついでと行っては何ですがJR伊丹駅前の有岡城址を取材に行ってきました。

有岡城といえば、城主「荒木村重」と黒田官兵衛が一年間監禁されたことで有名ですが、実際どの程度の城だったのかはイメージ出来ておりませんでした。

p987546987.jpg
(「太平記英雄伝 廿七 荒儀摂津守村重」歌川国芳筆 嘉永元年-2年(1848-49年)頃)

記事関連事項と言えるのかは少し疑問ですが、尼崎城が再現されることが昨年末新聞の話題になりました。疑問といいますのは、荒木村重が体一つで逃げ込んだ、嫡男荒木村次の尼崎城ではないようなのです。尼崎は私が予備校時代に一年間過ごした地でもありますし、新名所ができるのは歓迎なのですが。(笑)

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【有岡城跡】



P9220122.jpg(JR伊丹駅前の史跡有岡城址の石碑ですが、JR伊丹駅そのものが城の主郭部を崩して作られています。)
P9220102.jpg(かなり大きな城だったことがうかがえますね~)
P9220107.jpg
(東は川でまもられ、西南北に砦を築きその中に町屋もある総構えの城郭です)
P9220115.jpg(整備された駅前の石垣です)
P9220119.jpg
(エスカレーターに時計台?付きの城に成ってます)

【荒木 村重ってどんな武将?】

荒木 村重(あらき むらしげ)は戦国時代~安土桃山時代 に活躍した武将・大名です。誕生は天文4年(1535年)、 死没天正14年5月4日(1586年6月20日)です。 利休十哲の1人でもあり(利休七哲は有名ですが十哲は初めて聞きました)。幼名を十二郎、後に弥介(または弥助)、村重、道糞、道薫(号)と名前を変えています 。荒木氏は元は波多野氏の一族とされ、先祖は藤原秀郷です。

「藤原秀郷」は別名「俵藤太」としても有名です。室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山の百足退治の伝説で有名ですね。平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられて、勢力を拡大します。死後、正二位を追贈されており。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出しました。

【荒木村重の生涯・池田氏織田家臣時代】

P9220131.jpg
(村重説明版)
P9220125.jpg(綺麗に整備されていますが史跡公園というほどではありませんね)
P9220134.jpg(結構雨が降っていて、落ち葉かたずける余裕も無くてごめんなさい。)

摂津池田城主である摂津池田家の家臣・荒木信濃守義村(よしむら)の嫡男として池田(現:大阪府池田市)に生まれました。最初は池田勝正の家臣として仕え、池田長正(勝正の一族)の娘を娶り一族衆となります。しかし、三好三人衆の調略に乗り池田知正(長正の長男)と共に三好家に寝返り、知正に勝正を追放させると混乱に乗じ池田家を掌握します。

その後、元亀2年(1571年)8月28日の白井河原の戦い(村重の摂津勢力拡大の戦い)で勝利し、池田氏が仕えていた織田信長からその性格を気に入られて三好家から織田家に移ることを許され、天正元年(1573年)には茨木城主となり、同年、信長が足利義昭を攻めた時にも信長を迎え入れ、若江城の戦い(織田信長軍と三好義継軍の合戦)で功を挙げています。

一方義昭方に属していた池田知正はやがて信長に降って村重の家臣となり、村重が完全に主君の池田家を乗っ取る形となりました。下剋上を果たした村重は、天正2年(1574年)11月15日に摂津国人である伊丹氏の支配する伊丹城を落とし、伊丹城主となり、摂津一国を任されます。翌年には有馬郡の分郡守護であった赤松氏を継承する摂津有馬氏を滅ぼして同郡も平定します。

村重は細川政権・三好政権を通じての摂津統治の中心であった芥川山城・越水城の両城を廃して有岡城(伊丹城の改称)を中心とした新たな支配体制を構築しました。以後も信長に従い、越前一向一揆討伐・石山合戦(高屋城の戦い、天王寺の戦い)や紀州征伐など各地を転戦し、武功を挙げています。この間の活躍により、従五位下摂津守に任ぜられています。

【村重謀反~~~!】

P9220151.jpg(当時をしのばせるほぼ唯一の石垣です)
P9220162.jpg(墓石なども使用した野づら積みですかね?)
P9220171.jpg(井戸跡が二つと建物跡の礎石ですが、綺麗すぎて、半分くらいは後にあつらえた物だと思います)

天正6年(1578年)10月、三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた村重は有岡城(伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻した(理由については次回考察したいと思います)。一度は糾問の使者(明智光秀、松井友閑、万見重元)に説得され翻意し、釈明のため安土城に向買いますが、途中で寄った茨木城で家臣の中川清秀から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け伊丹に戻ってしまいます。

秀吉は村重と旧知の仲でもある小寺孝隆(官兵衛、のちの黒田孝高)を使者として有岡城に派遣し翻意を促しますが、村重は孝高を拘束し土牢に監禁しています。黒田官兵衛がTVなどのメディアに取り上げられる時には必ず杖をついて、跛行する姿が目に付きますが、この原因は一年間にも及ぶ監禁生活の現れだと思います。

以後、村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦しましたが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となりました。その後も万見重元(織田信長元小姓で有能な側近といわれます)らの軍を打ち破るなど、一旦は織田軍を退けることに成功しますが、兵糧も尽き始め、期待の毛利氏の援軍も現れず窮地に陥ることとなりました。

それでも村重は「兵を出して合戦をして、その間に退却しよう。これがうまくいかなければ尼崎城と花隈城とを明け渡して助命を請おう」と家臣を励ましますが、自身は天正7年(1579年)9月2日、単身で有岡城を脱出し、嫡男・村次の居城である尼崎城(大物城)へ逃げてしまっています(情けない~)。

P9220183.jpg(裏側から見ると空堀?のように見えますね)
P9220167.jpg(建物跡からまだ2m程度は土塁の高さが有ります)
P9220188.jpg(空堀と言えるのか高低差はなんとなくわかりますね、右が主郭部です)



【信長の逆鱗】

11月19日、信長は「尼崎城と花隈城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束を、村重に代わって有岡城の城守をしていた荒木久左衛門(池田知正)ら荒木の家臣たちと取り交わしました。久左衛門らは織田方への人質として妻子を有岡城に残し、尼崎城の村重を説得に向かいますが、村重は受け入れず、窮した久左衛門らはこちらも、妻子を見捨てて出奔してしまいます(本当に情けない連中です)。これをみた信長は村重や久左衛門らへの見せしめの為、人質の処刑を命じました。

12月13日、有岡城の女房衆122人が尼崎近くの七松において鉄砲や長刀で処刑されます。この事は「百二十二人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目もくれ心も消えて、感涙押さえ難し。これを見る人は、二十日三十日の間はその面影身に添いて忘れやらざる由にて候なり」 と信長公記に記載されるほどの虐殺だったようです。

12月16日には京都に護送された村重一族と重臣の家族の36人が、大八車に縛り付けられ京都市中を引き回された後、六条河原で斬首されました。

立入宗継はその様子を、「かやうのおそろしきご成敗は、仏之御代より此方のはじめ也。」 — 立入左京亮宗継入道隆佐記と記しています。「立入宗継」は禁裏御蔵職をあずかる戦国時代から安土桃山時代にかけての商人であり官人です。

その後も信長は、避難していた荒木一族を発見次第皆殺しにしていくなど、徹底的に村重を追及していきました。天正9年(1581年)8月17日には、高野山金剛峯寺が村重の家臣をかくまい、探索にきた信長の家臣を殺害したため、全国にいた高野山の僧数百人を捕らえ、殺害するほどの断罪を行っています。

裏切り者の家族・一族に対して容赦しなかった信長ですが、それほど卑怯者に対する怒りを爆発させてのか?またはそれほど荒木村重の力を認めていたとも考えられます。しかし肝心の村重本人は息子・村次とともに荒木元清(村重の一族)のいる花隈城に移り(花隈城の戦い)、最後は毛利氏に亡命し、尾道に隠遁したとされています。

【最後にヒント?】

信長に対して反旗を翻した理由については、次回考察したいと思いますが、当時は、三木合戦(みきかっせん)の最中でした。天正6年3月29日(1578年5月5日)から天正8年1月17日(1580年2月2日)にかけて行われた織田氏と別所氏の合戦は22か月にも及び、織田家の武将羽柴秀吉が行った播磨征伐の一戦です。中国攻めの織田勢から離反した別所氏は、播磨三木城(兵庫県三木市)に一族・領民7500人と共に篭城したといわれます。この合戦で秀吉が行った兵糧攻めは、三木の干殺し(みきのひごろし、またはほしごろし)と呼ばれる凄惨な物でしたが。この陣中で病気で命を落とした、もう一人の軍師竹中半兵衛の「兵を失わずに勝つ」を実行したものといわれています。

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リュミエールブラン ネージュ

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2017/09/20

山陰但馬の小京都、出石藩「仙石家」の居城『出石城』

今日は、但馬の「出石」を代表する建築遺跡『出石城』をご紹介いまします。出石城跡(いずしじょうし)は、兵庫県豊岡市出石町に有る但馬に残る唯一の城です。

城を中心とした静かなたたずまいと、江戸期を思わせる古民家は山陰の小京都と呼ばれ、出石蕎麦をはじめ白磁の出石焼などが有名で、年間を通して多くの観光客が訪れます。

DSC_0173 (2)(復元された西隅櫓)


江戸時代には漫画「センゴク一統記」でも有名な「仙石権兵衛秀久の末裔」仙石政明が長野から転封され、明治迄の時代を出石藩仙石家として廃藩置県まで居城を守っています。

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DSC_0070 (2)(子供の頃は登城橋が無かったのでもっぱらこの有子橋から登城してましたね~!)
DSC_0153 (2)(最上段稲荷曲輪へ続く朱の鳥居綺麗ですね~笑)

 
【出石ってどんな町?】

DSC_0071 (2)(夏らしく風鈴がいっぱいでした。蛍の季節も綺麗だそうですよ。)

以前には、大手門跡の「辰鼓楼」や「おりゅう灯篭」をご紹介しました。その他にも天日槍を祀る、但馬一宮「出石神社」や出石生まれの沢庵禅師で有名な「宗鏡寺」などがあり、家老屋敷や町のたたずまい、小京都にふさわしい街並みを残しています。
近年では100年以上歴史を持つ建築の劇場「永楽館(えいらくかん)」がリニューアルされました。永楽館は1901年(明治34年)に竣工し、現地に現存する劇場建築としては日本最古とされます。(現存する日本最古の劇場は旧金毘羅大芝居 金丸座)
座頭6代目 片岡愛之助によるこけら落とし公演が行われ、愛之助さんは毎年のように永楽館歌舞伎を公演されていますね~(笑)奥様も来られるので話題になっていますね。

【出石の戦国時代~江戸期(時代をすべて書くと膨大になりますので)】

DSC_0131 (2)(東の隅櫓)
DSC_0126 (2)(手前に少しだけ庭園跡が残る本丸跡。石垣の上は最上段の稲荷曲輪です)
DSC_0148 (2)
(そして仙石権兵衛秀久を祀る感応殿)
DSC_0133 (2)(感応殿)

山名氏の最盛期、但馬国守護となった山名時義が、出石神社の北側の此隅山に、此隅山城(このすみやまじょう)を築きます。
永禄二年(1559)、丹波福知山城主の明智光秀が、出石の此隅山(このすみやま)城が虚城であることを聞いて攻撃しようと考え、陣代として大野内膳統康・伊藤七之助次織・伊藤加助の三名を派遣、進美寺(しんめいじ)の東に「掻上の城(かきあげじょう)」を築いて、「水生城(みずのうじょう)」を攻撃しましたが水生城は落ちませんでした。

此隅山城は長らく山名氏の本拠でしたが、1569年(永禄12)の織田軍の羽柴秀吉による但馬遠征で落城します(一次但馬征伐とは違います)。城主山名祐豊は城を失いましたが、今井宗久の仲介によって織田信長と和睦することになり、領地但馬にに復帰しています。

1574年(天正2)、祐豊は標高321mの有子山山頂を天守とする有子山城(ありこやまじょう)を築き、本拠を移します。麓には下館も築かれ小城下町の体を成しました。しかし、毛利氏方についたため、1580年(天正8)、羽柴秀吉による第二次但馬征伐で有子山城も落城、但馬国山名氏は滅亡してしまいます。

DSC_0157 (2)(山城の有子山後に登山しようともくろみましたが(-"-;A ...アセアセ)
DSC_0156 (2)(熊には勝てませんから~熊鈴もつけてるんですけどね。)

有子山城は、しばらく城代の時代が続きましたが、1585年(天正13)から前野長康(秀吉最古参の家臣)、1595年(文禄4)から小出吉政(秀吉のいとこ)が城主を務めました。関ヶ原の戦いにおいて、小出氏は家名存続のため、吉政が西軍、弟・秀家は東軍に分かれて戦う苦肉の策をとり、勝ちを納めた東軍に付いた秀家の功績により、吉政の西軍への加担の責任は問われず、出石の領土は安堵されています。

1604年(慶長9)、小出吉英(吉政嫡男)により有子山城の山上の丸および天守部分が廃され、有子山城山麓の郭および館のみを出石城と命名し幕府に居城として届けられました。それにともない平地に、堀で囲まれた三の丸が築かれ、下郭、二の丸、本丸、稲荷丸が階段状に築かれました。城主の居館も出来、このとき城下町も整備され、出石の町並みが形成されてゆきました。

山上の旧有子山城天守は取り壊しは行われませんでしたが、幕府をはばかって荒れるにままにされたため樹木が生い茂り一見したところ山林となってしまいました。出石城は、一国一城令により、但馬守護山名氏以来の出石城が但馬国唯一の城郭となっています。

江戸時代は、出石藩の藩庁となり、小出英及(吉英嫡男)が1696年(元禄9)3歳で死去すると小出氏は無嗣改易となりました。代わって松平(藤井)忠周が入城しますが、1706年(宝永3)忠周が転封となると、仙石政明(権兵衛秀久の末裔)が信濃小諸藩から転付入城し、廃藩置県まで仙石氏の居城となっています。江戸末期には「江戸期三大お家騒動といわれる」仙石騒動がおこっています。

DSC_0196 (2)(家老屋敷こちらも復元かな?)
DSC_0209 (2)(こんなに質素な生活だったのか~~?)

明治時代になり、廃城令で出石城も取り壊されましたが、辰鼓楼、堀、石垣などが現存、また隅櫓、登城門・登城橋などが復元され、堀の周囲一帯は登城橋河川公園として整備されて、観光地となっています。
おかしいと思ったんですよ~子どもの頃からよくお蕎麦を食べに行ってはおりましたが、お城はそんなにうかがう機会はありませんので、登城門・登城橋を通った時にこんな所有ったっけと思いましたもの、復元されていたのですね。

DSC_0164 (2)(最上階からの出石の町、真ん中のキノコみたいな建物「ひぼこ」ホールです。丸い山が進美寺か~?)
DSC_0191 (2)(子どもの頃には無かった登城橋と登城門初めてきぐりました。)

【出石といえばお蕎麦~~~!】

p12654879.jpg
(これが出石蕎麦「一鶴さん」の物で~す!上手いんだなこれが・・・・)


そうそうお蕎麦ですが、仙石政明が信濃小諸藩から転付時に蕎麦職人を伴ったことから発展したといわれています。今回はお蕎麦もご覧いただきましょう。
Facebookで店主さんとお友達になって頂いている「一鶴」さんのお蕎麦、ミシェラングリーンガイド2016兵庫特別版に記載された、ビブグルマン(5000円以下でコストパフォーマンスが高く、行く価値がある店)に記載されたお店です。

DSC_0185 (2)(最後に忘れてはいけない、親戚筋にあたる斎藤隆夫記念碑)
20150905200742b29[1]
(命を懸けた軍縮演説で有名ですね!ネズミの大将のあだ名が・・・納得。凄い人ほど見た目はそうでないのかも?)

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2017/09/18

13年待ちの「旭屋」神戸ビーフコロッケ『極み』が来た~~!

金曜日に帰宅すると、留守番電話に「旭屋です。ご注文頂いておりました、極みコロッケを日曜日到着で発送させていただきます。つきましては、電話にてもう一度ご確認させてください」との録音が入っていました。

???なんだなんだと~思ったのですが、前回ブログでもお話しました様に、ブログ仲間で行っている「馬肉会」の話題に上がっておりましたので、すぐにピンと来ました。

P9170004.jpg
(来た~~13年待ちの『極み』コロッケ!)


急いで電話をかけ直したのですが、営業時間終了!心配だったのでメール連絡を入れました。翌日土曜日の朝「旭屋」さんからお電話がありまして日曜日に配送が決定しました。

長く待つ間に住所が変わった等、連絡がとられなくなる方もおられるそうで、電話で確認してから配送するように成ったそうです。


【販売終了~~~?驚】

P9170001.jpg(台風迫りくる午前11時到着~く)

メール連絡するためにホームページを見ると、何と販売終了!(あえてHP載せません、13年待ちで一発検索できます)

神戸ビーフコロッケ『極み』のご注文についてこの度、お待たせする期間が13年以上と想定以上に長くなってしまった為、神戸ビーフコロッケ極みを一旦販売終了とさせて頂く事となりました。販売再開については現状ではいつ頃になるか分かりかねる状態です。

これから注文をご検討頂いておられたお客様は、大変申し訳ございませんが他のコロッケ・お惣菜をご検討頂けますようお願いいたします。また、ネット注文は出来ませんが、「神戸セレクション9」にて認定された下記のような新しいタイプの極みコロッケが神戸の北野店舗限定で販売しております。

これまでにご注文頂きました方については、順次発送して参りますのでご安心ください


とのコメントがついているでは有りませんか!これはある意味「チャンス」かも、この食レポブログを書けるのは、もしかして私だけかもしれないと思い、UP予定を変更しまして「旭屋」さんの神戸ビーフコロッケ『極み』のグルメブログに変更しました~~。

P9170008.jpg(いくつ入っているのかさえも忘れていました。注文したの6年忘れてたんですからね~笑!)

【それにしてもいつ注文したのか?】

現在13年待ちのこのコロッケそもそもいつ注文したのか?まったく覚えておりませんでした。ネット環境も3回ほど変えましたし記録がありません。「旭屋」さんのホームページを見てみますと以下のような文章がありました。

『極みコロッケの配送状況につきまして』
平素より名産神戸肉 旭屋をご利用いただき誠にありがとうございます。 現在の極みコロッケの配送状況についてのご案内です。(随時更新中)
●現在、2011年3月上旬ご注文分を出荷中でございます。

(申し訳ございません。神戸牛だけでなく、天候の影響でじゃがいも不足しており、ご注文時にお知らせしている出荷予定より数ヶ月遅れが生じております。)
また、極みコロッケの注文受付を終了しておりますが、これまでにご注文頂いております分は順次発送して参りますのでご安心ください。 毎日造りたてを「生」のまま急速冷凍してお送りいたします! 旭屋特選神戸牛は数に限りがあるため、配送状況は日々変動しています。


とのコメントがありました。つまり6年半の間待ったことに成ります。当時は鳥取県の米子市に単身赴任中でしたので、帰宅したときに、このコロッケが到着するまでには関西(自宅)に帰りたいとの思いで注文したのだと思います。ちなみに当時の待ち時間は6年だったと記憶しています(半年遅れでした)。

お値段ですが、10個入り2700円です。ただ代金引換のみの購入なので送料が1000円、手数料が300円で計4080円です。
電話確認後すぐに発送されるようで、他の方法だと間に合わないのかもしれません。

【さて作るぞ~食べるぞ~】

日曜日の朝、宅急便で届きました~(笑)早く食べたかったのですが、昨日はあの台風の中長女がアルバイトに行っておりました。そちらの方が気がかりで、ゆっくりコロッケを揚げている状態ではありませんでしたので、本日になりました。私は仕事が有ったのですが、半ドンだったのでかえって準備万端コロッケを料理いたしました~(揚げただけですが)。

説明文による「コロッケの揚げ方」商品に牛脂が付属している場合は揚げる前に油に入れてください。コロッケが香ばしく揚がり衣にコクが出て美味しくなります。凍ったまま170~180℃で4分程度上げます。衣がキツネ色になったら完成です。と記載されています。もちろんこの通りの揚げ方で揚げてみました。

P9180022.jpg(付属の牛脂がおいしさを引き立てます。)
P9180026.jpg(油を新しく交換して、180℃でタイマー4分しっかっり揚げます)
P9180029.jpg(3分キツネ色になって来ました。泡も少なく細やかに!)


【出来た~~~!】

『極みコロッケ原材料』
ばれいしょ(国産)、牛肉(神戸牛)、玉ねぎ(国産)、衣{パン粉(小麦をふくむ)、小麦粉、バッターベース(卵・小麦・大豆を含む)}、食塩、胡椒/イーストフード、ベーキングパウダー、乳化剤(大豆由来)、V.C、調味料(アミノ酸等)、着色料(アナトー、ビタミンB2)、香辛料抽出物です。
ん?ん~~!もっとシンプルかと思ったのですがね~。

P9180037.jpg(ばれいしょは強い黄色の芋で、神戸牛がごろっと入っています)
P9180056.jpg(大きさも一般的な物より一回り大きいですね)

【さて肝心のお味ですが~~~~?】

お友達の本日の一杯 -Cupmen Blog of taka- カップ麺と激辛のブログtaka:aさん◝( ꒪౪꒪)◜ケケケ…の真似をさせていただきました。(笑)

評価:★★★★★☆☆☆☆☆ (5+)
(標準は★3です)


確かに美味しいです。ばれいしょのあまさが強く感じられ、何も余計なものを足さなくてもとても美味しいいです。サクサクの衣の食感も気持ちの良いものですし、神戸牛の角切りがごろっと入っている所は並みのコロッケではありません。しかしながら324円の値段は普通のコロッケの三倍の値段です。三倍の美味しさは有って当然でしょう。私は6年半待ちましたが、13年待って食べる価値があるのかと問われるとハッキリ言って疑問です。
得点が高いのに酷評なのは、お値段と4745日分のコストパフォーマンスを考えると仕方ないのではないかと思います。期待が大きかっただけに少し残念な結果に成りました。確かに美味しい、しかし「13年待ち」が独り歩きしてしまったかもしれませんね。そういう意味で朝日屋さんの販売終了は賢明な選択だと思われます。より良い商品を作るための努力を惜しまないでいただきたいですね。

【最後に一言】

限定品・残り僅か・特別仕様などの言葉にだまされやすい私ですが、消費者も賢くならなければならないと思います。今回「旭屋」神戸ビーフコロッケ『極み』は、旭屋さんの食に対する真摯な態度は好感が持てる物でした。電話連絡、メール対応全てにおいて嫌な思いはは何一つありませんでした。コロッケはとても美味しくいただきました。ごちそうさまでした。

いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
食べるってことは本当に楽しいですよね~!
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2017/09/16

豊臣秀吉の伏見城本丸跡地に眠る「明治天皇」『伏見桃山陵』

前回、前方後円墳(古墳)を取りあげたので、今期はどこかの大きな天皇陵をご紹介しようと思っておりましたが、期待を裏切るのもまた面白いかなと勝手に思い、古いとは言えない?天皇陵墓をご紹介します。

今日は次女の運動会が台風の雨で中止!だらだらの一日でしたが、嬉しい事が二つありました。まず第一に入院していた父の退院が来週火曜日に決まりました。本当は今日にも退院だったのですが、次女の運動会のため一日伸ばしましたところ、この台風でさらに伸びて火曜日に成ってしまいましたが、良かったです。もう一つは明日17日にコロッケが届きます(笑)毎回皆さんが話題にしてくださるブログ仲間の「馬肉会」でメンバー続、ものグラムな生活。(ラーメン編)の「ものグラム」さんが話題にされて、「アッ!それ頼んでる」と思いだした凄いコロッケです。
また到着しましたら、ブログでご紹介します。

CIMG7435.jpg(明治天皇が眠られる伏見桃山陵)

本題に帰って、京都府京都市伏見区に在る『伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ、ふしみももやまりょう)』をご紹介します。被葬者は『明治天皇』です。
形状は上円下方墳で、1912年築造(大正元年)、 宮内庁治定「伏見桃山陵」として文化財指定されています。

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【明治天皇って誰?(不敬な表現は慎みましょう)どんな方?】

235487.jpg
(軍服姿の明治天天皇!、凛々しいですね)
 

明治天皇は第122代天皇です。
在位期間は1867年1月30日~1912年7月30日(慶応2年12月25日~明治45年7月30日)です。

即位礼は1868年10月12日(慶応4年8月27日)京都御所において行われました。

1852年11月3日(嘉永5年9月22日)中山忠能邸 にて誕生され、1912年(明治45年)7月30日に(宝算59)崩御されています。
喪儀は1912年(大正元年)9月13日、帝国陸軍青山練兵場 にて執り行われました。

【生誕から即位まで】

DSC_0079.jpg
(誕生された中山邸跡)
DSC_0080.jpg
(明治天皇生誕の地)
DSC_0082.jpg
(産湯を汲んだ井戸が二歳の時に枯れたので掘りなおした井戸だそうです。ややこしい(-"-;A ...アセアセ)

孝明天皇の第二皇子として生まれます。生母は権大納言・中山忠能の娘・中山慶子、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)に京都石薬師・中山邸にて誕生。出生8日目(9月29日)に父・孝明天皇が祐宮(さちのみや)と命名されました。中山邸で暮らし安政3年(1856年9月29日)に宮中に転居します。

予定より2年遅れて万延元年(1860年)閏3月16日に深曽木の儀を行う。7月10日、儲君(皇太子、東宮) と定められ、准后(文字の通り皇后に准ずる)・九条夙子の実子とされます。9月28日、親王宣下を受け睦仁の諱名(天皇からもらう名前で皇室は「仁」が付いています)を賜ります。

うんちく「深曽木の儀」とは?松と山橘の小枝を持って碁盤の上に乗り、子の髪を少し切った後、掛け声とともに飛び降りる儀式。悠仁親王の際41年ぶりに行われましたね。
「親王宣下」とは?、明治以前は親王宣下を受けなければ、天皇の子どもでも皇族とは認められませんでした。

慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇が崩御されると。慶応3年1月9日(同2月13日)、満14歳で践祚(「践」とは位に就くこと、「祚」は天子の位を意味する)の儀を行い皇位につきました。

慶応4年1月15日(1868年2月8日)、元服、同年8月21日(10月6日)からの一連の儀式を経て、8月27日(10月12日)、京都御所にて即位の礼を執り行い即位を内外に宣言しました。大嘗祭(天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭[収穫祭ですね])は明治4年11月17日(1871年12月28日)に東京で行い、12月28日、一条美子を皇后に定めています。

幕末の動乱については、あらためてご紹介する機会があると思いますので、今回は我慢していただきます。

【新時代明治始まる】

027.jpg
(紅葉が綺麗な時期でした~が、この楓一本だけです。)

慶応4年(明治元年)3月14日(1868年4月6日)には五箇条の御誓文を発布して新政府の基本方針を表明し、閏4月21日(6月11日)には政体書によって新しい政治制度が採用されます。また、明治と改元して一世一元の制を定めた(改元の詔書を発したのは、慶応4年9月8日(1868年10月23日)でしたが、改元は慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って適用されました。

江戸開城から半年を経た明治元年10月13日、明治天皇は初めて江戸に行幸し、同日江戸を東京に、江戸城を東京城に改称します。一旦京都に還幸後、翌明治2年(1869年)に再び東京に移り崩御まで東京に居住しました。

明治2年6月17日(1869年7月25日)には版籍奉還の上表を勅許し、明治4年7月14日(1871年8月29日)には廃藩置県を断行し、中央集権体制を確立しました。

1872年(明治5年)に太陽暦を導入し、明治5年12月2日(1872年12月31日)の次の日(1873年1月1日)を「明治6年1月1日」と定めています。

明治天皇は外国要人と頻繁に会談しています。まず明治2年(1869年)に英国女王ヴィクトリアの子・アルフレートが英国王族として初めて訪日し会談、明治12年(1879年)にはユリシーズ・グラントが、アメリカ大統領経験者として初めて訪日し会談しました。明治14年(1881年)にハワイ国王(まだアメリカではありません)カラカウアが外国元首としては初めて訪日し会談しました。

【政府内部の政治的対立調停役としての明治天皇】

明治6年(1873年)に征韓論を巡って政府部内が紛糾した明治六年の政変では、勅旨を出して西郷隆盛の朝鮮派遣を中止させてこれを収め、明治7年(1874年)から同8年(1875年)にかけて続いた自由民権運動では、立憲政体の詔を発して政体改革を進めるなど、天皇は政府内部の政治的対立を調停する役割を果たしています。この自由民権運動への対応として、明治14年(1881年)には、国会開設の勅諭を発して議会創設の時期を明示し、運動の沈静化をうながしています。

明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法が発布されました。この憲法は、日本史上初めて天皇の権限(天皇大権)を明記しており、立憲君主制国家確立の基礎となりました。翌明治23年(1890年)10月30日には教育勅語を発し、近代天皇制国家を支える国民道徳を育てて広めることに努めました。

【日本世界の列強国へ変貌する】

日本が初めて直面した近代戦争である日清戦争と日露戦争では、天皇は大本営で直接戦争指導にあたっています。また、外交上は日英同盟を締結し、列強の一員たるべく、軍事的・経済的な国力の増強につとめました。日露戦争後は、韓国併合や満州経営を進め、日本をイギリスやフランス、ドイツなど他の列強のような植民帝国へと膨張させる政策を採用しています。

明治44年(1911年)には、開国以来の懸案であったイギリスやアメリカなどの各国との不平等条約の改正を完了させ、名実共に日本は列強の一員となっていきました。

もちろんすべてが明治天皇の指導で行われたわけではありませんが、大きな柱として天皇の存在が影響したことは間違いありません。

【明治天皇崩御】

1441920177105.jpg
(同じ一本、画質はガラケー写真なので許してください)
CIMG7433.jpg
(ここでも階段かい~桃山台地ね)
CIMG7440.jpg(上から見た南方面、宇治方面だと思うのですが?)

1912年(明治45年)7月30日、明治天皇は東京の宮城・明治宮殿で崩御しました。同年(大正元年)9月13日に東京・青山の帝國陸軍練兵場(現在の神宮外苑)にて大喪儀が執り行なわれた後、翌9月14日に埋葬されました。ん~?翌日埋葬ですか、伏見桃山陵ではありませんね~再度埋葬し直したのかな?

伏見桃山陵の敷地は、豊臣秀吉の築いた伏見城の本丸跡地で、京都に墓所が造られたのは明治天皇の遺言だったそうです。天王は京都の御所に帰りたいと言葉を漏らすほどの京都好きだったようです。すぐ東には皇后である昭憲皇太后の伏見桃山東陵(ふしみのももやまのひがしのみささぎ)が隣接しています。周囲一帯は宮内庁の管理地となっており、京都市南西部から旧山陽道、旧西海道地域の陵墓を管理する宮内庁書陵部桃山陵墓監区事務所がありました。

墳丘は古式に範を採った上円下方墳で、下段の方形壇の一辺は約60メートル、上段の円丘部の高さは約6.3メートル、表面にはさざれ石が葺かれている。方形の墓坑を掘って内壁をコンクリートで固め、その中に棺を入れた木槨が納められています。槨内の隙間には石灰を、石蓋をしてコンクリートで固めてあるようです。上円下方墳の墳形は天智天皇陵がモデルにされたといわれます。

幕末の孝明天皇についで火葬にせず、天武天皇以前の古制に戻しています。火葬に関しては今上陛下もお考えがあるような報道がされていますね。歴代天皇の陵は伏見桃山陵に至るまで、すべて近畿以西に作られていますが、大正天皇(多摩陵)と昭和天皇(武藏野陵)の各陵は東京都八王子市の武蔵陵墓地に作られています。

CIMG8217.jpg(明治天皇が帰りたいと洩らされた、京都御所「内庭園」一枚だけお見せします)
CIMG7436.jpg(最後は紅の豚と天皇陵、妻が撮影してくれているので、ちょっと恥ずかしがっていますね、恥ずかし~~~!)


【最後にお詫び】

今回のブログは漢字を意味の通りに簡単にすることと、時代が中途半端?なために敬語の使用についてとても迷いました。あえて「ですます」で書かせていただきました。不敬につきましてはお許しください。

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リュミエールブラン ネージュ

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2017/09/14

今話題の『前方後円墳を嗜(たしな)む』見処と鑑賞法!

今日は趣向を変えまして、古墳を見に行く機会が有ったなら、是非ここだけはチェックしてほしい四つの目利き?ポイントについてお話したいと思います。

この四つが理解出来るようになると、その古墳の位置付けが分かるように成って、かっこよくくうんちくを友達や恋人に語れるように成りますよ。

CIMG9040.jpg(今城塚古墳、真の第26代継体天皇といわれる入って遊べる天皇陵墓の埴輪レプリカ群)

それでは人気の、前方後円墳を例に上げて注目点を説明していきましょう。

キーワードは次の四つです。『段築』 『周濠』 『葺石』 『埴輪』です。それでは前方後円墳の説明から始めましょうか?

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【前方後円墳 って何?知らない方はおりません!】

前方後円墳 (ぜんぽうこうえんふん)は、古墳の形状の1つですよね小学校の教科書で習っています。円形の主丘に方形の突出部が接続する形式で、双丘の鍵穴形をなしています。

主に日本列島で3世紀中頃から7世紀初頭頃(畿内大王墓は6世紀中頃まで)にかけて築造され、日本列島の代表的な古墳形式としてよく知られていますね。

【あの鍵穴形の起源は何なの?】

ん~~~謎なんですよ~!、奈良県桜井市の纏向古墳群が最古の前方後円墳群とされています。3世紀中頃の築造で、完成形が箸墓古墳(卑弥呼の墓とも言われています)です。

P5190134.jpg(卑弥呼の墓とも言われる箸墓古墳)


以前に書いたブログ参考にしてください。
「豊鍬入姫命」「卑弥呼」「台与」?誰が眠るんだ~『ホケノ山古墳』
本当に眠るのは「卑弥呼」なのか?纒向遺跡最後を飾る『箸墓古墳』

日本(およびそれに影響を受けた朝鮮半島南部)でのみ見られる前方後円墳の起源については、これまでに様々な仮説が唱えられました。

最もよく知られているものは、弥生時代の墳墓から独自に発展したものという学説です。この説は従来より存在した円形墳丘墓の「周濠(あら出ちゃった)」を掘り残した陸橋部分(通路部分)で祭祀などが行われ、その後この部分が墓(死の世界)と人間界を繋ぐ陸橋として大型化し円墳と一体化したと考えられる説です。

それに対して円部は軍事・政治を担った男王、方部は祭祀を司った女王の墓に由来するという説もあります。奈良県橿原市の瀬田遺跡では弥生時代終末期(2世紀頃)の前方後円形の円形周溝墓が発見されており、前方後円墳の原型である可能性が指摘されています。

「前方後円」の語は、江戸時代の国学者蒲生君平が19世紀初めに著した『山陵志』で初めて使います。明治時代末期になり、ウィリアム・ゴーランドは円墳と方墳が結合して作られた。清野謙次は主墳と陪塚が結合して前方後円墳になったと推測します。その後、壺形土器の形や盾の形を模倣したというような学説も生まれています。

現在の研究では、平面では円形をしている後円部が埋葬のための墳丘で主丘であり、平面が撥形・長方形・方形・台形などの突出部をひっくるめて前方部と呼びます。前方部は、弥生墳丘墓の突出部が変化したもので、もともと死者を祀る祭壇として発生・発達とする説や葬列が後円部に至る墓道であったとする説があり、次第に独特の形態を成したと考えられています。ただし時代が下ると前方部にも埋葬がなされるようになっていきます。

しかし、慣習と便宜によって前方後円墳、前方部、後円部といった用語はそのまま使われています。古い形の前方後円墳は前方部は低く撥形をしており、後円部は新古にかかわらず大きく高く造られている。撥形にしているのは、葬列が傾斜の緩やかな道を通れるように前方部の左右の稜線のどちらかを伸ばしたものと考えられています。

近畿地方、宮崎県を中心として日本全国に広く分布する大型の前方後円墳の周りには、小型の前方後円墳、あるいは円墳・方墳が寄り添うように建造されており、複数の大型古墳から構成される古墳群が形成されている箇所が多くあります。古墳時代に築かれた巨大な墳墓はその多くがこの前方後円墳であり、その中で最も大きなものは大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)であり、墳墓の表面積としてはクフ王のピラミッドおよび始皇帝陵をしのぐ世界最大の墳墓に成ります。墳丘の全長が486メートル、高さが36メートル、周りには、三重の周濠を巡らしています。

後円部は、前方後円墳で最も大切な場所です。それは、そこに亡き首長を埋葬し、盛大に埋葬祭祀が行われてきたと考えられます。その頂上は狭いが平坦に造られていて、その下の土中に埋葬を行うのに都合のよい形に造られています。裾部から頂までは高く造られ、その斜面の勾配は、平均的には25度から26度もあり、それ以上の急勾配の墳墓もあります。築造当時には斜面に葺き石が敷かれて、登ることができないように造られています。

また、くびれ部や前方部の斜面も急勾配に造られており、簡単に登ることができなくなっています。葬列が登れるのは前方部の前面の左右の隅角のどちらかで、そこを緩い斜面にして登りやすくしています。このように前方後円墳は簡単に登れないような急斜面で囲まれています。登ることを慎めという意味であり、前方後円墳は禁忌の状態に築造されているのです。

前方後円墳は、墳丘(前方部・後方部・造出)、埋葬施設(棺室・槨室・石室)、副葬品、外表施設(封土固めの葺石、祭祀用の土器・埴輪など)などの諸要素から成っています。今回私が取り上げるのは、『周濠』『葺石』 『段築』 『埴輪』です。

【祈りはどこで行われた?】

CIMG9045.jpg(今城塚古墳の造出は四角いです。)

前方後円墳には造出(つくりだし)という括れ部分の突出が見られます。最古級の前方後円墳では造出は見つかっていません。大王墓および地方の有力首長墓のみに付随する物と考えられています。造出には埴輪を立て並べたり、形象埴輪を置いたりしています。祭祀・追葬が後円部や前方部の墳頂で行われるのではなく、くびれ部裾付近に作られた造出で行われたことは、埋葬祭祀の考え方が変わって来たことをうかがえます。それは、墳頂へ登ることが禁忌され、畏敬されたことと関わっていると考えられ、追葬や祭祀は一定期間行われると停止されたと考えられます(33回忌いいえ50回忌までかな?)

【最初のキーワードは 『段築』 】

P7290446.jpg(大きさは前国10位の282m、岡山2位の作山古墳三段築成の二段目!わかります?)

古墳の外部施設の一種です。墳丘を数段の階段状に造ること,またはそのような墳丘のことです。畿内の大型前方後円墳では,初期には墳丘は3~4段に造られ、後円部最上段は円丘を呈していましたが、4世紀中期以降には前方部・後円部ともに3段の形が定着しました。各平坦面には埴輪が並べられました。

箸墓古墳NO~~1!後円部は4段築成で、4段築成の上に小円丘(径約44-46メートル、高さ4メートルの土壇、特殊器台が置かれていたと考えられる)が載ったものと指摘する研究もあります(4.5段)。前方部は側面の段築は明瞭ではないが、前面には4段の段築があるとされます。ちなみに五段築成(四段築成で、後円部に小円丘が載る)は箸墓古墳のみで四段築成(三段築成で、後円部に小円丘が載る)は西殿塚古墳(大和古墳群)、行燈山古墳(柳本古墳群)、渋谷向山古墳(柳本古墳群)、桜井茶臼山古墳(鳥見山古墳群)、メスリ山古墳(鳥見山古墳群)、築山古墳(馬見古墳群)等が考えられ他の天皇陵クラスの古墳は全て三段築成(後円部も前方部も三段築成)とされます。被葬者の格付けを表しているのかも知れませんね。

0220-05[1]
(箸墓古墳、NO1、4.5段)

ちなみに最初の前方後円墳といわれる「纒向石塚古墳」は、もうすでに2段築成なんですよ~。

P5190064.jpg(纒向石塚古墳分かるかな左側面に段が有りますよね。)

【次のキーワードは『葺石』】

葺石(ふきいし)とは、主として古墳時代の墳墓の遺骸埋葬施設や墳丘を覆う外部施設の1つで、古墳の墳丘斜面などに河原石や礫石(れきいし)を積んだり、貼りつけるように葺(ふ)いたものです。「葺石」は前期古墳と中期古墳に多いが、後期になると葺石をともなわない古墳が大多数をしめるようになります。

日本の墳墓においては、中国の墳墓に顕著にみられる版築の工法がほとんどみられない一方で、斜面を礫石などで葺いてがっしりと安定させる手法が採用されており、この工法は日本列島独自のものなのです。

葺石の発生については阿波(いまの徳島県)の吉野川流域や瀬戸内海沿岸など日本の古い積石塚の分布する地域で工夫されたとする説が唱えられています。古くから瀬戸内および四国地方には石工集団がおり、石に関する知識が特に豊富であったことも指摘されています。

なお、『日本書紀』と『古事記』には、箸墓古墳(奈良県桜井市)の造営の際、大坂山の石をリレー方式(一列に大阪から並んでバケツリレーした?)で運んだという説話が記されています、このとき運ばれたのは葺石のための石材であったと考えられています。

P5190160.jpg(奈良桜井市、ホケノ山古墳の葺石です)

葺石墓は、弥生時代中期以降の西日本に点々とみられ、古墳時代へとつながっていきます。とくに一般的に「定型化された大型前方後円墳」の最古の例と考えられている箸墓古墳および若干それに先立つとみられるホケノ山古墳(奈良県桜井市)では葺石をともなうことが確認されており、葺石は、出現期古墳の特徴を示す一要素となっています。なお、定型化以前の、いわゆる「纒向型」と称される墳墓では、纒向石塚古墳、纒向勝山古墳、東田大塚古墳いずれの場合でも埴輪・葺石はともなっていません。

葺石の祖形のひとつとして掲げられることの多いのは、弥生時代の山陰地方にみられる四隅突出型弥生墳丘墓(こちらまだご紹介していませんが凄いですよ~今回少しだけ見せちゃいます)にみられる貼石(はりいし)です。島根県出雲市の西谷墳墓群3号墓では、墳丘の裾部分を全周するかたちで貼石がなされている。また、岡山県総社市の楯築遺跡(こちらもまだ内緒です)では墳丘に石列をめぐらせており、このような例は山陰・山陽で広くみられます。さらに、山陽地方においては、石垣状に積んで墳丘を造る例もみられます。

P8111324.jpg(まだ見せたく無かった!四隅突出型弥生墳丘墓、島根県出雲市の西谷墳墓群3号墓)

葺石の目的としては、墳丘の偉容を示すとともに墳丘そのものの保護を目的とするとみられています。とくに墳丘斜面に使用され、平坦面では通常使用されないことから、盛土流出を防ぐ目的があったものと考えられ、防水・排水の効果も高かったと推察されます。

また、他の隣接する地域とは明確に区別するという意味合い、すなわち、「ここからは聖域であり、霊域である」という境界を示して周囲とのあいだを画する意味合いもあったとも考えられます。

【三番目のキーワードは『周濠』】

p3652148.jpg
(奥が大仙陵古墳、三重の盾形周濠)

考古学では普通、古墳の周囲に掘られた堀をさします。湛水しているものが多いですが、空濠の場合もあります。前者では一般に、濠が畦で区切られ、水面が階段状をなすものから、畦がとれ水面が同じ高さで一周するものへと変遷したと考えられています。

形は墳丘に沿って同じ幅の周濠がめぐるもののほかに、前方後円墳では盾形(馬蹄形も含む)、前方後方墳では長方形のものが多いようです。古墳時代中期には、墳丘の巨大化に伴う外部施設の整備の一環として、著しい発達をとげ大阪府古市・百舌鳥(もず)古墳群などでは、墳丘との統一企画のもとに、二重・三重の盾形周濠が掘削されました。

すこしわかりやすく簡単に説明しますと、自然の山などを利用した場合土はいりませんよね、しかしながら平地に小山の様な古墳を作ろうとすると、当然土をどこからか運ばなければなりません。もうお分かりですよねそう「周濠」部分の土が使われたのです。

段築と同じく一重周濠からの被葬者の格付けを表しているのかも知れませんね。大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)のように、三重の周濠を巡らした古墳もあります。

【最後のキーワードは祭祀用土器『埴輪』】

P3190089.jpg(但馬の茶すり山古墳、円筒埴輪と朝顔形埴輪、朝顔形埴輪には貢物の壺を乗せたのか?)

埋葬祭祀で使用された土器は、最古級の前方後円墳では、宮山型特殊器台・特殊壺、この土器から変化した最古の埴輪といわれる都月形円筒埴輪と次に古い特殊壺形埴輪、円筒埴輪、家型埴輪、武器形埴輪、人形埴輪などが有ります。特殊土器は、日常の器台・壺と違い大きく、文様で飾られています。器台は1メートルほどもあるものもあり、壺も40センチから50センチぐらいで、器台に壺を載せると人の肩ほどにもなります。このような大きな目立つ道具を使って亡くなった首長の霊魂と首長権を継承するための祭祀を行ったと考えられています。

【まとめ「古墳を語るなら」】

P2220002.jpg(神戸五色塚古墳、復元すると全て明らか『段築』 『周濠』 『葺石』 『埴輪』)

古墳時代の日本の大型墳墓は、墳丘の斜面などにびっしりと『葺石』が施され、遠目には石塚のように見えました。平坦なテラス部分『段築』には『円筒埴輪』をならべ、さらに墳丘周囲には『周濠』をめぐらせて、その外側には数基より成る陪塚をともなうなど、色彩豊かで華麗な装いをみせています。規模や形状のみならず、当時は側面からしか古墳を見られない人びとに対して、葺石によって白く輝く構築物としての陵墓の色彩的イメージは、他の構築物とのあいだに大きな格差を感じさせるに充分であったと考えられます。このような意味からも、古墳は単なる墓ではなくて政治の柱として機能したのでした。

さあ、長々のお付き合いありがとうございました。これであなたも古墳博士です(笑)ホントか~~~!

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リュミエールブラン ネージュ

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2017/09/12

但馬の小京都「出石」の名物!『辰鼓楼』と『おりゅう灯籠』

関西人で「出石のお蕎麦」を知らない人はいないかもしれませんが、関東の方々は意外に知らないかもしれませんね~。
まず、出石を「いずし」と読むことがむずかしいかもしれません。「でいし」と思われるかもしれませんものね。

兵庫県豊岡市の出石(いずし)の由来は、古代に新羅の王子である天日槍(アメノヒボコ)が渡来してきて現在の出石に住み着き、天日槍が持っていた「出石の小刀」という宝刀に由来するそうです。

CIMG0202.jpg
(出石神社裏に在る禁足地、天日槍の墓だと思っているのですが?)


『日本書紀』では、垂仁天皇3年3月条において新羅王子の天日槍が渡来したと記されます。天日槍は自分を新羅国王の子であるといい、日本に聖皇がいると聞いたので新羅を弟の知古(ちこ)に任せて自分は日本への帰属を願ってやって来た、と語っています。その際に次の8宝、羽太の玉(はふとのたま)または葉細の珠(はほそのたま) 1箇・足高の玉(あしたかのたま) 1箇・鵜鹿鹿の赤石の玉(うかかのあかしのたま) 1箇・出石の小刀(いづしのかたな) 1口・出石の桙(いづしのほこ) 1枝・日鏡(ひのかがみ) 1面・熊の神籬(くまのひもろき) 1具・胆狭浅の大刀(いささのたち)1口・を献上し諸国をめぐった後に但馬国出石に定住します。

出石の由来話は、後世に作られた物語のような気がしますね~(笑)。

やはり私としては、但馬で唯一残る城「出石城」をご紹介したいのですが、小京都といわれる町の魅力もご紹介したいので、今日は『辰鼓楼』と『おりゅう灯籠』をご紹介します。

それでは、『市郎右衛門』の歴史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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CIMG0201.jpg
(出石神社のお正月3日目!)


【「辰鼓楼(しんころう)」って何だろう】

CIMG3141.jpg
(「辰鼓楼」ただいま修理中で訪れても見られませんよ~)
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(辰鼓楼は元大手門でした。)
CIMG3145.jpg(設計図説明版)

辰鼓楼(しんころう)は、兵庫県豊岡市出石町の出石総合支所敷地(旧出石町役場、旧弘道小学校敷地)にある明治時代初期の時計台です。豊岡市出石伝統的建造物群保存地区を代表する建造物です。

楼閣本体は1871年(明治4年)に完成します。元々は辰の刻(7時から9時)の城主登城を知らせる太鼓を叩く楼閣でした。旧藩医の蘭方医、池口忠恕が大病を患った際、多くの人々が病気快癒の願掛けをしました。忠恕は回復後、病気中出石の人々に多大な精神的支援を受けた感謝の意思を形にしたいとして、時計技師2名を招くとともにオランダ製の機械式大時計を取り寄せ寄贈しました。これによって1881年(明治14年)より現在の姿の時計台とまりました。以後、弘道小学校では機械式時計の錘(おもり)を掛け替えるのが児童の大事な役割となります。現在は時計本体は入れ替えられて機会電波時計になっているそうです(最後のところは市郎右衛門の想像です)。

CIMG3144.jpg(そう、戦国大名山名氏が作った有子山城、今回熊出没注意で登山できず!)
CIMG3149.jpg(あの山の上です。有子山~や~い!)

【日本最古の時計台】

日本最古の時計台とされることが多いのですが、時計台となったのは1881年(明治14年)であり、1878年(明治11年)完成の札幌農学校演武場に時計塔(札幌の時計台)が設置されたのも1881年です。どちらが古いかは今一つ決め手に欠けます。しかし、建物から独立した洋式時計台、一般市民が時刻を共有するための洋式時計台、国以外が設置した洋式時計台としてはこれより古いものは知られていません。

ちなみに、札幌の時計台を見ましたが、ビルの谷間に挟まれて「ええっ~これ?」って感じでした。断然『辰鼓楼』の方が風情があります。出石町民よ誇りを持とう~!(札幌いえ、北海道の皆さん悪気はありませんからお許しください、郷土愛のなせる業です。)

【涙が止まらない『おりゅう灯籠』秘話】

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(灯篭といっても半端ない力強さです。)
DSC_0020.jpg(凄いですね何十万石の藩なんだって感じの看板ですがちっちゃい藩ですし、その上に・・・またの機会に!)

かつては日本海より三十石船が入れるほど広かった谷山川(旧出石川)の大橋東詰にあった船着場の灯籠です。

「おりゅう」という名の由来は、鎌倉時代の悲恋物語の主人公「おりゅう」にちなんだものとされています。灯籠のすぐそばには柳の木があり、おりゅうと恋人が寄り添う様子に似ていることから名づけられました。現在では常夜灯として使用されています。

城下町出石に伝わる悲恋の物語、今から七百年ほど前、出石川は町のまん中を流れ、大きな船が往来して、毎日賑わっていました。そのころ、出石のある豪族の屋敷には若い侍が暮らしていました。彼は書を学び、武術を練習し、凛々しい青年に育っていきました。
屋敷には、おりゅうという心優しい美しい娘が奉公していました。お互いに惹かれ合う二人は、たちまち恋に落ちます。しかし、身分の違いの恋はは実ることはありませんでした。おりゅうは里に帰されてしまいます。そんな時、日本に蒙古軍が攻め込んできました。蒙古襲来です。

武術に優れた若い侍は九州の防衛のために、あわただしく旅立っていきました。愛する彼の出征を聞いたおりゅうは船着き場に走りました。しかし、彼をのせた船は見る見る遠ざかってしまいました。

それから数ヶ月後、彼の戦死の報が屋敷にもたらされました。おりゅうの体が出石川に浮いたのは、その数日後でした。以後、大雨のたびに出石川は氾濫します。人々は、これはおりゅうの悲しみの現れだと語り合いました。そして、これを鎮めるために、船着き場にほこらを建てて供養し、そのそばには灯籠も建てました。その灯は、上り下りする船の船頭たちの道しるべになり、「おりゅう灯籠」とよばれるようになりました。今も、出石川の橋のたもとに、おりゅう灯籠は建っています。

DSC_0022.jpg
(オッ!現役赤ポス、ヤッパリいい味出しますね~寄り添うような灯篭としなやかなな柳です。)

ちなみに、元寇(げんこう)は日本の鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称です。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)といいます。

【最後に「但馬太田文」】

但馬で一番古い文章といわれる「太田文」。もちろん太田氏の事が書いてあるのですが、承久の乱では後鳥羽上皇と鎌倉幕府執権である北条義時を天秤にかけて、義時に従い但馬守護の地位を得ています。更には、後醍醐天皇が元弘3年 / 正慶2年(1333年)、太田氏と血縁の名和氏に護られて船上山に御幸された事を知ると、太田守延(太田氏当主)は意を決して後醍醐天皇皇子、恒良親王を奉じ錦の御旗を立てて、山陽山陰の兵を集めて都を攻める左衛門中将・源忠顕の軍と合流しました。「機を見るに敏」な太田氏でしたが、最後気が緩んでしまいました~。

討幕軍は都に迫り、守延らは人を京中に入れて火を放ち、火勢に押されて退く賊軍を追って六波羅を攻めますが、新手の軍に遭遇して敗走の途中、田のぬかるみに足を取られ馬が転倒し、追手に捕らえられて首を打たれてしまいました。最後がちょっとさみしいいですね~(寂)

『おりゅう灯籠』の若武者も太田氏の一族だったかもしれませんね?同級生にも太田君居るんですよ~子孫かもしれません。

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