(続)『備前国分寺』の周りは古墳の宝庫だった!「両宮山古墳」と稚媛(わかひめ)伝説
前回は、岡山県第3位の大きさを誇る「両宮山古墳」のすぐそば、『備前国分寺跡』をご紹介しました。
備前国分寺の周りには、「両宮山古墳」をはじめとして、規模の大きな前方後円墳が数多くある両宮山古墳群(西高月古墳群)が有るともご紹介しました。
今日は両宮山古墳群の内、私が取材出来たいくつかの古墳をご紹介します。
(両宮山古墳を中心に左に国分寺+古墳が点在しています。)
一帯には、「両宮山古墳」を含む前方後円墳4基・帆立貝形古墳2基などからなる「西高月古墳群」が存在しています。取材(偉そうですけど要は写真に収められたものです)出来た古墳をご紹介します。広い地域なので徒歩で廻れた分だけですその他は説明だけでご勘弁願います。
それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。




【両宮山古墳周辺の古墳】
両宮山古墳が築かれた平野をみてみると、同じく古墳時代中期の後半頃に造られた古墳が両宮山古墳の周辺に集中し、1つの古墳群を形成しています。これを「両宮山古墳群(西高月古墳群)」と呼んでいます。
これらの中には両宮山古墳の陪塚(ばいちょう)と考えられている古墳もありますが(和田茶臼山古墳)、それぞれの古墳に埋葬されている人物が、両宮山古墳の埋葬者の親族や政権を支えた官僚的人物、あるいは両宮山古墳の埋葬者とは別系統の首長であるのかなど、はっきりとわかっていません。
『うんちく「陪塚(ばいちょう)」って何?』大形古墳(主墳)の近くに計画的に造られたと考えられる小形の古墳の事で。陪塚に埋葬された人物は、大形古墳に埋葬された人物に対して、従属的な立場であったと想定されます。主墳の製作者、子供・妻・殉死した者などと考えられています。
参考にしてくださいね。
①今話題の『前方後円墳を嗜(たしな)む』見処と鑑賞法!
②備前地域最大の前方後円墳、『両宮山古墳』は倭への架け橋か!
【和田茶臼山古墳(陪塚)】
両宮山古墳の後円部北側に造られた、墳丘全長55m、後円部径(推定かけて畑に成っています)41.5mの帆立貝形古墳です。後円部の高さは北西のくびれ部から5.65mの高さです。後円部は二段築成とかんがえられます。
両宮山古墳と同様に葺石や埴輪は伴わず、また、外濠が両宮山古墳の外濠と一部共有する二重周濠がめぐらされていました。こうしたことから、この古墳の埋葬者は、両宮山古墳の埋葬者と親密な関係であったと想定されています。5世紀後半~末の築造と考えられます。
『うんちく「帆立貝形古墳」てどんな形?』正にホタテ貝の形です(当たり前やんか、笑)円墳に低く短かい突出部がついた平面形が、帆立貝に似ているところからホタテ型と呼ばれています。奈良の纏向古墳群が始まりといわれています。大和政権と地方首長の間での政治的関係から、同じ形態の古墳が築造されたのではないかと推測できますね。
【森山古墳】
墳丘全長82m、後円部径63m、同高さ12.1m、総長136mの帆立貝形の古墳です。後円部は高さが際立ち、二段築成の可能性があります。周囲には周濠を巡らしていたことが分かっています。
両宮山古墳と異なって葺石と埴輪が伴っています。これふしぎですね~墳丘の縮小は両宮山古墳群の衰退を意味していると考えるのですか、飾りは派手になっているわけですからね~?形象埴輪では蓋(きぬがさ)や家が、朝顔形埴輪では肩部に鹿が描かれた破片が出土しました。5世紀後半の築造と考えらています。
『うんちく「蓋」』衣蓋とも表記されます。高貴な人にさしかける笠として形づくられたものです。埋葬された人物の権威の象徴を示すものとして重要だったと思われます。鹿ですが食料というよりも神聖な動物として扱われています。食料といえば猪ですね。
【正免東古墳】
墳丘の直径が23mをはかる古墳です。前方部の有無が判断できないため(道路に成って変形が激しいいです)、円墳か前方後円墳かわかりません。調査成果から葺石が認められ、二重周濠の可能性もあります。
周濠の底からは、鹿の線刻絵画や円弧文様をもつ埴輪や蓋・家の形象埴輪が出土しました。森山古墳と親密な関係が想定されます(森山古墳の陪塚の可能性もあります)。5世紀後半の築造と考えられています。 こちらの古墳道路の下に成ってしまっています。
【 廻り山古墳】
墳丘全長47mと推定される前方後円墳で、高さ5mの低い丘陵の頂部に造られています。墳丘は畑の開墾が著しいですが、大きく開いた前方部を北に向けています。墳丘を取り巻く周濠をもつ古墳は、周辺ではこの古墳が最後の古墳と思われます。
未調査のため、埋葬の主体部や葺石や埴輪などの外表の様子はよくわかりませんが、6世紀前半の築造と考えられています。
【 朱千駄古墳】
墳丘全長85m、後円部径40m、同高さ6.5mの二段築成の前方後円墳です。北に延びる丘陵斜面に平行して築かれ、前方部を東に向けています。
後円部には兵庫県の竜山石(たつやまいし)製の長持式(ながもちしき)石棺が置かれていたようです。中からは、この古墳名の由来となった大量の朱や銅鏡、玉類、刀剣類が出土しました。5世紀末に築造されたと考えられます。
『うんちく「石の宝殿・竜山石(たつやまいし)」』おもに古代の石棺、石碑、モニュメントなどに使われています1700年の歴史を誇る石切場といえます。姫路城石垣、皇居吹上御苑、国会議事堂、日本帝国ホテル等の建築物に使用されています。
参考にしてくださいね。
③日本三奇 石乃寶殿 !「オーパーツ?」『生石神社(おおしこじんじゃ)』の凄さ!
【 小山古墳】
墳丘全長67m、後円部径42m、同高さ7.9m、総長89mの前方後円墳で、二段築成の前方部と三段築成の後円部をもちます。低い丘陵の先端部分に築かれ、前方部を南に向けています。
後円部にある社殿の裏側には、熊本県の阿蘇(あそ)産の溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)製である家形石棺の身と蓋(ふた)が破片となって残されています。埴輪が列状にめぐっており、5世紀末の築造と考えられています。
【岩田14号墳】
6世紀中ごろに築造された長さ11.8mの横穴式石室を有する後期円墳です。石室は片袖式で、7基の木棺痕跡が確認されています。山陽団地造成の際に発掘され、公園として保存されています。
中からは単竜環頭太刀や雁木玉を初めとする多量の須恵器や馬具類が出土しました。出土品は赤磐市山陽郷土資料館に展示・保管してあります。最初の地図には入っていませんが、両宮山古墳北側団地の中に有りました。
今回の資料データは岡山県赤磐市教育委員会作成のパンフレット(国分寺のポストに濡れぼそって入っていました。)を拝借しました。
【最後の前に両宮山古墳と稚媛伝説】
1500年前ほど前、このあたり備前地方は、吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)田狭(たき)という豪族が支配し、大和朝廷に並ぶほどの強い勢力を誇っていました。 両宮山古墳は、その田狭の墓ではないかと言い伝えられてきました。
田狭には稚媛という美しい妻がいましたが、あまりの美貌ゆえに雄略天皇は田狭を任那(または「伽耶」は、当時日本の勢力下にありました)の国司として派遣し自分の后にしてしまいました。 任那に国司として派遣された田狭は、留守中に妻を天皇に奪われたことを知り、新羅と結んで天皇に背こうとしました。
怒った天皇は田狭の子で弟君(おとぎみ)に父を討つことを命じましたが、弟君は新羅へは向かわず。田狭の軍と結ぼうとしました。 これを知った弟君の妻樟姫(くすひめ)は、夫に謀反の心があることを知り、夫を殺し百済から工人たちを連れて帰り、天皇に献じています。
妻稚媛を天皇に奪われ、わが子弟君を殺された田狭の嘆きはどのようなものであったのでしょうか。 しかし、田狭のその後は「日本書紀」に記されていません。
それから十数年後、雄略天皇が崩御(雄略23年・西暦479年)されると、稚媛は雄略天皇との間に生まれた星川皇子(ほしかわのみこ)を天皇にしようと 田狭の子・兄君(えぎみ)らとともに大和政権に対して反乱を起こし。皇太子白髪皇子(しらかのみこ)と争いましたが、やがていずれの反乱も鎮圧されてしまい、立てこもっていた大蔵に火が放たれて、無残な最期を遂げます。これらを機会に吉備の政治的衰退が始まったとされています。
「日本書紀」には、滅びゆく豪族の姿と稚媛の数奇な運命がこのように描かれています。壮大な両宮山古墳は、今もなお、古代の悲しい物語を語り続けているのですね。
両宮山古墳と和田茶臼山古墳(陪塚)には葺石と埴輪が見つかっていません。埴輪に関しては森山古墳・正免東古墳・朱千駄古墳・小山古墳・廻り山古墳では出土しています。南西の造り出しからも古墳に伴う遺物は見つかりませんでした。二重の環濠に陪塚まで備えた巨大古墳に葺石や埴輪が無いのjは大変不思議ですよね?やはり雄略天皇や皇太子白髪皇子への反乱が大和の怒りを買い古墳の祭祀が完結しなったのかもしれません。これもまた古代のロマンです。
【本当に最後】
今回の取材で、吉備(今日の記事は備前ですが)地方が古代史において、近畿(奈良・大和)や九州と同等の勢力を持っていたと考えました。出雲国も入れて四巴の論争が今後展開されることは間違いないと思います。古代の歴史は感動的ですらありますね。
いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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備前国分寺の周りには、「両宮山古墳」をはじめとして、規模の大きな前方後円墳が数多くある両宮山古墳群(西高月古墳群)が有るともご紹介しました。
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【両宮山古墳周辺の古墳】
両宮山古墳が築かれた平野をみてみると、同じく古墳時代中期の後半頃に造られた古墳が両宮山古墳の周辺に集中し、1つの古墳群を形成しています。これを「両宮山古墳群(西高月古墳群)」と呼んでいます。
これらの中には両宮山古墳の陪塚(ばいちょう)と考えられている古墳もありますが(和田茶臼山古墳)、それぞれの古墳に埋葬されている人物が、両宮山古墳の埋葬者の親族や政権を支えた官僚的人物、あるいは両宮山古墳の埋葬者とは別系統の首長であるのかなど、はっきりとわかっていません。
『うんちく「陪塚(ばいちょう)」って何?』大形古墳(主墳)の近くに計画的に造られたと考えられる小形の古墳の事で。陪塚に埋葬された人物は、大形古墳に埋葬された人物に対して、従属的な立場であったと想定されます。主墳の製作者、子供・妻・殉死した者などと考えられています。
参考にしてくださいね。
①今話題の『前方後円墳を嗜(たしな)む』見処と鑑賞法!
②備前地域最大の前方後円墳、『両宮山古墳』は倭への架け橋か!
【和田茶臼山古墳(陪塚)】
両宮山古墳の後円部北側に造られた、墳丘全長55m、後円部径(推定かけて畑に成っています)41.5mの帆立貝形古墳です。後円部の高さは北西のくびれ部から5.65mの高さです。後円部は二段築成とかんがえられます。
両宮山古墳と同様に葺石や埴輪は伴わず、また、外濠が両宮山古墳の外濠と一部共有する二重周濠がめぐらされていました。こうしたことから、この古墳の埋葬者は、両宮山古墳の埋葬者と親密な関係であったと想定されています。5世紀後半~末の築造と考えられます。
『うんちく「帆立貝形古墳」てどんな形?』正にホタテ貝の形です(当たり前やんか、笑)円墳に低く短かい突出部がついた平面形が、帆立貝に似ているところからホタテ型と呼ばれています。奈良の纏向古墳群が始まりといわれています。大和政権と地方首長の間での政治的関係から、同じ形態の古墳が築造されたのではないかと推測できますね。
【森山古墳】
墳丘全長82m、後円部径63m、同高さ12.1m、総長136mの帆立貝形の古墳です。後円部は高さが際立ち、二段築成の可能性があります。周囲には周濠を巡らしていたことが分かっています。
両宮山古墳と異なって葺石と埴輪が伴っています。これふしぎですね~墳丘の縮小は両宮山古墳群の衰退を意味していると考えるのですか、飾りは派手になっているわけですからね~?形象埴輪では蓋(きぬがさ)や家が、朝顔形埴輪では肩部に鹿が描かれた破片が出土しました。5世紀後半の築造と考えらています。
『うんちく「蓋」』衣蓋とも表記されます。高貴な人にさしかける笠として形づくられたものです。埋葬された人物の権威の象徴を示すものとして重要だったと思われます。鹿ですが食料というよりも神聖な動物として扱われています。食料といえば猪ですね。
【正免東古墳】
墳丘の直径が23mをはかる古墳です。前方部の有無が判断できないため(道路に成って変形が激しいいです)、円墳か前方後円墳かわかりません。調査成果から葺石が認められ、二重周濠の可能性もあります。
周濠の底からは、鹿の線刻絵画や円弧文様をもつ埴輪や蓋・家の形象埴輪が出土しました。森山古墳と親密な関係が想定されます(森山古墳の陪塚の可能性もあります)。5世紀後半の築造と考えられています。 こちらの古墳道路の下に成ってしまっています。
【 廻り山古墳】
墳丘全長47mと推定される前方後円墳で、高さ5mの低い丘陵の頂部に造られています。墳丘は畑の開墾が著しいですが、大きく開いた前方部を北に向けています。墳丘を取り巻く周濠をもつ古墳は、周辺ではこの古墳が最後の古墳と思われます。
未調査のため、埋葬の主体部や葺石や埴輪などの外表の様子はよくわかりませんが、6世紀前半の築造と考えられています。
【 朱千駄古墳】
墳丘全長85m、後円部径40m、同高さ6.5mの二段築成の前方後円墳です。北に延びる丘陵斜面に平行して築かれ、前方部を東に向けています。
後円部には兵庫県の竜山石(たつやまいし)製の長持式(ながもちしき)石棺が置かれていたようです。中からは、この古墳名の由来となった大量の朱や銅鏡、玉類、刀剣類が出土しました。5世紀末に築造されたと考えられます。
『うんちく「石の宝殿・竜山石(たつやまいし)」』おもに古代の石棺、石碑、モニュメントなどに使われています1700年の歴史を誇る石切場といえます。姫路城石垣、皇居吹上御苑、国会議事堂、日本帝国ホテル等の建築物に使用されています。
参考にしてくださいね。
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【 小山古墳】
墳丘全長67m、後円部径42m、同高さ7.9m、総長89mの前方後円墳で、二段築成の前方部と三段築成の後円部をもちます。低い丘陵の先端部分に築かれ、前方部を南に向けています。
後円部にある社殿の裏側には、熊本県の阿蘇(あそ)産の溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)製である家形石棺の身と蓋(ふた)が破片となって残されています。埴輪が列状にめぐっており、5世紀末の築造と考えられています。
【岩田14号墳】
6世紀中ごろに築造された長さ11.8mの横穴式石室を有する後期円墳です。石室は片袖式で、7基の木棺痕跡が確認されています。山陽団地造成の際に発掘され、公園として保存されています。
中からは単竜環頭太刀や雁木玉を初めとする多量の須恵器や馬具類が出土しました。出土品は赤磐市山陽郷土資料館に展示・保管してあります。最初の地図には入っていませんが、両宮山古墳北側団地の中に有りました。
今回の資料データは岡山県赤磐市教育委員会作成のパンフレット(国分寺のポストに濡れぼそって入っていました。)を拝借しました。
【最後の前に両宮山古墳と稚媛伝説】
1500年前ほど前、このあたり備前地方は、吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)田狭(たき)という豪族が支配し、大和朝廷に並ぶほどの強い勢力を誇っていました。 両宮山古墳は、その田狭の墓ではないかと言い伝えられてきました。
田狭には稚媛という美しい妻がいましたが、あまりの美貌ゆえに雄略天皇は田狭を任那(または「伽耶」は、当時日本の勢力下にありました)の国司として派遣し自分の后にしてしまいました。 任那に国司として派遣された田狭は、留守中に妻を天皇に奪われたことを知り、新羅と結んで天皇に背こうとしました。
怒った天皇は田狭の子で弟君(おとぎみ)に父を討つことを命じましたが、弟君は新羅へは向かわず。田狭の軍と結ぼうとしました。 これを知った弟君の妻樟姫(くすひめ)は、夫に謀反の心があることを知り、夫を殺し百済から工人たちを連れて帰り、天皇に献じています。
妻稚媛を天皇に奪われ、わが子弟君を殺された田狭の嘆きはどのようなものであったのでしょうか。 しかし、田狭のその後は「日本書紀」に記されていません。
それから十数年後、雄略天皇が崩御(雄略23年・西暦479年)されると、稚媛は雄略天皇との間に生まれた星川皇子(ほしかわのみこ)を天皇にしようと 田狭の子・兄君(えぎみ)らとともに大和政権に対して反乱を起こし。皇太子白髪皇子(しらかのみこ)と争いましたが、やがていずれの反乱も鎮圧されてしまい、立てこもっていた大蔵に火が放たれて、無残な最期を遂げます。これらを機会に吉備の政治的衰退が始まったとされています。
「日本書紀」には、滅びゆく豪族の姿と稚媛の数奇な運命がこのように描かれています。壮大な両宮山古墳は、今もなお、古代の悲しい物語を語り続けているのですね。
両宮山古墳と和田茶臼山古墳(陪塚)には葺石と埴輪が見つかっていません。埴輪に関しては森山古墳・正免東古墳・朱千駄古墳・小山古墳・廻り山古墳では出土しています。南西の造り出しからも古墳に伴う遺物は見つかりませんでした。二重の環濠に陪塚まで備えた巨大古墳に葺石や埴輪が無いのjは大変不思議ですよね?やはり雄略天皇や皇太子白髪皇子への反乱が大和の怒りを買い古墳の祭祀が完結しなったのかもしれません。これもまた古代のロマンです。
【本当に最後】
今回の取材で、吉備(今日の記事は備前ですが)地方が古代史において、近畿(奈良・大和)や九州と同等の勢力を持っていたと考えました。出雲国も入れて四巴の論争が今後展開されることは間違いないと思います。古代の歴史は感動的ですらありますね。
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