2017年07月 - 「高天原の縁側日記」
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2017/07/30

市郎右衛門は裏鬼門の呪いを解いたのか?「明石城跡」

前回、写真が多過ぎて、選ぶのに苦労したばかりか、取材旅行中で未完成なブログをUPする不手際で申し訳ありませんでした。思い出話が過ぎてしまい、「歴史ブログもとしては、一寸な~」と思われた方々も多かったのでは無いでしょうか?その分今回はしっかり行きますよ~(^^)b

さて、明石城が造られ始めた1617年(元和3年)は、1615年の大阪夏の陣も終わり、徳川将軍家にとっては、戦後処理を考えた大名の転封が非常に多く行われた時期になります。

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(巽櫓、この角度が一番綺麗です。)

明石城も西国外様大名の抑えとして、譜代大名が次々に転封されています。もうひとつ西に有る姫路城との二段構えに成っているのです。

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明石城は、兵庫県明石市に在り、明石公園として整備されています。旧明石藩の政庁と藩主の居所が置かれ、別名、喜春城(きはるじょう、きしゅんじょう)又は錦江城(きんこうじょう)とも呼ばれています。本丸付近には柿本人麻呂を祀った人丸塚があったと言われており実際に古墳らしき小さな丘が有ります。



P7140456.jpg(高さは2m位、柿本人麻呂が眠っているのか?小さな円墳程度の大きさです。)

【柿本人麻呂って誰?】

柿本人麻呂(かきのもと の ひとまろ、斉明天皇6年(660年)頃~神亀元年(724年)3月18日)は、飛鳥時代の歌人です。名は「人麿」とも表記されます。後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられています。また三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されています(短歌の達人ですね)。

【さてややこしい江戸時代の説明】

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(巽櫓と坤櫓良い感じです。)
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(後ろに明石大橋を従える巽櫓高いので展望台?が有りました。)
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(本丸公園から巽櫓を眺める。)
P7140449.jpg(狭間です弓矢や鉄砲を安全に打てます。)

1617年(元和3年)信濃松本より明石へ転封となった小笠原忠真は、明石城の西方明石川河口西岸にあった船上城に入城しします。譜代大名たる小笠原氏10万石の居城として城郭を建設するよう、同年2代将軍徳川秀忠より築城命令されました。当時姫路城の城主であった本多忠政と小笠原忠真は相談しながら(忠政は忠真の義父にあたります)、築城から町割りまで行ったようです。当初三ヵ所が検討されたが、人丸山(赤松山)には大きな池があり城の防備に役立つとして人丸山に決定されました。徳川秀忠は旗本の都筑為政、村上吉正、建部政長らを普請奉行として派遣するとともに、築城費として銀一千貫を支給したと言われます。

人丸山の地の利を利用し、三木城、高砂城、枝吉城、船上城の木材を使用し着工され、坤櫓は伏見城、巽櫓は船上城の遺材が使用されたと伝えられています。元和5年(1619年)正月から作事が始まり、元和6年(1620年)正月には小笠原忠真が船上城から移り住み、同年6月から城内の建物関係の工事が開始されました。このとき天守は台石まで積まれましたが結局建てられませんでした。

本丸を中心に配して、東側に二の丸、その東に東の丸が配され、南側に三の丸、西側には稲荷郭が設けられました。本丸、二の丸、東の丸は明石城の主郭部分で、この部分の石垣、土塁、堀などの作事は徳川幕府が担当し、三の丸と町屋に関しては、小笠原氏と徳川幕府の共同事業として進められました。

本丸の西南に天守台の広さは約152坪有ります。広さから推察すると5重規模相当の天守が築かれる予定でしたが、天守は建設されず、四隅に巽櫓、坤櫓、乾櫓、艮櫓が建設されました。天守台の規模を考えると熊本城天守と、ほぼ同じ広さだそうです。ただ、堀とか石垣も中途半端な感じもありますので、平和な時代が訪れたことで役所以上の戦略的意味が喪失したのではないかと思います。

『日本城郭大系』によると「坤櫓が天守の代用となっている」となっていると記載されています。4基のうち南側の2棟、すなわち巽櫓(たつみやぐら、南東側)、坤櫓(ひつじさるやぐら、南西側)が現存し国の重要文化財に指定されています。巽櫓・坤櫓の棟(破風)の方向は実際とは違っています。西側は明石川を自然の外堀とし、南側は運河を掘って港を兼ねた外堀(現在の明石港)としました。北側は鴻の池(剛の池)と自然林、谷筋で防備を固めています。艮櫓(うしとらやぐら)は神戸相生小学校(現在の湊川小学校)の建築用材とするため解体利用されました。

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(艮櫓の調査説明版です。ハッキリ北東方向に在るのが分かります。)
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(大きな木の根と見間違うかもしれませんが、艮櫓の石組です。)

築城と並行して城下町の町割りも実施され、当時小笠原忠真の客分だった宮本武蔵が指導したと『赤石市中記』『播磨鑑』『播州明石記録』『小笠原忠真一代覚書』など各史書に記録されています。平成15年、三の丸に「武蔵の庭園」を整備し一般公開してます。

P7140504.jpg(流石明石ともなると、案内板もカラフルです。真ん中下の武蔵の庭園に注目~!宮本武蔵の才能は凄いです。)
P7140493.jpg(本丸と二の丸の間の谷に成ります。)
P7140511.jpg(向こうに見える石垣が東の丸に成ります。)
P7140498.jpg(こちらは二の丸公園)

【歴代城主の皆さん(転封が多すぎて記憶に残らないかも)】

苦心して明石城を築城した小笠原忠真ですが、1632年(寛永9年)豊前小倉藩(小倉城)に転封となります。翌1633年(寛永10年)信濃松本藩より 松平庸直(戸田氏)が7万石で入城しましたが、急死したため松平光重が城主となった。しかしその松平光重も1639年(寛永16年) が美濃加納藩(加納城)に転封となると、大久保忠職が7万石で入城しますが、1649年(慶安2年)のわずか10年間で肥前唐津藩(唐津城)に転封してしまいます。
その後、丹波篠山藩より松平忠国が7万石で入城、その子・松平信之と共に名君として知られ、林崎掘割の用水路や一里塚の設置、海岸の防風林の造成、そして多くの新田の開発に努めました。文化人でもあったらしく城内十景を選んでこの時に「喜春城」の名を付けています。しかしその松平信之も、1679年(延宝7年)大和郡山藩(郡山城 (大和国))に転封となると、代わりに郡山城 にいた本多政利が6万石で入城します。しかし、領内を収める事ができず1682年(天和2年) 僅か3年後、苛政を責められ陸奥岩瀬藩に1万石に減知転封となり、その後改易になっています。
僅か50年の間に城主が目まぐるしく入れ替わったのですが、本多氏転封の後、越前家の松平直明が6万石で入城し、以後明治維新まで10代、189年間親藩として松平氏の居城となりました(やっと平穏な日々)。各城の遺材を集めて築城したせいか、老朽化が早く第2代藩主松平直常の1739年(元文4年)には大修築が行われました。最後の明石城主は松平直致で、1874年(明治7年) 廃城令により廃城となっています。

【明石城は裏鬼門?】

鬼門(きもん)とは、北東(「艮」うしとら:丑と寅の間)の方位のことです。陰陽道では、鬼が出入りする方角であるとして、万事に忌むべき方角とされています。他の方位神とは異なり、鬼門は常に艮の方角にあります。鬼門とは反対の、南西(坤、ひつじさる)の方角を裏鬼門(うらきもん)と言い、この方角も鬼門同様、忌み嫌われるのです。私が住む神戸北区から見ると正に南西(坤、ひつじさる)の方角を裏鬼門(うらきもん)に成りそうです(笑)。でも前回の佐用高校の勝利で(三回戦も勝利しました)私の鬼門疑惑も晴れました。
以前もお話いたしましたが「鬼」は虎皮のパンツに牛の角が基本ですよね、これも丑寅の方角から来ています。

【「13人の刺客」という映画のお話】

明石の殿様といえば、これまた以前に「13人の刺客」という映画を見ました。「十三人の刺客」のあらすじは、弘化元年、明石藩江戸家老間宮図書(内野聖陽さん)が、筆頭老中土井利位(平幹二朗さん)邸の門前で明石藩主松平斉韶(元SMAPの稲垣吾郎さん)の暴政に抗議の訴状と共に自決します。斉韶の異常性格と暴虐ぶりがこの事件によって幕閣の知るところとなりますが、将軍徳川家慶の弟である斉韶を幕閣は容易に処罰できません。しかも事情を知らない将軍が斉韶を老中に抜擢する意向を示したことから、老中土井利位は暴君斉韶の暗殺を企てるという筋立てです。

利位は予てから信任を置いていた御目付役旗本島田新左衛門(役所広司さん)に斉韶暗殺を命じるのですが、島田新左衛門が暗殺と言う姑息な手段で?老中にて裁きを下し将軍を説くべきだと正論を進言しますが、斉韶の前回の参勤交代の折、尾張領、木曽上松陣屋にて尾張藩士、牧野靭負(松本幸四郎さん)の息子・妥女(斉藤工さん)の嫁、千世(谷村美月さん)を手込めにし、千世を探しに来た妥女をメッタ刺しに惨殺し、千代も自害させられるも斉韶には何のお咎めもなしという理不尽極まりない仕打ちをされた牧野靭負と引き合わされ事情を聞き、身震いがするほどの憎悪感が画面から伝わって来ました。殿様の余りの凶悪さに、当時はまだアイドルグル-プSMAPの一員だった稲垣吾郎さんのアイドルとしての役目は終わったなと思ったほどでした。よろしければ近頃時代劇が余り無いので是非ご覧ください。



【最後の最後に!お城に関係ない歴史の話】

明石城が造られた1617年(元和3年)と言えば、鳥取藩の町人が日本海に浮かぶ竹島を発見した年にあたります。当然ですが竹島には一人の人間も住んでおりませんでした。その変わりに竹島を天国として生息していたのは、今や絶滅に追いやられてしまった、我が国固有の海獣「日本アザラシ」だったのです。竹島の領有権を示す、大きな一次資料の一つをここで明石とは関係ないのですが、付け加えておきます。

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2017/07/27

裏鬼門?高校野球とお見合いと私!「明石城跡」を三度訪ねて。

明石城に訪れたのは今回で三度目です。話せば古いお話なのですが、最初は1979年の夏の兵庫県高校野球夏の大会四回戦?でした(同級生の皆さん、記憶が違ってたら訂正して下さい)。我高校は珍しく?強くて勝ち進み、ベスト16をかけた戦いを明石城の明石球場(現在の明石トーカロ球場)で行いました。結果は武庫之荘高校(現在は武庫之荘総合高等学校!舌嚙みそうだ)と対戦し5対2で敗北してしまいました。あの時の落胆!出場している選手の気持ちは私などと比べ物にならないでしょう。雪深い但馬の高校が阪神間の高校に勝つのは大変な事です。事実我が母校は兵庫県で神戸高校と並んで二番目の歴史を持ちながら、一度も甲子園大会に出たことは有りません。

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(流石!と声を掛けたくなる明石城址左が坤櫓、右が巽櫓です。)

二度目は20数年前になんと初めてのお見合いをいたしまして、見事に振られてしまいました。きっと明石城には何か私にとって、良からぬ事が有るのではないかと「三度目の正直」を確認しに訪れて来ました。

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【明石城ってどんな城?】

P7140421.jpg(JR明石駅からすぐ!山陽電鉄明石駅もすぐです。)
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(天主閣の変わりといわれる坤櫓、確かにです。)
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(本丸内からはイメージが湧きませんが、石垣をつけるとほら、天守でしょ!)
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(石垣の内と外ではこんなにも違うのですからね~。)

明石城はJR明石駅北側に位置し、駅ホームより間近に望める事が出来ます。縄張りは連郭梯郭混合式の平山城に成っています。丘陵舌端に築かれ、本丸付近は柿本人麻呂を祀った人丸塚があったと言われており(それらしき小山が有ります)、この地は嘉吉の乱で激戦地となりました。

P7140456.jpg(本丸付近は柿本人麻呂を祀った人丸塚こんもり古墳の様でした。)


「嘉吉の乱(かきつのらん)」とは、室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が、室町幕府6代将軍足利義教を暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱の事です。

城郭構造は連郭梯郭混合式平山城で天守構造は有りません(天守台はあります)築城主は小笠原忠真、築城年1618年(元和4年)です。
主な改修者は松平直常で、主な城主としては松平氏(越前系)に成ります。廃城年1874年(明治7年)ですがその後、遺構櫓、石垣、堀、移築門が指定文化財、巽櫓・坤櫓は国の重要文化財に指定されました。城跡が国の史跡に指定されています。

P7140411.jpg(坤櫓なのですが、左の石垣カーブが本来天守の石垣です。)
P7140434.jpg(五層程度の天守が作られていても不思議は無かった出すね。)

明石の地は、山陽道が通り、北には丹波国、但馬国への道が分かれ、淡路島、四国のルートがあり、古来より交通の要衝でした。徳川幕府が西国の外様大名の抑えの城として、姫路城についで着目し築城しました。
現在中堀の内側は兵庫県立明石公園として整備され、日本さくら名所100選に指定されています(そういえば桜綺麗ですね)。櫓や石垣は1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災で被害を受けましたが全面修復されています。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(58番)に選定されました。

【三度目の正直は?】

P7140432.jpg(37年位前にあの同じスタンドで必死で応援してたんですよね、懐かし)
P7140406 (2)
(第三試合、応援した佐用高校は三田学園に勝利しました~!)

この日城址公園明石トーカロ球場で開催されていた夏の高校野球大会第三試合は私の父が高校教師時代、校長として最初に赴任した佐用高校でした。野球部の部長さんらしき先生に話しかけみると、「ええ!覚えています。お世話に成りました」と父の事もご存知でした。隣に居られたお父様も「高校一年生の時の校長先生でした」との事、嬉しくなって、帰りに電話してみました。父も殊の外喜んで居りました。そして二回戦佐用高校は見事に勝ちをおさめたのでした。明石方面はもう裏鬼門じゃないな~!卵焼き食べに行こう(笑)


明石焼き(卵焼き)がたこ焼き全くの別物と知っておられましたか?以前東京の友人を連れて明石焼きを食べた時、出されたダシをお茶と勘違いして飲んでしまって大笑いした経験が有ります。本場の味を是非ご賞味ください。

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リュミエールブラン ネージュ
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2017/07/25

「播磨風土記」多可町の巨人伝説は「だいだらぼっち」か「天の邪鬼」?

前回御紹介しました「東山古墳群」の横に「播磨風土記」に関する碑文が有ったので、撮影しておいたのですが、取材の帰りに、面白い物を見つけたので、駐車して写真に撮りました。どうやら多可町の昔話のようでしたが、帰って調べると関連性が見えてきました。
とても興味深いので、今日は「むかしむかしあるところに」で始まります。

四天王[1](私の大好きな東大寺の国宝四天王のお二人ですが。今日の主役は足元でつぶされている天邪鬼です。)

皆さんはあまのじゃくですか?私は少し「天邪鬼」な性格なんです(笑)。それではあまのじゃくな性格ってどんなものですか?
一つのグループでの動向や指示に対し、逆の反する態様をとる順応性に乏しい性格です(私言いたい事直ぐ口にするので)!


例えば、論議がまとったにもかかわらず、自分だけ反論を続ける、更に自分だけ別行動をとる、指示に素直に従わないなどの順応性の低い人、平均的な性格の人は そのような態様を故意と思うことが多いようですが、本人にとっては故意はなく あくまで天然さから表れた態様である場合が多のだそうです。そろそろ本題に入りましょうか?

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【多可郡の巨人伝説とあまんじゃこ】

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(スタジオジブリの「もののけ姫(でいだらぼっち)」をジブリ祭りのパンフレット~はいしゃくしました。)


播磨の北部、多可郡(たかぐん)は四方を山に囲まれています。そうした山国に伝わった伝説が「天の邪鬼(あまのじゃく)」伝説です。多可では、「あまんじゃく」、あるいは「あまんじゃこ」と呼んでいるこの妖怪ですが、役に立つのかどうかもわからないことをいろいろとしようとして、結局しくじってばかりという、かなりおっちょこちょいな面白昔話が伝わっています。

P7230005.jpg(播磨風土記より多可郡名前由来の碑!)
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(天が高いので多可郡と名づけられましたとさ。笑)


しかし、この話の中にはかなり古い要素も含まれています。8世紀初めにできた『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』では、多可郡の地名伝説としてつぎのような記述が見られます。

むかしむかし、巨人がいて、常に背をかがめて歩いていました。南の海から北の海へ、東から西へと巡り歩いているうちに、多可郡にたどりつきました。巨人は「ほかのところは低いので、ずっと背をかがめていなければならなかった。でも、ここは高いので背が伸ばせる。あぁ、高いなぁ」と言ったとな。それで、この地域を多可郡と言うように成ったのです。巨人の歩いた足跡は、たくさんの沼に変わりました。

此処でで紹介した伝説の冒頭部分は、この播磨国『風土記』の伝説とよく似ています。播磨の場合、『風土記』や中世の歴史書である『峰相記(みねあいき)』が残っているため、伝説の古いかたちがわかる場合が少なく有りません。この伝説も、古代に源をもち、時代を超えて語りつがれてきた話であることがわかる事例です。ただし、今日伝わっている伝説では、主人公が巨人から「あまんじゃ」くに代わっていることにも注意して考えてみたいですね。

ところで、『風土記』の巨人伝説は、全国的に見られる「ダイダラボッチ」という巨人伝説に相当します。巨人の足跡が沼や池になったという話は全国的に数多く有るようです。多可郡の伝説も、こうしたダイダラボッチ型の伝説が『風土記』段階の古い形であって、それが後に「天の邪鬼」伝説と結びついたことで今日の姿になっていったのではないかと思われます。

こうしたダイダラボッチ型の巨人伝説は、一般的に山への信仰と深い関係があるとされています。多可の場合も、『風土記』の巨人が「ここは高い」と言ったのは、この市域の山が高いということではないでしょか?この巨人自体が、山を擬人化したものであるとの考え方もできますね、真相はともかくとして、この地域の人々が持っていた、周囲の山への信仰が、この伝説を生み出す背景にあったことは間違いないのではないでしょうか。

【播磨国風土記って何?】

播磨国風土記(はりまのくにふどき)は、奈良時代初期に編纂された播磨国の『風土記』である。平安時代末期に書写された写本が国宝に指定されています。

『続日本紀』の和銅6年(713年)5月2日の条には令制国に下記の事項を記した報告書を提出せよと命じたことが記されています。
好(よ)き字を用いて郡・郷の名を記す。銀・銅・染料・草・木・鳥・獣・虫などの物産、土地の肥沃さ、山・川・原・野などの地名の由来、古老に伝承されている旧聞・異事等が記載されました。

私が注目しているのは最初に記載されている、「好(よ)き字を用いて郡・郷の名を記す」です。兵庫県に「生野」という銀山で古くから有名な町が有りますが、風土記編纂以前は「死に野」と呼ばれていたそうです。正に好き字を用いて生野に成ったわけですが、問題もあります。歴史を研究したいものにとって、地名の変化は場所を特定するためには重要な事なのです。それを勝手に・替えられてはたまりませんよね(笑)。

この、国情を記した報告書(解)が『風土記』と呼ばれるようになります。解では冒頭などに特定の書式がありますが、播磨国風土記には欠損があり、それは確認されていません。ただし、「前述の解と同様である」といった意味の一文があり、解として書かれたものであることがわかります。

播磨国風土記の成立年代に関する史料は残されていませんが、霊亀元年(715年)あるいは霊亀3年(717年)に地方の行政組織が国・郡・里から国・郡・郷・里となったこと(古代日本の地方官制#里長)、播磨国風土記では国・郡・里が用いられていることから霊亀元年前後に成立したものと見られています。あえてかつての表記が使われたとも考えられますが、他の名称の表記には揺らぎがある中で、里・郷のみ例外なくかつての表記で統一された可能性は低いとされます。編纂が行われた期間は和銅6年(713年)から霊亀元年(715年)頃までとなり、その当時の国司であった巨瀬邑治・大石王・石川君子、大目であった楽浪河内などが携わったのではないかと考えられています。

【天の邪鬼って誰?】

P7230225.jpg(天邪鬼ではなくてあまんじゃこです。ちょっとかわいい?)
P7230232.jpg(道中通り過ぎて気になった。腰掛石)
P7230236.jpg(確かに平たくて腰かけやすい)
P7230238.jpg(お昼御飯がまだだったので腰かけて食べてみました。横を走る車の視線が凄く冷たかった。(;^_^A)

仏教では人間の煩悩を表す象徴として、四天王や執金剛神に踏みつけられている悪鬼、また四天王の一である毘沙門天像の鎧の腹部にある鬼面とも称されますが、これは鬼面の鬼が中国の河伯(かはく)という水鬼に由来するものであり、同じく中国の水鬼である海若(かいじゃく)が「あまのじゃく」と訓読されるので、日本古来の天邪鬼と習合され、足下の鬼類をも指して言うようになったと考えられます。

日本古来の天邪鬼は、古事記・日本書紀にある天稚彦(アメノワカヒコ)や天探女(アメノサグメ)に由来します。天稚彦は葦原中国を平定するために天照大神によって遣わされたが、務めを忘れて大国主神の娘を妻として8年も経って戻りませんでした。そこで次に雉名鳴女を使者として天稚彦の下へ遣わしますが、天稚彦は仕えていた天探女から告げられて雉名鳴女を矢で射殺してしまいます。しかし、その矢は天から射返され、結局のところ天稚彦自身も死んでしまいます。

【ダイダラボッチって何?】

ダイダラボッチは、日本の各地で伝承される巨人の事です(私はスタジオジブリの「もののけ姫(でいだらぼっち)」の印象が強いです)。数多くの類似の名称が存在すようです。日本各地の伝説には、「だいだらぼっち」などとよばれる巨人が出てくる話が数多くあります。こうしたダイダラボッチの伝説で最もスケールが雄大なのは、滋賀県で伝えられていた琵琶湖と富士山の話ですね。富士山はダイダラボッチが近江国(おうみのくに=現在の滋賀県)の土を掘って運んでこしらえた山であり、琵琶湖はその掘られた跡というスケールの大きな物語です。手を突いたあとが浜名湖になった、榛名山にすわって利根川で足を洗った、とか・・・途方もない大きさの巨人です。
伝説によって、その名前は、でいだらぼっち、だいらんぼう、だいだらぼう、でいらんぼう、だいらぼう、だだぼう、だいたぼう、だんだらぼっち、でいたらぼっち、いちもくれん、だいだらほうし・・・たくさんあります。
古代の「たたら製鉄」に携わった一族を「象徴的に巨人にたとえたもの」とする民俗学上の指摘もあります。山や湖沼を作ったという伝承が多く、元々は国づくりの神に対する巨人信仰がダイダラボッチ伝承を生んだと考えられています(鬼や大男等の妖怪伝承が巨人伝承になったという説も勿論あります)。


【ゆるキャラも居た~笑】

i_character[1]

ゆるキャラもいました(驚)
名前:たか坊
生年月日:昔々年齢1504歳 <行こーよ(1504)多可町へ>。
性別:男の子
両親:県立多可高校生
現住所:多可町中区岸上281-1
出身地:明石市
名前の由来:多可町の「多可」を親しみのあるひらがなで「たか」とし、大男だけど見た目がかわいい「坊や」、多可のあまんじゃこの特徴である「食いしん坊」の「坊」を組み合わせて「たか坊」と名付けられた。
チャームポイント:2本の歯日焼けしたほおや赤い鼻
性格:のんびり・おっとり、あまのじゃく
趣味:多くの人に出会い遊ぶこと
好きな食べ物:果実(なんでも)
仕事:町の行事や観光キャンペーン、イベントに参加して、広く多可町のPRに努めること。

由来、多可町には昔から伝わる民話があります。 人が白と言えば黒、黒と言えば白と、反対のことをいう、あまのじゃくな『あまんじゃこ』がおりました。
『あまんじゃこ』は、「播磨国風土記」にでてくる大男で、空が今よりも低かった頃、ひとまたぎで3里歩き、天にも届く大男は、腰をかがめなければ歩けませんでした。 明石から北へ行く途中、多可町のあたりに来たとき急に空が高くなり背伸びをすることができました。喜んだ『あまんじゃこ』は「ここは空が高い、たかじゃ、たかじゃ」と叫んだ。それが「多可郡」の語源となったと言われています。多可町内には、石の天秤棒で山を持ち上げようとして折れて残ってしまった長石や巨大な架け橋など、あまんじゃこが暮らした様々な言い伝えが残っています。

その主人公である多可のあまんじゃこを基にして、地元の兵庫県立多可高等学校の生徒たちがデザインしたゆるキャラが生まれました。

国造りの神といえば大国主や少彦名ですよね。天邪鬼が、古事記・日本書紀にある天稚彦ならば無関係とはいえませんね。


此方は私プランターに使用してます。天空の城ラピュタの世界が再現できますよ。「オームの脱」け殻って商品も持ってるのですが、商品リストに有りませんでした(見つけました~!)。スプラウトやもやしを育てると、此方も腐海の森が再現できます(((^^;)

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リュミエールブラン ネージュ
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2017/07/23

七世紀の土木・建築技術に驚愕!「東山古墳群」

今日は、兵庫県多可町の古墳群をご紹介します。時代が進み七世紀に成ると地方豪族の建築技術も飛躍的に進み、高い技術で作られた円墳が出現します。

兵庫県多可町の妙見山(標高693メートル)の山麓、平野部を見晴らせる位置に、こんもりとした円墳がいくつも並びます。美しい公園として整備された一帯は、直ぐ東隣(本当にお隣さんです)の多可高校の生徒らの下校途中のおしゃべりの場に成ったり、登山客が一息ついたりの、のんびりとした光景が広がっています。

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(15号墳の前から古墳群、奥の小高い緑が1号墳、右に多可高校校舎、後ろの山が妙見山です。)

その見本ともいえる古墳群が多可町の「兵庫県指定文化財)東山古墳群」です。

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【東山古墳群概要】



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(パンフレットで全体像をご覧いただきます。全てを写真では無理ですね。)
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(配置図と横穴式石室ですね。)
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(15号墳、円墳ですが綺麗な段築構造が見られます。)
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(右隣は直ぐ多可高校の校門です。ブラスバンドの練習の音がしてます。野球まだ勝ってるのか?)

7世紀、古墳時代の終わり頃に築かれた円墳が16基、これほどまとまって存在する古墳群は珍しいようです。この時代において直径15~30メートルは県内で最も大きいといいます。辺りには200基ほどの古墳が見つかっており、この東山古墳群の存在は古くから知られていましたが、1996~1999年の発掘調査で詳細が判明しました。

兵庫県内でも最大の横穴式石室を持つ古墳や巨石を用いた石室を持つ古墳が多く、当時のこの地の豪族の力がうかがえます。現在、残っている古墳は16基で、北群の4基は直径15m前後の円墳、南群の12基は直径15~30mの円墳でバラエティーに富んだ古墳群です。

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(15号墳石室、覗けますが金網で塞がれています。小さなライトが自動点滅します。)
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(破壊された9号古墳、両袖式の横穴式石室石室下部のみ復元、奥に見えるのは12号墳と14号墳から移動してきた天井石。)

古墳の造りは当時最新の土木技術が用いられています。横穴式石室は1500年間近くも崩れない造りで、現在の技術でも難しいほどだそうです。内部は長さ10m、高さ2~3mと広々としています。夏は涼しく冬は暖かい事もあって、江戸時代には古墳としての存在を忘れられていたのか?何者かが居住した形跡も有りました。江戸時代の一朱銀や一文銭が見つかっています。

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(直径約30メートル、高さ約7メートル。古墳群内最大の円墳。)
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(周濠が確認出来ました。)
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(石室全長約12.5m、玄室長さ約6.25m、幅2.8m、高さ約3.25m床全面に川原石が引き詰められています。)
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(12号石室の有名な陶棺、二人で一つらしいです。石棺・木棺も納られていました。一代限りのものではなく現在のように家族単位?)

12号墳の石室には、特殊な形をした長さ140cm×幅45cmで、12本の脚と切妻風の屋根を模した家形陶棺がありとても珍しいです。その他にも土器・馬具・装身具・などが出土しています。

中央政権との関係性もうかがえ、現在の多可町・西脇市の一帯を治めていた豪族が所有していた可能性が強いようです。
播磨風土記にも名前を残す多可のこの地が、加古川流域最古の寺院「多可寺」や古代の役所とみられる「思い出遺跡」などに続く歴史の流れの原点ではないかと感じました。

【多哥寺とは?】

量興寺(多哥寺遺跡) 650年頃に推古天皇の勅願寺として建立されたと伝えられる多哥寺の後身です。平安末期に藤原顕頼が再興し、高倉天皇の母君の寺として寺格が高まり、量興寺となりました。
これまでの調査で、南大門、塔、金堂、回廊、鐘楼、参道が確認されており、多哥寺が播磨地域で最古級の寺で、多可郡の中心となり郡を代表する寺院であったことがはっきりしました。東西64㍍、南北約80㍍の大きな規模を持ち、四天王寺と同様の伽藍配置の寺院だったことが判明しています。
12世紀には九篠家の荘園となって、僧房や食堂はとりこわされて水田になりました。現在、多哥寺跡に立つ量興寺には、巨大な塔心礎が残り、出土した瓦から、播磨地方でも最古の寺院のひとつに数えられています。また、梵鐘鋳造の遺構は奈良時代のもので、町の指定文化財に指定されています。

【最後に残念!】

見学してきたのは、南群の12基でしたが北の4基は妙見山参道沿いの林の中に埋もれているのかもしれません。ちなみに知らなかったのですが、那珂ふれあい館の開館時間に申し出ればいくつかの古墳石室内部見学できます。是非休館日等確認してお出かけください。



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リュミエールブラン ネージュ

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2017/07/21

謎の仙人開基の寺院!『国宝・朝光寺』と『つくばねの滝』

西国三十三観音霊場二十五番札所の播州「清水寺」へのお参りの後、朝早くわざわざ加東市まで来たのだから、もう一寺位廻れないものか?とネット検索すると、えっ?「国宝」が有るじゃないですか、行くしかないでしょ~(^^)b

というわけで、兵庫県加東市の『朝光寺』に伺いました。

CIMG7879.jpg(「国宝」本堂はシンプルな室町様式の中にも、ド~ンとした力強さを感じます。)

本日御紹介致しますのは、「国宝」「重要文化財」てんこ盛りの『鹿野山朝光寺』と『つくばねの滝』です。

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朝光寺(ちょうこうじ)は兵庫県加東市にある寺院です。山号を鹿野山(ろくやさん)と称します。宗派は高野山真言宗、本尊は2躯の十一面千手千眼観世音菩薩立像ですね。

CIMG7877.jpg(説明版です。私いつも思うのですが、説明版の撮影が下手くそです~!笑)
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(「重文」の鐘楼ですが真横撮影は無いんじゃないか?自分へクレーム!)

【朝光寺の概要です】



CIMG7878.jpg(「国宝」、寄棟造、本瓦葺き。室町時代密教仏堂の代表作、和様に禅宗様の要素を加味した「折衷様」建築の代表例です。)
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(鐘楼「重要文化財」、袴腰寄棟造、やはり角度考えないとね~!)

所在地:兵庫県加東市畑609
山号:鹿野山(ろくやさん)
宗派:高野山真言宗
本尊:十一面千手千眼観音2躯
創建年伝:白雉2年(651年)
開基伝:法道仙人
札所等:宝の道福神22番
文化財:本堂(国宝)・鐘楼(重要文化財)・多宝塔(県文化財)・鐘楼(重要文化財)・多宝塔・山門等。

法道仙人が651年に開基したという伝承があります。上記のように本堂は国宝に、鐘楼は国の重要文化財に指定されています。

【法道仙人って誰?】

法道仙人(ほうどうせんにん)開基伝承をもつ寺院は兵庫県東部地域に集中しています。
法道仙人はインド出身だということになっています。鉄の宝鉢を持っていたことから、空鉢仙人(からはちせんにん)とも呼ばれ、不思議な術を使う超能力の持ち主だと伝わっています。
多くの寺の縁起などによると、推古天皇(すいこてんのう)の頃に日本へ渡ってきたとされていますので、6~7世紀の人物ということになりますが、本当の事跡や没年、墓所などすべて不明で、伝わっているのはその名前と仙術にまつわる伝説ばかりです。つまり実在の人物か解りません。第一、「法道上人」や「僧法道」ではなく、なぜ「仙人」なのでしょうか?

播磨国の山には、法道仙人を開山もしくは開基と伝える寺が多いのです。此までに御紹介した寺院の多くに仙人開基の寺が有りました。西国三十三観音霊場でも二十五番札所の「清水寺」・番外の花山院菩提寺・二十六番札所の「一乗寺」(いまだご紹介しておりません)などです。仙人が開いたと伝える寺院は、兵庫県下に110か所以上あるといわれています。また、彼が日本に渡るときに、共に渡ってきた「牛頭天王(ごずてんのう)」は、姫路市の広峰神社(ひろみねじんじゃ)に祭られ、その後、八坂神社(やさかじんじゃ)中の座に祭られたとされていますから、播磨の国がとりわけ仙人と関わりが深いことは間違い有りません。
伽藍(がらん)を構えた寺院だけでなく、あちこちにある不可思議な自然物が、法道仙人と結びつけて理解され伝えられていることは、仙人に対する素朴な信仰がこの地の人々にとっても身近であったことを示しています。「インドから紫雲に乗って飛来」云々の真偽は別としても、こうした伝承の元になり、地域の信仰の中心となった人物が実在した可能性は否定できません。

【朝光寺の歴史】

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(多宝塔「兵庫県指定文化財」こちらも角度考えたのですが、党の上が切れてしまっていました。(;^_^A)

伝承によれば、651年、法道仙人が権現山に開基したとされています。法道は天竺(インド)から紫の雲に乗って日本へやって来たと伝えられる、半ば伝説上の人物です。法道開基伝承をもつ寺院は兵庫県東部地域に多数あり、当寺もその1つです。つまり開基人物がレジェンドな訳ですから、創建の詳しい事情や初期の歴史についても、史料が乏しくあまり明確では無いのも頷けます。

1189年、つくばねの滝近くの現在地に移転、再建されました。1413年にも本堂再建、京都「三十三間堂」の十一面千手千眼観世音菩薩立像のうちの1躯を本尊として安置しています。1504~20年に赤松義村が再興、現在に至ります。

【赤松 義村ってどんな人】

赤松 義村(あかまつ よしむら)は戦国時代前期(室町時代後期)の播磨の守護大名・戦国大名です。赤松家の第10代当主(当主在職は明応4年(1496年)4月~永正17年(1520年))です。

播磨・備前・美作の3国を支配した戦国大名で、赤松家中興の第9代当主・赤松政則の婿養子に当たります。義村の家系は第5代当主・範資から始まる七条家の家系で、義村は範資の6代孫に当たる。父は七条政資(まさすけ)で、以後の赤松宗家は江戸時代直前に滅亡するまで義村の家系が家督を相続しました。

義村は政則の代から行われていた赤松家の戦国大名化をさらに推し進めるべく大名権力の強化を図りますが、守護代の浦上村宗がそれに反発して対立、播磨などの赤松領で内紛となります。義村は村宗に敗れ、家督を嫡子の才松丸(のちの晴政)に譲って隠居しましたが、復権を図って再度村宗と対立したため、村宗により暗殺されて赤松家は没落してしまいました。

【つくばねの滝って?】

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(奥に見えるのがつくばねの瀧、水量もほどほどありますが木々が邪魔ですね。)
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(頑張って近づいてみました。中々味が有ります。)
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(こちらが落ちていたつくばねの実ですと言いたいのですが、見つけられずにWikipedia~写真をお借りしました。)

朝光寺の脇を流れる渓谷に在る滝で、衝く羽根の木が自生している事から、つくばねの滝と呼ばれています。それでは衝く羽根の木とはどんな木なのか説明しますと、お正月の遊び、羽子板でつく羽根に(はねつきの「羽根」) 似た果実ができるので「ツクバネ(衝羽根)」です。 秋の実は 羽子板の羽根に由来し 別名 ハゴノキ とも言います. 白檀科の半寄生の落葉低木です。

(私が取材用に持ち歩くオリンパスのカメラです。)

最後に、私と同じように御朱印集めをしている方々は道を挟んだ塔頭「吉祥院」でいただけます。

「早起きは三文の徳」とは良くできた言葉ですね~早起きしたおかげでこんな素敵な国宝のプレゼントを頂きました。
ちなみに英語では「The early bird catches the worm. 」「早起きの鳥は虫を捕まえる」です。更に早起きは三文の「得」でもいいのですよ。
明日も早起きして出かけるか~(笑)

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リュミエールブラン ネージュ

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2017/07/19

美しすぎるセレブ猫として話題の『サーバルキャット』は本当に美しすぎる猫なのか?。 

近頃凄く猫ブーム来てますよね(笑)、犬派の私としては形見が狭いのですが、それにもかかわらず、猫のお話です。

Bloggerの友達も猫派が凄く多い(ToT)。猫より犬の方が好きだけど、動物は嫌いというわけでも無いので、世界一なの美猫なら観てみたいな~(^^)b。
という訳で、「世界一美しい猫」の『ラパーマ』「美しすぎるセレブ猫」の『サーバルキャット』を同一視(つまり勘違い)していた私は、世界一美しい猫のラパーマわを見ることが出来ると思って、先日神戸動物王国へ出かけたのでした(笑)
DSC_0231.jpg(凛々しいですね~ガラス越しなので良い写真を選んではおりますが、そこはお許しください。)


しかしながら、世界一美しい猫の写真集では巻き毛が美しいと書いて有ったうえに、可愛らしい猫の筈なのに、何故か檻に入れられている?これはなにか違うぞと気が付いたのは「サーバルキャット」のプレートを見たときでした(笑)。

つまり、今日御紹介致しますのは『サーバルキャット』です。

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【日本猫の歴史】

DSC_0214.jpg(耳が大きすぎてバランスがどうですか?狸っぽくないですか?)
DSC_0430.jpg(こちらが、本当の普通の猫です。)
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(餌が来るのを待っているようです。)

日本列島では縄文時代には家畜としての縄文犬が存在し、弥生時代には稲作農耕の開始に伴い、家畜化されたブタ・ニワトリが導入されました。弥生時代には長崎県壱岐市に所在するカラカミ遺跡(弥生時代)からネコの遺骨の発出土事例があり、紀元前から日本にネコが存在していた可能性を示唆しています。

奈良時代ごろに、経典などの大事な書物をネズミから守る益獣として、中国から輸入された事が、日本猫の始まりとも言われています。
考古資料においては、古代の日本列島においてネコが日本に定着していたことを示す資料は少ないのです。
文献史料においても『古事記』や『日本書紀』などにもネコの記述は見られず、『日本霊異記』に、705年(慶雲2年)に豊前国(福岡県東部)の膳臣広国(かしわでのおみ ひろくに)が、死後、ネコに転生し、息子に飼われたとあるのが最初です。

本物の猫の描写が記録として現われるのは、889年(昌泰2年)の宇多天皇による黒猫の飼育日記になります。そこには「唐土渡来の黒猫」との断り書きがあり、それに加えて、それからおおよそ100年後、花山天皇が三條の皇太后に猫を贈った時に、その御製においてわざわざ「唐猫」と詠んでいることから見ても、舶来でない在来の猫が当時の日本に既に存在していたことが窺えます。

平安時代になると、さまざまな和歌や物語に登場し、人々に親しまれていたことが窺われます。その後も、中国と交易するたびにネコが日本を訪れたため、いくらかの変遷があったと思われますが、戦国時代にシャム(タイ)などの東南アジアとも交易したことから、これらのネコとも関係ができたと思われます。

現在の日本猫の形は江戸時代に固定されたもので、日光東照宮の「眠り猫」(伝・左甚五郎作)は、日本猫の姿をよくあらわしていますね。

日本に伝来してから長きにわたってネコは貴重な愛玩動物あり、鼠害防止の益獣としての使用は限定され、ネコはつないで飼育する動物であったようです。絵巻物等には魔除けの猿同様に紐・綱等でつながれて逃げないように飼育されているネコの様子が多数描かれています。

そのため、鼠害対策として慶長7年(1602年)には、洛中の猫の綱を解き放つことを命じる高札が出されたことが、西洞院時慶の日記である『時慶記』に記録されています。禁制はかなりの効果があり、鼠害が激減したと思われ、御伽草紙の「猫のさうし」は、これに困った鼠が和尚に相談する内容となっています(笑)。

一方、日本猫は元々愛玩用ではなく鼠狩りの益獣として輸入されたため、家で飼われるより外で暮らすことが多かったとの見解もあり、室町時代の幸若舞(信長の敦盛で有名)には京都で猫が自由に外を徘徊している模様が記述されています。

しかしながらネコが広く繁殖するまでには至っていなかったとみえ、江戸時代にはネズミを駆除するための呪具として猫絵を描いて養蚕農家に売り歩く者もいたようです。養蚕地方ではネズミ捕りに長けたネコは、馬の5倍(凄い値段)の値が付くほどであったと伝えられ(『甲子夜話』)、寛政年間に濃尾(岐阜県・愛知県・三重県に股がる地域)と勢州(伊勢地方)で鼠害が猛威を奮った際にも、ネコが大変に高値になったとの記録が残っています(水野為長『よしの冊子』)。

【サーバルキャットってどんな猫?】

DSC_0240.jpg(やはり可愛いですね~!笑)
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(猫より豹のイメージです。)


サーバル(Leptailurus serval)は、食肉目ネコ科に分類される食肉類。本種のみでLeptailurus属を構成します。
皆さん、キャットフードとか食べている猫を見られているので、猫が雑食と思われて居られるかもしれませんが、れっきとした肉食獣です。トラやライオンがネコ科だと言えばわかりますよね~!むしろ犬は雑食なんですよ。

それでは「サーバルキャット」の分類です。界:動物界 Animalia ・門:脊索動物門 Chordata ・亜門:脊椎動物亜門 Vertebrata ・綱:哺乳綱 Mammalia・目:食肉目 Carnivora ・科:ネコ科 Felidae ・亜科:ネコ亜科 Felinae ・族:(ネコ族 Felini) ・属:Leptailurus Severtzov, 1858・種:サーバル L. serval に成ります(笑)。だからどうなんだって感じですよね。

中型の肉食獣で、毛皮を取るために狩猟され、個体数は時代を追うごとに減ってきています。主にサハラ砂漠以南のアフリカ大陸に生息しています。

体長60 - 100センチメートル・頭胴長67-100 cm・尾長24 - 45センチメートル・肩高54-62 cm・体重8.6 - 18キログラム。体に比べて尾がやや短いようです。ほっそりした美しい体型をもち、全身は短く柔らかい体毛で密に被われています。体色は黄色や黄褐色で、腹面や四肢の内側は白。身体には小さな黒い斑点が入りますが、頸部や肩・肘では斑点が筋状になっています。毛色は黄褐色で小さな黒い斑点があり、首の後ろから肩に6本ほどの黒い線があります。尾には黒い斑点は先にいくにつれて黒いリング状になっています。

耳介は大型で、先端は丸みを帯びています。顔の大きさに比べると、耳は他のネコ科動物に比べても際立って大きく、敏感です。その聴力は土の中にいるネズミの動きも感知できると思われています(ほおっ!)。耳のほか、後ろ足も大きく発達しており、高さ2メートル、距離4メートル前後のジャンプも可能にしています。

開けたサバンナや草原・森林(熱帯雨林を除く)などに生息し、沼沢地や河川の周囲を好みます。丈の高い草原や川辺の葦原、森林の沼地などに生息し、単独で生活し、木にも登るが、主として地上に生息します。夜行性ですが、昼間に活動することもあるようです。特に昼間の気温があまり上昇しないときなどは、昼間でも積極的に活動します。普段は背の高い草のしげみや雑林などに身を隠すようにして生活しています。

齧歯類などを含む小型哺乳類、キンランチョウ属ハタオリドリ類などの鳥類を食べるが、卵、爬虫類、カエル、魚類、昆虫、カニなどを食べた例もあります。主に小型哺乳類を食べ、ノウサギ属や、少数ではあるが大型の獲物として小型レイヨウの幼獣、コウノトリ類・サギ類・フラミンゴ類などの大型の鳥類を捕食した例もあります。ネズミ類やウサギ類、ホロホロチョウなどの鳥類も狩の対象です。
狩りの際には跳躍して、空中で鳥類に襲いかかることもあります。ネズミなどにもジャンプして上から襲いかかることも多いようです。時には1メートルほどの毒蛇までも狩るほどの高い運動能力を備えています。足が速く、木登りや泳ぎも上手い。狩りのスタイルは、茂みなどに身を隠しながら忍び寄り、発達した後肢を利用したジャンプによる奇襲を得意としています。性質は荒く、時にイヌを殺すこともあるが、若い個体はヒトに慣れやすいそうです(ここいいですね~!)。

雄は縄張りを持つが、縄張りの境はあまり厳格ではありません。雌は雄の縄張りの中を自由に行き来し、気に入った雄と交尾します。妊娠期間は67 - 77日。岩の割れ目や草むらの中に作った巣穴・ツチブタやヤマアラシ類の古巣などで、一度の出産で2 - 3匹の幼獣を産みます。子供の体重は230-260グラム程度。母親のみが育児を行い、授乳期間は6か月です。子供は6か月ほど母乳を飲むが、2か月弱で母親がしとめた獲物も口にするようになります。母親は狩りに出るとき、幼体を置き去りにして狩りに向かうが、このときヤマアラシやツチブタなどが破棄した場所などを育児用の巣として使い、子供を隠しています。子供はその間、眠ったり、お互いにじゃれ合って遊んだりしながら、母親の帰りを待ち生後10か月ほどになると、自ら狩りをするようになり、雄は12か月ほどで巣立っていきます。雌もそのしばらく後に独り立ちします。生後1年半から2年で独立、生後2年で性成熟に至ります。

多くの生息地域では食物連鎖の頂点近くに位置している(頂点捕食者に近い)ので、外敵は少ないようです。もっとも、他の肉食獣と同様に、幼獣は他の肉食獣や猛禽の獲物として狙われやすく、生息地域の重なるハイエナは特に警戒すべき捕食者となっています。このため、母親は危険を察知すると巣を移動することがあります。

【人間との関係】

名前は元々はポルトガル語でスペインオオヤマネコを指していた、lobo-cerval(シカのようなオオカミ)が転じたとする説と、名前はポルトガル語で「猟犬」を意味する語に由来します。ラテン語の"cervus"(牡鹿)に由来するという説も有ります。

家畜や家禽を保護するために捕殺する、美しい毛皮を取るために狩る(かつては当然の行いとして、現代では密猟として)などといった行為は、何世紀にもわたって続けられており、サーバルの生態に多大なる影響をもたらしてきました。人間の居住区近くに姿を現すこともあり、夜間の行動中に自動車と接触して轢死する個体も少なくないようです。

訓練次第ではとても良く懐き、人間の気持ちを読み取ることに長けています。日本では高級ペットとして、平均200万円前後の価格(2010年代時点)で販売されています(買えるかっての!)。日本ではレプタイルルス・セルヴァルとして特定動物に指定されています。日本の場合、飼育にあたっては都道府県知事による危険動物の飼育許可と厳重な飼育設備が必要です。

【『サーバルキャット』は本当に美しすぎる猫なの?】

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(耳の後ろの白点見えますよね。)
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(確かにカッコイイ猫ですね~猫派に成りそうです。)

写真でもご紹介いたしましたが。耳の後ろの白い点(白毛)ですが、これはヤマネコ独特の物なのです。
勿論日本の天然記念物「ツシマヤマネコ」にも同じような白い毛が有ります。
結論を言いますと『サーバルキャット』は、「美しすぎるセレブ猫」ではなく、『本当に美しすぎるセレブヤマネコでした(決定!)』。



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リュミエールブラン ネージュ


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2017/07/17

三ツ矢マークはやはり『毛利元就?』「サイダー発祥の地」

子供の頃はサイダー等と言う上等なものは飲んでいませんでした。
ニッキ水という串団子瓶?に入った真っ赤(緑・黄も有りました)な原色のジュースを飲んでいました。
コーラが売れ始めた頃は、麻薬のコカインが入っていて、中毒に成って歯が溶けると本気で思ってました(笑)。


ラムネのビー玉?が詰まって上手に飲めなかった記憶が甦ります。

さて今日はサイダーの歴史を紐解いてみましょう。

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(2001年に復元された「三ツ矢塔」)

能勢電鉄の線路と並行に伸びる国道173号線、平野駅(兵庫県川西市)の改札を出で陸橋の先に「三ツ矢サイダー発祥の地」「平野湯跡」と書いた看板があります。国道沿いに北へ進むと、ホームセンターコーナンの向こう側に見覚えのある「三ツ矢マーク」の建物?が見えます。2001年に復元された「三ツ矢塔」だそうです。

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【三ツ矢サイダーの歴史】




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(誰もが知ってる三ツ矢のマークです)
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(此処が三ツ矢サイダー発祥の地です。)
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(階段とかも在るのですが、私有地なので頑丈なケージで囲われています。)
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(つまり中には入れません。)

この地には、平安時代の中頃、源満仲がわき出る鉱泉を見つけたと伝わっています。鉱泉は薬用や浴用として利用され、約130年の歴史をもつ、三ツ矢サイダーなのです。

明治14年(1881年)、ウィリアム・ガウランドというイギリス化学者が、平野鉱泉を飲み物として「理想的な鉱泉」として飲料用に適しているとお墨付きを与えたことで、炭酸水の製造をはじめ、明治17(1884)年に「平野水」として発売されたのがはじまりです。3年後に飲料水工場ができ、天然鉱泉を瓶詰めした「平野水」が誕生、これが「三ツ矢サイダー」の始まりとなったのです。

明治30(1897)年には、宮内省から東宮殿下(後の大正天皇)の御料品に指定され、明治40(1907)年には、サイダーフレーバーエッセンスを使用した「三ツ矢」印の「平野シャンペンサイダー」を発売。その後1952年に、商品名は「全糖 三ツ矢シャンペンサイダー」となり、1968年には、シャンペンという名前をけずり、正式名称が「三ツ矢サイダー」になります。
いまでこそ、無色透明の「三ツ矢サイダー」ですが、最初のころは、黄色っぽい色でした。

また、「三ツ矢印の平野シャンペンサイダー」の頃から、三ツ矢サイダーは紙のラベル(当時のラベルは文字が右から左)を貼ったビンに入れて販売されていましたが、1971年には、はじめて缶入りの「三ツ矢サイダー シルバー」缶250mlを発売、1972年からはビンに直接ラベルをプリントするようになり、1985年には1.5リットル入りのペットボトルを発売しました。

容量も、最初は家族が1本のビンからつぎわけて飲むように現在よりも大きなビンで発売されていたのが、暮らしが豊かになってきた1970年には、1人で1 本を飲むように200ml入りの「三ツ矢サイダーシルバー」を発売、ラベルや形状をみていくだけでも、「三ツ矢サイダー」の長い歴史を感じることができます。

【日本に炭酸飲料が入ってきたのは何時?】

日本にはじめて炭酸飲料が入ってきたのは江戸時代の末の1853年。ペリーの黒船に飲料として、炭酸レモネードが積まれてきたのが日本の炭酸飲料第一号といわれています。1860年には長崎にイギリスの船がラムネを持ち込み、長崎に住むイタリア人が商品として製造、外国人用に販売したという記録が残されています。ラムネという名称も、もともとはレモネードが転じたもので、「三ツ矢サイダー」のルーツでもある「三ツ矢平野水」が発売されたのは、ペリー来航から約30年ほど後の1884年のことでした。

【ラムネとサイダーとソーダの違いって何?】

ラムネは、レモン水を意味する英語「レモネード(lemonade)」がなまったもので、炭酸水にレモンやライムの香料、砂糖などを加えた清涼飲料水のこです。
ビー玉入りの瓶もラムネの重要な特徴です。二つの凹みが瓶についていて、其処でビー玉を止めると上手に飲めるのは御存じですよね(笑)。

サイダーは、リンゴ酒を意味するフランス語「シードル(cidre)」からであるが、日本では炭酸水にクエン酸や香料、砂糖などを加えた清涼飲料水のことです(つまりリンゴ風味)。
容器が王冠栓の瓶なのもラムネとの区別の一つですね。

ソーダ(ソーダ水)は、炭酸ガスを含む水のことで、炭酸水全般を意味し、ラムネもサイダーもソーダ水の一種になります。

ラムネはレモン風味、サイダーはリンゴ風味で、元々は味に違いがありましたが、サイダーにレモン系の香料が使われるようになったため、両者の味に差がなくなっています。
現在では、グレープフルーツ・らいでんメロン・ぶどう・もも・ヨーグル・はっさく・レモンC・トキりんご・グレープ・オレンジ・佐藤錦(さくらんぼ)・梅 ・いちご・桃・マンゴー・梨・パイナップル・ピンクグレープフルーツ・柚子・青りんご等切りがないのでこの辺で、勿論販売が中止に成ったものや、地位期限等で求められない物も有りますよ。

容器の件!以前は、ラムネはサイダーとソーダガラス瓶をビー玉で栓をするタイプのもので、サイダーは胴長丸形瓶に王冠で栓をするビールと同じタイプのものだっため、瓶の形や栓によって区別されていました。

しかし、現在では容器が多様化し、缶やペットボトルなども使われるようになったため、ビー玉の入ったものを「ラムネ」、ビー玉の入っていないものを「サイダー」と呼んで区別していますね。

p1236548.jpg(懐かしいですね~瓶に三ツ矢のマーク!お洒落です。)


【戦艦大和にラムネの自動販売機?】

旧日本軍の食事量は、1日に米麦840g、野菜600g、肉150gといった「食事」とは別に、嗜好品の配布が行われていました。
有名なところでは、タバコ5本の支給がありましたが、それ以外に何といっても「甘いもの」は大人気でした。
中でも、ラムネは大人気の品でしたので、軍艦に限らず、南方に出陣する部隊は必ずと言っていいほど「ラムネ製造機」を持参しています。

ラムネの需要が高かったのは、潮風にあたったり、しぶきが口に入るような環境だと、兵士たちがのどの渇きを訴える場合が多く、特に甘い飲み物を求める傾向が高かったためで、特に当時の日本人は香辛料とかにも不慣れでしたから、ともかくシンプルな甘みのものが評判も良かったようです。
パンに塗るものでも、「バター」「マーガリン」「レモンクリーム」とかより「ネギ味噌」のほうが人気だったりする、当時の日本人の嗜好が有ったようです。

陸軍用の装備でも、製造能力の違う何種類かの装備がありました。
師団レベルでの補給部隊だと、これに製氷装置、冷蔵庫などと運用して、冷えたラムネを供給したようですから、当然大和でもそうようにラムネが飲めたようです。

これら装備の存在は、後に反撃に移ったアメリカ軍が製氷装備を接収、アイスクリーム製作したことでも有名になりました。

うんちく語りますと、「カルピス」も、海軍が増加食、熱量食として採用しています。こちらは発病兵や負傷兵の栄養源として利用されたようです。

【三ツ矢マークの由来は毛利元就?】

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(JR川西池田駅の源満仲ブロンズ像、凛々しいです。)
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(最後にもう一度「三ツ矢塔」をどうぞ!コーナンの裏手すぐです。)

「三ツ矢」という名前の由来は、平安時代にまでさかのぼることができます。

清和源氏の祖、源満仲が城を築くため、現在の大阪にある住吉大社に祈念したところ、『矢の落ちたところを居城にせよ』と白羽の鏑矢(かぶらや)を与えられました。
お告げどおり、満仲が鏑矢を天に向けて放つと、矢は火を吹いて飛び、見えなくなりました。射った鏑矢は、現在の兵庫県にある多田沼に棲みついて住民を苦しめていた「九頭の龍(くずのりゅう)」に見事命中します。

そこで源満仲は、多田沼に居城を定めて多田源氏と名のりました。満仲の放った矢を見つけた孫八郎には領地ともに三ツ矢の姓と三本の矢羽根の紋を与えました。
そんな満仲がある日、鷹狩りに出かけたとき、居城に近い塩川の谷間の湧き水で一羽の鷹が足の傷を治して飛び立つのを目の当たりにし、湧き水が霊泉(れいせん)であることを知ります。
それが、多田村平野(現在の兵庫県川西市)の天然鉱泉です。以来、明治初年頃まで、霊泉を沸かした平野温泉郷は永く繁栄してきました。明治時代に平野温泉の水は「平野水」という鉱泉水として認知され、その後、伝承にちなんだ名称をとりいれた「三ツ矢平野水」「三ツ矢タンサン」として市販されるようになりました。これが、後の三ツ矢という商標になりました。

最後に成りましたが、三ツ矢サイダー?毛利元就と全く関係なかったですね(#^.^#)

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2017/07/15

特派員報告第二弾「 廃墟ファン必見・世界文化遺産」『軍艦島』へ上陸②!

廃墟マニアなる人々が居るらしい!

ぎっくり腰を再発して、ブログUP出来なかったうつけ者も居たらしい(お前やがな!)。

私にはよく理解出来ませんが、廃墟に衰退の美を感じられておられるのでしょうか?人の手が加わった建物の荒廃に盛者必衰の思いをいだかれるのでしょうか?桜が満開に咲いて、そして儚く散っていく様を見て美しいと感じる心と似ているようにも思えます。
私が生活する神戸市の摩耶山にはその山中の鬱蒼とした森を漂流する一艘の軍艦があるそうです。それは昭和4年、摩耶山にケーブルが開通した際にその客の誘致施設の一つとして建設された鉄筋L字5階建てのホテルの事で、神戸の街から遠目で見るとまるで軍艦のように見える事から「山の軍艦ホテル」という名で呼ばれていました。此が今!廃墟マニアの聖地と言われているようです(世界遺産には成りませんけど)。

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(北側の社員住宅群、こちらは船でしか見る事が出来ません。)

此方はもう世界遺産!「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の『軍艦島』上陸記です。

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(三ツ瀬側から見た軍艦島です。)



今日は第二次世界対戦が修理した後の日本の復興を裏から支えた『軍艦島』についてお話しましょうね(#^.^#)。

【第四期・復興・近代化期(1945~1964年)】

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(右下に見えるのが第一次埋め立て石積ならば、こちらは世界遺産に成ります。)
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(この辺は緑も多いですね~上の建物は職員クラブハウス?パンフレットによって地図が曖昧です。)
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(第二見学広場から撮影の「総合事務所跡」です。煉瓦が綺麗ですね~オット私は廃墟マニアではないですよ、笑)


終戦直後、朝鮮人・中国人の帰国や労働者の島外離脱のために一時的に人口が激減しますが、戦後の復興資金の供給や復員者の帰還によって1948年以降には逆に人口が急激に増加します。1946年には労働組合が結成され、組合闘争の結果として賃金が上がり、ますます転入者が増えることになります。同時に住宅不足は深刻化することになりました。労働法の整備などによって、労働者の労働時間が制限されたため、人口が増加したにもかかわらず、石炭の生産量は戦時中を超えるには至りませんでした。

賃金の上昇と同時に炭坑の稼働率は下がり、余暇が増えます。遊び場にブランコ(それだけか?で感じですが、笑)も設置され、住みやすくなっていきます。特に1957年の海底水道開通で、いつでも真水の風呂に入れるようになるなど生活環境は劇的に改善していきます。ただし、住宅問題は労使のタブーであり、会社の職員に上層の広い部屋があてがわれ、一般の鉱員に中層のやや狭い部屋があてがわれ、下請け労働者に下層のとても狭い部屋があてがわれる、と言う不公平な区分は歴然と存在したようです。

人口が最盛期を迎えた1960年(昭和35年)には5,267人の人々が生活し、人口密度は83600人/km2と世界一を誇り東京特別区(東京23区)の9倍以上に達したといわれます。炭鉱施設・住宅のほか、小中学校・店舗(常設の店舗のほか、島外からの行商人も多く訪れていました)・病院(外科や分娩設備もありました)・寺院「泉福寺」(禅寺だがすべての宗派を扱っていました、しょうがありませんね、笑)・映画館「昭和館」・理髪店・美容院・パチンコ屋・雀荘・社交場(スナック)「白水苑」などがあり、島内においてほぼ完結した都市機能を有していたと考えられます。ただし火葬場と墓地、十分な広さと設備のある公園は島内になく、これらは端島と高島の間にある中ノ島に(端島の住民のためのものが)建設されました。

【第五期・石炭衰退・閉山期(1964~1974年)】

1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行(エネルギー革命)により衰退が始まります。特に1964年の九片治層坑道の自然発火事件が痛手となり、人口が急速に減少を始めます。しかし端島炭坑は1965年(昭和40年)に三ツ瀬区域の新坑が開発されて一時期に持ち直し、人口は減ったものの機械化・合理化によって生産量も戦時中に迫る水準を回復します。さらに、空き部屋となった2戸を1戸に改造するなどして、住宅事情は劇的に改善しました。住民の満足度も高く、この時期の端島は、福祉施設の不足を賃金の高さでカバーしている他は、全てが狭い所で完結している、「シビル・ミニマムの完全充足期」と評されます。

『シビル・ミニマム』(シビルミニマム、civil minimum)は、都市化社会・都市型社会において、市民が生活していくのに最低限必要な生活基準の事です。これに基づき市民と自治体の協働で、社会資本整備、まちづくり、社会保障等の基準を定めるべきとされます。

しかし、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受け、数百万トンの石炭を残したまま1974年(昭和49年)1月15日に閉山しまいます(残念じゃないの?)。閉山時に約2000人まで減っていた住民は4月20日までに全て島を離れ、4月20日の連絡船の「最終便」で退去した総務課のN氏、端島の最後を見届けるべく乗船していた研究者の片寄俊秀、阿久井喜孝、片寄の友達である作家の小松左京(日本沈没はここから生まれた?)らの離島をもって、端島は無人島となります。しかしその後すぐに人がいなくなったわけではなく、高島鉱業所による残務整理もあり、炭鉱関連施設の解体作業は1974年の末まで続しました。

【第六期・廃墟ブームと産業遺産期(1974年~)】

閉山前より西山夘三や、片寄俊秀をはじめとする西山研究室の人々によって、主に「住まい」の方面からの調査が行われていましたが、島全体が三菱の所有地と言うことから、部外者に対しては「外勤」と呼ばれる監視が付き、調査を行う西山研究室の人々の後を総務課のN氏が密かに付けているなど、会社に常に監視されており、調査は限定的にならざるを得ませんでした(北朝鮮ですか?)。

また、住人らは戦時中の「闇」の部分を語ろうとはしなかったといいます。長崎造船大学の教授として、京大の西山夘三に代わって1970年5月から1974年の閉山までにかけて端島の生活を詳細に調べ上げた片寄は、軍艦島の充足した生活という「光」の部分だけでなく、戦時中の「圧制ヤマ(言葉自体は戦時中だけの表現ではないはずです)」と呼ばれる奴隷労働や、中国人・朝鮮人の強制労働の実態といった「闇」の部分も明らかにし、論文『軍艦島の生活環境』(1974年)としてまとめ上げ、雑誌『住宅』(日本住宅協会、1974年5月号~7月号)に掲載されました(この論文は西山研究室の研究の一環とみなされ、 西山の撮影した閉山前の写真・西山の論文とともに『軍艦島の生活(1952/1970)住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート』としてまとめられている)。

差別的な待遇や、過酷な労働が無かったとは言いませんが、敵国捕虜と当時日本人として徴用された朝鮮の人々を全く同じ尺度で推し量るのには無理が有るように感じます(私見です)。

しかし、「これ以上暗い時代のことをほじくり出さないで欲しい」と言う元住民のまなざしの間で板挟みとなり、片寄は研究を中断するに至ります。一方で、戦時中の奴隷労働や強制労働は無かったと言う説もあり、軍艦島の当時を知るNPO法人「軍艦島を世界遺産にする会」理事長の坂本道徳や、軍艦島に詳しい音楽家の黒沢永紀も、徴用または出稼ぎだったと証言しており、2017年4月に雑誌『SAPIO』に掲載された。

閉山後より阿久井喜孝の調査によって、建築の方面からも光が当てられます(端島の建築には鉱山の技術が使われていることが明らかにされた)。また、高浜村端島支所の跡地から戦時中の日本人・中国人・朝鮮人の死亡者が記された『火葬認可証付申請書』が発見され、林えいだいの調査によって、端島炭坑の「闇」の部分にも光が当てられるようになった。戦時中の端島の朝鮮人坑夫の足取りに関しては、1992年に『死者への手紙―海底炭鉱の朝鮮人坑夫たち』としてまとめられた(奴隷労働があったとする片寄は、この調査に対して「その努力を決して無駄にしてはならないと思う」としていますが、「強制連行は無かった」という立場から見ると、この本は虚偽ということに成り、仮に虚偽であってもこの本が出版されたことは事実なので、両論併記をしてその事実を記す)。しかし、当時は一般人の上陸は禁止されていました。

『徴用(ちょうよう)』とは、戦時などの非常時に、国家が国民を強制的に動員して、一定の仕事に就かせること、また、物品を強制的に取り立てることです。占領地住民に対する徴用・徴発についてはハーグ陸戦条約に規定があり、正当な対価のない徴用・徴発は禁じられていました(朝鮮は当時日本国内でハーグ陸戦条約に規定占領地住民に対する徴用・徴発には当たりません)。

国民徴用令(こくみんちょうようれい、昭和14年7月8日勅令第451号)とは、国家総動員法に基づいて、昭和14年に制定された日本の勅令です。一部地域では白紙などと呼ばれました。
国家総動員法第4条の規定に基く国民の徴用
国家総動員法第6条の規定に基く被徴用者の使用、賃金、給料、その他従業条件に関する命令
の二つについて規定されました。1945年、国民勤労動員令によって廃止されています。

朝鮮における施行については、1944年(昭和19年)8月8日、国民徴用令の適用を免除されていた朝鮮人にも実施する、とした閣議決定がなされました。1944年9月より実施され、1945年8月の終戦までの11ヶ月間実施されています。日本本土への朝鮮人徴用労務者の派遣は1945年3月の下関-釜山間の連絡船の運航が困難になるまでの7ヵ月間でした。


【廃墟ブーム到来】

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(灯台の隣が、貯水槽なのか?独身寮なのか不明です。)
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(大正5年築造の30号棟「140戸」旧鉱員社宅、下請け飯場!)
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(下請け作業員飯場、旧船頭小屋)
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(見学広場と呼ばれる安全な場所は三か所だけです。どうしても写真が同じようになりますね(;^_^A)
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(見学通路から外れることはできません)


『軍艦島』は2000年代より、近代化遺産として、また大正から昭和に至る集合住宅の遺構としても注目されていました。廃墟ブームの一環でもしばしば話題に上るように成ります。無人化以来、建物の崩壊が進んでいますが、外壁の崩壊箇所については、一部コンクリートで修復が行われています。

島は三菱マテリアルが所有していたが、2001年(平成13年)、高島町(当時)に無償譲渡されました。所有権は、2005年(平成17年)に高島町が長崎市に編入されたことに伴い、長崎市に継承されています。建物の老朽化、廃墟化のため危険な箇所も多く、島内への立ち入りは長らく禁止されていました。2005年(平成17年)8月23日、報道関係者限定で特別に上陸が許可され、荒廃が進む島内各所の様子が各メディアで紹介され始めます。
島内の建築物はまだ整備されていない所が多いものの、ある程度は安全面での問題が解決され、2008年に長崎市で「長崎市端島見学施設条例」と「端島への立ち入りの制限に関する条例」が成立したことで、島の南部に整備された見学通路に限り、2009年(平成21年)4月22日から観光客が上陸・見学できるようになりました(条例により、見学施設以外は島内全域が立入禁止)。解禁後の1か月で4,601人が端島に上陸し、その後も、半年間で34,445人、1年間で59,000人、3年間で275,000人と好調です。なお、上陸のためには風や波などの安全基準を満たしていることが条件になっており、長崎市は上陸できる日数を年間100日程度と見込んでいます。

【行政区域の変遷】

江戸時代は幕府領の彼杵郡高浜村に属していました。ただし前述のように境界をめぐる争論があり、1773年(安永2年)に「幕府領・佐賀領とも端島に干渉しない」とされ、帰属先は定められていません。1889年(明治22年)4月1日の町村制施行により西彼杵郡高浜村端島名となります。1955年(昭和30年)4月1日に高浜村が野母村・脇岬村・樺島村と合併して野母崎町(現・長崎市)となった際、端島は高浜村から分離し、高島町に編入されます。2005年(平成17年)1月4日に高島町が長崎市に編入され、長崎市高島町字端島となっています。

【小説で紹介された『軍艦島』】

赤川次郎『三毛猫ホームズの無人島』(みけねこホームズのむじんとう)は、赤川次郎によって1997年に発表された三毛猫ホームズシリーズの短編集です。

炭鉱が突然閉山になり、無人島となった軍艦島。それから10年が経ったある日、突如軍艦島に明かりが点灯。翌朝、江川哲也という人物から、軍艦島のパーティーに招待する手紙が届きます。だが、江川がその手紙を書けるはずはなかったのです。江川はもう死んでいたのですから。そして惨劇の始まり、4作品が納められた肩のこらない短編集です。

そして私の大好きな内田康夫の人気「浅見光彦」シリーズ記念すべき100番目の事件『棄霊島(きれいじま)』.

浅見光彦は「旅と歴史」の依頼で、長崎県五島列島へ教会堂の取材に行くことになった。飛行機嫌いの浅見がフェリーで九州へ向かっていると、船中で元刑事の後口と出会い意気投合する。彼は浅見を案内しながら、軍艦島で起きた未解決の連続変死事件について語る。だが、後口は娘が住むという長野県へと向かう途中で、静岡県御前崎の海岸で遺体となって発見された。現地で浅見は、後口と意外な人物との接点に気づいたのですが。

軍艦島全景(写真集)をご紹介!



【最後にえ~!なうんちく】

『軍艦島』は島全体が世界文化遺産構成資産ではなく、島の8割近くは緩衝地帯(バッファーゾーン)と呼ばれる世界遺産の核心部分を保護するため周囲に巡らされた区域です。勿論緩衝地帯は世界遺産ではありません(え~)。

軍艦島を含む世界遺産の正式名称は「明治日本の産業革命遺産」です。ユネスコへ提出した推薦書でも、その下限は1910年までと定めています。つまり軍艦島というと99%の方が廃墟が世界文化遺産だと連想されておられると思いますが、あの廃墟の大半が大正・昭和に建築れたもので、1910年「明治日本の産業革命」のものではないため、世界遺産には登録されていません。

それでは、軍艦島の中で本当の世界遺産部分はどこかというと、島の中心部、廃墟建物の地下にある明治時代の石炭の掘削坑になります(上陸しても誰も見られない部分です)。大正・昭和の掘削坑は世界遺産ではありませんので、軍艦島上陸ツアーで現地を訪れても、安全上この明治の掘削坑は公開してしません。
そレでは、何故明治の掘削坑の何が評価されたかというと、明治3年の時点で海底トンネルを掘削していたことです。掘削機械を欧米から買い付け、地質に合わせて独自改良しながら掘り進めました。当時、同時期に欧米の鉱山技術を独自改良して生産性を高めた事例は皆無であり、日本人の探究心の高さを物語っています。
また、元々は小さな岩礁島だった端島を開拓すべく、島の周囲を護岸工事を施したのですが、断片的に残る明治の石積護岸は、西洋の技術に九州地方に江戸時代から伝わる技法を組み合わせ、より頑丈なものに仕上げています。この天川(あまかわ)積みの護岸も世界遺産に登録されており、こちらは上陸ツアーで見ることができます(軍艦島で本当の世界遺産見ても気づかないかも!)。

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2017/07/12

特派員報告第二弾「 廃墟ファン必見・世界文化遺産」『軍艦島』へ上陸①!

特派員報告第二弾「世界文化遺産」『軍艦島』へ上陸①!ですが、何時もは自分自身が行った場所(遺跡・自社仏閣・自城)、実体験した事(登山・トレッキング・陶芸)、グルメ(スイーツ)等自分の体験以外は御紹介しない事にしておりますが、家族特派員だけは例外にさせて頂きましたm(__)m。

以前弟が京都の桂川でおおサンショウウオを見つけた写真を送って来たので、おおサンショウウオ(天然記念物)の遺伝子汚染に危機感を覚えて、記事にさせて頂きました経緯も有ります。

CIMG3495.jpg(特派員報告第二弾「世界文化遺産」『軍艦島』へ上陸?)

今回は妻が友人との旅行で「端島」に上陸しましたので御報告致します(^人^)。世界遺産『軍艦島』です。

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長崎港からやまさ海運のクルーズ船に乗って約20分ドルフィン桟橋に到着します。200名も乗れるクルーズ船にも関わらず救命胴衣着用です。結構揺れるらしいです。

CIMG3484.jpg(クルーズの途中にも教会が、世界遺産登録候補では無いようですが綺麗♡神の島教会!)
CIMG3486.jpg(次は伊王島の沖ノ島天主堂)

【軍艦島って何?】

CIMG3496.jpg(見えてきました~ワクワクです~私じゃ無いですよ妻の気持ちの代弁ですから、左が端島、右が中ノ島)

『軍艦島(ぐんかんじま)』の通称で知られている、端島(はしま)は、長崎県長崎市(旧高島町)にある島です。明治時代から昭和時代にかけては海底炭鉱によって栄え、東京以上の人口密度を有していましたが、1974年(昭和49年)の閉山にともなって島民が島を離れてからは、無人島と成っています。2015年、国際記念物遺跡会議(イコモス)により、軍艦島を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界文化遺産に登録されました(世界遺産シリーズでは有りません(^人^))。

『端島「軍艦島」』
面積0.063 km²海岸線長1.2 km最高標高47.7 m
所在海域:五島灘
所属国・地域:日本(長崎県)

CIMG3499.jpg(着いた~てっ感じですか?)


【端島(軍艦島)の地理や気候等】

長崎港から南西の海上約17.5キロメートルの位置にあります。旧高島町の中心であり同じく炭鉱で栄えていた高島(の南端)からは南西に約2.5キロメートルの距離にあり、長崎半島(野母半島)からは約4.5キロメートル離れています。端島と高島の間には中ノ島という小さな無人島があり、ここにも炭鉱が建設されましたが、わずか数年で閉山となり、島は端島の住民が公園や火葬場・墓地として使用していました。そのほか端島の南西には「三ツ瀬」という岩礁があり、端島炭鉱から坑道を延ばしてその区域の海底炭鉱でも採炭を行っていました。

端島は本来、南北約320メートル、東西約120メートルの小さな瀬でした。その小さな瀬と周囲の岩礁・砂州を、1897年(明治30年)から1931年(昭和6年)にわたる6回の埋め立て工事によって、約3倍の面積に拡張して利用を始めました。その大きさは南北に約480メートル、東西に約160メートルで、南北に細長く、海岸線は直線的で、島全体が護岸堤防で覆われています。面積は約6.3ヘクタール、海岸線の全長は約1200メートル。島の中央部には埋め立て前の岩山が南北に走っており、その西側と北側および山頂には住宅などの生活に関する施設が、東側と南側には炭鉱関連の施設がありました。

年間平均気温は15から16℃。平均降水量は2000ミリメートル、冬は比較的雨量が多く、夏は南東風・南風、冬は北西風・北風が多い(いずれも旧高島町資料によります)。

端島を舞台とした1949年(昭和24年)の映画『緑なき島』のタイトルにも現れていますが、この島には植物がとても少なく、住民は本土から土砂を運んで屋上庭園を作り、家庭でもサボテンをはじめ観葉植物をおくところが多かったようです。また、主婦には生け花が人気でした。西山夘三も草木はほとんどないと述べていますが、これについては誇張的という指摘があります。閉山後の調査では二十数種類の植物が確認されており、特にオニヤブマオ(イラクサ科)、ボタンボウフウ(セリ科)、ハマススキ(イネ科)の3種が端島の主な植物として挙げられています。

【端島の歴史】

端島炭坑の歴史区分は大まかに、第一期・原始的採炭期(1810~1889年)、第二期・納屋制度期(1890~1914年)、第三期・産業報国期(1914~1945年)、第四期・復興・近代化期(1945~1964年)、第五期・石炭衰退・閉山期(1964~1974年)、第六期・廃墟ブームと産業遺産期(1974年~)に分けられます。
今日は闇とも呼ばれた暗い歴史が有ったとも言われる、太平洋戦争前迄を御紹介します。

【第一期・原始的採炭期(1810~1889年)】

端島の名がいつごろから用いられるようになったのか正確なところは不明だが、『正保国絵図』には「はしの島」、『元禄国絵図』には「端島」と記されています。『天保国絵図』にも「端島」と記載されています。

端島での石炭の発見は一般に1810年(文化7年)のこととされます(発見者は不明)[1が、『佐嘉領より到来之細書答覚』によると、1760年(宝暦10年)に佐賀藩深堀領の蚊焼村(旧三和町・現長崎市)と幕府領の野母村・高浜村(旧野母崎町・現長崎市)が端島・中ノ島・下二子島(のちに、埋め立てにより高島の一部となる)・三ツ瀬の領有をめぐって争いになり、その際に両者とも「以前から自分達の村で葛根掘り、茅刈り、野焼き、採炭を行ってきた」と主張、特に後者は「四拾年余以前」に野母村の鍛冶屋勘兵衛が見つけ、高浜村とともに採掘し、長崎の稲佐で売り歩いていたと述べています。なお当時は幕府領では『初島』と、佐賀領では『端島』と書いていたようです(『佐嘉領より到来之細書答覚』『安永二年境界取掟書』『長崎代官記録集』)。

上記のように石炭発見の時期ははっきりしませんが、江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、ごく小規模に露出炭を採炭する程度だったようです。1869年(明治2年)には長崎の業者が採炭に着手したものの、1年ほどで廃業し、それに続いた3社も1年から3年ほどで、台風による被害のために廃業に追い込まれました。36メートルの竪坑が完成したのは1886年(明治19年)のことで、これが第一竪坑です。

【第二期・納屋制度期(1890~1914年)】

CIMG3509.jpg(上陸~~~!こんな所歩けるの?に見えますが、観光用の歩道が出来ています。)

1890年(明治23年)、端島炭鉱の所有者であった鍋島孫太郎(鍋島孫六郎、旧鍋島藩深堀領主)は三菱社へ10万円で譲渡します。端島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となりました。譲渡後は第二竪坑と第三竪坑の開鑿もあって、端島炭鉱の出炭量は高島炭鉱を抜く(1897年)までに成長しています。この頃には社船「夕顔丸」の就航、蒸留水機設置にともなう飲料水供給開始(1891年)、社立の尋常小学校の設立(1893年)など基本的な居住環境が整備されるとともに、(1897年から1931年)島の周囲が段階的に埋め立てられました。

1890年代には隣の高島炭鉱における納屋制度が社会問題となっていましたが、端島炭坑でも同様の制度が敷かれていました。高島同様、端島でも労働争議がたびたび起こった様です。
納屋制度期における軍艦島の生活は以下の通りです。端島における納屋制度の廃止は高島よりも時間が掛かりましたが、段階的に廃止され、全ての労働者は三菱の直轄となっています。

『納屋制度(なやせいど)』

明治に炭鉱などでみられた前近代的労務管理制度の事です。明治の初め、炭鉱労働者は囚人を主体としていましたが、徐々に農村からの労働者へと移行しました。炭鉱資本家はこうした労働者を直接管理せずに、納屋頭(親方ですかね)を設け、それに労働者の雇入れや管理をまかせます。納屋頭は、雇入れた労働者を納屋と称する合宿所に収容し、家具や作業器具一式を貸与するとともに、仕事の割当てから賃金の一括受取りまで行なっていました。そしてさまざまな名目で搾取し、待遇は残忍でさえあったといわれています。鉱夫の死亡率は高く、逃亡する者には私刑も加えられていました。このような制度は、囚人労働の慣行が引継がれたためでしたが、大炭鉱の進出につれ次第に後退していきました。

そういえば、2015年度下半期放送のNHK「連続テレビ小説」第93シリーズの作品『あさが来た』の中でも、納屋制度に苦労させられる「あさ(波瑠)」さんの姿が有りましたね。

三菱端島労働状況(1907(M40)3~8月ごろ) 日本労務管理年誌・労務管理資料編纂会 S37~S39

1 坑夫募集人は応募者1人に付3円ずつの手数料を得る。炭坑を楽園のごとく吹聴し、世人を欺瞞。
2 坑夫は何れも故郷忘れがたく、募集人の舌端に欺されたるを悔いている。
3 会社は淫売婦を雇い随所に淫売店を開業させ更に賭博を奨励。
4 坑夫はあわれこの陥穽に陥入り、前借の弱身に自由を縛し去られている。

ひどい待遇だったようですね。

【三期・産業報国期(1914~1945年)】

CIMG3516.jpg(先ほども写っていましたが、赤煉瓦の建物総合事務所跡、右の階段の建物が第二竪坑の様です。)
CIMG3517.jpg(一番高くそびえたつ建物が職員単身寮、奥が職員クラブハウスです。)
CIMG3518.jpg(手前右が仕上げ工場、奥が日本初の鉄筋コンクリート造の集合住宅!)
CIMG3523.jpg(1916年(大正5年)に造られた日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」です。)




納屋制度の廃止・三菱による坑夫の直轄化がRCアパートの建造とともに進められ、1916年(大正5年)には日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」が建設されます。この年には大阪朝日新聞が端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道しており、5年後の1921年(大正10年)に長崎日日新聞も、当時三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍の戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼んでいることから、「軍艦島」の通称は大正時代ごろから用いられるようになったとおもわれます。ただし、この頃はまだ鉄筋コンクリート造の高層アパートは少なく(30号棟と日給社宅のみ)、大半は木造の平屋か2階建てでした。

端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つでした。それを支える労働者のための福利厚生も猛烈な勢いで整えられ、1937年の時点で、教育、医療保険、商業娯楽等の各施設は、既に相当なレベルで整備されていました。一方で仕事は非常にきつく、1日12時間労働の2交代制で、「星を頂いて入坑し星を頂いて出坑する。陽の光に当ることがない」との言葉があるほどです。戦時中の1941年から始まる「産業報国戦士運動」の結果、石炭出炭量が最盛期を迎えた1941年(昭和16年)には約41万トンを出炭[(端島の歴史における年間最高出炭)、1943年には第2立坑より1日に2062トンを出炭しました。

1939年(昭和14年)からは朝鮮人労働者の集団移入が本格化し、最重労働の採鉱夫のほとんどが朝鮮人に置き換えられたほか、1943年(昭和18年)から中国人捕虜の強制労働が開始されています。朝鮮人労働者は納屋、中国人捕虜は端島の南端の囲いの中にそれぞれ収容されたといわれます(闇の歴史ですか?次回少し詳しくご紹介しましょう)。
戦後、高島・端島・崎戸の3鉱の中国人労働者やその遺族らが国・長崎県・三菱マテリアル・三菱重工を相手に損害賠償を求めて起こした訴訟では、長崎地裁が2007年3月27日に、賠償請求自体は請求権の期限(20年)が経過しているとして棄却したものの、強制連行・強制労働の不法行為の事実については認定しています。

【長崎で建造された戦艦「土佐」】

戦艦「土佐」とはどのような船なのでしょう。1921年(大正9年)三菱重工業長崎造船所で起工され、1921年(大正10年)に進水した日本海軍の戦艦「土佐」に形似ていたため「軍艦島」と呼ばれる様になりました。「土佐」が進水式を終えた同時期に、アメリカではワシントン会議が開かれており、そこで軍縮条約が調印されました。それにより、建造途中だった「土佐」を含む9隻に建造中止命令が出されたのです。役目を失った「土佐」は海軍の標的演習用の戦艦として利用されることが決まり、魚雷や防弾を船体に受けて海中に沈んで行ったのです。悲劇の軍艦「土佐」!その悲運を予知するかのように、進水式でのくす玉は何故か割れなかったと伝わっています。

1945年(昭和20年)6月11日にアメリカの潜水艦「ティランテ」が、停泊していた石炭運搬船「白寿丸」を魚雷で攻撃し撃沈しましたが、このことは「米軍が端島を本物の軍艦と勘違いして魚雷を撃ち込んだ」という噂話になりました。1945年には高島二子発電所が空爆を受け、第2立坑が水没しています。

次回は戦後の復興する日本の原動力となった「軍艦島」を御紹介したいと思います。

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2017/07/10

祝!海の正倉院「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産登録記念 本当の『正倉院』

ユネスコ世界遺産委員会は9日、福岡県の「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」の世界文化遺産登録を決めました~(^^)b。
政府が推薦した構成資産8件全てが登録され、世界遺産委員会がユネスコ諮問機関イコモスの資産半分の除外勧告を覆しました\(^o^)/。

CIMG7396.jpg
(東大寺正倉院です。大きすぎて一番後ろからでも写真に納まらなかったのです。)

おめでとうございます🎵やはり天照大神と須佐乃男の誓約に始まる宗形三女神の海の道は全てが一緒に登録されないと、意味が無いですよね。
伊邪那岐に海を任されて泣いてばかりいた須佐乃男の涙も渇れたはずです。

登録祝を祝して?本物の「奈良東大寺」『正倉院』を御紹介します(一寸無理やりな感じがありますが!笑)。

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Okinoshima2.pngOkinoshima.jpg
(関連遺産群の位置関係と沖ノ島の航空写真です。Wikipediaより拝借しました。)



せっかくなので、少しだけお話しましょう。但し私まだ訪れてはいないので、参考です。

【「宗像・沖ノ島と関連遺産群」を世界文化遺産登録】

ユネスコ世界遺産委員会は昨日(9日)、「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」を世界文化遺産登録しました。

福岡県宗像市の沖ノ島(宗像大社沖津宮)は九州と朝鮮半島の中間にあり、4~9世紀に大陸との交流の成就を祈る国家的祭祀が行われていました。
朝鮮半島製の金製指輪や中東のペルシャからもたらされたカットグラスの破片など、約10万点の出土品の内8万点が国宝(凄いと思いませんか?)に指定され、「海の正倉院」とも呼ばれています。

今も女人禁制などの禁忌が守られており、地元自治体は「島を信仰の対象とする伝統が継承されてきた世界でもまれな例」と説明、「文化的伝統や文明の存在を伝える」というスローガンのもと、世界遺産への登録申請がなされていました。

遺産群は福岡県宗像市の沖ノ島と3つの岩礁(小屋島、御門柱、天狗岩)のほか、除外勧告を受けていた宗像大社沖津宮遥拝所、同中津宮、同辺津宮、祭祀を担った豪族の新原・奴山古墳群(同県福津市)全八件が一括で登録されました。

沖ノ島は神官が交代で一人だけ駐在するほぼ無人島!行けない世界遺産が誕生しました(笑)。実は特別に行ける方法が有るので最後迄読んで下さった男性(女性は無理ですm(__)m)の方々には、こっそり?最後に御紹介します。

其では今日の本論「東大寺正倉院」です。

【正倉院正倉って何】

CIMG7395.jpg
(垣根?か柵でこれ以上後ろにいけませんでした。見苦しいですがお顔を伏せさせていただきました。)

正倉院(しょうそういん)は、奈良県奈良市の東大寺大仏殿の北北西に位置する、校倉造(あぜくらづくり)の大規模な高床式倉庫。聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた建物で、1997年(平成9年)に国宝に指定され、翌1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されてい。

元は東大寺の正倉(倉庫)でしたが、1875年(明治8年)3月10日、収蔵されていた宝物の重要性に鑑み、東大寺から内務省の管理下に置かれました。1881年(明治14年)4月7日、農商務省の設置に伴い、内務省博物局が農商務省へ移管され、1884年(明治17年)5月に宮内省所管となっています。1908年(明治41年)4月、正倉院は帝室博物館の主管となり、第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)5月3日に宮内府図書寮の主管となりました。現在は宮内庁の施設等機関である正倉院事務所が正倉院宝庫および正倉院宝物を管理しています。

正倉院の宝物には日本製品のみならず、中国(唐)や西域、ペルシャなどからの輸入品を含めた絵画・書跡・金工・漆工・木工・刀剣・陶器・ガラス器・楽器・仮面など、古代の美術工芸の粋を集めた作品が多く残るほか、奈良時代の日本を知るうえで貴重な史料である正倉院文書、東大寺大仏開眼法要に関わる歴史的な品や古代の薬品なども所蔵され、文化財の一大宝庫です。シルクロードの東の終点ともいわれていますね。

【正倉院の意味は?】

奈良時代の官庁や大寺院には多数の倉が並んでいたことが記録されています。「正倉」とは、元来「正税を収める倉」の意で、律令時代に各地から上納された米穀や調布などを保管するため、大蔵省をはじめとする役所に設けられたものでした。その中でも大寺院にはそれぞれの寺領から納められた品や、寺の什器宝物などを収蔵する正倉があり、正倉のある一画を塀で囲ったものを「正倉院」と称していました。南都七大寺にはそれぞれに正倉院が存在したが、歳月の経過で廃絶して東大寺正倉院内の正倉一棟だけが残ったため、「正倉院」は東大寺に所在する正倉院宝庫を指す固有名詞となっています。

「補足」南都七大寺は、奈良時代に平城京(南都・奈良)及びにその周辺に存在して朝廷の保護を受けた7つの大寺を指す。興福寺(こうふくじ、奈良市登大路町)・東大寺(とうだいじ、奈良市雑司町)・西大寺 (さいだいじ、奈良市西大寺芝町)・薬師寺(やくしじ、奈良市西ノ京町)・元興寺(がんごうじ、奈良市中院町、芝新屋町)・大安寺(だいあんじ、奈良市大安寺)・法隆寺(ほうりゅうじ、生駒郡斑鳩町)です。

【正倉院にはどんな宝物が納められてるの?】

756年(天平勝宝8歳)6月21日、光明皇太后は夫である聖武太上天皇の七七忌に際して、天皇遺愛の品約650点、及び60種の薬物を東大寺の廬舎那仏(大仏)に奉献したのが始まりです。光明皇太后はその後も3度にわたって自身や聖武天皇ゆかりの品を大仏に奉献し、これらの献納品は正倉院に納められました。献納品目録である献物帳も正倉院に保管されています。
献物帳は五巻からなり、それぞれ『国家珍宝帳』、『種々薬帳』、『屛風花氈等帳』、『大小王真跡帳』、『藤原公真跡屛風帳』と通称されています。

正倉院宝庫は、北倉(ほくそう)、中倉(ちゅうそう)、南倉(なんそう)に区分されます。

北倉は主に聖武天皇・光明皇后ゆかりの品が収められ、中倉には東大寺の儀式関係品、文書記録、造東大寺司関係品などが収められていました。また、950年(天暦4年)、東大寺羂索院(けんざくいん)の双倉(ならびくら)が破損した際、そこに収められていた物品が正倉院南倉に移されています。南倉宝物には、仏具類のほか、東大寺大仏開眼会(かいげんえ)に使用された物品なども納められており、1185年(文治元年)の後白河法皇による大仏再興の開眼会に宝物の仏具類が用いられた事は知られています。そのほか、長い年月の間には、修理などのために宝物が倉から取り出されることが度々あり、返納の際に違う倉に戻されたものなどがあって、宝物の所在場所はかなり移動しているようです。

上述のような倉ごとの品物の区分は明治以降、近代的な文化財調査が行われるようになってから再整理されたものです。

「献物帳」記載の品がそのまま現存しているわけではなく、武器類、薬物、書巻、楽器などは必要に応じて出蔵され、そのまま戻らなかった品も多いようです。刀剣類などは藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)の際に大量に持ち出され、「献物帳」記載の品とは別の刀剣が代わりに返納されている事も知られています。
また大仏開眼の際に聖武天皇・光明皇后が着用した冠など、何らかの事情で破損した宝物も存在するが、その破片が所蔵されている場合もあります(礼服御冠残欠などの残欠)。また、一部の唐櫃は鎌倉時代、江戸時代のものであり、宝物の中にも後世に追納されたものが多いという説もあります。

国家珍宝帳に記された献納品には後の時代に持ちだされたことを示す除物の付箋が付けられたものが7点(封箱、犀角蕆、陽宝劔、陰宝劔、黄刀、黒作懸佩刀、挂甲)あり、このうち光明皇后が死去する半年前の天平宝字3年(759年)12月に出蔵された陽宝劔と陰宝劔は、献物帳にある大刀100口の筆頭に記されていましたが、その後の行方は判明していませんでした。

1907年(明治40年)から翌年にかけて東大寺金堂(大仏殿)盧舎那仏須弥壇の周辺から大刀6口、水晶玉、挂甲残欠などが発見され「東大寺金堂鎮壇具」として国宝に指定されていましたが、2010年に元興寺文化財研究所がこのうち金銀荘大刀2口のX線撮影をおこなったところ、刀身から「陽劔」「陰劔」の象嵌銘が発見され、国家珍宝帳に記されていた陽宝劔と陰宝劔であることが確認されました。専門家の間では光明皇后が国家の平安を願って埋納したものであると考えられています。陽宝劔と陰宝劔は東大寺ミュージアムに保管されています(今回取材その実物を拝見させて頂きました)。

CIMG7399.jpg
(こちらが北倉に成ります。)

正倉院の三倉のなかでも特に北倉は聖武天皇・光明皇后ゆかりの品を収めることから、早くから厳重な管理がなされていました。宝庫の扉の開封には勅使(天皇からの使い)が立ち会うことが必要とされています。なお「勅封」という言葉は本来「天皇の署名入りの紙を鍵に巻きつけて施錠すること」を指しています。正倉院宝庫がこの厳密な意味での「勅封」になったのは室町時代以降ですが、平安時代の各種文書記録にも正倉院を「勅封蔵」と表現しており、事実上の勅封であったと見なして差し支えないといわれます。
平安時代中期には北・中・南の三倉とも勅封蔵と見なされていたが、東大寺の什器類を納めていた南倉のみは、後に勅封から綱封(東大寺別当らの寺僧組織が管理する)に改められました。1875年(明治8年)、正倉院全体が明治政府の管理下におかれてからは南倉も再び勅封となっています。

CIMG7398.jpg
(南倉ですね!)

毎年正倉院展が行われていて、正倉院の宝物の公開が有ります。私も特別な予定が無いかぎり出来るだけ足を運んで、日本の宝物を見させて頂くようにしているのですが、正倉院の宝物の中で是非見たいものがあるんです。それが「蘭奢待」です。

『蘭奢待(らんじゃたい)』天下第一の名香と謳われる香木なのです。正倉院の中倉薬物棚にあり、現在までに、足利義満、足利義教、足利義政、土岐頼武、織田信長、明治天皇らが切り取ったといわれています。どんな香りがしたのか?気に成りませんか?

p56984535.jpg(左から紙の帯が付いている所明治天皇の削られたところです。真ん中織田信長公右隣足利義満公の削り跡です。)


【建造物としての正倉院校倉造】

校倉造(子供の頃習いましたよね~)、屋根は寄棟造、瓦葺。規模は正面約33.1メートル、奥行約9.3メートル、床下の柱の高さ約2.5メートルです。

建立時期は不明ですが、光明皇后が夫聖武天皇の遺愛の品を大仏に奉献した756年(天平勝宝8歳)前後とみるのが通説に成っています。759年(天平宝字3年)以降、宝物出納の記録が残っていることから、この年までに建立されていたことがわかりますね。当初の正倉院の建物構成については不明な事が多く、記録によれば、平安末期には現存する宝庫1棟を残すのみであったようです。

床下には10列×4列の柱を建て、その上に台輪(だいわ)と呼ぶ水平材を置き、この上に北倉と南倉は校木(あぜぎ)という断面三角形の材を20段重ねて壁体をつくり、校倉造とします。ただし、中倉のみは校倉造ではなく、柱と柱の間に厚板を落とし込んだ「板倉」で、構造が異なっています。なぜ、中倉のみ構造が異なるのか、当初からこのような形式であったのかどうかについては、諸説がるようです。奈良時代の文書には、正倉院宝庫のことを「双倉」(そうそう、ならびくら)と称しているものがあります。このことから、元来の正倉院は北側と南側の校倉部分のみが倉庫で、中倉にあたる中間部は、壁もなく床板も張らない吹き放しであったため「双倉」と呼ばれたとするのが通説でしたが、年輪年代法を用いた鑑定により、当初より現在の形であった事が判明しています。

校倉の利点として、湿度の高い時には木材が膨張して外部の湿気が入るのを防ぎ、逆に外気が乾燥している時は木材が収縮して材と材の間に隙間ができて風を通すので、倉庫内の環境を一定に保ち、物の保存に役立ったという説がありました(中学校でもそうならいましたね)。
しかし、実際には、重い屋根の荷重がかかる校木が伸縮する余地はなく、この説は現在は否定されています(え~!)。実際壁面は中から見るとあちこちから外光が透けて見える「隙間だらけ」の状態であり、湿度の管理について言えば、宝物が良い状態で保管されたのは多重の箱に収められていたことで湿度の「急変」が避けられたことによる作用が大きかったようです。 現存する奈良時代の倉庫としてはもっとも規模が大きく、また、奈良時代の「正倉」の実態を伝える唯一の遺構として、建築史的にもきわめて価値の高いものです。

校倉造の宝庫は長年、宝物を守ってきましたが、1952年(昭和27年)に鉄筋コンクリート造の東宝庫、1962年(昭和37年)には同じく鉄筋コンクリート造の西宝庫が完成し、翌1963年(昭和38年)、宝物類はそちらへ移されました。現在、宝物の大部分は西宝庫に収納、東宝庫には修理中の品や、西宝庫に収納スペースのない、大量の染織品が収納されています。現在、勅封はこの宝庫に施されています(そりゃそうですね)。

【1300年前ですから勿論修理はしてますよ】

記録によれば、長元4年、承暦3年、康和2年、建久4年、寛喜2年、寛元元年から4年、建長6年、慶長8年、元禄6年、天保4年から7年、明治10年に修理がおこなわれています。大正2年3月から12月にかけては解体修理も行われています。

2010年(平成22年)8月31日に正倉院を管理する宮内庁は、平成23年~平成26年正倉院の施設整備工事を行い、改修は2011年(平成23年)9月1日より始まり、拝観停止となっていましたが、平成26年10月25日から公開が再開されています。

【国宝指定の経緯は?】

皇室用財産(宮内庁の各部局(長官官房、侍従職、書陵部、三の丸尚蔵館、京都事務所、正倉院事務所)が管理する国有財産)の一連の文化財は、「宮内庁による十分な「管理」が行われている」との宮内庁見解にもとづき、文化財保護法による指定の対象外となっています。そのため、正倉院の建物や宝物も国宝・重要文化財等には一切指定されていませんでした。
しかし、「古都奈良の文化財」がユネスコの世界遺産として登録されるにあたり、当該文化財が所在国の法律によって保護の対象となっていることが条件の重要な要因であることから、正倉院の建物も、正倉院正倉として1997年(平成9年)5月19日、文化財保護法による国宝に指定されました(国宝に指定されたのは不動産である宝庫の建物だけで、動産である宝物類は指定されていません)。

【世界遺産沖ノ島へ渡航する方法】

最後まで読んでいただいた方に、沖ノ島へ渡航する方法を約束通りにお教えいたします。先ず、沖ノ島には「沖津宮」が鎮座、「田心姫神」が祀られており、神領であるゆえ一般人は許可なく立ち入ることはできません。この沖ノ島に滞在が許されているのは宗像大社の神職ただ一人だけです。「田心姫神」は女性の神様なので、沖ノ島で古くから守られているのが「女人禁制」という掟です。

理由は女性に対して嫉妬心を抱くことや、手漕ぎ舟での渡島が女性にとって過酷であることなど諸説あります。たとえ男性であっても、沖ノ島に上陸できるのは年に一度だけ。日本海海戦(日露戦争)の慰霊を行う「現地大祭(5月27日)」のみ、参加希望の一般男性から限定200人が選ばれます。
実は、今年応募してたんですよね~私、世界遺産に成れば凄い倍率に成ってとても無理!今年ならと思ったのですが、落選してしまいました。

上陸の際には、裸(素っ裸で海に浸かります。)になって禊を行わなければなりません!それでも何時か行ってみたい、市郎右衛門でした。

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