「豊鍬入姫命」「卑弥呼」「台与」?誰が眠るんだ~『ホケノ山古墳』
纒向型前方後円墳の最後のひとつ(箸墓古墳は別格扱いしました)ホケノ山古墳を御紹介します。
これまで御紹介した纒向形前方後円墳と少し位地が違っていて、箸墓古墳の後円部の後ろ側に造られています。
何かの関係が有るのか?疑ってしまいますよね(笑)
これで帆立型といわれる「纒向古墳群」は全てご紹介しました。
次回は「卑弥呼」が眠る?箸墓古墳ついに登場か~(笑)
そうそう先日、恒例の友達ブロガーの飲み会「馬肉会」が今週の月曜日(26日)に行われました。
今回は美魔女ブロガー(魔女じゃなくて普通に綺麗でとても可愛い女性でしたが)の「みーな」さんが参加してくださって盛り上がりました~。
彼女のブログみーなのキラメキ日和 ~私のキレイになる道のりと副収入チャレンジの記録~ を共有させていただく事に成りましたのでこちらもよろしくお願します。当然ですが、女性には超おすすめのブログです(笑)。
【ホケノ山古墳ってどんな古墳?】
これまで御紹介した纒向形前方後円墳と少し位地が違っていて、箸墓古墳の後円部の後ろ側に造られています。
何かの関係が有るのか?疑ってしまいますよね(笑)
これで帆立型といわれる「纒向古墳群」は全てご紹介しました。
次回は「卑弥呼」が眠る?箸墓古墳ついに登場か~(笑)
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【ホケノ山古墳ってどんな古墳?】
所属:纒向古墳群
所在地:奈良県桜井市大字箸中字ホケノ山
墳形:纒向型前方後円墳(葺石あり)、円墳に短い前方部を東南方向に付けている
規模:全長約80m、後円部径約55m(3段築成)、前方部長約25m、前方部高さ約3.5m、後円部高さ約8.5m、周濠幅約10.5~17m(西側のほうが広い)
築造年代:3世紀中頃
埋葬施設:後円部、前方部被葬者不明
出土品:画文帯神獣鏡、鏡片、鉄製刀剣類、銅鏃、鉄製農工具等が出土
指定文化財:国指定(纒向古墳群)
ホケノ山古墳(ほけのやまこふん)は、奈良県桜井市大字箸中字ホケノ山に所在する古墳時代前期初頭の纒向型といわれるホタテ貝型の前方後円墳です。
三輪山の西山麓、箸墓古墳の東側に位置し、葺石をともないます。
【ホケノ山古墳石棺データ】
1999年9月から奈良県立橿原考古学研究所と桜井市教育委員会によって発掘調査が実施されました。
石棺(橿考研附属博物館展示)
所在地:三輪山の西山麓、箸墓古墳の東側の丘陵。
被葬者:不明(大神神社は豊鍬入姫命の墓とされています)。
築造時期:副葬品や埋葬施設などから箸墓古墳に代表される定型化した出現期大型前方後円墳よりあまり遡らない時期の前方後円形墳墓と考えられ、築造は中国史書に記された邪馬台国の時代にちょうど重なると推測されていて、前方後円形をした弥生墳丘墓であるとする見方と、古墳時代出現期のものであるとする見方に別れています。
墳頂部中央から「石囲い木槨」が出土しています。
大きな土壙内に内側の長さ約7メートル、幅約2.7メートル、高さ推定1.5メートル(現在約1.1メートル)の石室状の「石囲い」施設で、その内部にコウヤマキ製の約5メートルの刳抜式(くりぬきしき)木棺(割竹形木棺もしくは舟形木棺を納めた大規模な木槨が出土しました。天井は木材を渡し、その上に地元の川原石を積んでいます。棺内は水銀朱で覆われていたと思われます。くびれ部に簡単な埋葬施設1基がある他、前方部裾葺石を一部除去して木棺を埋葬しています。
1999年9月から奈良県立橿原考古学研究所と桜井市教育委員会によって発掘調査が実施されました。
石棺(橿考研附属博物館展示)
所在地:三輪山の西山麓、箸墓古墳の東側の丘陵。
被葬者:不明(大神神社は豊鍬入姫命の墓とされています)。
築造時期:副葬品や埋葬施設などから箸墓古墳に代表される定型化した出現期大型前方後円墳よりあまり遡らない時期の前方後円形墳墓と考えられ、築造は中国史書に記された邪馬台国の時代にちょうど重なると推測されていて、前方後円形をした弥生墳丘墓であるとする見方と、古墳時代出現期のものであるとする見方に別れています。
墳頂部中央から「石囲い木槨」が出土しています。
大きな土壙内に内側の長さ約7メートル、幅約2.7メートル、高さ推定1.5メートル(現在約1.1メートル)の石室状の「石囲い」施設で、その内部にコウヤマキ製の約5メートルの刳抜式(くりぬきしき)木棺(割竹形木棺もしくは舟形木棺を納めた大規模な木槨が出土しました。天井は木材を渡し、その上に地元の川原石を積んでいます。棺内は水銀朱で覆われていたと思われます。くびれ部に簡単な埋葬施設1基がある他、前方部裾葺石を一部除去して木棺を埋葬しています。
更に上記2つとは別に、主体部西側に横穴式石室があります。すでにあった墳丘を利用して6世紀末頃に営まれたものと考えられ、石室全長14メートル以上、玄室に組合式家形石棺が存在します。
【豊鍬入姫命ってどんな人?】
丁度この時代の女性は誰もが、「卑弥呼」もしくは「台与」の可能性が有るのでお話は慎重になってしまいますね。
「豊鍬入姫命」は第10代崇神天皇の皇女で、天照大神の宮外奉斎の伝承で知られる巫女的な女性です。
『日本書紀』『古事記』によれば、第10代崇神天皇と、紀国造の荒河戸畔(あらかわとべ、荒河刀弁)の娘の遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくわしひめ、遠津年魚目目微比売)との間に生まれた皇女とされています。
同母兄に豊城入彦命(豊木入日子命)がいますね。豊城入彦命は『日本書紀』によると、崇神天皇48年に天皇は豊城命(豊城入彦命)と活目尊(いくめのみこと、後の垂仁天皇)に勅して、共に慈愛のある子でありどちらを後継者とするか決めがたいため、それぞれの見る夢で判断すると伝えます。豊城命は「御諸山(みもろやま:三輪山)に登り、東に向かって槍(ほこ)や刀を振り回す夢を見た」と答え、活目尊は「御諸山に登り、四方に縄を張って雀を追い払う夢を見た」と答えました。
その結果、弟の活目尊は領土の確保と農耕の振興を考えているとして位(大王・天皇)を継がせることとし、豊城命は東に向かい武器を振るったので東国を治めさせるために派遣されたといわれています。
さて当人の「豊鍬入姫命」ですが、『日本書紀』崇神天皇6年条によれば、百姓の流離や背叛など国内情勢が不安になった際、崇神天皇はその原因が天照大神(のちの伊勢神宮祭神)・倭大国魂神(のちの大和神社祭神)の二神を居所に祀ったことにあると考えます。
そこで天照大神は豊鍬入姫命につけて倭の笠縫邑(かさぬいのむら:比定地未詳)に祀らせ、よって磯堅城の神籬を立てました。一方、倭大国魂神は渟名城入姫命につけて祀らせたが失敗しています。
同書垂仁天皇25年3月10日条によると、天照大神は豊鍬入姫命から離され、倭姫命(垂仁天皇皇女)に託された。その後、倭姫命は大神を奉斎しながら諸地方を遍歴し、伊勢に行き着くこととなります(伊勢神宮起源譚)。
『古事記』では、豊鉏比売命(豊鍬入姫命)は伊勢の大神の宮を祀ったと簡潔に記されています。
つまり~伊勢神宮を造った女性ですね(おいおい~簡潔すぎるやろ!)。
【「ホケノ山古墳」副葬品や出土遺物の詳細】
土器は、庄内式の二重口縁壺が20体、その他が出土しています。
大型壺(瀬戸内系、高さ77センチメートル・最大径65センチメートル)
中型壺(東海系、高さ26センチメートル・最大径24センチメートル)
銅鏃 約60本
鉄鏃 約60本
素環頭大刀 1口
鉄製刀剣類 10口
加飾壺
画紋帯同向式神獣鏡(がもんたいどうこうしきしんじゅうきょう)1面
画紋帯神獣鏡かと考えられる銅鏡片2個体分、内行花文鏡片
鉄製農工具
二重口縁壺20体(庄内式)
布留0式土器3点
2006年1月26日、纒向古墳群の一つとして国の史跡に指定されて、復元整備され一般に公開されています。
箸墓に眠るのは誰?ホケノ山に眠るのは誰なんでしょう?
古代ロマンは眠れない~~~~!
いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!
「三年のご愛顧感謝します」新規ブログが始まりました。
癒しとストレス解消の遺跡・史跡・城跡・寺社仏閣巡り、きっとあなたは日本が好きになる
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