2017年04月 - 「高天原の縁側日記」
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2017/04/27

「新企画」阪急沿線七福神を巡る旅!最初は「布袋様」『清荒神清澄寺』

今日は新企画?阪急沿線七福神巡りに皆さんをお連れします。

勿論、西国三十三観音霊場巡りや出雲神仏霊場の企画を忘れた訳では有りませんが、自宅から近いものは、早めに書いとこう(何故ならばいつでも書ける!の甘えが出てしまうので?)?という考えでお送りしたいと思います。

最初は「布袋さま」を奉る『清荒神清澄寺』を御紹介します。

CIMG7774.jpg
(見事なお腹の布袋様、袋に何が入っているのか?サンタに似てない?似てないよね(;^_^A)

もう一つお知らせします。
先日のブログオフ会で素敵なBloggerご夫妻にお会いしましたので、ブログを共有をお願いしました(^人^)。

まず今日は奥様「ビー玉」さんです。
アバター通りの、可愛いらしい奥様でした(⌒‐⌒)
ブログはおっちょこ主婦の家計救出ブログアドレスを張っておきますので、此方も宜しくお願い致しますm(__)m。

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CIMG7775.jpg
(お寺ですよね、確かにお寺です。)

【そもそも一人七福神て何者?七福神の由来】

七福神とは、大黒天(だいこくてん)、毘沙門天(びしゃもんてん)、恵比寿天(えびすてん)、寿老人(じゅろうじん)、福禄寿(ふくろくじゅ)、弁財天(べんざいてん)、布袋尊(ほていそん)の七つの神様の総称です。

「七難即滅、七福即生」の説に基づくように、七福神を参拝すると七つの災難が除かれ、七つの幸福が授かると言われています。
七福神の信仰は、室町時代の末期のころに生まれ、当時の庶民性に合致して民間信仰の最も完全な形となって育まれてきました。
特に農民、漁民の信仰として成長し、現代の今も生き続けています。

【七福神の歴史】
室町時代、仏教の布袋道教の福禄寿・寿老人なども中国から入ってきてそれぞれに知られるようになり、それらをまとめて七柱の神仏のセットができたのは室町時代末頃、近畿地方から始まりました(この頃は銀閣寺に代表される東山文化の時代でしたね。)。

CIMG8157.jpg(京都建仁寺の「竹林の七賢」図です。竹林じゃなくて松ですけど、撮影場所の問題です。左側は竹林です。)

中国の文化に影響され、大陸的な水墨画が多く描かれた。もてはやされた画題は『竹林七賢図』(竹林の七賢人先日建仁寺の襖絵でも御紹介しましたね。)。
この絵に見立てて、人々は別々に信仰されていた7つの福の神を集め、七福神としました。
ただし、当初は必ずしもメンバーが一定していなかったそうです(驚)。
仏教・道教・神道の神様もごちゃ混ぜな所が、凄く日本的で面白いですね~、その内八福神に成ってミネルバとか入りそうな気がしますが(笑)。

【布袋さまってどんな神様?】

布袋尊は、弥勒菩薩の化身といわれ、いつも笑顔を絶やさず人々に接していた人で、大きな袋には宝物がいっぱい入っていて、信仰の厚い人に与えられるそうです
笑門来福、夫婦円満、子宝の神として信仰が厚いですね。
清荒神清澄寺では、境内眷属堂に布袋尊が安置されています。

【清荒神清澄寺】

CIMG7769.jpg
(写真が雑なのは、ブログを書き始める前だからです。お許しください。)
CIMG7770.jpg
(日本庭園です。笑)
CIMG7771.jpg
(池の向こうに朱色の歩道がありますね、頂点にお稲荷さん、神仏習合してます。)

清荒神清澄寺(きよしこうじん せいちょうじ)は、兵庫県宝塚市にある真言三宝宗の寺院(大本山)。
896年(寛平8年)に宇多天皇の勅願寺として静観僧正により建てられました。
本尊は大日如来(重要文化財)。
鎮守社として三宝荒神社があり、竃の神の荒神などを祀る神仏習合から「清荒神清澄寺」の名称があります。

山号蓬莱山宗派真言三宝宗(大本山)
本尊は大日如来(重要文化財)
創建年寛平8年(896年)
開基静観僧正、宇多天皇(勅願)
別称清荒神

真言宗十八本山第3番
摂津国八十八箇所;第72番
神仏霊場巡拝の道第79番

CIMG7773.jpg
(鳥居ですよね、荒神様です。)
CIMG7772.jpg
(拝殿?の裏手に荒神影向の榊が有ります。)

拝殿に向かって左の眷属堂には、三宝荒神王の眷属(従者)である「布袋尊」をお祀りしています(御札やおみくじを売っている所なんですけど(((^_^;))。

山内には画家富岡鉄斎の作品を集めた鉄斎美術館が1975年に設立されました。
(とみおか てっさい、1837年1月25日(天保7年12月19日)~1924年12月31日)は、明治・大正期の文人画家、儒学者。
日本最後の文人と謳われる。
私の記憶が正しければ富士山に登って初めて山頂の絵を描いた方と記憶しています(凄)。

top_byobu1[1]
(兵庫県立美術館の富岡鉄斎「富士山頂全図」)


「清荒神清澄寺」を近隣地域では、「荒神さん」と呼び慣わされ、かまど神の一種として、ここで受け取ったお札を台所の神棚に祀るなどの信仰が根付いているようです。
門前の緩やかな坂道には、屋台を含め200近い店舗が軒を並べて門前町を形成しています(私が訪れたのはお正月の少し後でしたが、すごい賑わいでした)。

【荒神影向の榊】 

開創の際、荒神がお姿を現されたと伝えられています。
この霊験の報告を受けた宇多天皇は大変感銘され、「日本第一清荒神」の称号を下賜されています。

現在では、いつの頃からかそこに供えられたお賽銭をいただいて帰り、次回参詣されたとき、そのお賽銭を倍にしてお返しするという風習が伝えられています。
いただいたお賽銭を紙に包んで財布に入れておくと小遣銭に不自由しない、また次に参詣されるまでそれを「御守り」として持っていると吉事があるなど言われています。


実は私も持っているんです。
いただいたお賽銭の五円を大事に財布に入れています(喜)


阪急電車、大阪・神戸・京都の広いエリアが1日乗り降り自由の大変お得で便利な乗車券がありまして(発売期間2017年4月1日~2018年3月31日<通年発売>有効期間発売期間に同じ発売額大人1,200円 小児600円
七つの寺社仏閣でスタンプと小さな神様をもらって、阪急電車に乗った七福神が出来る企画もありますよ。

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2017/04/25

陰陽師とは何者なのか?安倍晴明を祀る『晴明神社』

今日は、小説や漫画(アニメーション)等で有名な、安倍晴明をお祀りする「晴明神社」をご紹介します。

「晴明神社」平安時代中期の天文学者(陰陽師)である安倍晴明をお祀りした神社です。

創建は、寛弘4(1007)年となっています。

晴明の偉業を讃えた一条天皇の命により、そのみたまを鎮めるために、晴明公の屋敷跡である現在の場所に社殿が設けられたと伝わります。

「三年のご愛顧感謝します」新規ブログが始まりました。

「清明神社」もそちらに移動しました。

癒しとストレス解消の遺跡・史跡・城跡・寺社仏閣巡り、きっとあなたは日本が好きになる

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2017/04/23

大阪造幣局構内『桜の通り抜け』の凄さを堪能しました!

一度は見ておきたかった「桜の通り抜け」どれ程凄いのか、実際に見学して来ました~(⌒‐⌒)v

毎年4月中旬頃の桜の開花時には、造幣局構内旧淀川沿いの全長560mの通路を一般花見客のために1週間開放しています
今年は、4月11日(火曜日)から4月17日(月曜日)までの7日間、平日は午前10時から午後9時まで、土曜日・日曜日は午前9時から午後9時まで開放されていました。

CIMG8245.jpg(結構並んでおられました。帰る頃には意外とすいていた様子、開門前は物々しい警備です。列は200Mくらい?)

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桜と言えば、ソメイヨシノですよね~!しかしながら、造幣局の通り抜けはソメイヨシノでは無いのです
現在構内にある桜は、関山、普賢象、松月、紅手毬、芝山、楊貴妃などですが、大半は遅咲きの八重桜で、満開時の美しさはたとえようもなく、明治16年に開始した「通り抜け」も昭和58年春には100年を迎え、今では浪速の春を飾る風物詩として、人々に愛されています。
なお、紅手毬、大手毬、小手毬及び養老桜などは、他では見られない珍種と言われています(余り聞いたことの無い桜ですよね)。
CIMG8257.jpg
(最初からこんなに綺麗で良いのか~の桜です。)
CIMG8249.jpg(綺麗な桜なのですが、カメラのテクニックが悪くてそれほどでもないと思わないでくださいね。)
CIMG8251.jpg(桜色とは正にこれですかね~笑)
CIMG8253.jpg(本当に素晴らしいです。解説いらないかな?)
CIMG8273.jpg(縦に眺めると壮観ですね。)

【其では、ソメイヨシノは何故「ソメイ」なんですか~?】

CIMG1571.jpg(これはうちの近所のソメイヨシノです。桜といえば染井吉野なんですけどね~(;^_^A)

染井吉野は、江戸末期から明治初期に、江戸の染井村に集落を作っていた造園師や植木職人達によって育成されました。
初めサクラの名所として古来名高く西行法師の和歌にもたびたび詠まれた大和の吉野山にちなんで「吉野」「吉野桜」として売られ、広まりましたが、藤野寄命による上野公園のサクラの調査によってヤマザクラとは異なる種の桜であることが分かり(1900年)、この名称では吉野山に多いヤマザクラと混同される恐れがあるため、「日本園芸雑誌」において染井村の名を取り「染井吉野」と命名されたそうです。
翌年、松村任三が学名をつけています。

遺伝子研究の結果、ソメイヨシノはエドヒガンとオオシマザクラの雑種が交雑してできた単一の樹を始源とするクローンであることが判明しています。
上野公園の一本が全てのソメイヨシノの始まりとも言われているの知ってました?


【桜と言えばソメイヨシノでは無くなるって本当!】

但し、ありがたく?観賞しているソメイヨシノですが、若木はソメイヨシノでは無い可能性が有るって知ってました?

実はソメイヨシノは、てんぐ巣病「(てんぐすびょう)とは植物病害の一種で、植物(多くは樹木)の茎・枝が異常に密生する奇形症状を示すものの総称です。高い木の上に巣のような形ができるためこの名で呼ばれています。英語ではwitch's broom もしくはwitches' broom(魔女のほうき)といいます。」に弱いために、2005年度から苗木の配布を、2009年度からは販売も中止し、代替品種として、てんぐ巣病に強く花や開花時期がソメイヨシノと類似するジンダイアケボノの苗木の配布を開始し植え替えを推奨していんですよ~(^^;。
ですから、12年程前からソメイヨシノと思っている桜はジンダイアケボノかも知れませんねf(^_^;。

【桜の通り抜けの始まり】

CIMG8261.jpg(真っ白も素敵ですね~名前は写して無いのでご勘弁ください。)
CIMG8263.jpg(…)
CIMG8269.jpg(この花の塊牡丹のようです。)
CIMG8282.jpg(ピンク大好きの私もうっとりの上品な色です。)
CIMG8281.jpg(しだれ桜も良いです。)
CIMG8276.jpg(純白の清楚な事。)
CIMG8274.jpg(枝が絡んでいるのか?紅白に交じるのか?)
CIMG8288.jpg
(須磨浦普賢桜、名前が見えました。)

造幣局の所在地である大阪市北区天満の旧淀川沿いは、昔から景勝の地として名高く、春は桜、夏は涼み舟、秋は月見など四季折々のにぎわいを見せ、特に春の桜は有名で、対岸を桜ノ宮と呼ぶにふさわしく、この地一帯に桜が咲き乱れていたと言われています。
明治16年(1883年)、時の遠藤謹助局長の「局員だけの花見ではもったいない。市民とともに楽しもうではないか」との提案により、構内の桜並木の一般開放が始まりました。

【「通り抜け」の名の由来】

CIMG8295.jpg(緑の花です。珍しい!)
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(花の後ろに造幣局博物館ですかね?)
CIMG8290.jpg(吉原虎の尾ですか!)
CIMG8289.jpg(林一号、林さんの改良品種、ちなみに八重桜以上の二十重桜もありました。)
CIMG8298.jpg(造幣局の敷地なので、屋台などは外の川べりに在ります。)

「通り抜け」とは、「桜花縦覧のため表門(現在は南門)から入り、造幣局構内を通って裏門(現在は北門)へ抜ける」、つまりは文字どおり構内を通り抜けることが、その名の由来です(まあそのままですね(^^)b)。
「あともどりできない通り抜け」がいつしか「通り抜け」という固有名詞となってしまいましたとさ(笑)。

CIMG8303.jpg(葉っぱと花が一緒に咲くのは東北のイメージを思い出させます。)
CIMG8302.jpg(滑桜ですかね?)
CIMG8301.jpg(本当に綺麗。)
CIMG8300.jpg
(江戸桜またはあずま桜ですか。)
CIMG8306.jpg(最後出口のこの桜は覚えていました。「一葉」です。樋口一葉5000円からの記憶、笑!)

素晴らしい日本の桜文化(品種改良も含めて)を堪能出来る、「造幣局の通り抜け」一度御覧になって下さいm(__)m

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2017/04/21

柳田國男の生家に行ったら「天狗にもに出会った!」

前回、柳田國男さんの実家(移築されているのですが)の近くの公園の池に河童が出現する情報を御紹介しました。
実は隠していたのですが、出没するのは河童だけでは有りませんでした。
なんとこんな物まで~(^^;


P1080094.jpg
(池の方ばかりに気を取られていたら、頭の上に天狗が飛んできました。)

人を集めるって大変ですよね~(;^_^A
私の様な二流Bloggerには、ご苦労が本当に良くわかります(笑)。


以前何かのセミナーで、「いかに良い商品を開発するかは問題では無くて、どれだけ良いコマーシャルをするかだ」と言われて愕然(笑)
良いもの=売れるものと認識していたのですがf(^_^;

さて天狗はさておき、柳田國男の兄弟と福崎町立神崎郡歴史民俗資料館を紹介しましょう。

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「自らの民俗学の原点」と評した生家は、兵庫県福崎町に建設された柳田國男・松岡家顕彰会記念館の西隣に、移築・保存されています。
福崎町立神崎郡歴史民俗資料館が隣接しています。

東京都世田谷区成城の自宅書斎[柳田國男の書屋]は、1989年に長野県飯田市の飯田市美術博物館内へ移築されているそうです(柳田家は旧飯田藩士)。

蔵書は成城大学に寄贈され、同大学の民俗学研究所「柳田文庫」として活用されていますし、2003年には成城大学民俗学研究所編『増補改訂版 柳田文庫蔵書目録』が刊行されました(初刊1967年)。

P1080026.jpg(やっぱりこのインパクトにはかなわないかな~前回と別方向から~!)
P1080031.jpg(こちらは固まった天狗?なぜ固まったのかの説明はありませんでした。)




【歴史と民族学と現地調査主義と私】

柳田國男は、『郷土生活の研究法』(1935年)において「在来の史学の方針に則り、今ある文書の限りによって郷土の過去を知ろうとすれば、最も平和幸福の保持のために努力した町村のみは無歴史となり、我邦の農民史は一揆と災害との連鎖であった如き、印象を与へずんば止まぬこととなるであろう」と述べています。

ここでは、文献史学においては典拠とする史料そのものに偏りが生まれるのは避けられないとしており、それゆえ公文書などに示された一揆や災害とかかわる民衆の姿をそこで確認できたとしても、その生活文化総体は決して見えてこないという國男独自の考えが示されています。

「常民」の生活文化史の解明を目的とする民俗学にとっては文献資料にのみ依拠することには限界と危険が伴うのであり、それゆえフィールドワークによる民俗資料の収集が重要だと論じています(私のブログも訪れた場所以外は記事にしない、又食べたもの、読んだ本以外は書かない信念で書いているんですよ~、エヘン( ̄^ ̄)柳田流フィールドワークの実践者なのですよ、笑・笑・笑・笑・笑)

また、柳田は『日本民俗学』(1942年)において「民俗学は微細な事実の考証から出発する」とし、随筆や紀行文等との差異からも確なる学的立脚を求め、計画調査を重要視しました。

【柳田國男と歴史学】

和歌森太郎『柳田国男と歴史学』(NHKブックス)によれば、國男の問題意識と関心は、常に歴史学と歴史教育にあったことが記され、國男が長野県東筑摩郡教育会で「青年と学問」と題して講演した際に、「自分たちの一団が今熱中している学問は、目的においては、多くの歴史家と同じ。ただ方法だけが少し新しいのである」と述べたことが紹介されています。

そして「日本はこういうフォークロアに相当する新しい方法としての歴史研究をなすには、たいへんに恵まれたところである」と記しています。

たとえば、ヨーロッパでは1000年以上のキリスト教文明と民族大移動、そしてまた近代以降の産業革命の進展のためフォークロア(民間伝承、民俗資料)の多くが消滅ないし散逸してしまっているのに対し、日本ではそのようなことがなく現実のいたるところに往古の痕跡が残っているというのです(なんと素晴らしい事じゃないですか!)。

言い換えれば日本にはフォークロアを歴史資料として豊かに活用できる土壌があるということであり、柳田民俗学とはこのような民間伝承の歴史研究上の有効性を所与の条件として構築されたものということが言えますね。

また東北地方や沖縄を様々な観点から詳細に調査したことから、東北と沖縄こそが柳田民俗学の出発点であり、古き日本の神話や伝説が今も生きてそこに存在する、そういう地域共同体として発見した事も重要です。

【柳田國男の兄弟も凄い】
柳田國男の兄弟の銅像が設置されている生家の裏山の「学問の道」を散策してきました。
八人兄弟なのにも関わらず、銅像は五体でしたが…

P1080064.jpg(学問成就の道この時は子供たちの学問成就を願って訪れましたが、今は自分の勉強ですね~生涯現役受験生の気持ちでね。)
P1080067.jpg(長男はお医者様です。)
P1080068.jpg(歌人で国文学者の三男)
P1080070.jpg(六男の柳田先生)
P1080074.jpg(言語学者の七男)
P1080076.jpg(日本画壇の巨匠の八男、すごい兄弟ですね~次男と四・五男は早逝されたのかな?)


今回柳田國男さんに出会えた事に加えて、私がブログにおいて行っている姿勢(フィールドワーク)が間違っていないことも確信し、とても有意義な休日を送ったのでした。

P1080084.jpg(民族資料館の前にこんなものが?)
P1080085.jpg(組み合わせ式家形石棺)
P1080086.jpg(資料館は元神崎郡役場でした。〒ポスト珍しい?それとも結構見ますかね?)
P1080082.jpg(昔の建物ってこれですよね~右のブロックもモダンな建物のお尻が、柳田國男・松岡家顕彰会記念館です。)

最後に、「餅麦麺」成る代物、もちもちで半端なく美味しいです
是非皆さんも、柳田國男・松岡家顕彰会記念館、福崎町立神崎郡歴史民俗資料館+河童を御覧に成って下さいね。

P1080098.jpg(申し訳ないのですが、もちむぎ麺食べてしまったので、河童サイダーでご勘弁を~!)


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2017/04/19

『柳田國男』の生家で「河童の河太朗」に出会った!

少し前に、Facebookのお友達の上に、小・中・高校の先輩が企画された、日本最初の高速道路「銀の馬車道」を歩くイベントが有ったのですが、忙しくて参加出来なかったので、お昼休憩の場所だった?柳田國男(民族学者)の生家だけでも見てこようと、次女と出掛けました(次回の最終回6月10日は歩きたいけど(((^_^;))。

驚いた事に、河童に出会うことが出来ました(笑)

P1080087.jpg(迫力ありますよね~こちらが、弟の河次郎君ですよ。)


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【銀の馬車道って何?】

P1080019.jpg(この看板を撮影しているのが、左下の大庄屋三木住宅前です。)

銀の馬車道とは(About Old Silver Mine Carriage Road)、若き(明治)日本が挑んだ前人未到のプロジェクトです。
その名も「銀の馬道」、名前も素敵~~~ですよね!。

この馬車道は「殖産興業」を国策に掲げた明治新政府が産業を支える新たな物流手段の確立を考え、日本で初めて築いた高速産業道路です。
「銀の馬車道」は、先取先進で時代を切り拓いていくという、その後のわが国の姿勢を指し示し体現するものでした。

より速く、より安全に、生野から飾磨津の間、約49kmを結ぶ夢の道路は、経済性、社会性、利便性の絶妙なバランスと秀逸な道路計画によって史実としての興味深さと迫力、遺産として価値を礎、誕生当初の役割を終えてなお、時代を全力で駆け抜けた人々の輝きを、時を超えて現在に伝えています(褒めすぎちゃいまっか?)。
という道路なんです(´∇`)。

【柳田國男って誰?知ってますよね~。】

柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日~1962年(昭和37年)8月8日)は、日本の民俗学者・官僚です。
現在の兵庫県神崎郡福崎町生まれで、最晩年に名誉町民第1号となりました。



没後に正三位勲一等授賞
当時の池田勇人首相「民間人とはいえ、これだけの人物に瑞宝章では軽い」と発言し旭日大綬章が供えられました。
帝国憲法下の農務官僚で貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官に就いています(枢密院(すうみついん、旧字体:樞密院)は、枢密顧問(顧問官)により組織される天皇の諮問機関。憲法問題も扱ったため、「憲法の番人」とも呼ばれました。)。

P1080043.jpg(柳田國男の銅像、歌は三十三歳の時ですが、像は晩年の感じですね。)
P1080044.jpg(気持ちが良くわかります~私も歳取ったからかな~笑)

「日本人とは何か」その答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行し、初期は山の生活に着目し、『遠野物語』「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べています。

日本民俗学の開拓者で、多数の著作「遠野物語」「蝸牛考」(各地のカタツムリの呼び名の方言分布を比較検討することにより、言葉が近畿から地方へ伝播していったことを明らかにしたもの。この中で提唱された理論が方言周圏論です。)「桃太郎の誕生」等は今日まで重版され続けています。

【柳田國男の生家】

P1080046.jpg(四畳半二間に三畳二間!男八人兄弟父母十人ですか~(;^_^A)
P1080047.jpg(模型の様な家でした。確かに狭いですね。)
P1080049.jpg(田舎の田造りの家です。奥が四畳半手前が三畳です。)
P1080059.jpg(おくどさん、ご飯はいっぱい必要だったでしょうね~。)

1875年(明治8年)7月31日、飾磨県(兵庫県)神東郡田原村辻川(現:兵庫県神崎郡福崎町辻川)に儒者で医者の松岡操の六男(男ばかりの8人兄弟)として出生します。

辻川は兵庫県のほぼ中央を北から南へ流れる市川が山間部から播州平野へ抜けて間もなく因幡街道と交わるあたりに位置し、古くから農村として開けていました。

字の辻川は京から鳥取に至る街道と姫路から北上し生野へ至る街道とが十字形に交差している地点にあたるためといわれ、そこに生家がありました。
生家は街道に面し、さまざまな花を植えており、白桃、八重桜などが植えられ、道行く人々の口上に上るほど美しかったといわれます。
生家は狭く、國男は「私の家は日本一小さい家」だったといっています(確かに小さいですね~(^^;)。
家が小さかったことに起因する悲劇が幼き日の國男に強い影響を与え、将来的にも大きな影響を与えました(小さな家に八人の男の子、長男が嫁を貰うと?まあ問題がおきますね(#^.^#))。

父・操は旧幕時代、姫路藩の儒者・角田心蔵の娘婿、田島家の弟として一時籍に入り、田島賢次という名で仁寿山黌(じんじゅさんこう)や、好古堂という学校で修学し、医者となり、姫路の熊川舎(ゆうせんしゃ)という町学校の舎主として1863年(文久3年)に赴任しました。
明治初年まで相応な暮らしをしたが、維新の大変革の時には予期せざる家の変動もあり、操の悩みも激しかったらしく、一時はひどい神経衰弱に陥いる程でした。

幼少期より非凡な記憶力を持ち、11歳のときに地元辻川の旧家三木家に預けられ、その膨大な蔵書を読破し、12歳の時、医者を開業していた長男の鼎に引き取られ茨城県と千葉県の境である下総の利根川べりの布川(現・利根町)に移り住みます。

生地とは異なった利根川の風物や貧困にあえぐ人たちに強い印象を受け、徳満寺という寺では、間引き絵馬(母親が、生んだばかりの我が子の命を奪っている姿を描いている)を見て、終生忘れることの出来ない衝撃を受けます。
ここでも、隣家の小川家の蔵書を乱読し、知識をおおいに増やしています。

16歳のときに東京に住んでいた三兄井上通泰(帝国大学医科大学に在学中)と同居、図書館に通い読書を続けます。

三兄の紹介で森鴎外の門をたたき17歳の時、尋常中学共立学校(のちの開成高等学校)に編入学(驚!)、この年田山花袋に出会っていますね。
翌年、郁文館中学校に転校し進級し、19歳にして第一高等中学校に進学、青年期を迎えます。

東京帝国大学法科大学政治科(現・東京大学法学部政治学科)卒業後、明治33年(1900年)に農商務省に入り、主に東北地方の農村の実態を調査・研究するようになりました~(^^;。

今回は、柳田国男の少年期~青年期を紹介しました。
河童のインパクト強かったですか?(笑)

P1080028.jpg(河太郎!お兄ちゃんです。こちらは動きませんよ!)
P1080033.jpg(この物語はフィクションですの注意書き要ります?笑)

民俗学者、柳田國男の生家や特産館もちむぎのやかた近くにある「辻川山公園」のため池に、河童の河太郎(がたろう)と河次郎(がじろう)が出没します。

これは、柳田國男が幼い頃を過ごした福崎町辻川での暮らしぶりなど、自身の人生を回顧して書いた著書『故郷七十年』に登場する、市川の駒ヶ岩の河童のガタロ(河太郎)をモチーフにした河童の兄弟で、1匹は池のほとりにいますが、もう1匹は池の中にいて、9時~17時の毎時0分・15分・30分・45分に水中から飛び出てきます。

実は出てくるのは河童だけでは無いのですよ~!
次回はもうひとり?と柳田國男の優秀な兄弟についてご紹介できれば良いと思っています。


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2017/04/17

日本三大名園『後楽園』は何れ程の物?

岡山城に出掛けたなら、ここは押さえとかなきゃね~(^^;
ということで、今日御紹介するのは、日本三大名園の一つ『後楽園』です。


但し、私他の二つ金沢市の「兼六園」水戸市の「偕楽園」を恥ずかしながら、訪れた事が有りません!

つまり、「比べるものが無い中で、評価するのは如何なものでしょう?」なのです。

そこで、アメリカの日本庭園専門誌『Sukiya Living Magazine/The Journal of Japanese Gardening(ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング)』が、全国の日本庭園900か所以上を対象に実施した「2016年日本庭園ランキング」日本庭園部門「14年連続日本一」に選ばれている足立美術館の庭園(島根県)と2位の桂 離宮を参考に(ちなみに、二つは訪れているんです、私!)、「後楽園」を査定?(笑)してみたいと、思います。

PB230095.jpg(当日の?イベントのモデルさんなので撮影させていただきました。綺麗ですね~!)

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PB230108.jpg(旭川越しに見る岡山城です。素敵ですね。)

後楽園(こうらくえん)は、岡山県岡山市北区後楽園にある日本庭園(大名庭園)で、皆さんも御存じの日本三名園のひとつです

江戸時代初期に岡山藩主・池田綱政によって造営された、元禄文化を代表する庭園で、国の特別名勝に指定されています。

後楽園は岡山藩主・池田綱政が岡山郡代官・津田永忠に命じて造らせたもので、1687年(貞享4年)に着工し14年の歳月をかけ1700年(元禄13年)に完成しました。
岡山市内を流れる旭川をはさみ、岡山城の対岸の中州に位置します。

藩主が賓客をもてなした建物・延養亭(えんようてい)を中心とした池泉回遊式の庭園で岡山城や周辺の山を借景としています。

江戸時代には延養亭を茶屋屋敷、庭園を後園または御後園と呼んでいました。
1871年(明治4年)、園内を一般開放するにあたって、これを後楽園と改めます(つまり後楽園は明治からの名前ですね(#^.^#))。

総面積は133,000平方メートルであり、東京ドームの約3倍です。
東京ドームのまえは何で後楽園球場だったのか知ってますか?、江戸時代初期に水戸徳川家の江戸上屋敷内につくられた築山泉水回遊式の日本庭園、小石川後楽園(こいしかわこうらくえん)東京都文京区後楽一丁目にちなんでいるんですって、ジャイアンツファンはご存知でしたかね?

此方岡山後楽園は岡山県が所有管理していますが、管理業務については県の外郭団体である財団法人岡山県郷土文化財団が県からの受託業務として行っています。

築庭の経緯は、後楽園から旭川を隔てて南にある岡山城は1597年(慶長2年)、豊臣家五大老の一人で、時の岡山藩主であった宇喜多秀家が旭川の流域にあった「岡山」という小高い山を利用して築城したものでしたね。
この時、旭川を城および城下町の防御を固めるための堀の代わりとして用いるために、旭川の流路を岡山城の手前で大きく東方へ曲げて城の北東面に沿わせ、さらに南流するように変えました。

これにより、城と城下町の防御は強固なものとなったが、あまりに不自然な流路となったため、以後、岡山城下はたびたび洪水に悩まされることになりました。

PB230027.jpg
(無理な河川工事正に洪水の温床です。)

藩主の座は宇喜多氏の後、小早川氏から池田氏へと移り変わり、4代目の池田綱政は、父光政に見出されていた津田永忠を登用し、度重なる洪水の被害に疲弊していた岡山藩の財政再建のために新田開発はもとより、放水路・百間川の開削などの抜本的な洪水対策を行い、藩の財政を再建させました(名君ですね~(^^;)。

1686年(貞享3年)ごろに百間川が完成し、藩の財政にも余裕が生じてきたため、綱政は永忠に命じて城北側の旭川沿い低湿地および宇喜多秀家によって集められた小姓たちが居住していた「小姓町」に自らの休息のための庭園を造るよう命じました。

池田家史料によると、1687年(貞享4年)12月に着工し(鍬始め)、翌1688年(元禄元年)には本格的な土木工事にとりかかり、次々と園内の建造物や植栽が完成していきました。
綱政は岡山在城中に足しげく庭園に通い、工事開始4年後の1691年(元禄4年)には、完成したばかりの延養亭で綱政が永忠ら工事に携わっている家臣の労をねぎらって園内で宴を催していることからも、この時点で綱政が満足できる出来栄えになっていたとみられます。

途中、洪水の被害を受けて施設の建て替え等を余儀なくされたが、その後も庭園の拡張や新たな施設の建築が行われ、1700年(元禄13年)に一応の完成をみます。

PB230076.jpg(簾池軒でお茶を一腹!)
PB230107.jpg(勿論きび団子ですね~笑)

なお、庭園は工事が始まった当初は「御菜園」、「御菜園塚」などと呼ばれていましたが、1695年(元禄8年)頃には城の背後にあることから「御後園」または「後園」と呼ばれるようになりました。

御後園の管理には専門の奉行職が設けられて徹底した管理が行われ、園内は時の藩主の好みによってところどころ変えられていきます。

当初の園内は綱政が田園風景を好んでいたため、田んぼや畑が多く配置されていましたが、1771年(明和8年)に藩が財政難に見舞われ、藩主・池田治政が経費節減のために芝生を植えさせ、次第に現在のような景観に変化していきました。

PB230106.jpg(唯心山は綱政の子、継政の時に築かれ、平面的だった庭園が立体的な景観へと変化しました。)
PB230079.jpg(曲水に板を渡した八橋(やつはし)のそばには杜若(かきつばた)があります。 『伊勢物語(いせものがたり)』の「東下り(あずまくだり)」の段にちなんだ、風雅な情景!)
PB230084.jpg(中央に水路を通し、色彩に富んだ奇石六個を配した全国的にも珍しい建物です。藩主の庭廻りや賓客の接待などで、休憩所として使われました。)
PB230085.jpg(唯心山へ登ります。)
PB230086.jpg(沢の池 園内中央にある池で、左から島茶屋(しまぢゃや)のある中の島(なかのしま)、釣殿(つりどの)のある御野島(みのしま)、白砂青松が美しい砂利島(じゃりじま)があります。)
PB230087.jpg(鶴鳴館本館も見えます。)
PB230091.jpg(島茶屋、園内最大の池である「沢の池」の中の島にある茶屋です。)
PB230088.jpg(井田!田んぼで~す。昔は園内に広く田畑が作られていましたが、今は井田だけがそのなごりを伝えています。)
PB230092.jpg(江戸時代には、ここで作った葉茶は、藩主がふだんに飲むお茶として使われました。茶畑!)

御後園には藩主が岡山在城中に休息のために度々訪れていたが、幕府が大名の生活を厳しく監視していたため、他藩の藩主や客人等が岡山に来訪した時には御後園は用いられず、すべて岡山城内で接待しました。

御後園で岡山藩主が客人らをもてなすようになったのは、幕府の力が衰えた幕末になってからで、1830年(天保元年)と1838年(天保9年)に9代藩主・池田斉敏が実の父親で薩摩藩主であった島津斉興をもてなした記録があります
また、日を定めて藩内の人々を対象に園内の公開が行われていました。

1869年(明治2年)の版籍奉還によって御後園は岡山城とともに一時的に明治新政府の手に渡りますが、翌1870年(明治3年)11月に御後園は再び岡山藩の所有となり、1871年(明治4年)2月7日に藩知事に就任していた池田章政が日を限って一般に開放しました。
この時、「御後園」の名称を中国・宋の范仲淹が著した『岳陽楼記』にある「先憂後楽」(「先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」)からとって「後楽園」と改めます。

しかし、それまで池田家の居住していた岡山城が兵部省管轄下になり、居住場所を失ったため、同年7月14日には嶺泉院(9代藩主・池田斉敏夫人)、10代藩主・池田慶政夫妻らが後楽園に移住することとなりました。

その後、1882年(明治15年)に多額の負債を抱え財政的に苦しかった池田家は当主の章政が岡山県に後楽園を土地は無償で、建造物と樹石は有償で譲渡することを打診します。

1883年(明治16年)12月22日から27日にかけて開催された県会では反対派の議員から後楽園に県有とするだけの価値があるかどうか疑問の声が上がり、後楽園買収の議案はいったん否決されたものの、後楽園の文化的価値や観光地としての価値を再検討した結果、1万2500円で買い取ることを決定します。

後楽園はこの後、岡山県庁の付属地として扱われ、1884年(明治17年)に一般に広く公開されるようになり、現在も「日本三名園」の一つとして多くの人々で賑わっています。

PB230103.jpg(能舞台なのですが…能舞台の周囲の座敷は、能の見所(けんしょ)や接待の場として使われました。)
PB230105.jpg(花交の池、築庭当時は山桜などの入り交じった景色で、池辺には花交という名の建物があり、池や滝にはその名が残りました。)
PB230099.jpg(延養亭(えんようてい)藩主の居間で、園内で最も重要な建物!左が能舞台に成っているはずです。)
PB230101.jpg(白砂青松が美しい砂利島)
PB230102.jpg(岩の向こうが茂松庵のはずです。)
PB230094.jpg(釣殿のある御野島)

【それでは年表を見ていただきましょう。】
1687年(貞享4年):12月、御後園(後楽園)鍬始め。
1689年(元禄2年):6月、菜園場と御茶屋が完成。7月、初の田植え。10月、芝原ができる。 
1691年(元禄4年):10月、御茶屋(後の延養亭)が完成。その後も園内各所に御茶屋・小座敷を整備。
1694年(元禄7年):2月、騎射亭の完成。
1695年(元禄8年):11月、渕明堂の完成。このころには「御後園」と呼ばれていたとされる。
1696年(元禄9年):1月、濂渓堂(廉池軒)が完成。2月、観騎亭の完成。
1697年(元禄10年):7月、御舞台の完成。9月、観音堂(慈眼堂)建立遷座。
1698年(元禄11年):1月、水害により損害を受けた延養亭を再建。地蔵堂と境沢(沢の池)の中島に弁財天堂を建立。
1699年(元禄12年):観音堂および仁王門の完成。延養亭と長屋の建て直し。
1700年(元禄13年):御後園が一応完成する。
1707年(宝永4年):能舞台が完成。
1716年(享保元年 :現存する御後園の絵図「御茶屋御絵図」が作成される。
1732年(享保17年):池田継政が2代目能舞台を造る。
1743年(寛保3年):この頃までに唯心山およびひょうたん池が完成。
1771年(明和8年):池田治政により園内の田畑が芝生に変えられる。
1863年(文久3年):この頃までに砂利島が半島から島になり、現在の姿になる。
1871年(明治4年):池田章政、御後園を「後楽園」と改める。2月7日に一般公開。7月14日に池田家が移住。
1884年(明治17年): 池田家から岡山県の所有となり一般に公開。
1922年(大正11年):名勝に指定される。
1934年(昭和9年):室戸台風で被害。
1945年(昭和20年):太平洋戦争時、岡山市が空襲を受けた際に岡山城天守とともに園内の建物も焼失した。
1947年(昭和22年):この頃まで 進駐軍の宿舎として使用される。
1949年(昭和24年):再び岡山県の所有となり、鶴鳴館を山口県岩国市の吉川邸から移築。
1952年(昭和27年):文化財保護法により国の特別名勝に指定される。茂松庵を復元。
1954年(昭和29年):6月1日から一般公開が有料になる。
1956年(昭和31年):かつて岡山に遊学した中国の政治家・郭沫若より2羽のタンチョウヅルを贈られた。これ以降も鶴の飼育が続けられ、元日には園内に放つイベントが催されている。「岡山県自然保護センター」も参照
1958年(昭和33年):能舞台を復元。
1960年(昭和35年):延養亭が再建。
1967年(昭和42年):園内の全ての建物が復元される。
2000年(平成12年):築庭300周年を迎える。

PB230098.jpg(最後も美男美女で…日本人で良かった~笑)

私の点数は??/100です(笑)。
私などが査定なんておこがましいですね、足立美術館の庭園には其処なりの、桂離宮にも勿論素晴らしい美しさがありました。
勿論後楽園にも、心を揺さぶる美しさがあります。
日本人で良かったと思える庭園ですね~GOOD!


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2017/04/15

吉備国の立地は、戦国~江戸期に岡山城に何をもたらしたのか?

前回の続きですが、今日は吉備国の立地についても少し考察してみましょう。

吉備の国・岡山(岡山城)は古代から大きな勢力の間で、時代と供に東西どちらの味方と成るべきかの選択を迫られる事を繰り返してきたとのかも知れません。
古代には、大和と九州もしくは出雲国(山陰勢力)との間で戦国時代は毛利VS織田(羽柴)、のどちらに付くべきか選択を迫られたのではないでしょうか?

PB230070.jpg(天守閣を後楽園方面から望む。)

海上交通の観点からも、岡山県中南部の港は古代・中世から海運・軍事の要衝であり、江戸時代、風待ち潮待ちの場所として繁栄してきました。
瀬戸内海航路の要所であり、北前船や参勤交代の御座船も寄港し、人や物が集まる港として繁栄は幕末まで続きました。

吉備津彦?宇喜田直家も時代は違えど、同じ様に悩んだのかも知れませんね(笑)

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岡山城は戦国~安土桃山時代に、備前東部から興り美作・備中東部まで勢力を伸ばした宇喜多氏が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれ、その後小早川氏、池田氏により整備、拡張が行われました。

【池田家の治世の始まりと岡山城】
「池田輝政」は、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、父の恒興と兄の元助が討死したため家督を相続(家康は親と兄の仇なんですけどね~(^^;)、関ヶ原の戦いでは東軍に付き岐阜城攻略の功績から播磨姫路52万石に加増移封され、初代姫路藩主となりました。

慶長16年(1611年)3月には、二条城における家康と豊臣秀頼との会見に同席しています。
慶長17年(1612年)、正三位参議、および松平姓を許され「播磨宰相」「姫路宰相」などと称されます(失礼ながら家康の飼い犬に成っちゃた。)。
また、次男・忠継の備前国岡山藩28万石、三男・忠雄の淡路国洲本藩6万石、弟・長吉の因幡国鳥取藩6万石を合せ、一族で計92万石(一説に検地して100万石)もの大領を有しました。
徳川家との縁組、(家康の次女督姫を継室にしています。)は家格を大いに引き上げ、明治に至るまで池田家が繁栄する基盤となったのです。

さて岡山藩ですが、慶長8年、備前28万石は姫路城主池田輝政の次男忠継に与えられましたが、幼少(5歳)であったので兄の利隆「備前監国」として代政します。
利隆は「石山」の西端の西之丸を整備したと言われています。
慶長18年(1613年)に忠継は岡山城に入りましたが、慶長20年(1615年)に死去してしまいます。

PB230022.jpg(天守閣がこちらに在ったと考えていましたが、こちらで配置だけ再現していたようです。(;^_^A)
PB230037.jpg(天守閣から金鯱越しに後楽園を望む。)
PB230065.jpg(本丸と表書院の説明版ですね~空襲で燃えてます、残念ですね~涙。)
PB230058.jpg(西から天守への階段は味がありますね。下にはライトが有って夜はライトアップされているようです。)
PB230064.jpg(廊下門!蝶の家紋は池田家の物ですが、種類が結構あるようです。)

元和元年(1615年)、忠継の弟・忠雄が淡路島より31万5千石で入封します。
幕府の格式に見合った城とするため、忠雄は本丸中の段を大幅に北側に拡張し、本段の御殿に加え新たに表書院も設けています。
また大手の南門を造り替え、城下の西端を限る用水路の西川を整備するなどし、ここに岡山城の縄張りが完成したのでした。
PB230027.jpg
(元禄~宝永期の岡山の町割りです、南北に長い事と無理やりの河川工事は洪水が起きやすそうですね~。)

重要文化財に指定されている月見櫓はこの頃の創建とされ、中の段の北西角の隅櫓で一部地下付き、本葺き、総白漆喰塗籠の壁仕上げの二階建てです。
城外からは二層の望楼型、城内からは三層に見えます。

江戸期の縄張は「岡山」に本丸、二之丸内郭(東南の郭)、「石山」付近に二之丸内郭(西の郭)、西の丸が置かれそれらの南に二之丸、その西南に三之曲輪、中堀の外に三之曲輪の内、西に三之外曲輪の内という配置です。

本丸には天守の他に3つの御殿、大納戸櫓を含む高層(3層以上)の櫓が9棟(城全体では11棟)、さらに2層の櫓、櫓門が多数ありました。

石山の二之丸内郭には池田家祖廟、西之丸に前藩主の隠居所がおかれ、二之丸内郭(東南の郭)、二之丸は上級武士の屋敷地に成ります。
三之曲輪と三之曲輪の内の北側には西国往来が通り、町人地として領国経済の中心となっていました。

三之曲輪の内の南半分は小早川氏時代の武家地であり、三之外曲輪は武家地、外堀を隔てて寺町や下級武士の屋敷や町人町がさらに広がっていたようです。

寛永9年、(1632年)忠雄の子・光仲が鳥取へ転封し、入れ代わって鳥取から池田光政が31万5千石で入封します。
光政は利隆の子であり、姫路城で生まれたが、父の死後元和元年(1615年)に鳥取城主となっていました。
以後、幕末まで光政系池田氏の居城となりました(鳥取城も同じように池田氏が幕末迄居城としています。鳥取藩池田家の最後の城主は15代将軍慶喜の兄です。)。

明治2年(1869年)の版籍奉還により藩主・池田章政は岡山藩知事に任ぜられ、岡山城は藩の府城たる役割を終えて兵部省管轄、つまり存城となりました。
明治6年(1873年)の廃城令により順次建物の取り壊し・堀の埋め立てが行われていき、明治15年(1882年)頃までには、天守・月見櫓・西之丸西手櫓・石山門を残すのみとなってしまいました(残念)。
明治23年(1890年)、旧藩主池田章政に払い下げられた後、池田家は岡山県に提供し、明治29年(1896年)には本丸趾に県立岡山中学校が建てられました。

PB230019.jpg(岡山中学校の跡)


ちなみに我が母校の兵庫県立豊岡高校ですが、なんと同じく明治29年兵庫県立豊岡尋常中学校として創立されています。
現岡山高校かな?兄弟校と言えますね~。

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2017/04/13

戦国時代の『烏城』を訪ねて岡山へ!

今日のご紹介は引き続き岡山県、『岡山城』です。

別名烏城、金烏城城郭構造梯郭式平山城
天守構造は、複合式望楼型4重6階
(1597年築)(鉄筋コンクリート造外観復元・1966年)
築城主は上神高直とされます。
築城年1346年~1369年(正平年間)ですが、主な改修者は宇喜多秀家、小早川秀秋、池田忠雄等です。
明治6年(1873年)に残念ながら廃城となります。
遺構としては、櫓、石垣、堀
国の重要文化財(月見櫓、西の丸西手櫓)です。

PB230024.jpg
(複合式望楼型4重6階のコンクリート天守閣です(;^_^A)

別名は烏城(うじょう)、金烏城(きんうじょう)と呼ばます。

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簡単な概要は戦国時代に、備前東部から興って、美作、備中東部まで勢力を伸ばした宇喜多氏が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれ、その後小早川氏、池田氏により整備、拡張が行われました。



PB230008.jpg
(本丸地図ですこの地図に沿ってご紹介して行きます。)

岡山城は標高が十数メートルの丘が連なる小高い土地に建設されています。

当時(戦国時代ですが)、旭川河口部は複数の派川に分岐しており、その中の大洲原と呼ばれる広大なデルタ地帯中央に「岡山」(柴岡山)、その西隣に「石山」、さらにその北西には「天神山」(天満山)の3つの丘が連なり、各時代ごとに要害として使用されていた様です。

その中の石山にあった石山城(いしやまじょう)に宇喜多直家が入城・改築し、後に、子の宇喜多秀家が隣接する岡山に新たに本丸を設け、石山城を取り込む形で城郭が建造されました。

城の縄張は基本的には梯郭式となっており、三段の城郭配置が西側の一方だけに広がる平山城となっています。
言いかえると本丸の北から東には郭の無い、非常に防備が薄い縄張と成っています。
そのため旭川の流路を変更し、天然の堀として東側の備えに利用した様です。
さらには郭の代りとして、「後園(後楽園)」が築かれたとも言われます。

天守は4重6階の複合式望楼型で、特に初重平面形状が歪んだ多角形をしているため、同じく歪んだ多角形平面の天守台を持つ安土城天主を模したものではないかとも言われていますが、羽柴秀吉による大坂城天守を模しているという説もあり意見が別れています(現在の天守の前に礎石が配置されて居ました。)。

その外観は黒漆塗の下見板が特徴的で、この印象から「烏城(うじょう・カラスじょう)」とも呼ばれ、同じ山陽道の隣県勿論ご存知兵庫県の「白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう)」とも呼ばれる姫路城と対比されることもあります(岡山県民の皆様には(^人^)ですが、兵庫県民としては、心外かも(-""-;))。

元禄時代の古地図からは、五重の濠に囲まれた城郭と、南北3.5km、東西1.3kmにおよぶ城下町の姿が伺えます。

明治時代に御殿・櫓・門の大半が取り壊されました(これに関しては、明治政府の政策は本当に腹立たしいです。)。
堀は内堀の一部を除いてほとんど埋められましたが、街路は江戸時代の位置をほぼ踏襲している個所が多いようです。

さらに第二次大戦中、空襲のため天守・石山門を焼失してしまいました。
現在までに2つの櫓、本丸付近の石垣、内堀が残り、戦後に天守・不明門・廊下門・六十一雁木上門・塀の一部が再建されています。

現存する月見櫓・西之丸西手櫓は国の重要文化財に指定され、「岡山城跡」として史跡にも指定されています。

その他、京橋御門が岡山市南区小串に移築され現存しています。
城跡は「烏城公園」として整備される一方、二之丸跡に山陽放送、林原美術館、岡山市民会館が、三之丸跡に岡山県庁、岡山県立図書館などの公共機関があります。
近年本丸御殿の再建が検討されましたが、今のところ目処は立っていません(名古屋城の建て替えも決まった事ですし、頑張れ岡山県?)。

また隣接する大名庭園「後楽園」は、水戸・偕楽園金沢・兼六園とともに、日本三名園として並び称されていますね。

PB230001.jpg(内下馬橋を渡って城内に?ここも本来城内なのですがね。)
PB230009.jpg(巨石が使われていますね~とても守備が弱いとは思えませんが?此方は南側です。)
PB230011.jpg(不明門を横から見ています。高い石垣やはり南側ですが?)
PB230015.jpg(同じく不明門を横から、天守までもう少しです。)

【今回は城の築城~小早川家迄の歴史を御紹介】

南北朝時代の正平年間(1346年~1369年)に、名和氏(南朝の武将の一族)が「上神高直」石山台(岡山)に城を築いたと、「備前軍記」に書かれているのが最初と伝えられています。

その後およそ 150年間の城主は記録が有りません。
なおこの付近には摂関家領・鹿田荘の中心部があったとされ、旭川(鹿田川)河口の港町としても栄えていた様です。
戦国時代の大永年間(1521年~1528年)には、金光氏が居城とし金川城主の松田氏に仕えていました。

元亀元年(1570年)、「宇喜多直家」が金光宗高を謀殺しこの地を支配します。
直家は備前守護代浦上氏の一族浦上宗景の被官であったが、備前西部を中心に勢力を急速に伸ばしていました。
天正元年(1573年)、直家はそれまでの居城である亀山城(沼城)から石山城に入城し、城の改築と城下町の形成を行ないます。
この頃の石山城(岡山城)は、縄張が東西に走る連郭式であったと推定されており、直家は北方の山裾にあった西国街道を、城の南に沿うように付け替えて城下に導来ました。
そして備前福岡、備前西大寺などから商人を呼び寄せ、いわゆる城下町の整備を行うなど積極的に流通主導による経済振興とも言うべき政策をとりました。
これは、信長が安土城を築城する3年前のことで、直家が幼少の頃に、備前福岡の商人に庇護を受けたと言われていることも無縁ではないとみられていますが、武人としても行政官としても宇喜多直家は非凡な人物では無かったことがわかりますね(大河ドラマdと結構な悪役でしたが(;^_^A)。
なお主家である宗景の居城の天神山は巨大ではありますが天神山にある山城で、直家の水辺に近い小高い丘の石山城とは対照的です。

喜多直家は天正3年(1575年)には、浦上宗景の兄・政宗の孫をおしたてて宗景を播磨へ放逐し、事実上の下克上を行いやがて備前、美作、さらに播磨、備中の一部を支配下に置きました。

直家の子「宇喜多秀家」は、豊臣政権下で父の遺領をほぼ継承し、57万4,000石の大大名となりました。
これに相応した城とするため天正18年~慶長2年(1590年~1597年)の8年間にわたる大改修が行われ、近世城郭としての体裁を整えます。
秀家は「岡山」に本丸を構え、石山城の本丸を二之丸内郭に、二之丸を西之丸とし、そして内堀を挟んで二之丸、その西に三之丸の郭を整備します。
これらは織豊系城郭に特徴的な高石垣の積まれた城に成ります。
本丸は本段、中の段、下の段に分かれた構造で、本段の北寄りに金箔瓦を使用した壮麗な4重6階の望楼型天守を建てました。
そしてそのままでは本丸の東側の守りが極めて薄い構造となったため、旭川本流を城郭の北から東側に沿うように極端に寄り添わせる形とし、天然の堀としています。
ただしこの付け替えによる明らかに不自然な形の流路は、城下に洪水を多発させる原因となり、やがて放水路としての百間川の整備へとつながります。
そして城を南から取り巻くように西国往来の道筋を変えて、直家時代の城下町を拡大整備し、引き続き領内の有力商人を勧誘して経済活動を発展させるよう努めました。
築城には義父となった「豊臣秀吉」の意向が大いに働いていたのは間違いないでしょう
こののち城は「岡山城」城下町は「岡山」の呼称が定着しました。

PB230018.jpg(不明門正面中が天守台ですが、場所は少し違っています。)
PB230026.jpg
(金の鯱ですね~天守にもあります。)
PB230039.jpg
(烏城のいわれ~カラス!見たまんまですけどね。笑)
PB230062.jpg(宇喜多秀家の頃の石垣が天守台のそばに埋まっているようです。)

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍の主力となった秀家は八丈島に流刑となり、宇喜多家は改易となった。
代わって「小早川秀秋」が備前・美作52万石の領主として入城した。
秀秋は本丸中の段を拡幅し、三之丸の外側に15町余の外堀を掘り三之外曲輪の整備をして城下町の拡大を行った。
この外堀工事に農民だけでなく武士も使役し20日で完成したため、「廿日堀、二十日堀(はつかぼり)」と呼ばれている。
慶長六年には、中の段南隅に沼城天守を移築したとされ、これは大納戸櫓と呼ばれ、岡山城最大の櫓で二層の大入母屋造りの上に望楼を乗せた形式の三層四階の櫓であった。
秀秋は2年後の慶長7年(1602年)10月に岡山で急死し(勿論関ケ原の裏切りの恨みの噂が絶えなかったのはしょうがないですね)、嗣子がなく小早川家は断絶しました。

次回は池田家の岡山城をご紹介できますか?ご期待ください。

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2017/04/10

天平時代の国分寺の雰囲気をそのまま残す『備中国分寺』を訪ねて。

今日は「備中国分寺」をご紹介いたします。

天平は、日本の元号の一つで、神亀の後~天平感宝の前となります。
西暦では729年か~749年までの期間を指し、この時代の天皇は聖武天皇です。
奈良時代の最盛期にあたるため、東大寺、唐招提寺などに残るその時代の文化を天平文化と呼びます。
備中国分寺は往時の雰囲気をそのままの姿で残している?なかなかの建物ですよ、但馬も含めて痕跡だけ(礎石だけとか!)に成っている所が多い中、しっかり国分寺でした(´∇`)

CIMG2875.jpg
(岡山市内で邪馬台国サミットが迫っておりまして、写真が少ないです。まだブロガーじゃ無かったし…言い訳です。)

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【備中国分寺】

住所:岡山県総社市上林
山号:日照山宗派真言宗御室派
本尊:薬師如来
創建年:天平13年(741年)
開基:聖武天皇(官立)
中興年:江戸時代中期
備中西国三十三所観音霊場28番




CIMG2872.jpg
(田んぼの中の国分寺、天平時代もこんな感じだったのでしょうか?五重の塔は七重でしたけどね。)


奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、備中国国分寺の後継寺院にあたります。
現寺院と、創建当時の史跡である備中国分寺跡・備中国分尼寺跡についても御紹介します。

田園風景の中に建つ五重塔は、観光地吉備路のシンボル的な存在となっています。

寺伝では、廃寺となっていた国分寺を天正年間(1573年~1592年)に備中高松城主・清水宗治(あの秀吉の水攻めで切腹した猛将ですね。)が再興しましたが衰退し、江戸時代中期の宝永年間(1704年~1711年)に再建されたとされています。

CIMG2873.jpg
(これでも35メートルほど、最初は50メートルですから)

五重塔(国の重要文化財)五重塔は、高さ34.32メートル。
南北朝時代に奈良時代の七重塔(推定50メートル、塔跡が残っています。)を焼失したのち、1821年(文政4年)に位置を変えて再建を開始、弘化年間(1844年~1847年)に完成しました。
江戸時代後期の様式を濃く残す岡山県内唯一の五重塔です(備前市に三重の塔は有った気がします。)。
当初は三重塔で計画されたのを五重塔に変更されたようです。
塔は国の重要文化財に指定されています。

備中国分寺跡は、創建当初の国分寺跡は現在の国分寺境内と重複しています。
寺域は東西160メートル・南北180メートルと推測され、出土した土器などから中世初期まで存続したと推定されています(なお国府は賀陽郡ですが、国分寺は窪屋郡に位置している。)。

旧伽藍は以下に示す通りで、配置は法起寺式(金堂の右に塔が配置される。現在とは逆配置に成りますか!)と考えられています。
一部は現伽藍と重複しており、詳細は明らかには成っていません。

南門は南端に位置し、間口5間・奥行2間、天平年間に3間1戸から5間1戸に大改修されています。

中門は間口5間・奥行2間、全体としては南門を上回る規模、南門との間には大井戸が見つかっています。

塔は高さ約50メートルの七重塔。

金堂・講堂は現在の境内伽藍の下にあり、位置・規模は不明です。

CIMG2874.jpg
(伽藍の下に本堂・講堂が有ったようです、国分尼寺は右方向少し先に在ります。地図で確認ください。)

【聖武天皇の不可解な御幸】
国分寺建立の背景なんですが、聖武天皇の伊勢行幸が行われました(740年「天平12年」10月26日)。
折りから大宰小弐藤原広嗣が九州大宰府に反乱の兵を挙げ、都へと上がろうとする中、時の帝聖武天皇は不意に平城京を捨て、後世に『不可解な御幸(みゆき)』ともいわれる伊勢行幸をおこないます。
「朕(ちん)、意(おも)うところあるによって、今月末暫く関東に往かんとす。その時に非ずといえども、こと已むことあたわず」
こうして聖武天皇は、反乱征討軍の将軍大野朝臣東人(おおののあそんあずまひと)宛に一文を送ると、右大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)を伴い、伊勢路をたどり、やがて遠く美濃、近江までも行幸とも彷徨ともつかない旅を続け、12月半ば、ようやく山背国恭仁(やましろのくにくに)郷へと着いたのでした。
直ちに恭仁京遷都がおこなわれ、都の造営が始まりましたが、明けて天平13年3月、この地から諸国に向けて発せられたのが「国分寺創建の詔」でした。

聖武天皇は七重の塔に主眼を置いた金光明四天王護国之寺(国分僧寺)と、法華滅罪之寺(国分尼寺)の二寺の名を正式に定め、国家鎮護を目的とした寺院建立を広く諸国へ命じたのでした。
その動機について、当時、飢饉と疫病の流行がうち続き、また藤原広嗣の乱による政情不安から一層悩みを深くした聖武天皇が、仏の加護による安寧を求めておこなったものである、と歴史書の多くは時代背景を説いています。
また、天然痘の流行により一気に壊滅に瀕した藤原一族の余命を支えるため、光明皇后(藤原不比等(ふじわらふひと)の娘)が仏教を奉じて、亡父不比等の封戸3,000戸を国分寺に施入した結果 である、と後宮政治説の立場からの解釈もあります。

【仏教および国分寺の必要性って何?】
聖武天皇の詔に先立つこと200年、宣化天皇代の538年(一説に552年)、百済からはじめて仏教が日本へと伝えられたといわれています。
663年の白村江の戦に敗れ朝鮮半島における足掛かりを失った日本は、壬申の乱を経て、やがて内政充実の方向へと向かって行きました。
律令国家建設の大きな柱として、国分寺建立の思想はすでに六世紀中ごろからあったともいわれます。
その推進者である天武天皇代の676年、全国に使者を遣わして「金光明経」「仁王経」を購読させています。
天武14年(685年)3月には諸国に仏舎を造り、仏像や経を礼拝せよとの詔が出されています。
持統7年(693年)10月には諸国で仁王経を講じさせ、翌年金光明経百部を全国へ配布しています。
神亀5年(728年)12月には、金光明経が再び全国へ配布されました。
天平9年(737年)3月には釈迦仏像と挟持菩薩を造り、大般若経を写経せよとの詔が出されます。
天平13年(741年)3月、国分寺(国分僧寺、国分尼寺)造営の詔が出されます。
これらの流れを考えますと、改まって寺の造営を命じたというよりも、むしろ今までに出した仏像造営と写経、そして仏教崇拝の詔を徹底する為の、最後の一押しが「国分寺創建の詔」だったのではないでしょうか。

仏教による中央集権国家体制の安定を目指した六世紀の初めでしたが、文武天皇代の703年に端を発した凶作は、続く疫病の流行と相まって治まるところを知らず、諸国に飢餓と疫疾を蔓延させました。
そんな状況の中でおこなわれた元明(げんみょう)天皇の平城京遷都(710年)は、造都にかり出された民衆の多くが帰郷の途に餓死するという悲惨な結果となってしまいます。

聖武天皇の即位(724年)は、政教一致による律令国家構想がわずか20年にわたる天災によって、危機に瀕した、そんな時代状況の中でおこなわれたのでした。
即位 と同時に、聖武天皇は仏教界の立て直しを図ります。

『続日本紀』によると、国分寺創建の詔よりも以前に、
「国毎に釈迦仏の像一、挟侍(きょうじ)菩薩二を造り、兼て大般若経一部を写 さしめよ」(737年3月)
「天下の諸国をして国毎に法華経十部を写し、ならびに七重の塔を建てしむ」(740年6月)
と、二度にわたり、諸国国分寺の存在を思わせる聖武天皇の詔が発せられています。
天平13年(741年)3月の聖武天皇による「国分寺創建の詔」は、永年にわたる国分寺構想の集大成であったと考えられます。

聖武天皇は、日本全国に護国の教典をまつる寺院を建立し、平城京には全国の国分寺の総寺として東大寺と大仏を、国分尼寺の総寺として法華寺を建立しました。

国分寺は「金光明経(金光明最勝王経)」に基づき、国分尼寺は「法華経」に基づき建立されました(正式名称を「法華滅罪之寺」)。
「金光明経」「法華経」、そして「仁王経」を総称し「護国三部経」といいます。
「金光明経」には「この経を広め、また読誦して正法をもって国王が施政すれば国は豊かになり、四天王をはじめ弁才天や吉祥天、堅牢地神などの諸天善神が国を守護する」と説かれています。
「法華経」にも「この教典に帰依すれば仏法によって国土が夜叉から守られる」と説かれてます。(「法華経」は女人の往生を説いている関係から、こちらをまつる寺院が「尼寺」となったのではないでしょうか?)

国分寺や大仏には天皇および朝廷の権威を示す、公共事業、文化の普及、といった政治的意図もあったとは思いますが、やはり仏教によって国を守り、繁栄させるというのが国分寺・国分尼寺建立の基本精神だったと考えます。

さて~備中国分尼寺跡ですが、国分寺の東方に位置します。
寺域は東西108メートル・南北216メートル、南北朝時代の戦火で焼失したとされるが、多くの礎石・遺構が残っています。

持統天皇、元明天皇、元正天皇が皇位を繋ぎ、藤原氏に実権がうつった後は、藤原不比等の娘達が皇后となって政治力を握って行くことになります。
この時代の女性は強かったですね~(笑)


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2017/04/07

丹波の赤鬼『悪右衛門』死す!「第二次黒井城戦」光秀面目躍如?

前回、「丹波の赤鬼」こと赤井悪右衛門直正の活躍を御紹介しました。

第一次黒井城攻防戦では、明智光秀を取り囲み、光秀に「もはやこれまで」と死を覚悟させるほどに撃ち破った直正ですが、第二次黒井城の戦いでは織田軍トップの精鋭部隊明智光秀の反撃が始まります。

P3190024.jpg(正面でなくて申し訳ないのですが、説明板前に登山者の車が有り正面撮影が出来ませんでした。許してください!)

今回は、直正の最後と黒井城落城彼の末裔のその後について御紹介します。

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【光秀汚名挽回に奔走する!】
明智光秀は第一次黒井城攻略戦失敗の後、第三次信長包囲網を破るべく、畿内を転戦します。
「石山本願寺攻め(天王寺の戦い)」「紀州征伐」「加賀攻め」「信貴山城の戦い」、など休む暇もなく戦場を往来し、丹波攻略に集中出来る状況では有りませんでした。
明智軍は必要に応じて駆り出される「遊撃軍」を担っていたと思われます。

【第二次黒井城の戦い】

明智光秀は、加賀の一向一揆が終息に向かい、信貴山城の戦い(松永久秀は、上杉謙信・毛利輝元・石山本願寺などの反信長勢力と呼応して、本願寺攻めから勝手に離脱します。織田軍は信忠を総大将とし、筒井勢を主力とした大軍を送り込み、信貴山城を包囲させます。佐久間信盛は名器・「平蜘蛛茶釜」を城外へ出すよう求め、久秀は「平蜘蛛の釜と我らの首と2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ、火薬で粉々に打ち壊すことにする」と返答、織田軍の攻撃が始まると平蜘蛛を叩き割って天守に火をかけ自害、享年68。)が終了する天正5年(1577年)10月、第二次丹波征討戦を開始します。

一方、赤井直正は下館中心に信長包囲網の一翼を担っていました。
足利義昭や吉川元春の使者安国寺恵瓊、武田勝頼の使者跡部勝資や長坂光堅、石山本願寺の顕如からの密書、密使が再三この地を訪れていたという記録が残っています。

特に石山本願寺からは信長の動向、その対抗策、返信の要請など緊密に連絡が行き来されていたと考えられます。
また、直正と弟の幸家は吉川元春に太刀や馬を贈り、上洛と丹波への急援を要望しています。

明智光秀は吉川元春の援軍が到着する前に、多紀郡にある籾井城、桑田郡にある亀山城を攻略、この二城を丹波征討戦の本拠地としました。

第一次丹波征討戦と違い光秀は一挙に黒井城を攻めようとせず、慎重に周りの城から攻城していく各個撃破戦略をとります(大軍による各個撃破は兵法の常道ですね(#^.^#))。

その上に信長は細川藤孝・忠興父子の援軍を送り、翌天正6年(1578年)3月に八上城と氷上城の包囲を完成させます。

P3190044.jpg(東曲輪から見ると、三の丸・二の丸・本丸と続いています。)
P3190046.jpg(三の丸跡です。最初の光秀の説明板に矢竹が自生と有りました。戦国の城らしいですね!。)
P3190048.jpg(二の丸から本丸を望む。桜がもったいないですね~週末辺り最高かも知れません。)

【丹波の赤鬼・赤井直正・悪右衛門死す!光秀に勝って病魔に敗北!!Σ(×_×;)!】

この時に赤井方では、主将である赤井(荻野)直正が3月9日に病没するという大事件がおきています。

数十年に亘り実質的な赤井氏の指導者であった直正の死去は丹波の国人衆に大きな影響を与え、一旦光秀を裏切った丹波国人衆も八上城が包囲されるのを見ると再び光秀に降っていきました。
黒井城と赤井家は息子の赤井悪右衛門直義(9歳)が継ぎ、弟の幸家が後見と成り統率することになります。

更に信長は同年4月に羽柴秀長軍と明智秀満軍の増援を送り込み、山垣城・細工所城・栗住野城・玉巻城・岩屋城・霧山城、等の「八上城」「黒井城」の支城は次々と落城していきました。

光秀は攻囲中に、軍勢を八上城周りに置きながら別所長治や荒木村重の謀反にも対処しています(三木合戦・有岡城の戦い!光秀の能力は流石といえます。)。

翌天正7年(1579年)3月に八上城と黒井城の分断を目的に金山城を築城します。
各支城が落城し、金山城の効果も出始めたのか、5月5日には氷上城が落城します。

極度の飢餓状態になった八上城に対して、『信長公記』によると「調略をもって」という記載がある事から、八上城兵に対して働きかけがあったと思われますが、遂に6月1日 八上城が落城、捕えられた波多野三兄弟は光秀護送の元、洛中を引き回され安土城に出向き信長の命により磔になります。

光秀は7月に再び丹波に入国し、最後の城、黒井城の攻略にとりかかります。

最初の戦いから約1年半後、再び光秀が黒井城の攻撃を開始したのは天正7年(1579年)8月でした。
両軍の戦力は、明智軍約10,000赤井軍約1,800でした。
明智光秀軍は明智光秀・明智秀満・細川藤孝・細川忠興・羽柴秀長と丹波の山城一つ落とすのに、ある意味オールスターです(#^.^#)。

P3190051.jpg(この広野に一万の軍勢が終結したのか?)P3190064.jpg(二の丸から本丸へ空堀の後ですかね。)

赤井忠家軍は、第一次黒井城の戦いの時とは違い、波多野家からの援軍もなく黒井城の支城もほとんどが落城してしまい、兵力も激減していたと思われます(五分の一以外ですからねぇ(^^;)。

戦いは8月9日早朝開始、光秀は第一次黒井城の戦いの反省をいかし慎重に攻め込み、仮想陣地に火をかけたり、ほら貝を吹いて混乱を装い、攻めると見せかけて退いたり、勢いに乗って追う黒井城兵を誘い込み挟撃したりしました。
そんな中、明智軍の四王天政孝隊が手薄になった千丈寺砦から攻め落とし、主曲輪に向けて総攻撃を仕掛けます。
明智軍の誘導作戦で主曲輪には僅かな手勢しか置いておらず忠家も奮戦したが、最後は自ら火を放ち敗走しました。

P3190060.jpg(本丸階段!小さいながらも建物が有れば、枡形に成って攻めにくいですか?)
P3190054.jpg(上からは槍をつき下ろすだけで良いですね。)

この黒井城の落城により丹波の組織的反抗は終止符をうったのでした。

若干の反対勢力との小競り合いや和睦などを片付けて、明智光秀、細川藤孝らは10月24日に安土城に凱旋し、信長に拝謁し丹波が平定できたことを報告します。

翌天正8年(1580年)に信長は丹波を光秀に、丹後を藤孝に与えることになりました。

黒井城落城から三年、天正10年の5月25日、愛宕百韻と言われる、連歌師・里村紹巴を招いて京都・愛宕神社で光秀が設けた連歌会で「時は今 あめが下しる 五月かな」と発句、本能寺の変~天王山の戦いで自身が破滅への道を進むとは、光秀も考えてはいなかったでしょうね(-""-;)。

P3190059.jpg(ハイキング・トレッキングには最適です。桜満開の時期も良し、舞い散る花びらに直正の死にざまを考えるも良し!)
P3190057.jpg
(別名・保月城跡!是非お出かけください~笑)

余談ですが、直正の嫡男、赤井直義(9歳)は後見の叔父の赤井幸家によって落城寸前の黒井城のから脱出します。
のちに京都に隠棲し、荻野金左衛門と名前を改名しました。
1610年、山口直友を介して藤堂高虎に仕え1000石を賜ると同時に旧姓赤井に復しています。
大坂の役では藤堂軍の足軽大将として活躍しました(子孫は藩士として続きます)。

直正の妻・桂光院は、大和国駒崎城主・古市胤栄へ再嫁し、三男・赤井弥七郎を生みます。
弥七郎は、大坂の陣にて豊臣方として参戦した後、元和2年(1616年)にやはり藤堂家に500石で召し抱えられています。

先日NHKのファミリーヒストリーと言う番組を見ていたところ、俳優の赤井英和さんが、赤井(悪右衛門)直正の嫡男・直義を守って落ち延びた、弟・赤井幸家の子孫だと知りました(驚!)。

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