写真撮影自由って、驚愕太っ腹!『建仁寺』
『建仁寺』の御好意に甘えて(建仁寺は写真撮影は自由です!)、写真撮影してきた物を出来るだけ御紹介したいと思います。
ニューヨークでの展覧会への出展要請を機に、京都国際文化交流財団が最新デジタル技術と、、グラフィックデザイナーの色調補正によって、特殊開発された和紙にプリントされたものだそうです。
金箔の再現だけは、西陣の伝統工芸師が協力されたようです。
前回私が陶板複写と書いたものは、現在おかれている平面の物でした。
前回御紹介出来なかったのですが、建仁寺は私の好きな(通好みの武将!)、安国寺 恵瓊(戦国武将&外交僧)にも縁が有り、首塚も有りますので、そちらも御紹介させて頂きます。
其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいね。




日本に臨済宗(禅宗、私が時々参禅している曹洞宗も禅宗ですけど、作法が少し違ったりします。)を正式に伝えたのは栄西と言われています。
栄西は永治元年(1141年)、備中国(岡山県)吉備津神社神官の賀悦氏の家に生まれました。
13歳で比叡山に上り翌年得度(出家!なぜ神道じゃ無いんだ~(^^;?)、仁安3年(1168年)と文治3年(1187年)の2回、南宋に渡航して仏教を学びます。
1度目の渡宋はわずか半年でしたが、2度目の渡宋の際、臨済宗黄龍派(おうりょうは)の虚庵懐敞(きあんえじょう)に参禅ししました。
建久2年(1191年)、虚庵から印可(師匠の法を嗣いだという証明)を得て、帰国しますが、当時京都では比叡山(延暦寺)の勢力が強大で、禅寺を開くことは困難だったのです。
そこで、栄西は始めは九州博多に聖福寺を建て、のち鎌倉に移り、北条政子の援助で正治2年(1200年)に建立された寿福寺の開山となります。
その2年後の建仁2年(1202年)、鎌倉幕府二代将軍「源頼家」の援助を得て、元号を寺号として、京都における臨済宗の拠点として建立されたのが建仁寺です。
創建当時の「建仁寺」は天台、真言、禅の3宗並立でした。
これは当時の京都では真言、天台の既存宗派の勢力が強大だったことが背景にありました。
創建から半世紀以上経た正元元年(1259年)には宋僧の蘭渓道隆が十一世住職として入寺し、この頃から純粋禅の寺院となりました。
残念な事に「建仁寺」は、応仁の乱による焼失のほか、応永4年(1397年)、文明13年(1481年)などたびたび火災の被害にあっており、創建当時の建物は全く残っていません。
【方丈・山門建物あれこれ!】
「望闕楼」(ぼうけつろう)の別称がある三門は、静岡県浜松市(旧浜名郡雄踏町)の安寧寺から1923年に移築したもので、江戸時代末期の建築です。
方丈は(重要文化財)、室町時代の建物で、もと広島の安国寺にあり、安国寺恵瓊が慶長4年(1599年)に建仁寺に移築したもです。
東側に設けられた大玄関を介して本坊と連結しています。
各室には桃山時代の画壇を代表する画家の一人である海北友松の水墨障壁画がありましたが、現在は襖から掛軸に改装され、京都国立博物館に寄託されています。
現在は、日本画家橋本関雪による障壁画『生生流転』(しょうじょうるてん)『伯楽』『深秋』『蕭條』『松韻(寒山子)』(計60面、1940年完成)が設置されています。
【茶室東陽坊】
北野大茶会の際に千利休の高弟・真如堂東陽坊長盛が好んだと伝えられる茶室(二畳台目下座床の席)です。
構成・意匠ともに薮内家の燕庵に共通する点が多く見られます(大正年間に現在地に移築されました)。
【さて安国寺 恵瓊って誰?】
安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗の僧で、武将および外交僧です。
道号(字)は瑶甫、法諱(諱)は恵瓊、号は一任斎または正慶といいます。
「安国寺」は住持した寺(安芸安国寺(不動院))の名で、安国寺恵瓊はよく知られた通名で、禅僧としての名乗りは瑶甫 恵瓊(ようほ えけい)といいます。
毛利氏に仕える外交僧として羽柴秀吉との交渉窓口となり、豊臣政権においては秀吉からも知行を貰って大名に取り立てられたとするのが通説です(異説もf(^_^;)。
生年には諸説があり、天文8年(1539年)とも天文6年(1537年)ともいわれる。
父親に関しても安芸武田氏の一族である武田信重(光広)の子とも、伴繁清の子とも伝わる(つまりわからんて事ですか?笑)。
天文10年(1541年)、毛利元就の攻撃で安芸武田氏が滅亡すると、家臣に連れられて脱出し、安芸の安国寺(不動院)に入って出家します。
その後、京都の東福寺に入り、竺雲恵心の弟子となりますが、恵心が毛利隆元と親交があったため、これがきっかけとなり毛利氏と関係を持つこととなります。
僧としては天正2年(1574年)に安芸安国寺の住持となり、後に東福寺、南禅寺の住持にもなり、中央禅林最高の位にもつきました。
慶長4年(1599年)には建仁寺の再興にも尽力しています。
毛利の外交僧としての活躍は色々と有るのですが、皆さんがご存知なのは、先ずは此ですね。
天正10年(1582年)、毛利氏が羽柴秀吉と備中高松城で対陣していた、「備中高松城の戦い」の最中に本能寺の変が起き、織田信長が亡くなります。
このとき秀吉はその事実を隠して、毛利氏に割譲を要求していた備中国・備後国・美作国・伯耆国・出雲国を、高松城主・清水宗治の切腹を条件に備中・美作・伯耆とする和睦案を提示し、恵瓊はその和睦を取りまとめました(高松城以前ご紹介しました)。
また本能寺の変の事実判明後の7月、講和交渉が再開した際には和睦が成らず毛利家が滅ぼされた時には小早川秀包・吉川広家を秀吉の家臣に取り立ててほしいとも願い出ています。
結局、両名を人質として出すことと引き換えに毛利氏の領国は認められ、恵瓊は秀吉がこれから躍進することを予測して進んで和睦を取りまとめたとされ、彼の信任を得る事に成ります。
天正13年(1585年)1月、毛利氏が秀吉に正式に臣従する際の交渉も務めて、秀吉から賞賛されます。
このころすでに秀吉側近となっていた恵瓊は四国征伐後、伊予国和気郡に2万3,000石を与えられ、天正14年(1586年)の秀吉の九州征伐後は6万石に加増され、僧でありながら豊臣大名という異例の位置付となっています。
恵瓊本人の禄では有りませんが、安国寺にも天正19年(1591年)1万1,000石の寺領が与えられています。
秀吉の側近も兼ねることとなった恵瓊は、「九州征伐」、「小田原征伐」、その「後肥後国人一揆」、「文禄・慶長」の役と活躍しています(本当に簡単で申し訳ないです。恵瓊については、又の機会にゆっくりお話したいですね(^人^))。
そして人生最後と成ったのが、「関ヶ原の戦い」です。
恵瓊は毛利一族の中では親秀吉派の中心であった小早川隆景に近く、文禄年間に秀吉が病臥した際にはその回復を小早川家重臣・山田某に伝え、同じ書状で隆景の隠居に関しても連絡するなど秀吉と隆景との間を連絡する活動を行っており、隆景が死去すると毛利が軽視されかねないと将来を危ぶんだ様です。
果たして危惧は的中し、自身も小早川氏と並ぶ毛利氏の支柱であった吉川広家と対立し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは懇意であった石田三成と通じて西軍に与し、毛利一族の当主・毛利輝元を西軍総大将として担ぎ出すことに成功しています。
9月15日の関ヶ原における合戦では、毛利秀元・吉川広家とともに徳川家康軍の後方に騎馬700、足軽3,000という部隊で陣取りましたが、前に布陣する吉川広家が家康に密かに通じて毛利軍の参戦を阻んだため、結局戦闘に参加することなく、西軍は敗北してしまいました。
敗北後、恵瓊は一旦毛利本家の陣に赴き、吉川広家に諭され逃亡し鞍馬寺、下間頼廉の婿である端坊明勝が住持である本願寺と匿われ京都の六条辺に潜んでいましたが、奥平信昌隊の鳥居信商(長篠城攻防戦で使者として高名の鳥居強右衛門の子)に捕縛され、大津にいた家康の陣所に送られます。
西軍首脳の1人として、六条河原にて斬首され、石田三成・小西行長と共に梟首に処せられました(享年62または64でした。)。
そして首は此処に埋められて供養されたってことですね。
いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!
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【臨済宗の祖「栄西」について御紹介します。】
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【臨済宗の祖「栄西」について御紹介します。】
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栄西は永治元年(1141年)、備中国(岡山県)吉備津神社神官の賀悦氏の家に生まれました。
13歳で比叡山に上り翌年得度(出家!なぜ神道じゃ無いんだ~(^^;?)、仁安3年(1168年)と文治3年(1187年)の2回、南宋に渡航して仏教を学びます。
1度目の渡宋はわずか半年でしたが、2度目の渡宋の際、臨済宗黄龍派(おうりょうは)の虚庵懐敞(きあんえじょう)に参禅ししました。
建久2年(1191年)、虚庵から印可(師匠の法を嗣いだという証明)を得て、帰国しますが、当時京都では比叡山(延暦寺)の勢力が強大で、禅寺を開くことは困難だったのです。
そこで、栄西は始めは九州博多に聖福寺を建て、のち鎌倉に移り、北条政子の援助で正治2年(1200年)に建立された寿福寺の開山となります。
その2年後の建仁2年(1202年)、鎌倉幕府二代将軍「源頼家」の援助を得て、元号を寺号として、京都における臨済宗の拠点として建立されたのが建仁寺です。
創建当時の「建仁寺」は天台、真言、禅の3宗並立でした。
これは当時の京都では真言、天台の既存宗派の勢力が強大だったことが背景にありました。
創建から半世紀以上経た正元元年(1259年)には宋僧の蘭渓道隆が十一世住職として入寺し、この頃から純粋禅の寺院となりました。
残念な事に「建仁寺」は、応仁の乱による焼失のほか、応永4年(1397年)、文明13年(1481年)などたびたび火災の被害にあっており、創建当時の建物は全く残っていません。
【方丈・山門建物あれこれ!】
「望闕楼」(ぼうけつろう)の別称がある三門は、静岡県浜松市(旧浜名郡雄踏町)の安寧寺から1923年に移築したもので、江戸時代末期の建築です。
方丈は(重要文化財)、室町時代の建物で、もと広島の安国寺にあり、安国寺恵瓊が慶長4年(1599年)に建仁寺に移築したもです。
東側に設けられた大玄関を介して本坊と連結しています。
(〇△□庭△は手洗いだったかな?)
各室には桃山時代の画壇を代表する画家の一人である海北友松の水墨障壁画がありましたが、現在は襖から掛軸に改装され、京都国立博物館に寄託されています。
現在は、日本画家橋本関雪による障壁画『生生流転』(しょうじょうるてん)『伯楽』『深秋』『蕭條』『松韻(寒山子)』(計60面、1940年完成)が設置されています。
【茶室東陽坊】
北野大茶会の際に千利休の高弟・真如堂東陽坊長盛が好んだと伝えられる茶室(二畳台目下座床の席)です。
構成・意匠ともに薮内家の燕庵に共通する点が多く見られます(大正年間に現在地に移築されました)。
【さて安国寺 恵瓊って誰?】
安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗の僧で、武将および外交僧です。
道号(字)は瑶甫、法諱(諱)は恵瓊、号は一任斎または正慶といいます。
「安国寺」は住持した寺(安芸安国寺(不動院))の名で、安国寺恵瓊はよく知られた通名で、禅僧としての名乗りは瑶甫 恵瓊(ようほ えけい)といいます。
毛利氏に仕える外交僧として羽柴秀吉との交渉窓口となり、豊臣政権においては秀吉からも知行を貰って大名に取り立てられたとするのが通説です(異説もf(^_^;)。
生年には諸説があり、天文8年(1539年)とも天文6年(1537年)ともいわれる。
父親に関しても安芸武田氏の一族である武田信重(光広)の子とも、伴繁清の子とも伝わる(つまりわからんて事ですか?笑)。
天文10年(1541年)、毛利元就の攻撃で安芸武田氏が滅亡すると、家臣に連れられて脱出し、安芸の安国寺(不動院)に入って出家します。
その後、京都の東福寺に入り、竺雲恵心の弟子となりますが、恵心が毛利隆元と親交があったため、これがきっかけとなり毛利氏と関係を持つこととなります。
僧としては天正2年(1574年)に安芸安国寺の住持となり、後に東福寺、南禅寺の住持にもなり、中央禅林最高の位にもつきました。
慶長4年(1599年)には建仁寺の再興にも尽力しています。
毛利の外交僧としての活躍は色々と有るのですが、皆さんがご存知なのは、先ずは此ですね。
天正10年(1582年)、毛利氏が羽柴秀吉と備中高松城で対陣していた、「備中高松城の戦い」の最中に本能寺の変が起き、織田信長が亡くなります。
このとき秀吉はその事実を隠して、毛利氏に割譲を要求していた備中国・備後国・美作国・伯耆国・出雲国を、高松城主・清水宗治の切腹を条件に備中・美作・伯耆とする和睦案を提示し、恵瓊はその和睦を取りまとめました(高松城以前ご紹介しました)。
また本能寺の変の事実判明後の7月、講和交渉が再開した際には和睦が成らず毛利家が滅ぼされた時には小早川秀包・吉川広家を秀吉の家臣に取り立ててほしいとも願い出ています。
結局、両名を人質として出すことと引き換えに毛利氏の領国は認められ、恵瓊は秀吉がこれから躍進することを予測して進んで和睦を取りまとめたとされ、彼の信任を得る事に成ります。
天正13年(1585年)1月、毛利氏が秀吉に正式に臣従する際の交渉も務めて、秀吉から賞賛されます。
このころすでに秀吉側近となっていた恵瓊は四国征伐後、伊予国和気郡に2万3,000石を与えられ、天正14年(1586年)の秀吉の九州征伐後は6万石に加増され、僧でありながら豊臣大名という異例の位置付となっています。
恵瓊本人の禄では有りませんが、安国寺にも天正19年(1591年)1万1,000石の寺領が与えられています。
秀吉の側近も兼ねることとなった恵瓊は、「九州征伐」、「小田原征伐」、その「後肥後国人一揆」、「文禄・慶長」の役と活躍しています(本当に簡単で申し訳ないです。恵瓊については、又の機会にゆっくりお話したいですね(^人^))。
そして人生最後と成ったのが、「関ヶ原の戦い」です。
恵瓊は毛利一族の中では親秀吉派の中心であった小早川隆景に近く、文禄年間に秀吉が病臥した際にはその回復を小早川家重臣・山田某に伝え、同じ書状で隆景の隠居に関しても連絡するなど秀吉と隆景との間を連絡する活動を行っており、隆景が死去すると毛利が軽視されかねないと将来を危ぶんだ様です。
果たして危惧は的中し、自身も小早川氏と並ぶ毛利氏の支柱であった吉川広家と対立し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは懇意であった石田三成と通じて西軍に与し、毛利一族の当主・毛利輝元を西軍総大将として担ぎ出すことに成功しています。
9月15日の関ヶ原における合戦では、毛利秀元・吉川広家とともに徳川家康軍の後方に騎馬700、足軽3,000という部隊で陣取りましたが、前に布陣する吉川広家が家康に密かに通じて毛利軍の参戦を阻んだため、結局戦闘に参加することなく、西軍は敗北してしまいました。
敗北後、恵瓊は一旦毛利本家の陣に赴き、吉川広家に諭され逃亡し鞍馬寺、下間頼廉の婿である端坊明勝が住持である本願寺と匿われ京都の六条辺に潜んでいましたが、奥平信昌隊の鳥居信商(長篠城攻防戦で使者として高名の鳥居強右衛門の子)に捕縛され、大津にいた家康の陣所に送られます。
西軍首脳の1人として、六条河原にて斬首され、石田三成・小西行長と共に梟首に処せられました(享年62または64でした。)。
そして首は此処に埋められて供養されたってことですね。
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