2017年03月 - 「高天原の縁側日記」
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2017/03/10

五色塚古墳にひっそり寄り添う『小坪古墳』可愛いと思ったらデカかった!

『小壺古墳』を御紹介します。
『五色塚古墳』と一緒に御紹介する予定だったのですが、文章長くなり過ぎて、別々にしました(o^-')b !

ところで、兵庫県が古墳の数日本一ってご存知でしたか?

文化庁のウェブサイトの中に埋蔵文化財の数を調査した報告書があります。
その中から古墳・横穴だけを抽出、数の多い都道府県順に並べてみました。
『最新全国古墳の数、多い順ランキング!』
「平成24年度周知の埋蔵文化財包蔵地数(古墳・横穴)」(文化庁調べ、現存と消滅を合算した数です。)

総数:158905
1位:兵庫県:18841個
2位:鳥取県:13459個
3位:京都府:13089個
4位:千葉県:12750個
5位:岡山県:11726個

2位3位の鳥取県京都府を5000個引き離して、断トツのトップです(⌒‐⌒)v

兵庫県って但馬・播磨・淡路・摂津・丹波の五つの国が合併しているので、まず広いですからね~(^^;

それでは18841個の一つ「小壺古墳」を御紹介します。

P2220007.jpg
(小壺古墳、大きいですよね、写真のテクニックです。笑)

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【小壺古墳】

所在地兵庫県神戸市垂水区五色山4丁目

高さは8.5mです。
築造年代4世紀末~5世紀初頭。
国の史跡に指定「五色塚(千壺)古墳 小壺古墳」。

P2220008.jpg
(二段目が埋められて小さく見えるようです。)

「小壺古墳(こつぼこふん)」は、五色塚古墳の西にある古墳です。
形状は円墳。
五色塚古墳と合わせて国の史跡に指定されています。



P2220006.jpg
(柴の変わり目あたりから、二段目が有るようです。)

古墳名の「小壺」は、五色塚古墳の別称「千壺」との対比とされます(小さな壺が一つだけ出土では無いですよ!)。
墳丘は2段築成。
下段直径は70メートル、上段直径は43メートル、墳頂高さは約8.5メートルを測り、円墳としては茶すり山古墳(朝来市、直径86メートル、北近畿豊岡自動車道からよく見えますよ。)に次ぐ兵庫県第2位の規模になります(結構でかいんじゃない?)。
現地での感じでは、陪塚(中心となる大型の古墳に埋葬された首長の親族、臣下を埋葬するもののほか、大型の古墳の埋葬者のための副葬品を埋納するために建設されたものもあるようです。)かと思いました。

P2220002.jpg
(手前の五色塚古墳後円部と比べると「小壺古墳」はいかにも小さいと思いませんか?)

墳丘が周辺道路の下まで及ぶため、現在は元来の2段では復元されず、盛土をして1段に成形して保護されています(だからなんだね、下はまだ埋ってるんだ!)。
墳丘表面では各段に埴輪列(推計約320本)が検出されていますが、五色塚古墳と異なり葺石は葺かれていません。
また、墳丘周囲には周濠が巡らされており、周濠内では墳丘北側で通路状遺構(土橋)も認められています。

出土品としては、円筒埴輪・朝顔形埴輪のほか、形象埴輪(家形・靭形・蓋形埴輪など)があります。
この小壺古墳は、五色塚古墳と同時期の4世紀末~5世紀初頭頃の築造と推定されますが、五色塚古墳との築造年代の前後は明らかでは有りません。

P2220023.jpg
(これ面白いです。初めてみました。滑石製子持勾玉!!!、こんな勾玉は初めてです~。驚!)
P2220024.jpg
(こちらも面白いです。場所柄明石海峡近く、昔1600年前もタコツボ漁が行われていたんですね~驚きです。)

文献によれば、かつて五色塚古墳の周囲には、小壺古墳のほかにも遊女塚・小塚(小壺古墳の事?)・四ッ塚・七ッ塚・東側陪塚と称される古墳が存在したとされます。

参考までに、兵庫県の近隣府県の古墳の大きさを比べてみると、兵庫県は数こそ日本一位ですが、大きさで負けている事が分かります(勝ち負けの問題じゃあ無いけどねf(^_^;)。

兵庫県で一番大きい「五色塚古墳」194m、鳥取県で一番大きい湯梨浜町の「北山1号墳」全長は110m(数でも大きさでも勝った!勝ち負けちゃう言うとんねん(*`Д´)ノ!!!)、岡山県で一番大きい「造山古墳」全長約350~360mの全国第4位の巨大古墳(因みに岡山2位の作山古墳も282mの規模です。)です。
京都府で最大の古墳「網野銚子山古墳」198m(惜しいf(^_^;因みに、網野銚子山古墳は山陰一位です。)、最後は大阪府ですが、此は説明する必要が有るかなって感じです。
「大仙古墳(私達が子供の頃は仁徳天皇陵でした!)」墳丘長486m(面積は世界一かも?)。

P2220055.jpg
(五色塚古墳の上からですが、周りの家から比べるとほどほどの大きさです。)

古墳大きさベスト10を御紹介(何の意味があるん?只のうんちくです。)!順位・古墳名・墳丘規模全長(約m)・所在地の順です。

1位:仁徳天皇陵古墳(大山古墳)486大阪府堺市堺区大仙町
2位:応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)425大阪府羽曳野市誉田
3位:履中天皇陵古墳(石津ヶ丘古墳)365大阪府堺市西区石津ヶ丘
4位:造山古墳350岡山県岡山市新庄下
5位:河内大塚山古墳335大阪府羽曳野市南恵我之荘・松原市西大塚
6位:五条野丸山古墳310奈良県橿原市見瀬町・五条野町
7位:ニサンザイ古墳300以上大阪府堺市北区百舌鳥西之町
8位:渋谷向山古墳(景行陵)300奈良県天理市渋谷町
9位:仲姫命陵古墳(仲津山古墳)290大阪府藤井寺市沢田
10位:作山古墳286岡山県総社市三須

P2220038.jpg
(敷地が四角いので方墳のようですが、円墳です。周りの道路下にも二段目が眠っています。)

大阪府・奈良県・岡山県、なんとなく倭が海に近づいて交易を始める、その前線基地が吉備の国!
五色塚古墳・小壺古墳はその途中の関所な感じがしてきますね。
皆さんも是非、想像を逞しくして考古学を楽しんで下さいね(#^.^#)


事実究明には、気候学や海洋科学、地質学に天文科学等の他分野からの知識が必ず必要だと考えますのでね(o^-')b !

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2017/03/08

兵庫県最大の前方後円墳「五色塚古墳」の謎!

前回30年も前の取材ソースでしたので、今回は一番新しい取材から『五色塚古墳』を御紹介致します(o^-')b !

とその前に、先月末にブログ友達のオフ会を行ったのですが、新しくお友達に成って頂いた上に、意気投合した「えたばりゅ」さんを御紹介致します。

ブログ共有もしていただきました~(^o^)v。
「えたばりゅ」さんのブログは、こちらです。
自然とペットとアラフォー野郎と 生命と人とのWinWinをめざして
私の専門でも有る、動物(犬猫~爬虫類・魚類は元より、過去の恐竜やシーラカンス迄)いいえ、生き物に対する愛情に溢れたブログなんです。
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P2220059.jpg
(史跡五色塚「千壺」古墳、小壺古墳)

『五色塚古墳(千壺古墳)』
所在地は、兵庫県神戸市垂水区五色山4丁目
形状は、前方後円墳
規模は、墳丘長194.0m、高さ18.8m(後円部)
築造年代4世紀末~5世紀初頭埋葬施(推定)
竪穴式石室被葬者(伝)第14代仲哀天皇の偽陵(偽陵ってのが不思議ですし謎?気になりますね。)
出土品円筒埴輪・形象埴輪などが史跡指定され、「五色塚(千壺)古墳 小壺古墳」が国の史跡と成っています。

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【五色塚古墳】

P2220017.jpg(モニュメントです。ちょっと前方部が長すぎないかな?)




兵庫県第1位の規模
『日本書紀』に佐紀陵山古墳(奈良県奈良市)と同形との記述が有ります。

五色塚古墳は、兵庫県神戸市垂水区五色山にある古墳です。
形状は前方後円墳、国の史跡に指定されているほか、出土埴輪は国の重要文化財に指定されています。
別称を「千壺古墳」ともいわれます。

P2220018.jpg(管理棟に在る航空写真ですが、フイルムで光って見にくいですよね~m(__)mでも明石海峡大橋のすぐ近くで、素晴らしいロケーションです。)
P2220001.jpg(手前の大きい湾曲が五色塚古墳の後円部です。右手の小高い丘が小壺古墳に成ります。)
P2220012.jpg(前方部と後円部の繫がり、くびれ部分です。二段目から葺石が見えます。)


兵庫県では最大規模の古墳で、4世紀末~5世紀初頭(古墳時代前期末~中期初頭)の築造と推測されます。
「五色塚古墳」の西側にある『小壺古墳』(五色塚古墳と合わせて国の史跡に指定!)についは次回御紹介します。

兵庫県南部、神戸市西部の垂水丘陵南端部において、眼下に明石海峡を、対岸に淡路島を望む位置に築造された巨大前方後円墳です。

古墳名の「五色塚」や「千壺」は江戸時代から呼ばれる呼称で、「五色塚」の由来は明らかでは有りませんが、「千壺」の由来は墳丘上の埴輪群による様です(数から言えば、二千坪古墳でも良いと思いますが(´∇`))。

古墳域は戦前には松林として保護されていましたが、戦中に松は油採取等に利用するため伐採され、戦後には畑として開墾されてしまいました。
加えて、前方部前面には山陽電鉄本線・JR神戸線が引かれたほか、古墳周囲にも道路が敷かれたため、周濠等も改変を受けてしまいました。

考古学的には、これまでに数回の発掘調査が実施されたほか、築造当時の姿へと復元整備も実施されており、日本で最初に復元整備が行われた古墳として知られています(知らなかった、そうだったんだ!)。

P2220031.jpg(形がわかりやすいですね~!くびれのマウンドと右斜めのマウンドを覚えていてください。)
P2220041.jpg(前方部から見た明石海峡大橋です。手前の線路がJR?その向こうが山陽電鉄かな?)
P2220040.jpg(この立地ですよ~大阪湾を手中に収めた水軍の王かも知れませんね。)
P2220033.jpg(三層に積まれた石が良くわかります。)

【歴史に残る記録】

明暦3年(1657年)の『摂津名所図会』に、「五色塚」の名称で図示。

元禄11年(1698年)の『諸陵周垣成就記』に、「仲哀天皇陵土俗五色塚千壺と云ふ」と記載(『兵庫縣史蹟名称天然記念物調査報告書 第一輯』に引用、ただし「勤王文庫」所収原本に記載なし)。

享保年間(1716-1736年)の『明石記』に詳述(宝暦12年(1762年)の『播磨鑑』にも引用)。

古墳域は、1921年(大正10年)に小壺古墳の古墳域と合わせて国の史跡に指定されました。

2012年(平成24年)9月6日には、出土品(円筒埴輪群)が国の重要文化財に指定されています。

【形状と規模】

墳形は前方後円形で、前方部を南方(瀬戸内海側)に向けています。
墳丘は3段築成。
墳丘長は194メートルですが、これは兵庫県では最大規模になります(全国では第40位程度ですね。)。

墳丘表面の各段には円筒埴輪列が巡らされるほか、各段斜面には葺石が葺かれています。
特に埴輪は推計2,200本、葺石は推計2,233,500個(数えたんか?)・2,784トンにおよび、上段・中段の葺石は淡路島産と判明しています。

P2220036.jpg(くびれ部分のマウンド、やっぱり造出かな?司祭が行われたのでしょうか?)

墳丘周囲には深い周濠・浅い外部周溝が2重(二重部分は分からなかったです。)で巡らされており、周濠内では、墳丘のくびれ部左右・後円部北東の3ヶ所に方形の島状遺構(マウンド)が認められています
くびれ部左右の島状遺構は一辺20メートル。
後円部北東の島状遺構では円筒埴輪棺および副葬品が出土しています。
これらの島状遺構の用途は明らかでないが、一説にくびれ部の遺構は祭壇(後の造出?)、後円部北東の遺構は陪塚(中心となる大型の古墳に埋葬された首長の親族、臣下を埋葬するもののほか、大型の古墳の埋葬者のための副葬品を埋納するために建設されたものもあるようです。)と推測されます。
主体部の埋葬施設は明らかでは有りませんが、竪穴式石室の使用が推定されています。

P2220063.jpg(こちらちょっと見えにくいですが後円右側のマウンド、真ん中の白い部分です。陪塚と考えらています。)


この五色塚古墳は、墳形・出土埴輪から古墳時代前期末~中期初頭の4世紀末~5世紀初頭頃の築造と推定されています。
被葬者は明らかでは無いのですが(ここが重要です。)、明石海峡やその周辺を支配した豪族首長では無いかとと推測されています。
特に、築造に際して明石海峡対岸の淡路島から多量の石が運ばれたという事実は、『日本書紀』神功皇后紀の記事と対応するものとして注目され、これより被葬者の支配領域は淡路島まで及んだとする説もあります。

P2220050.jpg(埋葬されたのは誰でしょう?浪漫が掻き立てられますね。)

また、当時としてはヤマト王権の大王墓(佐紀古墳群)に匹敵する規模の古墳になりますが、一帯は明石海峡を押さえる要衝でありながら、巨大古墳を築造できるだけの経済基盤の無い地域であることから、築造に際してはヤマト王権中枢からの強い関与が推測されます。
加えて、当時はヤマト王権の大王墓が大和(佐紀古墳群)から河内(百舌鳥・古市古墳群)へと移行する時期にも重なるため、ヤマト王権中枢の移動との関係を想定する説もあります。

古墳の規模は次の通り(括弧内は信頼性に欠ける推定値です)。
長さ・後円部直径・くびれ部幅・前方部幅の順番に記載。
上段(3段目)150.5m72.2m19.0m33.5m
中段(2段目)171.0m100.0m37.0m53.7m
下段(1段目)194.0m125.5m65.2m(82.4m)

五色塚古墳の墳形は佐紀陵山古墳(奈良県奈良市)伝日葉酢媛命陵とほぼ同一規格とされます。

墳丘周囲には鍵穴形と見られる周濠(水を張らない空濠)が巡らされています。
前方部前面には山陽電鉄本線・JR神戸線が通過し、墳丘周囲には道路が敷かれているため周濠の全体像は明らかでは有りませんが、元来の周濠は墳丘を全周していたと推測されています。
周濠の前方部南側では、通路状遺構(土橋)も検出されました。

また後円部側では、周濠のさらに外側に周溝も巡らされていたようです。
この周溝は西側で小壺古墳の周濠外側へと沿うように変形しますが、これが五色塚古墳・小壺古墳の同時築造を示すものか、いずれかが後に築造された際に溝に変形を加えたものかは定かでは有りません。

【埴輪】

P2220020.jpg
(鰭付き朝顔型埴輪です。)
P2220022.jpg(鰭付き円筒型埴輪)
P2220048.jpg(並びはこんな感じに成ります。)

墳丘表面では、墳頂・テラスの各段に円筒埴輪列が巡らされています。
埴輪列は10メートルに18本程度とし、鰭付円筒埴輪5~6本に1本の割合で鰭付朝顔形埴輪が、いずれも鰭を墳丘と平行に置かれています。

各段計3重に巡らされる埴輪の総数2,200本程度と推計され、検出された埴輪は全て黒斑を有しています。
また鰭付円筒埴輪は4条突帯5段構成・5条突帯6段構成の2型で、高さはそれぞれ100センチメートル・114センチメートルと異なりますが、突帯間隔は約17.5センチメートルと共通しています。
なお、同様の埴輪列は一部の周濠外堤でも見つかっています。

なお、五色塚古墳の円筒埴輪と同様の埴輪は、西隣の小壺古墳のほか、歌敷山東古墳、歌敷山西古墳、舞子浜遺跡、幣塚古墳でも検出されています。

【葺石「石にも歴史有り」】

墳丘各段の斜面には、葺石が葺かれ、古墳全体としては2,233,500個・2,784トンにも達します。

石材は、上段・中段(推計714,800個・2,278トン)では主に斑糲岩(一部に花崗岩等)で、地質学的には明石海峡対岸の淡路島北東岸産と推定されました。
下段では主にチャート・珪石で、古墳付近の海岸・河川産です。
『日本書紀』神功皇后紀の記載では、淡路島の石を運んで赤石(= 明石)に陵を築いたとする伝承が記されており、上の事実はその伝承を裏付けるものとして注目されます(面白いじゃないですか~(^^;)。

P2220044.jpg(後円部!流石に大きいですね~(;^_^A)
P2220046.jpg(後円部の上に立っています。石室が埋まっているはずでが?)


【埋葬施設】

埋葬施設は調査が実施されておらず、明らかでは有りません(未盗掘ですかね?)。
復元整備前の墳丘後円部において結晶片岩(徳島県東部産か)の出土が見られたことから、竪穴式石室(竪穴式石槨)が存在するものと推測されますが、詳らかでは有りません。

文献上では、『播磨鑑』『明石記』から引用して本古墳について「石棺露」と記すことから石棺(一説に長持形石棺)が使用されたと推測する説がありますが、これについて近年の『発掘調査・復元整備報告書』では、この「石棺露」は実際には「竪穴式石槨の一部の露出」を指したものであって、時代的には割竹形木棺が埋納されている可能性が高いと考えられます。

なお、『日本書紀』神功皇后紀の記事では遺骸を伴わない「偽陵」が赤石(= 明石)に築かれたとされますが(ワクワク(*^.^*))、考古学的には本古墳が古墳時代の人物の墓であることは確実とされています(ロマンぶち壊し~(*`Д´)ノ!!!)。

【出土品】

出土埴輪(国の重要文化財)五色塚古墳からの出土品としては、前述の円筒埴輪群が代表的なものとして知られます。
埴輪は総数2,200本と推計されるうち600本が採集されています。
特に採集埴輪のうち鰭付円筒埴輪42点・鰭付朝顔形埴輪3点・円筒埴輪3点の計48点は全形が復元されており、国の重要文化財に指定されています。
以上の出土品の多くは、神戸市埋蔵文化財センターで保管されています。

五色塚古墳の築造には、『日本書紀』に有るように、神功皇后の三韓征伐帰途に応神天皇の母違い兄弟の謀略目的によって造られた説が、私的には古代ロマンを掻き立てられるのですが、其は又お話致します(^人^)。

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2017/03/06

『日本中央の碑』と「坂上田村麻呂」

もう一つ青森話題をお送りします(o^-')b !

記事を書くにあたり、調べなおしてびっくり!
なんじゃこりゃ~~~!Σ(×_×;)!
正に、「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」大袈裟かな?。

hinomoto_monument[1]
(青森県のHP~お借りしました。現在はこんなに整備されたようです。それではタイムカプセルで30年前へ!)

御紹介するのは30年前の『日本中央の碑』ですf(^_^;。

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【そもそも、『日本中央の碑』って何?】
何か分からないんですよね、此がf(^_^;。
日本古代史の中でも屈指の謎を持つのが「日本中央の碑」なのです。

「遠くの土地にある謎めいた何か」ですかね。
その典拠は意外に古く、歌学者の藤原顕昭が出した『袖中抄』『陸奥には「つぼのいしぶみ」という石碑があり、蝦夷征討の際に田村将軍(坂上田村麻呂)が矢筈を使って「日本中央」という文字を刻んだものである』という一説があります。

そんな言い伝えもありまして、平安時代の昔から東北の歌枕として数多くの偉人・歌人に和歌に使われた「壷の石文(つぼのいしぶみ)」という、幻の遺跡ではないかと言われてきたのです。

江戸時代には宮城県の多賀城の碑が「つぼのいしぶみ」と考えられていましたが、その所在は明治天皇も気にかけられ、明治9年の天皇の東北行幸に際して、宮内省から青森県に「つぼのいしぶみ」発見の要請がありました。
石文にまつわる伝説の残る千曳神社の境内を掘り起し、捜索したのです。
千曳神社には魔除として崇めていた巨大な石碑を1000人で引っ張ったという伝説がありました(千曳神社は、『大同2年(807年)坂上田村麻呂の創始と伝えらられる、青森県最古の神社です。「日本中央」と刻んだ「つぼのいしぶみ」を建てたという伝説があり、これを訪ねた和歌や紀行文などが多いことで知られます。)。
それが、「つぼのいしぶみ」=「日本中央の碑」ではなかったかと考えられたのですが、残念ながら明治天皇(政府?)はその石碑を見つけることはできませんでした。

235487.jpg
(一生懸命に探された明治天皇様、写真の枚数の関係で大変失礼なのですが、勇ましいお姿を載せさせていただきました。)

ところが昭和24年6月に、その千曳神社近くの青森県東北町石文(いしぶみ)という所から突如として「日本中央」と刻まれた石碑が出土してきたわけです。
村の農家が馬頭観音を祀るためにちょうど良い石を物色していたところ、湿地帯で半分土中に埋もれた大石を掘り起し、汚れを落としたところ「日本中央」と刻まれていました。
壷の碑伝説は村人も周知しており、村中が大騒ぎになったといいます(大騒ぎしたわりには、私が知る限り、発見から30年以上放置?されていましたけど!)。



現在は、青森県東北町(旧七戸町)の国道4号線沿いにある「日本中央の碑歴史公園」の敷地内にあり、無料で見学できる保存館には、日本中央の碑はもちろん、石碑にまつわる興味深い伝説や、東北町に残る伝承、源頼朝や西行法師、岩倉具視ら数々の偉人・歌人が詠んだ歌などが展示されて、本州の果てにある日本中央の碑の謎への好奇心が大いにくすぐられます。

【「日本中央の碑保存館」で日本中央の碑を見てみましょう】

「日本中央」、正確には「ひのもとのまなか」と読みます。
かつて東北の人々は、自らの国を日本、すなわち「ひのもと」と称していたとされます。

お世辞にも達筆とは言えない字体で「日本中央」と彫られていますが、彫ったのは平安時代の征夷大将軍・坂上田村麻呂と伝えられています
征夷大将軍がこんな字を!?といった所からして大きな謎ですが、坂上田村麻呂が彫ったという確証は得られていません。
というよりは、坂上田村麻呂が青森に迄攻め込んだ記録が無いと思うのですが!

【「日本中央の碑発見地」はぬかるみの湿地帯に有った】

日本中央の碑保存館から車で5分ほど。青森方面に向かい、国道4号線から右折し、県道8号線に入り、青い森鉄道・千曳駅と交差した先に、日本中央の碑発見地があります。
発見地は、県道8号線沿いに大きな看板があって見つけやすく、完備された駐車場があり、そこから木造の階段を降りると、「日本中央の碑」と書かれた180cm(発見された石碑と同じ大きさ)の木造の碑が建っています(私が訪れた時には、現物が置かれて居ました。)。

SCN_0007.jpg
(スキャンで読みにくいですが、説明版が有りました。場所は此処ではないのかな?)

石が発見された集落の名は、今でも残っている地名で、「石文(いしぶみ)」、隣の地名は「都母(つぼ)」で、これがまさに「つぼのいしぶみ」の伝説と地名の符合する場所だったのです(私には出来すぎに思えますが!)。

日本中央の碑発見地は、発見当時と変わらず今でも小川が流れる泥濘の湿地帯で、何かに曳きつけられるような不思議な雰囲気が漂っています(私の記憶では畑+林+雑木林のイメージでしたが。)。

【最北の真ん中?「日本中央の碑」を訪ねて…】

SCN_0010.jpg
(あばら家に鎮座する30年前の日本中央の碑!色も感じが違いますね、日は読めますね~笑)


日本中央の碑は、その信憑性が証明されないためか国からの文化財指定はありません(失礼を承知で「そりゃそうだわな」)。
しかし、東北町の人々により大切に保管され、古くから信じられてきた伝説の「壷の碑」として、東北町の有形文化財に指定されています。

しかしこの碑の最大の謎は、ここに刻まれた文字「日本中央」です。
なぜこのような文字が日本の最北部に当たる青森県に置かれたのでしょうか?。
蝦夷征討の際に刻まれたという逸話から考えると、まだここは「日本」の領土ではなく、しかも「日本」という国号が使われていなかった時代です。
さらに付け加えると、この碑を刻んだとされる坂上田村麻呂はこの地まで遠征していません(後任の征夷大将軍・文屋綿麻呂がはじめてこの地域一帯まで足を運んだのが史実です。文屋綿麻呂が刻んだとも考えられますね。)。

実際のところ、ここに刻まれた「日本」という文字は「ひのもと」と読ませ、平安初期の文献によると、東北地方一帯を指す言葉として使われていたようです。
つまり、この「日本中央」とは、坂上田村麻呂以下の蝦夷征討軍が敵地の中央部分に当たる場所としてマークしたポイントではないでしょうか(若しくは全くの出鱈目、ロマン無いですね~(*^.^*))?

☆藤原顕昭
1130?~1209?。
平安末~鎌倉初期の歌僧。
六条藤家の中心的存在として活躍(本人は藤原氏の出身ではなく、養子として姓を賜う)。
当時最高峰の歌合と言われた「六百番歌合」にも参加しています。
『袖中抄』は文治年間(1185~1190年)に出されています。

☆つぼのいしぶみの歌枕
和泉式部・寂蓮・西行・慈円などが詠んで居ます。
「遠くにあるもの」や「どこにあるか分からないもの」という意味で使われることが多い様ですね。

☆多賀城碑
江戸時代初期に発見された古碑。
発見当初より「つぼのいしぶみ」であるとされてきた。
松尾芭蕉が『奥の細道』で「つぼのいしぶみ」と記しているのは、この碑のことでで、青森県の物では有りません(因みに、松尾芭蕉も奥の細道で青森には行っていませんね。)。

☆坂上田村麻呂
758~811。
平安初期の武官。
797年に征夷大将軍に任ぜられ、蝦夷征討の最高責任者となります。
801年に遠征を行い大勝、翌年に胆沢城(現・岩手県奥州市)を建設、さらに次の年に志波城(現・岩手県盛岡市)を建設しました。東北地方の多くの社寺の創建伝説、またその他の伝承に多数登場するが、そのほとんどは後年の創作と思われます。

日本の中心候補の中で最も異彩!数々の偉人たちが思いを馳せ、1000年以上も謎とされてきた「日本中央の碑(つぼのいしぶみ)」。
皆さんはどう考えられますか?


余談ですが、私学生時代を青森県で過ごした事もあり、青森県が大好きです。
そのなかでも、ねぶた祭りは日本一番の祭りだと思います(他のお祭りファンの方々m(__)m)。


他のお祭りも凄いと思うのですが、観光客がその日に御祭りの輪の中で参加できるお祭りが有るでしょうか?
ねぶた祭りは其が可能何です。
衣装さえちゃんとしていれば、あっという間に跳人の一人として祭りの中に溶け込む事が出来ます(跳ねるのにコツが有るので、地元の方には観光客だとすぐ解るようですが、地元の皆さんは優しく接して、楽しく過ご過ごす事が出来ます。)。
因みに私、二回跳ねてます(o^-')b !

その私の大好きなねぶた祭りの「ねぶた」最高賞が田村麿賞(ねぶた祭りでは田村麻呂ではなく田村麿です)だったのですが、昭和三十七年制定の、「田村麿賞」の名称が平成七年度より改称されました。
坂上田村麿が蝦夷征伐のため現在の青森県城に遠征した史実やその際にねぶたを用いた(大きな紙人形を威嚇に使用した言い伝えがあります。)ことが立証できないこと、田村麿と蝦夷征伐を結びつけてのネーミングは、民族の人権上からふさわしくないこと、国の重要無形民俗文化財指定にあたっても「ねむり流し(睡魔を払う行事。主として七夕 (たなばた) 行事として、水浴をしたり、形代 (かたしろ) などを模型船や灯籠・笹竹などにのせて川・海に送り流したりします。ねぶたも最終日は海上運航ですね。)」の習俗と明記されていること。
また、市民意識の変革 など、各界各層の意見、世論をふまえた結果、平成七年度より、青森ねぶたの最高賞は「ねぶた大賞」となりました。

此は、どうなんだろう?田村麿賞で良かったのではないかと思うのですが!
確かに私の産まれ年~ですから其ほどの歴史は無いですがねf(^_^;

会津若松でユニクロの不買運動が起きる感じなのかな(起きないけどね!)?
因みに、「ユニクロ」を中心とした企業グループ持株会社であるファーストリテイリング代表取締役会長兼社長「柳井 正」さんは山口県宇部市の出身です。

又は、戦後新嘗祭が勤労感謝の日に成った位?

どちらもしっくり来ないですね~(^^;

私的には、負けはしたが、強大な中央政権の大将軍に勇敢に戦いを挑んだ陸奥の人々の魂の鼓動がねぶた祭りにはあるように思いますし、勝利した後に武官としてではなく、執政官としての田村麻呂の手腕が陸奥の奥地に豊穣をもたらしたと考えてみたいです。

いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!

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2017/03/01

縄文時代の定説をことごとく書き換えた『三内円山遺跡』

青森県三内丸山遺跡を御紹介致します(o^-')b !

その前に昨夜、ブログ友達のオフ会があり、夜遅くまで楽しい時間を過ごす事が出来ました!
ブログ共有もしていただいている、taka:aさんから、お誕生日プレゼントを頂きました。

そのプレゼントが、余りに素敵な「お箸」なので御紹介しますと共に、素敵なブログ友達の皆さんを紹介してくれたtaka:aさん、本当にありがとうございます(大事に使わせて頂きます(#^.^#))。
年齢は親子程違うのに、「この完成されたセンスはなんちゅうやっちゃ!」と驚かずにはおられません(驚愕~~く!)。

P3010008.jpg(めっちゃ素敵な、お蕎麦専用MY箸、木材は楢の木です~~!)

さて本題の「三内円山遺跡」ですが、「関西(兵庫県)やろ~!本当に行ったんか~?」と思われる方々も居られるかも知れませんが、行って来ました~20年前ですがf(^_^;。

古いので、デジカメも無く写真のスキャンに成ります(画質が悪いのはお許しくださいね~(^^;)。

それでは、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみください。 
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【そもそも三内丸山遺跡って何?】

三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は青森県青森市大字三内字丸山にある、縄文時代前期中頃から中期末頃の大規模集落跡です。

(地図を貼っておきますので、空からの映像と20年前を比べてください。)

今から約5500年前、集落が造られた時点での住居数は40~50棟程度、1棟に4~5人が住んでいたと仮定すると、人口は200人前後です。
その後、5000年ほど前から集落の拡大が始まり、4500年ほど前に最盛期を迎えます。
住居数約100棟、人口500人くらいの集落になっていた可能性が高いのです。

沖館川右岸の河岸段丘上に立地しており、2000年(平成12年)に国の特別史跡に指定されました(私が訪れたのは1997年でした)。

遺跡跡には住居群、倉庫群のほか、シンボル的な3層の掘立柱建物が再現されており、資料館もあります(記憶がさだかでは無くて、訪れた当時資料館が有ったか覚えていませんf(^_^;)。
2007年12月から青森県教育庁文化財保護課三内丸山遺跡保存活用推進室が、発掘調査を行っています。

SCN_0004.jpg(この細いあんちゃん誰や?笑、20年でちょうど20キロ太った!左が3層の掘立柱建物です。因みに、ブルックスブラザーズのパンツとシャツ、ラルフローレンのベストに、シェラデザイン のマウンテンパーカー!今は日本のみの販売だそうです(///ω///)♪20年経つと全てユニクロ!Σ(×_×;)!)

【遺跡保存の経緯】

この地に遺跡が存在することは江戸時代からすでに知られており、山崎立朴が弘前藩の諸事情を記した『永禄日記』(えいろくにっき、館野越本)の元和九年(1623年)正月二日条に多量の土偶が出土したことが記録されているほか、菅江真澄の紀行文『栖家の山』(すみかのやま)の寛政八年(1796年)四月十四日条に、三内の村の古い堰が崩れた場所から、瓦や甕、土偶のような破片が見つかったことが記録に残されていました。

本格的な調査は新しい県営野球場を建設する事前調査として1992年から行われました。
その結果、この遺跡が大規模な集落跡であることが分かり、1994年には直径約1メートルの栗の柱が6本出土し、大型建物の跡ではないのかと、脚光をあびます。
これを受け県では既に着工していた野球場建設を中止し、遺跡の保存を決めました。

その後、資料館を作って整備を行い、六本柱建物跡については湿度を一定に保った保存ドームを作り、柱の現物は他の場所に保存、レプリカを代わりに元の場所に置くなどの措置が行われました。
また、墓の道の遺構が非常に長く延びていることが分かったため都市計画道路建設も中止と成りました。

【遺跡の概要】

八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、標高は約20メートルで、遺跡は約40ヘクタールの広大な範囲に広がっています。
集落は住居・墓・捨て場・大型掘立柱建物・掘立柱建物・貯蔵穴・土坑墓・粘土採掘穴・盛り土・道路などが、計画的に配置されています。

この遺跡は現在の敷地から、広場を囲むように住居が造られた環状集落ではないか?と推測された事も有りましたが、住居が非同心円状に機能別に配置されているところから見て、それとは異なる形式であると考えられています。

遺跡には、通常の遺跡でも見られる竪穴住居、高床式倉庫の他に、大型竪穴住居が10棟以上、約780軒にもおよぶ住居跡、さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されています。

また、他の遺跡に比べて土偶の出土が非常に多く、板のように薄く造られた土偶は板状土偶と呼ばれています。
次の縄文後期や晩期の立体的に体の各部を表現した土偶とは大きく異なっているのが特徴的です。

遺跡から出土した栗をDNA鑑定したところ、それが栽培されていたものであることが分かり、多数の堅果類(クリ・クルミ・トチなど)の殻、さらには一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった栽培植物の種も出土しました。

これらの事実は、三内丸山の人たちが、自然の恵みのみに依存した採取活動ではなく、集落の周辺に堅果類の樹木を多数植栽しており、一年草を栽培していた可能性が考えられます(それらの分析から約1500年間続いた集落と考えられています)。

1500年という長さがいかに凄い事なのか簡単に説明致しましょう(簡単かな?)。
世界四大文明、「メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明」ですら、およばない長期間続く集落なのです。
その人口は一番多いときは500人程にもなったことになります。

世界的に見てもこれほど長く同じ土地で生活が営まれた例は少ないと言わざるを得ません。

例えば、ローマ・ん~...イスタンブール・エルサレム?とか位です(苦笑)。
日本では平安京が「鳴くよ鶯平安京(794年)」で後に京都として続き1200年と少しなのですからか、いかに凄いかお分かりですよね(笑)

【うんちく~!】
平安京っていつまで?平安京の時代は鎌倉幕府の成立で終わりだと思っておられませんか(意地悪く平安京「の」とさせて頂きました、笑)?
平安京の時代は明治に成って、天皇が東京に御移りに成るまで続いたんですよ~(^^;
約1000年間ですね!
因みに、東京は日本の首都ですが、都ではありません!?不思議に思われるかも知れませんが、遷都は天皇によって行われるもので、明治天皇は東京遷都を行っておられないはずです。
まあ天皇陛下が居られる場所を都とするならば、東京ということに成りますが。
法律上も首都が東京との明記は無いと記憶しています。

さて元に戻って「三内円山遺跡」の発掘は、これ迄の定説である小集団で食料をもとめて各地を移動しながら生活をしていたという、縄文人のイメージをまったく変えてしまう遺跡ということになります。
正に「教科書を書き換えてしまう遺跡」ということに成りますね。

三内円山遺跡からの出土品は縄文時代の文化が、従来考えられていたものよりも大きく進んだものであることを示すものでした。
遺跡は他の近くの遺跡に繋がっている可能性が高く、未だに全容は把握しきれていません(早く調べて~~(^^;)。

【遺跡の終焉の謎】

これほどの集落がなぜ終焉を迎えたのかは謎となっています。
一因としては、気候寒冷化などが挙げられますが、それだけで集落全土を手放すとは考えにくく、栗の栽培を停止しなければならない何か特別な理由があったという見解も示されてはいますが、それが何であるかは分かっていないようです。

【出土遺物】

出土遺物は段ボールで数万箱にも及ぶ量だったようです。
土器、石器が中心ですが、日本最大の板状土偶などの土製品や石製品も多く出土しています。
この他にも日本各地域を中心とした交易で得たと推測される黒曜石、琥珀、漆器、翡翠製大珠などが出土しています。
出土遺物1,958点が2003年(平成15年)5月29日に国の重要文化財に指定されています。
翡翠は糸魚川でしか産出されないので、翡翠の出土は上越地域との交易が証明される訳です。
また平底の円筒土器やけつ状耳飾りなどは遼河文明(興隆窪文化)との類似性が指摘されています(遼河文明(りょうがぶんめい)とは、満州南部、 中国東北の遼河流域で起こった中国の古代文明の一つ。紀元前6200年ごろから存在したと考えられる文明です)。

三内丸山遺跡から出土した動物遺体は、縄文集落で一般的なシカ・イノシシが少なく、7割弱がノウサギとムササビであり、三内丸山遺跡においてはノウサギやムササビの肉を食料としていたと推察でき、彼らの食生活の一端を伺い知ることができます。
背景には巨大集落を支えるシカ・イノシシ資源が枯渇していた可能性が考えられます。

【遺構『六本柱建物跡』

現在まで三内丸山遺跡で検出された遺構の中で最も重要視されているものです(私?の左に写っている巨木の建物です)。
その柱の大きさで評価されることも多いのですが、それとともに注目すべきは、柱穴の間隔、幅、深さがそれぞれ4.2メートル、2メートル、2メートルで全て統一されていることです。
これはその当時すでに測量の技術が存在していたことを示すものであり、ここに住んでいた人々が当時としては高度な技術を持っていたことを示すものです。
特に4.2メートルというのは35センチメートルの倍数であり、35センチメートルの単位は他の遺跡でも確認されている、「縄文尺」ともいう長さの単位が広範囲にわたって共通規格として共有されていた可能性が考えられます。
さらに、これほど大規模な建造物を建てるには多くの労働力を必要としたはずでですし、集落居住者の団結力と彼らを的確に指導できるカリスマ指導者がいたことも推測できますね。
また、柱本体にも腐食を防ぐため周囲を焦がすという技術が施されており、長い間腐食を防ぎ保存状態が良かった要因です。

【復元建物】

六本柱建物跡の復元に当たっては様々な意見が出された様です。
建設する場所は六本柱建物のあったと推測される場所のすぐ脇に決まったものの、ただ柱が立っていただけなのではないかと言う意見や、逆に装飾具などもある非常に凝ったものだったのではないかと言う意見も出されました。

しかし床があるのに屋根がない、もしくは床がないのに屋根があるというのは中途半端な感が否めず、後々までこれでよかったのかと疑問の声が上がる要因となっています。
私的には、物見櫓のイメージでした(縄文海進ですぐ傍が海であったと考えると、クジラや海獣を素早く発見するための櫓とイメージしました)。


【大型竪穴式住居】

三内丸山では幅10メートル以上の大型竪穴式住居跡がいくつも検出されているが、その中でも最大なものは長さ32メートル、幅10メートルのもので、これが復元されています。

SCN_0005.jpg(でかすぎて、すべてパノラマ撮影です。PCでは、少しずらして見てください。とにかくでかい!)


【竪穴式住居跡】

三内丸山遺跡では、一般の住民が暮らしていたと思われる竪穴式住居跡も多数検出されています。ています(写真でも分かるように当時まだ復元前です(;^_^A)
屋根に関しては茅葺き、樹皮葺き、土葺きの3種類の屋根を持った住居をそれぞれ想定・復元し、これも内部見学が可能だそうです。

【掘立柱建物跡(高床式倉庫跡)】

東西約75メートル、南北約18メートルの範囲に掘立柱建物のものであると推測される柱穴群が検出されています。
この掘立柱建物の柱穴の周辺及び内側には、生活の痕跡が確認できなかったため、この掘立柱建物は高床式建物であった可能性が高いと判断され、現在高床式建物として復元されていました(中に入ってきました。その後放火事件で現在は入れないようです。得したな!笑)。

SCN_0006.jpg(まだ中に入ることが出来ました。手前にもまだ調査中の跡が点在していました。)

【環状配石墓】

道の跡周辺からは環状配石墓(ストーンサークル)も検出されていました。
この墓はムラ長の墓と考えられている様です。
石の並べ方が、南方のやや離れた所にある小牧野遺跡と共通している事も注目されています。
また、1999年10月6日(私が訪ねた後ですね)にこの墓の一つから炭化材が出土したが、これは最古の「木棺墓」の跡ではないかといわれています。

とにかくまだ全然整備されていない頃です。
あらためて日本という国はすごい歴史を持っていると、感じた青森「三内円山遺跡」でした。


いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!

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