2017年02月 - 「高天原の縁側日記」
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2017/02/25

たった五回で巡る?『西国三十三観音霊場』の旅⑤最終回!

たった五回で巡る?『西国三十三観音霊場』旅の第五段!最終回です。

前回は二十四番番札所~二十九番札所迄御紹介しました。
最終回はバスツアーNo.⑪の三十番札所・三十一番札所、バスツアーNo.⑫の三十二番札所・三十三番札所です(私が利用したのは阪急交通さんのバスツアーなので、他社だと順番が少し違うかもしれません。m(__)m)。

書写山 円教寺で、撮影した被写体の「西国三十三観音霊場レプリカ像」がもったいないという理由だけで始めた五連載を、読んで頂き本当にありがとうございましたm(__)m

P2250004.jpg
(本物じゃないです、お友達の備前焼作家石川泰二郎さんの蓮です。ある意味本物!)

それでは、最後の「西国三十三観音霊場の御本尊レプリカ像」の旅に出発です。

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【西国三十三観音霊場巡りとは!】
近畿二府四県と岐阜県に点在する三十三ケ所の観音信仰の霊場の総称です。
これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行であり、現在も多くの参拝者が訪れています。
毎回説明していますが、西国三十三観音霊場、二十七番札所「書写山 円教寺」の三十三霊場御本尊レプリカ像を紹介して、五回で満願をイメージしていただく企画の第四段です(せっかく撮影した写真が無駄にならない為です。笑!)。

さて,西国三十三観音霊場でも有名な様に、「観音菩薩様」の人気は凄いものが有りますね(#^.^#)。

【何故なのでしょうか?そもそもどんな人(人なのか~?)?。】
観音菩薩(観自在菩薩・観世音菩薩)とも訳されます。
大乗仏教において特に崇拝されている菩薩で、世間の人々の救いを求める声を聞き観じると、とただちに苦悩から救済する求道者の意味が有るそうです(速攻救済)。
慈悲深く、宗派の枠をこえて広く信仰され、人々に愛されている菩薩様です。
救う相手の姿に応じて千変万化の相となります(人によって見える姿が違う)。
阿弥陀仏(阿弥陀如来)の脇侍ともなっています。

音を観じることから観音という名がついたとされ、観じるというのは、人の姿を正しく見るという意味です。
水瓶を持ち、その中には功徳水という使っても使ってもなくならない水が入っているといいます。

つまり信仰する人にとって、非常に都合がよい、菩薩様だと思いませんか(失礼を承知でm(__)m)?

私、仏教を学んだわけではありませんから、少し意味合いが違うのかもしれませんが、観音菩薩の「菩薩」とはまだ解脱しておられない、修行中の仏様(仏=解脱を意味するなら使用例を間違えています。)の事です。

奈良の大仏(大日如来)鎌倉の大仏(阿弥陀如来)お釈迦さま(釈迦如来)「如来」と呼ばれる方々が「解脱」されて悟りを開いた方「仏陀」の事です。

頭のカタツムリ(本当に失礼ですが、螺髪といいます。)は悟りを開いた証拠ですし、衣装も物事にこだわられないので、簡素なものですね、それに対して「菩薩」様はいまだ現世に未練があるのか?衣装も素敵ですし、飾りなども持っておられますね。
人々を救うことで、来世の「解脱」が約束されている、真理の求道者といった位置付けに成ります。

此処で自分に置き換えて考えてみましょう。
「仏教は生きている間に悟りを開くための生き方を学ぶ宗教」と言いました。
「自分だけが修行して解脱すれば良い」という考えは「利己的」だとは思いませんか?
そこで「他者を救うことで、自分も徳を積んで解脱できる」という考えが生まれます。

此処が「小乗仏教」「大乗仏教」の転換点です。

これを「利他主事」といって現在の仏教の根幹をなすものです。

つまり、「如来」様は目標とするべきシンボル・到達点、「菩薩」様は私たちが実践すべき行い・見本そのものとなります(こんなこと僧侶でもない、何も勉強していない私が言ってもいいのか~(;^_^A)。


さて今回の、バスツアーですが、【ツアーNo.⑪は三十番・三十一番札所の二寺コースです。】

第三十番札所、竹生島 宝厳寺

CIMG9483.jpg
(千手千眼観世音菩薩「観音堂」)

第三十一番札所、姨綺耶山 長命寺

CIMG9484.jpg
(千手十一面聖観世音菩薩三尊一体)

【ツアーNo.⑫は三十二番・三十三番札所迄の二寺コースです。】

第三十二番札所、繖山 観音正寺

CIMG9485.jpg
(千手千眼観世音菩薩)

第三十三番札所、谷汲山 華厳寺

CIMG9486.jpg
(十一面観世音菩薩)

これで満願です。
満願成就の後は長野県善光寺にお礼参りがバスツアーで用意されています(どこまで手先やねんな~(;^_^A)

【さて最後に、私の大好きな弥勒菩薩について少し!】
弥勒菩薩は現在仏であるゴータマ・ブッダ(釈尊・釈迦牟尼仏)の次にブッダ(目覚める人)となることが約束された菩薩(修行者)で、ゴータマの入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされます。
それまでは兜率天で修行(あるいは説法)しているといわれています。

56億7千万年後ってとてつもないですね、これは、弥勒の兜率天での寿命が4000年であり、兜率天の1日は地上の400年に匹敵するという説から、亡くなって生まれ変わられるまでに4000年×400年(地上)×12(月)×30(日)=5億7600万年(時間が合わない?)かかるという計算に由来しています。
後代になって5億7600万年が56億7000万年に入れ替わった(間違えた?)と考えられています。

P2250014.jpg
(国宝・広隆寺蔵 弥勒菩薩半跏像「宝冠弥勒」のフィギュア)

意外と救済の時は早いのかもしれませんね~(笑)
弥勒菩薩様の救済を待つよりも、一日一日を大事にしてより良い次の一日を過ごす事が現世での解脱を達成する近道だと思う市郎右衛門なのです。
もうすぐ市郎右衛門教を立ち上げます(笑)


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2017/02/23

たった五回で巡る?『西国三十三観音霊場』の旅④

たった五回で巡る?『西国三十三観音霊場』旅の第四段です。

前回は十六番札所~二十三番札所迄御紹介しました。
今日はバスツアーNo.⑧の二十四番札所・二十五番札所、バスツアーNo.⑨の二十六番札所・二十七番札所、バスツアーNo.⑩の二十八番札所・二十九番札所迄です(私が利用したのは阪急交通さんのバスツアーなので、他社だと順番が少し違うかもしれません。m(__)m)。

私は収集癖が有るらしく、何かと気に入った物は兎に角、ある程度集めなければ気がすまない性格なので、御朱印集めという趣味は本当に私にピッタリな趣味なのですが、しかしながら熱しやすく覚めやすい性格なので、妻はこれ程続くとは思っていなかった様です(集め始めて三年半位に成りました。)。

最初に始めたのは、出雲の日御碕神社と出雲大社でした(女性の間で御朱印集めがブームの情報からかな?)。

現在、御朱印帳(納経帳)も10冊を越えて居ます。
アッ!全て御朱印で埋まったわけでは無いですよ、御朱印帳その物が可愛かったり(格好良かったり!)、持っていくのを忘れてその場で購入したりしたものも有りますしf(^_^;。

神社関係者の皆さんには失礼なのですが、おおむね(私見です(^人^))お寺の方が何時も写経などされているせいか、書く絶対量が違うのか?字がお上手ですだと思いますねσ(^_^;)?

そういえば、西国三十三観音霊場バスツアーに参加しないと貰えない御詠歌カード?が有ります。

P2220218.jpg
(こちらがそのカードです。成相寺の御詠歌ですね、まだお参りしておりません(;^_^A)

私も何枚か持っているはずなのですが、何処に片付けたのか見つかりませんでした。
昨日須磨寺のポスターの中に見つけたので御紹介します。
此方は先達会の発行らしく?お寺でも頂けません(;つД`)
正にバスツアー特権なのですが、お寺では、御影と御詠歌カード入れを販売しているのでコレクター心をくすぐるんですよね(プロローグ長い!笑)

それでは、「西国三十三観音霊場の御本尊レプリカ像」の旅に出発です。

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【西国三十三観音霊場巡りとは!】
近畿二府四県と岐阜県に点在する三十三ケ所の観音信仰の霊場の総称です。
これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行であり、現在も多くの参拝者が訪れています。
毎回説明していますが、西国三十三観音霊場、二十七番札所「書写山 円教寺」の三十三霊場御本尊レプリカ像を紹介して、五回で満願をイメージしていただく企画の第四段です(せっかく撮影した写真が無駄にならない為です。笑!)。

御朱印の話が出ましたので、御朱印帳について少し書かせて頂きます。

「よく神社とお寺で御朱印帳を分けるべきか?」問題視される方も居られますが、基本私は一緒でも問題は無いと思っています。

「出雲神仏霊場二十札所巡り」は名前の通り神社とお寺を回りますので、神官の方にお聞きしましたところ「問題無いですよ~」と言われました。
出雲神仏霊場20札所は、専用の御朱印帳がありますし、袋状に成っていて、書き置きを頂いて、そちらに納める様に成っておりますので、余計に寛容なのかも知れませんが(⌒‐⌒)。

私はといいますと、実は分けております(*`Д´)ノ!!!。
(笑)これは、お寺や神社で何か言われたわけでは無くて、私個人の「コレクターズ魂」のなせる技です。

又、「蛇腹状の御朱印帳の裏側を使っても良い?」勿論良いと思います。
信心は心の問題ですから、格好にこだわる必要は無いと思っています。
ただし表紙裏は失礼だと思いますし、一枚紙(和紙二枚の方が裏写りしなくてよいです)の蛇腹状だと裏面に墨や朱が写るので、気を付けた方が良いかも知れませんが!Σ(×_×;)!

又、通販でも安価で売っておりますが、やはり現地で寺社仏閣の物を購入することをお勧めします。
と申しますか、必ずそちらの方が欲しくな りますから(#^.^#)。
その時に気を付けるべき事は、先程の和紙の質、御朱印帳の大きさ(面積)も大きい方が良いかもです(小さな寺社ですと、無人で御朱印だけ置いて有る場所も有るのですが、御朱印帳が小さいとカットして、字体が切れてしまうことが有るからです。)。

さて今回の、バスツアーですが、【ツアーNo.⑧は二十四 番・二十五番札所の二寺コースです。】

第二十四番札所、紫雲山 中山寺

CIMG9478.jpg
(十一面観世音菩薩、一番艶やかな観音様で気に入っています。 )

第二十五番札所、御嶽山 播州清水寺

CIMG9479.jpg
(十一面千手観世音菩薩)

【ツアーNo.⑨は二十六番・二十七番札所迄の二寺コースです。】

第二十六番札所、法華山 一乗寺

CIMG9480.jpg
(聖観世音菩薩)

第二十七番札所、書寫山 圓教寺

CIMG9518.jpg
(六臂如意輪観世音菩薩、全て円教寺参道で写したためにこちらは特別の台座と大きさです。)


【ツアーNo.⑩は二十八番~二十九番札所の二寺コースです。】

第二十八番札所、成相山 成相寺

CIMG9481.jpg
(聖観世音菩薩)
第二十九番札所、青葉山 松尾寺

CIMG9482.jpg
(馬頭観世音菩薩)


巡礼道具についても色々お話ししてきましたので今日は白衣・笈摺(おいずる)について少し書かせて頂きます。

【白衣・笈摺(おいずる)】
笈摺(おいずる)の語源は、笈(背に負う物)から着物を守るために身につけていた白衣という意味から来ています。
昔は巡礼中にもしもの事が起きた時には、その身のままで埋葬してもらえるように死装束と同じ意味で着ていたようです(其ほど大変な修行だったのですね。)。
巡礼を無事に終えられたときには、谷汲山華厳寺(三十三番札所)の御詠歌「親と頼みし 笈摺を 脱ぎて納むる 美濃の谷汲」にありますように持ち帰らず、お納めいただくのが本来のきまりだそうです。
ただ、昨今は自分がこの世を旅立つ時、また肉親縁者が旅立つ時に、御仏のご宝印を頂いた白衣を着せるようになりました。

【其処で】
できましたら本来の巡礼中に身につける笈摺としての白衣と死出の旅立ちに使う白衣をご用意ください。
巡礼時身につけていた笈摺は結願したときに本来の意味である谷汲山華厳寺笈摺堂に納め下さい。
持って回ったもう1つは自らが臨終の時または人様に着せて上げる為に大切にお持ち下さい(とのことです。)。


これ迄に、何度かバスツアーを利用しておりますが(西国三十三観音霊場以外にもあちらこちら(;^_^A)、四国八十八ヶ所巡りの最初に、お隣の方がベテランの巡礼さんで、初めての私に色々教えて下さいました。
お隣の方に聞いた、四国八十八霊場巡礼が楽しくなるような話題を少しお教えしましょう。

【白衣の背中に書かれている、「南無大師遍照金剛」をはさむように、鶴と亀の朱印を押そう!】
それぞれの札所の縁起から、「鶴」が阿波の20番鶴林寺「亀」が土佐の39番延光寺で、別途料金(200円)でご朱印を押してもらえます。
1番霊山寺で白衣の肩に、「菅笠」の御朱印を押してくれるようになってます(無料)。

その他にも、あわただしくバスツアーで巡る為に、素早い蝋燭やお線香の出し方や治め札の色で巡り回数が解ること、御朱印は基本二度目からは重ね押し等(先達さんの御朱印帳は重ねが凄くて真っ赤です。)色々教えて頂きました(^人^)
「旅は道連れ世は情け」「渡る世間に鬼は無し」ですね(#^.^#)

そうそう、治め札が金色の方は四国八十八霊場巡礼100週以上だそうです。
意地汚い私は、つい計算してしまいました。
300円(一御朱印料金)×88寺×100週=2640000円なり(おっとろっしゃ!)

勿論信仰心はお金とは関係ありません。
仏様や神様も金額でご利益が変わることもないでしょうが、しかしここまで信心出来ればすごいですね~(笑)


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2017/02/21

たった五回で巡る?『西国三十三観音霊場』の旅③

たった五回で巡る?『西国三十三観音霊場』旅の第三段です。

前回は九番札所~十五番札所迄御紹介しました。
今日はバスツアーNo.⑥の十六番札所から十九番札所、バスツアーNo.⑦の二十番札所~二十三番札所迄です(私が利用したのは阪急交通さんのバスツアーなので、他社だと順番が少し違うかもしれません。)。

私の西国三十三観音霊場納経帳を御紹介します。
一般で使用しているものより、大きくて、御朱印も迫力が有りますよ(⌒‐⌒)

P2190008.jpg(比べる物が無いので大きさがわかりにくいですね~B5だと思います。)

それでは、「西国三十三観音霊場の御本尊レプリカ像」の旅に出発です。

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【西国三十三観音霊場巡りとは!】
近畿二府四県と岐阜県に点在する三十三ケ所の観音信仰の霊場の総称です。
これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行であり、現在も多くの参拝者が訪れています。
毎回説明していますが、西国三十三観音霊場、二十七番札所「書写山 円教寺」の三十三霊場御本尊レプリカ像を紹介して、五回で満願をイメージしていただく企画の第三段です(せっかく撮影した写真が無駄にならない為です。笑!)。

【バスツアーのここがイマイチ】
其にしても、旅行会社の宣伝マンの様に成っているので、バスツアーの短所といいますか不満なところもお教えしましょう!Σ(×_×;)!。

第一段で書きましたが、添乗員さんが旅行者の代わりに御朱印を頂いてくださるのです(楽で良いじゃない!)。
BAT、一人一寺について一御朱印帳つまり一御朱印帳(寺院の場合本来は御朱印ではなく納経帳ですが)もしくは、白衣(おいずる)、掛軸なのです。

私の様にマニアック?な人間は、せっかくなので御詠歌が欲しいし、西国三十三観音霊場御朱印以外の御朱印も頂きたいわけです(わがままとも言えるのですが)。
その場合、別な御朱印帳を持って駆け回らなくては、いけなくなります。

因みに西国観音二十四番札所の「中山寺」(兵庫県宝塚)なら西国三十三所24番札所、「大悲殿」(バスツアーなら此方は添乗員任せにして頂けます。)の他に、西国三十三所御詠歌の御朱印真言宗十八本山の御朱印「十一面観音」、摂津西国霊場第1番札所の御朱印「大悲殿」摂津国八十八箇所霊場第70番札所の御朱印「大悲殿」近畿三十六不動霊場第21番の御朱印「五大尊」です(平成21年4月より霊場が変更になり、新たに中山寺が札所となりました)。
まだまだ有りますよ~、聖徳太子御遺跡霊場第26番の御朱印「太子馬蹄石」西国七福神および中山寺山内七福神の「寿老神」の御朱印西国七福神の大福帳の御朱印中山寺山内七福神の「恵美須神」
以上の御朱印があります(?増えました~笑)。

まだそれだけでは有りません。
神仏集合時代の名残りで、隣に神社が有る場合も有ります。
一番札所の「青岸渡寺」には飛瀧神社(滝そのものが御神体)と熊野那智大社も鎮座されているので、一時間と少しの間に、走るは登るは、駆け降りるはの大変な修行?が待ちうけています。

そんなこんなな(笑)今回の、バスツアーですが、【ツアーNo.⑥は十六番~十九番札所+番外一寺のコースです。】

第十六番札所、音羽山 清水寺

CIMG9470.jpg
(十一面千手千眼観世音菩薩)

第十七番札所、補陀洛山 六波羅蜜寺

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(十一面観世音菩薩)

第十八番札所、紫雲山 六角堂 頂法寺

CIMG9472.jpg
(如意輪観世音菩薩)

第十九番札所、霊麀山 革堂 行願寺

CIMG9473.jpg
(千手観世音菩薩)

これに番外霊場の華頂山 元慶寺のコースです。

【ツアーNo.⑦は二十番~二十三番札所迄の四寺コースです。】

第二十番札所、西山 善峯寺

CIMG9474.jpg
(千手観世音菩薩!千手千眼と読めますが千手観世音菩薩です。)

第二十一番札所、菩提山 穴太寺

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(聖観世音菩薩)

第二十二番札所、補陀洛山 ;総持寺

CIMG9476.jpg
(千手観世音菩薩)

第二十三番札所、応頂山 勝尾寺

CIMG9477.jpg
(十一面千手観世音菩薩)

【巡礼の心得「十善戒(じゅうぜんかい)」】

巡礼者の心得について説明した十善戒を説明しときますね。
十善戒は、古来より遍路の行動規範といわれいるそうです。

一、不殺生(ふせっしょう)生きているもの、すべての命を大切にする。
二、不偸盗(ふちゅうとう)物を盗まず、他人のものを大事に扱う。
三、不邪淫(ふじゃいん)性は尊いものであり、節度をもって性を考える。
四、不妄語(ふもうご)うそ、偽りはいわず、真実を話すことを心がける。
五、不綺語(ふきご)虚飾のことばは話さず、飾らない本当のことばで話す。
六、不悪口(ふあっく)悪口は言わず、相手を思いやることばで話をする。
七、不両舌(ふりょうぜつ)どの人に対しても、二枚舌を使わず、温かな気持ちで話す。
八、不慳貧(ふけんどん)強欲をはり、貪ることなく、感謝の気持ちで過ごす。
九、不瞋恚(ふしんに)怒りをおさえ、心を落ち着けて、優しい気分で過ごす。
十、不邪見(ふじゃけん)邪な間違った考えを捨て、どの人にも平穏な気分で接する。

確か般若心経に書いてあったような?

【同行二人って誰と誰?】
お遍路をはじめると、様々のところで目にするのが、この「同行二人」菅笠や山谷袋などに書いてあります。
「同行二人(どうぎょうににん)」とはお遍路がお大師(弘法大師空海)さまと二人ずれという意味です。
遍路では一人で歩いていても常に弘法大師がそばにいて、その守りを受けているとされています。
そして、遍路で使われる杖(金剛杖)には弘法大師が宿ると言われています。 

ちなみに(笑)西国三十三観音霊場巡りでは、この同行二人を西国三十三観音霊場を開いた、徳道上人と考えたりまた観音菩薩と考えたりすることもあるようです。

【空海って誰(;^_^A】
弘法大師空海(774-835)。
「空海」として広く知られ、「お大師さま」の名称でも親しまれています。
高野山を開創者で、広く密教の教えを多くの人々に導きました。
密教の宗派の一つである真言宗を開祖で、遍路で行われる参拝作法は密教真言宗のものを基本としています。

大師は讃岐の国(香川県)の出身で、青年期には、四国の山中海岸、太龍岳、室戸岬、石鎚山などで山道修行を行うことで虚空蔵求聞持法の智恵(一度見聞きしたものは絶対に忘れず、無限の智恵を手に入れることが出来るという、真言密教の秘法です。欲しいね~!)を得たとされ、このことが四国遍路の基礎の一つとなっています。
四国には今でもお大師さまが遍路を巡っているとされています。

ちなみに金剛杖は橋の上では突いてはいけません。
弘法大師さまが今まさに橋の下でおやすみに成っているかもしれないからです。


「信じる人は救われる」良く言う言葉ですが、信念をもって行動する事が、目的を達成するためも近道であることは間違いありません。

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2017/02/19

たった五回で巡る?『西国三十三観音霊場』の旅②

たった五回で巡る?『西国三十三観音霊場』旅の第二段です。

前回一番札所~八番札所迄御紹介しました。
今日はバスツアーNo.④の九番札所から十一番札所、バスツアーNo.⑤の十二番札所~十五番札所迄です(私が利用したのは阪急交通さんのバスツアーなので、他社だと順番が少し違うかもしれません。)。

『西国三十三観音霊場』バスツアーの皆さんを見ていると、四国八十八ヶ所巡りの様な「完璧」お遍路姿が少ないのも特徴ですね。

私もだいたい、軽いトレッキングの服装ですが、輪袈裟だけは持っていく様に心がけており、お寺では着用しています(輪袈裟は宗派に関係無く持てるものにしています。2000円程の物です。)。

P2190013.jpg(安いものですが、気持ちが違いますね)

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【西国三十三観音霊場巡りとは!】
近畿二府四県と岐阜県に点在する三十三ケ所の観音信仰の霊場の総称です。
これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行であり、現在も多くの参拝者が訪れているんです。
前回も説明しましたように、西国三十三観音霊場、二十七番札所「書写山 円教寺」の三十三霊場御本尊レプリカ像を紹介して、五回で満願をイメージしていただく企画の第二段です(せっかく撮影した写真が無駄にならない為です。笑!)。

【西国三十三観音霊場の始まりについて】
長谷寺の開基である徳道上人によって718年(養老2年)に始められました。
上人が病気で死線をさまよっているとき夢の中で閻魔大王に会い、大王から悩める人々を救うため霊場を開くようにとのお告げを受けます。
夢から醒めると病気はたちまち平癒し、お告げどおりに三十三カ所の観音霊場を設けますが、なかなか人々の信仰を得ることが出来ませんでした。
徳道上人はやむを得ず宝印を集めて 、中山寺の「石の唐戸」の中に埋めました(続く~)。

P2190004.jpg(第九番、第十六もお参りはしているのですが(;^_^A)

上は、散華用の台紙です。
どれだけお参りしたか、一目瞭然ですね~(*^.^*)
私も半分位巡礼出来ました。
第九番札所、興福寺 南円堂と第十六番札所音羽山 清水寺もお参りしているのですが、当時は散華迄は集めようと思っていなかったので、貼られておりませんσ(^_^;)?

参拝したなかで、ブログに投稿させていただいたのは、今のところ以下の四寺+番外一寺です。
第一番 那智山青岸渡寺
第十八番 紫雲山 六角堂 頂法寺
第二十四番 紫雲山 中山寺
第二十五番 御嶽山 播州清水寺
番外 東光山 花山院菩提寺

此れから順次御紹介出来ればと考えています。
何年かかるか解りませんが、ごゆるりとお待ち下さいね。

さてバスツアーですが、【ツアーNo.④は九番~十一番札所のコースです。】

第九番札所、興福寺 南円堂

CIMG9463.jpg
(不空羂索観世音菩薩像)

第十番札所、 明星山 三室戸寺

CIMG9464.jpg
(千手観世音菩薩)

第十一番札所、深雪山 上醍醐 准胝堂 (醍醐寺)

CIMG9465.jpg
(准胝観世音菩薩)

【ツアーNo.⑤は十二番~十五番迄の四寺コースです。】

第十二番札所、岩間山 正法寺 (岩間寺)

CIMG9466.jpg
(千手観世音菩薩)

第十三番札所、石光山 石山寺

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(如意輪観世音菩薩)

第十四番札所、長等山 三井寺 (園城寺 )

CIMG9468.jpg
(如意輪観世音菩薩)

第十五番札所、 新那智山 今熊野観音寺 (観音寺)

CIMG9469.jpg
(十一面観世音菩薩)

【花山法皇の足跡】
徳道上人が中山寺に宝印を納めてから約270年後、988年(永延2年)花山法皇(安和元年「968年」~寛弘5年「1008年」)が紀州国の那智山で修行していた折、熊野権現が姿を現し、徳道上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を授けます。
花山法皇は、観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった、中山寺(兵庫県宝塚市)で宝印を探し出し播磨国書写山圓教寺の性空上人の勧めにより、河内国石川寺(叡福寺)の仏眼上人を先達として紀伊国熊野から三十三の観音霊場を巡礼し修行に勤め、大きな法力を身につけたといわれます
このことにより、やがて観音霊場を巡る西国三十三所という信仰となり、西国三十三所は日本最古にして、巡礼の元祖となりました。

この花山法皇の観音巡礼が西国三十三所巡礼として現在でも継承されており、各霊場で詠んだ御製の和歌が御詠歌となっています。
花山法皇は、寛弘5年(1008年)2月花山院の東対にて崩御、紙屋上陵(現在の京都市北区衣笠北高橋町)に葬られています。

花山法皇については、以前も書かせていただきましたが、とても可愛そうな天皇様です。

【古典「大鏡」(花山天皇の出家)現代訳より】

次の帝は、花山院天皇と申し上げました。冷泉院の第一皇子であります。御母は、贈皇后宮懐子と申し上げます。
永観二年八月二十八日、(花山院は)天皇の位におつきになりました。御年十七歳でした。
寛和二年丙犬の年の六月二十二日の夜、驚きあきれてしまいましたことには、(花山院は)誰にもお知らせにならないで、こっそりと花山寺においでになって、御出家入道なさったのでございます。御年十九歳でした。
(天皇としての)世をお治めになること二年でした。(出家した)その後、二十二年生きていらっしゃいました。

しみじみと思われることは、(花山院が)ご退位なさった夜、藤壺の上の御局の小戸からお出ましになったところ、有明の月がたいそう明るかったので、(花山院が、)「(月の光で姿が)目立ってしまっているなあ。どうしたらよいだろうか。」とおっしゃったのを、「そうかといって、(出家を)お取りやめになれる理由はございません。神璽・宝剣も(すでに皇太子のもとに)お渡りになってしまいましたので。」と粟田殿(=藤原道兼)がせきたて申し上げなさったのは、まだ帝(=花山院)がお出ましにならなかったその前に、(粟田殿が)みずから(神璽と宝剣を)取って、皇太子の御方にお渡し申し上げなさっていたので、(花山院が宮中に)お帰りになるようなことはあってはならないとお思いになって、そのように申し上げなさったということです。

明るく澄んでいる月の光を、(花山院が)まぶしくお思いになっているうちに、月の表面にむら雲がかかって、少し暗くなっていったので、「わが出家は成就するのだなあ。」とおっしゃって、歩き出しなさるうちに、弘徽殿の女御の御手紙で、普段破り捨てないで御身から離さずご覧になっていた手紙を思い出しなさって、「しばらく(待て)。」とおっしゃって、(お手紙を)取りにお入りになったちょうどその時よ、粟田殿が、「どうしてこのように(未練がましく)お思いになりなさったのですか。
ただ今(この機会を)逃したら、(出家するのに)自然と支障も出て参るでしょう。」と、うそ泣きなさったのは。

さて、(粟田殿は花山院を)土御門から東の方にお連れ出し申し上げなさるが、(陰陽師の安倍)晴明の家の前をお通りになると、(清明)自身の声で、手を激しく、ぱちぱちとたたいて、「帝(=花山院)がご退位なさると思われる天の異変があったが、すでに成ってしまったと思われることだよ。(宮中に)参上して奏上しよう。車に支度を早くしなさい。」
と言う声をお聞きになっただろう(その時の花山院のお気持ちは)、そう(=覚悟の上での出家)であってもしみじみと感慨深くお思いになったことでしょうよ。
(清明が、)「とりあえず、式神一人が宮中に参上せよ。」と申し上げると、人の目には見えないものが戸を押し開けて、(花山院の)御後ろ姿を見申し上げたのでしょうか、「ただ今、ここを通り過ぎなさっているようです。」と答えたとかいうことです。
その家(=清明の家)は、土御門通りと町口通りの交わる所にあるので、(花山院が通る)お道であった。

花山寺にお着きになって、ご剃髪なさって後に、粟田殿は、「(ちょっと今から)退出して、大臣(=粟田殿の父である東三条殿のこと)にも、(私の出家前の)変わらない姿をもう一度見せ、これこれと(出家する)事情を申し上げて、必ず(こちらへ戻って)参りましょう。」と申し上げなさったので、(花山院は、)「私をだましたのだな。」とおっしゃってお泣きになった。
お気の毒で悲しいことですよ。
普段、(粟田殿は)よく、「(帝が出家しても私は)お弟子としてお仕えしましょう。」と約束して、だまし申し上げなさったとかいうのは恐ろしいことですよ(まだ続きますがここまでです)。
「勿論古典が訳せるわけもなくフロンテアの古典教室訳を引用させていただきました。」

大鏡は安部晴明も出てきて、式神に花山天皇を見送らせているなんて面白いですね~古文もっとまじめにやっとけばよかったな!
政争に巻き込まれて騙されて出家させられてしまったのです(涙)。


花山天皇が出家すれば、天皇の座が空き、皇太子が天皇の座につくことができる。
この時の皇太子は、粟田殿の父である東三条殿の孫であったため、孫である皇太子が天皇になれば、東三条殿は外戚として政治の実権を握ることができるという背景がありました。
要は、花山院が出家して天皇の座を降りれば、粟田殿と東三条殿にとって都合が良いため、普段から粟田殿が花山院の忠実な家臣としてふるまい、この時ようやく花山院を出家させることに成功したのでした。
花山院はだまされたのです。

宗教と政治は本来、別々のはずなのですがね~!
それから、煌びやかな寺院を見るとお金のことも気に成ってしまいますね(笑)


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2017/02/16

たった五回で巡る?『西国三十三観音霊場』の旅①

『市郎右衛門』は歴史やその他、色々な記事をブログとしてUPさせていただいているのですが、こだわりと申しますか?明確なコンセプトが有るのです

それは体験したこと以外は記事にしないということです(*`・ω・)ゞ!

私自身の感性を大事にしたいので、遺跡・城・寺社仏閣等は訪れた場所のみ記事にしていますし、グルメ等は勿論食べた物だけ記事にしています(美術陶芸は見て触って、作って?)。

とは言うものの、歴史上の人物には会えない訳ですから、其処は資料等で補わせて頂くことに成ります(笑)。

ブログ投稿のために、寺社仏閣巡りが大好きな私は『西国三十三観音霊場』を参拝すると共に、御朱印集めも行っているんです。

昨年その、『西国三十三観音霊場』第二十七番札所、姫路市の「書写山 円教寺」にお参りし取材してきました。
軟弱にもロープウェイ使いお寺を目指すと、途中の参道に西国三十三観音霊場の御本尊レプリカが並んで設置(安置?)されているのですが、これは多分写真枚数の関係や記事容量の関係で「書写山円教寺」のブログ投稿では、ボツ写真に成りそうなのです。

其処で、せっかくなので五回にわたり全ての『西国三十三観音霊場ご本尊レプリカ像』を皆さんに御覧頂こうと思い、御紹介させて頂きます!


御影
(霊場巡りで集めているのは、御朱印・カラー御影「御本尊の絵(上の御札?カード?)」・散華などです。)

御利益が有るか解りませんが、『西国三十三観音霊場』を巡った気持ちに少しでも成って頂けましたら幸いですね(#^.^#)

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【西国三十三所(さいごくさんじゅうさんしょ、さいこくさんじゅうさんしょ)巡りとは!】
近畿2府4県と岐阜県に点在する33か所の観音信仰の霊場の総称です。
これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行であり、現在も多くの参拝者が訪れています。

「三十三」とは、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』(観音経)に説かれる、観世音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化するという信仰に由来し、その功徳に与るために三十三の霊場を巡拝することを意味し、西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされてきます。

今日の①は一番札所から八番札所迄(観光バスと同じ感じで行きますかね、日帰りツアー三日分ですね!旅行会社の回しもんか~い(*`Д´)ノ!!!)


【ツアーNo.①は一番札所のみのコースです。】

第一番札所、那智山青岸渡寺は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある天台宗の寺院です。

CIMG9455.jpg
(如意輪観世音菩薩)

第1回ご参加時には“西国三十三ヵ所巡礼マップ”付で西国三十三所札所会公認先達(又はお寺の僧侶「先達」って言葉初めて覚えました、)が発着地よりバスに同乗します。
西国三十三所札所会公認先達同行ツアーでしかもらえない「御詠歌護符」付(これを集めようとするとバスツアー以外は無理です(..))もちろん添乗員同行、ご朱印は添乗員が代行です(至れり尽くせり!)。
全12回とも日帰りツアーですので、お気軽にご参加いただけます。1回だけの参加でも、1名様のご参加でも大歓迎、初めての方でも安心、巡礼用品もご案内致します。
第一回ご参加の方は「納め札付」(お一人様50枚付、納め札とは、自分の氏名などを記入し、本堂に納めて、ご本尊様に祈願や参詣のご報告をするものです)。
観音経文字入り数珠玉付、1カ寺につき1珠ずつご参加ごとにもらえます(満願された際には33玉の数珠玉がお手元に揃います。33個の数珠玉で片手念珠としてご使用頂けます)。

私は宝塚~バス乗車時間(休憩込み)12時間現地1時間少々、お弁当付きまして、初回限定4980円成り~(o^-')b !

【ツアーNo.②は二~四番札所のコースです。】

第二番札所、紀三井山金剛宝寺

CIMG9456.jpg
(十一面観世音菩薩)


第三番札所、風猛山 粉河寺

CIMG9457.jpg
(千手千眼観世音菩薩)


第四番札所、槇尾山 施福寺 (槇尾寺)

CIMG9458.jpg
(十一面千手千眼観世音菩薩)


【ツアーNo.③は五~八番+番外一寺迄の五寺コースです。】

第五番札所、 紫雲山 葛井寺

CIMG9459.jpg
(十一面千手千眼観世音菩薩)


第六番札所、 壺阪山 南法華寺(壺阪寺)

CIMG9460.jpg
(十一面千手千眼観世音菩薩)


第七番札所、 東光山 岡寺(龍蓋寺)

CIMG9461.jpg
(如意輪観世音菩薩)


第八番札所、 豊山 長谷寺

CIMG9462.jpg
(十一面観世音菩薩、もう一度申しますが書写山 円教寺のレプリカ巡りです。)


西国番外、 豊山 法起院(ぶさんほっきいん、幾つか番外も回れるようになっています。)

行き帰りにお勤め(般若心経を唱え、現地でもお経をあげます。)を行います。
No.③のツアーだと七回お勤めすることに成りますね、結構辛いです(⌒‐⌒)。
正に修行ですね。

因みに四国八十八ヶ所巡りでは、一つのお寺でご本堂(本尊)に一度と、弘法大師の太師堂でもお勤めするので、結構ふらふらになりました(笑)。

我が家は日蓮宗なので、本来は身延山久遠寺にお参りするのが筋てすが、他宗派のお寺も勉強に成りますよ。

仏教というとどうしてもお葬式のイメージですが、本来は生き方を学ぶ宗教です。
死んで仏様に成るのが仏教だと思い違いしておられませんか?(笑)

「生きている間に悟りを開いて仏になる事」が仏教の究極目標です。
どうすれば生前に悟りを開けるか?考えながら生活すると誰でも釈尊に近づく事が出来るかもしれません。


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2017/02/13

やはり「出雲王国」は実在した!『加茂岩倉遺跡』

今日は前回の続きとも言える、『加茂岩倉遺跡』を御紹介します。

前回「荒神谷遺跡」が凄い!とお話したのですが、荒神谷遺跡の発見から10年と少し、また山陰!それもすぐ側から凄い物(銅鐸ですけど(^^)d)がザックザックと出てきたものだから、本当にびっくりすると共に、日本の古代史がひっくり返えってしまいそうに成っています(笑)。

IMG_6205.jpg
(正にザックザック!ここ掘れワンワンですね~笑)

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加茂岩倉遺跡(かもいわくらいせき)は、島根県雲南市加茂町岩倉にある弥生時代の遺跡です(岩倉の名前に謂れが有る?と現地に何か記載が有った記憶が有るのですが、お宝を埋めた伝承が残っていたのかな?)。
1999年1月14日国の史跡に指定されました。



ちなみに、暑い中を苦労して歩いたのですが、松江自動車道の加茂岩倉SA下りからすぐに行けます(;^_^A。

IMG_6208.jpg
(こんな仕事がして見たかったと思う市郎右衛門です。)

【銅鐸の埋葬状態の復元展示】

遺跡は1996年に加茂町(現雲南市)岩倉の丘における農道建設工事中に発見されました。
重機による掘削中に、突然異様な音がしたため、直ちに重機を止めた運転者が「誰がバケツをこんなところに埋めたんだ~!」と思いつつ近づいたところバケツではなく、なんと銅鐸でした。

当時加茂町では、町長の速水雄一氏(後に雲南市長)のもとで「学問と教育の里」というテーマで町おこしを行っており、町役場にただちに遺跡発見の連絡が入ります。
速水町長号令の元、1996年より1997年の2年間にわたり、加茂町教育委員会と島根県教育委員会により発掘調査が行われました。
現在、発掘された当時の銅鐸の埋葬状態をそのまま復元展示しています。

【加茂岩倉遺跡出土の銅鐸】

発掘調査の結果、一カ所からの出土例としては日本最多となる39口の銅鐸が発見されました。
出土品は国(文化庁)が所有し、現在は島根県立古代出雲歴史博物館に保管されています。
1999年に遺跡は国の史跡に指定され、出土した銅鐸は国の重要文化財に指定されました。
2008年7月には、出土した39口の銅鐸全てが国宝に指定されました。

発見時に重機が直ちに停止されたことも幸いし、当初の埋納状態がよく残されており、配置などの詳細な学術情報が研究者にもたらされました。
また、1997年度の調査では、銅鐸が埋められていた坑から3メートル離れた場所に別の坑も発見されたが、こちらからは残念ながら、遺物は全く出土しませんでした。

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(新たに見つかった抗の様子ですがこちらは空っぽです。)
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(最初に掘った穴が良くなかったのでしょうか?)

遺跡は1984年に発見され、358本の大量の銅剣が出土した、荒神谷遺跡と山を隔てて南東に僅か3.4kmしか離れておらず、両遺跡から出土の銅鐸に「×」印の刻印があることから両遺跡は何らかの関係あることが分かり、古代出雲を研究する上で大きな手がかりとなっています
これらの二つの発見や、後に発見された「出雲大社境内遺跡」(40mもの空中神殿の存在が明らかになりました。)との関連から、古代「イズモ」には王国、あるいは文化圏が存在した、とする研究者が増えてきています(出雲王国確定と思ってます!)。

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(40mの空中神殿の柱の跡が出雲大社で発見されました。埋め戻して場所を特定するためのしるしが残っています。)
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(ほらすぐそばに在りますね~荒神谷遺跡)

【出土品銅鐸】

『入れ子銅鐸の出土』
加茂岩倉遺跡の銅鐸埋納坑からは39口の銅鐸が出土しましたが、これは1つの遺跡からの銅鐸の出土例としては最多で、古代出雲の歴史に対する見直しが迫られることとなっています。

IMG_6206.jpg
(大きいサイズの中に小さなサイズを入れ込んでいます。正に「入れ子」状態ですがなぜこんな埋め方なのですかね?)
IMG_6207.jpg
(加茂岩倉だけでは無くて、遠く離れた兵庫県の淡路島でも同じ埋め方なのが納得できませんよね~?)

大きさの点では高さ45センチメートル前後の中型鐸20口30センチメートル前後の小型鐸19口に分類され、形式においては弥生Ⅱ期からⅢ期の外縁付1式が19口、外縁付紐2式が9口、外縁付紐2式から扁平紐1式が2口、扁平紐2式が6口、扁平紐2式から突線紐1式が3口となっています。

そのうち13組26口は中型鐸の中に小型鐸が納められた「入れ子」状態で出土したことが確認されています(昨年出土した淡路島の松保銅鐸によって音を出すための、舌の状態も確認されていますね)。
銅鐸がこのような入れ子状態で出土した例は極めて少なく、内部は中空であった可能性も考えられているが、CTスキャンによる内部調査によれば、埋納坑埋内と内部を塞いでいる土砂が異なることが指摘されています。
表面からは朱が検出され、線刻で文様が表現され、袈裟襷文(けさだすきもん)銅鐸が30口、流水文銅鐸が9口ありました。
絵画の描かれた銅鐸は7口あり、シカやカメ(ウミガメ)、トンボや四足獣などの動物が描かれています。

『絵画銅鐸に描かれている動物達』
銅鐸の中には、顔・トンボ・鹿・猪・スッポンなど絵を描いた絵画銅鐸が何個か含まれていました。

顔を描いた銅鐸29号銅鐸(辟邪銅鐸)の吊り手に一番上に顔を描いている。
下に向かって開く弧線を二つに重ねた眉、下向きと上向きの弧線を組み合わせた目、入れ墨を鼻の横に上向きの弧線を二つ組み合わせ表している。
顔を描いた銅鐸はこれが初めてでなく、島根県出土と推定されている銅鐸、伝岡山県上足守銅鐸、広島県福田銅鐸などがあります。
これらの絵画銅鐸は目を描いているが、虹彩(黒目)が描かれていないのが特徴です。

蜻蛉の絵が描かれた18号銅鐸(四区袈裟襷文銅鐸)身の両方の面の上右・左区に蜻蛉の絵があります。
35号銅鐸の一面の上右区にもあり、一枚の羽を二本の線で描き羽の幅を輪郭で表しているほか、左右の羽や頭、胴もくびれを描くなど丁寧で写実的に描かれています。
区画に収まらないトンボの絵もあり、区画の上に描くのはトンボが空を飛ぶからだと解釈できるそうです。
秋津はトンボの古語で、秋津洲・秋津島(古事記では本州を大倭豊秋津島と呼んでいますね!)と呼ぶのは、トンボが「田の神」であり、豊作の神であったからと考えても良いのではないでしょうか?(黄金色に実った稲穂の上には赤蜻蛉が良く似合いますものね(#^.^#))

鹿と猪(多分?)23号と35号銅鐸に区画の中に鹿二頭と四脚動物が描かれていました(古代の動物に関してですが、鳥・鹿は神聖な生き物、猪は食料?だそうです。)。

『製作地は何処だ?』
出土銅鐸の製作年代は弥生時代中期から後期と推定されます。

出土品の一部(外縁付1式銅鐸)には近畿地方で製作されたと推定されるものもあり、12号銅鐸は大阪府東大阪市鬼虎川遺跡出土鋳型と共通する特徴をもっています。
外縁付紐2式から扁平紐1式にかけての銅鐸は、流水文銅鐸9口、袈裟懸文銅鐸2口ですが、この時期の流水文文様は、畿内南部の工人集団製作の横型流水文畿内北部の工人集団製作の縦型流水文様の2系列がありました。
本遺跡出土の流水文銅鐸9口は、全て横型流水文銅鐸なので、畿内南部(奈良周辺ですかね~?)の工人集団が製作したものと考えられています。

扁平紐式2式から突線紐1式にかけての9個の銅鐸は、3群から成り、そのうちの四区袈裟懸襷文銅鐸3口は同一工房の作品のようです。
もう一群の2口は、互いに同笵(同じ鋳型から鋳造された銅鐸)。
これら二群に比して、六区袈裟懸襷文銅鐸6口も同一工房で造られていると推定されています。
つまり、少数の工房で製作された銅鐸と推測できます。

絵画表現の独自性や荒神谷遺跡出土銅剣の線刻との類似から、大半は出雲地方で製作されたと考えられており、一部は他地域との同笵関係も認められています。
なお、埋納された時期については、現在のところ荒神谷遺跡同様特定できていません

本遺跡で出土した銅鐸には、同じ鋳型で製作された銅鐸も各地で確認されていることから、各出土地との関連を含めた今後の研究が待たれますね。

ちなみに、昨年発掘された淡路島の松帆銅鐸7点のうち、松帆3号銅鐸と加茂岩倉27号銅鐸、松帆5号銅鐸と荒神谷6号銅鐸、松帆2・4号銅鐸と慶野中の御堂銅鐸(南あわじ市日光寺蔵)、同じ石製の鋳型で造られた同笵銅鐸であることがわかりました(だんだんと解明されていく古代史に目が離せませんね)。

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2017/02/11

『出雲神話は事実だったなこりゃ!』「荒神谷遺跡」

今日は「倭国大乱」の痕跡か?驚きの発見が続々と発見されている山陰の中で、『荒神谷遺跡』をご紹介しましょう。

私、小学校の卒業文集に「歴史学者に成りたい!」と書いたんです。

実家の地区内に「楯縫古墳群」があって古墳探検したり、その先の葡萄畑では土師器の欠片や矢じりがいっぱい拾えました。
子供には楽しかったんですよ~(o^-')b(今の子供達はそんな楽しい遊びしてるかな?)。 !

中学生に成って、但馬国分寺の調査が本格的に始まり、歴史ブームが有りました(#^.^#)。
邪馬台国論争が盛んで、九州VS機内のバトルが楽しみでした。

面白かったですね~、だって事実は一つにも関わらず、嘘を本当の様に話せば大学教授(子供の考えですから、真面目に取り組んで居られる皆様、許して下さい(^人^))?にだって成れるのですからねぇ!。
必ず歴史学者に成るぞ~と思って居たのですが、全く違う理系に進んでしまいました(笑)

IMG_6193.jpg
(古代人はなぜこの地にこれほどの銅剣を埋めたのか、知りたくありませんか?)

しかしながら、鳥取県米子市に単身赴任した事が何十年も忘れていた心の中の、焼けぼっくいに火を着けてしまいました。

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今日は建国記念日ですので、建国記念日の由来から始めますか、2月11日は、日本神話の登場人物であり古事記や日本書紀で初代天皇とされる神武天皇の即位日が、日本書紀に紀元前660年1月1日 (旧暦)とあり、その即位月日を明治に入り新暦に換算した日付です

【出雲の「神話」は史実だった!? 定説を覆す出雲・山陰、近年の考古学的大発見の数々】

さて本題、出雲を初めとする山陰は長らく歴史学・考古学では重要視される事が在りませんでした。
それは、関連する歴史文献や考古学的な出土品がほとんど無かったからです。

出雲大社で有名な「出雲」の地は、数多くの神話や伝承の舞台として有名ですが、それらの神話のうちいくつかが歴史的な事実であった可能性が出てきています。

出雲はしばしば「神話の国」と形容されます(小泉八雲も「神々の都」と称しています)。
その典拠は、日本の「建国」の歴史を記した『古事記』『日本書紀』『出雲国風土記』です。

一般に「神話」と「歴史的事実」とは別個に扱われますし、「神話」をそのまま「歴史的事実」と考える人は多くはないはずです。
しかし近年、出雲地方で、それまでの常識を覆す考古学的大発見が続き、「神話」が「史実」と考えられ始めている事はご存知でしょうか。

1984年から85年にかけて、荒神谷(こうじんだに)遺跡から弥生時代の358本という大量の銅剣や16本の銅矛などが出土しました。

もちろん、これだけ大量の銅剣、銅矛が一箇所から発見されたのは前代未聞のことです。
それまでに、全国で見つかっていた弥生時代の銅剣の総数が約300本であることを考えますと、荒神谷遺跡で発見された銅剣の数にあらためて驚かされます(一気に倍以上の数になったわけです)。

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(発掘調査の様子ですが、こんな小さな谷に何故と思いますね~?)




さらに、1996年にも、荒神谷遺跡から遠くない加茂岩倉(かもいわくら)遺跡から39個の銅鐸が発見されて注目を集めました。
この加茂岩倉遺跡での発掘以前に日本全国で発掘されている銅鐸の総数が460個であることを考えますと、39個というのは異常な多さです。
加茂岩倉遺跡は今回はお預けまたの機会にお話しいたしますね。

このように、近年、「神話」が「史実」と認められるような画期的な考古学的発見が「神話の国」出雲で続いているのです。
出雲はもはや「神話の国」だけではなく「古代史の国」といってもよいのではないかと思います。

いま近年の出雲における画期的考古学的発見のいくつかを述べたのですが、じつは、出雲地方では以前より弥生式文化の特徴を示す、四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)と呼ばれるヒトデの形をした独特の大型墳墓がいくつか発掘されていますし、銅剣、銅矛、銅鐸なども弥生式文化の時代のものなのです。

CIMG2608.jpg(妻木晩田遺跡の四隅突出型墳丘墓です。こちらも国自体が消えるように衰退しているんです。)

従来、弥生時代の「二大青銅器文化圏」として知られていたのは和辻哲郎氏が提唱した「近畿の銅鐸文化圏」「北九州の銅剣・銅矛文化圏」ですが(教科書で習いましたよね~)、近年の出雲古代史における数々の発見を考えますと、「二大青銅器文化圏」の再考が求められるでしょう。
いずれにしても、出雲が弥生時代に栄えた大文化圏であることは疑いのない事実です。

【荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)は、島根県出雲市斐川町神庭の小さな谷間にある国指定の史跡】

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(荒神谷遺跡史跡公園)
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(おびただしい数の青銅器!凄すぎます。)

「荒神谷遺跡」が正式名ですが、地名を冠して「神庭荒神谷遺跡」とも呼ばれています(前回UPした「景初三年の三角縁神獣鏡」の神原古墳のすぐそばです)。

1983年広域農道(愛称・出雲ロマン街道)の建設に伴い遺跡調査が行われました。
この際に調査員が古墳時代の須恵器の破片を発見したことから発掘が開始されることに成ります。
1984年 - 1985年の2年間の発掘調査で、銅剣358本・銅鐸6個・銅矛16本が出土しました。
銅剣は1985年、銅鐸・銅矛は1987年に国の重要文化財に指定されましたが、1998年に一括して「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定されました。
出土品は現在、文化庁が所蔵し、島根県立古代出雲歴史博物館などに保管されています。

遺跡自体は1987年に国の史跡に指定されました。
斐川町(現:出雲市)が中心となり1995年に遺跡一帯に「荒神谷史跡公園」も整備されています。
2005年には公園内に「荒神谷博物館」が開館し、出土品の期間展示なども行われ古代のロマンが目の当たりにできます。
現在、出土品は2007年3月に出雲市大社町杵築東に開館した「島根県立古代出雲歴史博物館」に常設展示されているので通常はこちらの方が間違いないですね。

銅剣の一箇所からの出土数としては最多であり、この遺跡の発見は日本古代史学・考古学界に大きな衝撃を与えました。
これにより、実体の分からない神話の国という古代出雲のイメージは完全揖に払拭される事に成りました。
その後の加茂岩倉遺跡の発見により、古代出雲の勢力を解明する重要な手がかりとしての重要性はさらに高まってきています。
出土した青銅器の製作年代等については解明されているようですが、これらが埋納された年代は現在のところ特定できていないそうです(中の土や木片などで今の技術ならできそうな気がしますけどね~)。

【出土した青銅器】

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(綺麗に並べられた358本の銅剣、誰が何故、何の目的で埋めたのでしょうね?)
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(再現ですが、ビックリですね~写真が光って申し訳ありません。)

『銅剣』
丘陵の斜面に作られた上下2段の加工段のうち下段に、刃を起こした状態で4列に並べられて埋められていました。
358本の銅剣は、全て中細形C類と呼ばれるもので、長さ50cm前後、重さ500gあまりと大きさもほぼ同じです。
弥生時代中期後半に製作されたとみられています。
この形式の銅剣の分布状況から出雲で製作された可能性が高いが、鋳型が発見されていないため決定的で無いのが残念ですね。
いずれにしろ、形式が単一なので同一の地域で作られたことは確かなんです。
また、このうち344本の茎には、鋳造後にタガネ状の工具で×印を刻まれています。
このような印は、現在までのところこれらと加茂岩倉遺跡出土銅鐸でしか確認されておらず、両遺跡の関連性がうかがえます(大きなヒントのように思えるのは私だけでしょうか?)。

当時の大和朝廷「イズモ」を特別な地域であると認識していた事が、「記紀」の記述にもあり、また神話のなかの三分の一(三分の二と考える研究者もおられるようです)を出雲神話で占める、といったことからも証明される形となっています。
更に、時代が下って編纂された「式内宮」として認められた神社の、出雲地方での総数と出土した銅剣の本数との奇妙な一致も不思議な謎ですね。

当初は、農道を造るために、神庭と呼ばれる場所であることから、とりあえず調査発掘をすることになり、最初に掘ったトレンチから銅剣が土中から出てきました。
担当者は連絡に奔走し、同時に発掘を進めていくことに成りました。
当初は百本位だろうと考えられたが、次々に出土し、最終的に358本という数に達しました。
それまでに全国で発掘された銅剣の総数を超える数の銅剣が発掘された事は当時のマスコミを興奮のるつぼに放り込んだ形となりましたね(当時私も大興奮した記憶がありますもの)。

これらの銅剣が発掘された1985年7月13日の担当者の話では、梅雨のさなか、テントを張って毎日、夜も欠かさず見張りを続け、現場から帰ってきたその日の当直者は顔が変形するほど蚊にさされたというエピソードもあります(笑い話ですが、当時はそれはそうだっただろうと思えますね)。

『銅鐸』
先年の騒動が静まってから、島根県教育委員会では、周辺に未発掘の遺物、遺跡がある可能性が大でありとして、磁気探査器を使って調査したところ、銅剣出土地より南へ7メートルに反応があり、発掘が始められました。
発掘開始まもなく、銅剣出土地点よりも7メートルほど谷奥へ行った場所で新たに銅鐸6口が発見されます。
埋納坑中央に対して鈕を向かい合わせる形で2列に並べられていました。
分類としては、最古の形式であるI式(菱環鈕式)が1つと、それよりやや新しいII式(外縁付鈕式)の形式のものが1個、外縁付鈕1式3個が出土しました。

IMG_6191.jpg
(こちらは銅矛と銅鐸、整然と並んでいます。)
IMG_6190.jpg
(358本の銅剣のすぐ隣です。)

製作時期は、弥生時代前期末から中期中頃の間と考えられています。
文様に強い独自性がみられる1つを除いては、同形式の銅鐸の鋳型の分布からみて近畿産とする説が有力だったのですが、12年後に出土した加茂岩倉遺跡の39口の銅鐸との関連性を考慮すると、一概に畿内製造であるとは言い切れなくなってきています(北部九州製の可能性が高くなりましたし、分布そのものが加茂岩倉や、昨年の淡路の松帆銅鐸の発見などで変わって来ていますね。)。
三号銅鐸は伝徳島県出土銅鐸と同笵であることが確認されていますし、二号銅鐸が京都市右京区梅ヶ畑遺跡出土の四号銅鐸と同笵であることも判明しました(なお6個の銅鐸の高さが20センチと同じです。)。

地元の研究者である速見保孝によると、近辺に銅鉱山があり、また鋳型を作るための材料となる「来待石(砂岩の一種、細かい細工がしやすく、勾玉などの製造に際して砥石として利用されました。出雲の神社では狛犬の制作にも使われています。)」が大量にある事から、出雲で原材料を集め、大量に製造したのではないか、という説を提唱しておられます。(更なる研究が待たれる所ですね)。

成分は銅を主成分としスズと鉛を含む、青銅です(スズは8.79~17.3%、平均で12.6%、鉛は1.53~7.53%、平均で4.3%含んでいることが分かっています)。
銅とスズの合金である青銅は、スズの配合によって色が変化します。
このような成分組織では、銅鐸の地金の色は少し黄色味を帯びた銅色(現在は勿論緑青で覆われています。)を呈していたと考えられ、中には金色に近い色を呈していたものもあったのではないかとみられています(再現された銅鐸の色は黄金といってよいほどに綺麗です。)。

『銅矛』
矛先を揃えられ、銅鐸と共に出土した銅矛は、銅鐸と同じ埋納坑の東側に、16本とも刃を起こし、矛先が交互になるように揃えて寝かせた状態で埋められていました。
横には小ぶりの銅鐸が鰭(ひれ)を立てて寝かせた状態で、同じく交互に並べた状態です。
鰭とは、銅鐸の横側、板状の部分を「鰭」と呼びます(プラモデルのバリみたいな部分です。バリと一緒にしちゃだめですね~必要部分ですからね!)。
古代当時、この青銅器に関わった人が、銅矛の刃と銅鐸の鰭を立てた状態で丁寧に並べて置いた、そのままの状態を保って出土したのだと思われます(古代人の意思が感じられる埋め方です。)。

分類には諸説あるようですが、大まかに言えば、中広形14本と中細形2本に分けられます。
製作時期は、銅剣とほぼ同じか、若干後の時期と考えられています。
その形態や北部九州産の青銅器に見られる綾杉状のとぎ分けがあることから、16本とも北部九州で製作されたものと考えられます。

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(公園に植えられた大賀蓮、縄文時代の古代蓮が花開いています。)
IMG_6184.jpg
(枯れても種は2000年の時を隔ててまた咲くのですね~感慨深いですね。)

「記紀神話」の中には出雲繁栄と国譲りという「イズモ」にとっては、栄光と挫折ともいえるお話が語られています。
その神話の現実が、この荒神谷遺跡ではないのでしょうか?

弥生時代から語る継がれる神話の世界が解明されて「日本人は神の子孫」と呼ばれる日が来るかもしれませんね。
「日本は神の国」と発言して物議をかもした、総理経験者も居られましたが、ご本人の発言の意図は別にして、誇りをもって神の子孫といえる日本人に成りたいし、子供達にも語り継ぎたいお話です。
建国記念日にふさわしいブログだったかな!

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2017/02/09

凄いぞ!卑弥呼の銅鏡?神原神社古墳「景初三年銘三角縁神獣鏡」

今日ご紹介するのは島根県雲南市の「神原神社古墳」です。

所在地:島根県雲南市加茂町大字神原。
墳形: 一辺が約30mの方墳(大きくはないね!)。狭長(5.8m)の竪穴式石室を持っています。
築造時期: 4世紀中頃(西暦350頃!)
出土品:「景初三年」銘の三角縁神獣鏡(国の重要文化財)、鉄製武器や農耕具等。

赤川左岸に隣接する微高地に築かれた一辺30~35mの方墳です。
現在は赤川改修により50m南方の地点に移築されています。

三角縁神獣鏡が出土した神話時代の出雲王と思われる人物の石室を、神原神社境内に完全移築復元しています。

何が凄いかって?それは「景初三年」銘の三角縁神獣鏡ですよね~(^^;
256498.jpg 
(「景初三年」銘の三角縁神獣鏡です(゜゜;))


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【凄いぞ!何がって?】
「景初三年」銘の三角縁神獣鏡が何故凄いかなんですけれど、「景初三年」は「三国志演義」で有名な曹操の国「魏」に卑弥呼が使いを送り、青銅鏡百枚を下賜されたといわれている西暦239年に当たるからです。
魏の皇帝は二代曹叡です(曹操の孫に当たります)

ここでちょっと失礼かも知れませんが、「鏡なのにゴツゴツで何処に私が写るの?」何て思われてる方は居られませんか?
見えているのは、後ろの模様で反対側が磨かれて鏡に成ってます。
歴史好きには当たり前の事ですが、当たり前な事が以外と一般的に当たり前でないことも有るので、あえて説明させて頂きましたm(__)m。

余談ですが、私の職場でアルバイトさんに仕事して頂いた事が有るのですが、双眼顕微鏡をどうしても、片眼を閉じないと見る事ができない方が居られました(小中学校で単眼顕微鏡しか使っていないからだそうです、笑!)。
理系の人間には出来て当たり前な事なのですが、利用しない方には当たり前でないことも有るんですよね!
ふと、今思い出して鏡の説明分を書き足しました!不要かな?(#^.^#)。

古墳から三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が出土する例は、特に珍しいことでは有りません。
現在では500を越える数の三角縁神獣鏡が見つかっています。
ところが、その鏡が「景初三年」の銘が刻まれていると話は別なんです。
しつこいようですが、景初三年は西暦239年、邪馬台国の女王・卑弥呼が魏の明帝(二代曹叡、蜀の諸葛亮の北伐に司馬懿をもって対応。諸葛亮が没すると「死せる孔明、生ける仲達を走らすの名場面が繰り広げられます(笑)」、238年に司馬懿に遼東の公孫淵を討たせました。公孫氏を滅ぼしたことで楽浪郡・帯方郡を得て、翌年の邪馬台国の遣使があったとされる。)のもとに使者を派遣し、明帝から銅鏡100枚を下賜されたとされる年だからです(うんちく語り過ぎ(^人^))。

神原神社古墳の三角縁神獣鏡が下賜された銅鏡かどうかは、学会でも異論があるところですが、景初三年銘がある神獣鏡は、現在までのところ2面だけしか出土していません
もう一面は、大阪の和泉黄金塚古墳(画文帯四神四獣鏡)からであり、そしてもう一面はここ、神原神社古墳からだけなのです



【神原神社】
神原神社は、加茂岩倉遺跡から近く、南東1.8kmのところに位置しています。
車なら数分でアクセス出来ます。
国道54号線に戻って広島方面に向かうと、まもなく赤川に架かる柳橋があり、橋を渡りきって赤川の左岸の堤防を下流に向かうと、1kmほどで神原神社の裏手に出ます。
神原神社古墳は、この神社の横手に移設して復元されています。

周囲を畑に囲まれた神原神社は、今でこそ赤川左岸の畑の中に鎮座していますが、『出雲風土記』『延喜式』の神名帳にも記載されている古社です。

祭神として、オオクニヌシノミコト(大国主命)と、イワツツオノミコト(磐筒男命)、イワツツメノミコト(磐筒女命)を祀っています。

社伝では、アマテラスオオミカミ(天照大神)がオオクニヌシノミコトの神宝や真種の甘美鏡(水底に眠る神威溢れる見事な宝)を天の八十河にいるイワツツオノミコトとイワツツメノミコトを派遣して管理させたとされています。

社殿はもともと赤川左岸の微高地の突端に建てられていました。
その微高地が実は古墳の墳丘だったのです。

度重なる社殿の改築などで古墳の存在は古くからわかっていましたが、調査の手は加えられていませんでした。
昭和47年(1972)、赤川改修工事で新堤防を築くことが決まり、堤防上にあった神社の社殿を隣接地に移すことになりました。

IMG_6212.jpg
(上に堤防が見えますよね~あの向こう側に古墳が有ったようです)
IMG_6214.jpg
(古墳の高さがあるので、ほぼ堤防と同じくらいの高さに石室が在ります。)

新堤防建設に先立って微高地を発掘調査したところ、南北方向27~30m、東西方向22~26m、周濠の底からの高さ6.9mの方墳であることが判明しました。
しかも、横穴式の後期古墳が多いこの地方にあっては珍しい、狭長の竪穴式石室を持つ前期古墳だったのです。

【移設して復元された古墳】
神原神社古墳発掘調査を進めると、石室の蓋石の上に多くの器台形土器や壺が供えてありました。
石室内には、各種の鉄製武器や農耕具が副葬されていました。
鏡も一面見つかり、それが驚くべきことに「景初三年」の銘が刻まれていました。
全国で2枚目となる景初三年銘の神獣鏡の出土で、この古墳が全国的にも貴重なものであることが判明しました。

古墳の取り扱いについて、現状保存すべきかどうか慎重な検討が重ねられましたが、最終的には、完全な発掘調査を実施して、石室を隣接地に移築して保存することになったのです。
昭和48年の暮れに墳丘と石室に対する徹底調査が行われ、翌年には移設地の用地買収が行われて、昭和50年(1975)に石室の移築・復元作業が終わっています。

現在、神原神社横の巨大な覆い屋の下に横たわっている竪穴式石室は、このような経過を経て復元されたものです(移築したとは思えない見事な物です)。

石室の規模は内法で測定して、長さが55.75m、幅は北端で1.3m、南端で0.95m、床面から蓋石までの高さは約1.4m。
石室の四隅の壁はこの付近で産出する扁平な板状石を持ち送り式に小口積みしてあります。
床面はU字型にくぼんだ粘土で、くぼみの大きさから長さ5.8mの割竹形木棺が据えられていたと推測されています。

三角縁神獣鏡以外に、素環頭大刀・木装大刀・鉄剣・槍・鉄鏃などの鉄製品や、鋤・鍬・鎌・斧・ノミ・錐・鉈状鉄器や縫針などの農耕具、土器 、玉類(ヒスイの勾玉・碧玉の管玉・滑石製臼玉など)なども、この古墳から出土しました。

石室の構造に、これらの副葬品の組み合わせや出土土器の形式を勘案して、この方墳の築造時期は4世紀中頃(もう100年早ければね~f(^_^;)と推定されました。

IMG_6213.jpg
(真夏のとても暑い日でした~私の影が…お許しください。)
IMG_6215.jpg
(しかし見事に移築されていると思われませんか?屋根が在って遠くからだと土俵と勘違いしました。)

【埋葬されていた景初三年銘の三角縁神獣鏡】

景初三年銘がある三角縁神獣鏡は、神原神社古墳の石室に安置された木棺の中央東側から見つかりました。
鏡面を上にして約40度の傾で棺壁に立てかけてある状態で発見されました。

このように、土の古墳は出雲地方の古墳文化成立を知る上で重要であり、また、多量の鉄製品はこの地域の鉄生産との関連で注目されています。
出土品は重要文化財に指定され、島根県立風土記の丘資料館に一般公開されています。

この鏡は青銅の鏡で直径は23cm。
銘帯には次の41文字が左回りに鋳出されています。


景初三年 陳是作鏡 自有経述 本是京師 杜地□出 吏人■之 位至三公 母人■之 保子宜孫 壽如金石兮 (□は判読不明の文字、■は言偏に名)

銘文中の「景初」は中国三国時代の魏の年号で、三年はちょうど邪馬台国の卑弥呼が魏に貢献した年にあたります(もう分かったって!(;^_^A)。

このため、「景初三年」銘の鏡は邪馬台国論争や三角縁神獣鏡の製作地論争などで古代史上非常に注目されている鏡です。

三角縁神獣鏡は古代史の大きな謎の一つとされています。
魏の明帝が卑弥呼に下賜した銅鏡が三角縁神獣鏡であるならば、中国本土でも出土していておかしくないのですが、現実には一枚も発見されていません


【日本だけにしか無い理由2つの説】
一つは魏朝特鋳説と呼ばれるもので、中国で出土しないのは、魏が卑弥呼のために特別に鋳造して、そのすべてを卑弥呼に下賜してしまったからだとす説です。
この説では、三角縁神獣鏡は魏志倭人伝に記載の、卑弥呼に賜った銅鏡百枚にあたります。
もう一つは国産説で、我が国でしか出土しないのは、この鏡が日本で作られたものだからであるという
今までに発掘された三角縁神獣鏡がすでに500枚を越えていている点を考慮すれば、国産説の方が蓋然性があるように思われますね。

京都産業大学森博達教授は、中国詩文の韻律の研究から、魏朝特鋳説が成り立たないことを発表しておられます(2000・9・12付け毎日新聞)。
面白い説なので、以下にその要旨を付記します。

中国の詩や銘は韻文であり、原則として韻を踏なければな ません。
後漢に流行した方格規矩四神鏡の代表的な銘文を見ると、音符と四声による平仄(ひょうそく)の法則が当時すでに確立していたことがわかります。
ところが、方格規矩四神鏡の後に現れた三角縁神獣鏡には、魏で押韻(おういん)しなくなった字を押韻字とする銘文が少なく有りません。

神原神社古墳出土の景初三年鏡に関して言えば、かすかに押韻の跡が見られるところが一箇所あるが、平仄の韻律は全く無視されていのです。
卑弥呼が使者を遣わした魏の明帝の時代は、まさに詩文全盛の時代でした。
押韻の意識すら持たない拙劣な銘を刻んだ鏡は、皇帝自身の権威を傷つけるものであり、こんな銘文の鏡を特鋳して賜わるはずがない、というものです(簡単に説明すると天才とも言われた曹操の孫ともあろう者がこんな下手くそな銘文を作って外国特使に渡すはずが有るわけないでしょ~?です)

IMG_6216.jpg
(中に入ってもいいようですが、ちょっと気が引けたのでカメラを工夫しました。)
IMG_6217.jpg
(内部映像ですが、仲に入らずにカメラを差し込んで写しています。本当に綺麗に積まれています。)

この「景初三年銘がある三角縁神獣鏡」は邪馬台国の女王卑弥呼が中国の魏王曹叡から貰った100枚の内の一枚である可能性は?皆さんはどう思われますか?更にその鏡を枕に眠るこの古墳に埋葬された人物は誰?タイムカプセルでこの時代に飛びたい、市郎右衛門です。

私が「次世代起業セミナー」を勧める訳


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6桁は少数点以下だったようです(相変わらずの慌て者です・笑)。
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2017/02/07

大ヒットアニメ映画『この世界の片隅に』と『古事記』の関係って?

アニメ映画『この世界の片隅に』が人気ですねぇ。
ご覧に成った方々は、皆さん感動して涙が止まらないとの感想です(私、映画はまだ見ていませんが!)。

50598.jpg 
(是非見に行きたいのですが、とりあえず子供たちの受験が終わってからですね。映画宣伝用ポスター拝借(^人^))

「君の名は」に続いてジブリ・宮崎駿さんじゃなくても、良いものは良いと感じさせられる映画が2つ続いてヒットしています(素晴らしい(⌒‐⌒)v)。

さてこの「この世界の片隅に」の原作者の『こうの 史代』さんですが、実はすでに6年前から、私が注目していたイラストレター(漫画家)なのです
時代がやっと私に追い付いたって感じですね(自慢か~((*`Д´)ノ!!!)。

そこで、彼女の作品「この世界の片隅に」の内容と、歴史好きの私が推薦する「ぼおるぺん古事記」を御紹介しますね(#^.^#)。

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アニメーション映画「この世界の片隅に」

【原作者・こうの 史代】
こうの ふみよ(1968年9月28日生)さんは、漫画家・イラストレーターです。
広島県広島市西区出身!。
広島大学理学部中退、2001年放送大学教養学部卒業。
比治山大学美術科客員教授。

【著書歴】
1995年に『街角だより』でデビュー。
2004年、『夕凪の街 桜の国』(双葉社)で第8回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞、第9回手塚治虫文化賞新生賞を受賞。同作は田中麗奈主演で映画化され、2007年7月に公開されています。

2007~2009年、『この世界の片隅に』「漫画アクション」連載(双葉社)、第13回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞、「THE BEST MANGA2010 このマンガを読め!」第1位、「ダ・カーポ特別編集 最高の本!2010」マンガ部門第1位を獲得しました。

主な著作に『長い道』『ぴっぴら帳』『こっこさん』『ぼおるぺん古事記』などが有ります。

P2070004.jpg(原作も100万部突破すごい人気です。)

【さて「この世界の片隅で」のストーリーですが】

舞台は軍港呉です。
1944年(昭和19年)2月、絵を描くことが得意な少女浦野すずは、広島市江波から呉の北條周作のもとに嫁ぎます。
戦況の悪化で配給物資が次第に不足していく中、すずは小姑の黒村径子の小言に耐えつつ、ささやかな暮らしを不器用ながらも懸命に守っていきます。
しかし軍港の街である呉は1945年(昭和20年)3月19日を境に頻繁に空襲を受け始めます。
同年6月22日の空襲で、通常爆弾に混ぜて投下されていた時限爆弾(地雷弾)の爆発により、すずは姪の黒村晴美の命と、自らの右手を失ってしまいます。
意識が戻ったすずは径子に責められるのでした。
同年7月1日の空襲では呉市街地が焼け野原となり、郊外にある北條家にも焼夷弾が落下してきました。
見舞いにきた妹のすみは、江波のお祭りの日に実家に帰ってくるように誘うのですが、そのお祭り当日である8月6日の朝、径子はすずと和解しすずは北條家に残ることを決意します。
その直後に広島市への原子爆弾投下により、爆心地から約20キロメートル離れた北條家でも閃光と衝撃波が響き、すずは広島方面からあがる巨大な雲を目撃します。
8月15日、ラジオで終戦の詔勅を聞いたすずは家を飛び出し泣き崩れます。
翌年1月、すずはようやく広島市内に入り、草津にある祖母の家に身を寄せていたすみと再会を果たします。
両親は既に亡くなっており、すみには原爆症の症状が出ています。
廃墟となった市内で、すずはこの世界の片隅で自分を見つけてくれた周作に感謝しながら、戦災孤児の少女を連れて呉の北條家に戻っていきます(といった内容です)。

これまで、戦争を扱ったアニメ映画といえば「蛍の墓」でしたよね!
蛍の墓に替わる新しいアニメーション映画が完成したのではないかと思います。

感想ですが、私は映画は見ていませんので(見てないのかよ~!m(__)m)、原作で描かれているのは、「日常の中に戦争があるとはどういうことか?」。
作者はあくまで淡々とストーリーを進めます。
そこから何をくみ取るかは、読み手自身に委ねられていると思うのです。
人により又世代により、考えることはさまざまでしょう。
ですがあらゆる層の人に強く訴えかける「力」を持った作品だと思います。

原作がどれ程、アニメーションに再現されているのか、楽しみにしてます。
是非とも、大切な人と又家族とみてほしい物語ですね。

X56AeozV[1] 
(ごたごたが?あって芸名を変えた「のん」さんの天然~?声がすずにぴったしとこれまた評判です。)

【さて私のお勧めは、同じく「こうの 史代」さんの『ぼおるぺん古事記』です】
六年前に本屋さんで見つけた漫画、その名も「ぼおるぺん古事記(2011年~2012年、ウェブ平凡、平凡社)」ボールペンだけで書かれた柔らかな線と原文そのままの古事記に、こ・こ・れは~!と購入してしまいました(笑)。

ぼおるぺん古事記は「古事記上巻」の原文をそのまま絵物語にしたコミカライズ。
カラーページも含めて、全てボールペンで描かれています。

以前も申しましたが、「琴線に二度触れる(出会いの運命を感じるのでf(^_^;)」と必ず?購入することにしている私(本だけでは無いのですが、楽しみにしてます。)!ボールペン古事記も、何かの記事で読んでいたのですが、偶然本屋さんで見つけて、漫画らしからぬ表紙にひかれてつい手を伸ばしたのでした。

私は常々、日本人なら是非とも『古事記』を読んで頂きたいと思っているのです。
それは、古事記には皆さんの日本人としての原点の全てが書かれて有ると思うからです。

【古事記と日本書紀について少し説明します】
古事記は日本書紀と並び称され、2つで『記紀』と呼ばれますが、この2つの歴史書の違いについて少しだけ説明しておきます(私は理系で、専門では無いので間違えていましたら訂正してください)。

『古事記』ですが、712年に編纂完了天武天皇が編纂を太安万侶に命じ、 俾田 阿礼の記憶話を書き写したもので、日本語原語の音を漢字に当てはめた歴史書です。

つまり、天皇(大王)の国内統治の正統性を示すための国内向けの記録です。

これにたいして『日本書紀』ですが、それより遅れること8年720年に上奏され、漢文で書かれ、国外(当時は中国や朝鮮半島)向けと成っています。

日本書紀は都合の悪い処は書き換えられたり、削除されたりした形跡があるのに対して、古事記は日本人のおおらかな原点が、そのまま全面に出た、素晴らしい物語だと思っています(私見です)。

日本人は何処から来たのか、神話とは何なのか?なぜこんな言い伝えが残ったのか?などなど、色々な仮説や想像を誰もか書き立てられる、ミステリーの宝庫です。

私が出雲に何度行っても飽きない理由も、古事記に有ります。
古事記の神話部分の6割(此方は研究者によって見解が別れるところだと思います、)が出雲のお話です。
出雲には神々の足跡が多く有るんです。


もちろん本で読んで頂きたいですが、関連本も数多く出版されていますのでそちらも楽しめます。

古事記
(解説付きでも原本はなかなか読めませんが特集などで楽しめますよ~!)

【ボールペン古事記】
そして、こうの 史代さんの「ボールペン古事記」が漫画であるにも関わらず、原文で書かれており、説明も丁寧ですし、ボールペン独特の優しい線のキャラクターの神々が生き生きと描かれています。

P2070012.jpg(こちらが五年前に購入した。「ぼうるぺん古事記」10万部でも凄い事だと思ったんですけどね。)

原文だけでは、読みにくい(殆ど読めない)古事記ですが、絵が付いているだけで、非常に解りやすくなっています。
是非とも一度読んでみてくださいね。


いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!

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2017/02/05

伯耆の国『国分寺跡』と『国府跡』とりあえず本当に行きましたって!

少し前に因幡の国分寺跡をご紹介しました。
今日はお隣の伯耆の国分寺です(投げやりな題名ですが、写真不足なんです、笑)。

伯耆国分寺は、鳥取県倉吉市国分寺にあった伯耆国の国分寺跡です。
国分寺は奈良時代の741年(天平13年)聖武天皇の発願により全国の国ごと(60余国)に造営された国立の寺院跡の一つです。
寺院域は2.9ヘクタール,東西182m・南北160mです。
主要建物の遺構は・南門・金堂・講堂・塔などが残っていました 。

CIMG6544.jpg(いつも写真不足に悩まされる市郎右衛門です。説明版はいいだろう~って!今は思うんですけどね。)

1974年(昭和49年)国の史跡に指定されています。

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【国分寺とは何か?】

国分寺に付いて少し詳しく説明しましょう!
国分寺は、聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺(こくぶんそうじ)国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれます。

正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」といいます。
なお、壱岐や対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられました。

また、大和国の東大寺及び法華寺は総国分寺と総国分尼寺とされ、全国の国分寺と国分尼寺の総本山に位置づけられました。

【うんちく】

平安京の「東寺」は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場としての役目を担いました。
正式名称を「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」といいます。
そっくりでしょう、役目も同じくするということですかね。

CIMG9330.jpg
(こちらは京都東寺の五重塔勿論国宝です。この特別公開日の写真は貴重ですよ~!)

【国分寺の建設】

『続日本紀』『類聚三代格』によれば、天平13年(741年)2月14日(日付は『類聚三代格』による)、聖武天皇から「国分寺建立の詔」が出されました。
その内容は、各国に七重塔を建て、金光明最勝王経(金光明経)妙法蓮華経(法華経)を写経すること、自らも金字の金光明最勝王経を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置することにを命じました。
寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められました。

国分寺の多くは国府区域内か周辺に置かれ、国庁とともにその国の最大の建築物でした。

なお聖武天皇は、この詔の以前から、天平9年(737年)には国ごとに釈迦仏像1躯と挟侍菩薩像2躯の造像と大般若経を写すこと天平12年(740年)には法華経10部を写し七重塔を建てるようにとの詔を出しています。

律令体制が弛緩して官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れてしまいます。
ただし、中世以後も相当数の国分寺が、当初の国分寺とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続けたことが明らかになっており、国分尼寺の多くは復興されませんでしたが、後世に法華宗などに再興されるなどして現在まで維持している寺院もあります。
なおかつての国分寺跡地近くの寺や公共施設(発掘調査など)で、国分寺の遺品を保存している所があります。

私の実家近くにも、但馬国国分寺が有り
豊岡市立歴史博物館「但馬国府・国分寺館」が有り、但馬国分寺の遺品や資料を展示してますので是非いらして下さい。

伯耆国分寺に戻りまして、当遺跡は国分僧寺跡です。



鳥取県倉吉市国府(こうです、こくふじゃないのね!)国分寺にある奈良時代に創建された国分寺跡です。
国分川左岸の丘陵上にあり、伯耆国庁跡の東側にある。
また、東北側には国分尼寺跡と推定されている法華寺畑遺跡があります。

CIMG6542.jpg(伯耆の国国府跡・国庁跡)

以前から丘陵末端で瓦などが発見されており、また、寺域の西辺と北辺には土塁と堀が残っていたので、伯耆国分寺跡であることは知られていたが、伽藍(がらん)配置などのくわしいことは不明でした。

1970年(昭和45年)以来の発掘調査の結果、寺域は東西182m・南北160mの規模で寺域の周囲に溝を巡らせ、溝の内側の南側に築地塀、残り三方には土塁が築かれていることが確認されました。

寺域の西寄りの区域に金堂・講堂・回廊の跡が検出され、金堂と講堂は南北に近接して位置し、これらの南方に南門跡、寺域の東南隅に塔跡があり、塔は回廊外に建っていました。

寺院域の西寄りに南門、金堂、講堂などの遺構が、東南隅近くで塔の遺構が確認されました。
塔跡からは風鐸(ふうたく)や錫杖(しゃくじょう)頭、多量の瓦をはじめ土師器・須恵器などが出土しています。

伯耆国分寺は『続左丞抄』に948年(天暦2年)に火災で焼失したと記されており、それを裏付けるかのように塔の付近には火災時に塔が西北方向に倒れたことを示唆する焦土の堆積が残されていました。

CIMG6543.jpg(国分寺跡説明版です。説明版みたいわけでは無いですよね~(;^_^A)
CIMG6545.jpg(唯一まともな写真!東南の七重の塔礎石です。真ん中に心柱の礎石がわかりますね。東寺の五重塔よりも高かったはずです。驚)

国分寺跡から出土した遺物から、造営時の軒丸瓦(のきまるがわら)や軒平瓦は、伯耆国分寺特有の文様をもつことが判明していますし、風鐸はほぼ完全な形の稀な例でした。

西側には伯耆国庁跡、北側には国分尼寺跡とされる法華寺畑遺跡が近接して所在しています。

現在は歴史公園として整備されています。

(倉吉市教育委員会『伯耆国分寺跡発掘調査報告Ⅰ』(1971年)より抜粋)

私が訪れた国分寺のなかではとても良く整備されていますが礎石は塔部分だけであとは綺麗な公園なんです。(写真が無いのもそのせいです。地図を航空写真で見ていただければご理解して頂けると思います。)

何故国分寺を建設しなければならなかったかについては、複雑な時代背景があるのですが、それについてはまた次回のどかの国分寺の機会にお話しいたしましょう。

いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
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