2016年10月 - 「高天原の縁側日記」
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2016/10/30

『天下分け目の天王山』京都符乙訓郡大山崎町「おじ散歩」②

気持ちの良い秋の日曜日京都と大阪のちょうど間あたり、大山崎町を散策してみましょう。

京都符乙訓郡大山崎町、JR 山崎駅近辺の史跡を訪ねる「おじさんと散歩」です。

今回ご紹介するのは「妙喜庵」です。

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CIMG3253.jpg(天下切れてますね、天下分け目の天王山、山登りも含めて一日楽しめます。)

JR山崎駅のすぐ前(本当に駅前バス停留所の前です)に妙喜庵が在ります。



CIMG3254.jpg
(妙喜庵入り口!駅の前です。)
CIMG3256.jpg(こんなところにね~!)
CIMG3255.jpg
(国宝と重要文化財)
CIMG3257.jpg
(やはり名席、座ってみたいですね。)

妙喜庵は臨済宗東福寺派の末寺であり、室町時代の明応年間(1492年~1501年)の創建です。
開山は東福寺開山聖一国師の法嗣、春嶽士芳禅師が寺に改めました。
「妙喜庵」の寺号は、宋の大慧禅師の庵号からつけられたもので、連歌の祖である山崎宗鑑の隠棲地であると伝えられます。 

三世功叔士紡和尚の時、世に名高い「天下分け目の天王山」の合戦が起こりました。
天正10(1582)年6月13日に勃発した山崎合戦で勝利した羽柴秀吉は天王山一帯に城を築き、戦後も羽柴秀吉はしばらくの間山崎を本拠として屋敷を構えて住み、千利休を時として招いていたとのことです。
この功叔和尚は利休の弟子といわれており、秀吉が山崎にて茶会を催した折には利休の手伝いをしていたようです。
山崎の地は古より油の販売でにぎわったところでしたが、江戸時代になる頃には次第にさびれてきて行きましたが、妙喜庵は昔の面影を残しています。

妙喜庵を訪問するためには、写真にもありますように、予約が必要で、しかも電話やメール不可で、往復はがきで1ヶ月前から希望時間を送らないといけません。
午前中限定で、高校生以下の方は入れないという厳しさです。
私はまだ伺ったことはありません、いつか伺いたいと思っています。

CIMG3258.jpg
(厳しすぎる~でも護るということはこういう事ですかね~!)

妙喜庵には国宝の茶室「待庵」があります。
「待庵」は、愛知県犬山市の如庵・京都市大徳寺の密庵とともに国宝三茶室に数えられています。

taiann.jpg
(勿論、撮影などは出来ませんから、写真集から参考資料です)

利休屋敷に設けられた小間の茶室は後、親交のあった妙喜庵功叔士紡に譲られ伝わることになったと思われます。
数寄屋作りの原点と言われ最初ににじり口が設けられた茶室と言われます。
たった二畳しか在りません、究極のおもてなし空間ですね。

千利休が唯一残した茶室であるといわれ、細部に利休の非凡さがうかがえる国宝建造物中極小の建物です。

CIMG3261.jpg(最後に写真でご紹介するのは、線路です。)

このカーブ、鉄道フアンには、すごく有名らしいです。
山崎のサントリーに因んでサントリーカーブと呼ばれる鉄道フアンの聖地らしいです。
電車の写真が綺麗に取れるとか?
「鉄ちゃん」でない私には理解できませんが、この日も数人が高そうなカメラを構えていました。

さて次回は天王山に登ってみますか~?

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2016/10/28

『天下分け目の天王山』京都府乙訓郡大山崎町『おじ散歩』①

今日はお日柄よろしく?
京都符乙訓郡大山崎町JR 山崎駅近辺の史跡を訪ねる「おじさんと散歩」です。

最初にご紹介するのは「離宮八幡宮」です。

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JR山崎駅からも阪急大山崎駅からも、歩いてすぐのところにある「離宮八幡宮」



CIMG6767.jpg
(天王山軽登山の後で疲れて良い写真が撮れていません。)

京都で八幡宮というと、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)が有名ですが、実はその発祥に離宮八幡宮が深く関係しています。
つまり離宮八幡宮は、石清水八幡宮の元社にあたる神社です。
離宮八幡宮が創建されたのは、今から千年以上前の平安初期といわれています。

勿論、八幡大神を祭神とします。

貞観元年(859年当時、京の都は治安が悪く、宮廷内では不安の声が高まっていました。)に清和天皇が、神託により国家安泰のため「宇佐神宮(大分県)」から分霊し平安京の守護神として奉安することとし、「八幡神の霊を都に安置せよ」大安寺の僧行教が九州に使わされました。
行教が帰途山崎の津(当時の淀川水運の拠点港)で神降山に霊光を見、その地より石清水の湧いたのを帰京後に天皇に奏上したところ、国家鎮護のため清和天皇の勅命により「石清水八幡宮」が建立されました。

CIMG67671.jpg
(鳥居の右下に河陽宮故址の後ろ、本邦製油発祥地碑?が在るので行かれたら見てくださいね。)
CIMG67673.jpg
(拝殿で~す。)
CIMG67674.jpg
(神殿を横から回ってパチリ!)

その後、石清水八幡宮は山崎から見て淀川の対岸にある男山(八幡市)に移され、山崎の八幡宮は名前を変えて呼ばれるようになります。
その名前が、嵯峨天皇の離宮「河陽(かや)離宮」跡であったので離宮八幡宮と変わりました。

また、貞観年間に神官が神示を受けて「長木」(てこを応用した搾油器)を発明し荏胡麻(えごま)油の製造が始まったことから、日本における製油発祥地であるともされています。
「大山崎油座」の制度で荏胡麻油の販売権を独占して、離宮八幡宮は幕府・朝廷の保護の下、油の専売特許を持ち栄えていきます。
安土桃山から江戸時代には、「西の日光」と呼ばれるほどの壮大な社殿を構え栄華を極めたそうです。
その後多くの兵火に焼かれながらも江戸時代まで栄えました。
今なお、離宮八幡宮の境内に、石清水八幡宮と書かれた灯籠があるのはその名残です。

CIMG67672.jpg

(菅原道真公腰掛の石 九州に流された折に座して一首の和歌を詠んだとか
『君が住む 宿の梢をゆくゆくも かくるるまでも かえり見しかも』)

歴史ブログですから、大河ドラマの「国盗り物語(司馬遼太郎原作)」をご紹介しましょう。
美濃の蝮と呼ばれた「斎藤道三」「織田信長」を扱った作品ですが、斎藤道三が最初にのし上がるきっかけとなったのが、一文銭の四角い穴の間に油を通してこぼれたら、ただでお代は取らない油売りののパフォーマンスです。
信長役の高橋秀樹さんの人気が凄かったようですが、斎藤道三を演じられた平幹二朗さんの「とうとうたらり、とうたら~り」の文句が忘れられませんね(名優の御逝去のニュースに接し、ご冥福をお祈りいたします)。
油屋に婿に入り込み、付けた屋号は「山崎屋」でした。
「大山崎油座」の制度で荏胡麻油の販売権を独占がいかにうまみのある商売だったかもわかりますし。
斎藤道三(父親だとも言われていますが)の先見の明がわかる逸話です。

平安時代より、毎年4月3日には天皇の勅使が離宮八幡宮を参り、その後淀川を渡って石清水八幡宮を参拝する「日使頭祭(ひのとうさい)」が行われ、かつて淀川に50隻もの船が出るなど、京を代表する大変華やかなお祭りとして知られていました。
規模を縮小して、今も離宮八幡宮の重要な祭事として日使頭祭は行われています(近年は毎年4月初旬に行われています)。

しかし、幕末「禁門の変」時に萩毛利家屯所が山崎にあったため、攻撃を受けて多くの商家とともに焼失。廃藩置県により社殿のすぐ西から大阪府に割譲し、さらに1871年(明治4年)に境内北側を国策による鉄道事業にささげ、境内はさらに縮小されてしまいました(残念)。

次回は国宝の茶室が見られるかもしれません。


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2016/10/26

因幡の白兎!その後のストーリー「御井神社」

出雲神話のミステリーに帰ってきました。
前回もそうだったかな?

有名な因幡の白兎神話「八上比売」とめでたく結婚した大穴牟遅(後の大国主)ですが、どうも新婚なのにも関わらず妻を実家に置いて、出雲に帰ろうとしたようです。
その途中に嫉妬した兄達の八十神に迫害を受け、命を落とし、再生~と、色々あって須佐之男命の娘「須勢理毘売」と結婚する事になります。

因幡に取り残された「八上比売」のその後の物語です。
ご紹介するのは「御井神社(みいじんじゃ)」通称「御井戸さん」です。

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御井神社(みいじんじゃ)は島根県出雲市斐川町直江にある神社です。



大国主の神話に登場する八上比売(やがみひめ)とその子である木俣神(このまたのかみ)にまつわる伝承のある神社で、安産の神として信仰されています。

CIMG2353.jpg
(周りに井戸が見えていますが、まずはお詣りです。)
CIMG2354.jpg
(珍しく平地、妊婦さんですからね~。)
CIMG2355.jpg
(綺麗な神社です。)

祭神
木俣神(御井神)
八上比売は祀られていません。

CIMG2351.jpg(神楽もあるようです。須世理姫になっていますね。)
CIMG2356.jpg
(八上比売と木俣神の母子像。)

『古事記』に描かれる大国主の神話に登場する。
以前も書きましたが、「因幡の白兎」白ではありませんよ~本当は「素兎」です。
大穴牟遅神と結婚した八上比売は、子を身ごもり出雲国まで来たが、正妻の須勢理毘売を畏れ、生まれた子を木の俣に押し込んで因幡国に帰ってしまいました。
そのためにその子は「木俣神」と名づけられたと言われています。

御井神社は、大国主大神の第一子木俣(このまた)大神を主神とする総本社で、全国に四つの末社を有します。

建久二年(1191)に、当時の神職稲田彦太郎が源頼朝の命によって上直江八幡宮に転住するまでは、方三百間(1キロ強)の神苑を有し、大社型の豪壮な社殿がそびえたっていたと記録されています。
拝殿、幣殿と大社造の本殿、境内地は595坪もの大きさでした。

戦国時代、尼子VS毛利の戦禍のため、社宝、古文書はことごとく焼失してしまいました。

CIMG2357.jpg(こちらは八上姫です。)
CIMG2360.jpg(井戸そのものが神様ですね~?)
CIMG2361.jpg(拝殿です。)
CIMG2363.jpg(残念ながら神官がおられず、御朱印は涙をのみました。)
CIMG2365.jpg(かわいらしい神殿です。)

御井神社 由緒概略

御井神社は、古事記および風土記等日本最古の史書十三の文献に記された由緒ある神社である。
そもそも当社が安産の神また水神の祖であるという謂れは、記紀に記された次の故事による。
大国主大神は因幡の白兎の神話の時むこうで八上姫という心姿の美しい女神を愛され、姫はやがてみごもられた。
臨月となられた八上姫は背の君に会いに出雲大社へ行かれたが、正妻須世理姫の立場を慮り、会わずに引き返された。
そして神奈火山の麓直江の里まで帰られた時産気づきやがて玉のような御子を挙げられた。
そこで三つの井戸(生井、福井、綱長井)を順次掘り御子を産湯させてから木の俣に預け、母神のみ因幡へ帰られた。
これより御子を木俣神または御井神と申し上げ、安産と水の守護神として全国からの信仰を集めている。

 木の俣の 三井の産湯の水なれば
    祈らん人を 守る神垣(神詔)
             社 頭
~境内の案内板より~

神社の近くに「生井(いくい)」、「福井(さくい)」、「綱長井(つながい)」と呼ばれる3つの井戸があり、八上比売が出産の時に産湯を使ったという伝承があります。
元来この3つの井戸に対する信仰が神社に発展したものと考えられています。

CIMG2347.jpg
(生井井戸)
CIMG2348.jpg
(神事などには使われているのでしょうか?)
CIMG2342.jpg
(福井井戸)
CIMG2343.jpg(民家のすぐ隣です)
CIMG2368.jpg
(少しだけ離れた綱長井井戸)
CIMG2369.jpg(草地の中でも、ちび狛犬様が御守りされています。)

境外社として、母神の八上比売を祀る実巽神社(じっそんじんじゃ)が在ります(八上比売は因幡に帰って亡くなったとも言われます)。
探したのですが、よくわかりませんでした。
たぶんこれが実巽神社ではないかと思います。

CIMG2372.jpg(神社の案内板の地図だとこの建物だと思うのですが、行く道が見当たらなかったです。望遠撮影!)

御井神社の近くに1985年に大量の銅剣や銅鐸が出土した「荒神谷遺跡」があります。

出土品の製造は弥生時代中期後半頃とさえていますが、はっきりはしません。
年代的には、紀元頃から紀元200年代後半の間ということになります(倭大乱!考えずにはおられませんね)。
この発掘により「神話の世界」「考古学の実物」が重なったのです。


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2016/10/24

安産なら伊邪那美より霊力は上位?「壹宮神社」

大きなNEWSが入って来ましたね~(^^)d
滋賀県彦根市教育委員会は17日、同市の稲部遺跡で、弥生時代後期から古墳時代中期(2世紀から5世紀)までの大型建物や、鉄器を生産した鍜冶工房群の跡が見つかったと発表しました。

遺跡は邪馬台国が栄えた3世紀前半に最盛期を迎えた大規模集落跡で、建物や工房群は国内有数の規模らしいです。
市教委は「祭祀(さいし)・政治都市と工業都市の両面を持ち、巨大勢力の存在を示す」としています。

市教委は2013年度から市道改良工事に伴う遺跡調査を実施。
これまでに竪穴建物などが見つかっていたが、15年6月からの調査で、首長が居住した建物や儀礼施設、倉庫と考えられる大型建物7棟の跡、鉄片や鉄塊などが大量に出土した竪穴建物23棟の跡が新たに発見されました。

大型建物の中には、床面積が100平方メートル(10メートル四方ですね!)を超える国内有数の規模の建物が2棟あるほか、竪穴建物は鉄器を生産する鍜冶工房と考えられ、同時期の工房としては国内最大規模です。

凄いですね~(^^)d
「邪馬台国滋賀説有力に?」

新聞記事はさておき、私は本来の山陰「古事記」のミステリーにもどりましょう。

本日ご紹介するのは、「安産祈願」といえば地元では知らない人はいないというほど有名な「妻木壹宮神社」です。
毎月戌の日には、多くの妊婦さんとその家族が安産祈願に訪れます。

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古代から、人間のの生活に欠くことができない「火」
この火を作ろうと、幾多の神々が努力されたものの、ことごとく失敗。
神々の母といっても過言ではない「伊邪那美」ですら命を落としている中、やすやすと火を生み出したと伝えられる大国主の娘(大国主と多紀理毘売命の娘)「下照姫命」をお祀りしています。



JR山陰本線・大山口駅と淀江駅の中間あたり、県道242号線に面して鎮座する神社ですが、古資料には見当たりません。
弥生後期を中心とする集落遺跡として有名な妻木晩田遺跡のすぐ北に位置し、江戸時代までは特別な崇敬をうけ、明治5年に郷社に列し、同40年には神饌幣帛料供進社に指定されたというから、それなりの厚い信仰を集めた神社のようです。

IMG_5607.jpg
(案内板)
IMG_5612.jpg
(壹宮神社・鳥居、奥が随神門)

社頭に掲げる案内(大山町教育委員会)には、当社は、古来「一宮大明神」といわれ、主神の天忍穂耳命(天孫邇邇芸命の父神)・下照姫命ほか数神(合祀によるものと推測します)を御祭神とし、この地方で厚く信仰されています。
下照姫命は昔から子授け・安産の神として知られ、各地から多くの参詣者でにぎわっています(私がお詣りした日も赤ちゃんを抱いてお詣りされていました)。

また、下照姫命について、上記案内は「下照姫命は大国主命の娘で、昔から子育て・安産の神として云々」というが、在地の伝承によれば、
下照姫命は、その夫神天若日子命(アメノワカヒコ)とともに当地に住まわれていました。
なお、天若日子命とは、国譲り交渉の使者として高天原から派遣された神(2番目)だが、下照姫命を妻として大国主の後継者となろうと欲して居着いてしまい、8年たっても報告せず、督促のために遣わされた使者(雉の鳴女)を天神から授かった弓矢で射殺してしまいます。
その矢が天上まで届き、高御産巣日神「天若日子に邪心があれば当たるであろう」と占って投げかえした返し矢(呪矢)に当たって亡くなってしまいます(古事記)。
天若日子命がが亡くなったため、国譲りののち当地を去り、海路、伯耆国川村郡(現東伯郡湯梨浜町)に遷られた。
その場所が「倭文神社」であるともいわれます。

この伝承からみると、本来は下照姫命を主祭神とする神社とも思われますが、祭神中に天若日子命の名前が無いのは不思議です。
下照姫命が到来して安産の神として祀られたという伝承は、出雲のみならず各地にある様です。

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(何事にもくじけない、下照姫の様な獅子咲椿です~火の神を生んだのも頷ける椿が満開!)
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(壹宮神社・拝殿)
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(壹宮神社・本殿、桜も満開よい季節でした。)

尚、私のブログは基本「古事記」記載で記入しておりますが、神社御由緒、案内板などには「日本書紀」の記載も多く今回は混ざっています。
下照姫は「日本書紀」(古事記では、高比売命「たかひめのみこと」)表現です。
多紀理毘売命・伊邪那美・高御産巣日神・天忍穂耳命・邇邇芸命は「古事記」表現になってしまいました(お許しください)。

それにしても大国主のモテモテぶりは目を見張るものがあると思いませんか?
何人の妻がいるのか?今度その話題でブログ書いてみましょう。


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2016/10/22

涙ながらの別居を選んだのか?嫁と畳は新しいに限るのか?『唐王神社』

NEWSが入って来ました!鳥取中部で大きな地震゜゜(´O`)°゜
友人もおりますし、前々日倉吉の神社をUPしたばかりでしたが、

怪我をされた方もおられるようですが、大きな被害やお亡くなりに成ったか方が居られなかった事が不幸中の幸いです。

一日も早く平常の生活に戻れます様にお祈り申し上げますm(__)m

さて、本来の山陰「古事記」のミステリーにもとりましょう。

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ご紹介致しますのは、『唐王神社』です。
御祭神は須勢理毘売命(すせりびめのみこと、須佐之男命の娘で、大国主の正妻)「毒虫・蝮よけの守り神」
正妻である須勢理毘売命が亡くなった地といわれています。

御配神菅原道真命「学問・文化の守り神」

住所は鳥取県西伯郡大山町



唐王例祭日
四月二十五日
虫よけ大祭 
旧八月三日
建造物本殿・幣殿・拝殿・神楽殿
境内坪数220坪
氏子40戸(明治13年に記された社伝には12,300人とあります)

IMG_5616.jpg
(先に謝っておきますが、三年前ブログを書くなんて頭の隅にも無かったので、写真は二枚だけです。)

現在のように医薬が発達していなかった時代、蝮や毒虫は人々の暮らしに危険この上ない存在だったと想像できます。
しかし蝮や毒虫の危険が減るに連れ、往年の参詣者は減り賑わいも無くなっています。
面白いのは、蝮や毒虫の危険が去った時代にはなりましたが、昔ながらの悪い虫が現在では、女性にとっての男性、男性にとっては女性となって信仰されている点です(笑)。

唐王神社も「唐王御前」と呼ばれ崇められ、「まーむしまむし、よーけよけ、唐王御前のお通りだ」は、山の茂みや草むらなどにわけ入る時の唱え言葉があるそうでうです。
現在も害虫毒虫蝮よけの守護神として県内外からの参拝者も多くあり、玉垣内の砂をいただいて、田畑にまけば害虫が去り、家屋敷にまけばささりやむかでが退散するし、又お守を身につけて居るならば蝮の危害をのがれることができるし、更に神社裏奥にあるご神井の水は如何なる旱祓にも涸れたこともなく、蜂にさされた折等いち速くこのご神水をぬれば勿ち治癒するといわれます(現在は整備事業の為水脈が変わり、水は出なくなっています)。
唐王神社のご神徳は、この地方に広くゆきわたっていたようです。
旧8月3日には早朝から参拝者で賑わい、特に地方の名産干瓢(かんぴょう)市が立ち見る間に数百貫の干瓢も売り切れてしまいます。
芸能奉納や名物「どじょう汁」の売店もあります。

<昭和49年 神社案内>

IMG_5618.jpg
(須佐之男の娘で大国主の正妻にしては、本当に小さな神社です。)

御祭神須勢理毘売の父神は、ご気性のはげしい須佐之男命です。
当時賢明で御徳高く信望の厚い大国主命が、須勢理毘売命を妻にと申出のあった際、須佐乃男命は姫の夫をしてふさわしいかどうかを色々な方法で試されたのでした(古事記にお話が載っていますね)。 

最初の試練は、毒蛇の室で一夜を過す命令です。
大国主命が部屋に入られるや否や、大蛇や蝮等毒蛇が数知れず襲いかかって来たのです。
その時すかさず須勢理毘売命は「この比礼を三度打ち払い給え」と申されて、その通りに比礼を振ると毒蛇はみな姿を消して危機を助けられました。
 
その次は、須佐乃男命が頭の虱を取るよう命じます。
実際にはムカデがいたのだが、須勢理毘売命は木の実と赤土を大穴牟遅命に与え、ムカデを噛み潰しているように見せかけるよう仕向け記紀をしのぎます。
(このお話百足と蜂の部屋に寝る話もあるようですね。私が読んだ子供用の古事記は上のお話でした。)

三度目は火ぜめの試練でしたが、その都度須勢理毘売命によって危険をのがれ夫婦となられました。 

  「古事記」には、お二人は杵築の日隅宮(出雲大社)でお暮らしになったと記されております。
ですが唐王は、出雲から二十余里(80km強)も離れております。
それではなぜに別居されたのでしょう?

別居された理由は、次の一節により推察されます。
『日本書紀』の葦原中国平定の場面の第二の一書にのみ登場する。
大己貴神(大国主)が国譲りを決め、幽界に隠れた後、高皇産霊尊(たかみむすひ)が大物主神(大国主の奇魂・和魂)に対し「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八百万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」と申され、大国主命が天津神の一族になるように取り計らいます。
社伝には大国主神がこの扱いに感涙したと有ります。

以上のような経緯により、大国主神には新たに三穂津姫という天津神の女である妃ができたのです。
ですから須勢理比売命は唐王の別墅にお移りになったと想像できます。

唐王(とうのう)という村名は、実に奇妙です。
鳥取県神社誌にありますように、往古殆ど交通網のなかった頃は、海の向こうや遠方の国はみな加羅と称していたそうです(ちょっと説明に無理があるような気がしますが)。
ですから夜見の国から船で来られた須勢理比売命を、唐の王と称してきました。
それが村名になったとのことです。

尚、須勢理比売命は海辺の近くの国信辺りにお着きになったが、波の音が近すぎると末吉へお移りになりました。
しかしそこも音が近く末長へお移りになった。
そこでもまだ音が近いと唐王へお移りになったとの言い伝えもあります。
政略結婚!三度も引っ越した須勢理比売命、それに付き合った大国主、二人の愛情はやはり本物だったのではないでしょうか?


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2016/10/19

国譲り後の「事代主命」の足取りを探せ!

さて古事記の謎解きの旅へ復帰ですが、今日は伯耆国です。

日本神話、「古事記」の葦原中国平定において、「建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)」「大国主命」に対し国譲りを迫ると、大国主は美保ヶ崎で漁をしている息子の「事代主」が答えると言います。
そこで「建御雷之男神」が美保ヶ崎へ行き事代主に国譲りを迫ると、事代主は「承知した」と答え、船を踏み傾け、手を逆さに打って青柴垣に変えて、その中に隠れてしまいます。

「事代主命」はどこに消えたのか気になりませんか?少し探してみましょう。

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ご紹介するのは、その後の事代主命伝説を持つ神社です。
「波々伎神社(ははきじんじゃ)」
鳥取県倉吉市福庭(ふくば)に在ります。
通称「二宮さん」



CIMG8656.jpg
(お約束の長い階段です。笑)
CIMG8657.jpg(誰も御詣りしていません、というかナビが全く機能しませんでした。汗!)
CIMG8658.jpg
(もう一息、手すりがあるだけましかな?)

御祀神
八重事代主命(やえがきことしろぬしのみこと)
天稚彦神(アメノワカヒコは大国主の娘下照姫命と結婚し、葦原中国を得ようと企んで8年たっても高天原に戻らなかった)
下照姫神(大国主の娘、天稚彦神と結婚)
少彦名神(大国主と出雲を繫栄させた国造神)
建御名方神(事代主命の弟、諏訪神社に祀られる)
味耜高彦根命(大国主命と宗像三女神の多紀理毘売命の間の子)
市寸島比売命(宗像三女神の一柱)
多紀理毘売命(宗像三女神の一柱)
多岐都比売命(宗像三女神の一柱)
を祀る。

伯耆国を、『和名抄』「波々伎(ははき)」と訓じています。

CIMG8659.jpg(結構?さびれていますね~。)
CIMG8660.jpg
(狛犬は立派な出雲型です。)

波々伎神社の由来については、『伯耆国風土記逸文』は、テナヅチ・アシナヅチの娘櫛名田比売が八岐大蛇から山中に逃れたが、母が来るのが遅くなったので「母来ませ、母来ませ」といったことによるとする説と、伊邪那美命の葬地で「母君」に由来するという説があるようです。

「波波伎」の社名から、祭神を「波比岐神」とする説もありますが、通常は、「波波伎(ははき)」「伯耆(ほうき)」と同じと考え、伯耆国造の祀った神社であるとされています。

「波比岐神」は、『古事記』にて「大国主神」の巻、「大年神の神裔」の段に名が出ています。
大年神というのは、須佐之男命神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神の娘)の間に生まれた神です(須佐之男⇒大国主⇒大年神⇒波比岐神?)。

社伝によれば、事代主神が国譲りの際に、「天逆手(あるいは天栄手、呪術の一で普通とは違う方法で打つ柏手かしわでのこと、実際にどのような打ち方をしたのか不明です。)」を打って、青柴垣に籠ったという、その宮であると言われています。

そこから、当時は、この辺りが中心地であり、「波々伎(ははき)」が転じて、「伯耆(ほうき)」と呼ぶようになったのだという説もあります。

神社の西800mには、祭神の上陸地「渡上の地」と伝えられる御旅場があります(場所がわかりませんでした。ごめんね。)。

伯耆国の総氏神として、古代より祀られた神社で、当国第一位の神社、あるいは、それに次ぐ地位にあったのですが、明治の社格では、郷社に列せられ、伯耆一宮の倭文神社は県社に、伯耆二宮の大神山神社は国幣小社となりました。これに対し、氏子による社格昇格運動が起り、伯耆二の宮と称するようになり、昭和になって、県社に列格されたそうです。

CIMG8662.jpg
(大きなご神木の後ろに7世紀の福庭古墳が在るらしいのですが、迷子になって気が付かなかった。)CIMG8661.jpg(静かなたたずまいです。)
CIMG8663.jpg
(あれ?神殿が?大社造りでは無いですね?)

最後に、この神社は国譲りの貢献者の終の棲家ですが、美保神社から陸伝いに来るとずいぶん距離があります。
しかし船を利用すれば54キロメートル、実は結構近い場所に在ります。
美保神社は有名ですが、この神社を知る人は少なく、訪れる人もまれなようです。
「事代主命」が隠れ住みそして亡くなった、そんな雰囲気が漂う神社でした。


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2016/10/17

但馬五社の最後は『小田井縣神社』

但馬五社巡りも最後になりました。
但馬にはまだまだ多くの寺社仏閣があるので、これからもご紹介していきますが、但馬五社は『小田井縣神社』で最後です。

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『国司文書・但馬神社系譜伝』には、上座「国作大己貴命」中座「天照国照彦天火明命」下座 「海童神」以上、三座を祀ります。

CIMG3033.jpg(雨に濡れる神社も綺麗ですね。)
CIMG3038.jpg(門です。何か見えますね~。)
CIMG3039.jpg(十六弁の菊花紋!勅使門ですかね?普通に入いっちゃいました。)
CIMG3043.jpg(柳の宮です。)
CIMG3045.jpg
(祀れているのは5男3女神「誓約によって生まれた神様」です。)
「国作大己貴命」国造大国主命
大昔、この豊岡附近一帯は泥湖で、湖水が氾濫して平地のないとき、来日岳のふもとを穿ち瀬戸の水門をきり開いて水を北の海に流し、水利を治めて農業を開発したのが、御祭神である国作大己貴命だといわれます。
面白いことに、同じ話が但馬五社のうちで三つも出て来ました。

出石神社では瀬戸の水門をきり開いたのは「天日槍」でした。
絹巻神社では瀬戸の水門をきり開いたのは「海部直の子西刀宿禰」でした。
小田井縣神社では瀬戸の水門をきり開いたのは「国作大己貴命」でした。


どのお話が本当なのでしょうか?
兵庫県土木科に勤務する同級生によると、豊岡平野の地下は40メートルからすべて粘土だそうです。
つまり沼であったことは、間違いありません!ではだれが瀬戸を切り開いたのでしょうか?または三人の協力か、または三人は同じ人物かもしれませんね~(笑)

「天照国照彦天火明命」=天孫族「邇邇芸命(ににぎのみこと)」の兄、「播磨風土記」では大己貴命の子とされています。
「大海童神」神功皇后新羅征伐の際、小田井縣主が、勅を奉じて大海童神を当社・下座に配祀したとされます。

延喜式神名帳(905年)に記されいる式内神社で、国作大己貴(くにつくりおおなむち)命を祭神に祀っています。
弘安年中(1278~1287年)但馬大田文(以前説明しました。)には、小田井社々領31町3反あまり神供田25町1反あまりとあり、当時は神仏習合で社家(四社)、社僧(4ヶ寺・金剛、妙楽、正法、三坂)が祭事をとり行っていたとされています。

CIMG3051.jpg
(大己貴命ですから、出雲型ですよね~。)
CIMG3050.jpg
(その上に来待石です。)
CIMG3049.jpg
(拝殿正面。)
CIMG3047.jpg(神殿です。男神様)

しかし、天正3年(1575年)羽柴秀吉の但馬征伐の戦で森に火を放たれ焼失、ご神霊はみこしで一日市に火難を避けられたと伝えられています。
同じ天正年中、秀吉が中国征伐に陣営を置き、多くの神領・神供田を没収、社家社僧は離散してしまいました。
貞享年間中(1684~1687年)に社殿を再興し、鳥居を建て、元文年中(1736~1740年)に神殿を改造しました。

昭和になってから、円山川河川工事で移転や境内の改築が行われ、現在に至っています。
境内社に「柳の宮神社」、「川下神社」、「恵比須神社」、「稲荷神社」の4社があり、豊岡最大の「柳まつり」(子供の頃によく行きました。)は 八月一日、この柳の宮神社の例大祭から始まります。
この「柳の宮神社」は、特産業「杞柳・かばん産業」の守護神として、5男3女神(誓約によって生まれた神)が祀られています。

【本当は~のうんちく】
名物柳行李(現在の鞄産業)は石束 毎明(石塚源五右衛門)の業績!
但馬国豊岡京極家の筆頭家老(妹に赤穂浪士で有名な赤穂浅野家家老大石良雄の妻りくがいます。)
元禄16年(1703年)に石束家の家督と家老職を相続しました。
この際に新地300石を加増され、石束家の家禄は都合1500石となります。
しかし享保12年(1727年)主家京極家が無嗣になり、京極高永に家督相続が認められたものの3万石から1万5千石に半地(末期養子の決りですね~(^^;)される事件があり、石束家の家禄も半減します。
毎明はこの半地に対応するため、積極的に藩士のリストラと倹約にあたり、豊岡京極家の財政維持にあたります。
殖産興業に力を尽くし、のちに豊岡名物品となる柳行李を生産させたのも彼の業績なんですよ~。

CIMG3046.jpg(恵比寿神社!息子ですからね?蛭子系かもしれませんが。)
CIMG3054.jpg(大蛇に立ち向かう二人の神様?)

出雲神話の事代主命は大国主の息子で美保神社(海の神様、恵比寿神)に祀られています。
奉納の額はまさに大蛇と闘う、二神かもしれません。

但馬の民話に瀬戸を切り開くと、大蛇が現れて邪魔をするお話があります。
それを神様が、頭としっぽをもって引き裂いて洪水を収めたお話があるんです。
それが八月八朔だったので毎年太い綱を作って引き合う八朔行事(ちぎれない年は洪水に見舞われるとか?)が始まったとか?ん~みすてりーですね~。

 
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2016/10/14

日本海の海上交通網を支配した、海部直一族とは?但馬五社「絹巻神社」

但馬五社の紹介をしてきましたが、残りは二社、今日は一番北に有って海の直ぐ側の『絹巻神社』です。

古代日本海の海上交通網を支配した、海部直一族や、元伊勢神社の関連から、倭国のルーツに繋がるかもしれませんよ~(^^)d

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『絹巻神社(きぬまきじんじゃ)』は、兵庫県豊岡市にある神社です。
『延喜式神名帳』にある「海神社(但馬国・城崎郡)」に比定される式内社(名神大社)です。
但馬五社の一社(私のブログでは四番目に成りました。)。



御祭神は天火明命(あまのほあかりのみこと)、海部直命(あまのあたえのみこと)、天衣織女命(あまのえおりめのみこと)です。

-社頭案内-

但馬五社 絹巻神社御祭神天火明命相殿海部直命 天衣織女命 応神天皇三年四月、大山守命が山海の政を執られ た時、大山守命は多遅麻黄沼前県主武身主命の子海 部直命に多遅麻の海政を執らし、その姓を海部直と称することを許した。
 その時、海部直命は、自分の始祖天火明命を黄沼前県に祀り清明宮と称した。

仁徳天皇十年八月、海 部直命は城崎郡司を兼ねる事となり、黄沼県を海部 村(小島)に置き、多遅麻の海人を領し、清明宮を海 部村に属する絹巻山に移し絹巻神社と称した。
履中天皇の御代、海部直部の子西刀宿禰が城崎郡司となり、宿祢に命じ瀬戸の水門の俊渫を行った。
爾来、円山川沿岸は洪水禍をまぬがれたと伝えられ ています。

仁明天皇仁和元年神階従五位下を賜り、文化十一 年現在の本殿を再建しました。
絹巻山は天然記念物の指定をうけ「ひめはるぜみ」 の生息地としても有名です。 

(以上です)

CIMG8506.jpg(こじんまりとした綺麗な神社です。)
CIMG8505.jpg
(但馬五社絹巻神社ご由緒)

先ず但馬国の成り立ちについてですが、成立は7世紀に、丹波国より8郡を分割して成立したとする説がありますが、確証は有りません。
『日本書紀』天武天皇4年(675年)条に国名がみえるので、この頃成立したと推定されています。
丹後国も同じく丹波国と同じ地域で有った事が知られ、海洋交通網の主軸の丹後が丹波・但馬・丹後の中心で有った可能性が推定されています(つまりは古代は同じ国と考えても良いのでは?)。

第15代応神天皇3年4月大山守命(おおやまもりのみこと)が山海の政を執ることになった時、大山守命は多遅麻黄沼県主武身主命(たじまきぬさきのあがたぬしたけみぬしのみこと)の子 海部直命多遅麻(たじま)の海政を執らし、その姓を海部直と称することを許したといわれます。

古事記にも記載されている、大山守命が皇太子の地位を逃し、父・応神天皇から遠ざけられた説話の後日談となっており、興味深いですね。
大山守命(父の死後、皇太子に謀反を見抜かれて殺害されてしまいます。)は父応神天皇の心をよむことが出来ずに地方に遠ざけられ、弟の仁徳天皇(父の死後皇太子を差し置いて天皇になっています)がうまく立ち回ったという事ですね。

CIMG8507.jpg(出雲型の狛犬さん、但馬では珍しいですね?来待石では無いようです。)

主祭神「天火明命」天照大御神の孫、つまり天孫邇邇芸命(ニニギノミコト)の兄になります。

海部直ば、『古事記』には吉備海部直(キビノアマベノアタエ)が記載されています。
第16代仁徳天皇の妃の一人であるクロヒメの父ですね。
ここのところ面白いのですが、元伊勢で名高く、国宝「海部氏系図」を所有する『籠神社』(京都府・宮津市)も「海部直」の出自です。
つまり、海部直一族は日本海の海上交通網を手中に収めただけでなく、瀬戸内海(吉備)にも勢力を伸ばしていたことになります。

但馬に戻って、海部直命はその後、自分の始祖である天火明命を黄沼前県に祀り、清明宮(すがみや)と称しました。
仁徳天皇10年8月、海部直命は城崎郡司を兼ねることになり、黄沼県を海部村(小島)に置き、多遅麻の海人を領し、清明宮を海部村に属する絹巻山に遷還したのが現在の絹巻神社です。

CIMG8508.jpg(拝殿と奥に本殿があります。写真不足申し訳ないです。)

第17代履中天皇の御代、海部直の子、西刀宿禰(せとのすくね)が城崎郡司となり、瀬戸の水門(切戸)の浚渫を行って以来、円山川沿岸は洪水禍をまぬがれたと伝えられている。

天衣織女命は、天棚機姫神ともいわれ、『古語拾遺』に、天照大御神が天岩戸に隠された際、天照大御神に献上する神衣和衣を織った神で、機織の神として知られる。
絹巻神社でなぜ天衣織女命が祀られているのか、その由来に関して情報が有りません(しかしながら絹巻神社の名前はこの女神さまから来たのでしょう。)。

絹巻山は、「ヒメハルゼミ」の生息地として奈良の春日山と共に知られています。
周囲は暖地性原生林で面積1万2千平方メートル余りに、シイ、クスノキ、サカキ、ダブ、ヤマザクラ、ツバキなど温帯、亜熱帯の樹木が生い茂り、県の天然記念物に指定されています。
また、神社横の道路山側は玄武岩の岩柱が露出していて、地質学的にも興味深く成っています。


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2016/10/13

但馬人は蕎麦が好き?友人のおすすめ丹波『一会庵』

関東人は蕎麦好きで、関西人は圧倒的にうどんが好きだそうです。

私の産まれた豊岡市は、出石蕎麦があるせいか、私はお蕎麦が大好きです。

同級生が是非「行ってみ!行ってみ~!」というので、丹波の『一会庵』に行ってみました~(^^)d

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先に私の大好きな、出石蕎麦の歴史話を少しさせて頂きます。
歴史ブログですからね(笑)

出石仙石家の祖、仙石権兵衛(仙石秀久)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名です。
仙石家は、信濃小諸、信濃上田(関ケ原前は真田領でしたね)、但馬出石と移封されています(又書く機会が有ると思いますので、簡単でm(__)m)。

江戸時代中期の宝永3年(1706年)信濃国上田より但馬国出石に国替えとなった仙石政明が、蕎麦(信州蕎麦)職人を連れてきたことに始まるとされます(江戸初期迄は蕎麦がきが主流で細い蕎麦は無かったはずです。
大河ドラマでも真田信繁は蕎麦がきに飽き飽きしてましたね、笑)。

現在は割り子そばの形態をとっており、この形式となったのは幕末の頃で、屋台で供される際に持ち運びが便利な手塩皿(「てしょうざら(おてしょう)」、この呼び方余り知られていませんねぇ~!関東では全く通じませんでした。)に蕎麦を盛って提供したことに始まるとされます。

昭和30年代に「出石皿そば」として現在見られるスタイルが確立されました。
私が伺うのはFacebookでもお友達に成って頂いている。
「一鶴」「甚兵衛」さんと、妻が高校時代から贔屓にしている「近又」さんですかね(おっと出石蕎麦の話じゃあ無かったm(__)m。此方も又の機会にね。)。

今日ご紹介しますのは、但馬では無くて、丹波のお店「一会庵」です。



CIMG1593.jpg(築300年の茅葺屋根です。風情がありますね~!)
CIMG1594.jpg(門はちょっとつけて間もないので少しミスマッチです。無理しなくても十分です。)
CIMG1595.jpg(お昼時は大変と聞いていましたが、水曜日の平日のせいか割と空いていました。)
CIMG1597.jpg
(残念ながら動いていません、笑)

「一会庵」は、築300年を経た萱葺きの古民家でいただく本格そばのお店です。
店主自らが店のすぐ裏の畑で自家栽培し、手打ちしたそばを食べることが出来ます。
屋内には歴史を感じさせる畳敷きの空間が広がっていて、囲炉裏端で食べるおそばは、一段と趣がありますよ♪

CIMG1596.jpg(名前は勿論こちらからですね。)
CIMGsoba.jpg
(天狗のお面!なんで~?)
CIMG16082.jpg
(蕪の暖簾、定番ですがやっぱり良いですね~!)
CIMG1611.jpg
(写真を撮りたいと、おばさま方に席を外していただきました。ありがとうございました。)

おしながきは、「そば切り」「そばがき」「そばぜんざい」の3品のみしか有りませんでした。
そばの味と風味を存分に味わって頂くためということで、薬味はついていませんでした。

又お店が初めての方(常連さんには?辛味大根の薬味が有るようです。)には、そば切りをおすすめしますとの注意書きが有りました。

私が注文したのはそば切りとそばぜんざいです。

CIMG1604.jpg
(そば切り!引き立てのそばは少し鶯色です。)
CIMG1605.jpg
(アツアツの善哉、そばがきはふわふわです。)

さてお味ですが、本当に上品なおそばでした。
口の中にほんのりそばのかおりが広がり満足致しました。
サービスでついてくるお茶うけの「あげそば」もいけます。
そばぜんざいは、美味しかったけどそばがきが上品過ぎて、小豆の甘味が少し勝っていたかな~?
新蕎麦の時期に是非もう一度行ってみたいと思わせるお店です。
皆さんも一度足をはこんでみてください。

【一会庵】
兵庫県篠山市大熊10-2
車で篠山市役所より10分ほど
営業時間:11:30~14:30(※売り切れ次第終了) 
私が行ったのは平日の水曜日でしたのですいていました。
定休日: 木曜日(※祝日の場合営業)
電話番号: 079-552-1484
メニュー 【そば切り】850円
     【そばがき】750円
      【そばぜんざい】650円

今回はグルメレポートに成りましたね、こう見えて(どう見えるんだ?)グルメなんです(笑)。
次は神戸のスイーツでもご紹介しますか。
やっぱり歴史かな?さあ何でしょうか~(^^;


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2016/10/11

久しぶりに『但馬国分寺跡』と、ついでじゃないけど「国分寺」を訪れてみました。

小学六年生から42年振りに、地元但馬の国分寺跡を訪ねてみました~(^^;

国分寺は、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院で、国分僧寺国分尼寺に分かれます。

正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺」、国分尼寺が「法華滅罪之寺」です。

壱岐や対馬には「島分寺」が建てられました(成る程ね!)。

私が良く訪れる、京都の東寺の正式名称は「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」
平城京平安京の違いはあれど、国を護るための寺の意味合いは同じてすかね?


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現在の但馬国分寺は、兵庫県豊岡市日高町国分寺にある浄土宗の寺院です。
山号は護国山
現国分寺は、聖武天皇の詔で創建された国分寺の法燈を継いで再興された寺院です。
つまり、奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、但馬国国分僧寺の後継寺院にあたります。
現在の境内は創建期の国分寺跡と重複し、北方約1キロメートルの地には国分尼寺跡も立地します(私の母校日高東中学の駐輪所辺りです)。
(但馬国分尼寺跡です。後ろに白く見えるのが中学の体育館ですね。)


勿論、現寺院とともに、古代寺院跡である但馬国分寺跡についてもご紹介します。


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(現在の国分寺です。ちょっと寂しい!)
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(見たことはありません~、(;´・ω・))
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(誰もおられませんでした。)
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(昔の国分寺の礎石がぽつりと・・・)

但馬国分寺跡は、豊岡市南部(旧城崎郡日高町)、円山川の形成する国府平野(多幸平野?中学の校歌はそう歌ってたけどな!)に位置します。

また、国分寺跡付近には平安時代以後の国府の遺構と推定される祢布ヶ森遺跡も立地し(平安時代以前の国府の位置は不詳!三度目の移動が有ったといわれています。三度目の場所も特定されていません。)、一帯は古代の但馬国における中心地です(わが家もその一角に有りますよ~(^^)d)。

古代国分寺跡については昭和48年(1973年)から発掘調査が実施されており、遺構は平成2年(1990年)に国の史跡に指定されています。
数十次を数える発掘調査のうちでは、特に昭和52年(1977年)の第5次調査において全国の国分寺跡では初めてとなる木簡の出土があったこと、および平成28年(2016年、今年の春でした!)の第34次調査においてこれも全国の国分寺跡では初めて主要伽藍以外で回廊が見つかったことが注目されましたね。
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(講堂跡、って言われてもね~)
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(こちらは金堂跡です。)
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(こちらは塔の跡!何重の塔だろう?)
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(説明版です。)
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(JR江原駅すぐ、本当にすぐです。)
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(伽藍配置図、今ちょうど塔の前ですね。)

創建は不詳ですが、天平13年(741年)の国分寺建立の詔の頃に創建されたと考えて良いでしょう。
『続日本紀』天平勝宝8年(756年)12月20日条の但馬国ほか25国への聖武天皇一周忌御斎会のための下賜記事から、当時には完成していたと推測されています(国分寺以外で御斎会を行なった可能性もありますが)。
考古学的には、国分寺跡の井戸部材の伐採年が763年と判明しています。

宝亀8年(777年)7月14日には「震但馬国国分寺塔」として、塔が落雷被害に遭った旨の記事がみられます。
貞観4年(862年)には、但馬権守の豊井王から長さ1丈5尺の幡18旗の施入のことがあった事も記載されています。
延長5年(927年)成立の『延喜式』主税上の規定では、但馬国の国分寺料として稲2万束があてられています。

全国のほとんどの国分寺は、平安時代以降に律令制の衰退と時を同じくして衰退ししています。
但馬国分寺の場合には、どのような変遷を辿ったか詳らかではありませんが、やはりなのでしょうか?

弘安8年(1285年)の『但馬国太田文』では、「国分寺」の記載があります。
太田文は太田氏(源頼朝による義経攻略や、平泉討伐で活躍して但馬守護として但馬但東を領した一族で六代に渡り栄えていました。)による但馬歴史書です。
文書によれば国分寺領は法勝寺を本家として荘園化しており、建武5年(1338年)には光厳上皇の院宣によって「法勝寺領但馬国分寺」白河中将(白河伊宗)に安堵されたほか、応安4年(1371年)にも白河侍従に安堵されました。

つまり、国立寺院だったものが、私立寺院に変わってしまったために、持ち主が落ち目になると同じように衰退していったと考えるべきでしょう。

観応2年(1351年)には、地頭の伊達朝綱南北朝の戦いで「国分寺」に参陣した(一説に国分寺城を指す)と伝わります。

天正8年(1580年)、羽柴秀長による第2次但馬征伐国分寺城の大坪又四郎が討たれたといわれるが国分寺もまた焼亡したと伝えられます。

文化11年(1814年)には伊能忠敬が当地を訪れ、『測量日記』に国分寺跡・尼寺跡に関する記録を残しています。
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(塔の礎石です。)
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(塔の中心礎石!)
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(祢布これ読めますか?「にょう」と読みます。日高の皆さんは読めますよね~笑!)

昭和48年(1973年)、発掘調査開始(第1次発掘調査、私小学校三年生!記憶しています)。
平成2年(1990年)、国の史跡に指定
平成17年(2005年)、但馬国府・但馬国分寺に関するガイダンス施設である、但馬国府・国分寺館(豊岡市立歴史博物館)が開館。


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