2016年08月 - 「高天原の縁側日記」
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2016/08/30

「藤吉郎」立身出世を始める!『墨俣一夜城』

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木下藤吉郎(豊臣秀吉)の一夜城で有名な『墨俣城』は、現在の岐阜県大垣市墨俣町墨俣にあった戦国時代の城です。

長良川西岸の洲股(墨俣)の地は交通戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていました。

1561年(永禄4年)ないし1566年(永禄9年)の織田信長による美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)がわずかな期間でこの地に城を築いたと伝えられています。
これがいわゆる墨俣一夜城ですが、不明な点が多く、様々な議論がありますね。



CIMG6710.jpg
(犀川に現在架かるのは出世橋です。私はもう諦めました~涙)

現在、墨俣城跡の北西側は一夜城跡として公園に整備されています。
公園内には大垣城の天守を模した墨俣一夜城歴史資料館が建てられていますが、史実上の外観とは全く違う綺麗な模擬天守が立っています。
また、公園内にある白鬚神社(式内社荒方神社の説がある)には境内社として模擬天守閣が築かれたさいに分祀された豊国神社があり、豊臣秀吉が祀られています。

さて、何時も問題に成るのは、藤吉郎がいかにして一夜で城を作ったのか?ということですよね~?

蜂須賀小六との出合いや木曽の木材を切り出し、筏に組んで組み立てるだけにして、一夜にして城を築いたとの通説も有りますし、本やドラマでもその様な記述やシーンが有ります。

信長の生涯を記録した『信長公記』に大きなヒントが有りました。

『信長公記』巻首「十四条合戦の事」に、洲股要害の修築を命じ、十四条で美濃勢と合戦に及んで勝利、洲股帰城の後これを引き払う、との記述です。

「修築」と有りますね~。つまり修理築城!城は元から有ったのです。確かに木材の準備など、木下藤吉郎は周到だったかも知れませんが、元々城が有った場所に木材を持ち込んで、修理改修工事で強固な城にしたというのが事実かと考えます。

墨俣城が最後に歴史にその名を記すのは天正12年4月で、小牧・長久手の戦いを目前にして当時美濃を支配していた池田恒興の家臣伊木忠次が改修したとあります。
その2年後の天正14年6月、木曽三川の大氾濫で木曽川の流路が現在の位置に収まったので、墨俣は戦略上の重要性を失い、この地が城として使われることは有りませんでした。

CIMG6711.jpg(太閤出世橋!綺麗な模擬天守です。桜が有名だとか。)
CIMG6712.jpg(太閤の銅像もありました。見えますかね?今回も写真でご紹介できないのが残念です。)

立身出世を望む皆さん(窓際族ならぬベランダ迄追いやられている私には関係無いですがf(^_^;)是非訪れて見ては如何でしょうか?豊国神社と合わせて御利益が有りそうです。

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2016/08/29

織田信長の天下取りへの第一歩は「岐阜城(稲葉山城)」ではなく『小牧城』だった!

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今回ご紹介するのは、愛知県の『小牧城』です。

Komakiyama_04[1](Wkiから拝借!小牧山全景です。ここに初めての石垣の城が出来たら美濃勢はびっくりしたでしょうね。)

小牧山は、愛知県小牧市にある標高86mの山です。
かつて織田信長の居城であった、「小牧城(記載に小牧山城とも在りましたが小牧城で統一しました)」が在りました。現在は山全体が公園となっており、桜の名所としても知られるます。なお現在、山頂にある模擬天守は、昭和48年(1967年)に建てられたものです(駐車場が無くて小牧青年の家の駐車場をお借りしました)。

いつもお話ししていますように、基本実際にその場に立って、実感したイメージを大事にしたいので、訪れた場所以外はほぼブログにすることはありません。神戸住まいの私が愛知県の城をブログにUPすることはごくまれなことに成りますね(今回はそのまれな例です、笑)。

その上に今回ご紹介する小牧城(笑)、ブログを書くことを前提に訪れていない(当時は御朱印集めに夢中でブログなど思いもよりませんでした。)上に、熱田神宮、名古屋城、犬山城、岐阜城、安土城巡りの強行軍中!この後ご紹介する発掘調査の途中で、城郭としての重要性も認知しておりませんでした。つまり写真が無い事のいいわけなのですが、お許しください。



かつてこの山の頂上には、織田信長の命により、山城が建てられていました。
濃尾平野の孤峰である小牧山に築城された城で、織田信長が美濃攻めを終えるまでの4年間しか使用されなかったため、急造の砦に近いものと想像されていましたが、近年の発掘調査の結果で、城郭を取り巻く三重の石垣(三段の石垣で一番下の段は腰巻石垣)が発見されました(これまでの通説「石垣が取り入れられたのは安土城」を覆す発見です)。
そして城の南部の発掘調査では、小牧山築城によって移転してきた住民によって営まれた町割も発見され、戦時急造の城ではなく、清州城に代わる新たな拠点として築かれた城郭であることが判明しています。
現在は小牧城が後に織豊系城郭と呼ばれる城郭体系の原点であるとされています。

築城の歴史ですが、織田信長は、永禄3年5月19日桶狭間の戦いに勝利したのち、念願の美濃国併呑を実現すべく、早くもその3ヶ月後から美濃攻めを開始します。
永禄5年1月15日には徳川家康と清須城において清洲同盟を結び、東国の脅威を排除します。
間を置かず、信長は美濃を攻める体制を整えるために、美濃に近い尾張北方へ本拠地を前進する策を実行します。
この新しい本拠地に選ばれたのが、広大な濃尾平野の中心地小牧山でした。
永禄6年、丹羽長秀を奉行として小牧山山頂に城を築き、7月には主要兵力を小牧城に移しています。

その後、美濃攻めに成功した信長が、永禄10年、岐阜城に本拠地を写したために、四年間で歴史の舞台から忘れ去られますが、後に豊臣秀吉VS徳川家康の小牧・長久手の戦いで、徳川家康が使用した事で脚光を浴びることに成ります。
家康がいち早く小牧山に目を付けて本陣を置き、遅れてきた秀吉を悔しがらせたといわれています。
この時、信長の築いた城跡の土塁、空堀などに大規模な改修が施され、「城」とみなせるほど強固な陣地が築かれました(前出のように、信長の築城時からかなりの城だったことが、新たな発掘調査で証明されました)。
秀吉の大軍も容易に手が出せず、焦った池田恒興森長可が三河への長駆攻撃を敢行し、長久手方面へ突出して壊滅する事態となってしまいます。
急造?「小牧城」は、徳川勝利の一翼を担ったことになります。

平野の真中にあり周りに視界をさえぎる高い山も無いために、山の頂上にある小牧城からは周囲を見渡す事ができます。
山の大きさは、東西約600メートル、南北約400メートル程です。

公園内には、かつての城跡や、曲輪や井戸の跡、土塁を復元した物などの歴史的資料が展示されています。

DSCN.jpg
(小牧山全体図公園としてよく整備されています。)
CIMG6677.jpg
(織田信長住居址ですが、子供たちがサッカーするのにちょうど良いようです。)
CIMG6676.jpg
(この後、結構登るんですよね~いつもの事ですが汗だく!)
CIMG6678.jpg
(ということで、途中はヒーヒーで写真はありません。模擬天守は小牧歴史資料館になっています。)

最後の模擬天守もこんなで申し訳ございません(ちょうど石垣の発掘中で~笑!近頃言い訳が多いかな?次はびしっとね)

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2016/08/26

何故村社なんだ~?意宇六社『真名井神社』

やっぱり出雲!と言いますか?
まだまだご紹介出来ていない場所や寺社仏閣が多くて(笑)
京都や奈良をUPし始めたらどうなってしまうのか!怖い気もしますが、お付き合い下さいね🎵

さて今回は、『真名井神社(眞名井神社)』島根県松江市山代町にある神社です。

CIMG2384.jpg
(朝七時の真名井神社です。)




天の真名井とは、「古事記」「日本書紀」において、高天原の「神聖な井戸」を意味し、神聖な水につけられる最高位の敬称です。
以前鳥取県米子市淀江の天の真名井をご紹介しましたね。
天の真名井

意宇六社の一つ(此までに四社御紹介しました。)で旧社格は村社(村社なのが不思議)。
『出雲国風土記』意宇郡条の神名樋野に比定される茶臼山の南東に鎮座します。

一般的には「神奈備(出雲風土記の意宇では神名樋野と記載されます。)」とは神をまつる神聖な場所の事です。

出雲風土記ではその他にも秋鹿郡の神名火山通説では松江市の朝日山に比定され、縦縫郡の神名樋山は出雲市の大船山に比定。出雲郡の神名火山ほ出雲市の仏教山に比定されています。

御祭神は伊弉諾神天津彦根命を祀ります。

『出雲国風土記』には、2社の記載が有ります。
意宇郡条に在神祇官社の「眞名井社」「末那爲社」本殿向かって左の末那爲社(倉稲魂神)で、風土記にいう不在神祇官社です。
神官さんの話では元は真名井瀧のほとりにあったものをこの地に遷たそうです。

また『延喜式神名帳』出雲国意宇郡に「真名井神社」の記載があります。
しかし当社は天和3年(1683年)の『出雲風土記鈔』には「伊弉奈枳社」、享保2年(1717年)の『雲陽誌』には「伊弉諾社」と記載されており、江戸時代には「伊弉諾社」と呼ばれていた様です。明治に入り「真名井神社」と改称されました。

当社の祭祀は神魂神社の社家である秋上氏が神主と別火(神職などが日常用いる火による穢(けが)れを忌んで、神事・祭事に際して炊事の火を別にすること、この場合はその神職)を兼ね、社殿も両社を同時期に造営していた様です。

拝殿現在のものは昭和9年(1934年)に建てられたもの。本殿大社造。現在のものは寛文2年(1662年)に再建されたもの。 昭和49年(1974年)に県指定有形文化財に指定されたました。

CIMG2385.jpg(いつものパターンじゃないでしょうか~?)
CIMG2386.jpg
(意宇六社のパンフレットの表紙を飾る狛犬!出雲型、力強いですね~ほれぼれします。)
CIMG2387.jpg
(畑に向かう?おばあさんに狛犬見に来られたの?と聞かれました。地元でも有名なのかな?)
CIMG2389.jpg(手や口だけでなく、心も清めます。日本人で良かったと感じる瞬間。)
CIMG2388.jpg(やっぱりかい~腰が持ちません~涙。)

朝早く(七時)からお詣りいたしました。意宇六社のパンフレットに成っているように、狛犬が素晴らしいです。
神職さんが朝のお勤めをされておられましたので、終わるのを待って声をかけさせていただきました。
御朱印も快く頂けました。ありがとうございました。

CIMG2393.jpg(説明板)
CIMG2394.jpg(説明板だと末那為神社に成りますか?)
CIMG2396.jpg
(説明板の通りなら児守神社ですね。)
CIMG2390.jpg(拝殿です。高床になって土面なのも珍しいですね。)
CIMG2391.jpg(神殿は大社作りです。素敵な神社でした。朝早かったのも良かったですね。)

神社の東方に「真名井の滝」と呼ばれる滝があります。
『雲陽誌』ではこの滝の近くに「真名井荒神」があると記し、そこを風土記真名井社に比定されています。
この滝壺で汲まれた水は、古来より出雲国造の神火相続式や新嘗祭の際に用いられたとされます。

すぐそばには出雲国分寺址、国府址、意宇の杜などが在り古代出雲の中心地であった事を窺わせてくれます。
「芦原の中つ国」は此処なのでしょうか?疑問が確信に変わりそうなロケーションです。

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2016/08/24

ねずみの大将『斎藤隆夫』の書を大公開!

今回の話題は近現代史です(^^;
学校では、三学期に時間が無いからと、飛ばしてしまって問題になる部分ですね(笑)

昨日映画「日本の一番長い日」をテレビ録画で見ました❗
昭和天皇役の本木雅弘さん始め、俳優人の演技も素晴らしく、戦争を終わらせる事はこんなに大変なのかと、改めて思い知らされましたし、平和の尊さ!昭和天皇の御聖断に涙してしまいました。
是非皆さんにも見て頂きたいですね~(^^)d

さて本題です。映画と同じ時代のお話。
皆さんは『斎藤隆夫』をご存知でしょうか?大学を卒業された方々ならば、1~2年生間の教養課程で法学の授業は無かったですか?、私は授業が有りました。

20150905200742b29[1]
(一時間半にも及ぶ演説を行った斎藤隆夫、メモを読んでばかりの国会議員の皆さん見習ってはいかがかな?)


因みに、代議士とは衆議院議員の事で、参議院議員は代議士とは言いません!

六法全書を買って、模擬裁判を行った記憶が有ります。
テーマはこうです。癌に侵されて余命いくばくもない父と息子の二人暮し!痛みに耐えかねる父が介護する息子に「頼む、殺してくれ!」と懇願します。長く介護を続けている息子は疲れきって、父の願いを聞いて殺してしまう、「さあっ、殺人か嘱託殺人か?」という訳で、裁判官になって判決を下します。禁固三年執行猶予五年位がreportの定番でした。

その六法全書の最初、「日本国憲法」の前文前に日本国憲法発行時の大臣が列挙されているのをご存知ですか?。

総理大臣は吉田茂ですね。そこに国務大臣『斎藤隆夫』の名前が有ります。

斎藤隆夫ご存じですか?あの、反軍演説の斎藤隆夫といえば、「あぁ」と解りやすかったかもしれませんね!

反軍演説とは、1940年1月14日、阿部信行内閣が総辞職し、16日、ドイツに接近する軍部と異なり、親英米派である米内光政内閣が成立し、その後召集された、第75議会の衆議院本会議での、2月2日の議題「国務大臣の演説に対する質疑」における、立憲民政党所属、当時71歳の斎藤隆夫は、1時間半に及ぶ「支那事変処理を中心とした質問演説」を行います。
これが反軍演説と呼ばれています。

斎藤隆夫は、但馬の出石町出身の国会議員です。

我家の先祖とも、少しだけ関係が有ります。
父の母方、祖父の義父が斎藤隆夫と従兄弟どうしだったとか(親戚とはとても呼べないかも知れませんが、少しだけ同じ血液が流れているんです。)

こんな逸話を父が話してくれた事が有りました。
戦前、(現兵庫県豊岡市日高町)国鉄江原駅前から(現兵庫県豊岡市出石町)出石郡出石町までの鉄道が在りました。
戦争による物資供出のため、その鉄道は昭和十九年一部を残して廃止されてしましました(最終的には全て廃止!)。

私の子供の頃には円山川の水面下や日高町上ノ郷の田畑の中に鉄道の高架台が残っていたと記憶しています。

終戦直後、出石町民が斎藤隆夫にこの鉄道を再開してほしいと陳情に行きます。

その陳情団に対して、斎藤隆夫は悠然とこう言われたそうです。
皆さん、確かに私は皆さんの投票のお陰で国会議員をやらせてもらってます。
だが、私は天下国家を論ずる為に国会に立候補したのです。
出石に鉄道が引きたければ、県会議員に相談した方が良い!

いかにも、斎藤隆夫らしい言葉ですね。

彼を評して日本最初の立憲民主主義の政治家だと言います!

吾言即是万人声 (吾が言は即ち是れ万人の声)褒貶毀誉委世評 (褒貶毀誉は世評に委す)請看百年青史上 (請う百年の青史の上に看る事を)正邪曲直自分明 (正邪曲直自ずから分明)
の書は有名ですが、我が家に有るものはどうも違うようです。漢文は読めません。読めるかたがおられましたら是非内容を教えて頂けましたら有難いです(^^;宜しくお願い致します。

DSC_0012.jpg
(なんと読むのでしょうか?天城隆は斎藤隆夫の書家名です。)

この書はその様な我家と斎藤隆夫との関係を知った私の義父が我が家にあっったほうが良いと私に渡してくれました。
CIMG8461.jpg
もうひとつの方は妻の祖父に送られた物のようです。
わかりやすいですね~(^o^)

これらの書はいつか皆さんに公開いたします。但馬のお友達、斎藤隆夫のフアンの方々は是非ご覧になってください。

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2016/08/22

炎との戦いは開けて見ないと分からない!『歴史とへたっぴ陶芸』

昨年から始めた陶芸教室も早いもので一年と3ヶ月が経ちました。

皆さんには、教室の吉村先生や仲良くさせていただいている陶芸作家さん、旅行先で出会った素敵な陶器に混じって、私の稚拙(センスは有ると思うのですが、笑!いかんせん技術が(T^T))な作品もどきどき見ていただいていたのですが、今回もそんなへたっぴな作品を観ていただきたいと思います。

一応、歴史Bloggerを偉そうに名乗って?いるので、私が最終的には目指したい古伊賀陶器の歴史も少しだけ紐解こうと思います!

伊賀焼は鎌倉時代初期に伊賀地方で生まれます。
当初は主に無釉焼締めの日用雑器を作る窯にすぎませんでしたが、室町時代後期千利休の侘び茶が大成されると伊賀焼の作為のない風情に注目が集まり、盛んに茶会で用いられるようになります。

秀吉の朝鮮出兵に伴って、登り窯の技術や陶工が数多く来日することにより飛躍的に生産性が高まります。
しかし、古伊賀は穴窯の極限状態でなければ、あの色は出ないかもしれません。

天正13年(1586)筒井定次(筒井順慶の跡継ぎ!筒井家は大和郡山に領地を所有していましたが、秀吉は畿内については一門近臣で固める政策を実施し、この国替えで大和には秀吉の弟大納言秀長が大和郡山に入国し、代わって定次は領国を大和から伊賀上野に移封されました。畿内と近畿は違います。)が領主になると伊賀焼は隆盛を迎えます。

CIMG1663.jpg
(大和郡山城!筒井定次がこの城から追い出されなければ?、あの素晴らしい陶器は出来なかったのです。)
CIMG1683.jpg
(天守の石垣修理中!今回は郡山城が本命ではないので、次の機会に
またゆっくりお話しいたします。)

定次は千利休の高弟古田織部に茶の湯を学んだ数寄者として知られ、織部指導の下素朴で豪快な茶器を数多く焼かせます(筒井伊賀)。
この作風はその後藤堂高虎・高次親子を経て高虎の娘婿小堀遠州に引き継がれました(藤堂伊賀)。
これらを古伊賀と呼びます。

伊賀焼は別名七度焼といわれますが、これは土を高温(1400度とも)で何度も焼成するからです。
その際わずかに鉄分を含んだ土が燃えるような赤褐色に変化します。
また窯の中で降りかかった灰は萌葱色や青緑のビードロ釉となって流れだし煌くような美しい景色を作り出します。
形は歪みや膨らみが強調されており、ありきたりな調和は求めない。
へら目は奔放でどれ一つとして同じものは有りません。
水指や花生けは耳を持つものが多く、俗に「伊賀に耳あり信楽に耳なし」といわれています。
またひび割れや欠けは本来なら欠点ですが、造形性の強い伊賀焼では再現性のない「破格の美」として高く評価されています。
これらの古伊賀は、その後この地で起きた大飢饉の影響を受けわずか20年あまりで姿を消してしまいました。
幻の焼物といわれる所以です。

基本的には、古代の琵琶湖の粘土を用いることでは、信楽焼と変わらないのですが、信楽焼は「緋色とビロードの調和」と言われ、古伊賀焼は「ビロードごげの調和」と言われています。
物によっては城ひとつに匹敵すると言われる古伊賀は究極の陶器だと思います。

そのなかでも有名な「重要文化財」の水差し「破れ袋」はあの「何でも鑑定団」中島清之助さんが世界一の陶器と言うほどで私も凄く好きなのですが、同じ水差しの「欲袋」が名の付け方といい、笑ってしまうほど好きで(笑)

02094_001[1]
(破れ袋、五島美術館蔵、美術館のHP写真をお借しました。)
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(欲袋!公益財団法人 石水博物館、こちらもHPよりお借りしました。)

破れ袋を真似して造ってみたが欲が出て本当に破れてしまったというのですから、正に欲が割れ目からこぼれているようです。 

うちの吉村先生が古伊賀の名作「寿老人(古伊賀の名作)」にチャレンジした!と見せて下さった花器が素晴らしかっったです(お値段は秘密、仲介させて頂きます😉)。

CIMG1370.jpg
(いいですね~笑、悪く言えませんけどね。)

古伊賀は何度も焼かなければ成らないこともあり、燃料代がかさむことから、陶芸家の間では、手を出すと破滅に繋がるとも言われるそうです。

陶器は火の作品です。有名な作家さんが、窯だしの時に自分の作品を思った通りの作品に成らずに、割り捨てておられるシーンをテレビなどで見られ間たことは有りませんか?
どんなに一生懸命陶器を造っても最後の窯焼きでは、計算通りに行かない事も多々有るのです。
ごくごくまれな偶然を覗いて、自分の力を120%注がなければ、炎の神様も此方を向いて下さらない訳です。
というわけで、近々に焼き上がった私の作品を観ていただきましょう。

CIMG1374.jpg
(一輪指しと片口です)
(白化粧各皿と刷毛目茶碗白白はおとなしすぎたので鉄彩でライン入れたのですが、ろくろの上達がみられますね。)


刷毛筆もわらを買ってきて自作しました。生徒のやる気に合わせてなんでも教えていただけるのが、うちの教室の良い所です。

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2016/08/17

建武新政の立役者 『楠木正成』 神戸湊川に散る!

皆さんのお陰で3000アクセスを達成出来ましたm(__)m。
まだまだ数字は少ないですが、何万何百万、何千万アクセスの上位のBloggerと競いあって行けるのもひとえに、皆様のお陰と感謝しております❗

今後も直往邁進を心掛け、慢心せずに頑張りたいと思いますので、応援宜しくお願い致します~(^-^)/

鎌倉時代の終焉と室町時代の始まりのお話の続編です。

建武の新政の立役者『楠木正成』の最後についてお話致します。

その前に南北朝時代の説明を少しいたします。
鎌倉時代の両統迭立は、後嵯峨天皇の第3皇子後深草天皇の子孫である持明院統と、第4皇子亀山天皇の子孫である大覚寺統とのあいだで行われていました。
花園天皇(持明院統)の後に即位した後醍醐天皇(大覚寺統)は、鎌倉幕府打倒を計画した正中の変・元弘の変によって隠岐に流されましたが、天皇新政を目指す後醍醐天皇は隠岐を脱出し、足利尊氏・新田義貞らの協力で鎌倉幕府打倒に成功し、天皇中心の政治「建武の新政」(1333)を実施しました。

しかし、武士層の不満をかい、後醍醐天皇は尊氏と対立して政敵となり、建武の新政は2年あまりで瓦解してしまいます。足利軍に追われた後醍醐天皇は、比叡山から吉野に逃れて、1336年「南朝初代天皇」を宣下しました。

対する尊氏は光厳天皇(北朝初代)を擁立して「北朝」を宣言。ここから南北朝時代が始まり、60年あまりの変則的な「南朝(公家)」「北朝(武家)」という2つの皇統が出現することになりました.。

名より実を取るといわれますが、結局皇統として認められているのは南朝側の後醍醐天皇の後を継いだ3人の天皇(97~99代まで後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇)で北朝側の天皇(光厳天皇以下五代)は皇統としては認められていません、しかしながら北朝六代目の後小松天皇(第100代)に皇統は統一され現代にいたっています。 

今上天皇も北朝の系統ということになりますね。

【楠木正成湊川に散る!】

建武2年(1335年)、中先代の乱を討伐に向かった足利尊氏が、鎌倉で新政に離反、追討の命を受けた新田義貞を破って京へ迫ります。
楠木正成は北畠顕家らと連携し、足利軍を京より駆逐しました(尊氏はほうほうの程で九州に逃れます)。

九州に逃亡した尊氏ですが、1336年4月末、九州で多くの武士、民衆の支持を得て大軍を率いて北上を開始します。
後醍醐天皇「湊川(神戸)で新田軍と合流し尊氏を討伐せよ」と正成に命じます。
しかしながら、大軍の尊氏軍に勝つには策略が必要と、正成は策を帝に奏上します。

作戦は、正成が淀川の河口を塞ぎ敵の水軍を足留めし、帝に比叡山に移って頂き、京の都に尊氏軍を誘い込んだ後に、北から新田軍、南から正成軍で敵を挟撃する作戦でした。

しかしこの案は、帝が都から離れるのを良しとしない公家たちの意見で却下されてしまいます。
正成が得意とした山中での奇策も同じく採用されませんでした。

失意の中、正成は湊川に向かって出陣します。
すでに後醍醐天皇の求心力は無きに等しく足利尊氏軍3万5千に対し、楠木正成軍は700だと伝わります。

大きな戦力の差を前に、正成は遺書とも思える手紙を後醍醐天皇に書きます。
「この戦いで我が軍は間違いなく敗れるでしょう。かつて幕府軍と戦った時は多くの地侍が集まりました。民の心は天皇と通じていたのです。しかしこの度は、一族、地侍、誰もこの正成に従いません。正成、存命無益なり」
彼はこの書状を受け取った天皇が、目を開いて現実を直視するように心から祈ったと思われます。

5月25日、湊川で両軍は激突、海岸に陣をひいた新田軍は海と陸から挟まれ総崩れになり、正成に合流できなかったばかりか、足利軍に加わる兵までいたとされます。
戦力の差は歴然でしたが、尊氏は戦力を小出しにするだけで、なかなか総攻撃に移りません。
3年前は北条氏打倒を誓って奮戦した同志、尊氏は何とかして正成の命を助けたいと思い、彼が降伏するのを待っていたと思われます。

しかしながら、正成軍は鬼気迫る突撃を繰り返し、自軍の損失を考慮した尊氏は、一斉攻撃を命じます。

6時間後、正成は生き残った72名(神社の札だと76名になります)の部下と民家へ入ると、死出の念仏を唱えて家屋に火を放ち全員が自刃しました。
正成は弟の正季と短刀を持って向かい合い、互いに相手の腹を刺して自害したといわれます。享年42歳

足利尊氏側の記録『梅松論』は、正成の死をこう記している「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」

延元元年(1336)5月25日、正成公が御弟正季公以下一族と「七生滅賊(七度同じ人間に生まれて朝敵を滅ぼそうぞ)」を誓われつつ殉節された場所と伝えられる場所が、神社境内西北隅に位置します(国指定文化財史蹟、神社に申し出ると神社神官と一緒にお詣りできます)。

CIMG1865.jpg(勿論申し出て、見せていただくことにしました。)
CIMG1866.jpg(ドキドキしませんか?700年の時間をさかのぼれる瞬間です。)
CIMG1867.jpg
(外からだとここまでが限界です~(;´・ω・))
CIMG1871.jpg(若い神職の方に入れていただきました。)
CIMG1870.jpg(綺麗にお掃除されていました。雨降りの後で落ち葉が在りますが!)
CIMG1868.jpg(凄い!タイムカプセル。このこんもりとしたところです。小屋が立っておりその中で殉節されたそうです。)

神職の方の説明によると、前回UPした水戸光圀が建立した楠木正成の墓(神社東南方向)と殉節の地を起点に明治五年(1872年)、東西南北の縄張りを行い7232坪の湊川神社が建立されました。

先の大戦ですべての社殿や境内の楠が焼失、正面の大鳥居も倒壊しました。この神社の性質上GHQは神社再建を認めようとしなかったそうです。

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2016/08/15

「悪党」を祀る?建武新政の立役者『楠木正成』を祀る『湊川神社』

お盆で実家に帰省していて久しぶりになりましたが、毎日多くの方々に読んでいただいたようで感激です。

時代が極端に前後するのは私の不徳のいたすところです。ご勘弁ください。
今回は鎌倉時代の終焉と室町時代の始まりの頃のお話です。

建武の新政の立役者『楠木正成』の最期と正成をお祀りする『湊川神社』についてお話します。



その前に、ブログを書くに当たっての私の課題ですが、大きな城や神社仏閣だと、説明が長くなって論点が複雑化してずれてしまったり、時代背景部分の解説も当然長くなって詠みづらくなってしまいます。
例えば、姫路城(国宝という観点だけではなく、世界遺産、築城から何度もの建て替え、改修、さらには城主家の交代等)伊勢神宮(神話から建設、遷宮に内宮・外宮をはじめとする125の宮社等)や清水寺( 歴史、境内の建造物、御本尊、文化財、雑学 等)等はハッキリいって私には重くて、二の足を踏んでいます。

せっかく訪れた場所ですから、何時かはUPしなければいけない、とは勿論考えてはいるのですが、幾度もの投稿に分けないと書けないでしょうし、また書きたいこともいっぱいに成りますが、私の説明・解説力や文章力がまだまだだと自覚しておりますので、そう簡単にはまいりません。
気長にお待ち頂きますよう宜しくお願い致します。

『湊川神社』も大きな歴史有る神社(建築は新しいのですが)なので、その傾向に有ると思うのですが、時代背景は以前に、後醍醐天皇と名和長年のお話をUPさせて頂きましたので、二話程度?でまとめられるかと考えております。

湊川神社は、兵庫県神戸市中央区多聞通三丁目にある『楠木正成』を祭る神社です。
地元では親しみを込めて「楠公さん」と呼ばれている。
建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社です。

楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将です。

【 元弘の変の始まりと 楠木正成の活躍】

1331年(元弘元年)8月、後醍醐天皇の側近である吉田定房が六波羅探題(幕府の出張機関として公家方の行動を監視させるとともに,洛中警固と西国御家人の統制を任務としました。)に倒幕計画を密告し、またも(正中の変での発覚に続いて!)計画は事前に発覚してしまいます。

六波羅探題は軍勢を御所の中にまで送り、後醍醐天皇は女装して御所を脱出し、比叡山へ向かうと見せかけて山城国笠置山で挙兵します。
後醍醐天皇の皇子・護良親王や、河内国の悪党・楠木正成もこれに呼応して、それぞれ大和国の吉野および河内国の下赤坂城で挙兵します。

これに対し、鎌倉幕府は大仏貞直、金沢貞冬、足利高氏(後の尊氏)新田義貞らの討伐軍を差し向けます。

9月に笠置山は陥落(笠置山の戦い)、次いで吉野も陥落し、楠木軍が守る下赤坂城のみが残ることとなります。

ここで幕府軍は苦戦を強いられる事に成ります。
楠木軍は城壁に取り付いた幕府軍に対して大木を落としたり、熱湯を浴びせかけたり、予め設けておいた二重塀を落としたりといった奇策を駆使して城を死守します。
攻防戦としては勝ちをおさめた楠木正成ですが、長期間の抗戦は不可能であると理解していたようで、10月、自ら下赤坂城に火をかけて自害したように見せかけ、姿をくらませました(京都で鼻毛多聞として活躍とも、太平記ではね~笑!)。

鎌倉幕府からは「悪党」と呼ばれ、恐れられました。

その後時代は、後醍醐天皇の捕縛、隠岐配流、隠岐脱出、鎌倉幕府滅亡、建武の親政と進みますが、中略させて頂きます。
書いていたらブログUP数にきりがなくなりますので!以前紹介した投稿ページ(鎌倉幕府消滅の足音)を貼っておきますので、そちをご参考下さい。

鎌倉幕府消滅の足音『鎌倉幕府』VS『後醍醐天皇』をお読み下さいm(__)m

楠木正成は建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍して後醍醐天皇を助けました。

楠木正成の木、同じく建武の新政下で重用された、名和長年は伯耆(キ)守、結城(キ)親光、千種(クサ)忠顕と合わせて「三木一草」と称されました。

建武2年(1335年)、中先代の乱を討伐に向かった足利尊氏が、鎌倉で新政に離反し、追討の命を受けた新田義貞を破って京へ迫りました。
楠木正成は北畠顕家らと連携し、足利方を京より駆逐しました。
次に行かせていただきますm(__)m

足利尊氏の離反後は、南朝側の軍の一翼を担い奮戦しますが、九州に逃れて力を蓄えた足利尊氏に、神戸湊川の戦いで破れて自害しました。

さあ、神社の様子をご紹介いたしましょう。
以前近くに勤務していたので、塀の外をよく通りました。
夕方になるとよく蝙蝠が神社の森から出てきて飛びまわってました。
神戸のど真ん中なのにね~!(驚)。

CIMG1836.jpg(JR神戸駅から徒歩5分!本当にすぐの場所に在ります。)
CIMG1838.jpg
(時代は江戸末期に移るのですが、勤皇思想は受け継がれたようです。)

吉田松陰は、楠木正成公を非常に崇拝しており、水戸光圀公が正成公墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立した後、楠公墓前に4度も参詣しています。
松陰は墓碑の拓本を表装して松下村塾に掲げ、久坂玄瑞、高杉晋作など沢山の門下生に楠木正成の話を聞かせました。
また「七生説」では、楠公の忠誠節義を説き、尊皇攘夷に駆ける門下生を奮起させました。
吉田松陰の維新の勤王思想の母体となったものは、正成公への尊崇の念と密接に関係しているといっても過言ではないのです。
吉田松陰繋がりで坂本龍馬もかなり影響を受けたようですね!


CIMG1840.jpg(水戸黄門様によって建てられています。)
CIMG1845.jpg
(亀の上に載っているのは何かしら意味が在るのかな!時々見かけますが?)
CIMG1841.jpg
(嗚呼忠臣楠子之墓、楠木正成の墓です。首は京都に晒されますが、尊氏の命で家族に返されたそうです。)
CIMG1842.jpg(次は水戸光圀の像です)
CIMG1844.jpg
(テレビの黄門様とイメージがだいぶん違いますね、笑!)

ちなみに、黄門とは官職「中納言」の事で水戸権中納言が正式の官職です。
水戸家は将軍補佐のため参勤交代もなく江戸定府が決まりで、水戸光圀は日本漫遊はおろか江戸からも移動していないと思います。
江戸期を通じて副将軍が置かれたことは有りません。
角さんの「先の副将軍!水戸光圀公に在らせられるぞ~」は勿論作り話というわけです。

CIMG1847.jpg(神社が作られたのが明治ということも有り、綺麗な参道です。)
CIMG1852.jpg
(狛犬?角が在ります。獅子かな~!)
CIMG1853.jpg
(こちらも力強いですが、角が無いですね~雌?)
CIMG1854.jpg(さざれ石の説明、親子石だそうです。)
CIMG1855.jpg(正成が長男正行を桜井の駅で諭す場面を想像させるそうです。)
CIMG1851.jpg(本殿、お子さんの宮詣りが多かったですね。)
CIMG1863.jpg(菊水の紋)


楠木正成は後醍醐天皇から菊紋を下賜されましたが、畏れ多いとして下半分を水に流したといわれています。
正に正成の紋にふさわしいですね。

次回は、離反した足利尊氏との最終決戦と特別に見せて頂いた自害の場所等をご紹介します。

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2016/08/11

「古事記」「日本書紀」には記載されない、出雲「国引き神話」の主人公を祀る『長浜神社』

「長浜神社」を紹介する前に、日本の歴史を皆さんにご紹介するブログを書いているものとして、少しだけお話させて頂きます。

私は、今上天皇陛下の生前御退位での『お言葉』に思わず落涙してしまいました!

私は常日頃から、人それぞれに、色々な考え方が有り、その方々のお考えも無視してはいけないと考えておりますのでブログでもFacebookでも、余り政治的に偏ったUPはしないように心がけております。
また、公平に判断して?偏った発言や私と同じ考え方でも言葉使いが汚かったり、あまりに一方的なコメントには、「いいね」することも、控えております。

しかしながらこの度の「国民の安寧と平穏を願う」今上天皇陛下のお言葉には深く感銘を受けました。

私心を全く持たれない、陛下のお気持ちに触れ、改めて尊敬と敬愛の念を抱くと共に、日本という国に生まれた幸せを感じて、涙が止まりませんでした。
もし、御退位されましたら、是非京都の「大宮御所(現在は仙洞御所と大宮御所を合わせた邸宅の意味)」で、ゆっくりとお暮し頂きたいとおもいます。お住まいとしては何ら問題は無いそうです。

現在の御所は、江戸城跡ということで、日本国民の平和と安寧をお祈りされる、天皇陛下の住まいとしては、どうかと思っていました。
他所の国の王位に有る方々と違い「守り不要」のお住まいが、本来の「国民とともにある天皇」のあり方を良く表していると思うのです。

私ごときが勝手な考えを書いてしまいました。申し訳ありません。


さて、今回ご紹介するのは、今上天皇陛下から125第前の神武天皇以前の出雲の神話のお話の続きですね。

『長浜神社』「出雲国風土記」の冒頭を飾る「国引き神話」主人公「八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)」を主祭神として御祀りする神社です。



「長浜神社」は、杵築の岬(出雲市小津町から日御碕まで)を引っ張った綱、薗の長浜に在ります。

さてその神話部分ですが簡単に読み返してみましょう。

昔々、出雲の創造神、八束水臣津野命は出雲の国を見渡して「この国は、細長い布のように小さい国だ、どこかの国を縫いつけて大きくしよう」とお思いになりました。
そこで、どこかに余分な土地はないかと海の向こうを眺めると、朝鮮半島の新羅という国に余った土地がありました。
命は、幅の広い大きな鋤を使い、大きな魚を突き刺すように、ぐさりと土地に打ち込み、その魚の身を裂いて切り分けるように土地を掘り起こし、切り離しました。

そして三つ編みにした丈夫な綱をかけて、「国来、国来(くにこ、くにこ)」と言いながら力一杯引っ張ると、その土地は川船がそろりそろりと動くようにゆっくりと動いてきて出雲の国にくっつきました。
こうして合わさった国は、杵築のみさき(出雲市小津町から日御碕まで)になりました。
その時、引っ張った綱をかけた杭が佐比売山(現在の三瓶山)で、その綱は薗の長浜になりました。

その後も、ミコトは北の方の国から同じように狭田の国(小津から東の鹿島町佐陀まで)と、闇見の国(松江市島根町のあたり)を引っ張ってきてつなぎ、最後に北陸地方の高志の国から引っ張ってきた国が三穂の埼(松江市美保関町のあたり)になりました。
この時、ミコトが引っ張った綱をかけた杭は伯耆の国の火の神岳(現在の大山)で、持って引っ張った綱は夜見の島(弓ヶ浜)になりました。

そして命は「国を引くのが終わった」とおっしゃって、杖をおつきになって「おえ。」と言われたので、その地を意宇というようになりました。

というのが「出雲風土記」の国引き神話です。

三瓶山からの眺望(稲佐の浜を望む)
(佐比売山、現三瓶山山頂から薗の長浜を望む!地図と見比べてもらうと場所がわかると思います。引き綱に見えますか?)
CIMG2323.jpg(また階段~汗!今回は本殿横まで車で行かせていただきました~!)
CIMG2333.jpg
(横着したので鳥居は無し、社門からです。)
CIMG2329.jpg
(ご由緒)
CIMG2330.jpg
(金持神社行かなきゃですね。)

【御祭神】 八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)
       布帝耳命(ふてみみのみこと)
       淤美豆奴命(おみずぬのみこと)

出雲神仏霊場19番札所

【妙見信仰】
北極星や北斗七星に祈る信仰で国家鎮護や武運長久などの御加護で知られます。
戦国時代の大内、尼子、毛利の各武将や豊臣秀吉から、当社は社領寄進や安堵を受け、江戸時代の延宝三年(一六七五年)の火災の復興は松江松平家、松平綱近が藩費を以て造営に当り、武家の崇敬を集めました。

【百日祈願と弓掛けの松】
豊臣秀吉の唐入り(朝鮮出兵)の際に百日祈願がありました。加藤清正や片桐且元、福島正則といった名だたる武将の参拝があり、その折の「弓掛(ゆみかけ)の松」が境内にあります。
緒戦の連勝連勝に太閤いたく喜び、桐の神紋をはじめ恩賞を授かっています。
使いの片桐且元が弓矢をかけた弓掛けの松は、昭和四十八年枯れ死するも根本が残存しています(写真写してたつもりだったんですが?)。

【神庭桃(かみわもも)】
当社境内の一本の桃の木より当地での桃の栽培が広まり、江戸時代には妙見桃の石州行きとまで称された特産品と成りました。

CIMG2325.jpg(真ん中が要石、右はサイノカミですか?)

【要石・夫婦石】
八束水臣津野命は、国引き終了の時に杖をたてられ、その後も杖を打って歩かれました。これが島根半島に点在する要石(かなめいし)です。要石は土地鎮めの石で、土地占有の標でした。
夫婦石(めおといし)は、子授け、安産の石として知られています。過去数多の夫婦が子を授かったと聞き及びます。写真の左が男石、右が女石です。
境内の一番奥まった場所に祀られています。

CIMG2335.jpg
(拝殿です。出雲はどこもしめ縄が大きいですね。)
CIMG2340.jpg(綺麗に整備されていました。)
CIMG2341.jpg (神殿!千木は外削り、鰹木三本、男神様間違いがありません。)
CIMG2338.jpg
(私的にはこれが一番面白かったです。なんだこの変なものは?失礼ですね~笑。)CIMG2337.jpg(出雲が厳藻かけから来ているとは思いもしませんでした。)

出雲は厳藻だったとはね~!ビックリでした。


面白いのは要石のほかに出雲には帆莚石岩船石も在ります。
八束水臣津野命が韓国へ航海した時の帆や船が石になったものだそうです。
以前同じようなお話ししましたよね~?
そう須佐之男命です。

歴史って本当に面白いと思われませんか?


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2016/08/06

「夜の敵から日本をを守る」天照大御神の神託の神社『日御碕神社』

一部不適切な事象が在りました事をお詫びいたします~(笑)。
皆さんあんまりご覧にならなかったと思いますが、下書きを間違えてUPしてしまいました。

ご紹介するのは、島根半島の西端に位置する。『日御碕神社』です。



下の本社(日沈の宮・日沉の宮、ひしずみのみや)は天暦2年(948年)、村上天皇勅命により祀り、上の本社(神の宮)は安寧天皇13年(紀元前536年、2500年前)、勅命により祀られ、総称して日御碕大神宮とされています。

出雲國神仏霊場20番。

CIMG1621.jpg
(綺麗ですね~竜宮城のようです。)

神の宮に素盞嗚尊(すさのおのみこと)、日沈宮に天照大御神(あまてらすおおみかみ)をお祀りしています。 
素盞鳴尊の奇魂と、日の神・天照大御神の和魂の御霊威をいただいた御神徳は「邪心を払い給う神」「厄除けの神」「産びの神」「縁結び、夫婦円満、家運繁栄の神」「交通安全の神」「殖産興業、安産の神」です。

CIMG1613.jpg
(ご由緒、徳川家光が作っていますね~東照宮の参考かな?権現造り!)
CIMG2297.jpg
(入り口からしてこれですから、修理中なのが残念!)
CIMG2308.jpg
(松の緑と朱が生えますね。)
CIMG2300.jpg(狛犬さん木造です、どこかで見たような?)
CIMG2299.jpg(奈良の東大寺の狛犬もこんなだったような気がしますが?)

さて、神話の物語はこうです。
出雲の国造りを終えた須佐之男は、根の国の熊成峰(出雲熊野大社の南東3キロにある天狗山)から柏の葉を投げて自らの魂を鎮める場所を占いました。
その葉の落ちた場所が日御碕の「隠ヶ丘」でその前に須佐之男を祀る神の宮を建てたのだそうです。

日沈宮と呼ばれる日御碕神社は天照大御神の「伊勢大神宮は昼の守り」「出雲の日御碕清江の浜に日沈宮を建てて、夜を守る」との神託を受けて建られたそうです。
CIMG1618.jpg
(千木と鰹木が男神なんですよね?)
CIMG2307.jpg
(日沈宮は天照大御神なのにな~?)
CIMG2304.jpg(神の宮に祀られいるのは須佐之男です。)
CIMG2305.jpg
(千木が女神~?)
CIMG2306.jpg
(神官の方に聞いたところ、通説ですべてに当てはまるわけでは無いとの事でした。(;´・ω・))

伊勢神宮を建てたのは、持統天皇で699年に正式改装され、成立が記録されていますし。
日本書紀では垂仁天皇(紀元前69年-70年)の皇女倭姫命が天照大御神を鎮座する地を求め旅をしたとされています。
つまり天照大御神の神託を後に受け取った人物の発案で造られたという事ですね~。

さてその人物は誰だったのか(安寧天皇、紀元前536年は苦しいかな)?また天照大御神と須佐之男の神力を使っても撃退しなければならない宵闇に紛れて来る海からの敵とは何者だったのでしょう?

現在の建物は、桃山時代(家光でしょ?、自分で書いていて資料が不思議、笑)の豪壮華麗な雰囲気を漂わせています。

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2016/08/04

墨俣一夜城再現か?「備中高松城」の水攻め堰堤の真実!

備中高松城水攻めの真実~!
高松城跡の歴史ボランティアの方から興味深いお話を聞いたので、ご紹介しましょう。

【羽柴秀吉の出陣と高松城の包囲 】
天正10年(1582年)3月15日、織田信長の命を受けた秀吉は、ついに姫路城から備中へ向け2万の軍勢をひきつれて出陣します。
途中、宇喜多氏のかつての居城であった亀山城(別名:沼城)(現:岡山市東区)で宇喜多氏の動向を探り、宇喜多氏が織田軍に味方することを確認した後、宇喜多勢1万を加えて総勢3万の軍勢で備中へ進軍します。

備中高松城は当時数少なかった低湿地を利用した平城(沼城)であり、鉄砲・騎馬戦法にも強い防御力を持っていました。
城を守るのは猛将、清水長左衛門尉宗治、3,000~5,000余りの兵が立てこもり、容易には攻め落とせる状況では有りません、そのため、秀吉は周囲の小城を次々と攻め落とし、4月15日、秀吉方は宇喜多勢を先鋒に3万近い大軍で城を包囲し、2回にわたって攻撃を加えますが、城兵の逆襲を受けて敗退してしまいます。

CIMG2676.jpg
(蛙ヶ鼻の史跡公園の歴史版、当時の堤防が残っているのはここだけです。)

【水攻めの開始】
毛利輝元率いる4万の援軍が接近しつつあり、秀吉は主君・信長に対して援軍を送るよう使者を向かわせます。
信長からは丹波を平定させた明智光秀の軍を送るとの返事がきたものの、1日も早く備中高松城を落城させよという厳しい叱咤激励が届きます。
秀吉は黒田官兵衛の策を取り入れ、水攻めを行うことを決定します。
低湿地にある沼城という本来なら城攻めを困難にさせるはずの利点を逆手に取った奇策であったといえます。

秀吉は即座に堤防工事に着手します。この堤防は門前村(現:JR吉備線足守駅付近)から蛙ヶ鼻(石井山南麓)までの東南約2.7キロメートル、高さ7メートル、底部24メートル、上幅10メートルにわたる堅固な長堤を造り、足守川の水をせきとめようとするものでした。
工事には士卒や農民らを動員し、1俵(土俵)に付き銭100文、米1升という当時としては非常に高額な報酬を与えています。
堤防は5月8日の工事着手からわずか12日で完成し、折しも梅雨の時期にあたって降り続いた雨によって足守川が増水して200haもの湖が出現します。
高松城は孤島と成り、堤防を完成させた秀吉は堤防の上に見張り場を設けて城内の様子を監視させます。

CIMG2677.jpg
(堤防の最南東が地図の赤丸でよくわかりますね。)


ここで疑問点が出てきます。たとえ3万の軍勢とはいえ、全てが土木工事に携われるとは思えません。
毛利の援軍が近くまで来ているわけですから、毛利軍の急進も考えて、全ての兵を動員するわけには行きませんし、城からの決死の反撃にも備えなければなりません。

半数が2交代制で作業に従事したと考えても7500人(私の勝手な推測ですが)!東南約2.7キロメートル、高さ7メートル、底部24メートル、上幅10メートルにわたる堅固な長堤を12日で造ることが可能でしょうか?
現在の重機を使っても無理だと思いませんか?

現在の大型重機が1000馬力としましょう(スポーツカーの2~3倍程度)。
1馬力 = 1秒間に75kg重の力で物体を垂直方向に1m持ち上げた時の仕事率で、人間は約0.25馬力、つまり四人で1馬力ですから、重機は4000人分の仕事をこなすことに成りますが(数値はおおよそです。業界の方が居られましたら御意見下さいね。)、数値的には大型のブルトーザーとシャベルカーを二台を昼夜を問わずフル活用して可能な数値になりますか?
こんなくだらない計算して何になるのかわかりませんし、数値もおおよそですが(笑)、それでも、12日で完成するとは到底思えません。

【それでは、秀吉(黒田官兵衛かも知れません?)はどんな奇策を使ったのでしょうか?】

ここで、ボランティアガイドの方から説明を受けたお話で説明をしますが、資料が在りましたのでそちらから、引用させて頂きます。(ボランティアガイドさん方は凄い知識量です、造山古墳ではボランティアの難波さんと炎天下一時間近く話し込んでしまいましたし、高松城跡資料館では山根さんだったかな?から説明をお聞きしました)。

備中高松城の水攻め堤防の長さを記した最初の史料は、『中国兵乱記』です。
これは、実際にこの城に籠って戦った人物が、後年に著した貴重な史料だそうです。
著者の中島元行は、清水宗治の副将として毛利家から派遣され、備中高松城の二の丸を守りました。
晩年に至り、毛利家の求めに応じて、天正5年(1577)から同10年までの間、中国地方で繰り広げられた毛利一族と織田信長・羽柴秀吉との戦闘の経過を軍記として記録しました。
それが『中国兵乱記』です。
元行の没年が慶長19年(1614)ですから、「水攻め」から30年ほど経って書かれたことになります。
『中国兵乱記』には、堤防の長さを26町(約2.8キロメートル)、幅は基部で9間(16.2メートル)で、高さ4間(7.2メートル)と記されています。
現在、堤防の一部が残る蛙ヶ鼻から、足守川の水を引き入れた水門前までの距離を測ると、およそ3キロメートルあります。
つまり、『中国兵乱記』は、この区間の全てに堤防が築かれたと述べています。
『中国兵乱記』の記述をもとに、この区間に長大な堤防が築かれていたとするのが定説となりました。

江戸時代中期の寛政3年(1791)、地理学者の古川古松軒は、備中高松城跡と周辺地域を踏査しました。
その結果、古松軒は水攻め堤防について、従来の説とは異なる新たな見解を示し、「備中国加夜郡高松城水攻地理之図」に記しました。
その新たな見解とは、秀吉が水攻め堤防を築いた区間を、蛙ヶ鼻から松山街道(現在の国道180号線)までの間、およそ300メートルに限定したことです。
その図中では、堤防を描いた横に「此所二新堤築ク」と注記し、堤防が限定的に築かれたことを強調しています。
一番の難所、蛙ケ鼻を味方に付いたばかりの但馬国衆(但馬征伐「但馬人から見れば但馬侵略ですが」、で敗北した但馬国衆残党は秀吉軍に組み入れられています)に担当させているところが、真実味が有りますね!

しかし、この説は関心を集めることも無く、やがて埋もれてゆきました。

CIMG2682.jpg
(杭の跡のレプリカです。向こうまで24メートル長いですね~。)
CIMG2683.jpg
(土俵痕、真ん中右に人骨が見えますか?そうお金に目がくらんだ人々は直ぐ近くの墓を堀起こして俵にしたからです。)
CIMG2687.jpg
(堤防の上です。高松城址は家屋が多くて全く見えません。)

昭和60年(1985)6月、大雨による洪水で、備中高松城跡の一帯がまるで水攻めの光景を再現したかのように水没したことがありました。
これにより、「ここは、元々水没し易い地形なのでは? 」との見解が、地元研究者を中心に持たれるようになりました。
平成9年(1997)、地元の県立高松農業高等学校土木課が、精密に土地の高低を測定した結果、旧松山街道(国道180号線)に沿った一帯が、備中高松城の周辺より1メートルほど土地が高くなっていることが分かりました。
これは、太古の昔より氾濫を繰り返し、度々流路を変えていた足守川によって運ばれた土砂が堆積したもので、「自然堤防」と呼ばれるものです。
つまり、蛙ヶ鼻と自然堤防の間、およそ300メートルの区間を塞き止めれば、古川古松軒が考えたように水攻めが可能だったということが証明されたのでした。

CIMG2689.jpg
(唯一残された堤防址、但馬国衆が築いた所です。ご先祖様~!)

300メートルと取水口の工事だけなら12日で完成させることは難しくないように感じますよね~。

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