2016年07月 - 「高天原の縁側日記」
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2016/07/31

須佐之男誕生の伝説と「石上神社」の名前の謎!

今回ご紹介するのは小さな漁村の本当に小さな神社『石上神社』です。
しかしながら小さくても大きな謎解きのきっかけになるかもしれません。

前回の「韓竈神社」同様に「出雲風土記」新羅から引いた土地に在ること、海岸に近く朝鮮から船で来る事に適していること(逆に現在では道路も通じていますが、古代に舟以外で来られるような土地ではないです。)。

更に「石上神社」と言えば、奈良天理市の「石上神宮(神宮の名は他には伊勢神宮だけの日本最古の神社)」ですよね!そして石上神宮の御祭神は布都御魂大神 (ふつのみたまのおおかみ) 神体の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊です。
「布都御魂剣」とは何か?素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの剣だと伝わっています
。岡山県(なぜ岡山県なのかも面白い疑問ですが?)の「石上布都魂神社」(いそのかみふつみたまじんじゃから)に祀られ、後に崇神天皇の時代、奈良天理市の石上神宮に移されています。

さてご紹介する『石上神社』ですが、御祭神は「布都御魂」
島根県出雲市塩津町279



CIMG2256.jpg
(本当に小さな神社です。漁村の生活感にあふれています。)
CIMG2266.jpg
(当然、村社)
CIMG2258.jpg(小さな土地にへばりつくようにありますが、大きな秘密が眠っているかもしれません。)

延喜式(901~923年)には宇美神社と記されており、古くからある神社です。
地元では、「須佐之男誕生の地」と伝えられています。
神社関係の資料では、それを否定していますし、歴史学世界では無視しているようです。

これに対し地元の人々の言い伝えでは、「江戸時代末期から役人や学者が訪れ、証拠となる古文書や社宝(太刀)をすべて持ち去り、返却されていない」らしいです。
「この事実が、逆に言い伝えの信憑性を高めている」と話していました。

神社の建つ場所は、海岸に近い高台で、背後は切り立った崖です。
小さな漁村ですが、地元の人たちが精一杯お守りしている気持ちが伝わってくる神社です。

本殿裏手に榊包まれたご神体の岩が在ります。布都御魂(剣にやどりし神霊)は本来のご神体「石神」を、奈良の石上神宮に倣って由緒を捏造したとの批判もあるようですが、氏子さんたちは「社宝」の剣が返却されればすべてが明らかになると話されている様です。

CIMG2259.jpg(うむ~、ちょっと不利?な由緒書です。)
CIMG2263.jpg
(御幣が巻き付いたご神体!神殿もなくむき出しっていうのも珍しいですね。)

最後に布都御魂こと「十握剣」ですが「記紀神話」の中では何度か出て来ます(握=一握りの長さ)。
須佐之男が八岐大蛇を斬ったときの十握剣は天叢雲剣によってかけてしまいますし、伊邪那岐火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ・加具土命)を切ったときの剣なら、須佐之男と天照の誓約で砕かれています。
また、葦原中国平定において、建御雷神(たけみかづちのかみ)大国主の前で十掬剣を海の上に逆さまに刺し、その切先にあぐらをかいて威嚇した十握剣は神武東征にも使用されたとされます。

全く同じ剣とは思えませんが歴史のつながり(この場合神話のつながりでしょうか?)は面白いですね。

耳よりり情報!社務所がありませんので、「石上神社」御朱印は鳥取県米子市「賀茂神社」さんが預かっておられて、そちらでいただけますよ。
前回の「韓竈神社」の御朱印も同様に賀茂神社でいただけます(私もいただきました。)。

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2016/07/29

韓竈神社で出会った者は素盞嗚命の化身か?

日本神話の「三貴神」中でも須佐之男だけが少し他のお二方とは異質な感じがします。
伊邪那岐の体から生まれた場所も天照と月読は目なのに対して須佐之男は鼻!取って付けた様だと思いませんか?
出雲に伊邪那美、須佐之男、大国主の活躍の痕跡は多いのですが、天照の話は無いんですよね、やはり高天原は出雲近辺には無かったのかもしれませんね。

さて話を戻して「韓竈神社」の紹介の続きをお話させて頂きます。


(参考までに鰐淵寺の場所も載せます。すぐ?近くです。)
韓竈神社は、紅葉で有名な鰐淵寺(出雲神仏霊場の札所で韓竈神社の近くに在ります。ご紹介はまた今度)から、山を隔て西側に位置しています。
鳥居の800mくらい手前から道が狭くなり、杉木立の中を通っていきます。舗装路がなくなり、携帯の電波も届かないところにあります。

前回階段が急な事は話しましたが、高所恐怖症と肥満の方(私も肥満ですが、笑)、ヒールの方は、ちょっと参拝は厳しいかも知れません。スニーカーもしくは軽登山靴(ちなみにサンダルで登り怖い思いをしました、汗)が良いかと思います。

韓竈神社は新羅から国引きした土地(「出雲風土記」の国引き神話で新羅から引いて来た部分)にあります。鳥居からがたがたの非常に急な自然石の階段を約20分程度登ります。神社前の岩間入口は数十センチしかない大きな岩の割れ目の間を通ります。
ここは女性の産道に見立てられ、子宝に恵まれるという言い伝えがあります。

韓竈神社は、「岩船」伝説でも知られており、この大岩は、新羅から植林法や鉄器文化を伝えられるときに、須佐之男が乗られた船であるといわれています。

須佐之男が新羅に渡るときに乗ったとされる「岩船」として大きな平石があり、この岩の続きにある大きな丸い岩を「帆柱岩」として船をすすめ、この地に天降りしたと伝えられています。

しかし出雲市観光協会のHPでは、「鰐淵寺を開かれた智春上人(ちしゅんしょうにん)が信濃の国から来られたとき、三人の老翁が船で出迎え、鰐淵寺へと案内されました。
その後、老翁は別所・唐川・旅伏の三所に飛び去り、唐川の智那尾権現(韓竈神社の別称です)は岩船となり、別所の白瀧権現帆柱石となり、旅伏山の旅伏権現帆形の石となったと伝えられています。
現在も唐川と旅伏山には大岩が現存していますが、別所の帆柱岩だけは、昭和時代に地滑りのため無くなってしまいました。」
このように記載されています。

CIMG2269.jpg
(駐車場が岩船?確かに舳先が突き出て船のようですね~!)

この出雲市観光協会の説明には疑問が残ります。韓竈神社鳥居前の駐車場?何と岩船でした。松江松平家の資料地方紙「雲陽詩」(1717年)には、 「スサノヲノミコトが乗り給いし船なりとて、二間四方ほどの平石あり、これを「岩船」という。この岩は本社の上へ西方より屋根の如くさしかざしたる故に、雨露も当たらず世俗に「屋方石」という。又、岩船のつづきに周二丈余り、高さ六間ほどの丸木立岩あり、これを「帆柱石」という。」と社上と横にに「岩船」「帆立岩」と記載されているでそうですが?

さあ!登ってご案内しましょう。

CIMG2274.jpg(鳥居から、さあ行きますよ~。)
CIMG2276.jpg
(足元に気を付けて下さい、滑りますからね。)
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(ステッキ車に忘れた~。横に張られたロ-プだけが頼りです。)
CIMG2279.jpg(凄い原生林。神秘的な雰囲気です。)
CIMG2284.jpg(更に登ります。足が痛い。)
CIMG2285.jpg(?行き止まりです?横に何か見えますね~!)
CIMG2286.jpg
(ひゃ~!無理ちゃうん?おなかがつっかえる~。)
CIMG2287.jpg(私は難産でしたが、無事出産できました~笑。)
CIMG2288.jpg(岩船と正面帆立石です。平地がほとんど無くて撮影がぎりぎりです。)
CIMG2290.jpg(社です。こちらも後ろはぎりぎりで落ちそうです。)

勿論新羅行が事実なら、岩船はありませんから、後に都合よく創作されたものかもしれませんが、神様方のなされること、なんでもOKですよね~(笑)
馬鹿にしているわけではありません、伝承を語り継ぐためにはシンボルも必要だと思うのです。

今回の私にとってのシンボルはこの須佐之男命の化身です。

CIMG2282.jpg(突然目の前に現れた20センチは有るガマガエルです。まさに須佐之男命の化身としか思えませんでした。)


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2016/07/27

須佐之男は新羅からの渡来人なのか?『韓竈神社』の謎。

出雲神話の旅です!ご紹介するのは韓竈神社ですが、「古事記」にも記載されない、神秘のお話?。疑問点も多くて理解に苦しみます。
しかしここはそれ!専門家では有りませんから、お気楽に自分なりの推理と妄想(笑)で楽しみましょう。


『韓竈神社』
島根県出雲市唐川町408


(山~!帰りには脱輪したおじさんを救助して、下の町まで乗せていきました~汗!)

島根県の神社関係資料によると、現在の社が建てられたのは1815年(明治まであと50年)と新しい物です。
「出雲国風土記」には『韓銍社(からかまのやしろ)』延喜式には『韓竈神社』と記載されています。江戸時代には、『智那尾権現(ちおごんげん)』と呼ばれていました。

社名のカラカマは朝鮮から渡来した「釜」または「溶鉱炉を意味する」とされ、祭神の素盞嗚命「神社由緒記載」が御子神五十猛命(イソタケルノミコト)と共に新羅に渡り日本へ「植林法」やタタラ製鉄法、鍛冶技術などの「鉄器文化」を伝えられたとされています
この神社より奥は古くから産銅地帯といわれ、金掘り地区の地名や自然銅、野タタラ跡もあり、鉄器文化の開拓と深い関係がうかがわれます。
島根県を流れる斐伊川をよく見てみると砂地の中に黒いものが見えますが、これは砂鉄なんですよね。出雲は鉄が多く取れることでも有名です。
今も出雲の野山にはこの鉄を作るタタラ場の跡が多く残っています。

ここ迄でもう疑問が幾つか出てきました。
素盞嗚命は日本人?渡来人?!植林を教えに新羅に渡ったの?日本に持ち帰ったの?
地元には素盞嗚命が育ち青銅を造っていたとの言い伝えがあります。青銅造りには銅・錫・鉛が必要ですが、唐川地区にはそれらが産出していました。

八岐大蛇に恐怖したとき、若き王素盞嗚命は自分が新羅から持ち帰った新しい技術を駆使して十束の剣や天の叢雲剣を作り上げ、八岐大蛇に例えられる、出雲を牛耳る強力な部族に挑みかかかったのかもしれませんね~(私の妄想ですよ!)。



さて「階段つらい~!」で前回?の宿題を残していました。
「縄文海進」について少し説明しましょう。


縄文海進(じょうもんかいしん、有楽町海進)は、縄文時代に日本で発生した海水面の上昇のことです。
海面が今より2~3メートル高かったと言われ、氷河期が終わった後の、縄文時代前期の約6,000年前にピークを迎えたとされています。
気候は現在より温暖・湿潤で年平均で1~2℃気温が高かったと考えられます。
世界的には(北極の大氷塊の融解によって惹き起こされた現象です)、完新世海進、後氷期海進(Holocene glacial retreat)と呼ばれています。

私的には、日本列島の地盤隆起(ヒマラヤではでは年間10ミリ、6000年間で60メートルも上昇しています。日本の隆起がその2割だと仮定して12メートル!)も考えると実際には、現在の地形が10メートル以上低く(つまりは海が10メートル以上高い)内陸迄海が入り込んでいたと考えます。
6000年の間に海が引き、土地は隆起します。更には山が削られて土砂の蓄積も考えられます。
内陸部の「岬山」や「汐見」等の地名に名残りが伺えると共に、有名な群馬県板倉町の貝塚の標高は約16メートルでが2~3メートルでは近くに海が入り込んでいた説明が付かない事もこれで解決します。

「記紀」の中にも縄文海進を推察させる記述が有ります。伊邪那岐と伊邪那美の国造りのお話です。新潟県の佐渡島を双子で生んだと記載、岡山県の児島半島も島として生み落としています(両方とも海水面を10メートル上げると成り立ちます)。

人々は肥沃な平地で米作りを始め、先祖が住んでいた高台を神聖な場所としてお祀りした。
これが私がひーひー言いながら階段を上らなければならない理由の一つです。

江戸時代に松江松平家が編集した地方紙「雲陽詩」(1717年)には、 「スサノヲノミコトが乗り給いし船なりとて、二間四方ほどの平石あり、これを「岩船」という。この岩は本社の上へ西方より屋根の如くさしかざしたる故に、雨露も当たらず世俗に「屋方石」という。又、岩船のつづきに周二丈余り、高さ六間ほどの丸木立岩あり、これを「帆柱石」という。」 と記されています。

わざわざ石の船に乗って(笑)新羅に、渡っての植林方法の持ち込みは、鉄が多いこの地を見据えて、鉄製を進めようとすれば多くの樹を必要としたでしょう。そのために植林を進めて、この地を豊かにしようという壮大な素盞嗚命の洞察力と力の影響を物語っているといえます。

そうした素盞嗚命の偉業とロマンの跡がこの韓竈神社には感じられます。

CIMG2274.jpg
(鳥居の先は、お約束の階段、自然石で300段~涙)
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(薄暗くて雰囲気あります~!)
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(ご丁寧に鳥居のくぐり方まで御教授してくださっています。)

今回は私がヒーヒーいう前の鳥居までです。次回は素敵な素盞嗚命の化身が私を迎えてくれます。

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2016/07/24

尼子氏、毛利元就の知略の前に破れ去る!『月山富田城』

あまり、古代史ばかりUPしていると、「お前は本当に日本史好きなのか~」と思われそうなので、今回はやはり「男ならは戦国時代でしょう」ということで『月山富田城』を紹介します。

三年のご愛顧感謝します.

新規ブログが始まりました。

癒しとストレス解消の遺跡・史跡・城跡・寺社仏閣巡り、きっとあなたは日本が好きになる

     99%歴史が好きになるブログ「高天原の縁側日記」

~縄文・弥生時代から近現代まで、日本の歴史と文化の旅に神様目線で旅立とう~
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2016/07/22

黄泉からの刺客を十拳の剣で振り払う 伊邪那岐!『剣神社』

「古事記」出雲神話の旅!今回紹介するのは「剣神社」です。

時代は遡って、「伊邪那岐」の黄泉の国からの逃亡シーンです(時代の時間列がおかしい?神代の事なので許してください)。

逃亡劇?怖いもの見たさの物語は世界中で見られますが、その典型と言えますね(笑)。

以前紹介しました揖夜神社( 黄泉平坂=伊賦夜坂の近くで伊邪那美をお祀りしています。)から西へ直線距離5キロの所に、剣山が有ります(この位置関係が問題なんですよね!)。

「伊邪那岐」が黄泉の国から逃げ帰る途中に追っ手を十拳の剣で後ろ手に振り払ったと伝えられている土地です。

「古事記」どおりに解釈すると「追っ手を振り払った」のは黄泉平坂の手前です。
という事は西5㎞の場所は黄泉の国の中と言うことに成りますよね~(-""-;)

地図で確認してみましょう!


(山陰本線の揖屋駅が揖夜神社、伊賦夜坂の最寄駅です)

根の堅洲国は、その入口を黄泉の国と同じ黄泉平坂=伊賦夜坂としている記述が『古事記』にあり、一般には根の堅洲国と黄泉の国は同じものと考えられています。

そうすると、現在の松江市、古代の出雲が根の堅洲国または黄泉の国となってしまうのです。
確かに勝者が都合よく考え出したのかもしれません(自分たちが住んでいる土地こそが葦原中国なのだとね)。

大国主や須佐之男等、倭国にとって都合の悪い?事実を出雲に封じ込めようとした形跡があるような気がします。
大国主や須佐之男の活躍の痕跡は数多く残る出雲ですが、天照大御神の痕跡は、出雲には殆んど無いんですよね!

CIMG2506.jpg
(いかにも古そうな神社が住宅地の中に!)
CIMG2519.jpg(丁寧な説明~私の解説いりませんね。)

住宅地の中に取り残された小さな山、急な階段を登った頂きに不思議な気配の神社がたたずんでいます。
御祭神は伊邪那美命

CIMG2507.jpg
(150段また登るんかい!あ~そうだ、縄文海進について説明しなければ行けませんね。今度ね!)
CIMG2510.jpg
(拝殿も歴史を感じます。)
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(本殿です。)
CIMG2515.jpg(問題の変則千木です。???解説できません!私にも理解不明です。)


剣神社の本殿は、千木が前後で違っています前は男千木後ろは女千木です。不思議ですね~。
近くには「伊邪那美」の岩坂陵墓参考地があります!やはり...?

さぁ!皆さんは黄泉の国はどこだと思いますか~?
高天原は天上界に、黄泉の国は地下という考えは事実には則さないですよね、伊賦夜坂を挟んでの、政治的な駆引きが神話作りに影響したかも知れません。

歴史って本当に面白いですね。

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2016/07/20

九州交流路を証明か?出雲国の力を鼓舞する「石馬」『天神垣神社』

先日ブログ仲間で食事する機会があり、ものグラムさんのブログ「続、ものグラムな生活。(ラーメン編)」と、リンク共有していただけることになりました。
私が書く歴史とはジャンルが違うのですが、ブログは素晴らしいですし、若い皆さんの熱気にタジタジになりながらも、楽しいひと時を過ごすことが出来ました。

さて本題、先日最古級の硯片が「伊都国」王都糸島市の「三雲・井原遺跡」から出土しました。この硯と同様な破片が島根県松江市の「田和山遺跡」からも見つかっているのです(全国で二例目です)。

これからご紹介する「天神垣神社」よりも200年ほど古いのですが、大陸・北九州・出雲(山陰)のつながりは興味が尽きませんね!



米子市淀江町福岡の上淀地区、上淀白鳳の丘展示館から「上淀廃寺跡」に向かって行く道の途中、右手の斜面に「天神垣神社」はあります。
『てんじんがきじんじゃ』と読んでしまいそうですが、正しくは『あめのかみがきじんじゃ』と読みます。

CIMG2629.jpg
(確かに斜面ですね~今回の旅は階段きつかったわ~!)
CIMG2633.jpg(天神垣神社社殿)
天神垣神社社殿は、千百年以上の歴史をもつと伝えられており、元天神、または天満宮と言われていましたが、明治元年に今の神社名に改まりました。
祭神は「少彦名命」ほか四神が祀られています。
この神社の主神である「少彦名命」は手間天神(てまてんじん)と通称されていたので、社も天神の名がついたということです。

境内には、国の重要文化財で、本州では唯一の馬の形をした石「石馬(いしうま)」があり、昔から「石馬大明神」として地元の方に大切に保存されています。
この石馬が実は山陰~九州間の地域間交流がうかがえる全国でも数例という貴重な文化財であることがわかり、現在は神社宝物殿に収蔵されています。

大山から産出される角閃石安山岩の一石から馬全体をけずりだして作られた石製の馬です。体長は約150センチメートル、高さは約90センチメートルだそうです。
前脚は失われ、胴体と後脚は補修接合されていますが、たてがみや面長な顔などの馬の特徴や、鞍(くら)や手綱(たづな)、鐙(あぶみ)などの馬具が装着されている様子が、彫刻によって細かく表現されています。また、体の一部には赤い顔料の痕跡がみられ、過去には馬全体が赤色に塗られていた可能性も指摘されています。

石馬は、以前は上淀集落の山裾にある石馬谷古墳のそばに立てられ、江戸時代には「石馬大明神」として崇拝されていたといわれています。
向山古墳群として国史跡に指定されている石馬谷古墳は、全長約61メートルの前方後円墳で、向山古墳群を造営した歴代豪族リーダーの墓の一つと考えられています。石馬は、もとはこの古墳の上に立てられていたと推定されていて、製作年代は石馬谷古墳が造られた6世紀後半、古墳時代後期と考えられています。

CIMG2631.jpg
(石馬が納められた蔵、申請すれば本物が見られるはずです。)

大山の石で造られた石馬!時代は九州の八女地方で起こった磐井の乱と同じ古墳後期(石馬は九州でも八女地方だけです)!の関係が在るのでしょうか?大和軍の一部として出兵したのかもしれません。

古事記神話的には、国譲りが終わり、倭国に吸収合併されたか?同盟国と成ったが故の前方後円墳ですね。出雲は四角の隅が飛び出る、四隅突出墓が多いですから!

石馬が保管されている蔵の近くには石馬の記念碑が置かれています。

IMG_5623.jpg
(記念碑、撮影してた~!)
CIMG2632.jpg(説明文)
また、石段を上がっていくと鳥居の近くには「サイノカミ」もあります。

CIMG2630.jpg(サイノカミ)

サイノカミは古事記にも記載があり、旅や足、縁結びの神として各地で信仰されてきました(全国的には正月終?に行うどんど焼き・とんど等の神様と成っているようです。)。
淀江町は約80体の男女対の石像が点在する西日本有数の「サイノカミスポット」

その大半が縁結びの神としてさんづけで親しまれていることから、淀江の新しい魅力に「縁結び」を加えようと取り組みを進めているようです(出雲だけでは無く伯耆の国でも縁結びですか~)。

CIMG2635.jpg(八朔の綱引きの様子です。)

そして、この神社と関係の深い行事として、無形民俗文化財である『上淀の八朔(はっさく)』があります(私も実家地区では八朔にお寺で子供相撲や餅撒きがあったので、仏教の式典だと思ってました?)。
神社の境内に祀られている荒神さんの祭りで、稲わらを綯ってクチナワサンと呼ばれる大蛇を作り、綱引きをするのが大きな特色です。その『上淀の八朔』は、毎年9月の第1日曜日に行なわれるもので、綱引きをするところは全国的に例がない貴重なものとなっています。

一番大事な事をわすれていました。「スクナヒコナ」の帰郷?跳んでいなくなるのですが、によって大国主は国の運営を一人で行う事に成ります。独り立ち~!

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2016/07/18

追加取材!意宇六社巡り熊野大社「鑽火殿」の姿をご紹介します。

出雲熊野大社で重要な「鑽火殿(さんかでん)」をご紹介でき無かったのが心苦しくて、撮影に行って来ました~(笑)

CIMG2554.jpg(出雲意宇六社!熊野大社です。)
CIMG2550.jpg(本殿)
CIMG2535.jpg(鳥居前のさざれ石)
CIMG2536.jpg(意宇側の静かな流れ。)
CIMG2537.jpg(綺麗な水です。)
CIMG2540.jpg(母神伊邪那美神社)
CIMG2543.jpg
(本殿右に配されています。向かって左ですね。)
CIMG2545.jpg(奥様を祀る稲田神社)
CIMG2546.jpg
(本殿左向かって右手です。)
CIMG2551.jpg
(こんなものも…東郷平八郎書の日露戦争戦没記念碑)
CIMG2552.jpg(砲弾もありました。連合艦隊旗艦三笠の砲弾でしょうか?)


勿論最後にお見せするのは「鑽火殿(さんかでん)」です。

CIMG2542.jpg

特に鑽火殿は熊野大社独特の社殿であり、萱葺きの屋根に四方の壁は檜の皮で覆われ、竹でできた縁がめぐらされており発火の神器である燧臼(ひきりうす)、燧杵(ひきりきね)が奉安されています。
毎年、毎年十月十五日に出雲大社の新嘗祭に用いる神器火鑽臼、火鑽杵を出雲大社から熊野大社に受け取りにいくという「鑽火祭」が行われています。

この神器を授け渡す儀式は「亀太夫神事」と呼ばれ、これがとっても面白いのです。
これは、熊野大社の社人である亀太夫が、出雲大社の宮司が持ってきた神餅の出来栄えにケチをつけ、それに対して出雲大社の宮司が弁解するやりとりを神事にしたものだそうです。
「今年の餅はなんでこんなにちいさいんだ~?」「いえいえその様な事はありません」というような掛け合いが行われるのだそうです。
熊野大社の近くには代々この亀太夫を務める一家があり、毎年その時期になると、今年はどんなケチをつけてやろうかと頭をひねるそうです。
亀太夫役は年に一度のこのときほど痛快なことはなく、出雲大社の宮司にとっては、これほど腹の立つことはないということになっています。
この儀式も出雲大社に対する、熊野大社のプライドなのでしょうか?。

いやいや、姑の婿いじめが神代から現代迄続いているだけかも知れませんね😱

また「鑽火殿(さんかでん)」は、出雲大社宮司(出雲国造)の襲職時の火継式斎行の大切な祭場になる社殿です。 火継式は出雲国造が代替わりの際に行う儀式であり、神火相続式とも呼ばれます。

出雲国造の千家は代替わりの時には、熊野大社で火継の儀式を行っています。
北島家は神魂神社で行うようです。
前国造が帰幽(死去)した際、新国造は喪に服す間もなくただちに社内の斎館に籠もって潔斎した後、熊野大社に参向します。
そして熊野大社の鑽火殿にて燧臼(ひきりうす)、燧杵(ひきりきね)によって火を起こし、鑽り出された神火によって調理された食事を神前に供えると同時に、自らも食べる(秘密のベールに包まれた儀式ですね)。


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2016/07/16

「根の堅州国」の都!?出雲一宮『熊野大社』

今日出雲に実際に来ているのですが、PCは持ってこられなかったので、水曜日に書いておいたんですよね~(笑)

さあ現地報告です~!出雲の神話の旅を続けましょう。

熊野大社(くまのたいしゃ)は、島根県松江市八雲町熊野にある神社です。



式内社(名神大社)、出雲国一宮(出雲大社より上かい?同じかい~それでも凄いねぇ!)。
旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社です。
神紋は「一重亀甲に「大」の文字」。

火の発祥の神社として「日本火出初之社」(ひのもとひでぞめのやしろ)とも呼ばれ、出雲大社と共に出雲国一宮です。
意宇六社の一つ(紹介は三社目ですね)。
出雲神仏霊場の第十五番霊場。

古来から出雲国の一の宮として知られる熊野大社は、松江市の中心から南に約15㎞、車で約30分の山間の地に鎮座しています。

神社の前には清らかな意宇川が流れ、お参りにはそこに架けられた朱塗りの八雲橋をわたり手水舎で心身を清め石段を上りますと、そこに境内の全景が見えてきます。

CIMG8554.jpg(意宇川と八雲橋)
CIMG8553.jpg(なんだなんだ?神祖熊野大神 櫛御気野命?)
CIMG8555.jpg(上の宮も在ったのね~)
CIMG8556.jpg(出雲らしい?神社です。)
CIMG8560.jpg(鑽火殿を写真撮り忘れていたのが残念!)

さて、境内に入りますと右手に御后神の稲田姫をお祀りしている稲田神社、左手に御母神の伊邪那美命をお祀りしている伊邪那美神社、また荒神社や稲荷神社があります。

ほかに、随神門、鑽火殿、舞殿、環翠亭(休憩所)などさまざまな建物があります。
CIMG8557.jpg
(随神門)
CIMG8558.jpg
(もちろん本殿です~千木が立ってりりしいですね。)
紀伊国の熊野三山も有名ですが、熊野大社から紀伊国に勧請されたという説と、全くの別系統とする説があります(前者なら又々凄い事ですね~!)。
社伝では熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元であるとしています(笑)。

祭神は次の一柱(読めますか~?)。

『伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命』
祭神名は「素戔嗚尊」の別名であるとされます(スサノオ等神々の名前についてですが、基本的に「古事記」の記述を採用しています。古事記では「建速須佐之男命」なのですが、今回のように神社の御由緒の記載が「日本書紀」の記載を採用している場合はそちらに合わせるようにしています。これが難しいのですが記述が違うじゃないか~と怒らないでくださいね)。

名前の説明は難しいのですが、「伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなご)」「イザナギが可愛がる御子」の意味です。「加夫呂伎(かぶろぎ)」「神聖な祖神」の意味としています。
「熊野大神(くまののおおかみ)」は鎮座地名・社名に大神をつけたものであり、実際の神名は「櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」ということになりますね。
「クシ」「奇」「ミケ」「御食」の意で、食物神と解する説が通説となっています。

これは『出雲国造神賀詞』に出てくる神名を採用したものであり、『出雲国風土記』には「伊佐奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命(いざなひのまなご くまのにます かむろのみこと)」とあります。
『先代旧事本紀』「神代本紀」にも「出雲国熊野に坐す建速素盞嗚尊」とあり、少なくとも現存する伝承が成立した時にはすでに櫛御気野命が素戔嗚尊とは同一神と考えられていたことがわかります。



特に鑽火殿は当社独特の社殿であり、萱葺きの屋根に四方の壁は檜の皮で覆われ、竹でできた縁がめぐらされており発火の神器である燧臼(ひきりうす)、燧杵(ひきりきね)が奉安されています。
毎年、出雲大社の新嘗祭に用いる火鑽臼、火鑽杵を出雲大社から熊野大社に受け取りにいくという鑽火祭が行われています。
出雲大社宮司(出雲国造)の襲職時の火継式斎行の大切な祭場になる社殿です。 火継式は出雲国造が代替わりの際に行う儀式であり、神火相続式とも呼ばれます。

出雲国造の千家は代替わりの時には、熊野大社で火継の儀式を行っています。
北島家は神魂神社で行うようです。
前国造が帰幽(死去)した際、新国造は喪に服す間もなくただちに社内の斎館に籠もって潔斎した後、熊野大社に参向します。
そして熊野大社の鑽火殿にて燧臼(ひきりうす)、燧杵(ひきりきね)によって火を起こし、鑽り出された神火によって調理された食事を神前に供えると同時に、自らも食べる(秘密のベールに包まれた儀式ですね)。

その後、「神魂神社」において饗宴を受けた後、出雲大社に戻り、奉告の儀式を行い、火継式は終了します。
この儀式にて鑽り出された神火はその後、国造館の斎火殿にて保存されます。
国造は在任中この火によって調理したものを食べるが、国造以外はたとえ家族であってもこれを口にすることは許されないらしいです。

火継式の「火」は「霊(ひ)」であり、その火をもって調理されたものを食べることによって、天穂日命以来代々の国造の霊魂を自らの中に取り込むのだとされています。

この事実を考えても、出雲大社より古い!若しくは格式が上と考えられるかもしれません。

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2016/07/12

松江城の鬼門を守る!龍翔山『華蔵寺』

出雲ですが、神話の旅ではありません。
出雲神仏霊場の旅!と行きましょう。

龍翔山『華蔵寺』
出雲神仏霊場第七番 

臨済宗南禅寺派の末寺で、標高456mの枕木山の頂上に位置する禅宗の古刹です。


(地図を見ると景色が綺麗なのもわかると思います!)

魅力はお寺には申し訳無いのですが?素晴らしい景色です。

参道を登るとまず仁王門に行きつきます。ここの金剛力士像は運慶の作といわれ、祭礼の時には二歳児の無事成長を祈る「またくぐり」の習わしがあるそうです。

CIMG9624.jpg 
(仁王門の中身は事前調査が不十分で申し訳ないです~、(;´・ω・))
さらに進むと石造りでは大きさ日本一(確かに大きいですが、厚みに欠けるのが残念!)といわれる不動明王像が聳え、その先には亀山法皇のご病気を癒したという杉井の霊水が岩間から湧き出しています。

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(大きさ?奈良の大仏より大きいです。)
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(杉井の霊水)
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(紅葉綺麗ですね~さあ展望台へ)

CIMG9642.jpg  (本当に紅葉が綺麗です?早くパノラマへ行けと?では)


薬師堂前の第一展望台から、眼下に大根島を浮かべた中海、弓ヶ浜、遠くに大山を望む景観は雄大で、山陰一の絶景で間違いないかも知れません。

CIMG9639.jpg 
(中央の山が大山、煙が見えるのが弓ヶ浜・境港、中海には大根島が見えます~。クリックして大きな画面で全体をどうぞ~!)

CIMG9637.jpg 
(山門)
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(御由緒)
CIMG9633.jpg 
(薬師堂)

そして樹齢数百年の大杉並木や多くの老樹の中に、山門、開山堂、本堂などが建立されています。

今から約千二百年前、桓武天皇の延暦年間に天台宗の僧、智元上人が開基。その後、南禅寺派の御開基の亀山法皇の時代に禅宗に改め、南禅寺の末寺となります。

以来、皇室の尊信、国主の帰依、庇護を受け、枕木十二坊と称し隆盛を極めましたが、戦国時代には、毛利VS尼子の兵火に遭ってことごとく焼失し、寺も衰退してしまいます。

堀尾吉晴の松江築城にあたり、城の鬼門として当寺は祈願所となり復興します。
明暦三年(1657)に松平直政の時代に至り再興なり、歴代松平家当主の帰依も篤く庇護を受けて伽藍も再興されました(と言っても場所柄もあり栄えているとはいいがたいです。素晴らしい景色もありますのに残念ですね~)。

本尊は釈迦牟尼佛で、薬師堂には重要文化財薬師如来像を奉安し、両脇侍には、開基智元上人が岩窟にてはじめて礼拝されたと伝わる霊像・日光菩薩、月光菩薩が安置されています。

本堂西の第二展望台からは、はるか隠岐の島が望まれます(この日は霞みがかかっていて残念でした。)。

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2016/07/08

日本最古の大社造りの国宝!『神魂神社』

やはり大好きな出雲神話の旅!来週も行くのですが、今回も素晴らしい神社を紹介しましょう。

『神魂神社(かもすじんじゃ)』は、島根県松江市大庭町にある神社です。
旧社格は県社で、「意宇六社の一社」。
本殿は現存する「日本最古の大社造りで国宝」です。



神魂神社1
(以前紹介した八重垣神社の傍に在りますが雰囲気は全く違います。静かで厳か重厚な神社です。)
神魂神社2
(御手水の苔にすら歴史と風合いが在りますね~笑!)
神魂神社3(正面は男坂の階段、汗・汗・汗)

現在は伊弉冊大神(イザナミ)を主祭神とし、伊弉諾大神(イザナギ)を配祀するとしていますが、これは中世末期ごろからのもので、それ以前の祭神は不明です。時代が下って寛文年間ごろの新嘗会祝詞には、熊野大神(須佐之男)・大己貴命(大国主)などの神名が見えますが、現在では記録上わかる範囲内で、より古いほうの説に従っています。

(神々の名前についてですが、私のブログでは基本的に「古事記」の記述を採用しています。古事記では「伊邪那美」「伊邪那岐」なのですが、今回のように神社の御由緒の記載が「日本書紀」の記載を採用している場合はそちらに合わせるようにしています。これが難しいのですが記述が違うじゃないか~と怒らないでください。)


社伝によれば、天穂日命がこの地に天降って創建したものと伝えられていますが(天穂日命は神戸の神社巡りでも紹介した誓約の次男坊ですね~(^^)b )、『延喜式神名帳』、国史や『出雲国風土記』に神魂神社は記載されておりません、文献における初見は承元2年(1208年)の鎌倉将軍下文であり、実際の創建は平安時代中期以降とみられています。
(出雲国風土記では「神魂」「カムムスヒ」と読ませています関係が有るのかな?)。
因みに、「カムムスヒ」『古事記』では神産巣日神、『日本書紀』では神皇産霊尊、『出雲国風土記』では神魂命と記載されます。

神魂神社は出雲国府に近い古代出雲の中心地であり、社伝では、「天穂日命」の子孫が出雲国造として25代まで当社に奉仕したといわれます。

神魂神社4
(そのまま案内板です。御祭神が二神ですが?)
神魂神社5
(ラフカディオ・ハーンも訪れています。)
神魂神社6
(本殿です、床たか~!)
神魂神社7
(凄い迫力!さすがは国宝ですね~!)

出雲国造家は現在、千家氏(せんげし)と北島氏(きたじまし)に分裂しています。
現在出雲大社の神事は千家氏が行っておられます(分裂事情や、その他にも、ややこしいこともあるので、またの機会に)。
千家は現在は出雲大社の宮司家ですが、国造家の代替わりのときの「神火相続式」「古伝新嘗祭」は、明治初年まで(現在は熊野大社で行われています)は神魂神社に参向して行われていました(北島家は現在も神魂神社で行われているはずです)。

千木は女神を表していますが「謂われ」「名前」「祭神」の全てに謎の多い神社です。

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