2016年03月 - 「高天原の縁側日記」
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2016/03/30

出雲と伯耆の間に埋葬された、伊邪那美の墓を推定①!

天地開闢において神世七代の最後に伊邪那岐 とともに生まれた『伊邪那美』

国産み・神産みにおいて 伊邪那岐との間に日本国土を形づくる多数の子を儲けます。

その中には淡路島・本州・四国・九州等の島々の他、石・木・海(オオワタツミ・大綿津見神)・水・風・山(オオヤマツミ・大山津見神)・野・火など森羅万象の神が含まれます。

伊邪那美が、火の神であるカグツチ(軻遇突智、迦具土神)を産んだために陰部に火傷を負って亡くなると、 伊邪那岐は、カグツチを殺してしまいます(その血や死体からも神が生まれます)。

それでは、『市郎右衛門』の歴史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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古事記では、伊邪那美 の遺体は、『 神避(かみさり)し伊邪那美命(イザナミノミコト)は、出雲国の伯伎(伯耆)の国との堺の比婆山に葬りき。 「出雲と伯伎(伯耆)の国境に有る、比婆の山に埋葬した」』と書かれています( 『日本書紀』の一書によれば紀伊の熊野の有馬村「三重県熊野市有馬の花窟神社」に葬られたと記載されています)。
女神イザナミの墓地は古事記の「比婆山説」と、日本書紀の「熊野説」に分かれることになります。

しかしながら、この古事記の比婆の山も、一般的には島根県と広島県の境の『比婆山連峰の比婆山(標高1264メートル)』と解釈されています。
ご丁寧に隣の山を、 伊邪那岐が悲しんで「おおつまよ~(ToT)」と叫んだとして我妻山と名したとしています。

しかし古事記の記述を正確に信じれば、出雲と伯耆の間にあるはずですから、その地域で比婆山若しくは、伊邪那美の御陵候補地とされている場所の内、私が訪れた場所を幾つか紹介しましょう。

先ずは、比婆山(島根県安来市伯太町横屋標高280メートル)の候補地があります。



山頂に伊邪那美を御祭神とする比婆山久米神社奥の宮があり、本殿裏に一辺10メートル程の囲いがあります。
中には小籔が密生していますが、石積みも見え、古墳の様にも見えます。

久米神社3
(カメラ持っていなかったので携帯写真でごめんなさい)
久米神社4

久米神社5

久米神社2

久米神社1
(山から下りてきた現在の久米神社です)
これから、奥の宮まで登ります。

久米神社奥の院道標
(結構距離あります。道標の上に何かいますね?)
久米神社道標のクワガタ
(伊邪那岐だけに、ミヤマクワガタのメスが出迎えてくれました)
久米神社奥の院1
(奥の宮到着しました!)
久米神社おくのいん2
(まずはお詣りを、出雲構えの狛犬さんです)
久米神社奥の院3
(右に何か見えますね。伊邪那美大神御神陵とありますね)
久米神社古墳?
(確かに小さいですが古墳のようですね)比婆山1

陰陽竹2

陰陽竹1

陰陽竹3
(本当に不思議なことがあるんですね~)

訪ねたのは、もう三年ほど前になりますが、本当に神話の世界に迷い込んだ気分になった記憶が、ブログを書いているうちに甦りました。

今、書斎のドアがノックされ妻が顔を見せました。
「結婚記念日だね!」の言葉に現実に引き戻されました。
忘れとったがな~(爆m(__)m)

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リュミエールブラン ネージュ

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2016/03/27

もう少しで不老不死は実現する?「歴史?科学ジャーナル」

不老不死や不老長寿のお話をUPさせて頂いたので、現実の科学のお話も少ししましょう。

さまざまな細胞や組織に成る能力がある胚性幹細胞(ES細胞)が老化しない仕組みを、あの(笑)理科学研究所多細胞システム形成研究センターの研究チームが確認しました。

通常の細胞は分裂のたびに染色体末端の「テロメア」が少しずつ短く成ることで老化します。

更には、テロメアが一定の長さに短く成ると分裂も止まってしまいます。

一方、幹細胞や生殖細胞、癌細胞では、特定の酵素や蛋白質が働き、長さを保つようにテロメアを修復。細胞は半永久的に老化せず、分裂も続く事が知られていました。

今回、研究チームはマウスのES細胞でテロメアを修復する働きがある「Zscan4」と呼ばれる蛋白質を観察して、テロメアが短い細胞ほど、 Zscan4が増えている事を確かめ、この現象が老化を防いでいることを裏付けました。

半永久的に再生を繰り返すES細胞
(半永久的に再生を切り返すES細胞、理化学研究所)

この老化を防ぐ原理を利用することで、将来的に人工多能性幹細胞(iPS細胞)の安定供給に応用出来る可能性が有るそうです。

胚性幹細胞(ES細胞)、人工多能性幹細胞(iPS細胞)難しいですよね、少し説明する写真を用意しました。

ESとiPS1


ESとiPS2


ESとiPS3


ESとiPS4


ESとiPS5
(わかりやすく説明されていると思いますが、汗)


私達が知りたいのは、この先のお話ですよね、もし老化しない、人工多能性幹細胞(iPS細胞)が作られて、体の細胞と交換出来るように成れば、寿命が100歳程延びるかも知れません。

いえいえ、不老不死・不老長寿はもう古い!もっと先の科学、若返りも可能になるかも知れません(笑)。

まあ、その前に私は死んでると思いますが!

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2016/03/26

八百比丘尼 と人魚伝説「伯耆国昔話」

前回UPの粟嶋神社の社叢小さな祠があるのですが!

粟島神社1
(使い回して申し訳ありませんm(__)m)


粟島神社社叢


先ずは、 粟嶋神社社叢を紹介!干拓地である周辺地域や中海のなかでは例外的に、山全体にスダジイなど高木から中低木が生い繁り、この地域としては珍しい照葉樹林を形成しています。

島全体が原始林とされ、特に西斜面に群落を形成してるシャシャンボ(ツツジ科)が大型化しているのも特徴的で、全体が「 粟嶋神社神社社叢」として鳥取県の天然記念物の指定を受けています(残念ながら六年前の元日、山陰豪雪で大きな被害を受けました。)。

その社叢を右側に進んで行くと、洞穴の小さな祠が有ります。

粟島神社8


静の岩屋


六年前の元旦山陰豪雪で鳥居も折れてしまっていました。

あの時雪で国道9号線に閉じ込められた車1000台の中に私も居たんです。

「静の岩屋」と呼ばれていて、こんな昔話が伝わっています。


【伯耆国昔話】

粟嶋神社神社がある所は、昔は文字通りの島で、舟の渡し賃は3文じゃった。

昔、この粟嶋神社に数人で信仰していたリンゴン(龍神)講があって、当番になると神さん拝みの後、講仲間にごちそうを出すのがきまりでの。

ある年の当番が、ごちそうぶりに見たことのない肉を出したんじゃ。

聞くと「これは人魚の肉で食べるとうまいし、不老長寿の肉だよ」と言ったそうな。

みんなは珍しげに見たもんの、気味が悪うて、食べたふりをして肉を着物のたもとに入れ、帰りの舟の中で海に捨ててしまったんじゃ。

ところが、一人だけ酒に酔っぱらっておって捨て忘れたもんがおっての。

こな衆は、家に戻るとじきにいびきをかいて寝てしまったんじゃ。

家には18になる娘がいて、父親の着物を脱がせていて、たもとにあった肉を見つけ、土産だ、と思って食べてしまった。

はじめ体がとろけるように思われて、ちょっと気を失い、気が付くと肌はつるつる、耳はアリの歩く音、眼はノミが蜂ほどに見えるようになったそうな。

それからじゃ。

この人はなんぼ年をとっても、18の娘のまんまで老けんようになりましたでの。

同い年の者は、みんなしわくちゃ婆さんになって死んで行くのに、われ一人何年経っても一向に年をとらん。

寂しいでしょうで、知った者がみんな死んでしまって、自分だけ生き残っとるのは。

『定ジョウに入いる』って言いますが、食を絶ってわざと死ぬことを。

この人も仏壇の鐘を持ち出いて、そげして村人に「わしは粟嶋に渡って定に入る。」

「生きとる間は鐘をチーン、チーンと打つ。」

「音がせんようになった時が、わしの命日だと思うてごせ」って言って洞穴に入って行った。

定に入って何日か後に鐘が鳴らんようになりましたと。

その時この人は800歳だったので、村人は、八百べくさん、と言いましたと。

べくさんとは比丘尼(びくに)、女の坊さんのことです。



今でも、この洞穴(静の岩屋)は残っていて、戦争中は出征兵士の武運長久を祈って参る人が多かったといいます。

ここにも、不老不死のお話が出てきましたね。

八百比丘尼のお話は山陰地方だけでなく、北陸・越後・佐渡まで日本海側の多くの地域に残っているようです。

これが、海人族の伝承なのかもしれませんね?

古代の日本は、海の道が交通手段の中心だったでしょうからね。


釈尊(仏陀・ブッタ)は少年期に城の四方の門で『四苦』を見ます。

その内の一つは『生』、仏教において生きる事は苦しみなんですね、不老不死とは幸せなことなのか?

考えさせられますね。

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2016/03/25

御伽草子「一寸法師」モデルは誰?「少彦名命」を祀る『粟嶋神社』

鳥取県米子市に単身赴任していたマンションのすぐ近くに、少彦名命を祀る粟嶋神社(あわしまじんじゃ)が有りました。

粟島神社1
(小高い丘、古墳かと思いました)
粟島神社2

「風土記逸文」 (他の書物などに一部が引用されているだけで、完全な形では伝わっていない文章)の 『伯耆国風土記』によると。

「少日子(スクナヒコナ)命、粟を蒔きたまひしに、秀実りて離々りき。
即ち、粟に載りて、常世の国に弾かれ渡りましき。故、粟島と云ふ。」
と記載されています。

こびとのスクナビコナ(少彦名命)がこの地で粟を蒔いて、実ってはじけた粟の穂に乗って常世の国へ渡り、そのために粟島と呼ばれている、と書かれているます(つまり、粟嶋神社は少彦名命の現世での最後の地、ということになります)。

720年(養4老年)上奏の『日本書紀』でも同じような逸話があり、スクナビコナが淡島(粟島)で粟茎に弾かれて常世へ渡ったとされています。

さらに、地元に伝わる民話では、こびとであるスクナビコナが天界から下界の海へ落ちてしまい、空豆の皮で船を作って伯耆の島(のちの粟島)に漂着します。

そこで出雲の神であるオオクニヌシ(大国主)と知己に成ります。

スクナビコナが排便すると、天界にいた頃に食べた粟の実の種が出てきたので、これを島に植えたところ数年で島は粟が一面に広がりました。

すると、アワ畑に据えられた案山子のお告げで天界に戻るように命を受け、粟の茎を曲げて穂につかまり、茎がまっすぐに戻る力で天界へ飛んでいった。

このことから、オオクニヌシはこの島を「粟島」と名づけたといわれます。

粟島神社3
(結構きついです)


粟島神社4
(ほらね!上から見るとわかるでしょ)


粟島神社5
(きれいに整備されています)


【粟嶋神社、米子の地名由来元と成る】

粟嶋の分限者(鳥取言葉でお金持ちの意味)には子がなく、88歳の米寿を迎えたときに初めて子を授かったことから、「米子」の地名が発祥したと伝えられています。

この粟嶋神社、 来待石を積み上げた、角度のきつい石段が187段、登り切ると、丘の頂上に社、標高は38メートル(36メートルとも?結構息切れします)。

もともと、ここは離れ島であったらしいく江戸時代の中頃、陸続きとなったようです。



粟島神社6


粟島神社7
(小さな本殿、少彦名そのものですね)


粟島神社8
(島だったことがよくわかりますね)



【ちょっぴり面白いなと思う神話や昔話の共通点が!】

神話に登場する少彦名命は、手に乗るほど小さく、おとぎ話『一寸法師』のモデルとも云われています。

因幡のしろ兎を助けた大国主命は、医学の神です。

皮をはがれて赤裸にされた 「因幡の素兎」(本当は素兎なんですよ)救出の物語。

ガマを刈り取って穂をはたくと、黄色い花粉が取れます。

この花粉が 「ホオウ 穂黄」。

中国漢方の生薬で、止血剤、鎮痛剤、利尿剤として用いられます(凄い知識力ですよね!)。

大国主命と共に、国造りを担った少彦名命もまた、医療を人々に広めた神とされます。

ことに、まじないの術に長けて、病に苦しむ人々を救ったと伝えられています。

一寸法師は鬼に勝って打出のこずちで、大きな青年に成ります。



打出のこずちを持っているといえば、大黒さまです。

大黒天(大黒さま)は大国主とも同一視されています。



そして中国の徐福伝説!

常世の国に不老不死の薬を取りに行った徐福は子供たちを連れていたとか?、徐福の職業は、方士です。

方士とは、呪術師や祈祷師・薬剤師であり、占星術・天文学にも秀でた学者のことをさしています。

そして、子供たちは成長期を向かえると、大きく成って、こびとでは無くなります。



なんともお話がうまく繋がり過ぎると思いませんか(笑)?

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2016/03/24

ヤマタノオロチ退治と愛のパワースポット巡り『八重垣神社』

縁結びの聖地『出雲八重垣神社』は、島根県松江市にある神社です。


八重垣神社1


旧称佐久佐神社。

式内社で、旧社格は県社。

意宇六社の一社です。

出雲國神仏霊場第十四番札所です。



八重垣神社2

八重垣神社B
(狛犬かわいそう!来待石の風化がすごいです)
八重垣神社4

素盞嗚尊稲田姫命の故事から縁結びの神社として信仰を集めています。

八重垣神社5
八重垣神社3
(きれいな神社です。女性参拝者が本当に多いですね。この日はなぜか少ないな~?)

「早く出雲の八重垣様に、縁の結びが願いたい」という出雲の古い民謡が有るそうですが、その一節からもわかるとおり、八重垣神社は出雲の縁結びの大神として知られています。

八岐大蛇退治で名高い素盞嗚尊と、国の乙女の花(国や部族の為に自を大蛇に差し出す、大和撫子はここから来ている様です。)と歌われた稲田姫命の御夫婦が主祭神です。

出雲神話によると、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治する際、斐の川上から7里(約28km)離れた佐草女の森(現・八重垣神社奥の院)が安全であると判断し、大杉を中心に八重垣を造って稲田姫命を隠し、みごと八岐大蛇を退治に成功ししました。

神社内に有る石碑に『八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を』の短歌があります。

八重垣神社A

これは日本最古の短歌と言われています。

八岐大蛇にずっと脅えていた美しい妻を迎え、二度と同じような想いはさせ無いと誓った。

愛する妻を護るために幾重にも垣根を作って御殿を建てた。

幾重にも重なり沸き上がる、あの雲を見ていると、天からも守られているように感じる(こんな感じですか?)。

『古事記』では建速須佐之男命が出雲の国、肥の川(菱の川・今の斐伊川)沿いで一目惚れした櫛名田比売を護るために八股の大蛇を退治します。(名前の表記は古事記は上記の通り、その他は神社公式ホームページより)

二人は結婚し、新しい御殿を建てる場所を見つけます。御殿の上に雲が立ち上り、愛する妻と幸せに暮らせる喜びの歌がこの歌です。

その御祭神を始め六神像が描かれた壁画が元々御本殿にあり、古色蒼然雄渾な筆力は神社建築史上類例のない壁画と推賞され、国家より重要文化財の指定を受け、現在は安全な宝物収蔵庫で公開し専門家巡観者の絶賛の的となっています(残念ながら見ていません、次は是非!)。

また境内には椿の木が多く、その中でも三本ほど夫婦椿と呼んでいる木は、地面から二本の木が出て地上で一本(一寸怪しい、シンボルとして作られた木かな?疑ったら罰が当たるかも、ごめんなさい。)になっているので、一身同体、愛の象徴として神聖視されています。

年により二葉の葉が現れることもあり、御神徳の表れと大切にされている。

八重垣神社7


男性器や女性器のシンボルが多くて、子供たちの手前恥ずかしい思いをしました…(笑)。

八重垣神社6


御本殿後方の奥の院・佐久佐女の森<は、稲田姫命が八岐大蛇の難を避けられた時の中心地で、日々水を召し上がり姿を写された鏡の池があります。

八重垣神社C
(佐久佐女の森へ!)

八重垣神社8


八重垣神社D


縁結び、心願成就占いの池として占い用紙に硬貨を乗せて浮かべ、縁の遅早を占う多くの方の姿が毎日見受けられます。

八重垣神社9


早く沈むと婚期が早い、沈んだ場所で意中の人は身近な人か遠くの人かがわかるようです。

とにかく、若い女性ばかりです乙女の願いは何時でも王子様到来なのかな(笑)?

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2016/03/22

今や高級魚、春の風物詩「いかなごのくぎ煮」の作り方!

兵庫県(播磨・摂津)春の風物詩といえば『いかなごのくぎ煮』ですよね、以前はよく煮ていたのですが、近頃あまり作っておりませんでした。

いかなごのくぎ煮5
(上手にできました。山椒の青葉がよかったですが花をあしらいました。)


それに今年は、不良で値段が高いと新聞で知って、あきらめていたのですが、昨日スーパーに行くと少し安かった(一キロ1650円)ので久しぶりに購入して、作ってみることにしました。

①いかなごの用意

いかなごを荒いザルに上げ、しっかり水を切ります(4~5分置き、あとはザルを2~3回振る程度)。

土しょうがはよく洗い水気を取り、皮付きのまま細かく千切りにします。

いかなごのくぎ煮1
(少し大着させてもらいました。たれ付きです。)


②鍋の用意

鍋より一回り小さくアルミホイルに穴をあけて落し蓋を作っておきます。

③下ごしらえ

濃い口醤油、ザラメ、みりん、酒、土しょうがを合わせたものをしっかりと煮立たせる。

いかなごのくぎ煮2
(水あめで照りを出します。)


④鍋に入れる

煮立ったところで、いかなご一キロを一度に入れる。入れ終わったら、手早く手で、いかなごの間に出しが均等に回るように隙間(穴)を開けます。

⑤火加減の調整

事前に用意したアルミホイルの落し蓋を入れ、強火で一気に煮立たせ、吹きこぼれない程度の火加減で煮ます。

この時いかなごにまんべんなく煮汁がかぶさっている状態にします。

箸等で絶対にかき混ぜてはいけません。

いかなごのくぎ煮3
(落し蓋を外したところ)


⑥火を止める

アワが鎮まり、いかなごの間に小さなアワが、ブクブク出るくらい煮汁が減ったとき、中火~弱火にして落し蓋を外して、煮汁の残りの量を確かめながら、煮詰め、少しの煮汁が残っている状態で火を止めます。

⑦仕上げ

煮あがったら、平ざるに素早くかえして残り汁をきり素早く冷やします。

お好みで白ごまをかけてください。

いかなごのくぎ煮4
(汁を素早く切って、素早く冷まします。)

上手に仕上げるポイント!


A、鮮度の良いいかなごを選ぶこと(そうは言ってもね~f(^^;)。
B、煮汁を素早く捨てること。
C手早く冷ますこと。
D大きく厚手の鍋を使用すること。


以上は兵庫県漁業協同組合連合会の冊子から引用いたしました。


本来は各家庭でこだわりがあるようで、水あめや味覚糖飴で甘みや照りを出したり、山椒を入れたりと、家々で味が違うのが楽しいです。

ブログのお友達は胡桃入りが良いとの事でした(ありですね)。

何十キロも購入して親戚縁者に送られる方もおられるようです。

私は専用だしなる物で、大着してしまいました(笑)。

出来が良かったのはそのせいだと思います。

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2016/03/16

『森陶岳』の85メートル登り窯は、古備前を凌駕したのか?

備前焼の大家、森陶岳先生の展示会に岡山市迄出かけて来ました。

陶芸に興味がある方なら、森陶岳先生の全長85メートル・幅6メートル・高さ3メートル「森陶岳大窯」プロジェクトはご存じでしょう。

昨年1月に火入れして、燃焼三ヶ月半!さらに冷ますこと三ヶ月!窯出しは八月というビッグプロジェクトの完結を見ない訳にはいかないじゃないか、の意気込みで、2月10日(UPに一月以上もかかりました。笑)に仕事をずる休み?して出掛けて見て来ました。

場所は岡山駅前のシティミュージアムです。平日だったせいか、割りと人も少なくゆっくり観賞することが出来ました。

最高1200度まで上昇させ、107日間焚き続けた数千点の作品のなかから、「五石甕」 などの大甕、甕、大皿、花入など大小の作品約50点が展示されていました。

講演 「森陶岳、大窯プロジェクトについて語る」 も 2月7日(日)、14日(日)、21日(日)に有った様ですが、残念ながら都合が会いませんでした。

備前焼で、私が気にかけている若手(そろそろ中堅かな)作家さん(申し訳ありませんが、お名前は人気が上がり、私が購入出来ない事態が起きるとも限らないので、了見が狭いですが、教えられません、汗)の個展も近くで有ったので、一緒に行ってきました。
  
森陶岳先生(イメージしていたよりも背が高くて精悍な方です。)も居られて、握手していただきました。

古備前の凄さを改めて確認し、自身の慢心(そんな事は誰も思わないと思うのですが)に気が付き、古備前の技法復活に取り組見始めて、40年経過したそうです。

森陶岳大窯ならではの複雑な焼成環境が、過去には見られなかった独特の焼け色(これが備前焼?と思う物が有ったり、カビやねん菌の様な美しい、自然のビロード)を生み出していました。

森陶岳写真集1
(白いビードロ!粘菌にしか見えない窯変です。笑)

「公的工業試験場による成分分析では古備前と同等の数値を示すなど、大きな成果をあげた作品の数々をご覧ください」と、監修の白井洋輔さんがおっしゃる通り素晴らしの一言です。

先ず、入り口入って正面に五石瓶!五石ですよ、一合が180ミリリットル、一合の十倍が一升、一升の十倍が一斗、一斗の十倍が一石、さらにその5倍ですから、水を入れたら900リットル、約1トンです(笑)。

森陶岳写真集2
(写真集歪んでますが失礼します。)

身長174センチの私の肩位はゆうに有りました。

「何かに突き動かされてきました。後には引けません。陶芸人生のすべてをかけた挑戦です」との解説。

静かな口調ながら並々ならぬ闘志をみなぎらせる陶岳先生にとって、「新大窯」はまさに集大成であり、備前焼のみならず陶芸界にとっても画期的な一大プロジェクトなのです。

窯出しの作品がずらり並ぶ展覧会の開催が待たれるとの事でしたが、実現します。
森陶岳パンフ


写真の撮影が出来なかったので、サイン入り限定200冊の写真集を購入しました。

森陶岳サイン

陶岳先生に「次の火入れはいつ頃ですか?」と失礼にも質問してしまいました。

「そうだね~先ずは、この分を買って頂かないとね~、槇代が出ませんね~笑」とにこやかに笑われてました。

シティミーュージアムの1階上で岡山の常設展を行っておりましたので、そちらも見学して来たのですが、古備前の瓶も有りました。

陶岳先生の瓶の方が、数倍魅力的でした。
皆さんはどう感じたのでしょうか?気になりますね。

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2016/03/15

兵を失わずして勝つ?羽柴秀吉VS別所長治「三木の干殺し戦」

以前にUPした、竹中半兵衛の墓の最後でお約束した『三木城趾』を紹介します。

昨年三木城址を訪ねたのですが、場所がわからずに、コンビニで聞くと、店長らしいおじさんが、丁寧に教えてくださったのですが、「うちの殿様ももう少しうまくやればな~」とおっしゃって、滅んでしまった地元の英雄『』を懐かしむ言葉に驚かされました。

三木城址6(以外?と大きいです)




前回、三木城攻略作戦について、お話させて頂きましたが、簡単におさらいします。

時代背景ですが、織田軍中国地方攻め司令官、羽柴秀吉小寺勘兵衛(黒田勘兵衛)の活躍も有り、播磨を平定した矢先の1778年(天正6年)三木城主、別所長治が毛利に通じて突如反旗を翻します。

備前、宇喜多直家の動向も未だに不明な時、 秀吉軍は播州(姫路)で前後ろを挟み撃ちされる形に成り、中国攻めを一時的に中断し(これにより上月城の尼子氏を見捨てざるをえなくなり、毛利軍吉川元春らに攻められて上月城は開城、尼子勝久は切腹し尼子氏は断絶、猛将山中鹿之助も謀殺されています。)、別所氏攻略に取りかかります。

別所家は播磨の名門(名門が故に新参の秀吉配下に反発した説も有ります。)、三木城は周りの一族、国人衆の支城も含めての籠城戦に入ります。

三木城址7(中心部だけ保存されています)

上月城を不本意ながら見限った事により、羽柴秀吉は三木城攻略に全力を注ぎます。
しかし、正攻法ではこの城は簡単には攻略できないと判断し、三木城を孤立させ兵糧攻めすることを決意します。

三木城址4

三木城址5(合戦絵図、夫人の活躍場面もあります)


羽柴秀吉は、周囲の支城をひとつひとつ落とすと共に、補給路の封鎖をはかり、あの有名な兵糧攻め(戦わずして勝つ!秀吉としては始めてで、その後の城攻めの転換点となります。)、戦術を取ります。

この籠城は、荒木重村小寺政職の離反応援も加わって、二年近くの長きに及びます。

毛利方も対信長の重要な拠点となる、三木城をなんとか助けようと、兵糧を三木城に送り込む事に力を注ぎますが、そのつど秀吉に阻まれます。

食料の届かない城内(領民も参加の籠城でした。)では、草はおろか、草木の根や虫、蛇、ネズミ、牛や馬まで食べつくし、飢え死にする者が続出したと記録されています。

天正8年(1580年)1月、三木城内の食料が完全に底をついた事を見越して、織田軍は三木城内の支城を攻撃、6日に長治の弟友之が守る宮ノ上砦を、11日に長治の叔父、吉親が守る鷹尾山城を攻略、残るは本城のみとなります。

14日、長治の叔父、重棟(重宗とも)の城中への勧告により、城主一族の切腹で城兵の命を助けるという条件がでます。
17日に長治一族が切腹(吉親は抗戦しようとして城兵に殺害)、1年10ヶ月に及ぶ篭城戦が終了します。

三木城址1

三木城址2

三木城址3
(辞世の句碑、『今はただ 恨みもあらじ 諸人の 命に代はる 我が身と思へば』 「 自分が死ぬことにより、長年親しんできた多くの 領民の命が救われると思えば何の恨み もない」。別に一族の物もありました。)

この戦いは、その凄まじいまでの城内の様子から「三木の干殺し」といわれるようになりました。

城兵や領民の命を助けるために、自ら切腹を選んだ、長治の遺徳が三木の皆さんの中に、名君として残っていることを感じた。三木城趾訪問でした。

三木城雲龍寺
(菩提寺「雲龍寺」)
別所長治首塚
(首塚!夫婦仲良く眠られています。花も綺麗で地元の人々の気持ちがわかりますね。)


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2016/03/15

日本一の斬られ役、ラストサムライ「福本清三」さんの大ファンです!

皆さんはご存じでしょうか?「5万回切られた男]日本一の斬られ役、福本清三さんを!

近頃は、主役映画「太秦トワイライト」でモントリオール映画祭主演男優賞を取られたり、教科書に載ったりと、有名になられましたが、30年近くファンの私は、この人気を喜んでいるのですが、戸惑いも有ります。

時代劇を見ていてふと気が付いた、眼光の鋭い俳優さん。

主人公に斬られて、派手に倒れる助っ人浪人!

いつも「先生~先生~!」の、やくざ者の掛け声で現れて必ず、アッサリ斬られてくれる。

細面の顔にこれでもかという、目の回りのメーキャップ!食い積め浪人そのものの先生、時には出演時間1秒だけだったり、顔が半分画面から切れていたり、後ろ姿だけの時も有りました。

それでも先生の姿は、すぐに発見出来て、私の心を捉えて放さないのです。

先生のお名前を初めて知ったのは「徹子の部屋」に、北野誠さんが出られた時に、誠さんがファンだと言われて登場された時でした(探偵ナイトスクープの企画だった?)。

アッ!この人!先生だ~!

福本清三さんと名前も分かり、但馬は香住の出身(同郷じゃないですか)で東映の大部屋俳優さんだと知りました。

それから30年近く?定年退職されて、もう見る機会が少なくて、とても残念です。

ハリウッド映画「ラストサムライ」等で注目をあびられ、少し?有名に成られたので、昨年太秦映画村に行ったときにはもう当然ですが、お姿は拝見出来ません。

辻斬り指南等、の町中のイベントにも、以前なら出られていたはずなのに、颯爽と屋敷から風を切って出てこられる、格好良すぎるクリアファイルも、もう売っておりませんでした(残念過ぎます)。

「どこかで誰かが見ていてくれる」「おちおち死んでられまへん」の本も買って読みました。

福本清三
時代劇その物が少なく成り、京都物の現代劇に、時々チラリと出られていますが、やはりファンとしては、時代劇で見てみたい!

もうお年も召されていらっしゃるので、川に落ちるシーンは無理としても、あの海老ぞり斬られ死に?が見たいんですよね。

地道に、自分が輝かず、縁の下を支えて、自分を殺して、主役を立てて、それだけを一生の仕事と考えて、一生懸命頑張る。

今の日本人に無くなってしまった、心をお持ちちだなと、そして私や北野さんの様に、そんな一途な人を何処かで、必ず見ている人がいる事を、現代の若者にも解ってもらいたいと思います。

『福本清三』さん、これからも長く、健康で、渋い演技を期待していますので、頑張って下さい。

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2016/03/10

「永遠の0」の100倍泣ける『壬生義士伝』

弟の薦めで何げなく読み初めた一冊!

こんなにも素晴らし本だとは、思いませんでした。

『壬生義士伝』を紹介します。

壬生義士伝


「永遠の0」の100倍泣けると書きました。

「永遠の0」が嫌いなわけではありません(百田先生ごめんなさい)。

むしろ大好きな本ですし、実際購入して読ませて頂きました。

映画も見て感動しましたし、岡田准一さんはアイドルの領域を越えた素晴らしい演技力をお持ちの、大好きな俳優さんです。

それでもなお、大袈裟ではなく、100倍泣けて、100倍感動する一冊だと思うのです。

映画化もされています。主演は中井貴一さんです。ドラマ化もされていて、こちらは六時間(二時間ずつの前、中、後編)で世界の渡辺謙さんが主人公でしたが、本を読んだ後では満足出来ませんでした。

二人の名優でさえ演じきれない、凄さがこの本には有るのです。

物語りは、次の様に始まります。

慶応四年一月。「鳥羽・伏見の戦い」の大勢は決し、幕府軍は潰走を始めていました。

そんな中、大坂の盛岡南部藩蔵屋敷に、満身創痍の侍が紛れ込む(江戸時代に藩の呼び方は無かったということで、これまでUPしたブログでは、○○藩との記述をしていませんでしたが、ここでは浅田次郎の本中で南部藩と使用されているので、そちらに倣いたいと思います)かつて南部藩を脱藩し、新選組の隊士となった吉村貫一郎でした。

庇護を求める吉村に対し、蔵屋敷差配役であり吉村の旧友であった大野次郎右衛門は、冷酷にも切腹を命じます。



時は流れ、大正4年。

北海道出身の記者が、吉村を知る人々から聞き取り調査を始めます。

彼の関係者によって明かされた彼の生涯とは、いったいどんなものだったのでしょうか?。

幕末物といえば、勝ち組長州・薩摩・土佐!という先入観があったのかもしれません。

「歴史は勝者が作る」が当たり前と分かっていたはずなのに、いつの間にか私も、錦の御旗に惑わされてたのかも知れません。


この本を読んで、敗者には敗者の正義があることに気づかされましたし、若い頃に旅行した、東北や会津・南部の美しさと共に、戊辰戦争の砲撃でぼろぼろに成り、今にも崩れ落ちそうな、会津鶴ヶ城の写真(お城に飾って在ったと記憶しています)を思い出しました。

この本は、戦国時代の戦はもちろん、関ヶ原や大阪の陣での戦いで敗者となった武将や、太平記(南北朝時代)の負け組?等への興味を飛躍的に伸ばすきっかけになりました。

そして物語の最後に戊辰戦争に敗れ、吉村貫一郎の親友、大野次郎右衛門が死を覚悟するに至り、吉村の次男を越後の豪農、江藤彦左衛門に頼む文章を少し現代文(本書では殆ど漢文に少しのカタカナで書かれているので、ちょっと理系の私は心配ですが)で終わり二頁だけ紹介(人の絆の素晴らしさが集約されていると思いますので)したいと思います。 

南部武士魂の一滴は、苦難の後に残ったその一滴は、北上の大河となって、新しい天皇中心の国を必ず正く導きます。

吉村貫一郎さんは、「南部の桜は、岩すら砕いて咲く」とよく言っていました。

私は、その言葉を肝に銘じ、非力の身ながら精一杯の精進に努めました。

しかしながら、このような次第になってしまいました。

力がたりなかったのであります。

しかし、個々の努力と精進について何ら悔いてはおりません。

岩を割って花が開く春は未だ来ません。

しかし、死力は尽くしました。

士道冥利に尽きると思っております。

尊敬している友人、吉村貫一郎さんの最期は、誠に見事でした。

死に臨んで、五体をことごとく妻子に捧げ、血の一滴も残さなかった。

わずか死顔に涙の一垂が残っていただけでした。

何度も言いますが、この少年の父は、誠の南部の武士でした。

本当の義士でした。

何とぞ江藤様、この少年を江藤様のもとに置いていただき、ご配慮のもと、御育ていただきたくお願い申し上げます。

心よりお願い申し上げます。

義士の血がいずれの日か、岩を砕いて多くの花を咲かせることを夢幻のごとく心に思い筆をおきます。

恐惶謹言。



最後の数十ページは涙が止まらないのです。東北盛岡の、北上川の土手や岩手山に満開の桜が岩を割って咲いている。

そんな心象が、心の中に沸き上がって来るのです。

吉村貫一郎の真摯な生涯に関わった人々の人生が、見事に結実する壮大なクライマックスは皆さんを捉えて離しません。

第13回柴田錬三郎賞受賞の傑作長編小説を是非お読みください。

私の稚拙な文章力では、上手く説明出来ません。


本当に素敵な本です!是非ハンカチ(テッシュ)をご用意の上お読みください。

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