2016年02月 - 「高天原の縁側日記」
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2016/02/26

天皇陵墓なのに唯一遊べる『継体天皇陵』

第二十六代継体天皇は謎の多い天皇です。

継体天皇はそれまでの天皇とはかなり離れた血筋の人物で、西暦507年の即位後に大和国の都に入るのに19年もかかっています。

つまり即位に賛否両論?あったようなのです。

そして歴史的に実在と系譜が明らかな最初の天皇としても知られています。

この謎の多い継体天皇陵墓が二つも有る、らしいので、見に行って来ました。

当然ですが、一つは偽物?(別物)ということに成りますね。

ではどちらが本物なのか考えてみましょう。

継体天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府茨木市太田3丁目にある三嶋藍野陵(三島藍野陵、みしまのあいののみささぎ)に治定されています。

公式形式は前方後円。考古学名は太田茶臼山古墳です(前方後円墳、墳丘長227m)。

継体天皇陵A
(宮内庁の管理もちろん入れません。)


継体天皇陵B
(堀もあるから無理ですけど。)


本古墳の築造時期は、5世紀の中頃とみられています。

一方、大阪府高槻市郡家新町の今城塚古墳(前方後円墳、墳丘長190m)から多量の埴輪群が発掘され、6世紀前半の築造と考えられることから(継体天皇は在位507~531年ですから)、同古墳を真の継体天皇陵とするのが定説になっています。

今城塚古墳10
(説明もしっかりしてます。)


今城塚古墳1
(よく整備されていますね。)


さらに『日本書紀』では、継体天皇25年(531年)2月に磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)で崩御したとあり、同じ年の12月に藍野陵に葬られたと記載されています。

『古事記』には三島の藍の御陵と記載しています。

藍原の地形は、継体天皇が没した当時は原野であった可能性が大きく、『延喜式』には、摂津国島上郡にあると書いていますが、これは平安時代前期の陵墓掌握であって、それを根拠に真陵と判断するかは別ですが、太田茶臼山古墳がある茨木市は島下郡にあたり、後述の今城塚古墳のある高槻市は島上郡にあたります。

太田茶臼山古墳は 、江戸時代中期に継体天皇陵に治定されましたが、文献史学の立場からは、延喜式記載の所在地と異なるという問題点が早くから指摘されていました。

宮内庁による治定の変更は行われていないため(行われることはないと思いますが、出来る事だけで良いので、是非協力して調査を許可してください!)、今城塚古墳には一般市民も立ち入ることが出来ます(こちらは喜ばしい事です)。

2011年4月1日に高槻市教育委員会にて史跡公園として整備され、埴輪祭祀場等には埴輪がレプリカにて復元されています。

隣接する今城塚古代歴史館では、日本最大級の家型埴輪等が復元展示されています。

当初、織田信長が陣をひいた為に形が崩れたと推測されていましたが、慶長の地震によるものと分かっています。

今城塚古墳8
(全体図です)


今城塚古墳2
(埴輪!すごい数のレプリカです。)


今城塚古墳3
(造出は四角いです。)


今城塚古墳4
(前方部は堀になっています。以前は釣り堀だったとか)


今城塚古墳5
(後円部、学生がサッカーの練習していました。)


今城塚古墳6
(造出がはっきりわかります。)


今城塚古墳7
(後円部!小学生が鬼ごっこしてました。)


私が行った日も古墳の後円部の上では、子供達が鬼ごっこをしていて、周りの芝では高校生がサッカーの練習をしてました。

今城塚古墳9


結論は出ているように思えますが、それでは天皇の陵よりも一回り大きい、三嶋藍野陵(三島藍野陵、みしまのあいののみささぎ)に祀られておられる方は誰なんでしょうね?

新しい謎が出来てしまいます。

これも歴史に魅了されるゆえんですね。

継体天皇陵C
(では、太田茶臼山古墳、誰が埋葬されているのかな?)


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2016/02/22

真田信繁(幸村)死す!『安居神社』へお詣りして来ました。

「安居神社」は、慶長二十年(1615年)の大坂夏の陣の時、真田信繁(幸村)が最後を迎えた場所として有名です。

安居神社8
(真田幸村陣没の旧跡とあります)

菅原道真が九州太宰府に左遷されるおりに、船の風待ちの為に休息をとった場所から、安居天満宮とも呼ばれます。

安居神社1


安居神社2


慶長年間以前からあった神社ですが、創建された年はよく分かっておらず、少彦名神(すくなびこな)が祭られており、天慶五年(942)から菅原道真が祭られるようになったといわれています。
桜が美しく、歌川(安藤)広重も浮世絵の題材に使用しています。

現在は観光地というより、ごく普通の神社(はっきり言って場所も解りにくい?)ですが、真田信繁(幸村)終焉の地として、多くの歴史ファンか訪れるスポットになっています。

安居神社3



【豊臣家最後の作戦】

ここで、少し大阪夏の陣の豊臣軍最後の作戦についてお話します。

冬の陣の結果大阪城の堀割は全て(本丸周り以外)埋められてしまったために、豊臣軍は少数(三分の一ともいわれています)にもかかわらずらず野戦を余儀なくされます。

真田丸が取り崩され、廃棄せざるを得なかった信繁は、冬の陣で徳川家康が本陣としていた、茶臼山を第二の真田丸として整備します。

元々、茶臼山自体が古墳であり水堀も有りますし、家康が本陣と定めた位ですから、陣地としては打ってつけの場所であったと考えられます。

茶臼山1


茶臼山2
(茶臼山古墳、当日整備のため立ち入り禁止でした。残念)


しかしながら、豊臣軍は前日6月7日の道明寺の戦いで、善戦はしたものの 多勢に無勢の上に、連携の不備や天候(濃霧で集合時間がずれてしまった)までもが裏目に出て敗北してしまいます。

後藤基次(又兵衛)・薄田兼相らを失ってしまった豊臣軍は、士気を鼓舞するため豊臣秀頼の出馬を強く願うと同時に、決死の作戦に出ます。

真田信繁(幸村)は大野治房・明石全登・毛利勝永と共に作戦を立案します。


それは、右翼として真田隊を茶臼山へ、左翼として毛利隊を四天王寺付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して、徳川軍をおびき寄せて、家康の本陣を孤立させた上で、明石全登の軽騎兵団を迂回待機させ、合図と共にこれを側面から突撃させるという作戦だったと、されているます。

経過は、毛利勝永隊が先に戦闘を始めてしまったために、十分に徳川軍をおびき寄せることができずに、信繁は家康本隊だけに、的を絞った突撃戦を決行することになってしまいます。

しかしながら、先に銃撃を仕掛け戦闘を始めた毛利勝永は、先手を打った勢いに乗り、徳川軍先鋒大将の本多忠朝勢を壊滅させ、忠朝を討ち取り一番手を突破します。

また毛利勝永隊に追随して前進して来た木村重成(惜しむらく、前日の八尾・若江合戦で打死にしています)の残余兵である木村宗明らが、本多勢の救援に駆けつけた小笠原秀政、小笠原忠脩勢を側面から攻撃。

この不意打ちで忠脩は討死、秀政は重傷を負い戦場離脱しますが、後に死亡しています。


残る二番手の<榊原康勝・仙石忠政・諏訪忠澄の三隊も暫く持ち堪えるものの混乱に巻き込まれ崩壊、これらの敗兵がなだれ込んだ三番手も、同様の事態に陥り、徳川家康本陣は丸出しとなります。

信繁は、自隊を先鋒・次鋒・本隊など数段に分け、天王寺口の松平忠直隊と一進一退の激戦を続けていましたが、「紀州(浅野長晟)が裏切った」という虚報(真田忍軍が幕府軍に紛れて発したともいわれます)に松平勢が動揺するのに乗じて突破をはかると、毛利隊などに苦戦する徳川家康の本陣へ強行突破を図り、三度に渡り本陣へ猛突撃を加えました。

この乾坤一擲の攻勢に、家康本陣は恐慌状態に陥り、後退を余儀なくされます。

三方ヶ原の戦い以降一度も倒れたことのない家康の馬印も倒れたと記録されています。

さらに騎馬で逃げる家康自身も切腹を幾度もなく口走ったといわれます(一説には平野方面に逃げたと言われています)。

また、旗本の中には三里も逃げたものがいたとも言われています。


しかしながら、死力を尽くした信繁の突撃も最後には力尽きて、この安居神社で休んでいるところを発見されて、打ち取られたとされています。

安居神社には真田信繁終焉の地にさなだ松(二代目)がありますが、そこが信繁が打ち取られた場所(少し離れた場所との情報も有るようです)とされています。

安居神社5


安居神社4


家康をして『日の本一の兵』とまで言わしめた(事実は島津家の発言の様ですが)、真田信繁(幸村)の人気が衰えないのもうなずけるところです。

安居神社7


【もしものお話し】

真田信繁(幸村)・毛利勝永らの活躍により徳川方は叩かれ、家康本陣は崩れ、三方が原の敗戦以来、初めて馬印が倒され、家康も敗北を覚悟し切腹をしようとしたという話があった程の激戦です。

もし豊臣側にもう少しの政治手腕があったなら・・・

もし前日の濃霧が発生していなかったら・・・

もし豊臣秀頼が信繁等の呼び掛けに応じ出陣し、全ての予備兵力を戦線に注ぎ込んでいたら・・・

もし明石全登の別働隊の奇襲作戦が成功していたら・・・

もし家康が側近の翻意を聞かなかったら・・・


状況は大きく変化し勝利する事ができたかもしれませんね~。

やはり歴史は、もしもを想像出来るから面白いですよね。

真田信繁(幸村)ゆかりの場所を、色々巡りましたがこれで終わり?にさせて頂きます。

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2016/02/19

真田信繁VS伊達政宗!真田軍旗が残る『 志紀長吉神社 』

真田信繁(幸村)ゆかりの『志紀長吉神社』に行ってきました。

志紀長吉神社ホームページ

慶長20年(1615)大坂夏の陣、道明寺の戦い退却時に、真田信繁(幸村)が志紀長吉神社 「日蔭大明神」に戦勝を祈願し、みずから軍旗と刀剣を奉納しました。

刀剣は終戦後没収、軍旗はそのまま神社で保存しています。

志紀長吉神社1


志紀長吉神社2

志紀長吉神社3


志紀長吉神社4
(大河ドラマの影響は大きいです。)


神社の馬場にて休息した大鳥居そばには、信繁(幸村)休息所の碑が建立されています。

志紀長吉神社5
(お隣のお家も騒がしくて大変かもしれません。)


志紀長吉神社6


志紀長吉神社7
(気持ちはよくわかりますが、六文銭ですからね!)


【六文銭軍旗 (真田信繁奉納)】

赤地に黒の六文銭の旗は、あまりに有名な真田家の軍旗。

「大阪夏の陣図屏風」にも、その旗が見られる真田の赤備えとして恐れられました。

六文銭(六道銭)は三途の川の渡し賃(通行料)とされており、死者を葬る時に遺体と一緒に埋めるものでした。

真田家は家紋に六文銭を用いることで、戦闘や日頃の駆け引きであっても、死さえもいとわない、決死の覚悟を表したと言われています。

神社に奉納されている軍旗には、銃弾の穴が二つ開いていますが、伊達軍からの銃弾の跡とされています。

奉納軍旗は一般公開されています。

例年正月2・3日5月4日 午前10時~午後4時

平成28年のみ毎月第3日曜日も公開しているそうですが、私が訪れたのは、第1日曜日でした(残念)。

真田奉納軍旗
(神社のHPからお借りしました)


【信繁が志紀長吉神社に立ち寄った大阪夏の陣の戦いとは】

慶長20年5月6日、大和路から大坂城に向かう幕府軍35,000を豊臣勢が迎撃した道明寺・誉田合戦が行われました。

寄せ集め軍勢である豊臣方は、緊密な連絡を取ることができず(当日は濃霧が発生して集合時間にずれがおきたともいわれています)、後藤基次(又兵衛)隊2,800は単独で小松山に進出してしまい、伊達政宗、松平忠明ら2万以上の敵勢に攻撃を受け、後藤基次は討死してしまいます。

次いで到着した明石全登、薄田兼相ら3,600の兵も小松山を越えた徳川軍と交戦し、薄田兼相らが討死しました。

さらに遅れて真田信繁(幸村)、毛利勝永ら12,000の兵が到着し、真田隊が伊達政宗隊の先鋒片倉重長(小十郎)隊の進軍を押し戻します。

しかし豊臣方は八尾・若江での敗戦の報を受け、残兵を回収して撤退を決めます。

幕府方も連続した戦闘に疲弊したため、追撃はしませんでした。

道明寺合戦では真田信繁(幸村)は、退却時のしんがりを務めます。

そのとき残した言葉がとても有名ですね!「関東勢百万と候へ、男はひとりもなく候」

意味は(関東武者は百万居ても、男子は一人も居ないものだな) 。

徳川軍を嘲笑し悠然と去って行ったといわれています。

男前ですね~(*^^*)

ただ、伊達家の片倉重長にはなにかしら感じる所が有ったのか、その日の夜に長女、次男以外数名の子供たちを、信頼して送り届けています。

長女阿梅(おうめ) は片倉重長の後添いと成っていますし、次男は伊達家で真田の姓を名乗っています(信繁の血脈も現在まで続いたということですね)。

志紀長吉神社勝ち守り


ところで、神社で六文銭の勝ち守を購入したのですが。

真田信繁(幸村)は神社祈願の翌日残念ながら、亡くなってしまったんです。

御利益を疑うわけでは有りませんが、受験生の娘に渡すのを躊躇しているのは何故でしょうね(笑)。

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2016/02/17

真田丸から大坂城への抜け穴がある『三光神社』を検証する!

真田丸の検証でゆかりの神社を回ったのでご紹介します。

先ずは、真田丸の跡として有名に成った三光神社に出掛けて来ました。

三光神社は、大阪府大阪市天王寺区玉造本町の宰相山公園にある神社です。



「天照大神」「月読尊」「素戔嗚尊」の三貴神を祀っています。

三光神社2

三光神社9

三光神社7

三光神社は創建が十八代、反正天皇の時代ともいわれる由緒ある神社です。
創建以来、武内宿禰の末裔の武川氏が神職として奉職し、現在は86代目と伝えられています。
武内宿禰自体を、お祀りしている神社も多くある中で、ある意味すごいことです。


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三光神社6

社伝によれば、寛文元年(1661年)に一旦現在地の南東の鎌八幡の隣に遷座し、宝永3年(1706年)に再び現在地に戻ったという。かつては「姫山神社」と呼ばれ、一帯も「姫の松原」と呼ばれていました。

中風封じの神として有名な、陸前国宮城郡青麻(現 宮城県仙台市宮城野区)の三光宮(現 青麻神社)を勧請し、そちらでも有名になりました。

明治15年(1882年)の『大阪名所独案内』に三光宮を勧請した旨が書かれており、勧請はそれ以前ということになりますね。

明治41年(1908年)、姫山神社に境内社・三光宮を合祀し、社名を「三光神社」とした。3柱の神を祀ることから「三柱神社」とも、「日月山神社」とも呼ばれます。

大阪七福神のひとつでもあるこの神社は寿老神を祀り中風除けの信仰でも有名だ。毎年6月1日から7日まで中風除けの大祭として芽の輪くぐりの神事が執り行わています。

武内宿禰が長寿で 景行・成務・仲哀・応神・仁徳(第12代から第16代) 五代にわたり、時の天皇に仕えたことから寿老人と一体化しているようです。

三光神社8
(七福神巡りもいいですね)
ここの境内は、真田丸と呼ばれる出丸をこのあたりに築いた真田信繁(幸村)が、南惣構堀を隔てた大坂城内へ通じる抜け穴を大坂冬の陣の際に掘らせたとの伝承がまことしやかに?(結構堂々と)伝わっています(事実は別にして、今はそちらのほうが有名ですね)。

三光神社向け穴
(抜け穴は、大阪城方面の北に曲がっているようですが)

現在の抜け穴の入口は「真田の六文銭」文様入りの鉄の扉で閉ざされ、勿論、中に入ることは出来ません(抜け穴公開日があると聞きましたが?)。

その右側には、信州上田の真田家菩提寺である長谷寺より取り寄せた、真田石を台座としてライオンズクラブ寄贈の真田信繁(幸村)像が建っています。

三光神社3
(真田幸村像台座が真田石です)

ただし、「真田の抜け穴」と呼ばれるこの抜け穴、正確なところは怪しいのが実状です。

そもそも、この境内は真田丸の中心(現在の明星中学校)から東に200メートル以上離れており、真田丸(約100間)の外側だったと考えられます。

戦前(世界二次大戦)は7か所の穴があり、子供たちの遊び場になっていたようですが、危険との判断から三光神社の物以外は埋められたそうです。

実際のところ、冬の陣の折に籠城を決め込んだ大坂方に業を煮やした徳川家康が(理由は以前に報告しました)掘らせたものとする説が正しいかもしれません。

とはいえ、小さいけれど素敵な神社です。歴史散策にぜひいらしてください。


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2016/02/13

真田丸の検証の為に現地視察してきました。

以前、スクープ第3段で真田丸の古地図を公開しましたが、その後テレビ等での検証を見ていると、私の考えが少し変わって来たので再度修正報告します。

歴史学者では無いので、自説を曲げるなんてへっちやらな処が、素人歴史マニア?の良い所です。

大阪冬の陣!両軍の陣立て古地図を発見して、真田丸の真の姿が判明出来たと思ったのですが?

前回披露した図面写真を見て頂きましょう。

大阪冬の陣の一部、真田丸に間違い有りません!


真田丸


前回、出所については、差し障りが有り公開できないと申し上げておりましたが、検証の必要性から、ある程度の情報は公開する必要があると考えました。

保存舘(戦国時代のテーマ館等ではありません)の方には決して、迷惑が掛からない様、名前と場所は控えたいと思います。

大阪冬の陣で、真田丸の南東一番近くに布陣していた南部家、南部利直(前田利家に気に入られて名前の一字を拝領しています)側近の新渡戸家(子孫の新渡戸稲造は旧5000円札になっている有名人です)

研究等の目的で必要性が有ると思われた方は、連絡を下されば、保存館と場所をお教えいたしますので、保存舘の方へお問い合わせ下さい。

大阪城天守閣に展示の、真田丸図面は浅野家の物「浅野文庫 諸国古城之図―大阪真田丸」だったと思います。

NHKの「歴史秘話ヒストリア」ではこの古図面が現実の真田丸(真田丸は●ではなくて■だった。)に近いと推定していました。

以下その他のNHK推定を述べます。

浅野家真田丸
(こちらですね)


真田丸航空写真
(航空写真「Googleからお借りしました」と比べてください)

Google地図明星中学校近辺地図でも確認してください。

浅野家図面北東隅に描かれている寺、上から「心眼時」「高徳寺」「大慶寺」が現在の寺と同位置ならば、寺町台地を利用して真田丸を構築したと考えられる。

寺町は真田丸が築かれる以前から存在し、戦いは原原ではなく町中で行われた。

徳川軍には狭い寺町を抜けると深い掘が待ち構えて(堀についても地中レーダーで深さ8メートル幅40~50を確認)、大軍故に退却も出来なかった等です。

一方、真田丸の北側は深い谷ばかりで、大阪城から孤立した砦(城塞)と成っており、大阪城内からの兵担(援軍や兵糧・弾薬)の補給が無かったと推定し、独立した城と呼べるものだったとしていました。

前回の投稿で、いくつかの謎について説明しました。そのなかの「孤立無援の城」については、NHKも、それなりの結論を引き出してました。

真田丸跡とされる、「三光神社秘密の抜け穴が存在して城内とつながっていた」の事も書きましたので、実際に見てきました。

三光神社向け穴


抜け穴方角が西に向いていて(内部で北に向かっているとのことですが)、大阪城とつながっていたとは考えにくく、抜け穴の機能があったとすれば真田丸からの、物見の出入りに使われた可能性のほうが大きいと感じました。

さらには、徳川方が攻撃(デモンストレーションも含めて)の為に作った、真田からの鉄砲避けの塹壕とも考えられます。

NHKの説明について、いくらかの私なりの疑問も感じましたので、考察してみた。

真田丸に一番近い位置に布陣していた南部家は(その他の大名家も)なぜ四角い真田丸を半円型に記録したのでしょう?

一つ目は、四角い南東側の角に布陣していた南部家からは、実際にそのように見えたと考えられます。

二つ目は、真田家得意(武田家家臣時代からの伝統戦法)の丸馬出し(城門から飛び出す出撃用陣地)と考えたからではないでしょうか。

三つ目は惣構(空堀)が南北にずれる場所にあたり、惣構がほぼ直線と考えた諸侯は飛び出した真田丸を半円形と考えたと思います。

次に、真田丸と大阪城の連絡補給についてですが、空堀上の橋の存在は確実とはいえなく成りましたが、北に連絡路が有り大阪城内との連係が有ったことは、「木村重成」「長宗我部盛親」「後藤基次」等との連係作戦も、成功している記載も有りますので、確実と思えます。

門は南と東側に2つ、石垣もしくは崖上に塀囲い、2層?の櫓も見られますし、前方左手に池があり、お堀の呈であることも両図面から想定されます。

寺や寺町を利用することで、兵の進駐が容易で、当事瓦を使用していた寺を使用した、防火能力も流石といわねば成りませんね!攻撃方向(路地)が決められてしまう寺町での構築もよく考えられています。

航空写真と浅野家の図面と比較してみて下さい、ほらもう結論は出ていますね。

大きさを浅野家図面通り(百間)とする約180メートル+α四方と考えて推定すると。

上記三寺の位置、明星高校、比較してください。

比べていただきますと、寺の配置から、空堀町へ下る道路の湾曲まで当時そっくりそのまま残っていると感じませんか?

【結論】
真田丸の場所、東側は上記三寺「心眼時」「高徳寺」「大慶寺」外縁道路か、陸軍墓地へ下るまでの高台で、三光神社までは少し距離(150メートル以上)がありすぎるので城外と考えます。

西門は明星高校正門辺りまで、南側は大圓寺辺りの道路下のレーダー探査を信じる事にします。

心眼寺
(真田丸北の端になるはずです。)

心願寺2

心願寺3
(お墓もあり、供養されてました。)

心願寺4

心願寺5

心願寺から空堀町
(心眼寺前から空堀方面、かなり下っています。大阪城との連絡路があったと考えられます)


心願寺裏
(心眼寺裏手、高いです。当時でもかなりの崖だったのかも、簡単に登れるとは思えません。)


心願寺裏2
(陸軍墓地へさらに下ってます。三光神社はその先でさらに下ります。)


明星学園
(真田丸の中心部!子供たちは知ってるかな?)


明星学園2
(明星高校前、空堀町側に下り始めています。)
明星学園3
(立派な学校!写真を撮っていると守衛さんににらまれてしまいました。笑!)

寺町通り
(寺町通り、この先に、深さ8メートル幅40メートルの堀があったはずです。)

私はこれが、真田丸跡と確信しました。

歴史に「if」は禁句ですが、あえて関ヶ原の戦い、大阪冬の陣、夏の陣でもし豊臣方が勝利(私は紙一重の差だと考えますので)をおさめていたならば!

現代の日本はどの様に成っていたでしょうか?首都は大阪ですよね、関西弁が標準語ですか?

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2016/02/09

京都御所の鬼門を鎮守する、『おさるさん』のお話!

恵方巻の時に、京都御所の鬼門の角が欠けている?お話で、写真を使おうと思っていたのですが、年末にPCが壊れて保存写真も飛んで行ってしまった様子なので、岩清水八幡宮の写真を使わせて頂きましたが、やはり本物でなきゃ駄目でしょう!ということで、7日(日曜日)撮影してきました。

御所鬼門


御所の築地塀が折れ曲がった、鬼門の屋根裏に、木彫りの猿がいるの見えますか?

烏帽子をかぶり御幣をかついだこのおさるさん、御所の鬼門を守る比叡山延暦寺の地主神、日吉山王神社の使いです。 北東の方向(丑寅「うしとら」の方角)は悪い鬼が入ってくると信じられ、表鬼門とされてきました。

猿は、難が去る(猿)とかけて、鬼門を守る魔除けなのです。

しかしながら、夜な夜な抜け出して悪さをするので、逃げないように、金網で囲まれて逃げ出せないようにされてしまったそうです

猿が辻


この猿の名前から、鬼門が有る辺りを、猿が辻とよぶのですが、守る猿を閉じ込めたせいなのか?高札にも有るように江戸時代末期に事件も起きているようですね。

猿が辻高札


【猿ヶ辻の変】

当時、このあたりは公家屋敷の軒の混んだ、昼でも薄暗いところだったといいます。

朔平門外の変(さくべいもんがいのへん)とも言われます。江戸時代末期の文久3年5月20日(1863年7月5日)、尊王攘夷を唱える過激派公家として知られた姉小路公知(右近衛少将、国事参政)が、禁裏朔平門外の猿ヶ辻で暗殺された事件です。

一殿上人の暗殺に留まらず、当時の中央政局に大きな影響を与え、同年の八月十八日の政変 、文久の政変(ぶんきゅうのせいへん)が起きる切っ掛けになりました。

文久3年8月18日(1863年9月30日)、会津・薩摩を中心とした公武合体派が、長州を主とする尊皇攘夷派を京都から追放したクーデター事件です。

文久の政変堺町門の変とも呼ばれる。

たかが猿一匹されどですね。

流石に京都は歴史の宝庫です!

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2016/02/07

楽しくて夢中になった『寺社仏閣巡り御朱印の旅』④

最後に?簡単に御朱印集めができる方法として、私もたまに利用するバスツアーについて少しお話しましょう。

有名な四国四十八ヵ所霊場巡りや西国三十三観音霊場巡り等の御朱印集めを簡単に出来るツアーが、毎年企画されています。
今年は閏年なので、四国四十八ヵ所霊場巡りでは、逆打ち(逆回り、巡ることを「打つ」と表現します)という御利益三倍の年なんです。

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2016/02/06

昨年考古学の話題を独占した『松帆銅鐸』現地説明会データを公開します。

南あわじ市出土の松帆銅鐸!スクープ第4段と言いたいのですが、少し?古くなってしまいました。

発見の状態をNEWSで聞いて、これは国宝に指定されるかもしれないと考えて、現地説明会なら写真に取れると勇んで行ったのですが、もう撮影は出来ませんでした。

まさか自分がブログを始めることも考えていなかったので。

そこでその時配布された資料を開示したいと思います。

『松帆銅鐸のここがすごい!』

【南あわじ市内で銅鐸7点が同時に出土】

平成27年4月、石材製造販売会社の砂山から、弥生時代前期~中期前半(紀元前3~2世紀頃)に製作された古い段階の銅鐸7点が発見されました。

7点のうち1点は、これまでに全国で11点しか確認されていない最古段階の菱環鈕式銅鐸で、淡路島では中川原銅鐸に次いで2例目となります。

【青銅製舌が7本出土】

銅鐸の中に吊り下げて音を鳴らすための棒を舌と言います。全国で始めて、舌が銅鐸の内部に入った状態で発見されました。

また、菱環鈕式銅鐸と舌が一緒に出土したのも始めてです。

【3組が入れ子で出土し、うち2組が入れ子状態を維持】

これまで入れ子状態を維持したまま内部を調査できたのは、島根県加茂岩倉銅鐸のみでした。

今回が2例目となります。

【銅鐸がまとまって出土した(複数埋納)数としては全国で4番目】

①島根県加茂岩倉銅鐸39点
加茂岩倉1
②滋賀県大岩山銅鐸24点
③兵庫県桜ヶ丘銅鐸14点
④松帆銅鐸7点
④徳島県星河内銅鐸7点
⑥島根県荒神谷銅鐸6点
荒神谷3
⑦長野県柳沢銅鐸5点

【銅鐸はすべて「聞く銅鐸」】

銅鐸の内面の裾にある出っ張り(内面凸帯)は、中央付近が非常に磨滅していることがわかります。

舌1は鋳型の会わせ目の一部に磨滅が見られることから、銅鐸の中に舌をぶら下げて鳴らしていたと考えられ、古い段階での銅鐸は音を聞く銅鐸であることを再確認できました。

【山でも集落でもない場所からの出土】

銅鐸の多くは人里離れた山腹や丘陵から発見され、集落の中やその周辺でも見つかることごがあります。

しかし、松帆銅鐸が埋められたのは、慶野海岸に近い地域の砂地と推定されます。

【青銅器の島・淡路島】

島内からは伝承も含め21点の銅鐸が出土していますが、古い段階である(聞く銅鐸)ばかりが出土する特異な地域です。

また過去には同じ松帆地区の古津路から古いタイプの銅剣14本が出土していることから、この地区は青銅器埋納地として重要な地域であったといえます。


【展示物】

実物展示
松帆銅鐸 1号,2号,5号

松帆銅鐸2


パネル展示
3号,4号(入れ子) 6号,7号(入れ子)
奈良文化財研究所で鑑査のための調査中によりパネル展示

今回調査された2組の「入れ子」内部のCTスキャンの画像を展示

松帆銅鐸


その他に、南あわじ市内の国指定重要文化財の銅鐸3点のレプリカを展示してありました。

(1)横帯紋銅鐸 (2)袈裟襷文銅鐸・舌 (3)袈裟襷文銅鐸
((1)は中川原出土、(2)(3)は慶野「中の御堂」出土)

昨年見られなかった方々は、シンポジウム「松帆(まつほ)銅鐸(どうたく)の大発見と謎」が2月7日午後1~4時半、兵庫県南あわじ市市三條の中央公民館で開かれるそうです。

シンポジウムは難波洋三・奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長の基調講演後、和田晴吾・兵庫県立考古博物館長をコーディネーターに3人の研究者が加わり意見が交わされるようですね。

銅鐸も2月9~21日、同市内で公開されるようです。

玉青館 南あわじ市滝川記念美術館(兵庫県南あわじ市松帆西路1137-1)

是非!古代の伊吹に触れて下さい。

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2016/02/02

楽しくて夢中になった『寺社仏閣巡り御朱印の旅』③

お詣りの着衣ですが、それほど気にしておりません。

特別なお詣りでなければ、ラフなスタイルでも問題ないと思います(私見です)。
鳥居や門をくぐるるとき、お祈りの時には、帽子を脱ぐのは当然ですが、それ以外では、常識の範囲内であれば良いと思います。

私のこだわりは、お寺巡りはネットで購入した輪袈裟(宗派によって違うのでオールマイティな物)を掛けております。神社に参拝する際には、島根玉造の碧玉(深みのある青緑の勾玉)のネックレスを着用することにしています(笑)。

碧玉


わげさ

四国霊場八十八ヶ所巡りのバスツアーでは一回目と二回めは一番札所『霊山寺』で、お遍路装束全てを、揃えられる様になっていますが、これも気持ちの問題で、ネットでの購入の方がお得な場合が多いと思いますし、ファッションにこだわらなくても良いと思います。

しかしながら、こだわりたくなるのが、人間の性ですよね、私が御朱印集めに夢中になるのも、こだわりの表れです。

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2016/02/01

鎬(しのぎ)と面取りに魅了された『俊彦窯』

大阪万博公園の中大阪日本民芸館にミュージアムSHOPが有るのをご存知でしょうか?

その陶芸部門では先に紹介した出西釜湯町釜、それに、今回紹介する丹波焼の『俊彦窯』もあります。

俊彦窯


是非一度、工房に伺いたいと思っておりましたが、今回お休みを利用して行ってまいりました(といっても自宅から丹波焼きの今田地区迄30分程です)。

清水俊彦・剛さん親子が作陶しておられる窯です。

俊彦さんは、あの河井寛次郎の孫弟子に当たられるそうです。

日本民芸館で紹介されるには、それなりの訳があると思います。

俊彦経歴
(経歴も素晴らしいですね)


私が購入させていただいた、皿や蓋つきの物入れを、見ていただいてもわかりますように、鎬と呼ばれる稜線を出すための、削り取りの技法が特徴的で、素晴らしい熟練の技をみせておられます。

「刀の鎬を削る」に言葉が残るように、ギリギリのテクニックだと思いませんか?

もう一つの特徴は面取りなんですが、予算不足で今回は、断念しました。

私の先生もそうなんですが、ざっくりとけれんみなく面取りするのは難しいと感じます。

よその陶器を見ていると、やはり躊躇が感じられる事もあります。

予算不足で断念と書きましたが、決してお高い値段では無いと思います(むしろお安いと感じました私の懐具合の問題です)。

俊彦さんはお優しくて、楽しくお話をさせていただきましたが、一昨年梅田での展示会中に脳梗塞で倒れられたとか、「皆の前で助かった」と話されておりました。

体をお大事に、まだまだ作陶頑張っていただきたいと思います。

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