天皇陵墓なのに唯一遊べる『継体天皇陵』
第二十六代継体天皇は謎の多い天皇です。
継体天皇はそれまでの天皇とはかなり離れた血筋の人物で、西暦507年の即位後に大和国の都に入るのに19年もかかっています。
つまり即位に賛否両論?あったようなのです。
そして歴史的に実在と系譜が明らかな最初の天皇としても知られています。
この謎の多い継体天皇陵墓が二つも有る、らしいので、見に行って来ました。
当然ですが、一つは偽物?(別物)ということに成りますね。
ではどちらが本物なのか考えてみましょう。
継体天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府茨木市太田3丁目にある三嶋藍野陵(三島藍野陵、みしまのあいののみささぎ)に治定されています。
公式形式は前方後円。考古学名は太田茶臼山古墳です(前方後円墳、墳丘長227m)。
本古墳の築造時期は、5世紀の中頃とみられています。
一方、大阪府高槻市郡家新町の今城塚古墳(前方後円墳、墳丘長190m)から多量の埴輪群が発掘され、6世紀前半の築造と考えられることから(継体天皇は在位507~531年ですから)、同古墳を真の継体天皇陵とするのが定説になっています。
さらに『日本書紀』では、継体天皇25年(531年)2月に磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)で崩御したとあり、同じ年の12月に藍野陵に葬られたと記載されています。
『古事記』には三島の藍の御陵と記載しています。
藍原の地形は、継体天皇が没した当時は原野であった可能性が大きく、『延喜式』には、摂津国島上郡にあると書いていますが、これは平安時代前期の陵墓掌握であって、それを根拠に真陵と判断するかは別ですが、太田茶臼山古墳がある茨木市は島下郡にあたり、後述の今城塚古墳のある高槻市は島上郡にあたります。
太田茶臼山古墳は 、江戸時代中期に継体天皇陵に治定されましたが、文献史学の立場からは、延喜式記載の所在地と異なるという問題点が早くから指摘されていました。
宮内庁による治定の変更は行われていないため(行われることはないと思いますが、出来る事だけで良いので、是非協力して調査を許可してください!)、今城塚古墳には一般市民も立ち入ることが出来ます(こちらは喜ばしい事です)。
2011年4月1日に高槻市教育委員会にて史跡公園として整備され、埴輪祭祀場等には埴輪がレプリカにて復元されています。
隣接する今城塚古代歴史館では、日本最大級の家型埴輪等が復元展示されています。
当初、織田信長が陣をひいた為に形が崩れたと推測されていましたが、慶長の地震によるものと分かっています。
私が行った日も古墳の後円部の上では、子供達が鬼ごっこをしていて、周りの芝では高校生がサッカーの練習をしてました。
結論は出ているように思えますが、それでは天皇の陵よりも一回り大きい、三嶋藍野陵(三島藍野陵、みしまのあいののみささぎ)に祀られておられる方は誰なんでしょうね?
新しい謎が出来てしまいます。
これも歴史に魅了されるゆえんですね。
いつも応援ありがとうございます。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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継体天皇はそれまでの天皇とはかなり離れた血筋の人物で、西暦507年の即位後に大和国の都に入るのに19年もかかっています。
つまり即位に賛否両論?あったようなのです。
そして歴史的に実在と系譜が明らかな最初の天皇としても知られています。
この謎の多い継体天皇陵墓が二つも有る、らしいので、見に行って来ました。
当然ですが、一つは偽物?(別物)ということに成りますね。
ではどちらが本物なのか考えてみましょう。
継体天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府茨木市太田3丁目にある三嶋藍野陵(三島藍野陵、みしまのあいののみささぎ)に治定されています。
公式形式は前方後円。考古学名は太田茶臼山古墳です(前方後円墳、墳丘長227m)。
(宮内庁の管理もちろん入れません。)
(堀もあるから無理ですけど。)
本古墳の築造時期は、5世紀の中頃とみられています。
一方、大阪府高槻市郡家新町の今城塚古墳(前方後円墳、墳丘長190m)から多量の埴輪群が発掘され、6世紀前半の築造と考えられることから(継体天皇は在位507~531年ですから)、同古墳を真の継体天皇陵とするのが定説になっています。
(説明もしっかりしてます。)
(よく整備されていますね。)
さらに『日本書紀』では、継体天皇25年(531年)2月に磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)で崩御したとあり、同じ年の12月に藍野陵に葬られたと記載されています。
『古事記』には三島の藍の御陵と記載しています。
藍原の地形は、継体天皇が没した当時は原野であった可能性が大きく、『延喜式』には、摂津国島上郡にあると書いていますが、これは平安時代前期の陵墓掌握であって、それを根拠に真陵と判断するかは別ですが、太田茶臼山古墳がある茨木市は島下郡にあたり、後述の今城塚古墳のある高槻市は島上郡にあたります。
太田茶臼山古墳は 、江戸時代中期に継体天皇陵に治定されましたが、文献史学の立場からは、延喜式記載の所在地と異なるという問題点が早くから指摘されていました。
宮内庁による治定の変更は行われていないため(行われることはないと思いますが、出来る事だけで良いので、是非協力して調査を許可してください!)、今城塚古墳には一般市民も立ち入ることが出来ます(こちらは喜ばしい事です)。
2011年4月1日に高槻市教育委員会にて史跡公園として整備され、埴輪祭祀場等には埴輪がレプリカにて復元されています。
隣接する今城塚古代歴史館では、日本最大級の家型埴輪等が復元展示されています。
当初、織田信長が陣をひいた為に形が崩れたと推測されていましたが、慶長の地震によるものと分かっています。
(全体図です)
(埴輪!すごい数のレプリカです。)
(造出は四角いです。)
(前方部は堀になっています。以前は釣り堀だったとか)
(後円部、学生がサッカーの練習していました。)
(造出がはっきりわかります。)
(後円部!小学生が鬼ごっこしてました。)
私が行った日も古墳の後円部の上では、子供達が鬼ごっこをしていて、周りの芝では高校生がサッカーの練習をしてました。
結論は出ているように思えますが、それでは天皇の陵よりも一回り大きい、三嶋藍野陵(三島藍野陵、みしまのあいののみささぎ)に祀られておられる方は誰なんでしょうね?
新しい謎が出来てしまいます。
これも歴史に魅了されるゆえんですね。
(では、太田茶臼山古墳、誰が埋葬されているのかな?)
いつも応援ありがとうございます。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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