2016年01月 - 「高天原の縁側日記」
FC2ブログ
2016/01/30

日本で初めてジーンズをはいた、日本一格好いい男!「白洲次郎 」

皆さんは、白洲次郎を知ってますか?

太平洋戦争で敗北した日本の心を守るために奔走した、このたぐいまれなる人物の存在を、私が知ったのは、夫人でエッセイスト白洲正子の本からです。

白洲正子は旧華族樺山侯爵家のお嬢様で、画家「黒田清輝」の『湖畔』『読書』が実家リビングに飾って有ったという凄いお家です。

日本文化に造詣が深く、本を何冊かは読んでいたのですが、夫白洲次郎の事は余り知りませんでした。

民芸の事を調べるうちに、もう一度白洲正子を調べる機会があり(民芸運動の柳宗悦や甥とも知り合いの様で)、夫次郎の事を知り、びっくりして本を買って読んでみました。

『白洲次郎 占領を背負った男』 北 康利

占領を背負った男
(人間、白洲次郎を紹介したいと思いますので、北さんには申し訳ないのですが、この本以外の白洲次郎に関する資料も読んでいただけたらと思います。)


国土を他国に占領されるという、日本国としては歴史上初めての経験、日本人は自信を失い、GHQの顔色伺いに終始していました。
そのような時、白洲次郎は吉田茂外務大臣の要請で、終戦連絡事務局参与となり、GHQとの交渉にあたりました。

GHQに対して卑屈な官僚や政治家の中にあって、次郎は筋を通し、一歩も退く事は有りませんでした。

GHQは舌を巻き、「従順ならざる唯一の日本人」と、本国に連絡したとの記録が残っています。

本の中には次郎らしい、代表的なエピソードがいくつか記録されていますので、紹介しましょう。

昭和20年12月のクリスマス。白洲次郎はマッカーサー司令長官に、昭和天皇陛下からのプレゼントを届けることを依頼されます。

長官部屋の机の上はすでにプレゼントでいっぱい、マッカーサーは「そのあたりにでも置いてくれ」と言って床の絨毯を指さします。

すると次郎は血相を変え「いやしくもかつて日本の統治者であった者からの贈り物を床などにおけとは何事ですか!」と叱り飛ばし、贈り物を持って帰ってしまおうとします。

さすがのマッカーサーもあわてて謝り、急いで新しい机を運ばせたそうです。

「日本は戦争には負けたけれども、奴隷に成ったわけではない」が次郎の口癖でした。

またある時、GHQ民政局長ホイットニー将軍が「白州さんの英語は大変立派な英語ですね」とお世辞を言いました。

そこには、勝者としての奢りが込められていたはずです。

これに対して、次郎は「あなたももう少し勉強すれば、立派な英語がしゃべれますよ」と答えたといいます。

サンフランシスコ講和条約への出発時の服装は、首席全権委員の吉田茂首相は羽織袴で、二郎はTシャツにジーパン、ポケットにウイスキービン(きっとスコッチですね)だったようです。

日本人が歴史上、最も自信を喪失し卑屈になっていた時期、支配者に対し、日本人の気概を示した唯一の人物が白洲次郎でした。

この姿こそ、まさに「カッコいい」と言えませんか?

そんな、破天荒な行動力と痛快な逸話ですっかり白洲二郎に魅了されてしまいました。

次郎の遺言は『葬式無用、戒名不要』の一行のみ、格好良すぎます。

お墓に御参りしてビックリ!死してなお格好いいって・・・

月心院
(白洲次郎が眠る三田市心月院、織田水軍九鬼家の菩提寺でもあります。)


白洲次郎の墓
(確かに、戒名ありません。右次郎の墓石には不動明王の梵字、左正子の梵字は十一面観音です。)


次郎は自分という人間の「筋」『プリンシプル(生き方の大原則)』と呼んでいました。

夫人の正子は、彼の人物を評して「直情一徹の士」「乱世に生きがいを感じる野人」と呼んでいたようですが、現代の若者に是非知っていただきたい人物「白洲次郎!」そして是非読んで頂きたい一冊です。


いつも応援ありがとうございます。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・FC2ブログランキングバナー「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。
👇





関連記事
  
2016/01/27

民芸運動の産みの親、「柳宗悦」著書『手仕事の日本』『民芸とは何か』

やはり、民芸の素晴らしさを吹聴している私としては、これは外せないですね。

柳宗悦『用の美』をテーマに、使う道具の美しさを再確認しようという運動を、仲間たちと行った思想家です。

柳宗悦の『手仕事の日本』『民芸とは何か』は各地に眠っている民芸品の素晴らしさを紹介した本と、その思想を説明した本です。

手仕事の日本


昭和初期位の執筆なので、現在の民芸(民芸品)の状況とはかなりの違いも有ります。

つまりは、彼らの運動が功を奏して、本のなかでは「もうなくなってしまいました。」と記載されている民芸品も、復活して伝承館等が各地に建設、運営されています。

先日、新聞紙面で、日本の手仕事の良さに感化される若者も、増えているという記事を見ました(素敵な事ですね)。

写真に写っているブックカバーも、本のなかでは「不幸にも跡を断ちました」と柳宗悦がが書いている島根県安来市の「広瀬絣」のブックカバー(広瀬絣伝承館で購入)なんです。

『用の美』を追求して、復興、復旧に尽力した柳宗悦浜田庄司河井寛次郎バーナードリーチ等の努力は決して無駄ではなかったと言うことですね。

民芸とは何か


こちらの本と一緒に写っている巾着は、青森県津軽地方のこぎん刺し(この細工で2000円ほどですからコストパフォーマンス高いです)という民芸品です(京都東寺の弘法市で、購入した物です)。

東北地方のファンでもある私が、こぎん刺しを少しだけ説明させて頂きます。

【津軽こぎん刺し】

こぎん刺しとは、約300年前に青森県津軽地方の農民の知恵から生まれたもので、農民の野良着のことを「こぎん」と呼んだためこの名前がついています。

当事、津軽地方では綿の栽培ができなかったため、農民は野良着や普段着に綿製品を使用することを禁止され、麻布を着ていました。

しかし、麻布は繊維が荒く雪国の厳しい寒さを防ぐことができなかったために、麻の布目に白の木綿糸を刺繍して縫いこむことで、当時貴重だった布の耐久性と保温性を高めたのが始まりです。

次第に様々な模様ができて、実用性の上に装飾性が加わり、民芸品としての価値が高まりました。

基本になる模様は30種類余りあり、地域によってその名称も多少違うようですが、身近な生活の中から創意工夫されてきたものです。

陶芸を趣味にしている私のブログでご紹介した全ての窯元は、この本『手仕事の日本』のなかで、「頑張っている」等の称賛紹介されている釜元です。

私も、但馬の柳宗悦目指して(笑)、少しその様な活動に協力出来ればと考えて、陶芸教室に通い、民芸品を見に東奔西走しています(大それた考えですが)。

素敵な民芸品を見つけると、皆さんがこれら日本の伝統美を気に入られて、手にとって頂けたらと心から思っています。

いつも応援ありがとうございます。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・FC2ブログランキングバナー「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。
👇





関連記事
  
2016/01/25

天空の城!日本のマチュピチュ『竹田城』の登山報告します。

天空の城として全国的に有名になった『竹田城』を紹介します。

但馬生まれの私には、小学生の遠足でも行った慣れ親しんだ、城跡です。

入山日は、一昨年だったと記憶しています。





【竹田城概要】

縄張りが虎が臥せているように見えることから、別名虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)と呼ばれます。

また城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしば円山川の川霧により霞むことから、天空の城日本のマチュピチュとも呼ばれる。雲海に浮かび上がる古城の累々たる石垣群の威容は本当に美しいです。

東に立雲峡を望む標高353.7mの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは南北約400m、東西約100m。

天守台をほぼ中央に配置し、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する一郭があるそうです。

廃城から約400年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模となっています。

城主は幾度か変わっていますが、第一次但馬平定で羽柴秀長が攻め落として城主になっています。

1600年関ヶ原の戦で最後の城主赤松氏が西軍に味方したために、廃城と成り現在の姿に成っています。

【写真提供:吉田利栄】

写真は朝来市ホームページの竹田城跡からお借りしました

つまり、石垣しか残っていないのですが、そこが綺麗なんです。

しかしながら、これほど、一気に注目を浴びるとは思ってもいませんでしたが、写真で見ると納得ですね。

以前、角川映画の天と地上杉謙信春日山城にするために、掘っ立ての?城を造ったことが有りました。


高倉健
さん最後の主演作品映画『あなたへ』のワンシーンにも使われましたね。

大河ドラマ『軍師官兵衛』では冒頭で豊臣秀吉の小田原攻めの一夜城(歴史好きの方々はご存知ですね)を彷彿とさせるシーンに使われていました。

(本丸跡)


(南方、播磨方面を望む、羽柴秀長の軍勢がよく見えそうです)


(但馬北部を望む)


実際の美しさは、対面の山から撮影した雲海の映像(お借りした写真)や、パラグライダーで撮影した映像が美しいと思います。

人気の出過ぎで石垣が傷み、修理のために天守へは、上がれなく成っているとか?

石垣は、基本的には天然の自然石を積み上げる野面積みです。穴太衆と呼ばれる、戦国時代から続く特殊な技術者によって組み上げられています。

一般に野面(のずら)積み、もしくは、穴太(あのう)積みと呼ばれ、滋賀県の大津市坂本近くにある穴太の石工集団が積んだ石垣のことを云います。

坂本へ行くと滋賀院門跡等、あちこちで穴太積みといわれる石垣を見ることが出来ます。

穴太でこうした石垣を積む技術をもった集団のことを「穴太衆」と称しているようで、近年でも子孫?の方々が高知城の修復をされているニュースを拝見しました。

現在は(今日は寒波でとても登れないでしょうが)冬季入山不可の時期で、登ることはできませんが、全国の城ファンにぜひ、いらしていただきたいと思います。

いつも応援ありがとうございます。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・FC2ブログランキングバナー「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。
👇




関連記事
  
2016/01/24

楽しくて夢中になった『寺社仏閣巡り御朱印の旅』②

引き続き、神社巡り御朱印の旅のお話です。

お参りの手順ですが、神社ならまず鳥居を通る時に(被っていれば、帽子を脱いで)軽く一礼して境内に入ります。

参道は端を通ります(真ん中は神様の通り道)。

出雲大社参道
(出雲大社は柵で真ん中は通れません)


「三年のご愛顧感謝します」
新規ブログがが始まりました。

記事は以下のアドレスに移動しました。

癒しとストレス解消の遺跡・史跡・城跡・寺社仏閣巡り、きっとあなたは日本が好きになる

     99%歴史が好きになるブログ「高天原の縁側日記」

~縄文・弥生時代から近現代まで、日本の歴史と文化の旅に神様目線で旅立とう~
関連記事
  
2016/01/22

鳥取県日吉津イオンの丼屋さん「山芳亭」をお薦め!

いつも出雲方面に旅行に行くと、帰りに日吉津のイオンによって(駐車場端の新鮮市場の中にある) 『山芳亭』海鮮丼を食べてから帰る事にしています。

Google map「山芳亭」

『山芳亭』は11時半の開店ですが、仕入れがなくなり次第に、メニューが消えていき、2時過ぎに閉店します。

何を食べても、境港から直送の新鮮なお魚はとてもおいしいので、これまではあまり時間を気にしていませんでした。

昨年6月に伺ったときに一日二人限定の特別メニューが有る事に気付き、夏に子供達と大山登山したとき、妻の(足を捻挫して登山を断念)暇潰しに、勧めてみたのですが、それがあまりに凄くお得だと思ったので紹介します。

刺身定食 952円+消費税です。

(どうだ~って感じじゃありませんか?)
一日二食限定なので、11時には並ばないといけないかも知れません?

妻は幸運にも、一番でした(笑)

凄くないですか?これで1000円です(ノンアルコールビールも付いてます)。

他の丼も美味しいですし、海鮮丼は特にコストパフォーマンス最高だと思っていましたが、この刺身定食は原価割れしているとしか思えません。

是非皆さんも、山陰の美味しいお魚を食べに『山芳亭』へいらして下さい!

いつも応援ありがとうございます。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・FC2ブログランキングバナー「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。
👇




関連記事
  
2016/01/19

楽しくて夢中になった『寺社仏閣巡り御朱印の旅』①

寺社仏閣をめぐるときの楽しみ御朱印!

数年前から、御朱印収集がブームになっていると知ってはいたのですが、自分がこれ程までに、夢中になってしまうとは思わず、自分でもびっくりしています。

「三年のご愛顧感謝します」
新規ブログがが始まりました。

記事は以下のアドレスに移動しました。

癒しとストレス解消の遺跡・史跡・城跡・寺社仏閣巡り、きっとあなたは日本が好きになる

     99%歴史が好きになるブログ「高天原の縁側日記」

~縄文・弥生時代から近現代まで、日本の歴史と文化の旅に神様目線で旅立とう~
関連記事
  
2016/01/17

「古事記」の神話を巡る出雲の旅!『黄泉比良坂』

私がお薦めする『古事記』出雲神話巡りの旅を紹介します。

前出の私お薦め本、「山陰の『古事記』謎解き旅ガイド」に従って出来るだけ、紹介したいと思います(未だ旅行していない所も有りますが)。

最初の回は、黄泉の国との境、『黄泉比良坂(伊賦夜坂)』です。

黄泉比良坂1


場所ですが、あの神話の舞台が島根県東出雲町(2011年8月に松江市に合併)に実在します。

日本地図を眺めていただきたいのですが、出雲国の場所おわかりでしょうか?

昔の出雲国は、現在の出雲市とはかなりの違いがあります。

昔の出雲国はおおよそ、安来市、松江市、雲南市、太田市の一部、仁多郡の大部分、飯石郡の大部分、現在の出雲市のほとんどを含めた地域です。

山陰道の伯耆の国と、石見の国との間と考えて下さい。

出雲国の中心も、出雲市の出雲大社辺りや、島根県庁の有る、松江城周辺ではありません。

意宇(おう)六社と言われる「揖夜神社」「八重垣神社」「神魂神社」「熊野大社」「六所神社」「眞名井神社」の有る意宇地域(旧意宇郡は現在の 松江市の一部、大橋川以南および大根島・江島 )です。

『出雲国風土記』によれば、「八束水臣津野命(やつかみずつぬのみこと)」が国引き(島根半島を引き寄せた)を終えた際に、国引きを意恵(「おえ」、終えるの意味)と言ったことから「意恵郡」と呼ばれて、のちに「意宇郡」と呼ぶようになったと伝えられています。

平城京時代の、国分寺跡や国府跡もこちらに在ります。

『黄泉比良坂』はそんなに意宇の東端に在ります。

Google map 黄泉比良坂(伊賦夜坂)

『古事記』の神話部では、死んで黄泉の国に行った妻を伊邪那岐が迎えに行くのですが、黄泉の国の伊邪那美は、醜く変わってしまっていて逃げ帰る場所です。

黄泉比良坂2

黄泉比良坂3

黄泉比良坂4

黄泉比良坂5
(神跡の碑がある意味すごいですね!)


別れのシーンです。「私は一日千人の人間を絞め殺しましょう。」「ならば私は千五百の産屋を立てよう。」千曳石を挟んで二人の神様の会話が哀しいですね。

黄泉比良坂千曳石
(イメージよりも小さい?)

黄泉比良坂桃1


黄泉比良坂桃2
(山桃の木神話では神になっていますね)


千曳石(イメージより小さい?)、黄泉の軍に投げつけた桃の木(「古事記」では本物の桃の実だったと思いますが植えて有ったのは、山桃の木でした)

近くに伊座那美命を祀る「揖夜神社」が有ります。

もちろん、「黄泉比良坂」の別詳『伊賦夜坂』が近くに在るゆえの名前ですね。

やはり、神話に実物の舞台が在るということが凄いと思いませんか?

そんな国は世界中で、日本だけではないでしょうか!

場所の特定が事実ならば、黄泉の国は伯耆国側になります。

鳥取県米子市の弓ヶ浜半島に「夜見」の地名が有りますが、あまりにも出来すぎな気がします(笑)。

次の旅では意宇六社の一つ『揖夜神社』を紹介しましょう。

いつも応援ありがとうございます。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・FC2ブログランキングバナー「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。
👇




関連記事
  
2016/01/13

稀代の名軍師『竹中半兵衛』寂しく三木に眠る!

孤高の天才軍師!日本の諸葛孔明ともいわれる、竹中半兵衛重治のお墓に行ってきました。

場所は、兵庫県三木市!三木城包囲攻略戦、羽柴秀吉本陣近くの山裾の畑側です。

三木城秀吉陣跡
(山頂が本陣に成ってました)

三木城を望む
(秀吉本陣より望む、右中ほどが三木城跡です)

あの、竹中半兵衛の墓がこんな所に?と思わずにはおられないロケーションです。

竹中半兵衛墓3

竹中半兵衛墓1
(周りは畑ですよ、畑!)

竹中半兵衛墓2
(やっぱり寂しく思えます)

当時の時代背景ですが、織田軍中国攻め司令官、羽柴秀吉小寺勘兵衛(黒田勘兵衛)の活躍も有り、播磨を平定した矢先の1778年(天正6年)三木城主、別所長治が毛利に通じて突如反旗を翻します。

備前、宇喜多直家の動向も未だに不明な時、秀吉軍は播州(姫路)で前後ろを挟み撃ちされる形に成り、中国攻めを一時的に中断し(これにより上月城の尼子氏を見捨てざるをえなくなり、毛利軍吉川元春らに攻められて上月城は開城、尼子勝久は切腹し尼子氏は断絶、猛将山中鹿之助も謀殺されています)、別所氏攻略に取りかかります。

別所家は播磨の名門(名門が故に新参の秀吉配下に反攻した説も有ります)、三木城は周りの一族、国人衆の支城も含めての籠城戦に入ります。

羽柴秀吉は周りの支城を落とした後、あの有名な兵糧攻め(戦わずして勝つ!秀吉としては始めてで、その後の城攻めの転換点となります)、三木日干し戦術を取ります。

この籠城は、荒木重村小寺政職の離反応援も加わって、2年にも及びます。

そんな最中、名軍師!今孔明と詠われた竹中半兵衛重治が36歳の若さで陣没してしまうのです。

竹中半兵衛といえば、十数名であの難攻不落の稲葉山城を攻略したにもかかわらず、さっさと斎藤龍興に返上して隠居してしまった事で有名ですね。

稲葉山2
(一時的に竹中半兵衛が奪った記載がありました)

稲葉山1
(稲葉山城「岐阜城」模擬天守、景色が素晴らしく、天下に号令をかけたくなる気持ちが解りました!お土産に「天下布武」のTシャツ買ってしまいました!)

美濃攻略を進めたい織田信長は家臣の秀吉を使い、竹中半兵衛をどうにか織田軍に迎えようとしますが、首を縦にふろうとはしません。

秀吉が三顧の礼を取り、織田信長ではなく、秀吉配下ならとの条件で、迎えたのはよく知られたお話です(創作も有ると思われますが)。

黒田勘兵衛と並んで、両兵衛と呼ばれ秀吉の天下取りに多大な、貢献を果たした竹中半兵衛、出身の岐阜にも墓は有るようですが、時代背景を考えると、こちらに眠っておられるのではないでしょうか。

三木市ももう少し、観光資源と考えて、丁重にお祀りしても良いと思うのですが。

三木城の現在は又別の機会にお話しましょう。

いつも応援ありがとうございます。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・FC2ブログランキングバナー「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。
👇




関連記事
  
2016/01/11

「えびす神」は二神いる?「恵比須」と「蛭子」はどう違う!

もう一人?のえびす神は『古事記』の出雲国譲りに出て来る、事代主神です。

大国主神の子供とされています。

以前も書きましたが、『古事記』の記述によると、建御雷神(たけみかずちのかみ)が出雲を譲るように交渉に来ます。

大国主神は、「子供達に聞かなければ返事が出来ない」と応えます。島根半島東端の美保ヶ関に釣りに出かけていた、この気の弱いお兄ちゃん?事代主神は建御雷神に「どうよ?」と問いかけられると、青柴垣に隠れて消えてしまいます(笑)。

このときに、事代主命が釣りをしていた姿が海神に変化したのか?

えびす神と同一化されて、島根半島の東端に在る美保神社(出雲神仏霊場8番札所)に祀られています。

美保神社


美保神社は、事代主神系のえびす神の総本宮とされています(3000宮と言われますが蛭児系を含んでいるか?事代主神社の数かも知れません)。

美保神社で行われる、青柴垣神事は、古事記国譲りの再現といわれています。

青柴垣神事1
(足が地につかないのは高天原の使い?) 


青柴垣神事2
(畏れ多くて顔も見られない?)


青柴垣神事3
(日輪の八咫烏、建御雷神の使いか)


青柴垣神事4
(わかりやすい?畏れ入ってうなだれる事代主神)


青柴垣神事5


美保ヶ関は江戸時代に北前船の寄港地として栄えていました。

今も往時の面影を残しています。

関西の事代主系神社では、今宮戎神社が有名ですね。

このようにえびす神には、二通りの流れがあると考えますが。

記述だけを見ますと、「えびす」「恵比寿」「戎」「恵比須」「胡」「蛭子」「夷」「エビス」と多彩です。

まだまだ物語はありそうですね。

いつも応援ありがとうございます。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・FC2ブログランキングバナー「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。
👇





関連記事
  
2016/01/10

西宮神社の「福男選び」と二人の『えびす神』!

今年も恒例の西宮神社福男選びが開催されました!

一番福は最年少記録更新の16歳の高校生でした(おめでとうございます)。

西宮神社1
(写真はすべて昨年1月11日のものです。ごめんなさい)


毎年TV中継されるので、もちろん皆さんご存じででしょう。

昨年、私の同僚(三十代)が挑戦しましたが、残念な?結果に終りました。参加希望は6000人以上もの福男選びですが、現在は女性(福女)も参加して良いようです。

以前は開門6時以外には、余り規制も無かったようですが、不正?が有ったので、現在はかなり厳密に、ルールが制定されているようです。

まず、前日の10時迄に神社前で参加登録(登録出来るのは1500人だそうです)をすませます。深夜1時頃に位置取りのくじを引きます。

実際に走れるのはA組B組合わせて258名です

門の最前列に並べる、A組は108番までですが(一番門に近い所を1番から選択出来るそうです)、先ず1500分の108(約14人に1人)のA組くじを引かなければ、福男への道は閉ざされてしまいます。

それも、最前列二列迄(Aの20番位)が限界?とのことです。つまりはこのくじの時、すでに神様が福の振り分けをなさっているということですね。

副男抽選券


57番を運良く引いた?、同僚も学生時代はサッカー部で、今もフットサルを行っているので脚力には自信が有るようですが、全くダメだったそうです。

B組の150人はもう絶望的だと思います。

A組57番は、その時点でかなりの福だと思えますね(笑)

西宮神社2
(開門神事で皆が飛び出す勇壮な門です)


西宮神社3
(曲がり角が勝負の230メートル)


西宮神社4
(ゴールシーンになるのはこちらですね)


さて、この西宮神社ですが、阪神タイガースファンの方々(私もその一人です)は、ご存知かも知れませんが、廣田神社の末社として発展しています(シーズンイン前に選手は、二宮にお詣りするのが恒例行事です)。

西宮神社は『えびす宮総本社』となっており、祭られているのは、蛭児大神です。

西宮神社大マグロ
(有名な奉納マグロです)


西宮神社巫女さん
(巫女さんも、お綺麗な方ばかりです)


えびす神は日本古来の福の神で、釣り竿と鯛を持った姿が典型的ですが、その姿の通り、海神様ですね。

伊邪那岐命(神々の名前は古事記の記載を出来るだけ参考にしています)伊邪那美命の最初の子供、蛭子命が基になっているといわれています。

『古事記』の記載では、蛭子は天の御柱を回り二人が声をかけ合うとき、女性の伊邪那美が最初に声かけてしまったことで、骨が弱く3才に成っても立つことができなかったために、船に乗せ流してしまいます(船で漂着した場所が西宮?らしいです)。

流れ着いた蛭子が、海神と結び付いて、えびす神となっているようです。

二神の子供ということで、天照大御神建速須佐之男命と兄弟として祭られているのはそのせいですね。

いつも応援ありがとうございます。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・FC2ブログランキングバナー「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。
👇





関連記事

続きを読む