私のおすすめ本ベスト100! - 「高天原の縁側日記」
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2016/03/10

「永遠の0」の100倍泣ける『壬生義士伝』

弟の薦めで何げなく読み初めた一冊!

こんなにも素晴らし本だとは、思いませんでした。

『壬生義士伝』を紹介します。

壬生義士伝


「永遠の0」の100倍泣けると書きました。

「永遠の0」が嫌いなわけではありません(百田先生ごめんなさい)。

むしろ大好きな本ですし、実際購入して読ませて頂きました。

映画も見て感動しましたし、岡田准一さんはアイドルの領域を越えた素晴らしい演技力をお持ちの、大好きな俳優さんです。

それでもなお、大袈裟ではなく、100倍泣けて、100倍感動する一冊だと思うのです。

映画化もされています。主演は中井貴一さんです。ドラマ化もされていて、こちらは六時間(二時間ずつの前、中、後編)で世界の渡辺謙さんが主人公でしたが、本を読んだ後では満足出来ませんでした。

二人の名優でさえ演じきれない、凄さがこの本には有るのです。

物語りは、次の様に始まります。

慶応四年一月。「鳥羽・伏見の戦い」の大勢は決し、幕府軍は潰走を始めていました。

そんな中、大坂の盛岡南部藩蔵屋敷に、満身創痍の侍が紛れ込む(江戸時代に藩の呼び方は無かったということで、これまでUPしたブログでは、○○藩との記述をしていませんでしたが、ここでは浅田次郎の本中で南部藩と使用されているので、そちらに倣いたいと思います)かつて南部藩を脱藩し、新選組の隊士となった吉村貫一郎でした。

庇護を求める吉村に対し、蔵屋敷差配役であり吉村の旧友であった大野次郎右衛門は、冷酷にも切腹を命じます。



時は流れ、大正4年。

北海道出身の記者が、吉村を知る人々から聞き取り調査を始めます。

彼の関係者によって明かされた彼の生涯とは、いったいどんなものだったのでしょうか?。

幕末物といえば、勝ち組長州・薩摩・土佐!という先入観があったのかもしれません。

「歴史は勝者が作る」が当たり前と分かっていたはずなのに、いつの間にか私も、錦の御旗に惑わされてたのかも知れません。


この本を読んで、敗者には敗者の正義があることに気づかされましたし、若い頃に旅行した、東北や会津・南部の美しさと共に、戊辰戦争の砲撃でぼろぼろに成り、今にも崩れ落ちそうな、会津鶴ヶ城の写真(お城に飾って在ったと記憶しています)を思い出しました。

この本は、戦国時代の戦はもちろん、関ヶ原や大阪の陣での戦いで敗者となった武将や、太平記(南北朝時代)の負け組?等への興味を飛躍的に伸ばすきっかけになりました。

そして物語の最後に戊辰戦争に敗れ、吉村貫一郎の親友、大野次郎右衛門が死を覚悟するに至り、吉村の次男を越後の豪農、江藤彦左衛門に頼む文章を少し現代文(本書では殆ど漢文に少しのカタカナで書かれているので、ちょっと理系の私は心配ですが)で終わり二頁だけ紹介(人の絆の素晴らしさが集約されていると思いますので)したいと思います。 

南部武士魂の一滴は、苦難の後に残ったその一滴は、北上の大河となって、新しい天皇中心の国を必ず正く導きます。

吉村貫一郎さんは、「南部の桜は、岩すら砕いて咲く」とよく言っていました。

私は、その言葉を肝に銘じ、非力の身ながら精一杯の精進に努めました。

しかしながら、このような次第になってしまいました。

力がたりなかったのであります。

しかし、個々の努力と精進について何ら悔いてはおりません。

岩を割って花が開く春は未だ来ません。

しかし、死力は尽くしました。

士道冥利に尽きると思っております。

尊敬している友人、吉村貫一郎さんの最期は、誠に見事でした。

死に臨んで、五体をことごとく妻子に捧げ、血の一滴も残さなかった。

わずか死顔に涙の一垂が残っていただけでした。

何度も言いますが、この少年の父は、誠の南部の武士でした。

本当の義士でした。

何とぞ江藤様、この少年を江藤様のもとに置いていただき、ご配慮のもと、御育ていただきたくお願い申し上げます。

心よりお願い申し上げます。

義士の血がいずれの日か、岩を砕いて多くの花を咲かせることを夢幻のごとく心に思い筆をおきます。

恐惶謹言。



最後の数十ページは涙が止まらないのです。東北盛岡の、北上川の土手や岩手山に満開の桜が岩を割って咲いている。

そんな心象が、心の中に沸き上がって来るのです。

吉村貫一郎の真摯な生涯に関わった人々の人生が、見事に結実する壮大なクライマックスは皆さんを捉えて離しません。

第13回柴田錬三郎賞受賞の傑作長編小説を是非お読みください。

私の稚拙な文章力では、上手く説明出来ません。


本当に素敵な本です!是非ハンカチ(テッシュ)をご用意の上お読みください。

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2016/03/06

J.F.ケネディも尊敬した日本の政治家、米沢藩藩主『上杉鷹山』

『漆の実のみのる国』を紹介します。

まずその前に、J・F・ケネディご存知ですよね、アメリカ35代大統領です。JFKと短縮記憶していませんか?ジョン・フィッツジェラルド・ケネディが本名なんですよ、知っておられましたでしょうか?。

1961年、第35代米国大統領に就任したJ・F・ケネデ ィは、日本人記者団からこんな質問を受けました。

「あなたが、日本で最も尊敬する政治家はだれですか?」

ケネディはこう答えました。

「上杉鷹山(ようざん)です。」記者の誰もが「上杉鷹山」を知らなかったといわれています(そんなわけ無いだろうとも思いますが)。

この話が、「言った」「言わない」で、都市伝説の様になっていましたが、2013年11月、娘のキャロライン・ケネディ駐日大使が、「父が、米沢藩の名君上杉鷹山を尊敬していて、あの有名な就任演説、国が人民になにができるかではなく、貴方が国家に対してなにができるか考えてほしい!のスピーチ作成に影響を与えました。」と発言して、都市伝説に終止符が打たれました!

『上杉鷹山』と言えば 「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」
(どんなことでも強い意志を持ってやれば必ず成就する)
の名言で有名ですよね。

本書「漆の実のみのる国」は、財政に窮乏し、風紀は乱れ、亡国の危機にある米沢藩(江戸時代は藩という呼び方は無く、出羽米沢上杉領等と、言っていた筈ですが、上のキャロライン駐日大使のスピーチと、本書中で米沢藩と使われているのでそれに倣います)を再興するべく、上杉治憲(鷹山)と重臣たちの苦闘を描いた藤沢修平の絶筆となった歴史小説です。

藤沢周平といえば、映画なら山田洋次監督の「たそがれ清兵衛」「隠し剣 鬼の爪」「武士の一分」が有名ですよね(三本共によい映画でした)。

しかしここでは、本で是非読んで頂きたいと思います。


漆の実のみのる国


【あらすじ】

江戸時代中期、上杉重定の治世。

米沢藩は貧窮し、藩政は重定の寵臣森平右衛門の独裁状態に有りました。

江戸家老竹俣当綱は森を暗殺しますが、重定は悪政を続けます。

その後、治憲(後の鷹山)が藩主となり、竹俣らを重用した大改革を始め、七家騒動、天明の飢饉などを経ながら藩財政を再建していくお話です。



内容については、史実部分は、正確なので堅苦しく感じられますが、対照的に、財政難との苦闘を描いた物語部分は、いつもの藤沢修平らしく柔らかで、この二つが明確に分かれた構成は読みやすかったです。

この精緻な史実と苦闘の物語は、この頃の米沢藩が置かれている非常に厳しい状況を目の当たりにさせられますが、暗さは感じられず、充分に魅力的な作品でした。

【内容についてもう少し詳しくお話しましょう】

物語は、日向高鍋藩から、米沢第八代藩主・重定の養子にきた直丸(上杉治憲)十二歳の頃から始まります。

この頃の米沢藩は、過去の減封(上杉謙信時代最大、250万石有ったといわれた国高は、上杉景勝の会津転封で120万石に、関ヶ原後米沢転封で30万石に、その後米沢藩3代綱勝が子供の無いまま急死、綱勝の妹富子と高家の吉良義央との間に生まれていた当時2歳の綱憲を末期養子としたことで15万石へと減封されます。)や藩主の奢侈によって、財政はすでに窮迫し、家中や領民への過酷な税の取り立ては、士風の乱れを招き、農村も荒廃していました。

これ等財政難の原因を、藩主・重定の奢侈と、寵臣・森利真の驕奢にあると考えた、竹俣当綱ら四重臣は、森の誅殺、および藩主隠退に成功します。

藩世子素読師範を勤める藁科松柏が、その明敏さと仁慈を見出していた直丸は、十七歳で家督を継いで、治憲と名乗ります。

新藩主となった治憲は、早々に大倹令と呼ばれる、普段着や食事の量までも規定する経費削減策を打ち出します。

しかし家中の謙信公を祖とする大国の格式、体面が顔を出し、保守派の抵抗は厳しく、隠退した前藩主・重定の協力によって、ようやく大倹令は執行されます。



しかし上杉家中に根を張る『大国意識』という病魔は、改革を阻む要因として、それからも大きく横たわることになります。

それ以後、保守派の重臣による家老竹俣当綱や近習・莅戸(のぞき)善政ら改革派排除を訴えた七家騒動、竹俣当綱を中心とした三木(漆、桑木、楮)各百万本植立てによる収入倍増計画の失敗、志賀祐親の財政再建失敗、更に追い討ちをかける天明の飢饉、懸命の財政再建計画が、ことごとく失敗に終わっていく様子が描かれます(いい加減に止めてくれ~と叫んでしまいます)。

治憲が、いつまで我らを苦しめるのですか、と天を仰ぐ記述が大きく印象に残るほど、いつ明けるともしれない漆黒の闇は深く、報われない改革は、読んでいてとても辛いです。

このような財政難との苦闘ばかりで、辛いだけの物語でも、満足感や充実感が得られたのは、闇の中にも微かな光を感じられるからかもしれません。

まず享楽好みで暗愚とされた前藩主・重定の存在が有ります。

享楽に変わりないものの、隠居してからは養子である治憲を実の子のように扱う暖かさと、幾度も治憲の危機を救う力強さが描かれ、保守派重臣の抵抗の中にあって非常に頼もしい所を見せてくれます。

また商人との資本、借財交渉や収入倍増計画など前期改革を力強く推進した竹俣当綱の存在も大きい、改革への逆風が吹く中、強引に突き進んでいく人物は頼りになります。

改革は実らなかったものの、彼がいたからこそ当面の危機を乗り越え、改革の芽が育ったのでしょう。
 
そして力を入れた学問所から輩出された人材の数々本書を読むと治憲一人の英邁さだけでは、米沢藩の再興はできなかったことがよく分かります。

彼を補佐する優秀な人材がいたからこそ藩は立ち直る兆しを見せ始めます。

藩の困窮を救うはずだった漆の実とは、優秀な人材だったのではないでしょうか。

それにしても、長い辛苦の中に見える未来への光が感じられたにもかかわらず、彼らの苦闘が報われ、藩の窮乏から脱する様子が描かれていないことは残念でした(著者の病魔がそこまで来ていたのでしょう)。

物語の終わりは、三十七章、隠居から再び執政入りした莅戸善政が、藩政改革から殖産振興に至るまでを示した、十六ヶ年組立と呼ばれる改革案(寛三の改革)を治憲に提出するまでを描き、鷹山と改名した治憲が、漆の実が藩の窮乏を救うという心躍った過去を思い返すところで幕が閉じられています。

解説によると、この三十七章が原稿用紙六枚分で終わっているのは、これが著者藤沢周平最後の原稿だからだそうです。
本来なら、あと四十から六十枚の予定だったといいますから、著者は光を浴びた米沢藩を描きたかったに違いない、と解説されています。

いつも、素晴らし本に出会うと、是非家族に読んでもらいたいと思うのですが、この本は現代の政治家にも、必ず読んで頂きたいと思います。

政治活動費での支出も許可しますが如何でしょう(笑)?

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2016/01/30

日本で初めてジーンズをはいた、日本一格好いい男!「白洲次郎 」

皆さんは、白洲次郎を知ってますか?

太平洋戦争で敗北した日本の心を守るために奔走した、このたぐいまれなる人物の存在を、私が知ったのは、夫人でエッセイスト白洲正子の本からです。

白洲正子は旧華族樺山侯爵家のお嬢様で、画家「黒田清輝」の『湖畔』『読書』が実家リビングに飾って有ったという凄いお家です。

日本文化に造詣が深く、本を何冊かは読んでいたのですが、夫白洲次郎の事は余り知りませんでした。

民芸の事を調べるうちに、もう一度白洲正子を調べる機会があり(民芸運動の柳宗悦や甥とも知り合いの様で)、夫次郎の事を知り、びっくりして本を買って読んでみました。

『白洲次郎 占領を背負った男』 北 康利

占領を背負った男
(人間、白洲次郎を紹介したいと思いますので、北さんには申し訳ないのですが、この本以外の白洲次郎に関する資料も読んでいただけたらと思います。)


国土を他国に占領されるという、日本国としては歴史上初めての経験、日本人は自信を失い、GHQの顔色伺いに終始していました。
そのような時、白洲次郎は吉田茂外務大臣の要請で、終戦連絡事務局参与となり、GHQとの交渉にあたりました。

GHQに対して卑屈な官僚や政治家の中にあって、次郎は筋を通し、一歩も退く事は有りませんでした。

GHQは舌を巻き、「従順ならざる唯一の日本人」と、本国に連絡したとの記録が残っています。

本の中には次郎らしい、代表的なエピソードがいくつか記録されていますので、紹介しましょう。

昭和20年12月のクリスマス。白洲次郎はマッカーサー司令長官に、昭和天皇陛下からのプレゼントを届けることを依頼されます。

長官部屋の机の上はすでにプレゼントでいっぱい、マッカーサーは「そのあたりにでも置いてくれ」と言って床の絨毯を指さします。

すると次郎は血相を変え「いやしくもかつて日本の統治者であった者からの贈り物を床などにおけとは何事ですか!」と叱り飛ばし、贈り物を持って帰ってしまおうとします。

さすがのマッカーサーもあわてて謝り、急いで新しい机を運ばせたそうです。

「日本は戦争には負けたけれども、奴隷に成ったわけではない」が次郎の口癖でした。

またある時、GHQ民政局長ホイットニー将軍が「白州さんの英語は大変立派な英語ですね」とお世辞を言いました。

そこには、勝者としての奢りが込められていたはずです。

これに対して、次郎は「あなたももう少し勉強すれば、立派な英語がしゃべれますよ」と答えたといいます。

サンフランシスコ講和条約への出発時の服装は、首席全権委員の吉田茂首相は羽織袴で、二郎はTシャツにジーパン、ポケットにウイスキービン(きっとスコッチですね)だったようです。

日本人が歴史上、最も自信を喪失し卑屈になっていた時期、支配者に対し、日本人の気概を示した唯一の人物が白洲次郎でした。

この姿こそ、まさに「カッコいい」と言えませんか?

そんな、破天荒な行動力と痛快な逸話ですっかり白洲二郎に魅了されてしまいました。

次郎の遺言は『葬式無用、戒名不要』の一行のみ、格好良すぎます。

お墓に御参りしてビックリ!死してなお格好いいって・・・

月心院
(白洲次郎が眠る三田市心月院、織田水軍九鬼家の菩提寺でもあります。)


白洲次郎の墓
(確かに、戒名ありません。右次郎の墓石には不動明王の梵字、左正子の梵字は十一面観音です。)


次郎は自分という人間の「筋」『プリンシプル(生き方の大原則)』と呼んでいました。

夫人の正子は、彼の人物を評して「直情一徹の士」「乱世に生きがいを感じる野人」と呼んでいたようですが、現代の若者に是非知っていただきたい人物「白洲次郎!」そして是非読んで頂きたい一冊です。


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2016/01/27

民芸運動の産みの親、「柳宗悦」著書『手仕事の日本』『民芸とは何か』

やはり、民芸の素晴らしさを吹聴している私としては、これは外せないですね。

柳宗悦『用の美』をテーマに、使う道具の美しさを再確認しようという運動を、仲間たちと行った思想家です。

柳宗悦の『手仕事の日本』『民芸とは何か』は各地に眠っている民芸品の素晴らしさを紹介した本と、その思想を説明した本です。

手仕事の日本


昭和初期位の執筆なので、現在の民芸(民芸品)の状況とはかなりの違いも有ります。

つまりは、彼らの運動が功を奏して、本のなかでは「もうなくなってしまいました。」と記載されている民芸品も、復活して伝承館等が各地に建設、運営されています。

先日、新聞紙面で、日本の手仕事の良さに感化される若者も、増えているという記事を見ました(素敵な事ですね)。

写真に写っているブックカバーも、本のなかでは「不幸にも跡を断ちました」と柳宗悦がが書いている島根県安来市の「広瀬絣」のブックカバー(広瀬絣伝承館で購入)なんです。

『用の美』を追求して、復興、復旧に尽力した柳宗悦浜田庄司河井寛次郎バーナードリーチ等の努力は決して無駄ではなかったと言うことですね。

民芸とは何か


こちらの本と一緒に写っている巾着は、青森県津軽地方のこぎん刺し(この細工で2000円ほどですからコストパフォーマンス高いです)という民芸品です(京都東寺の弘法市で、購入した物です)。

東北地方のファンでもある私が、こぎん刺しを少しだけ説明させて頂きます。

【津軽こぎん刺し】

こぎん刺しとは、約300年前に青森県津軽地方の農民の知恵から生まれたもので、農民の野良着のことを「こぎん」と呼んだためこの名前がついています。

当事、津軽地方では綿の栽培ができなかったため、農民は野良着や普段着に綿製品を使用することを禁止され、麻布を着ていました。

しかし、麻布は繊維が荒く雪国の厳しい寒さを防ぐことができなかったために、麻の布目に白の木綿糸を刺繍して縫いこむことで、当時貴重だった布の耐久性と保温性を高めたのが始まりです。

次第に様々な模様ができて、実用性の上に装飾性が加わり、民芸品としての価値が高まりました。

基本になる模様は30種類余りあり、地域によってその名称も多少違うようですが、身近な生活の中から創意工夫されてきたものです。

陶芸を趣味にしている私のブログでご紹介した全ての窯元は、この本『手仕事の日本』のなかで、「頑張っている」等の称賛紹介されている釜元です。

私も、但馬の柳宗悦目指して(笑)、少しその様な活動に協力出来ればと考えて、陶芸教室に通い、民芸品を見に東奔西走しています(大それた考えですが)。

素敵な民芸品を見つけると、皆さんがこれら日本の伝統美を気に入られて、手にとって頂けたらと心から思っています。

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2015/12/30

「古事記の出雲神話部分」を旅する為のガイドブック!

日本神話に夢中になって出雲を旅するきっかけになった本を紹介します。
鳥取県米子市に単身赴任していた時に本屋さんで見つけたのがきっかけです。

それでは、『市郎右衛門』の歴史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。

CROOZ


古事記謎解きガイド
出雲に残る『古事記』神話部分に特化した本です。

出雲神話ミシェラングリーンガイドといえるかも知れませんね。

この本に添うかたちで、日本神話の足跡を皆さんに紹介出来たらと思います。

古事記の神話部分における出雲舞台のお話は、少なくても3割!多ければ6割ともいわれます。

何故、大和政権は出雲にこだわったのか?歴史好きな皆さんも色々な仮説を立てておられるでしょう。

高天原は出雲に!、芦原の中つ国は出雲?、神武東征の出発点こそ出雲だ!、等のとんでも説(笑)だった仮説が、新しい発掘や発見で信憑性を帯びてきています。

魏書の烏丸鮮卑東夷人条(魏史倭人伝)記述をある程度信頼できるとすれば、荒神谷遺跡のおびただしい青銅剣は、倭国大乱時代の遺物に当たるのかも知れません。

荒神谷1
荒神谷2

加茂岩倉遺跡の銅鐸も一国の権力の象徴に足るものでしょう。

加茂岩倉1
加茂岩倉2
加茂岩倉3

妻木晩田(むきばんだ)遺跡の規模(建物跡千戸)は、いまだ調査待ちの部分がかなり有ること、国の中心部の遺跡だと考えると、戸数5万戸と記載の投馬国の規模に匹敵すると思われます。

それに、古事記で投げ馬といえば天照大御神の織屋に馬を投げ込んだ須佐之男命を思い出しませんか?出雲には須佐之男命の活躍場所とされる場所や神社が多くあります(余りに出来すぎて笑いを禁じえません)。

新しく明らかになる、これ等の遺跡が出雲王国の注目度を一気に引き上げ、何故古事記に(大和の政権にも関わらず)出雲神話が必要なのかを物語っていると言えます。

内容については、順次訪れた場所からご報告していくつもりです。

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リュミエールブラン ネージュ