日記『徒然ではない私の日常をポロリ』 - 「高天原の縁側日記」
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2019/03/11

3月11日「東日本大震災」を忘れない!記憶することもまた歴史の一つ!

3月11日は8年前に『東日本大震災』が発生した日です。

私こと、市良右衛門は、神戸市に住んでおりますが、阪神淡路大震災の時には、但馬の実家でまだ就職もせずに住んでおりましたので、我が家の小さな墓石が倒れた程度の被害ですみました。

東日本大震災の時にも、鳥取県米子市に単身赴任しており、何一つとして被害を受けることは有りませんでした。

神戸には震災後23年住んでおりますし、東北青森には学生時代も含めて、10年程住んで居りました。

幸いな事に両震災とも、何も被害を受けませんでしたが、神戸・東北共に第二の故郷とも呼べる、とても愛着の有る場所です。

朝日新聞デジタル
(奇跡の一本松、枯れてしまいましたが復興のシンボルとして樹脂で保存されました。朝日新聞電子版よりお借りしました。)


それだけに、4年前の夏にお友達に「東日本大震災」の体験談を聞いて、衝撃と共に感銘を受けたので、是非皆さんにも知って、考えて頂きたいと思い、お友達の体験談を公開することにいたしました(本人は了解してくれました)。

今日の新聞には関連死も含めて2万2千人の文字や、帰宅困難いまだ数万人の記事が記載されていました


新しい、ブログが始まり、このブログはもう書かない予定でしたが、情報発信は続けていくべきと、このブログの使いかたも模索しています。

「三年のご愛顧感謝します」新規ブログが始まりました。

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~縄文・弥生時代から近現代まで、日本の歴史と文化の旅に神様目線で旅立とう~


今日、ご紹介する【2014年夏のレクイエム】はお友達の「東日本大震災」実体験の手記を記録したものです。

できる限りそのままの形で公開しますが、差しさわりのある名前などは少し訂正させて頂きましました。


【2014年夏のレクイエム】

南三陸町防災対策庁舎
(南三陸町防災対策庁舎、町職員の遠藤未希さんが最期まで、防災無線のマイクを握った場所です。Wkiよりお借りしました。)


(文章の一人称はお友達です。【2014年夏のレクイエム】2014年に成っているのはやっと話すことが出来るようになったからだと思います。)

東日本大震災かぁ…。
思い出したく無くても、頭から離れない。
忘れたいけど、忘れちゃいけない。
いろいろ、酷いものも見ました。
しかしあの時、多くの被災者はじっと耐え、規律を守り、乗り越えました。

これは、私の体験談です。
私の場合、被災者の中でも恵まれた方だったと思います。
面白い話しでは有りませんし、文章力も有りません。

大震災があったあの時、私は宮城の港町(海から100m 足らずのところ)で仕事をしていました。
一度目の揺れが止まり、従業員の安否確認をしようとしたとき、二度目のさらに大きな揺れに襲われました。
どちらもそれまの人生で体験した事が無い、巨大な揺れでした。

程なくして津波警報が発令され、私は近くの高台に避難しました。
回りには同じ様に避難してきた人・人・人。
皆、着の身着のままの格好です。
3月でも冷え込む中、降り始めたみぞれは私達の体力を少しずつ奪って行きました。

きっと大丈夫。
前の三陸沖地震でも大丈夫だった。
私の周りで年配の方々は、口をそろえて話しあっていました。
防災無線からは津波注意の声。
私も周りの人々も、家族への安否連絡のため携帯電話をかけようとしていましたが、回線がパンクしていて、なかなか繋がりません。

やっと実家の母に電話が繋がり、大丈夫と伝えた時、防災無線から津波の高さ予想が発表されました。
『津波の予想高さ10m』私は耳を疑いました。
私達が居る高台はせいぜい8m 程です。
10m の津波なんて到底助かりようが有りません。
私はあの時、初めて死を意識し、そして覚悟を決めました。

多分、母にかけていた電話の声は震えていたでしょう。
私は最悪の事態も有りうる事、私に万が一の事が起こり、私の飼い猫が助かった場合猫の事を頼み、これ迄の感謝を母に告げ、最後まで生きる為に足掻く事を約束して、電話を切りました。

高台では少しでも高い場所へと人が殺到しています。
一人の男性がその様子を制し、赤子連れ、子供、老人を優先に高い場所を確保出来るように呼び掛けています。
さすが日本人です。
その男性に従い、皆場所を譲ります。
第一波到達。
第二波到達... 津波の到達が度々報告されるなか、私は自分達の避難場所に津波が来ない事を不思議に感じました。
その時津波は湾の入り口にいた私達の場所ではなく、湾の奥にある市街地に、濁流となってなだれ込んでいたのです。

夕闇が降り始め、津波が高台まで来ないと判断した私は、帰宅するためのルートを考え始めました。
幸い、会社に置いてきた車は無事。
丘と山を抜けて行けば... 猫の安否が気がかりで、私の頭には避難所へ向かうという選択は有りませんでした。
真っ暗になった道を車のライトだけで走りました。
電気も止まっていて、左右は全く見えません。
道は、でこぼこの起伏があり、さらには道路を一本違えたら津波に遭遇するという、恐怖の中を運転しました。

実際、水没した道路を確認する度に、迂回しながら、ようやく自宅(高台にあるマンション6階)にたどり着き、怯えていた愛猫をみたとき、緊張の糸が切れて涙が溢れ出て止まりませんでした。

翌日、変わり果てた町を歩き会社に行きました。
市街地では2m 以上の浸水。
港には打ち上げられた大型漁船。
えぐられた堤防。
傾いた道路。
津波で流され重なった車。
倒壊した建物。
これ迄当たり前だったものが、自然の猛威の前ではこうも脆いのか...

それから3週間、水・電気の使えない生活(ガスは使えました)を送りました。
猫と居るため避難所に行かなかった私は、露店のような仮設の戦後闇市みたいな店舗(お値段は2~3倍です)で食料を買い、ガスや塩で保存食を作り、細々と生活していきました。

オチも何も有りません。
失ったもの、得たもの、変わったもの、私の中でいろいろあります。
たかがこの程度ですが、最後まで読んで下さった方々に感謝を致します。

震災の話は、被災地に居る限り話す事は無いと思うし、話すべきで無いとも思います。
でも誰かに聞いて欲しいと思う矛盾も抱えてます。
ですから少しだけ?お話ししました。

今では、少しずつですが、海岸沿いにも家が建って来ました。
日本人は強いです。
三陸の基幹産業は漁業です。
行政の復興は少しも進まない中でも、漁師さん中心に被災者の皆は必死に頑張っています。

緊急セットは必ず準備しておいて下さい。
私は震災以降、3日分位の私の食料と2週間位の猫の食料を常備してます。
いざというときの為に是非皆さんも考えて下さい。

私個人は、被災者としては、望むべくも無いぐらい恵まれてました。
家族を失わず、家を失わず、仕事も失いませんでした。
あの震災おかげで、精神的に強くもなり、また弱くもなりました。

まだまだ宮城県でも立ち直れていない人はたくさんおられます。
岩手県や福島県でも同じでしょう。
しかしながら、私は、そんな人達が前を向いて進める様に、あるいは前を向けた時のために、活気ある街に戻して行きたいと考えます。
私に出来ることはとても小さくとても少ないと思いますが、今考える事は行動することです。

『友人の体験談はこれで終わりです』

【私に何ができるのか?】

私(市良右衛門)は阪神淡路大震災の時、神戸に住んでは居ませんでした。

但馬で観る神戸のテレビ映像に「神戸は壊滅した!」と感じとったのを記憶しています。

阪神高速が潰れ、長田が炎に包まれている映像は、私の脳裏に焼き付き今でもはっきりと思い出す事ができます。

其から23年!月日が神戸を元の美しい街に戻しています。

私は、阪神淡路大震災を契機に就職をし、結婚して子どもに恵まれました。東日本大震災の時は、山陰鳥取県米子市に単身赴任しておりました。

東日本大震災が発生し、最初に見た映像は、宮城空港が津波に呑み込まれる映像でした。

未曾有の自然大災害!更には人災としか言い様のない原発事故、しかしながら、私は神戸と同じように、東北地方の復興を信じて疑いません。

日本人(ここで私が言う日本人とは、法律や書類上ではなく、この美しい山々や河、森や海に対して畏敬の念を感じる精神性を持つ人々の事です)は必ずそれを成し遂げるでしよう。

ある外国人宣教師が、自衛隊の給水を並んで列を乱さず整然と待つ被災者を「まるでキリストのパンを待つ聖者の行列がそこに有った!」と世界に配信しました。日本人の礼儀正しい精神性は美徳です。美しい山々や川、正に自然がその美徳を育んで来ました。

今正に、自分がどうなるか解らない状況に置かれた時!何を成すべきか?その答えが友人の手記の中に有ると思います。

私には何も出来そうに有りませんが、大丈夫!お友達や私の大好きな東北は、石割り桜 の様に、必ずや石を割って咲き誇ることを信じて疑いません。

私の大好きな浅田次郎の小説「壬生義士伝」の中にこんな台詞が有ります。

「ええか、みな良ぐ聞け。南部盛岡は江戸より百二十里、奥州街道の涯ゆえ、西国のごとき実りはあり申さぬ。おぬしらが豊かな西国の子らに伍して身をばたて、国ば保つのは並大抵のことではねえぞ。盛岡の桜は石ば割って咲ぐ。盛岡の辛夷は、ほれ見よ、北さ向いて咲ぐではねえか。 んだば、おぬしらもぬくぬくと春ば来るのを待つではねえぞ。南部の武士はらば、みごと石はば割って咲げ。盛岡の子だれば、北さ向いて咲げ。春に先駆け、世にも人にも先駆けで、あっぱれな花こば咲かせてみよ」

私が知る東北人は、私が子どもの頃に持っていたイメージとは全く違う、ポジティブな方ばかりです。

時間は掛かるかもしれませんが、必ず復興は成し遂げられると信じております。

10年程青森に住んでおりました。私の知る東北の桜はソメイヨシノと違って緑の葉と共に花開きます。

確かに美しさはパッと花だけが咲く、ソメイヨシノにはかないませんが、力強さは東北の種類の方が格段に上だと思います。

【Ca va?】

都内にある岩手県のアンテナショップ(「Ca va?」はフランス語で「元気?」の意味!ネーミングもいいですね。)


先日こんな記事を発見しました。下の商品凄い売れ行きだそうです。ツナ缶を越えたという人気急上昇の商品、サバの苦手な人も臭みが無くて本当に美味しいそうです(それにオシャレ!)。

東日本大震災から立ち上がる意味でサヴァ缶に取り組んだのが始まり 、「Ca va?」はフランス語で「元気?」の意味、震災時に全国からもらった元気を返したいという気持ちで名づけ、2013年の発売開始以来、累計300万缶を売るヒット商品に成りました。 サバは水揚げ量が安定し、値上がりしにくいことが人気です。



【最後に一言】

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(皇后陛下美智子様の歌が刻まれた碑文、後ろは神戸市役所の展望台です。復興を遂げた神戸の街が一望できます)

『笑み交わし やがて 涙のわきいづる 復興なりし 街を行きつつ』

皇后陛下美智子様が天皇陛下と震災直後がら数回にわたり、被災地を訪問されましたが、この歌は、平成17年震災後の復興が進みつつある、被災地神戸を訪問され、現場を歩かれたとき、無数の笑みに会釈をされ、体育館の冷たい床に被災者と同じく膝をつかれて、お言葉をかけられました、その時のお気持ちを歌に詠まれ、平成18年歌会始に提出された歌です。

P3100792.jpg
(復興モニュメントの火、「1.17希望の灯り」)


「モニュメント」ご遺族やボランティアグループの方々から、「やさしさ」と「思いやり」、そして「生きている証」としての灯りを灯したいとのご提案がありました。これを受けて新たに灯りの保存施設が追加設置されることになり、「1.17希望の灯り」が誕生しました。ここには、被災10市10町を巡って運んだ種火と47都道府県から寄せられた種火を一つにした灯りが灯されています。

この灯りは被災した市民のみなさんの精神的なよりどころとなり、毎月17日には、ボランティアのみなさんが自主的に清掃などを行っています。そして、毎年1月17日には、ここから被災10市10町のみならず遠方の都市まで、震災や灯りが結ぶ絆に関連した行事に分灯され続けています。

また、震災から7年を迎えた2001年1月17日、「希望の灯り」が分灯され、市民ランナーによってこの灯りが全国69都市のみなさんへ届けられました。

「1.17希望の灯り」には碑文が刻まれ、「あの震災で亡くなった方々の命と生き残った私たちへのメッセージ」を発信し続けています。

東北で実際に被災された方々、まだまだおられる帰宅困難者の皆さんや二重のローンで頑張っておられる方々、復興の手助けをして新しい産業を企画される皆様に、遠く神戸より心からのエールを送らせていただきます。「必ず東北は復興します!」

何故日本人はこんなにも強いのでしょう。

コアなブログを長く書いてまいりましたが、なかなかアクセスアップが出来ず悩んだ時期もありました。

今後このブログをどのように運営していくのかに関しても少し考えていと思います。

いつも言っておりますように歴史ブログをやめることはありませんが、少し形を変えさせていただくかも分かりません。

いつもコメントをいただく皆様には、心よりの御礼を申し上げます。

今後とも、下手でコアな私のブログを楽しみにして頂けたら嬉しいと心より思っております。

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2018/08/03

取材7日目は、中山道を伊勢へ「奈良井宿」「妻籠宿」「馬籠宿」で食べ歩き、三十五年ぶり「寝覚ノ床」に感激。

取材7日目(7月20日)は、当初から予備日にしていました。中山道を伊勢へ向かい、「奈良井宿」で妻へのお土産のアクセサリーを購入「妻籠宿・馬籠宿」で食べ歩きを満喫することになりました。

元々予備日は、富士登山のダメージがかなりあるだろうと、想定して空けていたのです。諏訪湖から松本市・上田市・長野市、でもう一日は必要と考えていたのです(実際に長野市は行けませんでした)。予備日を使って長野市の「善光寺」に行くことも考えましたが、大学時代にクラブの合宿で訪れたことのあった、浦島太郎伝説地「寝覚ノ床」に思い入れが有ったのでそちらを選択しました。

三十五年ぶりの「寝覚ノ床」の思い入れというのが、若気のいたりといますかもう少しで「竜宮城」ならぬ「天国(地獄?)」へ行くことに成りそうになったのです。




【プロローグ】最初は「奈良井宿」素敵な小物を妻へのお土産に買う



江戸時代、江戸と京の都を結ぶ重要な街道であった中山道。その中山道六九次のうち、木曽路には11の宿駅が存在しました。

奈良井宿(ならいじゅく)は木曽路11宿の中で北から2番目にあたり、上町・中町・下町の3つの街区から構成されています。今なお古き良き日本の情緒を色濃く残す素敵な観光スポットです。

Kisokaido34_Narai[1](奈良井宿浮世絵ウキペディアよりお借りしました。)

杉玉を掲げた酒屋、軒灯りの旅籠、千本格子の家々が軒を連ね、そのにぎわいは「奈良井千軒」といわれたほどでした。その当時の面影が存分に保存されている「奈良井宿」は日本の庶民の歴史を現在によみがえらせ、日本人の郷愁と旅の心をくすぐります。

どうしてもよりたかった、お店が有ります。店主のお母さんが認めたこだわりの職人さんから自ら買い付ける、漆器と漆アクセサリーの店「花筏」です。

P7202767.jpg(和紙を貼って再生する方法が看板代わり。)
P7202780.jpg(店構えも素敵ですよね。)
P7202773.jpg(玄関先には本物の花筏、この植物も今は亡き母に教わりました。)

木曽漆器の本場となっている旧楢川村(塩尻市)は木曽谷を貫く中山道(現・国道19号線)の北の入口に位置し、海抜およそ900メートルの高地にあります。

このため夏は涼しく冬は厳しく寒いという独特な気候は漆を塗る作業環境に良く、自然豊かな大森林は良材を育み、交通の面でも主要道路が通っているという風土と要路の二つの好環境に恵まれて400有余年という時間を費やして、先人が試行錯誤を経て輝かしい成果を残しそれを継承する漆製品の数々です。

いつか私も、木曽漆製品販売したいと画策計画しているのです。そんな「花筏」さんで自分用と妻にペンダント買いました~(喜喜)
P8030007.jpg(さあ?どちらが妻用でどちらが私用?)


「妻籠宿」の食べ歩きは、美味しいお焼きを食す


P7203014.jpg(右手が中央の枡形です。直角に曲がらないとこちらにはこられません)

妻籠宿(つまごじゅく)は、中山道42番目の宿場(→中山道六十九次)で、現在は長野県木曽郡南木曽町。蘭川(あららぎがわ)東岸に位置しています。隣接する馬籠宿(岐阜県中津川市)と、馬籠峠を越える旧中山道史蹟と合わせて木曽路を代表する観光名所に成っています。

経済成長に伴い全国の伝統的な町並みが姿を消してゆく中、いち早く地域を挙げて景観保全活動に取り組んだことが評価され、1976年、国の重要伝統的建造物群保存地区の最初の選定地の一つに選ばれました。

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、妻籠宿の宿内家数は31軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠31軒で宿内人口は418人とあります。

妻籠宿ではまだ長野県ということで、美味しい「野菜お焼き」を頂きました。私のイメージでは灰の中に埋めてしまう感じだったんですが、綺麗に出て来ました(笑)。

歴史的に面白いのは、1601年に家康が中山道の宿場を整備した際に宿場の中央に枡形を作っています。直進できずに直角に曲がらなけらばいけない仕組みです。関ケ原闘いの翌年ですからねえ。

P7203081.jpg(水車最高!水も綺麗です。)

「馬籠宿」の食べ歩きは、美味しい五平餅を食す



馬籠宿(まごめじゅく)は石畳の敷かれた坂に沿う宿場で、馬籠峠を越えた信州側の妻籠宿(長野県木曽郡)とともに人気があり、多くの観光客が訪れています。石畳の両側にお土産物屋がならび、商いをしていない一般の家でも当時の屋号を表札のほかにかけるなど、史蹟の保全と現在の生活が共存できています。ほぼ中間地点に、旧本陣であった藤村記念館(島崎藤村生家跡)があります。

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、馬籠宿の宿内家数は69軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠18軒で宿内人口は717人です。

歴史的には、馬籠は木曽義仲の異母妹菊女が源頼朝から賜ったもので「美濃州遠山庄馬籠村」(1215年)といい、長享元年(1487年)頃になると木曽馬籠や恵那郡馬籠といったりするように成ります。

P7202990.jpg(五平餅屋さんなのですが、妻籠宿です。暑くて馬籠で写真撮ってなかったです。ごめんなさーい!)

妻籠までが信州木曽谷で、馬籠は美濃に属し、石畳の坂道が美しいまちです。美味しいクルミ味噌の五平餅(ちょっとイメージと違い串団子の様でした)を頂きました。

この後伊勢に向かうため高速道路に初めて乗る(取材中まだ高速使ってなかった自分に感動・笑)。途中土岐SAで我慢できずに購入したソフトクリームが半分ラムネ味で青い(感の良い読者の皆さんはお解りですよね~)!そう朝ドラの「半分青い」をもじった限定バージョンでした。ロケ地が土岐市だったのです。
  

山の中に浦島太郎伝説「寝覚ノ床」の若気の至り


P7202795.jpg(入り口はお寺になっています。記憶が~?)

「寝覚ノ床」は、場所的には「奈良井宿」「妻籠宿」の中間あたりに成ります。最後にしたのには理由があります。観光地として素晴らしいのですが、私には「寝覚ノ床」に苦い思い出があるからです。

この地と浦島太郎を結びつけた古い記録としては、沢庵和尚(もちろんたくあん漬を考えたことで有名)が『木曾路紀行』で「浦島がつり石」なる岩に言及しています。

貝原益軒も『木曾路之記』において、貞享2年(1685年)の旅中に「浦島がつりせし寝覚の床」を見聞したと記録していますが、ただし浦島太郎がこの地に来た事実については懐疑的なようです。

現地では、浦島太郎が竜宮城から帰ってきたのち、この寝覚の地で暮らした次第をありありと描いた伝説も作られています。

P7202957.jpg(今回は大学ノスタルジア、本記事はまたの機会です。笑)

大学1年生の夏休みにクラブの合宿で長野県の木曽へ行きました。その時に「寝覚ノ床」や「妻籠宿」にも足を運んだ記憶があります。特に「寝覚ノ床」は、鮮烈な記憶を残しています。

私は美大に入学したいと思う程に絵が好きだったので、美術部に入ったのですが、とても楽しいクラブだったので先輩達ともよく遊びました。大学生最初のクラブ合宿ということもあり少し羽目を外してしまったのです。

今なら「そんなバカなことしない」と考えるかもしれませんが、まあ若気の至りということです。誰が言い出したのか「寝覚の床」の川で対岸まで泳いで帰ってこようということになりになり水に入ったのはいいのですが、服も着ていますし海と違い浮力も少ないので、同級生の一人が途中で溺れ始めたのです。ある程度泳ぎに自信があった私は、それを助けようとしたのですが、今思えばそれはとても危険なことだったと思っています。

「溺れる者は藁をも掴む」と格言にもあるように、溺れている人間はパニックになってどうしようもなくなってしまいます。冷静ではないので、色々な場所を掴んできます。それが泳ぐために必要な腕だったり、服だったりします。さらに体に組み付いてくるのでこちらがお泳げなくなってしまうのです。助けに行った私ともう一人の同級生は溺れている同級生の腰近くまでは沈んでしまいました。

写真で見ても分かるように、取り付く場所もない岩だらけの場所です。そんな場所でよく泳ぐなどなどと考えたものだと、今考えれば思います。幸いに泳ぎが達者な先輩がいて助けられた上に、生物系理系の大学だったので、医師直前の6年生や、看護師直前の4年生もいたので、救助後の処置は的確で助かりました。

本当に生きててよかった。今でもあの時のことを考えると生きた心地がしません。今回、自分が溺れそうになった場所はどこだっただろうと色々と探してみたのですが、結局思い出せませんでした。若気の至りとはいえ本当に馬鹿なことをしたと後悔しています。

あの時以来私は人が溢れていても絶対に泳いで、助けに行く気にはなりません。それほど怖い思いをしたんです。皆さんももし溺れてる人がいても、決して泳いで助けに行くなどと、考えてはいけません。身近にあるもの何でもいいので、とりあえずその人に向かって投げてください、1.5エルのペットボトル一本でも浮力があれば助かると思います。

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2018/04/02

我が家のスイーツシーズン終了!3月30日『結婚記念日』

少しUPが遅れてしまいましたが、3月30日は『結婚記念日』でした。つまり市郎右衛門家が産声を上げた日です。我が家の家族は次女を除いて、皆の誕生日が冬のシーズンに集中しているので、正にスイーツシーズンと成っています。

P3301078.jpg(妻は職場の旅行?我が家から10分の有馬温泉ですが、笑)

12月25日のクリスマスに始まり!1月1日は長女の誕生日(因みに平成11年産まれのフィーバーなんです。)次が妻の1月21日、2月に入ると、3月14日にバレンタインデー、3月27日に私の誕生日、3月14日にホワイトデー、3月17日が長男の誕生日、最後に3月30日の「結婚記念日」とほぼ3ヶ月の間に8回もケーキでお祝いする日が有るんです。余りに有るので、長女・長男の誕生日はブログにUPしませんでした?因みに次女は6月27日の誕生日で一息つけるんです(笑)

ということで、今回スイーツシーズン終了の21回目の結婚記念日のお祝いと共に、UP出来なかった、長女・長男のケーキをご紹介してスイーツシーズン終了ブログを書かせて頂きます。

それでは、『市郎右衛門』『馬肉会』ブログ(笑)をお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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CROOZ

P3301065.jpg(職場からすぐ近くのマダムシンコさんのケーキをチョイスしてみました。)
(マダムシンコ彩都店)
(どうですか?この派手さ!)
(一応まだ3月ですからね。)
(笑うしか無い。)

【ケーキの日?】

1月6日ケーキの日は明治12年(1879年)のこの日、上野の「風月堂」で初めてケーキを宣伝したことにちなむそうですがこれが今のケーキと同じものだったとは思えません。

p12365542253.jpg
(1月1日は長女の誕生日はフルーツタルトです。)

苺ショートケーキを始めて販売したのは「不二家」のようです。キャラクターのペコちゃんでおなじみの洋菓子店「不二家」。しかし、じつは日本の喫茶店、レストランの先駆けでも有るんです。1910年(明治43)、藤井林右衛門が横浜・元町に小さな洋菓子店「FUJIYA」をオープンさせました。まだなじみの少なかった西洋のお菓子を一人でも多くの日本人に味わってほしいという思いからでした。

さらに、第一次世界大戦による好景気の中で喫茶室を新設しています。インテリアはアメリカから直輸入したモダンなもので、さらに持ち手を下に押さえるとソーダ水が出てくるくる「ソーダ・ファウンテン」を導入し、話題を呼びました。そして、1923年(大正12)には念願の銀座進出を果たしています。「不二家」といえば銀座のイメージがありますが、実は横浜だったんですね~!

「不二家」という屋号はもちろん富士山を意識していて、「不二(富士山)」には2つとない存在という意味も込められています。屋号の頭文字であるFを意匠化したハイカラな現在のロゴは、20世紀を代表する産業デザイナー、レイモンド・ローウィによるもので1961年(昭和36)に完成、「ファミリーマーク」と呼ばれ、「不二家」のシンボルとなっています。 「不二家」は1910年(明治43)にクリスマスケーキも販売開始しています。

P12100909.jpg(妻の誕生日はこちらのケーキです。)

【藤井林右衛門という人物は何者】

P22701479.jpg(私の誕生日は小山シェフのチョコレートケーキ。)

藤井林右衛門は愛知県出身、16歳で横浜に出てきて古物商の奉公人として働き始めます。商売的には外国人が引っ越した後に残った家具を中古品として売ったり、鉄くずなどを取り扱ったり、今でいうリサイクルショップのようなものを始めます。1年後に大旦那が亡くなったのを機に、店を任されるようになります。さらに、日本人の洋菓子職人と知り合い、25歳時に独立開業して日本ではまだ珍しかった洋菓子店をオープンさせました。

お金持ちの外国人は家に料理人がいるので、その頃洋菓子を扱っている店は少なかったようです。一方でハイカラな食文化に憧れる日本人には人気が出る!「先見の明」があったのですね~(笑)、ちなみに先見の目は誤用ですので注意してくださいね。

メニューも林右衛門自身でも考えたようです。外国人シェフに知恵を借り、さらには単身アメリカに飛んで働きながら現地の菓子や喫茶事情を視察しました。なお、オープンした年にクリスマスケーキを販売しています。 もちろん、生クリームではなく、プラムケーキ(フルーツケーキ)に砂糖の衣をかけたものでした。なお、店内には小さなイートインスペースを作りました。喫茶店の先駆けといえます。

P31710237.jpg
(長男はマカロン付きのチョコレートケーキ。)

【ショートケーキは日本独自のケーキ?】

さらに同じ横浜の伊勢佐木町に2号店を出した1922年(大正11)にショートケーキを販売しています。これも日本初だと言われま。。クリスマスケーキが先だったんですね。皆さんショートケーキは外国発祥だと思っていませんか?私たちになじみのあるあのスポンジケーキ、ホイップクリーム、いちごという取り合わせのケーキは「不二家」が開発した日本独自の洋菓子だそうです。大正時代の原型となるショートケーキにはバタークリームのような濃厚なクリームが使われていました。当時、いちごを使っていたかどうかは記録に残っていません。

ショートケーキという名前の由来については、イギリスのショートブレッドというクッキーのようなお菓子から、「ショートニング」に由来するから、短時間(ショートタイム)で作れるからなど諸説あるようです。ちなみに、ショートケーキが今のように不二家のナンバーワン商品になったのは昭和40年代後半の事です。バタークリームから今のような生クリームやイチゴを使うようになったのは、景気の上昇や冷蔵庫の普及など、様々な要因があるようです。

【最後に一言】

P62700027.jpg(卵アレルギーの次女は卵抜きで昨年の分です。)

わが家の、スイーツシーズンは3月30日で一応終わりです。次は6月27日の次女の誕生日です。7月に一大イベントを企画しています。それまでにダイエットしなければいけませんね~(笑)。さて私のブログは基本歴史ブログですが、ここのところは雑記ブログ・スイーツブログに成っていました。取材も多く行っておりますので、主題の歴史を頑張りたいと思いますのでよろしくお願いいたします。最後に一番大事なことを忘れてましたね『ママ!21年間も私の様な、駄目夫に付き合ってくれて本当にありがとう、感謝の気持ちは心では表せません。』

歴史って本当に素敵ですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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リュミエールブラン ネージュ

  
2018/03/13

「ホワイトデー」は感謝を込めて『Rêve de chef』のショートケーキにした!

今日の話題はホワイトデーです~(*^^*)バレンタインの「eskoyama」の小山パテシィエ対決も一緒にUPしようと思ったのですが、長くなりそうなので、ホワイトデーのみにさせて頂きますね。(#^.^#)小山パテシィエ対決は近々にUPさせていただきますのでご容赦願います。この時期はイベントが多く、本来の歴史ブログのイメージから逸脱していると思われるかもしれませんが、身近な新しい歴史にも目を向けていきたいと思っていますので、楽しんでいただけましたら幸いです。

P3130969.jpg(わが家のすぐ近くなのでよく利用いたします。Rêve de chefのショートケーキです。)

さ~て、先月14日男性にチョコを送ったお嬢様方、しっかりお返しは来ましたでしょうか(UPが夜中なのでこれからですかね)?チョコ専門店のゴディバが「日本は、義理チョコをやめよう。」との2月1日の日経新聞に掲載された、意見広告は「義理チョコ文化」」がすっかり根付いた日本に大きな波紋を広げました。「義理チョコの用意が大変」と感じている女性や「お返しが面倒だ」という男性から共感の声が相次ぐ一方、疑問を感じた人もいたようです。ゴディバは「義理チョコ廃止」の広告を出したことで、議論を呼び広告費の元は取ったのではないでしょうか、チョコレートの会社なのに何故?と不思議にに思ったのですが、考えてみると「ゴディバのチョコを義理で返す人は余り居ないのではないか?」という結論にいきつきました。

つまり、義理人チョコ廃止を訴える事で、無駄を無くするという企業イメージを上げるばかりではなく、義理チョコのチロルチョコ(代表に上げて申すわけありません。私は大好き何ですけどね(#^.^#))等を止める事で本命高級チョコレートのゴディバの売り上げが伸びる?(実際の営業成績は知りませんが?)作戦!正に見事としかいいようがない戦略だったと思います。昔は、マシュマロディーとかキャンディディーとか言ってたような気がしますが、皆さんはどうですか?

それでは、『市郎右衛門』のブログをお楽しみください。これも歴史なのですよ~(笑)
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【ホワイトデーのケーキ】

P3131007.jpg(ゴディバの策略見事なり、笑)

ホワイトデーは、一般的にバレンタインデーにチョコレート等を貰った男性が、そのお返しとしてキャンディ・マシュマロ・ホワイトチョコレート等のプレゼントを女性へ贈る日とされています。日付は3月14日そうです今日です。ただし、近年(2000年代以降)の日本では「友チョコ」や「自分チョコ」、「義理チョコ」などバレンタインデーの習慣が多様化してきていることから、ホワイトデーにも「友チョコ」や「義理チョコ」のお返しが行われるなど多様化が見られるように成ってきています。

ホワイトデーの習慣は日本で生まれ、中華人民共和国や中華民国(台湾)、大韓民国など東アジアの一部でも行われるようになっているようです。ヨーロッパやアフリカ、中東や南アメリカ、北アメリカやオセアニアなど世界の殆どの国ではこういった習慣は見られません(そもそもバレンタインにチョコのプレゼントがないと思いますけどね、笑)。

【ホワイトデーの起源】

P3130991.jpg
(私はカシスが好きなのでカシスのムース)

バレンタインにチョコを送るのは、Morozoffさんの策略とバレンタインの時にお教え致しました。ホワイトデーの起源については諸説あるようです。ホワイトデーの時期になると様々な企業、各陣がそれぞれが「元祖」だと主張しているのだそうです。幾つか元祖・本店?合戦をご覧下さい。

『不二家・エイワ説』
P3131004.jpg(妻はマロンのモンブラン)

日本でバレンタインデーが定着するに従って、菓子業界でそれにお返しをする日を作ってはどうかという案が出されました。これを受けた菓子業界では、昭和40年代に入って以降、個々に独自の日を定め、ビスケットやマシュマロ、キャンディ等を「お返しの贈り物」として宣伝販売するようになっていきます。不二家もまた「リターン・バレンタイン」という名称でバレンタインデーのお返し用菓子類の宣伝販売を行うようになり、1973年(昭和48年)にエイワと協力して3月14日にマシュマロを販売するキャンペーンを開始しました。

『石村萬盛堂説』
P3130997.jpg(次女は卵アレルギーが有るので、いつもはぜリー系なのですが本日は売り切れでストロベリーもマシュマロにしました。台のクッキー以外は大丈夫でした。)

全然知りませんでしたが?黄身餡をくるんだ白いマシュマロ菓子の「鶴乃子」で知られる、福岡市の老舗菓子屋「石村萬盛堂」の社長は、バレンタインデーのお返しにせめてマシュマロでも渡してほしい旨の文章が少女雑誌に掲載されているのを目にしたそうです。石村萬盛堂はこの文章に触発され、バレンタインデーの返礼としてマシュマロを渡す日を創設し、返礼用マシュマロ菓子として「君からもらったチョコレートを僕の優しさ(マシュマロ)で包んでお返しするよ」とのコンセプト(ちょっと強引だと思いますが!)で、黄身餡の代わりにチョコレートをくるんだマシュマロを売り出しました。

この「マシュマロデー」は、百貨店岩田屋のアドバイスで、当時大型のイベントが無かった時期にあたる3月14日に設定され、1978年(昭和53年)3月14日からキャンペーンが開始されました。後に、他業界にもこのキャンペーンを拡張するため、1980年代に百貨店側からの申し出により名称をホワイトデーに変更したのだそうです。

『全飴協説』
P3131000.jpg
(名前忘れた?苺のムース?長女用かな・)
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(こちらも名前忘れた、長男はチョコレートのショート!)


ここまで来るとお解りだと思いますが、私が最初にお話致しました様に、やはりマシュマロとキャンディは入っているようですね。全国飴菓子工業協同組合(全飴協)は、1978年(昭和53年)に「キャンディを贈る日」としてホワイトデーを制定し、2年後の1980年(昭和55年)より三越・電通の協力も得てイベントやキャンペーンをスタートさせました。

【何故3月14日?】

ホワイトデーを3月14日に定めた理由ですが、西暦269年2月14日(凄いお話に成ってきました。)、兵士の自由結婚禁止政策に背いて結婚しようとした男女を救うためにウァレンティヌス司祭(キリスト教の司祭聖ヴァレンタイン ・Valentineの事です。)は殉教されましたが、その1ヶ月後の3月14日、その2人が改めて永遠の愛を誓い合ったとの逸話があります。

日本では、古事記および日本書紀で日本において初めて飴が製造されたとされる日が3月14日前後とされていることに由来しているそうです(ほんまかいな?)。ホワイトデーという名称は、英和辞典のホワイトの項に、シュガーやスイートといった解説が記載されており、若者の純愛や砂糖をイメージさせることによるものだそうです。

近年ではデパートなどで食品以外の贈り物などの販売促進も行われており、菓子業界では駅やデパートでの手焼きクッキーなどの販売も売り上げを伸ばしています。現在の市場規模は約750億円に上るそうです(私も本日一役買いましたね)。ホワイトデーで750億円ならバレンタインはもっと凄い事になっているわけですね~(;^_^A

【韓国ならではのオモシロ記念日を紹介!】

以前から気になっていた隣国の事情ですが、毎月14日の記念日といえば、主に恋人同士が愛を育む過程に沿って作られた恋愛関連のものが中心なのだそうです。一方、毎月14日以外の記念日は、地方の特産品や韓国ならではの食べ物にまつわるものまで、ジャンルもターゲットも、はたまた発案者も本当に様々だそうです。それででは早速、そんな韓国の14日関連の面白イベントデーの数々を1月から順にご紹介しましょう。

韓国の男性は大変って知ってました?まず1月14日『ダイアリーデー』1年間使う手帳を恋人にプレゼントする日。2月14日勿論『バレンタインデー』好きな男性に愛を告白する日。3月14日『ホワイトデー』東洋にだけあり、男性が好きな女性に告白する日です(ここまではあまり日本と大差ないかもしれません。)。

ここからです。4月14日『ブラックデー』バレンタインデーとホワイトデーに縁のなかった人が、お互いを慰め合う日だそうです(むなしくないか?)。この日は黒い服装に身を包み、真っ黒な食べ物であるジャージャー麺を食べます。ブラックデーに出会った二人が恋人同士になることも有るそうです(爆)。

5月14日『イエローデー&ローズデー(もうついていけませんね!)』ブラックデーまでに恋人ができなかった人が、この日に黄色い服を着てカレーライスを食べないと、独身を逃れられないという言い伝えがある日だそうです。また、5月はバラが満開を迎える季節です。相手との関係を発展させるためには雰囲気の良いデートが必要、ということでバラ祭りにかけてローズデーが作られました。6月14日『キスデー』5月のローズデーを一緒に過ごしたカップルなら、次の段階は「キス」!ということで作られた日だそうです(真面目なので笑ってはいけません。)。

7月14日『シルバーデー』恋人同士が互いに銀製品をプレゼントする日です。「シルバー」には、「銀」と「年長者」の二通りの意味があることから、この日は両親や先輩達がデート費用を出してくれます。8月14日『グリーンデー』蒸し暑い夏に涼しい山へ行き、森林浴をする日です。その一方で、まだ恋人がいない人たちが「グリーン」という名前の焼酎を飲みながら互いを慰め合う日でもあります(そこまでして恋人がほしいのか疑問がわいてきます。)。

9月14日『ミュージックデー&フォトデー』ナイトクラブなど音楽がある場所で友達を集めて恋人を紹介し、公認カップルになる日です。また、澄み渡った秋空の下、恋人同士で写真を撮り合う日でもあります。少々疲れて来ました。10月14日『レッドデー』雰囲気の良い秋に、恋人とワインを飲みながら2人だけの特別な時間を過ごす日です。

11月14日『オレンジデー&ムービーデー』恋人と一緒に映画を見て、さわやかなオレンジジュースを飲む日です。12月14日『ハグデー&マネーデー』恋人同士が抱き合って寒い冬を暖かく過ごす日。ハグ(Hug)とはぎゅっと抱き合うことです(私、ハグ好きなのでこれは良いかもしれません。いつもは出来ないのか?)。また1年間、共に過ごした彼女のために彼氏がバンバンお金を使う日です。お嬢様方、韓国移住を考えてはいかがでしょうか(笑)

【最後に一言】

P3131015.jpg(ゴディバの中身、次女が食べられなければ大変でしたから。)

やはり、イベントは踊らされるものではないような気がしますね。そう自分のイベントは自分んで作るべきです。『「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日!』覚えてますか?皆さん自分だけの記念日をお持ちですか、是非良い記念日を作ってくださいね。次は17日長男の誕生日、私はダイエットを始めたはずなのに~~~

歴史って本当に面白いですね。今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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リュミエールブラン ネージュ

  
2018/03/06

『弓弦羽神社』のお礼参りと天宇受賣命の見事な踊りと市郎右衛門の見事なずっこけ!

この3月3・4日の土・日曜日に高校の同級生と香川県に旅行に行って来ました。私は刀比羅宮にお詣りしたくて参加、皆はおうどん?とにかく、気のおけない同級生の男性陣四人と女の子(ここ大事ね、笑)二人と、楽しい旅行と成りました。その模様は、また機会を作ってお話したいと思います。その前に、この旅行をキャンセルしようかとも考えた、馬鹿な失敗が有ったのでそちらをご紹介するのが、今回のブログのテーマです。

P2250005.jpg(お礼参りに来たのですが)

オリンピック終わって、次はパラリンピックですね!選手の頑張りに頭が下がり、更にはメダルの数にビックリの平昌オリンピック!忘れられない冬のオリンピックに成りました。パラリンピックも続いて、皆さん頑張って欲しいものです。実は、旅行の1週間前の2月25日に、羽生結弦選手のオリンピック金メダルのお礼参りに神戸市東灘の『弓弦羽(ゆづるは)神社』にお詣り致しました。お礼参りの1週間前の土曜日(羽生結弦選手のフリープログラム直前!)にお詣りしまして、見事羽生結弦選手が金メダルを獲得したからです。

更には私が予言していた、女子パシュートまで金メダルを獲得したので、これは是非ともお礼参りにうかがわないといけないと思い出掛けたのです。そこで、私に思いがけない災難が起こりました。f(^_^;

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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【『弓弦羽(ゆづるは)神社HPに飛べます』】

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(鳥居の左の大木が県指定天然記念物の椋木です)

「弓弦羽(ゆづるは)神社 」は前回もご紹介したので軽く流して行きます。神功皇后の三韓征伐中に筑紫で誉田別尊(ほむたわけのみこと・応神天皇)を出産され、その帰途出産を聞いた麛坂皇子と忍熊皇子が挙兵したことを知り、この地で弓矢・甲冑を納めて熊野大神に戦勝を祈願しました。弓矢・甲冑を納めたということから、当社背後の山を「弓弦羽岳」「武庫山」(後に「六甲山」の字が宛てられた)と呼ぶようになりました。つまり「六甲山」の名前が神功皇后や「弓弦羽神社」の由来に関係するということでした。

【前回ご紹介出来なかった色々】

手と口を清めます。神社によっては神官用の祓場という駐車場のような場所があります。神社を廻り始めた頃は何なのかわかりませんでした。神官が体を清める場所です。今は簡素化されて御手水に成っています。

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(一杯汲んで左手・右手・左手で口・左手を流す・最後に持ち手まで流せれば貴方はもう神社フリークです。)
P2250018.jpg(最後の残り水で柄を流します。慣れると出来ますよ~。)

先ずは御朱印頂きました。いつも、御朱印はブログでご紹介しておりません。数が半端ないので、省いております。webで検索すると、御朱印集めをされている方々のホームページやブログが出てきます。私も貰い損ねないように、事前に、チェックさせて頂いています。例えば、伏見稲荷も3ヶ所で貰えるのですが、山上の御朱印を貰い忘れて、再度お稲荷さんをかけ上がった事も有りました。

以前は、貰い損ねると「失敗した」と落ち込んでいたのですが、今では私も少しは大人に成ったのか?「神仏の思し召し」「ご縁が有るからもう一度来なさい」との呼び掛けなのだと考える様に成りました。実際に2度目に行くと、なにかしら新しい出会いがあったり、前回気が付かなかった事に気が付いたりと、確かに思し召しだったと思えるように成っています。

次は、ゆるキャラゆず丸くん!&ゆず丸くんお守り!です。大きな抱き上げるゆずるくんは、前回は朝早すぎて、社務所が開いてませんでした。ですから御朱印ももらえなかったんですよね~f(^_^;

P2250028.jpg
(抱っこ用のゆず丸くんです。)
P3060753.jpg(ゆず丸くん守り?)

【神社はお願いする為の場所ではない】

P2250041.jpg(お賽銭は五円・ご縁が有るようにですが、十円だと・遠縁となり縁起が悪いそうです。)
P2250035.jpg(お礼のお詣り)

皆さん神社は感謝を伝える場所って知ってましたか、いきなり合格祈願とかしていませんか?今日はその辺も少し書いてみます。基本的に神社は、個人的な願い事をするところではなくどの神社も全て、神様の発展と人々との平穏を祈りに行くところです。初めての神社に訪れた時、お賽銭を入れて神前で柏手を打った瞬間神様が出て来てコンタクトが取れるのですが、これは日本だけ出は無いでしょうか、出て来られた神様にお願いをしないところが、ある意味凄い所ですね。

神前での礼儀作法は、二礼二拍一礼(一部違う所も有ります)の後、「苦しい時の神頼み」と言いますが。決してそんなことではありません。合格祈願なら「私はこのように受験に向けて頑張りますので、どうか見守っていてください」という感じでお詣りします。ここで念願がかない、合格することが出来たなら当然「見守って応援してくださった神様にお礼参りに行かなければいけません。

つまり、神社というのは「神様にお礼を伝えに行く場所」なのです。もしもの時の神頼みとして、神社の神様にお願い事をされに行くという方も多いですよね、しかしながら、神社の神様は、日頃から感謝の気持ちを伝えに来てくださってる方の願いを叶えてくださいます。突然、自分の願いを叶えたい時だけやってきてお願い事をしていくというのはなんだか虫が良い話だと思いませんか?

成功者と呼ばれる方々は神社をとっても大切にされていると感じます。世の中の成功者と呼ばれる類の方々は、実は神社という場所をとても大切にされているのです。これは宗教的な、神教という意味ではなく、守ってくださっている氏神様という意味合いでです。私は、大きな会社の社長さん程、神社をとても大切にされている印象を受けます。お礼を伝えるだけではなく、きちんと参拝のさいには自分自身の住所や名前も神様にお伝えしてくるのが良いとされています。

一番大切なのは感謝をすることです。人として一番大切なこは、感謝の気持ちを忘れないことです。感謝の気持ちを持つことで、幸せを感じることができるということをご存知だったでしょうか?不平不満ばかりを言ってしまう、そんな方は、感謝の気持ちが足りていないのかもしれません。感謝の気持ちを持つことができれば、自ずと不平や不満というのはなくなるからです。今あることに感謝をし、今のあなたがそこに居られることに感謝をすることで、今の自分はとっても幸せなんだということに気付くものです。

今この時間を大切に生きることは、神社の神様に対するのと、同様なのです。どうして自分はこんなに不幸せなのでしょうか。と神様に伝えたところで、神様は何もすることは出来ません。それはあなた自身が行動を起こしていないからです。不平不満は、神様に伝えるべきことではないのです。

必ず、見守ってくださりありがとうございます。という気持ちを神様に伝えることで、神様もあなたの味方をしてくださるようになります。いつでもどこでも、感謝の気持ちを持つことで良い方向に物事は動き出すのです。それが7どんな困難も乗り越えて行くことにつながります。自分が良い時だけではなく、苦しい時も欠かさず神様にお礼を伝えに行くことで、いざというときに神様に助けていただけるようになるものです。

【アマノウズメの足を踏んずけた】

P2250066.jpg(十二社の撮影を…)
P2250079.jpg(屋根がね、なかなか入らない~~)

アマノウズメとも呼ばれるアメノウズメは、日本神話に登場する女神の一人です。 『古事記』では天宇受賣命、『日本書紀』では天鈿女命と表記するのです。天照大御神の「岩戸隠れ」の伝説などに登場する芸能の女神で、日本最古の踊り子と言えます。一説に別名「宮比神」(ミヤビノカミ)。大宮売神(オオミヤノメノカミ)と同一視されることもあるようです。

岩戸隠れで天照大神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になったとき、神々は大いに困り、天の安河に集まって会議をします。思兼神の発案により、岩戸の前で様々な儀式を行うことが決まりました。『古事記』では次のように記述されています。

「槽伏(うけふ)せて踏み轟こし、神懸かりして胸乳かきいで裳緒(もひも)を陰(ほと=女陰)に押し垂れき。」 つまり、 アメノウズメがうつぶせにした槽(うけ 特殊な桶)の上に乗り、背をそり胸乳をあらわにし、裳の紐を股に押したれて、女陰をあらわにして、低く腰を落して足を踏みとどろかし(『日本書紀』では千草を巻いた矛、『古事記』では笹葉を振り)、力強くエロティックな動作で踊って、八百万の神々を大笑いさせました。その「笑ひえらぐ」様を不審に思い、戸を少し開けた天照大神に「あなたより尊い神が生まれた」とウズメは言って、身を乗り出した天照大神を天手力雄神が引き出して、再び世界に光が戻ったという神話です。有名なシーンなので皆さんもご存知ですよね。

弓弦羽神社の本殿横に十二社(神社境内の末社を統合して相殿)を撮影中にどうしても屋根が入らないのでもう少し、もう少しと後退していたら、そこに天宇受賣命が持って踊ったといわれる招霊のきが有りまして~。

P2250074.jpg(うぎゃ~~~カメラ放さんかったのはえらいわ~!)
P2250073.jpg
(メッサ痛いわ~~!肋骨ヒビ入りまして、旅行キャンセル頭をよぎり・・・周りの人が声をかけてくださいました。)
P2250093.jpg
(この石につまずいて左肋骨が手前石の上に・・・)
P2250088.jpg(天宇受賣命が持って色っぽいダンスを踊ったそうな~、美人に弱い市郎右衛門です)

【最後に一言】

P2250052.jpg(満開の梅は綺麗ですね~。)

友達といった旅行は皆が気を使ってくれてとても楽しく過ごせました。肋骨はいたかったけどね~。一週間で梅の花がさらに満開になって良い香りがしていました。次はパラリンピック、ハンデを乗り越えて私たちに感動をくださいね~選手の皆さん期待しています。


歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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