『城・城跡巡り』 - 「高天原の縁側日記」
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2018/02/24

没ネタ復活祭?竹中半兵衛の策略、『三木の干殺し』ご近所の城(砦)を探索してみよう!

三木合戦の支城三つの城(砦ですかね)を取材していたのですが、これはちょっと、記事に成らないかもと考えて、ご紹介していなかったのですが、やはり「小さな事からコツコツと砦?をフィールドワーク(笑)」と言うことで、勿体無いの精神でご紹介致します(何ゆうてるのか?)。

CIMG6481.jpg(神戸市北区淡河町「道の駅淡河」の南側の小高い山の上「淡河城跡」の石碑)

三木合戦(みきかっせん)は、天正6年3月29日(1578年5月5日)から天正8年1月17日(1580年2月2日)にかけて行われた織田氏と別所氏の合戦の事です。織田家の武将羽柴秀吉が行った播州征伐のうちの1つで、別所氏は播磨三木城(兵庫県三木市)に篭城しています。この合戦で秀吉が行った兵糧攻めは、三木の干殺し(みきのひごろし、ほしごろし)と呼ばれるほど苛烈な物でした。考案したのは羽柴軍の天才軍師「竹中半兵衛」ですが、自分の作戦の苛烈さが心労に成ったのか?三木合戦の途中、天正7年6月13日(1579年7月6日)に亡くなっています。

そのなかで、神戸市北区道場町『松原城跡』、我が家からも近く「仙石権兵衛(但馬出石藩の元と成った武将です、)」が落城させて、兵糧を止めた『茶臼山城跡』と戦国時代には別所氏に属した『淡河城跡』が没ネタに成っていたので、ご紹介したいと思います。羽柴軍は徹底的な囲みこみを行うために、別所氏の支城を攻略するとともに、羽柴軍が築いた砦は数多いようですが、今回はまず我が家のご近所三か所です。

【室町から戦国への播磨と周辺の情勢】

三木城址1(三木城址別所長治像)

室町時代の播磨は守護赤松氏の領国でした、嘉吉の乱(室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が、室町幕府6代将軍足利義教を暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱の事です。)で没落、後に再興されるものの一族や家臣の台頭を許す事に成りました。室町後期の戦国時代になると、これらの勢力は半独立状態となって数郡ごとを領し割拠します。別所氏もその1つで、赤松氏の一族であり、東播磨一帯に影響力を持っていました。

周辺国では西の大国毛利氏とその幕下の宇喜多直家、畿内を制しつつある織田信長が勢力を広げており、播磨国内の諸勢力は毛利氏と織田氏の両方と友好関係を結んでいました。この二大勢力も播磨を緩衝地帯として友好関係を保っていましたが、信長に京都から追放された足利義昭や石山本願寺の顕如の要請により、毛利氏は反織田に踏み切ります。

播磨国内では、天正5年(1577年)5月に中播磨の御着城主小寺政職が毛利氏と争って旗幟を鮮明にするなど、多くの勢力が織田氏寄りとなりました。同年10月、羽柴秀吉が織田氏の指揮官として播磨入りし、宇喜多直家の支配下となっていた西播磨の上月城や福原城などを攻略、上月城の守備に尼子勝久・山中幸盛を入れ、一旦は播磨のほぼ全域が織田氏の勢力下に入ります。

しかし、織田と別所間の関係は織田勢による上月城の虐殺、同月に加古川城で行われた秀吉と別所吉親の会談(加古川評定)で生じた不和などをきっかけに悪化していきました。翌天正6年(1578年)に秀吉は中国地方攻略のため再び播磨入りしますが、同年2月、吉親の甥で別所氏当主別所長治が離反し毛利氏側に着きます。別所氏の影響下にあった東播磨の諸勢力がこれに同調、浄土真宗の門徒を多く抱える中播磨の三木氏や西播磨の宇野氏がこれを支援し、情勢が一変してしまいます。長治は三木城に篭城して毛利氏の援軍を待つ方針を決定、三木合戦が開始される事に成ります。

【三木合戦】

当時の時代背景ですが、織田軍中国攻め司令官、羽柴秀吉が小寺勘兵衛(黒田勘兵衛)の活躍も有り、播磨を平定した矢先の1778年(天正6年)三木城主、別所長治が毛利に通じて突如反旗を翻します。

備前、宇喜多直家の動向も未だに不明な時、秀吉軍は播州(姫路)で前後ろを挟み撃ちされる形に成り、中国攻めを一時的に中断し別所氏攻略に取りかかります。これにより上月城の尼子氏を見捨てざるをえなくなり、毛利軍吉川元春らに攻められて上月城は開城、尼子勝久は切腹し尼子氏は断絶、私の大好きな、猛将「山中鹿之助」も謀殺されています。

別所家は播磨の名門(名門が故に新参の秀吉配下に反攻した説も有ります)、三木城は周りの一族、国人衆の支城も含めての籠城戦に入ります。羽柴秀吉は周りの支城を落とした後、あの有名な兵糧攻め(戦わずして勝つ!秀吉としては始めてで、その後の城攻めの転換点となります)、三木日干し戦術を取ります。この籠城は、荒木重村や小寺政職の離反応援も加わって、2年にも及びました。

【離反の理由】

秀吉と別所吉親の会談(加古川評定)でもお話しましたが、別所氏が離反した理由としてよく言われるのが、赤松氏の一族という別所氏の名門意識が評定での秀吉との対立を招いたというものです。これ以外にも数多くの要因があり、織田軍による上月城の虐殺への義憤、かつては毛利氏とも友好関係であったこと、播磨国内に浄土真宗の門徒が多かったこと、信長による所領安堵の約束への不信感、別所吉親と別所重棟(重宗)兄弟の対立、姻戚関係にあった丹波の波多野氏の織田氏からの離反、上月城での処置への不信感など数々挙げられますが、はっきりとはせずむしろすべてがまとまったと言えるのではないでしょうか?

【三木城・別所氏の籠城】

別所長治が籠城した三木城には、東播磨一帯から約7500人が集まりました。この中には、別所氏に同調した国人衆の他に、その家族や浄土真宗の門徒なども含まれており、いわゆる諸篭り(もろごもり・一族妻子、時には領民丸ごと城に篭る事))でした。このため多くの兵糧(食料)を必要とし、別所氏にとってはこれが重要な課題となりました。合戦中、瀬戸内海の制海権を持つ毛利氏や英賀城の三木通秋などによって兵糧の海上輸送が行われます。別所氏側では、海沿いにある高砂城や魚住城などで兵糧を陸揚げ、主な支城と連携して加古川や山間の道を通って三木城に兵糧を運び込んでいます。

これに対し、秀吉は支城攻略の方針を採用します。天正6年3月29日に秀吉は三木城包囲を開始、4月1日に別所軍が近辺の細川庄(現在の三木市細川町)領主の下冷泉家当主冷泉為純・為勝父子と別府城の別所重棟(別所長治の叔父ですが織田軍に従いました)を攻撃しました(為純父子は討死、重棟は撃退に成功します)。4月3日から6日にかけて秀吉軍は支城の1つである南西の野口城を落城させますが、同じ頃に毛利氏の3万の大軍が尼子勝久の上月城を包囲します。秀吉は東播磨での展開を一次中断して4月下旬に上月城東側の高倉山に布陣しましたが、兵力が少なく毛利軍に手出し出来ず膠着状態になりました。

高倉山の織田軍は三木城攻略を優先して書写山まで撤退、7月には毛利氏が上月城を攻略します。毛利氏の目的が上月城の奪還のみであったためか、補給路が伸びきってしまうのを避けるためか、毛利氏はそれ以上東進しませんでした。これを受けて織田軍は東播磨での活動を再開、上月城救援のために派遣した軍勢と信忠の軍勢で6月から10月にかけて神吉城・志方城・魚住城・高砂城を攻略、三木城に対峙する平井山(三木城の北東約2km)本陣と包囲のための付城を築きます。翌天正7年5月、秀吉は摂津からの兵糧輸送の中継地点、丹生山明要寺と淡河城を攻略、これによって再び補給が困難となりました。

さらに、この間に共同戦線の一角姻で戚関係にあった波多野氏が明智光秀に敗れ、毛利氏側であった宇喜多直家が離反、同じく共同戦線を張った荒木村重の有岡城が織田軍に攻略されます。

天正8年(1580年)1月、三木城内の食料は既に底をつき「三木の干殺し」状態が続いてました。一方の織田軍は三木城内の支城を攻撃、6日に長治の弟友之が守る宮ノ上砦落城、11日に吉親が守る鷹尾山城が落城、残るは本城のみとなりました。14日、重棟の城中への勧告により城主一族の切腹で城兵の命を助けるという条件が示されます。17日に長治一族が切腹(吉親は抗戦しようとして城兵に殺害)、1年10ヶ月に及ぶ篭城戦が終了したものの、このとき、羽柴軍によって大量殺りくが行なわれた可能性が高いそうです。有岡城に荒木村重を説得に行って、幽閉されていた黒田孝高は家臣に救出され、この後孝高は居城姫路城を秀吉に提供、姫路城は秀吉の居城となりました。

【松原城跡】



P2240058.jpg
(悲しいお話じゃないですか~~涙。)
P2240067.jpg(神戸電鉄「道場駅」の上から見ると良く見えますが、城とはわからないですよね。)
P2240062.jpg(石垣?らしき物が少しだけ見えます。)
P2240072.jpg(南から見るとこんな感じ、砦の大きさです。)

まずご紹介するのは、現・神戸市北区道場町日下部に在った「松原城跡」です。別名・道場城、蒲公英(タンポポ・本真かいなの名前です、笑)城と呼ばれていました。南北朝時代に赤松円心則村の四男、弾正少弼氏範の子氏春が居城として築きましたが、永徳3年に赤松氏範と氏春は播磨の清水寺に敗死()したので、しばらくは廃城となりました。

室町幕府に仕えた三田の住人松原兵衛尉貞朝の子貞直が、その後、松原城に入り天正年間頃まで居城したようです。松原氏は早くから三木城の別所氏の麾下でした。 この為、天正7年の三木城攻めの時、秀吉方に包囲され落城し、城主の貞利以下が討死、または自刃して果てたといわれます。その後、廃城となって遺構の井戸・土塁・空堀等が残っています(ほぼ確認できなかったのが没ネタの原因です)。

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(播州清水寺にある氏範切腹石・氏範らの墓も有るようです。一族郎党142名自刃!)

【茶臼山城跡】



P2240001.jpg(神戸三田アウトレットのすぐ傍です。左下側青い部分が茶臼山城跡です。周りは今も開発中です。)
P2240053.jpg(南丸と散歩道)
P2240051.jpg(南丸に堀切らしき構造がなんとなく分かります?)
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(本丸登り口良い散歩コースに成っています。)
P2240038.jpg(本丸平面、50メートル四方くらいですかね。)
P2240035.jpg(「一蓮坊(いちれんぼう)祐之」顕彰碑!)


次にご紹介するのは、現・神戸市北区上津台に在った「茶臼山城跡」、別名・上津城とも呼ばれていました。この茶臼山城は、一般的に全国に200以上あるといわれている戦跡の茶臼山のひとつです。茶臼山(ちゃうすやま)は、形状が茶の湯のてん茶を抹茶に挽く茶臼に似ているとされる富士山のような末広がりの形の山のことを言います。茶磨山(ちゃすりやま)とも呼ばれる。かつて戦で縁起を担ぐ武将に好まれ陣が張られた場所が多い。天然の山ではなく古墳であることもしばしばある様です。前方後円墳の形が茶臼に見えるからのようです。

「茶臼山城」は「一蓮坊(いちれんぼう)祐之」という土豪が指揮を執っていましたが、羽柴秀吉の三木城攻めの際に、秀吉の家臣による攻撃を受け、降参することを余儀なくされました。一蓮坊祐之は、自分の自害を条件に家臣の命を救ったといわれています。茶臼山城は秀吉の家臣(当時仙石秀久が家臣だったのかは疑問です。信長の命による与力だったかもしれません。)「仙石権兵衛秀久」に与えられています。現在の長尾町上津の茶臼山城は、地元住民の要望によって、安全な公園化を行い、展望台や顕彰碑などの整備もされています。名の「茶臼山城跡(ちゃうすやましろあと)」を改め、「茶臼山城緑地」と呼ばれています(もう全く城跡と言えない?公園だったのが没ネタの原因(;^_^A)。

【淡河城跡】



CIMG6481-2.jpg(模擬楼閣、確か私が訪れた時にはありませんでした。ウキペディアよりお借りしました。)
CIMG6482.jpg(下に記載したことが書かれているはずです。)

最後にご紹介する「淡河城跡(おうごじょう)」別名・上山城 は、現・神戸市北区淡河町淡河「道の駅淡河」の南側の小高い山に城跡があります。城跡としては前の二つより城らしいいです。現在は丘の上に田畑となっている本丸址と模擬櫓(私が取材した当時は無かったと思います)があり公園になっています。

播磨一帯の豪族であった北条時房(執権北条氏の一族)の孫にあたる淡河時治の城とされます。淡河成正(淡河時治との関係は不明でした。)が1222年に築城したと言われます。淡河氏は南北朝時代の暦応2年(1339年)に石峯寺・三津田とで赤松則村(円心)率いる南朝方と戦い敗れてしまいます。明徳3年(1392年)には淡河範清が養子として赤松氏より季範を養子として迎え、その後は赤松氏に属しました。

戦国時代には別所氏に属しましたが、淡河定範が城主であった天正7年(1579年)に羽柴秀長の攻撃で落城、有馬則頼が城主となっています。慶長6年(1601年)に則頼は三田城に移り、元和元年(1615年)に廃城となりました(遺構、模擬城壁・曲輪・天守台・土塁・空堀・切岸等の撮影ができていないので没ネタです。と言いますか取材?時まだブログ書くと思っていなかったのです。笑)。

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(淡河氏のお墓ですがお参りする人も無くの状態です。)
CIMG6484.jpg(五輪塔も草に埋もれていました。)

【最後に一言】

今回の没ネタ復活ですが、けして取材ソースが無くなったわけではありませんが、せっかく取材したにも関わらず、ご紹介しないのはもったいないと考えて、三つひとまとめでご紹介することにしました。この場所は我が家から車で30分かからない場所ばかりです。こんな身近な場所にも歴史に関連した遺構が在る事を皆さんに知って頂ければと思います。つまり皆さんの住んでいらっしゃるご近所にも必ず面白い歴史が埋まっているのです。是非探してみると面白いですよ。

いつも応援ありがとうございます。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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2018/02/13

織田家の血脈は残った?「柏原藩陣屋跡」

ほぼ天下を実質手中にしたといっても良い織田信長でしたが、明智光秀の謀叛によってその人生をの幕を閉じることに成ります。信長の死と共に、信長に連なる織田家は次の天下人となった豊臣秀吉や、徳川家康によって没落の一途を辿ります。そんな、織田家においても、したたかに戦国時代や江戸時代を生き抜いた末裔も居るのでご紹介したいと思います。

P2120083.jpg(柏原藩陣屋跡)

今日ご紹介するのは、兵庫県丹波市柏原町を支配した柏原藩の織田家です。城下町のゆるやかな坂を上ると、人の背丈ほどの白壁に囲まれた陣屋跡に行きつきます。かつて織田信長の子孫が治めた柏原藩の政庁です。内部に長屋のような空間を備えた国指定文化財「長屋門」をくぐると、檜皮葺きの玄関を持つ「表御殿」が威厳を放ちます。

柏原藩は信長の兄弟信包と、後に信長の次男信雄の子孫が柏原藩主として、転封されています。城は有りませんが柏原藩陣屋が有り、一部が保存されたり再建されたりしています。



【織田家(信秀・信長系列)って?】

「信長公記」によると、織田信長の家系は、尾張守護でもある管領の斯波武衛家の家臣で、応仁の乱における斯波氏の内紛に派生する混乱のため分裂し、それぞれが主家の斯波氏を凌ぎ戦国大名化した家系です。戦国時代において、清洲三奉行(織田信長の家系はこの三奉行の一家に過ぎません。)が仕える清洲織田氏(大和守家)は清洲城を本拠に守護斯波氏を奉じ尾張下4郡を支配下に治めており、もう一つの岩倉織田氏(伊勢守家)は岩倉城を本拠とし尾張上4郡を治めていました。つまり、織田家(信長)は尾張の守護代でもなく、尾張半分の守護代家老三奉行の一つに過ぎない訳です。

天下統一を目前に本能寺の変で信長および嫡子の織田信忠が討たれると、織田家有力家臣の勢力争いとなります。最終的に羽柴秀吉が織田家中をまとめますが、織田家当主とされた織田秀信(織田三法師、織田信忠の嫡男、信長の孫)成長後も政権は織田家に返されることはありませんでした。しかし織田家の本国である岐阜城は返却され美濃の領主とされました。

関ヶ原の戦いで西軍についたことで徳川家康により織田秀信は改易され、5年後の彼の死を以って織田家嫡流は断絶したと言われています。しかし、織田信長の次男である織田信雄を筆頭に弾正忠家の庶流は存続し続け、江戸時代には外様の小大名や高家、旗本、尾張藩や明石藩家老などとして存続しました。なかには藤掛氏、津田氏のように織田を称しない一族もいます。現在でも直系子孫は続いているんです。明治維新後、大名の織田家四家が子爵に列しました。

フィギュアスケートで有名な織田信成さんも、信長の子孫を自称されていま。。織田信長から数えて17代目の末裔(旗本高家の織田信高の系統)にあたると自称しされています。

【丹波柏原藩史信包流】

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(丹波柏原藩初代、織田信長の弟・信包)


織田信長の弟・信包は慶長3年(1598年)6月、伊勢国安濃津から柏原3万6000石に移封されます。これが柏原藩の立藩でした。信包は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属しましたが、戦後は改易されずに済み(名門の血脈を惜しまれたのか?)、大坂城で豊臣秀頼に仕えました。慶長19年(1614年)、信包は大坂冬の陣直前に死去しています。

その後、信包の孫で第3代藩主・織田信勝の時代に治水工事や新田開発などが行なわれて藩政の基礎が固められましたが、信勝は慶安3年(1650年)5月17日に嗣子が無いまま死去してしまい、ここに柏原藩は廃藩となり、その所領は幕府領(天領)となります。

P2120147.jpg(三代藩主・織田信勝を祀る織田神社、ちなみに全国で三社の建勲神社もすぐ側にあります。)
P2120150.jpg(織田権現とも呼ばれているそうです。)

【丹波柏原藩史信雄流】

元禄8年(1695年)4月14日、信長の次男(三男ともいわれます)、織田信雄の五男・織田高長から始まる大和宇陀藩の織田信休が、2万石で柏原に入部したことにより、柏原藩が再度?立藩されました。

これは大和宇陀藩2万9000石の藩主であった信休の父・織田信武が元禄7年(1694年)に発狂して家臣の田中五郎兵衛らを殺して自らも自害するという「宇陀崩れ」を起こしたため、処罰としてその子である信休が減移封されることとなったためです。ちなみに宇陀崩れ(うだくずれ)とは、江戸時代に大和国の宇陀松山藩で起こったお家騒動の事です。

宇陀松山藩三代織田長頼の時、弟の長政に福知村ほか8か村3000石を分与した。4代織田信武の代に至り藩の財政は窮乏し、打開策をめぐって重臣が対立します。1694年(元禄7年)、信武は、創業功臣の裔である重臣生駒三左衛門、田中五郎兵衛を討ち果たして自らも自害を遂げました。このため翌年、後継の織田信休は丹波国氷上郡柏原藩2万石に減封のうえ国替となり、宇陀松山藩は廃藩となり終焉しました。

信休は藩財政窮乏の中で藩政の基盤固めに努めましたが、大洪水や旱魃などが相次ぎ、元禄9年(1696年)には年貢軽減を求める愁訴が起こります。その後も柏原藩では藩財政の窮乏化が進み、藩内では要人をはじめとする61人の解雇(リストラ)、藩士の俸禄削減、藩札の発行などの諸改革を断行しましたが効果はなく、文政7年(1824年)には物価高騰に反対する百姓一揆が起こりました。

第五代藩主・織田信守はこのような中で奢侈(身分不相応に金を費やす事)に走って藩政に関心を示さなかった上、その快楽のために百姓に重税を強いたため、領民は信守を恨みました。しかも信守が愛妾の保野を寵愛して政務にまで関与させた結果、藩主の地位をめぐっての争い(秘命騒動や保野騒動)が起こり、藩政は大いに乱れることとなりました。

第六代藩主・織田信古の代には先代の信守のツケに加えて藩札の発行により藩経済が大混乱し、天保4年(1833年)には遂に百姓の怒りが爆発して、打ち壊し騒動が発生しています。このような中で第八代藩主となった織田信敬は、小島省斎と協力して倹約を主とする藩政改革を断行します。そして藩内で文武を奨励し、藩校として又新館を設立しました。

第九代藩主・織田信民は信敬の遺志を受け継いで新たに藩校・崇広館を設立し、小島省斎と共に藩政改革に臨んでいます。現在「柏原藩陣屋跡」は表御殿が残り、お台所等は地表面に表示されています。奥部分は小学校の敷地に組み込まれました。

P2120117.jpg(信雄流のお墓!柏原高校の右山側にありました。)
P2120142.jpg(真ん中が信雄流初代・織田信休、奥が二代・織田信朝、手前が三代・織田信舊)

【織田家の血脈】

織田氏の諸藩では、信雄の系統は柏原藩の他に天童藩が、織田長益(有楽斎)の系統は柳本藩、芝村藩(戒重藩)が、明治維新まで存続しています。有楽斎の系統は他に味舌藩、野村藩が存在しましたが、これらは江戸時代初期に除封、無嗣断絶しています。

【柏原藩歴代藩主】

代・氏名・官位・在職期間・享年・備考の順に記載。

『織田信包流・外様 3万6000石』

①織田信包(おだ のぶかね)
従三位左近衛中将
慶長3年~慶長19年(1598年~1614年)72?
父は織田信秀。織田信長の実弟。

②織田信則(おだ のぶのり)
従四位下刑部大輔
慶長19年~寛永7年(1614年~1630年)31

③織田信勝(おだ のぶかつ)
従五位下上総介
寛永7年~慶安3年(1630年~1650年)28
無継嗣のため改易。

『幕府領(天領)』

慶安3年(1650年)~元禄8年(1695年)

『織田信雄流・外様 2万石』

①織田信休(おだ のぶやす)
従五位下近江守
元禄8年~享保7年(1695年~1722年)45
父は大和宇陀松山藩4代藩主の織田信武。
大和宇陀松山藩から転封。

②織田信朝(おだ のぶとも)
従五位下出雲守
享保7年~元文2年(1722年~1737年)29

③織田信舊(おだ のぶひさ)
従五位下山城守
元文2年~天明3年(1737年~1783年)74
前藩主信朝の実弟。

④織田信憑(おだ のぶより)
従四位下出雲守
天明3年~文政10年(1783年~1827年)91
実父は高家旗本・織田信栄。
宝暦8年(1758年)に前藩主信旧の養子となる。

⑤織田信守(おだ のぶもり)
従五位下山城守
文政10年~文政12年(1827年~1829年)69

⑥織田信古(おだ のぶもと)
従五位下近江守
文政12年~天保13年(1829年~1842年)54
祖父は3代藩主の信旧。実父は織田信應。

⑦織田信貞(おだ のぶさだ)
従五位下出雲守
天保13年~弘化3年(1842年~1846年)44
実父は5代藩主の信守。

⑧織田信敬(おだ のぶのり)
従五位下出雲守
弘化3年~嘉永7年(1846年~1854年)18
実父は肥後宇土藩9代藩主の細川行芬。

⑨織田信民(おだ のぶたみ)
従五位下山城守
嘉永7年~慶応元年(1854年~1865年)26
実父は筑前秋月藩10代藩主の黒田長元。

⑩織田信親(おだ のぶちか)
従五位下出雲守
慶応元年~明治4年(1865年~1871年)77
実父は交代寄合の山崎治正。

【秘命騒動と保野騒動】

織田 信守丹波柏原藩第五代藩主は、第四代藩主織田信憑の長男でした。享和元年(1801年)6月14日、父信憑の嫡子となる。当初、信憑は信應(養父信旧の三男)を養嗣子としていたものの、この年に死去したため長男信守を嫡子としました。同年10月1日、将軍徳川家斉に御目見し、文化12年(1815)12月28日、従五位下山城守に叙任されます。父信憑の官位昇進にともない、世子の地位にありながら叙任しており、特別な待遇であったといえます。

その後、信守は信應の遺児信古の廃嫡を狙い「秘命騒動」を起こします。先々代藩主・信舊は後継者に恵まれず、分家から信憑を養子に迎えたものの、その後に実子信應を授かいます。成長した信應は先代信憑の養嗣子になったものの、藩主に就任する前に病没しました。つまり、信應の遺児・信古は柏原藩織田家の正統な後継者といえました。

しかし、信守は信古を養嗣子に迎えず、実子信貞を後継者にしようと企んだのでした。信古は病気のため嫡子にはできないとして、退隠をさせようとしたようです。文政4年(1821年)3月以降、たびたび信古の出府を延期させており、この頃の出来事と考えられます。結果的には、文政6年(1823年)、家臣九里政敬らの強い反発を受け、信古を婿養子に迎えました。

信守は、文政10年(1827年)10月10日、家督を相続、同12年(1829年)11月18日に隠居し、養子信古に家督を譲りました。信守の暴政に耐えられなくなった家臣団が幕府に藩主の交代を訴え、隠居させられたとも言われています。さらに隠居後、その側室保野による「保野騒動」が起こります。天保10年8月16日、信守は家臣に側室保野を柏原に連れてくるように厳命し、一方で側室保野に柏原に来ないように連絡をするなどして、家中を混乱させる原因を作ったことから、遠慮(「えんりょ」とは、江戸時代の刑罰の一つで、武士・僧侶などに科せられました。基本的に、自宅での籠居「ろうきょ」を命じたものです。)を命じられています。天保11年(1840年)5月10日江戸において死去、享年69。広徳寺に葬られています。

【柏原藩陣屋跡】

P2120043.jpg
(柏原藩陣屋跡)
P2120044.jpg(長屋門入り口)
P2120062.jpg(表御殿正面、200円で中も拝見出来ます。)
P2120055.jpg
(残っているのは、赤で囲まれた部分です。)
P2120060.jpg
(こちらは建物地図が表示されていました。)
P2120091.jpg(台所辺りと後方は近代的な小学校です。)

柏原陣屋(かいばらじんや)は現在の兵庫県丹波市柏原町(丹波国氷上郡)にあった柏原藩の藩庁の陣屋です。国指定の史跡と成っています。元禄8年(1695年)信長の次男信雄の孫、宇陀松山藩主信休がお家騒動の咎により領地を半減され2万石で移封します。移封より19年経た正徳3年(1713年)幕府より陣屋を築く事が許されました。以後十代にわたり織田氏が治め、明治にいたっています。

長屋門は正徳4年(1714年)に造られた表門で内部は左側が番所、右側が馬見所と砲庫に成っています。文政元年(1818年)御殿が焼失した時も延焼を免れています。創建時から残る唯一のものです。御殿は正徳4年、初代信休により築かれたものでした。文政元年の火災で焼失し、文政3年(1820年)に再建されました。しかし明治維新後に解体され、現在では再建時のおよそ5分の1が現存しているにすぎません。なお、正確な建築年代は判明していませんが、太鼓櫓は大手門にあり、番所や物見櫓の役割も果たしました。明治になってから石田大蔵神社境内に移築されています。

【最後の一言】

八代藩主、織田信敬の実父は肥後宇土藩九代藩主の細川行芬です。九代藩主織田信民の実父は筑前秋月藩十代藩主の黒田長元です。血脈を繋ぐ今の養子とは少し違いが在ると感じます。血より名をとる、江戸時代全国の大名が名前を護るための養子をとっています。我が家の近くでは、三田の九鬼家も血脈は途絶えていたはずですし。謙信公の上杉家も吉良上野介の息子が養子に成っていましたし、私の尊敬する上杉鷹山公も養子でした。大名家は企業と同じです。そこは出来の悪い創業者の息子よりも、能力のある、新社長ですかね~笑。

陣屋敷地は小学校の敷地の一画となっています。第九代藩主・織田信民が作った藩校の名前にちなんで、崇広小学校!「卒業の日に長屋門をくぐる」のが伝統のようです。柏原藩主のように強く大きく伸びろの願いは不変ですね。今年ももうすぐ織田家ゆかりの門から児童が巣立ちます。

P2120037.jpg(あとひと月ほどで児童が巣立つ「長屋門」が最後に成りました。)


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2018/02/02

光秀の謀叛は、丹波・近江の没収、「出雲・石見への国替」が原因か?『福知山城』を検証してみた。

前回、明智光秀の居城「亀山城」をご紹介すると共に、簡単ではありますが、本能寺の変への流れをご紹介致しました。表題にも書きましたように、丹波と近江(坂本)を没収され、出雲・石見への国替えを示唆された事が本能寺の変の大きな原因となったという推論は、これまで徳川家康饗応役をしくじり、信長が森蘭丸に命じて鉄扇で打たせ辱めを受けた怨恨が原因なのでしょうか。

さらには丹波国平定に際して、丹波八上城の波多野兄弟を降伏に追い込み、自分の母親(義母、乳母、代わりの母とも)を人質として城内に送りこんで助命を約束、それにより波多野兄弟は八上城を開城します。しかし、安土に送られた波多野三兄弟は信長が勝手に磔刑してしまい、これを知った八上家家臣はこの約束違反に激怒し、光秀の母を殺害してしまいました。この怨恨が本能寺の変を引き起こしたとの推論の重要な要因だと考えられてきました(光秀が母を人質に出したことも、母が殺されたことも信頼できる史料には記載されておらず、これは史実ではなく後世の創作とされています。)。

P9240392.jpg(この写真撮影場所が福知山城のベストスポットだと思います。ZORROというパチンコやさんの立体駐車場のてっぺんです。是非行ってみてください。笑)

現在では、影の首謀者説や四国(長宗我部氏)攻めの新資料が発見されるなど、新説が台頭して謎がふかまってきました。

丹波地方は其ほどまでに、光秀にとって重要な土地だったのか、検証するために丹波攻略の最前線、福知山城へ出掛けました。

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。

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P9240208.jpg(昇龍橋を渡って天守閣へ、本来こちらは裏側に成ります。)

【丹波没収は事実か?】

実際には丹波・近江(坂本)没収はされず、国替えを示唆されただけの様です。信長の軽い?部下いじめだったのも知れません。本能寺へ向かう出発点も亀山城ですし、明智光秀は近江・坂本城を居城としており、丹波も所領として36万石を持っていたといわれます。意外と石高は少ないように感じますが、畿内近国の諸将(細川・筒井等)を指揮下に置き、その実力は200万石相当とも言われています。

関東方面軍団長、滝川一益も関東・上野に移動になったように、信長は方面軍団長(明智光秀・柴田勝家・羽柴秀吉等)を征服目的地の近くの所領に送り出す戦略で、織田家の支配を拡大していきます。織田軍の作戦であって、特別な方法でも有りません。当時の織田家の規模を考えれば、当然の選択肢と考えて差し支えないと思います。出雲や石見も毛利が屈服するか滅びれば、さらに九州方面へ国替えしながら、領土を移動拡するということに成ります。

また、当時の山陰地方は現在のように、都市圏に人口が集中し、過疎化の進む田舎ではなく(実家が有るので辛いのですが)、当時は銀山もあり、日本海海運も発達している時代なので、丹波の内陸部よりはるかに豊かな土地だったと言えます。信長にしてみれば、無理難題では無かったかもしれません。

しかし、光秀が丹波にこだわったのは事実なようです。一級の文化人である光秀は京都に近いこととや、丹波平定に多大な苦労をした事、更に亀山や福知山の領地経営に力を注ぎました。その結果として丹波は潤い、軌道に乗りかけていたようです。

しかしながら、そもそも信長の政策は、配下武将の土着化を避けるというものです。その様なしがらみを断つ政策は秀吉や家康にも継承されています。光秀が丹波にこだわったとはいえ、本能寺の変の動機にあげるのは極端ではないでしょうか。

参考までに、光秀が母を人質に出したことも、母が殺されたことも信頼できる史料には記載されておらず、これは史実ではなく後世の創作とされています。

【福知山城跡】

P9240065.jpg(大天守・近世初期の望楼型です。外観は忠実に再現されていますが、構造は鉄筋コンクリート造です。)
P9240056.jpg(天守台には移築された銅門続櫓)

福知山城(ふくちやまじょう)は、京都府福知山市字内記内記一丁目周辺にある日本の城(平山城)跡です。江戸時代には福知山藩の居城でした。2017年には、「続日本100名城」(100名城の後さらに100城認定されています。158番)に選定されています。

別名:横山城、臥龍城、八幡城、福智山城、掻上城
城郭構造:連郭式平山城
天守構造:複合・連結式望楼型(1699年・元禄12年築)外観復元(1985年・昭和60年再度)
築城主:明智光秀築城年1579年(天正7年)
主な改修者:有馬豊氏
主な城主:明智氏、朽木氏等
廃城年:1873年(明治6年)
遺構:曲輪、石垣、井戸、移築番所・門等
指定文化財:福知山市史跡
再建造物:大・小天守・釣鐘門等

P9240018.jpg(隅櫓風城郭建築・福知山市佐藤太清記念美術館、「銅門番所」移築 番所)
P9240104.jpg
(復元された、釣鐘門!)
P9240197.jpg(釣鐘門を反対から見るとこんな感じです。下の方は野づら積みですね。)
P9240111.jpg(「朝暉神社」朽木氏を祀っています。)
P9240136.jpg(手前住宅地が二の丸跡、緑の緑地が伯耆丸、その向こう山陰線の高架の向こうの緑が内記丸です。かなりの規模になりますね。)

現在のような縄張りは明智光秀がおこないました。畿内を押さえた織田信長は、豊臣秀吉と明智光秀に中国攻めを命じます。豊臣秀吉は山陽道から進軍したのに対して、明智光秀は山陰道側より入りました。丹波国を平定した明智光秀が築城し、女婿の明智秀満を城主としました。

現在は、福知山城公園として整備され、天守は三重三階の大天守と二重二階の小天守が1986年(昭和61年)に復元されました。福知山市郷土資料館の施設となっています。公園入口には隅櫓風城郭建築様式の福知山市佐藤太清記念美術館があります。市街地を一望する福知山盆地の中央に突き出た丘陵の先端地にあり、その地形の姿から臥龍城等の別名を持ちます。

東から西に流れる由良川が天然の堀となっており、北側には土師川と合流する標高40mの台地に築かれ展望のよくきく場所にあります。東、北、西は断崖で要害の地でもありました。国道9号走行中やJR福知山線の列車内からも観ることが出来ます。夜間はライトアップもされとても綺麗です。また多数の桜が城周辺に植林されており、春に満開となる桜が市民の目を楽しませます。

丘陵の最先端部の一番高い所、標高35m、比高約25mに本丸を置き、その西に二ノ丸、更に西に伯耆丸、内記丸と続く四つの連郭式城郭を形成していた。全体として東西約600m×南北約150~300mとなっています。本来は本丸と二ノ丸は繋がっていましたがが、明治時代に二の丸が削り取られてしまい、また伯耆丸と内記丸間も繋がっていましたが、福知山線の建設に伴いそれぞれ独立丘陵となっています。

その他曲輪として北側には左門丸、対面丸、侍屋敷、大膳丸、南側には、泉水、蔵屋敷、馬屋、鷹部屋、庭園などを設け、周囲に二重、三重の堀がめぐらされていました。城下町としては、北方に鍛冶町、紺屋町、鋳物師町、呉服町、京町などの町家、川沿いには寺町、南方に侍屋敷を配し、東北には斜めに由良川が流れ、西、南に外堀が巡らされています。いわゆる惣構えという構造です(光秀の治世の下で地子銭免除「旧勢力による搾取免除」や、堀を作るための河川の改修、市場の制定「安土を見習って楽市楽座を行う」など城下町を充実させています)。

本丸と二ノ丸にはそれぞれ御殿があったようですが、城の中央に位置し規模の大きい二ノ丸御殿が中心施設であったと思われています。尚、現在の復元天守へ登るための通路は、本丸に移された朝暉神社への参道として後に作られたものあり、本来の城道は現在住宅地として利用されている二の丸側から通じていたようです(方角的には正反対になります。)。

【中世の歴史「室町時代」と「横山城の戦い」】

小笠原長清の末裔とされる福知山地方の国人塩見頼勝が、八幡山の脇に掻上城を築城したのが始まりと言われています。塩見頼勝は後に姓を横山に改め、さらに城主はその息子である塩見信房へと代替わりし、城名も横山城となりました。

明智光秀は、織田信長の命をうけ丹波国征討戦を開始、これに敵対したのは赤井直正・波多野秀治連合軍で、塩見信房は赤井・波多野連合軍に加担します。当初は赤井・波多野連合軍は「赤井の呼び込み軍法」と呼ばれる戦術で明智光秀軍を撃退したが、赤井直正が天正6年(1578年)3月9日に病死、波多野秀治の居城八上城が翌天正7年(1579年)6月1日に落城、赤井直正の居城であった黒井城も同年8月9日に落城しました(以前「黒井城」のご紹介で、俳優の赤井秀和7さんが赤井直正の弟の末裔だとご紹介しました)。

これより前に明智光秀は丹波国征討戦に際して金山城(篠山市追入と氷上郡柏原町上小倉にまたがる山城)を築き、丹波国の掃討戦が開始され、同年8月20日より横山城を攻めます。塩見信房は弟塩見信勝と共同で防戦したが、衆寡敵せず(多勢に無勢)結局自刃して果てました。また山家城の城主和久利明も火を放たれ、攻められて敗れ、猪ノ崎城の城主塩見利勝は自ら火を放ち、落ち延びている途中に川北周辺で討死します。これを期に福山地方に属していた国人衆は皆、明智光秀に降伏し福知山は平定されました。明智光秀は丹波国を平定すると、これを福智山城と改名、近世城郭へと大修築し、城代には藤木権兵衛と明智秀満を置きました。

【本能寺の変の後】

天正10年(1582年)6月、本能寺の変で明智秀満は武功を立てたが、本能寺の変後は明智秀満の父が福智山城が留守居役となっていたらしく、豊臣秀吉軍が福智山城を押し掛け、明智秀満の父を捕え、京に連行し同年7月2日粟田口で処刑されます。明智光秀は本能寺の変では勝利したが、山崎の戦いでは敗北し後に殺されました。明智光秀の在城期間はわずか3年間だけででした。

福知山城はその後、丹波亀山城を居城とする羽柴秀勝(羽柴 秀勝は、織田信長の四男で、家臣羽柴秀吉が養嗣子として迎え入れた。幼名は於次丸・おつぎまる。 なお、秀吉の子には秀勝が3人おり、他の秀勝と区別するため、史家は便宜上、於次丸秀勝と呼ぶ) が城主となり、次いで杉原家次が城主となりました病没後、小野木重勝が城主となりました。豊臣秀吉の没後、関ヶ原の戦いでは小野木重勝は西軍に属し、東軍に属していた細川幽斎、が立て篭もる丹後田辺城を攻めます。この時当主細川忠興は関東に出陣中で、細川幽斎が留守居役で田辺城の戦いとなり必死に防戦、古今和歌相伝などの諸事情に詔勅仲介の幸運も重なり和議にこぎつけました。

関ヶ原の戦いの勝敗がはっきりすると、徳川家康の許しを得て、細川忠興は福知山城を攻め、小野木重勝は敗れ、亀山城下の寿仙院で切腹させました。忠興は妻のガラシャが死に追いやられた事も重なってか、結構厳しすぎる仕置きを行っています。もしかすると陰湿で性格が悪かったのかもと考えてしまいます。余談ですが、細川忠興の子孫といえば細川護熙第79代元総理です。細川護熙総理の憧れは壇蜜さんだそうです。映画「関ケ原」で島左近の昔なじみの尼僧「妙善」役でしたが、細川ガラシャでもよかったのでは、なんて思いますが。(笑)

関ヶ原の戦いの論功行賞により福知山城に入城したのは有馬豊氏で、現在のような城郭や城下町はこの時代に完成しました。はじめ6万石で入国しましたが、間もなく2万石(飛び地で三田・父の遺領の継承が許されます)の加増を受け8万石の大領主となりました。

山陰道を押える要衝地にあるこの城を、豊氏は近世城郭として大改修を行い、現在残る華麗な姿としました。しかし元和6年(1620年)12月、武功を重ねた豊氏は久留米藩に加増転封されます。その後も次々に城主が変わりますが寛文9年(1669年)6月、土浦城の朽木稙昌が入部、幕末の1869年(明治2年)に至る約200年の長きに亘り朽木氏が13代世襲し当地域を統治しました。

【天守閣】

P9240179.jpg(こちらが本来の二の丸からの門となるようです。)
P9240099.jpg(大天守と左側に小天守です。資料館入り口。)
P9240155.jpg(小天守とつながって中々の物です。それぞれにある石落とし分かりますか?)

『平面古図』によると、天守は三重四階建ての大天守で、北側に二重二階階建の小天守、南側には現存していないが櫓門を介して二重二階建の菱櫓と連結した建物がありました。大天守には、トコと棚をしつらえた八畳の上段ノ間、水流し、厠、小天守にもトコと棚をしつらえ住居施設が備えられています。大天守と小天守の連結部には縁側をとって座敷風な造りがなされていました。

『復元体系 日本の城』によると「建築構成は、安土城天守を小規模にしたような形で、共通する点が多い」としており、安土城の天守との共通性を指摘しています。復興天守の建設工事に伴い、発掘調査を実施したところ、当初は単独的な形であったがのちに改変付加され規模を順次拡張していたことが明確になりました。

復元天守は、大天守(3層4階)、続櫓、小天守が連結された形で、近世初期の望楼型です。外観は忠実に再現されていますが、構造は鉄筋コンクリート造です。

【石垣転用石】

P9240051.jpg(転用石です。神も仏も無い状態ですね。)

1873年(明治6年)の廃城令で建物や堀、石垣もかなり失われてしまい、遺構としては天守台と本丸の石垣が残されるのみとなりました。石垣は、「野面積み」「乱石積み」「穴太積み」と呼ばれる自然石をそのまま利用されている方法で積まれています。石材の加工と用い方は「野面積み」、角部の積み方は「算木積み」、勾配としては、基底部は傾斜が緩やかで段々傾斜を増していき、上部はほぼ垂直になる「扇の勾配」と呼ばれています。

また宝篋印塔、五輪塔などの石造物が大量に使用されており、「転用石」とも呼ばれています。一辺が62cmと大型の石材もあり、相当の寺院や墓所を破壊して石材を調達したことがうかがわれます。点数は現在発掘調査により増加していますが、約500点で、五輪塔が約250点、宝篋印塔基礎が約35点となっています。種類としては、宝篋印塔、五輪塔の他に、一石五輪塔、石仏、笠塔婆、石臼等があり、これらは現在も石垣の部材として使用されています。福智山城以前の横山城時代の山城やその関係寺院、三岳山周辺の寺院を破却したとの伝承があります。

「礎石石塔ヲ惟任築城時福智山ニ取リタニト云々、サモアリシヤ、今モ親ク見ル所、天守台ノ石垣ニ法名彫タル石塔或五輪臺石夥敷見ケル、荒木ヨリ取集タリト云伝フ(丹波志)」とあります。惟任とは明智光秀のことです、荒木山にあった法興寺や宝積寺から石垣に使用する石を取り集めたと記載されています。

【石落し】

石落としは攻城戦に攻城軍が接近した場合に、門・櫓・天守などに設けてある隙間から直下の敵に向けて攻撃を行う防御施設です。石落としの幅は8寸とされ、福知山城では大天守の虎口の上、大・小天守の2階の隅に設置されており、1階が1ヵ所、2階が9ヵ所、計10ヵ所存在します。2階の石落としは1階の張り出し屋根で隠されています。

【豊磐の井】

P9240090.jpg(天主入り口前にある豊磐井海面より低いってすごいね~しょっぱくはないよね(-"-;A ...アセアセ)

本丸、天守の東側に「豊磐井」(とよいわのい)と呼ばれている大型の井戸が残っています。この井戸は城主であった朽木稙昌の父朽木稙綱の神号「豊磐稙綱命」にちなんだものです。井戸の深さは50mあり、海面下7mにも達します。高所に関わらず水深37mもあり、現在も満々と水をたたえています。伝承ではこの井戸には抜け穴があり、二ノ丸の北側の対面所裏にあった横穴に通じていると言い伝えがあります。第二次世界大戦前まで二ノ丸の北側に深い洞穴があったようだが、奥が行き詰っており氷室であったという指摘もあります。

【埋納遺物】

1986年(昭和61年)の天守再建に伴う送電線敷設工事時に偶然検出された埋納遺物で、現在の天守台の南、本丸中央部で出土しました。この地点は古絵図によると、本丸御殿が建っていたところで、検出層位から江戸時代以前の福知山城整地前に埋納された物と思われます。出土物は以下の5件です。

①丹波壺・口径16.6 cm、高さ41.6 cm。茶褐色で一部緑色の自然釉が薄くかかっていました。この壺の中に他の出土遺物が入っていました。
②銅鏡・直径は9.43 cm、紐は亀形で、縁は垂直に立ちあがっています。一対の鳥と菊花をモチーフとした双雀菊花文鏡です。
③竹筆・9本出土しました。径0.7-0.9 cm、長さは15-23cmで使用の痕跡は確認できていません。
④小刀・錆びついており、詳細は不明です。現存部分の長さ19.3 cm、刃部分の幅は2.6 cm。
⑤銅銭・総数は約936枚。原型をとどめていない個体もあり、2~3枚程度の誤差を考慮する必要があると思われます。銭種は40種類で、ばらばらに納められていました。鋳造年次の最も新しい銭は朝鮮通宝2枚です。

壺の内部には内底中央部に鏡面を上にして銅鏡1面が置かれ、竹筆19本と小刀1本が立てかけられ、最後に銅銭が納められていました。壺の内部に水が15cm程度溜まっていましたが、竹筆は良好な状態で残っていました。『福知山城の歴史』は「遺物の組成、埋納状況からみても、いわゆる備蓄銭ではなく、何らかの祭祀的な色彩を強く感じるものであり、変形しているものの、地鎮、経塚、祈願などの目的で埋納された」と解説されています。

P9240005.jpg(妻の実家に帰省する際には必ず見ていたので、いつでも行けるが今回に成ってしまいました。美しいお城です。)


【最後の一言】

少しでも謀反の動機が感じられればと出かけましたが、一層謎は深まってしまいました。やはり簡単に考えるとフィクサーですかね?光秀が首を縦に振る人物です。誰だと思いますか?だから歴史は面白いですね~。次はどこえ向かうのやら?楽しみは尽きませんね。

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2018/01/30

「敵は本能寺に有り!」明智光秀出陣の城『亀山城』

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皆さんも勿論ご存知でしようが、天正10年(1582年)6月2日未明、京都で歴史を変える大事件が起こりました。後に『本能寺の変』と呼ばれることになる、明智光秀の織田信長に対する謀叛です。本日は毛利攻めに向かう予定だった明智光秀が京都本能寺へ向かう出発点と成った『亀山城』をご紹介します。

「敵は本能寺にあり」の言葉は、江戸時代中期以後に書かれた軍記物『明智軍記』の中にある記述で、「明智光秀」が本能寺の変の際に発したとされる台詞です。主君の織田信長より備中の毛利を攻めるように命じられていた光秀の軍勢は、討つべき敵は本能寺にいる信長であるとして、そのまま進路を東にとって京都の本能寺に向かいました(後世に創作された物と考えられます)。

pKameyamaj (2)(江戸期亀山城古地図Wikipediaより拝借いたしました。)

本能寺変といえば、「敵は本能寺にあり」の台詞が思い浮かぶほど有名ですよね。本日は「謎(何故?)」はさておき、光秀の居城の一つ(明智光秀は、坂本城も居城としていました。)亀山城をご紹介します。




【本能寺の変時代背景】

PB230475.jpg(明智光秀が造った物はことごとく壊されたようですが、それでも痕跡を探してみましょう。)
PB230581.jpg(現在の地図、ほぼ大本さんの教団施設ですね。)
PB230574.jpg(たぶん掘割の一部が池として使われています。)

戦国時代も始まりから100年が過ぎ、織田信長の登場によって、天下統一目前の様相を呈していました。近畿地方とその周辺は、すでに信長が掌握し、次は毛利を攻めて中国地方の平定が予定されていました。

信長は、まず羽柴秀吉を毛利攻めに向かわせます。そして、秀吉に続いて、明智光秀を後詰めの援軍として、毛利攻めに向かわせるため、信長は彼に出陣の命令を下します。

【愛宕神社のくじ】

光秀は、この命を受け、すぐに出陣の準備をし、戦勝を祈願するために愛宕神社に参拝します。愛宕神社に到着した光秀は、愛宕権現に戦勝を祈願し、おみくじを引いたとされます。この時光秀は三度くじを引いています。最初に引いたくじは「凶」光秀は、再度、おみくじを引きなおしますが、二度目も「凶」の文字が書かれていました。そして、三度目をひいて満足した光秀(三度目の結果は本人しか知りませんが)は帰路についたとされています。

『愛宕山』(あたごやま)は、古典落語の演目でも有名です。上方落語の演目の一つで、春山のピクニックを描いた華やかな噺で、京都の旦那と大阪出身の幇間(太鼓持ち)とのユーモラスなやり取りが見どころです。私落語ファンなんです~!

山行きの足取りや番傘での飛び降り、谷底から飛び上がってくるシーンなど要所で派手なアクションが入るため、長時間の話芸とともに相当の体力が要求される大ネタで、亡くなられた桂米朝さんの演目の中でも大好きな話です。江戸期ののどかなお話と、光秀の心の内が相反して、登山して見たい山の一つです。以前はケーブルが有ったようですが、現在は廃止され、山頂の神社(標高924m)迄歩いて登らなければ成りません。

【里村紹巴と連歌会「愛宕百韻」】

光秀は翌日、里村紹巴と連歌会を催し、愛宕百韻を詠んだことでも知られます。亀岡市から愛宕山への登山道は光秀が通ったことから「明智越え」と呼ばれています。愛宕百韻の光秀の発句は、「ときは今 雨が下知る 五月かな」この句は、光秀が謀反を起こし、信長を討ち取る決心をしたものと解釈されています。

「とき」は、光秀が土岐氏の出身であることを意味し、「雨が下知る」は「天が下領る」と書き換えることができることから、光秀が天下を統一すると連歌会で暗に表明したものと考えられています。

【敵は本能寺に在り】

6月1日、いよいよ光秀が毛利攻めに向かう日がきました。連歌会で謀反の決意をしましたが、やはり、光秀の心の中には迷いがあったと思われます。中国の毛利か、それとも本能寺の信長か?そして、いよいよ中国地方と本能寺との分岐点に差し掛かった老の坂に着くと、光秀は軍議を行いここで初めて斎藤利三、弥平次秀満ら家臣団に真意を告げます。

「敵は本能寺にあり」の言葉通り明智軍は、この光秀に従い、6月2日未明に本能寺に向かって進軍し、遂に信長を自害に追い込見ました。水色桔梗の幟が早暁の京の町を埋め尽くす。光秀の凛とした声が、ひそとした本能寺の中へ吸い込まれた。「信長殿の御首、頂戴仕る!」―明智城の陥落から二十数年、信長のもとで異例の出世を果たし、一介の牢人から三十四万石の城主にまで上り詰めた明智光秀でした。その光秀を「本能寺」へと駆り立てたものは何だったのでしょうか?光秀はすぐに二条城にいた信長の嫡男「信忠」も討ち取り、織田家から天下を奪い取ることに成功しました。

【丹波・亀山城 】

pKameyamaj.jpg(明治5年・1872年に撮影された亀山城本丸南面)
PB230502.jpg(最初の古地図にも描かれた堀中の中之島へ)
PB230501.jpg(中之島も植物園に成っています。)
PB230492.jpg(右の社務所を訪ねて、拝殿前でお祓いをお願しないと、聖域に入れません。)

亀山城(かめやまじょう)は、京都府亀岡市荒塚町周辺(旧丹波国桑田郡亀岡)にあった城です。亀岡城とも呼ばれます。明智光秀によって丹波統治の拠点として築城され、江戸時代初頭には近世城郭として整備されました。大正時代に新宗教「大本」が購入、神殿を築きましたが、大本事件で日本政府により爆破・破却されました。戦後再建され、大本の本部が置かれています。小説家の司馬遼太郎は明智光秀と出口王仁三郎という2人の謀叛人を出したと評しています(司馬遼太郎さんの意見です。私はそうは思いませんでしたが…)。

別名:亀宝城
亀岡城城郭構造:平山城天守構造複合式層塔型5重5階
築城主:明智光秀
築城年:1578年
主な改修者:岡部長盛
主な城主:明智氏、羽柴氏、石田氏、岡部氏
廃城年:1877年
遺構:石垣等
【「亀山城」戦国時代の歴史】

PB230530.jpg(本当に紅葉が綺麗です。)
PB230549.jpg(そして見つけましたよ~矢竹ですね。矢を作るための竹です。戦国期から残っているのかな?)
PB230556.jpg
(さらに井戸石です。加工から新しい物かもしれません。)

織田信長の命を受けて丹波攻略に従事中であった明智光秀が、口丹波にある亀岡盆地の中心であった亀山に天正6年(1578年)から築城しました。丹波平定後はそのまま丹波経営の拠点とないましたが、光秀は天正10年(1582年)に本能寺の変を起こし、まもなく羽柴秀吉に敗れて、逃走中に討死します。その後は天下を統一した秀吉の重要拠点として一門の羽柴秀勝(信長の子)・豊臣秀勝(秀吉の甥・江の夫 )・豊臣秀俊(小早川秀秋)や豊臣政権で五奉行の一人となった前田玄以などが城主と成っています。

【「亀山城」江戸時代の歴史】

PB230482.jpg(天下普請の痕ともいえる石垣の印。)
PB230485.jpg(改修された石垣、拝殿下の通路で植物園に向かっています)

秀吉の死後に天下を手中にした徳川家康もこの城を重要視し、慶長14年(1609年)に譜代大名である岡部長盛(在任1609年~1621年)を入封させ、丹波亀山藩主に任じています。さらに「天下普請」により幕府が西国大名に命じ近世城郭として亀山城を大修築しています。藤堂高虎が縄張りを勤め、慶長15年(1610年)夏ごろに完成し、本丸には5重の層塔型天守が作られました。

寛延元年(1748年)以降は、形原松平氏が居城し、明治2年(1869年)に亀岡藩へ改称。同4年(1871年)に亀岡県が置県され、廃藩となりました。

「うんちく『天下普請(てんかぶしん)』」とは、江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行わせた土木工事のことです。なかでも城郭普請が有名ですが、道路整備や河川工事などインフラ整備などの工事も含んでいます。

天下普請によって築かれた城郭・江戸城(武蔵国・東京都)・名古屋城(尾張国・愛知県)・大坂城(摂津国・大阪府)・高田城(越後国・新潟県)・駿府城(駿河国・静岡県)・伊賀上野城(伊賀国・三重県)・加納城(美濃国・岐阜県)・福井城(越前国・福井県)・彦根城(近江国・滋賀県)・膳所城(近江国・滋賀県)・二条城(山城国・京都府)・丹波亀山城(丹波国・京都府)・篠山城(丹波国・兵庫県)です。名古屋城と彦根城はご紹介しましたね。

【明治維新以降の歴史と大本教(大本が本来で教は付けないそうです)】

PB230529.jpg(聖域・天守方面へまいりましょう。)
PB230538.jpg
(天主閣への階段ですが、出口なおさんの墓があるようで、行けませんでした。)
PB230548.jpg
(石垣も最下層以外はダイナマイトで吹き飛ばされたそうです。墓が天皇陵墓に似ているという不敬罪の適応でした。)
PB230566.jpg(石仏?の首が落ちていました。誰の仕業かな?)

「大本」の話は難しいので、より詳しく知りたい方はご自分でお調べください。私が訪ねた時には、神道の新興宗教のイメージしか感じませんでしたが、広大な敷地は良く整備されていて、応対されたフロントの女性も、神官?の方も、食堂のおばちゃんも好印象でした。

大本(おおもと)は、1892年(明治25年)、出口なおに降りた国祖・国常立尊の神示を立教の原点とする教派神道系の教団です。俗に「大本教」と呼称されることがありますが、正確には「教」を付けないのだそうです。

1919年(大正8年) 11月18日、新宗教「大本」の指導者出口王仁三郎(亀岡出身)が管理されず荒廃していた本城を購入、従来の根拠地綾部(現在、梅松苑「綾部祭祀センター」(京都府)大本発祥の地、大本では「祭祀の中心地」と位置付けている)に並ぶ拠点にすべく整備を開始しました。

大日本帝国政府は拡大を続ける大本に警戒を強め、1935年(昭和10年)12月8日に第二次大本事件で徹底的な弾圧を加えています。そして拘束されていた王仁三郎から所有権を格安値で亀岡町に譲渡させました。裁判結審前にも関わらず大本施設の破却が進められ、本城の破壊は清水組により1936年(昭和11年)5月11日から6月12日まで続きます。神殿は1500発のダイナマイトで爆破され、象徴的な石は再利用できぬよう日本海に捨てられたそうです。

1937年(昭和12年)に訪れた坂口安吾は『日本文化私観』で鉄条網で囲まれた城の様子を描いています。戦後本城の所有権は再び大本に渡りました。現在亀山城跡は天恩郷「亀岡宣教センター」(京都府)と成っています。大本では「宣教の中心地」と位置付けているようです。

PB230473.jpg(大本大道場)

【初の層塔型天守閣?】

明治初年に撮影されたものは、慶長14年(1609年)に建てられた層塔型5重5階の大天守と2重の小天守が複合した複合式天守です。大天守の最上階には飾りの回り縁、高欄を付け、最上重屋根に入母屋破風と軒唐破風があるのみで、それ以外の階や重には、装飾的な窓や破風は一切ありません。層塔型は少ないのでwebで調べてみてください、弘前城天守・名古屋城天守・和歌山城天守・松山城天守等、です。私的には断然望楼型ですね。

亀山城の天守は、創建当初は明智光秀によって3重の天守が構えられ、後の小早川秀秋の時(文禄2年「1593年」)に5重に改築されています。以降この天守については不明であるが、建築史の観点では、破風の一切ない層塔型天守は慶長14・15年(1609年・1610年)以降に見られるもので、それ以前の小早川時代に改変されたという天守はそれ以降に再び改変されたか解体され、明治期に撮影された姿のものが新しく建造されたのではないかといわれています。

丹波亀山城の天守を、日本初の層塔型天守であるとする見解もありますが、『寛政重修諸家譜』を根拠に今治城天守(1604年から1608年の間の建造)を移築したものであるという説があります。この説では、徳川家康がこの亀山城を天下普請によって造営した際、縄張設計を担当した藤堂高虎が、元々自身の居城である上野城へ移築するために解体していた用材を献上し、建てたものであるとされています。これを元に、今治城天守を層塔型天守の初見とする説がある一方で、今治城天守の外観や規模は不明であり、また天守の存在について発掘調査からは認められてはいません。

PB230562.jpg(天気と紅葉に恵まれた良い一日を送りました。)
PB230586.jpg(古地図の上側、東側の中之島外堀です。)


【最後の一言】

今回、偶然に訪ねた、明智光秀出陣の城『亀山城』が「大本」教の聖地となっていてびっくりしました。新興宗教「大本」に対する迫害は存じておりましたが、これほどの物だとは知りませんでした。我が家は家の宗教として「日蓮宗」を信仰しておりますが、鎌倉仏教として新しく登場した時には同じように大きな迫害が有ったと聞いております。宗教・言論の自由は憲法が改正する事に成っても堅持しなければいけませんね。

本部会館の二階に初代教主「出口王仁三郎」さんの陶器が展示されていました。金重陶陽氏(備前焼人間 国宝)の所で作陶した作品が展示してあるのですが、「耀わん」と言われる器が~(;^_^A、「大本」の方がおられましたらお許しください。お値段は勿論付けられないでしょう。3000個作成で迫害も有って300個現存とも言われています。ん~~私的には、天は二物を与えずと言っておきます。(笑)悪く取らないでくださいね、芸術は自由ですし、価値を認めた方にはかけがえのない物ですから。それに一物は素晴らしいのですからね。

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2017/11/21

「三成に過ぎたるものが二つある。島の左近に佐和山の城」『佐和山城』をご紹介します!

早く関ケ原に行け~!という皆さんの声が聞こえそうですが、私にも都合が有りまして(言い訳ですけど、笑)その前に三成の居城『佐和山城』をご紹介します。「三成に過ぎたるものが二つある。島の左近に佐和山の城」は三成を揶揄した狂歌ですが、実は元々「○○に過ぎたるもの」の狂歌モデルが家康だったと知ってましたか?

PA140627.jpg
(じらす作戦ではありませんがもう少しお待ちください。いい話しますから、笑)

一説には怖さの余り脱糞して帰城したともいわれる、武田信玄に大敗北を喫した、三方原の戦いの前哨戦、元亀3年(1572年)10月13日に遠江国「二俣城」をめぐり、武田信玄と徳川家康の間で行われた戦いが有りました。結果はもちろん若き家康の大敗北、そして家康の退却戦「一言坂の戦い」の後、「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」という本多忠勝の武功を称える狂歌(落書)が登場しました。これは殿(しんがり)を見事に務めきった、本多平八に対して道を譲った小杉左近(武田軍将)が書いたと言われています。

「本多平八」とは徳川四天王、本多平八郎忠勝のことです。「唐の頭(からのかしら)」とはヤクの毛で作られた兜のことで、中国四川省やチベット原産(つまり「唐」原産)の日本では珍しい品でした。一説には家康が難破した南蛮船からこれを入手し、愛用していたといわれています。

正に勝者が歴史を作るのです。家康の時は勝った武田が家康を笑い(本多忠勝を褒め称えたのか?)、三成の時は関ケ原で勝った東軍が三成を笑いました。『佐和山城』は本当に三成に過ぎた城だったのか?検証もかねてご紹介します。

p2456987.jpg(教育委員会の参考地図を見ていただけたら登るのは龍潭寺からしか行けないようです。)
PA151232.jpg(ということで龍潭寺からの朝登山です。城趾への登山道入口となっている龍潭寺門前!)
PA151224.jpg(佐和山城へGO!)


【揶揄されるほど三成は無能だったのか?】

三成のエピソードをご紹介するお約束をしておりましたので、一つ二つご紹介します。秀吉が三成に禄を与えようとしたとき、三成が「領地はいりません。その代わり、淀川の河原の葦に対する運上(税金)を許していただきたい。それで一万石の軍役を致します。」と嘆願したという逸話です。秀吉は「何と欲の無い奴よ」と笑ったといわれています。

「ちなみに『一万石の軍役』」ですが、諸大名の所領・石高で準備しておく、一定の兵員と武器最低数の事です。備える義務のある兵員は石高50石につき一人(信長・秀吉・家康時代で少しずつ変化するようです)で、1万石では最低200名が必要とされ、軍役・武器は馬上(侍)10騎・鑓30本・旗30本・弓10張・銃20丁が規定として課されていました。

話を戻して、葦はご存知のとおり、屋根を葺いたり、簾や御座などに使われるものです。当時は河原に自生していたものを、使っていました。三成はこれに課税することで、秀吉の丹波攻めの時には、約束どおり一万石分の軍役をし、華麗な軍装で参加したといわれています。

これは「古今武家盛衰記」「名将言行録」等に出てくる話ですが、他の多くの逸話と同じく史実として裏づけることは出来ません。「秀吉の丹波攻め(但馬攻めに関しては、資料が残っています。)」とは一体いつのことを指してるのか、特定できません(光秀ならわかるのですが?)。

三成には、このような官吏能力は高いが、功利的(効果や利益のみを重視するさま)な逸話が、いくつかあります。これからも江戸時代の三成観を察することができます。

「翁物語」に記載される、功利的な逸話をもう一つご紹介しましょう。大雨で淀川の水かさが増し、土嚢を積んでも間に合わず、もう少しで堤が決壊しそうになった時、三成は部下に指示して大坂城の米倉を開き、土嚢の代わりに米俵を積み上げて、決壊を食い止めたというものです。

雨が上がったのち、三成は近在の百姓に米俵を土嚢に積み替えさせ、報酬にその米俵を与えたため、百姓も喜び工事が一気に進んだといいます。

私はこうのような逸話は?三成らしく無いように感じます。むしろ秀吉の逸話を三成にすり替えた様な気がします。三成の政策の特徴は、律儀に筋を通すことにあり、こういう奇策はいかにも秀吉らしい逸話のように感じます。ただ戦国から安土桃山のこの時期は、人々が功利性に走り、似たようなことが数多くあった可能性はあります。

三成はもともと官僚タイプです。とても優秀な官僚・政治家でした。 しかしながら、先頭に立っての戦は経験が少ないです。むしろ縁の下の力持ちといった兵站運用を得意としています。

しかしながら、本人自身はけしてひ弱な文官では有りませんでした。賤ヶ岳の戦いと言えば、七本槍(糟屋武則・片桐且元・加藤清正・加藤嘉明・平野長泰・福島正則・脇坂安治のこと)といわれるほど、秀吉の若き近習たちの武功は有名ですが、賤ヶ岳で活躍したのは七本槍だけでは有りません。賎ヶ岳の先駆け衆と呼ばれた14人の若者もおり、その中には石田三成、大谷吉継らも含まれていて、先駆け衆が一番槍を付けたともいわれています。

先駆け衆とは、その名の通り本体よりも先駆けて戦場で戦った者たちのことを呼びます。石田三成という人物は、いわゆる武断派と呼ばれた加藤清正、福島正則、黒田長政らとは反りが合わず、武断派の面々は三成は槍働きをせずに出世したと思い込んでいました。確かに武功という意味では三成は武断派には敵わなかったでしょう。しかしながら武断派の活躍は三成の兵站あってこそのものだったことを、忘れては行けません。

関が原の戦いでは戦術的には戦上手の家康と互角の戦いをしています。戦略的には三成の方が上だったと考えて良いのではないでしょうか、しかし戦には計略がつきものです。 家康と違い姑息な手段を嫌う三成にとっては考えられなかった裏切りが続出し大敗してしまいました。三成ファンにとっては残念ですね。

【佐和山城はどんな城】

PA151248.jpg
(門を入った左手に三成の像が正座して見据えています。)
PA151290.jpg(220m結構きついですよ~、登山靴を忘れないように、途中分かれ道を右へ進むと西の丸へ到着)
PA151302.jpg(塩櫓とありますが柱は硝煙櫓、混乱が有るようです。)
PA151294.jpg(硝煙櫓とあります。西の丸は三段に区切られています。かなりの段差です。)
PA151295.jpg(最後に火薬で爆発?瓦も出土!間違いありませんね、想像です。)
PA151308.jpg(西の丸だけでも竪堀がかなりあります。竪堀は自然地形の斜面に上下方向に設けた堀で、多くは攻城軍が斜面を横に移動しにくくするために設けます。)

佐和山城(さわやまじょう)は、中世中期から近世初期にかけて、近江国坂田郡(現・滋賀県彦根市)の佐和山に存在した山城です。

城郭構造は連郭式山城で天守は五層(三層説もあります)でした。主な城主は佐保氏、小川氏、磯野氏、丹羽氏、石田氏、井伊氏慶長11年(1606年)廃城と成っています。現在は、石垣、土塁、堀、曲輪、等が残っています。

織豊政権下において畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも重要な拠点であり、16世紀の末には織田信長の配下の丹羽長秀、豊臣秀吉の奉行石田三成が居城とし、関ヶ原の合戦後は井伊家が一時的に入城したことでも知られています。

【佐和山城の歴史】

PA151317.jpg
(登りました~本丸です。)
PA151325.jpg(かなりの広さです。残るのは隅石垣位です。)
PA151323.jpg(大きな城ですね~!)

佐和山城の歴史は、鎌倉時代、近江守護職・佐々木荘地頭であった佐々木定綱の六男・佐保時綱が築いた砦が始まりとされ、建久年間(1190- 1198年)の文書にその名が見られます。

六角政頼・久頼・高頼・氏綱・定頼の代の期間、六角氏が犬上郡を支配し、応仁の乱の後、家臣の小川左近大夫・小川伯耆守を城主として置いています。

しかし戦国時代が後期に入ると、北近江における六角氏勢力は衰退し、それにともなっては新興勢力である浅井氏が勢力を伸ばします。佐和山城もその支配に入って、城は磯野員吉に引き渡され、小谷城の支城の1つとなりました。

元亀年間には時の城主・磯野員昌が織田信長らと8ヶ月におよぶ戦闘を繰り広げています。しかし、1571年(元亀2年)2月に員昌は降伏し、代わって織田氏家臣の丹羽長秀が入城、浅井氏旧領と朝倉氏の旧領南部、すなわち、北近江六郡と若狭国の支配拠点としています。

天正10年(1582年)6月の本能寺の変の後に行われた清洲会議では、明智光秀討伐に功があった堀秀政に与えられ、秀政は翌年に入城しています。これ以降は事実上、豊臣政権下の城となってゆきます。堀秀政の留守中は弟の多賀秀種が城代を務めました。天正13年(1585年)には、転封となった堀家に替わって堀尾吉晴が入城、さらに、天正18年(1590年)には五奉行の一人である石田三成が入城したとされますが、三成の佐和山領有が文献上でみえるのは文禄4年からです。 三成は、当時荒廃していたという佐和山城に大改修を行って山頂に五層(三層説あり)の天守が高くそびえたつほどの近世城郭を築きました。

ただし、三成は奉行の任を全うするために伏見城に滞在することが多く、実際に城を任されていたのは父の正継であった。城内の作りは極めて質素で、城の居間なども大抵は板張りで、壁はあら壁のままであった。庭園の樹木もありきたりで、手水鉢も粗末な石で、城内の様子を見た当時の人々もすこぶる案外に感じたと記されています(『甲子夜話』)。

【佐和山城の戦いと廃城】

PA151324.jpg
(かなりの規模です。山城としては凄いです。)
PA151342.jpg(眼下に見えるのが彦根城ですよ!佐和山城本丸趾より!)

皆さんご存知でしょうが、慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を猛攻撃しています。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人でした。城主不在にもかかわらず城兵は健闘し、敵を寄せ付けなかったが、やがて城内で長谷川守知など一部の兵が裏切り、敵を手引きしたため、同月18日、奮戦空しく落城し、父・正継や正澄、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てました。

家康に従軍した板坂卜斎は陥落した佐和山城に金銀が少しもなく、三成は殆んど蓄えを持っていなかったと記録しています(『慶長年中卜斎記』)。

石田氏滅亡の後、徳川四天王の一人である井伊直政がこの地に封ぜられ、入城しています。井伊家が、このまま佐和山城を利用すると、領民は井伊家が石田家を継承したような錯覚を抱き、領民達の前領主への思慕を断ち切ることができないことから、新たに彦根城築城を計画しました。しかし、直政は築城に着手できないまま、慶長7年(1602年)に関ケ原の傷が悪化して死去します。

計画は嫡子の直継が引き継ぐこととなり、大津城・佐和山城・小谷城・観音寺城などの築材を利用しつつ、天下普請によって彦根城を完成させています。佐和山城は慶長11年(1606年)、完成した彦根城天守に直継が移ったことにともない、廃城となりました。なお、彦根城の城下町までを含めた全体の完成は元和8年(1622年)のことです。

佐和山城の建造物は彦根城へ移築されたもののほかは徹底的に城割されたため、城址には何も残っていないません。しかしそれでも、石垣の一部、土塁、堀、曲輪、その他施設が一部に現存しています。

【最後に一言】

石田三成は『大一大万大吉』と記された家紋を用いました。「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」という意味なんです。悪者に作り上げられた三成像、近頃変わって来ましたよね。テレビの影響かもしれませんが、私がいつも言うように敗者には敗者なりの言い分が有ります。「関ケ原」は天下分け目の戦い、一歩間違えば立場は逆転していたはず。敗者の言い分が正しかったとも言えませんか?

三成は関ヶ原の戦いに万が一敗北した場合を考え、佐和山城での再戦も考えていたのではないでしょか?『佐和山城』確かに堅固な素晴らしい要塞だったことが分かりました。その素晴らしい城に見合う名武将だったと思いますね。

PA151446.jpg(模型と実物の佐和山城址)
PA151363.jpg(本丸下の30cmの大キノコ、三成の心はキノコに託された~笑。)


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