『神社仏閣巡り』 - 「高天原の縁側日記」
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2018/08/08

源氏と平氏はどう違う?征夷大将軍は源氏しか成れない?清和源氏発祥の地「多田神社」を訪ねて。

「源氏と平氏はどう違うの?」「なぜ、征夷大将軍は源氏しか成れないの?」「源朝臣徳川次郎三郎家康ってどいうこと?」の謎を求めて、清和源氏発祥の地「多田神社」にお詣りしてきました。

子ども・孫代で臣籍降下すると源氏を名乗り、の曾孫の代で臣籍降下すると平氏に成ります。

「征夷大将軍は源氏しか成れない」は嘘だった、鎌倉幕府の4代・6代将軍は藤原氏でしたし、平氏である織田信長も、望めば征夷大将軍に成れたはずなので、源氏以外でも将軍になれるのは間違いありません。                             

徳川家康は先祖を清和源氏の新田氏だと称していました。 朝臣はもともとは「八色の姓(カバネ)」のひとつでしたが、やがて「五位以上の貴族が名乗れる尊称」というべきものになっていきました。
答えが出ちゃいましたが(笑)丁寧に「多田神社」 をご紹介しましょう。




【プロローグ】源氏と平氏はどう違う?



先ず、姓(かばね)について少し説明しましょう。
姓は現在現在私たちが名乗ってる姓(氏・名字)とは違うものです。

姓(かばね)は天皇が臣下に与える姓の事で、代表的なものの一つとして源平藤橘を「四姓」と呼びますが、そのほかにも姓は沢山あります。清原、菅原、高階、大江、大伴(伴)、紀、安倍、などです。
豊臣秀吉の豊臣もそうでしたね。

姓について簡単に説明すると、姓「天皇からもらったもの、朝廷での役職や地位をあらわすもの」、氏「古代日本で親族ごとに集団を作っていた残りの呼名や氏族」、名字「自由に付けていいもので、氏が分家したときに区別に使ったり、武士が増えてきて自分の支配する地名を名字にして所有権を表したものです。
一般的には、明治になって法令によって定められました。

平民苗字必称義務令(へいみんみょうじひっしょうぎむれい、平民苗字必唱義務令・太政官布告第22号)は、1875年(明治8年)2月13日公布で、すべての国民に苗字(名字・姓)を名乗ることを義務付けました。

江戸時代まで、日本において公的に苗字を使用したのは、原則として、公家及び武士などの支配階層に限られ、一種の特権とされていました。
明治維新により、従来の身分制度の再編が図られ、明治3年9月19日(1870年10月13日)に「平民苗字許可令」(明治3年太政官布告第608号)が発布されました。
この布告では初めて「平民」の語を用いて、華族及び士族(この両者は公家・武士の家柄がほとんどですが)に属さない平民に「苗字」の使用が許可されました。

しかし、当時の国民(平民)の中には、「課税されることを恐れて届け出が少なかったり」「めんどくさい・・・おらは団子屋の市さんでいいや」と、あえて苗字を使用しない人も多かったので、1875年(明治8年)に改めて名字の使用を義務づける「苗字必称義務令」が発令され、すべての人々が名字を名乗ることに成りました。

P7150627.jpg
(JR川西池田駅にある。清和源氏の祖、「源義仲」の像。)

かなりややこしくなってきましたので、具体例を出してみたいと思います。
「織田信長」さんと「徳川家康」さんにお願いしましょう。
正式名は「平朝臣織田三郎信長」と「源朝臣徳川次郎三郎家康」です。
この場合、「織田信長」さんは氏姓・平朝臣、名字・織田、通称・三郎、 実名・信長、「徳川家康」さんは氏姓・源朝臣、名字・徳川、通称・次郎三郎、 実名・家康に成ります。

信長が平氏だったので、部下の秀吉は同じく平氏姓を名乗ったために征夷大将軍に成れなかったといわれていますがそんなことはなかったはずです。
戦国時代には、清和源氏の末裔を称して家格を誇張する者も出てきました。
清和源氏を称している近世大名の多くは、その事実が歴史学的に証明されたわけではありません。

さらに、藤原頼経(第4代征夷大将軍)といった先例が存在し、織田信長も征夷大将軍に就任する可能性がありました。
武家伝奏の勧修寺晴豊が京都所司代・村井貞勝と懇談し、信長が征夷大将軍・太政大臣・関白のうちどれかに任官することが、朝廷側もしくは信長側から提案されています(三職推任問題)。

さてお題に戻って、平安時代以降臣籍降下が頻発して源・平の二姓ばかりになって来ます。
最近の研究で「一世王(子ども)、二世王(孫)が源、三世(曾孫)以降が平」だった事が判明しています。
源姓(本姓が源氏)の家系はそれぞれ別の苗字を号しているため、現在「源」を今日的な意味の姓(名字)として名乗る例は少なく(それでもいるんですね)、推定人口は4000人程だそうです。

平安時代以降は、皇族の分家はおおむね「源」か「平」になり、その家の開祖となる天皇の名前をつけて呼ばれます。
例として、平将門・清盛らの「桓武平氏」、源頼朝・義経らが「清和源氏」などになります。

一世(天皇の子)のうち、母親の身分が低くて皇族扱いされない「庶子」は、源氏を名乗ることになります。
嵯峨源氏の源融(みなもとのとおる)、醍醐源氏の源高明(みなもとのたかあきら)などがその例となります。

二世(天皇の孫)でも、天皇にならない親王から生まれた子は源氏です。
清和天皇の孫は源経基(みなもとのつねもと、源満仲の父ですね)と呼ばれ、この人が源頼朝らのご祖先に成ります。

平氏は三世(天皇の曾孫)以降が名乗ります。桓武天皇の曾孫は高望王(たかもちおう)と呼ばれますが、この人が最初に平氏を名乗り、桓武平氏となりました。
高望王は平清盛の祖先に成ります(ちょっと難しくなりましたね…今回は少し難しいです。)。

清和源氏って何?



源氏には祖とする天皇別に21の流派(源氏二十一流)があり、清和源氏(せいわげんじ)はそのうちの一つで清和天皇から分かれた氏族です。

清和源氏は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つで姓(カバネ)は源朝臣です。

清和天皇の皇子のうち4人、孫の王のうち12人が臣籍降下して源氏を称しています。
一般に武家として知られる清和源氏の起源は、清和天皇の第六皇子貞純親王の子である経基王(六孫王)が臣籍降下により源姓を賜り源経基と名乗ったことに遡り、子孫が著しく繁栄しました。

中級貴族であった経基の子・源満仲(多田満仲)は、藤原北家の摂関政治の確立に協力して中央における武門としての地位を築き、摂津国川辺郡多田の地に武士団を形成しました(分家に摂津源氏・大和源氏・河内源氏などが有ります。)。

そして彼の子である頼光、頼親、頼信らも父と同様に藤原摂関家に仕えて勢力を拡大していきます。
のちに主流となる頼信流の河内源氏が東国の武士団を支配下に置いて台頭し、源頼朝の代に武門の棟梁として鎌倉幕府を開き、武家政権を確立しました。

その後の子孫は、嫡流が源氏将軍や足利将軍家として武家政権を主宰したほか、一門からも守護大名や国人が多く出ます。

経基王については、貞純親王の子ではなく貞純親王の兄陽成天皇の子・元平親王の子であるとする陽成源氏説がありますが、
この出自論争は実証ができずに決着はついていません。

P7150742.jpg(橋を渡るとすぐに多田神社、神社側から撮影しています。)
P7150748.jpg(静かな構えです。)

武士団の形成と武力による時代形成・平安時代



経基の名跡を継いだ源満仲は藤原摂関家に仕えて各地の受領を歴任、摂津国川辺郡多田(現 兵庫県川西市多田)を本拠地として源氏武士団を形成しました。

酒呑童子退治などで有名な満仲の長男・源頼光も摂津国に拠点を置いたことから、摂津源氏と呼ばれる武士団を形成しています。
摂津源氏の中でも本拠である多田を継承した嫡流源頼綱(頼光の孫)の系統を多田源氏といいます。

満仲の次男・源頼親の系統は大和国宇野(現奈良県)を本拠地としたことから大和源氏と呼ばれる武士団を、三男・源頼信の系統は河内国壷井(現大阪府羽曳野市壷井)を本拠としたことから河内源氏と呼ばれる武士団が形成されました。

源満仲の子の中でも特に三男の源頼信(河内源氏)は、長元元年(1028年)房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で起きた平忠常の乱(長元の乱)を平定するなどの武功をあげます。

また頼信の子・頼義は康平5年(1062年)から陸奥国奥六郡に蛮拠する俘囚の長・安倍氏を討ち(前九年の役)、頼義の子・八幡太郎義家は、同族の源国房、源重宗と合戦を繰り広げ、寛治元年(1087年)には出羽国の俘囚長・清原氏の内紛を収めて(後三年の役)声望を高め、頼信流の河内源氏は東国に足掛かりを持つようになりました。

河内源氏はこのように武名を上げ、それまでの清和源氏庶流であった地位から嫡流の地位を事実上占めるに至ります。
このような興隆は時の権力者白河法皇の警戒を招き、河内源氏は抑圧されています。

河内源氏が摂津源氏のように京都を活動舞台にせず板東を拠点としたのは、兄の源頼光、源頼親が藤原道長に側近として仕えたのに対し、頼信は上野介や常陸介など遠方で収入の少ない東国受領となっていたからです。

しかし、上記のように武功を重ね、義家、義綱(美濃守)、義光(新羅三郎)兄弟の頃には清和源氏最大の勢力となっていました(しかし、義家と義綱の仲は悪く、義綱は中央で昇進を重ねます。)。
この頃から、源氏庶流は国の下級官人を辞し、地方の荘官などとなることにより勢力を築いていきました。

しかし、義家の晩年に次男の義親が朝廷に反抗したため義家は苦境にたたされ、河内源氏に陰りが見え始めます(義家の長男は早世していた)。
また、弟の新羅三郎義光(常陸源氏、甲斐源氏の祖)と四男の荒加賀入道義国(上野源氏、下野源氏の祖)が嘉承元年(1106年)に常陸合戦を引き起こし、両者が勅勘を受けてしまいます。

さらに天仁2年(1109年)、義家の死後に家督を継承し栄名を誇った、義家の三男源義忠が暗殺され、当初事件の主犯とされた弟の義綱(美濃守)が、白河法皇の命を受けた源義親の子源為義と源光国(美濃源氏)の討伐を受けて壊滅しています。
また事件後真犯人が新羅三郎義光であったことが明らかになるなど、河内源氏内部の分裂は明白になり、権勢はしばらく失墜してしまいます。

この背景には、河内源氏が拠り所にしていた摂関家の摂関政治から、白河法皇の院政への移行があったことが原因として挙げられます。

P7150753.jpg(史跡多田院の文字がありました。神社らしくないかな?)


清和源氏発祥の地「多田神社」を訪ねて





P7150760.jpg(多田大権現!神社ですね。)


「多田神社(ただじんじゃ)」は兵庫県川西市に在り、多田院として国の史跡に指定されています。
元々多田院という天台宗の寺院でした。
六孫王神社(京都府京都市南区)、壺井八幡宮(大阪府羽曳野市)とともに「源氏三神社」の1つに数えられます。

「多田神社」は摂津国に位置しており、清和源氏や多田院御家人発祥の地です。
この地に館を構えた清和源氏の祖摂津守源満仲によって天禄元年(970年)に満仲の子源賢を開山とする天台宗寺院・多田院鷹尾山法華三昧堂(通称多田院)が建立されました。
満仲は自らの館と多田院を中心として多田荘の開発に勤しんだといわれています。

本尊の丈六釈迦如来像は満仲、文殊菩薩像は満仲の長男源頼光(但馬国司にもなっているので頼光ファンです。)、普賢菩薩像は次男源頼親、四天王像は三男源頼信がそれぞれ願主となって作られました。

平安時代の長徳3年(997年)8月27日に源満仲が亡くなると多田院に葬られ、新たに廟所と満仲像を祀る御影堂が建立されました。
なお、満仲の廟所はまれに「多田院鳴動」といって大事件の前触れとして廟が震えることがあったとされます。

以後は清和源氏の霊廟とされましたが、戦乱や災害などにより次第に衰微していきました。
しかし、鎌倉時代に幕府からの命令で文永10年(1273年)に西大寺の忍性が造営奉行に任じられ、ようやく再興します。
そしてこれにより宗旨は天台宗から真言律宗に転じ、やがて源頼光も祀るようになっています。

P7150766.jpg(鳥居が見えてやっと神社の趣、武門の社らしい清々しさです。)
P7150819.jpg(狛ちゃんも武骨な感じです。)

室町時代に入ると、清和源氏である将軍足利尊氏の崇敬もあって栄えます。延文3年(1358年)には将軍足利義詮によって尊氏の分骨が多田院に納められます。これ以降歴代足利将軍の遺骨が分骨されています。

戦国時代の天正5年(1577年)には織田信澄の軍勢によって社殿が焼失しましたが、江戸時代にも清和源氏を称した徳川家から崇敬され、寛文7年(1667年)、将軍徳川家綱によって本殿、拝殿、随神門などが再建されました。
さらに将軍徳川綱吉によって満仲に贈正一位多田大権現の神号が送られると、次第に多田院は寺から神社の色合いが強くなっていきました。

P7150815.jpg(拝殿もさっぱりとしています。)
P7150797.jpg(清和源氏の紋といえば、笹竜胆「ささりんどう」。)

【最後に一言】その後の源氏


P7150818.jpg(廟とかは見られませんでした。しっかりお詣りしてきました。)

治承4年(1180年)、平氏政権での皇位継承の不満から反乱を企図した以仁王に源頼政(摂津源氏)が協力する「以仁王の挙兵」が起こります。

この乱は失敗に終わりますが、熊野に潜んでいた義朝の弟の源行家らが以仁王の令旨を全国に伝えると、河内源氏の源頼朝、源希義(土佐冠者)、源範頼、源義円、源義経ら兄弟や、源義朝の弟の源義賢の子であり、頼朝の従兄弟にあたる源義仲(木曾次郎義仲)、源義光の子孫の武田信義・安田義定(甲斐源氏)、山本義経・柏木義兼(近江源氏)、義国の子孫の足利義清(下野源氏)、新田氏庶流の山名義範、里見義成、そして新田義重(上野源氏)、摂津源氏では、源頼綱を祖とする嫡流多田行綱(多田源氏)、源頼綱の弟国房を祖とする源光長(美濃源氏)、大和源氏では、源親治らが各地で挙兵し、俗に源平合戦と呼ばれる治承・寿永の乱が発生します。

当初は平家が源氏を圧倒していましたが、次第に形勢が逆転して平家は源義仲に京都を追われることになります。
その後、源義仲軍と源頼朝軍・平家の三つ巴となりましたが、最終的に頼朝軍が圧倒し、寿永3年(1184年)に粟津の戦いで義仲軍を、元暦2年(1185年)に壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼして頼朝軍が勝利しました。

平家の追討に成功した頼朝は、乱の中で他の源氏一門(源義広・佐竹秀義(常陸源氏)、新田義重(上野源氏)、武田信義(甲斐源氏)、多田行綱(多田源氏)、弟の源義経・源範頼)を滅亡や衰退させ、奥州藤原氏を討ち勢力基盤を固めます。

後白河法皇が崩御すると、建久3年(1192年)に征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉幕府が成立しました。
これにより、清和源氏が武家の棟梁であると名実共に認められたことに成りました。
しかし、源頼朝の系統は、頼朝の子・源実朝が兄源頼家の子・公暁に殺害されると、その公暁も殺され完全に断絶しました。

また、鎌倉幕府において源氏一門は、血統や功績などにより源姓を称することが許される「御門葉」と、源姓を称することが適わず、名字を称するものに区別されました。

御門葉には信濃平賀氏(信濃源氏)、大内氏(信濃源氏)、安田氏(甲斐源氏)、加賀美氏(甲斐源氏)などの新羅三郎義光の系統、足利氏、山名氏などの源義国の系統が名を連ねましたが、平賀氏、大内氏は、承久3年(1221年)の承久の乱により得宗家(鎌倉幕府の北条氏惣領の家系)に敗れ没落しています。

鎌倉幕府末期の混乱期に頭角を表した、源義国の次男・足利義康を祖とする足利氏の棟梁・足利尊氏は、源義国の長男・新田義重を祖とする新田義貞らの対抗勢力を打ち破り、武家の棟梁として1338年に征夷大将軍に任じられ室町幕府を開きます。

足利義満は清和源氏出身者として初めて源氏長者となり、その後の将軍が源氏長者となる道を開きました。
その後、尊氏の子孫は鎌倉公方、古河公方、小弓公方、堀越公方、堺公方、阿波公方などに別れて勢力を伸ばします。

また、足利氏庶流で「御一家」とされた吉良氏・渋川氏・石橋氏や、「三管領」の斯波氏・細川氏、「四職」の一色氏の他、山名氏(新田氏庶流)、土岐氏(美濃源氏)が中央で台頭し、地方では九州探題や駿河・遠江守護を歴任した今川氏(吉良氏庶流)、奥州探題の大崎氏(斯波氏庶流)、羽州探題の最上氏(斯波氏庶流)が勢力を伸ばしました。

このように軍事力を背景にする清和源氏は、鎌倉時代・室町時代・江戸時代と長きにわたって時代の主流を進むことに成りました。

さてそれでは、現代の源氏長者は誰でしょう?愛子内親王が誕生された数日後の儀式に、武家代表として徳川宗家当主の徳川恒孝氏と加賀前田家当主の前田利祐氏がよばれて、武家末裔代表として儀式に参加しています。

この事から朝廷はいまも武家筆頭は徳川宗家と認識しているという事になり、武家筆頭は徳川恒孝氏と考えられます。

ちなみに、徳川恒孝さんですが、2代将軍徳川秀忠の四男保科正之を家祖とする会津松平家の家系で、徳川宗家に養子に入られています(驚)。

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2018/08/05

取材8日目(最終日)は、伊勢神宮「外宮」・「内宮」と二見興玉神社に参拝!

伊勢神宮の参拝順序の通り「外宮」から「内宮」へ参拝し、夫婦岩としめ縄、夏至の前後には遠く富士山の背後から昇る日の出を眺められる事で超有名な、「二見興玉神社」へ参拝しました。 

ひつこいように言っておりますが、今回は取材旅行記です。「外宮」「内宮」「伊勢うどん」「赤副もち」「二見興玉神社」「伊勢神宮の歴史」「遷宮」等の話題で1度ずつブログがご紹介できる量です。それを1回で終わらせてしまう旅行記に成っています。ですから改めて詳細な記事を書かせていただくつもりです。   

8日に渡って続いた修行も終わり、疲れた体とお土産を持って家路に着きました。今思えば走行距離なども記録しておけばよかったと後悔しています。旅行中に一滴の雨も降らず、晴れ男の面目躍如となりましたが、摂取した水分は車が消費したガソリンの量より多かったかも知れません(笑)。




【プロローグ】伊勢神宮の参拝順序は「外宮」から「内宮」へ



伊勢神宮は「内宮(ないくう)」と「外宮(げくう)」を中心とした、125の宮社の総称です。参拝は一般的に、「外宮」の豊受大神(トヨウケノオオカミ)にご挨拶してから「内宮」の天照大御神(アマテラスオオミカミ) に参拝します。

P7213746.jpg(空が綺麗ですよね~嬉)

参拝時間は「内宮」正宮だけなら1時間、「外宮」正宮だけならは30分位でしょうか?、実際は別宮が数多く有るので全て(摂社125すべてでは無いです。(;^_^A))をお詣りし、御朱印も頂いた私は倍くらいの時間が掛かっています。

「外宮」から「内宮」までの距離は(県道32号線経由)4.7Kmで、車では15分くらいで到着します。駐車場は充実しているので困ることはないと思います。

前回家族で訪れた時(平成25年「式年遷宮」時)には、「日別朝夕大御饌祭」(朝夕の二度、外宮の御饌殿みけでんで御飯、御水、御塩などを天照大御神に奉り、「国安かれ、民安かれ」との祈りと感謝を捧げるお祭りで、外宮の御鎮座以来、約1500年間つづけられています。)を見られましたし、「内宮」では祭主「池田厚子さん(天皇陛下の姉)」のお詣りに遭遇しました。祭主は昨年から「黒田清子さん(天皇陛下長女)」が就任さえています(祭主は古代の斎王とは違います。)。

伊勢神宮には昔から「おみくじ」はありません。おみくじは日ごろからお参りできる身近な神社で引くもので、古来から「一生に一度」と庶民があこがれたお伊勢参りは、大吉でないわけが無いとの理由から、おみくじも引く必要がなかったと考えられます。

さらに、拝礼の際に八拍手(出雲大社は四拍手)と記載した記憶が有りますが、実際は神官が行う祭祀の場合で私たちは、二例二拍手一礼で良いようです。

P7213776.jpg(甘いお醤油がからんでこれもまた格別!)

「内宮」にお参りした後、「おかげ横丁」で伊勢うどんを頂き、赤福本店で赤副もちを頂きました。

この後、せっかく伊勢まで来たのだからと二見興玉神社にも参拝、長女に頼まれた土産を購入して家路に着きました。

「外宮」で豊受大神(トヨウケノオオカミ)にご挨拶。神馬の正宮参拝も見られた。



「外宮」正宮には豊受大神(とようけのおおかみ)が祀られています。内宮に坐す天照大神(あまてらすのおおみかみ)の食事を用意する女の神様です。

豊受大神は『古事記』では豊宇気毘売神と表記されています。『日本書紀』には登場していません。『古事記』では伊弉冉尊(いざなみ)の尿から生まれた稚産霊(わくむすび)の子とし、天孫降臨の後、外宮の度相(わたらい)に鎮座したと記されています。神名の「ウケ」は食物のことで、豊な食物・穀物を司る女神です。

私の記憶では、食物神と言えば大気都比売(おほげつひめ)を連想します。体中から穀物などの食べ物を生み出した神様ですが、高天原を追放された須佐之男のお話に登場しています。

須佐之男が空腹を覚えて大気都比売に食物を求め、大気都比売はおもむろに様々な食物を須佐之男に与えます。それを不審に思った須佐之男が食事の用意をする大気都比売の様子を覗いてみると、大気都比売は鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していました(驚)。

須佐之男は、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、大気都比売を斬り殺してしまいます。すると、大気都比売の頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれました。

豊宇気毘売神が大気都比売と同一視さているのも同じ食物神だからでしょう。

P7213172.jpg(事前に調べていたわけではありません偶然が重なりました。笑)

今回は7月21日(土曜日)で神馬が正宮を参拝する日に都合良く当たりました。本当にいつも運に恵まれます。伊勢神宮の神馬は毎月1日、11日、21日のみ朝8:15頃に菊の紋章のついた馬着をまとい神職に手綱を引かれて神前に見参します。

「内宮」で天照大御神(アマテラスオオミカミ) にご挨拶。



今から2000年前、垂仁天皇の御代から五十鈴川のほとりに鎮まる「天照大御神(アマテラスオオミカミ)」 は、奈良の都、皇居内でお祀りされていましたが、倭姫命(ヤマトヒメノミコト)を御杖代(みつえしろ)としてよりふさわしい場所を求め諸国を巡ります。伊勢の国に至った時に「伊勢がすばらしいので、この国にいようと思う」とお告げがあり、伊勢に鎮座しました。

『日本書紀』や『古事記』に詳しい理由は書かれていませんが、気候が穏やかで海の幸、山の幸に恵まれた場所であることが理由と考えられます。

内宮の入口である宇治橋をわたり、玉砂利を敷き詰めた長い参道を進むとそこは神域。「心のふるさと」と称される日本の原風景が広がります。

P7213642.jpg(やはり神の使いは八咫烏?足が1本少ないな~。)

皇位のしるしとして受け継がれる三種の神器の一つである「八咫鏡(やたのかがみ)」をご神体として伊勢の地にお祀りし、国家の守護神として崇める伊勢信仰は平安末期より全国に広がりがみられました。現在でも全国の神社の本宗として特別に崇敬を集めます。

二見興玉神社で日の出は見られ無かったが、チョー有名なしめ縄に出会う。



二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)は、伊勢市二見町江に有ります。旧社格は村社で、現在は神社本庁の別表神社と成っています。伊勢神宮「内宮」からも近く10Km20分ほどです。

猿田彦大神と宇迦御魂大神(ここでは神宮外宮の豊受大神の別名とされる)を祭神として祀り、 夫婦岩の沖合約700メートルの海中に沈む、祭神・猿田彦大神縁の興玉神石を拝し、夫婦岩としめ縄、夏至の前後には遠く富士山の背後から昇る日の出を眺められる事でチョー有名な神社です。

P7213887.jpg(チョー有名~~~!もっとあるだろ~~~!)

不思議なことに、神宮社の125社中に二見興玉神社も、猿田彦神社も入っていません。つまり、伊勢神宮と二見興玉神社は伊勢神宮としては、なんにも関係がないのです。これについては元々の太陽神が天照大御神ではなく猿田彦大神であった説や、猿田彦命先
住説など調べると面白のです(もちろん今回はお預けです・笑)。

猿田彦大神は天孫降臨の際に高天原と豊葦原中津国の間の道案内を務めたことから、「道開き(導き)の神」といわれています。

この神の神使は私の大好きな蛙で、神社参拝の後に神徳を受けた人々が神社の境内に蛙の塑像を献納するため、境内には無数の蛙像が並んでいます。これは「蛙」の「カエル」に「無事に帰る」「貸した物が還る」「お金が返る」の「カエル」を掛けた 験担ぎとなています。

三重県では2番目に参拝者の多い神社であり、2013年には265万7590人が参拝しています。

【最後に一言】長い旅行記にお付き合いありがとうございました。



最後まで読んでくださった皆様、長い旅行記を読んでいただき大変ありがとうございました。

出発前に、「脱サラして起業する」などと大きなことを申しました。ストレスが溜まり仕事に行くのが苦痛になっており、精神科の先生と相談した結果「少し休暇を取ったらどうですか」と言われたことも、今回の取材旅行を決意した理由の一つに挙げられます。

ですから、今回の私の取材旅行は仕事で休暇を取る前のリフレッシュ旅行という側面もあり、これまで念願であった、「富士山」登頂、「諏訪神社」参拝、国宝最後の城「松本城」前回家族旅行では、果たせなかった伊勢の「二見興玉神社」などなど、多くの寺社仏閣・史跡・城跡を巡ることができました。

日本の歴史や文化を伝えていくことは、私のライフワークでもあり趣味でもあります。本当に楽しい取材旅行になりました。天候にも恵まれ(ちょっと暑すぎて大変苦しいましたが)良い取材ができたと思います。

冒頭でも申し上げておりますように、今回は取材旅行記ということで一日一ブログの原則で、書かせていただきました。実際に取材したボリュームは10倍以上にも及ぶかもしれません。今後一つ一つ丁寧に取材の情報を、ブログでアップしていけたらと考えています。
写真がもう一つなのも作戦です(なんの作戦だって、意味有るん?笑)。

コアなブログを長く書いてまいりましたが、なかなかアクセスアップが出来ず悩んだ時期もありました。今後このブログをどのように運営していくのかに関しても、この旅行中に色々と考えたことがあります。

いつも言っておりますように歴史ブログをやめることはありませんが、少し形を変えさせていただくかも分かりません。

いつもコメントをいただく皆様には、心よりの御礼を申し上げます。
今後とも、下手でコアな私のブログを楽しみにして頂けたら嬉しいと心より思っております。

いつも応援ありがとうございます。
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2018/07/29

取材5日目は前日「富士下山」後、足を引きずりながら向かった「諏訪大社」四社「御朱印」巡り。

取材5日目(7月18日)は、富士登山後の痛い足を引きずりながら向かった「諏訪大社」四社御朱印巡りです。諏訪大社前宮・諏訪大社本宮・諏訪大社春宮・諏訪大社秋宮を巡ると、サプライズで有難い御品物もいただけます。

前日(富士下山の日)翌日の事も考えて、諏訪市内のビジネスホテルで休養を取りました。登山用具も家族へのお土産と共に自宅へ送った後に、最初に向かったのは、諏訪大社前宮(諏訪大社はすべて信濃一ノ宮です)です。

毎回申しておりますとおり、歴史ブログは、私の人生のテーマですから、中断いたしません。日本文化の伝承と発信を、生涯の役割と考えて、第二の「柳宗悦」を目指す目標も忘れてはおりません。




【プロローグ】7月17日「富士下山」後の移動はきついぜ~!



諏訪大社は上社前宮・上社本宮・下社春宮・下社秋宮の4社からなり、諏訪湖の南北に二社ずつに分かれて鎮座する、独特の形を持ったお宮です。4社すべてが信濃国一之宮となっています・。御祭神は神話でも有名な建御名方神とその妻八坂刀売神を祭ります。

御鎮座は「古事記」その他の書物から推定して、少なくとも15~600年から2000年前と伝えられており、我が国で最古の神社のひとつに数えられることができます。建御名方本人は建御雷之男に負けて諏訪の地に逃げてきたと神話では言われていますが、諏訪大社そのものは勝負の神、特に歴代の朝廷をはじめ武門からは武将から、「勝負の神」「軍神」として崇められ、日本第一大軍神または関東第一の軍さ神と称えられています。

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(上社前宮の4本目の御柱)

神功皇后が三韓征伐の折り諏訪大神の神助ありと伝えられますし、征夷大将軍坂上田村麻呂が戦勝祈願をされたことでも有名ですよね。

戦国時代になると隣国、甲斐の国(山梨県)の武将武田信玄は、諏訪大神を信仰し武田家の守り神として崇め、社殿の造営や社領地等を寄進しています。

各地の戦いに行くたびに、その都度参詣して武運の祈願長の願を込めて諏訪南宮法性大明神の旗印を先頭に出陣しています。

北と南に2社ずつ分かれて鎮座するのも面白いですね、18日は天候も良く諏訪湖がとても綺麗(で当然暑かったですけれど)四社一気に巡ることができました。これも諏訪大明神のおかげですね~。

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先ずは諏訪大社前宮・諏訪大社本宮


まずお参りしたのは、諏訪大社上前宮です。前宮は建御名方が最初に鎮座した場所といわれているようで、御朱印帳の順番から言うと前宮から参って、次に諏訪大社上社本宮の順番に上社を回るようになっていました。

今回写真を付餡沢山紹介したいのですが、いっておりますように取材の様子を伝えるブログということで、有名な御柱祭の御柱のうち各社4本ずつ御柱の4番目の柱を一本ずつご紹介したいと思います(笑)。

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(上社本宮の4本目の御柱)

上社本宮の現在の宮司は、出雲大社北島家の方のようで出雲を巡ってってきたと言うと、ボランティアのおじさんが「お会いになって行かれませんか」と誘われたのですが、宮司さんはちょうどお仕事中でおられなかったようで、会うことはできませんでした(残念)。とても綺麗な神社でした。

諏訪大社春宮・諏訪大社秋宮とサプライズの供物


さて次に巡るのは下社春宮と下社秋宮の2社です。下社・上社はそれぞれ近くに前社・本宮、春宮と秋宮という形で直ぐ近くに神社があります。春宮と秋宮は約1 km しか離れておりません。

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(下社春宮の4本目の御柱)

皆さんご存知のように、「式年造営御柱大祭」という正式名称の、「御柱祭り」または「おんばしら」とも呼ばれる寅年と申年の7年ごとの大祭(実際は6年ごとなんですけれど)が昨年開催されました。7年ごとと成っているのは数え年計算のようなものだと思います。

十二支のうちの半分ずつなので実際は6年ごとということになると思いますが、規模が雄大豪壮である所から奇祭の一つに挙げられています。

祭りの起源は古く古代に遡りますが、古代巨木信仰ということを考えると、日本海側の出雲大社の古代御社や三内丸山遺跡の柱などにも、巨木信仰の影響が見られますので、そういう意味では面白いですよね。

大きな御柱は長さ55尺(16.5ⅿ)周囲1丈余り(3ⅿ)もあります。重さが12~3トンにもなりますが、車もころも使わず人の力のみで引き摺るため原始的ですが、急坂を引き落としたり川を引き渡したりして怪我人が出ない方が不思議と言われるほどに、荒く雄壮な行事として知られ、このお祭りには数十万人の観衆を動員するため「人を見るなら諏訪の御柱に行け」とも言われているようです。

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(下社秋宮の4本目の御柱)

実は去年の御柱祭りに是非行きたかったのですが、時間が合わずに行けなかったのが非常に残念でした。6年先に行けるかどうかは起業にかかっていますかね(笑)。

そうそう忘れておりました。4社を回るとお土産と言うと失礼ですがプレゼントの御品物がサプライズ?で頂けます。そば粉と和三盆で作った落雁が入っていました。大変美味しくいただきました。皆さんも4社巡って、おいしい落雁食べてみませんか。

P7280865.jpg(諏訪大社の神紋「諏訪梶の葉・明神梶の葉」. 梶の正式名は「穀(かじ)」だそうです。蕎麦落雁頂けます)



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2018/07/07

「くわばら、くわばら」の語源知ってました?語源を求めて三田市桑原『欣勝寺』

「くわばら、くわばら」の雷封じの呪文、死後に雷の祟り神となったとされる菅原道真が領地であった桑原には雷を落とさないからだとか、雷神が桑の木を嫌うからということで、雷よけの効果があるとされています。伝承の残る我が家の近く三田市桑原『欣勝寺』を訪ねてみました。



【プロローグ】雷の祟り神といえば菅原道真ですよね。


嫌なことや災難を避けようとして唱えるまじないに「くわばら、くわばら」が有ります。えっ!「もうお年寄りしかいわない」って?(笑)

本当ですね、近頃余り聞いたことが有りません。これは元々、死後に雷神となったとされる、菅原道真の領地「桑原」には落雷がなかったところから、その地名をまじないにしたとも言われています。

また、雷神が農家の井戸に落ちて農夫にふたをされてしまったとき、雷神が「自分は桑の木が嫌いなので、桑原と唱えたなら二度と落ちない」と誓った、という伝説によるとも言われます。

雷がゴロゴロと鳴り出した時に、自分の所に落ちないための呪文であり、転じて恐ろしいことが起きた時に身に降りかかる災難を除けるための呪文です。

P6160042.jpg(曹洞宗といえば柱巻だそうです。西陣織の風神雷神柱巻)

今回私が訪れたのは、自宅からご近所?車で30分程度の兵庫県三田市(さんだし)桑原『欣勝寺』です。雷様の子どもが井戸に落ちた伝承が有り、どちらかといえば、菅原道真と関係無い方ですね。それではご紹介いたしましょう。 

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京都にくわばらってあるの?



雷と菅原道真公の由来は、道真公が政敵の左大臣藤原時平との抗争に敗れ大宰府に左遷され怨霊となり、京都に災いを及ぼしたという話から始まります。

道真公は宇多天皇に重用されて、右大臣に昇進し右大将を兼任、従二位まで昇進しました。それを快く思わない藤原氏や他の貴族に謀られて大宰府に左遷され、903年(延喜3年)その大宰府で亡くなった後は怨霊(雷神)となり、京都を襲ったとされます。

道真の死後、京には荒れ、醍醐天皇の子が次々に病死するなどの事態が発生、これを道真のたたりと恐れた朝廷は流刑に処した道真の子供らの刑を解き、京に呼び戻しました。これによって京が安泰になった事から、天神を祀ったことで有名です(北野天満宮は有名ですね)。

京都府京都市中京区に「桑原町」という地名があります。一見どこにでもありそうな地名ですが、不思議なことが有るのです。

何が不思議化といいますと、京都市街地のど真ん中にあるこの桑原町という地名は居住区ではなく、「北は京都市上京区京都御苑」「西と南は京都市中京区四丁目」「東は桝屋町(富小路通り)」という地名に完全に囲まれており、丸太町通上の20m×30mで囲まれた一角のみなのです(つまり道の上だけ)。

京都御所自体は丸々京都市上京区京都御苑という地名になっており、桑原町の東西に隣接する中京区四丁目、桝屋町(富小路通)は共に京都御所に隣接している事と、南部の京都簡易裁判所も中京区四丁目、枡谷町に囲まれている事から桑原町が道路上のみの地名で、居住区でない事が分かります。

一見不思議に感じますが、現在の京都を形作ったのは、豊臣秀吉で16世紀末の事ですから、平安期の町割りは少し違ったものだったのかもしれません。菅原道真公とも有ろう方の所領が20m×30mということも考えにくいことから、後に(秀吉時代の町割り改革時)このような道路上に成ったのかもしれません。



「くわばら、くわばら」の語源の元となった場所が、和泉市内にもあった。和泉33ヶ所札所の1つである成福寺にも同じような昔話があるようです。雷神が農家の井戸に落ちて農夫にふたをされてしまったとき、雷神が「自分は桑の木が嫌いなので、桑原と唱えたなら二度と落ちない」と誓った、という伝説によるともいわれます。

P6160047.jpg(あわてんぼう雷様が落ちた雷井戸)

私がご紹介する、兵庫県三田市桑原「欣勝寺」にも境内には雷の子供が落ちたといわれる雷井戸があり、また、長野県千曲市桑原にも菅原道真に関わる雷伝説が語り継がれているということです。

P6160048.jpg(ご由緒書)

民話「くわばら、くわばら、欣勝寺」



【三田の民話「くわばら くわばら 欣勝寺」】

P6160028.jpg(民話「くわばら、くわばら、欣勝寺」)

『昔々、あわて者の雷の子どもは欣勝寺の井戸に落ちてしまいました。どうしても外に出られないので「助けてくれ~!」と大声で叫んでいるのを見た和尚さんは井戸にふたをしてこらしめました。雷の子どもは「助けておくれ、二度と桑原へは雷を落としません。」と約束したので、和尚さんは助けてやることにしました。雷の子どもは、雲の上に戻ってから、両親にこの話をすると、雷の親はとても感謝をして仲間を集めて、「これからは桑原には決して雷を落としてはならないぞ。」と皆に言いました。それからというもの、欣勝寺や桑原には雷が落ちたことがないと言います。そのようなことがあってから、「くわばら くわばら」と唱えると雷は落ちないと言い伝えられています。 』

三田市桑原『欣勝寺』




P6160001.jpg(山門)
P6160057.jpg(本堂、新しいです。)
P6160014.jpg(山号額は川本幸民の曽祖父寄贈だそうです。)
P6160020.jpg(奥に見えるのが、ご本尊の虚空蔵菩薩です。)

永禄年間(970年~973年)に清和天皇より別れた源満仲の開基を伝える真言宗の道場で、桑原さ山欣浄寺と称されました。その後、安貞2年(1228年)曹洞宗の開祖道元禅師が28歳の時に、有馬温泉に入浴した際に、桑原のに地に立ち寄り、この寺の山が宗の不老山に似ていることから、体宋山欣勝寺と命名し、曹洞宗に改宗されました。境内には雷の子供が落ちたと言われる雷井戸があります。

なお、ご本尊は虚空蔵菩薩で元亀4年(1573)に、安房国(現在の千葉県)清澄寺から、「欣勝寺」へ本尊としてもたらされました。数え年13歳の時にお参りすると知恵を授かるといわれる「十三まいり」としても有名です。

住職は同級生?


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(豊岡市日高町にある曹洞宗の寺「隆国寺(牡丹寺として有名で、関西花のお寺 第6番)」)

余談ですが、欣勝寺の方丈さん(お坊さんの呼び方というのはなかなか難しいようで、曹洞宗 では、住職のことを「方丈(ほうじょう)」と呼びます。)とゆっくりお話をさせていただきました。わが家の宗教が日蓮宗であること、曹洞宗については三田市で600年の歴史を持つ「永澤寺」で座禅を数回行ったことがあることなど話をした話をさせていただきました。

お話の中で、仏教という宗教が生き方を主眼に置いた宗教であることなど、楽しくお話しさせていただきました。話の中でどうやら年齢が近いようなのでお尋ねすると全く同じ年齢でした。

曹洞宗のお寺ということで、実家近くの兵庫県豊岡市日高町にある曹洞宗の寺「隆国寺(牡丹寺として有名で、関西花のお寺 第6番)」の方丈さん(住職)が高校の同級生なのでその話をしますと、「はいはい存じ上げてますよ、大学の時は同じクラスでした。」と申されましたので、びっくりしてまた話が盛り上がってしまいました。

隆国寺の牡丹は5月が見ごろ(過ぎてしまいましたが)です。方丈さんの太田くんは高校の同級生、素敵なお寺ので又改めてご紹介したいと思いますが、皆さんもよろしければ是非出かけてください。

【最後に一言】「くわばら、くわばら」は雷ばかりじゃない!


P6160039.jpg(なんとなくの籠、狭い所は大丈夫?)

「くわばら くわばら」ですが、先日大阪北部を襲った大きな地震は、本当にびっくりしました。多くの方々が被災され、現在も復旧作業は難航しています。はっきりしたことはわからなかったようですが、好きな歴史学的見地から言うと、前回の地震は有馬-高槻断層帯のずれが引き起こした地震ともいわれています。

有馬-高槻断層帯(が引き起こした地震としては、1596年に起きた伏見桃山の豊臣秀吉の『伏見城』を崩壊した地震があります。

今回は、雷よけのお寺ということで「欣勝寺」を取り上げさせていただきましたが、昨日からの大雨で、全国で大きな被害が出ているようで、亡くなった方もおられます。被災された方に心からのお見舞いを申し上げます。

私も、昨日は神戸ポートアイランドの病院に行く予定だったのですが、有馬街道が通行止め(高速道路も全て通行止め)になっていて、仕事を有給を取って休んだにもかかわらず、全く家から動くことができませんでした。

「くわばら くわばら 欣勝寺」「くわばら くわばら 大地震」「くわばら くわばら 大雨」、人間は自然災害には無力な訳ですが、情報を早く入手して、素早く行動する事で、被害を最小限に収めてくださいね。本当に『くわばら くわばら』です。

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2018/07/01

「大国主事」こと「葦原醜男(あしはらしこを) 」に、ご挨拶『出雲大社』にお詣りする。FINAL

出雲大社を巡る旅、今回の最期を飾るのは勿論「古事記」の神話時代から語り継がれてる『本殿(神殿)』です。大国主大神をお祀りする出雲大社本殿は『国宝』に指定されています。「平成の大遷宮」で美しさに磨きを掛けた本殿の雄姿を特とご覧あれ。



【プロローグ】葦原醜男(あしはらしこを)や「大穴牟遅神(おおなむぢ)」とは?



前回は「大穴牟遅神(おおなむぢ・稲羽の素兎時)」に、今回は「葦原醜男(あしはらしこを・素戔嗚に認められて大国主に…) 」にとさせていただきました。「大国主大神」には多くの名前があります。私は「大国主」は出雲王・国王の総称であると考えています。何度も殺されるたびに何度も息を吹き返したり、全国に有る国造りの伝説も一人が成し遂げたことではなく、出雲王国の王が成し遂げた業績だと考えています。時代が移って、人代に成っても大和朝廷が出雲を特別視した所以がそこにあるのではないかと考えています。今回出雲大社に毎年二度以上通い、現地を見て感じて一層その思いが強くなりました。

DSC_0104.jpg(出雲大社に日の丸がたなびく姿が美しい20枚以上撮影したのですが…)

2008年の「仮殿遷座祭」以降、本殿の屋根等の大改修が行われて、2013年5月には御祭神を仮殿から改修が完了した本殿へ再び遷座する「本殿遷座祭」が行われました(平成の大遷宮)。出雲大社の遷宮は概ね60~70年毎に行われました。私が、出雲大社に興味を持ったのが丁度、「平成の大遷宮」の期間だったことから、本殿内部の空気感やご神体のイメージまで実際に内部を観覧したりご神体の移動に関わった方々から話を聞けたのは、偶然とはいえ幸せでした。

本殿の中に入ると「全く空気と時間が変化する」と遷宮時の公開で、本殿に登殿した方からお聞きしました。空気だけでなく、時間の流れが止まったような、あるいはゆっくりになったような、感覚に落ちていったと話されました。

出雲大社の宮司には、日本神話からの言い伝えから天照大神の子の「天穂日命」を祖とする出雲国造家のみが祭祀を担うことが許されとされており、現在においても皇室の者すら本殿内までは入れないというしきたりを守り続けています。それでは『国宝』出雲大社本殿をご紹介させていただきます。

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(Facebookでもお友達に成って頂いている飯塚禰宜さんです。処理しなくても良かったのですが飯塚さんは大社のポスター等にも必ず出られている美男子なので、稲原醜男は遠慮しました。笑)


『国宝』本殿概要


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(参考にさせていただきました。)
P5041821.jpg(うっとり…)

玉垣、瑞垣(廻廊)、荒垣の三重の垣根に厳重に守護されている大社本殿内部は、北西には御客座五神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神)が祀られています。大国主大神の御神座は本殿内北東にあり、正面である南側ではなく西側を向いています。

これは本殿が古代の高床式住居とほぼ同じ構造になっているため、高床式住居における入口と最上席の配置と向きの関係から、御神座は西側を向くことになるためと考えられています。天井には7つの雲の絵(8つ目の雲はどこへ?)が描かれている。現在の本殿は1744年(延享元年)に建てられたもので、高さは8丈(およそ24m)と、神社としては破格の大きさです。

切妻造妻入の本殿は、柱を田の字型に配して中央には直径が1 mを超える心御柱が立ちます。正面・背面の中央には棟木まで伸びる宇豆柱は立ちます。このため戸口を中央に作られないので、東の間に板唐戸(御扉)を取り付け、扉の前に階段(木階)を作り、その上に傾斜した屋根(階隠)をかけます。

このような形式は「大社造」と呼ばれ神社建築の中でも、出雲地方に独特な形式に分類されています。特に出雲大社本殿はその代表例として国宝に指定されています。

屋根は檜皮葺で、その構造は軒先に厚みを持たせるの軒付と、屋根面を葺く平葺に分かれます。平葺は、一般的に長さ76cm の檜の皮を12 mmずつずらして重ね竹の釘で葺きますが、出雲大社本殿では121cmの皮を9mmずつずらして重ねていきます。檜皮の長さが1.5倍もある上にずらす隙間も狭く、重なりが多くなるため檜皮葺の厚さは20cmにもなります。

軒付積の厚さは60~90cmになります。また、檜皮の下には野地板(厚さ4.5cm) の上に貼られた二重の流し板(厚さ3.3cmと4.8cmが仕込まれています。この流し板は、継ぎ目を刻苧漆(こくそうるし)で止水した重厚な構造です。いずれも本殿を厳重に守るための先人の工夫です。

この本殿が建てられた時の記憶『出雲大社延亨造営伝』によれば、破風と棟の包み銅板には「チャン塗」が施されていました。修理前の包み銅板は明治の修造遷宮で取り替えられたものでしたが、分析の結果黒色のチャン塗が施されていたことがわかりました。また破風の錺金具に残っていた緑色の塗料もチャン塗でした。「チャン塗」とは主成分が松脂でこれを荏油(えごま油)で溶き、鉛と石灰を添加した塗料です。黒の場合は墨、緑の場合は岩絵の具の白緑(びゃくろく・ 白みを帯びた薄い緑色。孔雀石を砕いた粉末である岩緑青(いわろくしょう)を、さらに細かくして作った)を練り混ぜて作るそうです(自分で書いていて、意味が良くわからないです)。出雲大社の建造物‐(公財)文化財建造物保存技術協会‐より抜粋。

「雲太、和二、京三」って知ってます?


DSC_0054_20180701200440a9b.jpg(本当はどの程度の高さだったのか?)
PB020110.jpg(後ろの八雲山に作らえていればおよそ96m有ったかもしれません。)

本居宣長の『玉勝間』によれば、かつての本殿は現在の倍ほどもあり、中古(平安時代)には16丈 (48m)、さらに上古(神の時代の後、平安より前)には32丈(およそ96m)であった、という伝承があるとされます。同じ出典にある、「金輪造営図」と併せて想定される姿は大変不思議なもので、空に向かって延びた何本もの柱の上に社が建つというものになっています。上古については流石に神話の中のお話だとしても、16丈あったとすると東大寺大仏殿(当時の伝承によれば十五丈・45m)や平安京大極殿より大きかったということになります。

この説については賛否両論あり、肯定する意見としては、平安時代に源為憲によって作られた「口遊」で数え歌に歌われていること(雲太、和二、京三=出雲太郎、大和次郎、京三郎、というものですが『雲太、和二、京三。今案、雲太謂出雲国城築明神神殿。和二謂大和国東大寺大仏殿。京三謂大極殿、八省。』を元にしており、その後に続く数え歌を考慮すると、高さの順を表したものではなく、神社(神)、寺院(仏)、住宅(人)の順との説もある)や、複数の記録により、複数回倒壊していることがわかっていること(「百錬抄」「左経記」「千家家古文書」「中右記」「北島家文書」などに記録があり、平安中期から鎌倉時代初めまでの200年間に7度も倒壊している)といった傍証が挙げられてます。

上古32丈についても、山に建てたものについて、その標高を述べたものと附会すれば、不自然では無いという意見もあります。高層建築が必要とされたのは別天津神(ことあまつかみ)の祭祀と関係があるとする説もあります。別天津神は、『古事記』において、天地開闢の時にあらわれた五柱の神々をいいます。

『古事記』上巻の冒頭では、天地開闢の際、高天原に以下の三柱の神(造化の三神という)が、いずれも「独神(ひとりがみ)」(男女の性別が無い神として成って、そのまま身を隠しました。天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)至高の神、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)生産・生成の「創造」の神、神産巣日神(かみむすひのかみ)生産・生成の「創造」の神。高御産巣日神と対になって男女の「むすび」を象徴する神。

その次に、国土が形成されて海に浮かぶくらげのようになった時に以下の二柱の神が現われています。この二柱の神もまた独神として身を隠しました。宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)活力の神、天之常立神(あめのとこたちのかみ)天の神です。これら五柱の神を、天津神の中でも特別な存在として「別天津神」と呼んでいます。

一方で、前述したように明確な文献が『玉勝間』と江戸時代まで下ること、証拠とされているものがいずれも傍証にとどまること、32丈説として想定される「山」が、そもそもただの山ではなく神域であり工事が入ることなどめっそうもないといった点が否定要素とされています。

2000年、地下祭礼準備室の建設にともなう事前調査に際し、境内からは勾玉などの他、巨大な宇豆柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘されました。古代社殿の柱ではと騒がれ、16丈説があたかも確認された事実であるかのごとく報道されたりしましたが(私も興奮したもですが…)、結局、中世の遺構で現在とほぼ同大平面であり、柱の分析や出土品からも1248年(宝治2年)造営の本殿である可能性が高いとされています(鎌倉時代ですね)。ただし発見されたものが古代の本殿ではなくとも、16丈であったことの証明になる可能性があると書かれた教科書や書籍ももちろんあります。

江戸時代初期まで素戔嗚が主祭神だった?


P5041801.jpg(大国主は何故西を向いているのか?)
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(こちらからだと正面から大国主大神と対面できる場所。前の山が義父・素戔嗚を祀っているからとバスガイドさんの説明を小耳に…)

現在の出雲大社の御祭神はもちろん大国主大神ですが、その昔、素戔嗚尊(スサノオノミコト)とされていた時代がありました。出雲大社の荒垣入口の銅鳥居は長州の大名毛利家が寛文六年(1666年)に寄進したものですが、そこに刻まれた銘を見ると「一を日神といい、二を月神といい、三を素戔嗚というなり、日神とは地神五代の祖天照太神これなり、月神とは月読尊これなり、素戔嗚尊は雲陽の大社の神なり」と書かれていて、この時代は素戔嗚尊が御祭神であったことがわかります。

いつから切り替わったとはっきり伝わっているわけではありませんが、歴史を見ていきますと、古代からしばらくの間は大国主大神でしたから、創建時も当然、大国主大神であったと考えます。また、出雲国造新任時に朝廷で奏上する「出雲国造神賀詞」においては「大穴持命(大国主大神)」「杵築宮(出雲大社)に静まり坐しき」との記載がありますので、この儀式を行っていた平安時代前期までの御祭神は大国主大神であったことがわかります。

ところが、これが中世の間のどこかから変わったようです。どうも鰐淵寺という出雲大社の北東にある大きなお寺との関係が起因となったようです。変わった理由について、國學院大學教授の西岡和彦氏のわかりやすい説明がありますので、見てみますと、「中世の出雲大社は、神仏習合の影響を受けて、一時祭神は素戔嗚尊であった。それは鰐淵寺を中心とした縁起(いわゆる中世出雲神話)に、出雲の国引き・国作りの神を素戔嗚尊としていたことから、それが一般に広まり出雲大社までが祭神を素戔嗚尊とするようになったのである。」(しまねの古代文化第十一号、島根県古代センター)

中世は神仏習合体制で、神社と寺院とかなり緊密な関係となっていたところが多く、出雲大社と鰐淵寺の関係もそうであったようです。最も神仏習合といっても、神社よりも寺院の方が力が強い事も多く、また学問といえば僧侶が中心でしたから、そのあたりも祭神の変更に影響を及ぼしたのかもしれません(ちなみに鰐淵寺「取材済み」は紅葉や桜のきれいな古刹です。まだ、ご紹介していませんが、改めてご紹介させていただきます。)。

豊臣秀吉の唐入りの際、出雲大社は所領を大きく減らされた影響から、江戸時代に入って鰐淵寺との関係はかなり薄くなりました。また儒学が盛んになると、神道が見直され「日本書紀」が広く読まれるようになりました。日本書紀においては出雲大社は大已貴神(大国主大神)の住まいとして建てられた、という神話がありますから、江戸時代中期には出雲大社は公式文書にもはっきりと御祭神は大已貴神と記載するようになり、はっきりと大国主大神に戻っています。

不思議な話ですが、良く戻ったなという気もします。参拝する人や権力者の意向もあります。それでも、戻ったのは、やはり天穂日命から代々受け継いできた出雲国造家の存在が大きかったのではないかと思います。私の故郷但馬の名草神社の三重塔も尼子氏によって仏塔として出雲大社に建てられていたものです。当時の遷宮の材が無い時期に但馬の木材と交換されて出雲大社の再建に使われました(名草神社「取材済み」もまだご紹介していないのですが、現在大雪の影響で修理中です2020年に完成予定です
。)。

出雲大社のご神体は何だ?知りたいですよね~推理してみましょう。


P5041738.jpg(うっとりする美しさです。)

さて皆さんは出雲大社のご神体を何だとご想像されますか?普通は、三種の神器と同じように「鏡・剣・勾玉」のどれか、またはその全てだと思いになりませんか?ただ出雲大社のご神体は、そのどれでもないと私は確信しています。

以前もお話してのですが、実は意宇六社、出雲総社・六所神社の宮司さんと Facebook でもお友達に成って頂き、出雲の歴史を御教授頂いて居ります。最初に六所神社を訪れた時に御朱印をいただきながら、出雲歴史の話で盛り上がり(私の知識が議論に値すると思っていただけましたら嬉しいのですが)小一時間お話することができました。

御朱印集めを、出雲大社遷宮の前年から始め、出雲が大好きに成ったことなどお話をさせて頂きますと、意宇六社の宮司さん方が出雲大社遷宮時に御神体を運ぶ役目を担っていることなどを、お話下さいました。

そこで、すかさず「出雲大社の御神体は何なのですか?」と訪ねてみたところ、遷宮の御神体移動は前日の夜に、千家当主(現在の出雲国造八十四代千家尊祐さん)が一人で神輿に移され、神事の当日に意宇六社の宮司さん方が仮神殿に移されるとのことです。もちろん神輿の中は見られないわけですから御神体が何であるかわからないそうです。

しかし、神罰に触れそうなので、はっきりとは言えませんが、ある理由から、「鏡・剣・勾玉」等ではないようだと考えられているようでした。さて皆さん其では何だと思われますか?それが何かはハッキリ言えません。私見ですが、やはり出雲に関係のあるものだと推測しています。出雲に関係があるものといえば何でしょう ?(こんな物かも…笑)

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(こんなこと覚えてますか?屋根を突き破ったそのもの1億で売れたとか?)

【最後に一言】『AKB48 53rdシングル世界選抜総選挙』に日本の未来を見た。



色々ご意見もおありだと思いますので、サムライブルーはちょっとおいといて(-"-;A ...アセアセ、時代は天照?女性を欲しているかも?

5月16日(土曜日)にサッカーをみようとTVを付けると「AKB48世界選抜総選挙」の開票イベントをやっていました。実は根っからのアイドル好きなんです。と言っても AKB グループが特別好きというわけではありません。AKB48グループの『AKB48 53rdシングル世界選抜総選挙』の開票イベントが5月16日、名古屋市のナゴヤドームで行われ、SKE48の松井珠理奈さん(21)が10回目の出馬で初めて1位を獲得しました。2位にも須田亜香里さん(23)が入り、SKEが1、2位を独占しました。

しかしながら、頑張っているアイドルを見るとついつい応援したくなるのが人情ですよね、昨年の紅白歌合戦で檜坂46のメンバーが、過呼吸になって倒れた姿を見て大ファンになった私ですが、AKB48グループ「メディア選抜」16名に選ばれた彼女たちのスピーチに思わず涙をこぼしてしまったので、少しAKB48についてお話をさせていただきたいと思います(出雲大社のまとめがAKB48か~~~!と怒らないでくださいね。)。

そもそも、私よりも半分以下の年齢の彼女たちが、3万人以上の名古屋ドームのファン(観客)を前にして、堂々と話がができるということに驚きました。そういわれてみれば、毎年開催(10回です)されているようですし。初期の頃はファンの子(篠田 麻里子さんです。)がいたので程々真剣に見ていたのですが、今は篠田さんが卒業してしまっているので、それほどは関心なかったのですが、なぜか今回は、ダラダラと見続けることになってしまいました。

しかしながら、彼女たちが3万人以上の観衆の中でスピーチにする姿にびっくりしてしまいました。当然「選抜メンバー」と呼ばれるトップ16名の発言は、素晴らしいものだったと思います。彼女たちは自分たちを投票で上位に押し上げて、トップメンバー(メディア選抜に)に押し上げてくれたファンへの感謝の気持ちを当然述べるわけですが、その後に冷静に自分自身の目標やAKB48という『箱』について、自分の所属するグループだったり、またそのグループ内のチームについてもスピーチするのです。そして選抜に選ばれる、殆どの皆さんがそのチーム(12~15程度)やグループ(48名以上)のトップメンバーです。

横山由依さん(総監督)になると AKB グループ全員の400(下部組織・海外を含めると700人以上?)人をまとめていると言うではありませんか、400人ですよ~!本当にあんなに可愛い女の子が400人のグループを纏め上げるってどんなことなんだ、と思いました。会社の場合を例にすると、人数では彼女たち一人一人がそれぞれ、一つの会社の社長と変わらない仕事をしてることになります。総監督の横山由依さんにいたっては、大会社の社長に匹敵します。

その彼女たちが心の底から絞り出す「スピーチ」に感銘を受けたのです。20歳そこそこの(そこそこと言われると怒られそうですけど)の彼女たちが、「私に付いて来てください。」とか「自分の頑張りを見ていてください!」とか「次は1位になります。」とか、そんなことを3万人もの観衆の前で宣言できますか?改めてびっくりしました。1位の松井珠理奈さんは「私は本気で48グループを1位にしないと気がすまない。48グループはまたアイドル界のトップになれます。なりたいんじゃダメなんです、なるんです!」と、凄すぎる。

もちろん彼女たちの後ろには、彼女たちを育て上げ(上手くプロデュースしている?)ている大人が付いているのかも分かりません。秋元康さんの策略かも分かりません。しかしながら彼女達は自分達の言葉で語りかけているんです。とても素晴らしい事じゃないですか、それだけの覚悟が、「じゃあ自分自身にあるのか?」と問われると、とてもではないですけどないですよね、3万人の前で普通に喋れるかどうかも分かりませんし…、本当に素晴らしい皆さんだと思いました。

「AKB48世界選抜総選挙」のメディア選抜のスピーチを聞いて、日本の未来は女性に託すべきだと感じた市郎右衛門でした。

いつも応援ありがとうございます。歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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