『登山』と『トレッキング』 - 「高天原の縁側日記」
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2018/07/27

取材旅行の第一目的地、木花咲耶姫に会う為に、「7月17日、富士山頂に立つ!」

取材4日目7月17日、遂に富士山頂アタックです。前日16日(海の日)は、八合目の太子館を目指して五合目2300m(富士吉田ルート)~3100m(八合目の山小屋「太子館」まで800m迄登りました。17日は山頂(標高3776.24 m)までの676.24 mです。

憧れの木花咲耶姫に会う為に余裕をもって16日の11:30頃に登山開始しました。毎回申しておりますように、日本の文化を届けるためには、一度は富士山の頂上に立たねばならないと、以前から考えていたのです。

今回は取材報告だけですので、サプライズイベントなどは、改めてご紹介しますし、写真なども少なめに当たり障りの無い物にしているのは、みなさんもご承知ですね。


目次
【プロローグ】7月17日富士山頂(標高3776.24 m)剣が峰に立つ!
・富士山の登山渋滞は半端ない
・富士山の山頂の寒さはもっと半端ない


【プロローグ】7月17日富士山頂(標高3776.24 m)剣が峰に立つ!



標高3100 mの「大子館」を夜の11時半頃に出発しました。年齢や体力を考えて、他の方よりも1時間は早く出発しました。八合目といっても八合目最下層から本八合目までに200 m~300mぐらいの高低差が有ります(八合目最下「大子館」3100 m、本八合目の 「富士山ホテル」は3370 mです)。

P7260861.jpg(モンベルの登山靴「テナヤ ブーツ」の底部分がすべて外れてしまった!下山はどうするんだ?)

できれば、頂上前の渋滞を考えて、一番収容人数の大きい山小屋「富士山ホテル」の登山客が行動を起こすまでに、富士山ホテル(3370m)を通過できれば良いと考えていたのですが、私の体力は不甲斐なく結局登山渋滞に巻き込まれてしまいました。

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富士山の登山渋滞は半端ない



体力不足から、登山渋滞に巻き込まれてしまった私ですが、。七合目八合目はなだらかなジグザグが続きますし、岩もそうないのですが、最後の頂上までの200mほどは、ほとんど横2列で登っていくしかなくなってしまいます。

パークレンジャーや関係者の皆さんが、交通整理をしなければいけない状態になります。左側がツアー客の皆様、右側が個人登山の私等が進む様に先導されるのですが、体力のない私は右よりの岩側を登れと言われ、結構きつく大変でした。

大変さを物語るのが最初の写真ですね。頂上に到着してなんか足がパカパカするなと思っていたら、モンベルの登山靴(テナヤ ブーツ)の底部分がすべて外れてしまっていました。

一度登山渋滞に巻き込まれると、動けないばかりではなく休むこともできなくなってしまうので、とてもつらかったです。もう少し早く出発していればと後悔しましたが、もうその時点では渋滞に巻き込まれ身動きが取れない状態でした。もちろん少しずつですが動きますし、関係者の皆さんが交通整理をしてくださったので、どうにかギリギリ日の出(4:27)10分前に山頂に到着することができました。

P7171017.jpg(どうにか日の出前に到着!)


富士山の山頂の寒さはもっと半端ない



取材旅行を始めてから、びっくりするほどの暑い日が続きましたので、富士山自体もかなり普段よりは暖かかったようです。実際八合目の私が宿泊した、大子館3100mを夜11時に出発した時もそれほど寒さは感じませんでした。もちろん歩いている間は汗もかきますし暑いのですが、頂上に到着した途端動きを止めるとその汗が冷え込んできて急激に震えるほどの寒さに見舞われます。

実際に吐く息が白く成りました(息が白く成るんのは、5度以下と言われています)。実際の温度は零度でした。あったかいものが当然欲しくなるのですが富士山頂の食べ物は値段が高いので、そう簡単には飲み物を飲む事も出来ませんし、そこらは防寒着で対応しました(貧乏旅行なのでね)。

P7171066.jpg(雲海も素晴しい。なんという山?)
P7171061.jpg(万年雪がまだありました。)
P7171120.jpg(お鉢を一周ました)
以上今回の富士山登山取材報告でした。富士山の神社や富士山についての細かな詳細につきましては、改めましてご報告させていただきます。

一番最後に成りましたが、『古事記』表記「木花之佐久夜毘売」と瓊瓊杵尊のおお話もまたいつかしたいです。 

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CROOZ


  
2017/10/20

市郎右衛門、『倭建命と伊吹山』にリベンジを誓う

関ケ原取材当日の午後、滋賀県最高峰の伊吹山登山にチャレンジしました。伊吹山(いぶきやま、いぶきさん)は、滋賀県米原市、岐阜県揖斐郡揖斐川町、不破郡関ケ原町にまたがる伊吹山地の主峰(最高峰)で標高1,377 mの山です。前回の長浜城跡の展望台からも雲の合間から頂上がちらっと見えていましたね。

この山は滋賀県最高峰というだけではなく、「記紀神話」の『倭建命』や高山植物でも有名で、一度は登ってみたい山の一つでした。もちろん山登りも好きな私ですが。伊吹山ドライブウエイのおかげで、9合目までは簡単に車で行けますので、実質100メートルほどの登山で頂上まで登れる。大着な私にとっては最高に素敵な山なんです。

PA141121.jpg(伊吹山~さあ登りますか~って100mほどですけどね)


それでは、関ケ原を歩きまわってへとへとな私でも、割と気楽に山頂まで登ることが出来る伊吹山をご紹介しましょう。ただし、季節的にはけしてよい時期とはいえず、伊吹山の素晴しさを皆さんに伝えることが出来なかったと感じましたので、リベンジを誓うの題名を採用いたしました。

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【伊吹山てどんな山なの?】

PA141118.jpg
(芭蕉も詠んでいます。「そのままよ 月もたのまし 伊吹山」)
PA141110.jpg(関ケ原を一望、家康が最初に布陣した桃配山方面!)
PA141107.jpg(裏切り者?小早川秀秋が布陣した松尾山方面!)
PA141141.jpg(木々が少ないので紅葉もどうだろ?って感じですね。)

一等三角点が置かれている山頂部は滋賀県米原市にあり、滋賀県最高峰の山です。山域は琵琶湖国定公園に指定されています。ご紹介したように、歴史的には関ヶ原から非常に近い場所にあり、倭建命の伝説でも有名な山です。

登山好きと言いはなっておりますが、それほどガチ登山というわけでもなく、二度登った鳥取県の大山(標高1,729m)の次に標高が高いのが今回の伊吹山(標高1,377.31m)という軟弱(それも9合目までは車で行ってしまう)クライマー(アルピニスト?)です。

歴史ブログと名うってブログを書いている私ですから、以前にご紹介した、「古事記神話」の八岐大蛇を退治したスサノオが降り立ったとの伝説がある、鳥取県と島根県の県境にある『船通山(標高1,142m)』などが丁度良いのです。

そういう意味では、伊吹山も倭建命伝説があることを考えれば、私的には最高な山な訳で、以前から憧れていたのです。

【霊峰伊吹山】

古くから霊峰とされ、『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、が東征の帰途に伊吹山の神を倒そうとして返り討ちにあったとする神話が残されています。『日本書紀』では「五十葺山」あるいは「膽吹山」とも記され、古事記では「伊服阜能山」と記述されています。かつては修験道においては「大乗峰」と呼ばれていました。

『うんちく「修験道(しゅげんどう)」』とは、山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の宗教の事です。日本中の霊峰と呼ばれる多くの山で、修験道は行われています。

修験道の他にも、日本百名山、新・花の百名山、一等三角点百名山、関西百名山、近畿百名山、ぎふ百山の一つに選定されているそうです(いかにも名山ですね)。

「伊吹山」の読み方について、国土地理院の登録された山名をはじめ、地図や道路標識などの振り仮名は「いぶきやま」となっており、伊吹山の山麓地域では「いぶきやま」と呼ばれているようです。一方、「いぶきさん」という呼び方も存在し、滋賀県の伊吹町では「いぶきやま」、美濃尾張方面では「いぶきさん」とする名鑑があるほか、滋賀県内の伊吹山に近い地域では「いぶきやま」、遠い地域になるほど「いぶきさん」と呼ぶ傾向があるようで、岐阜県でも同様の傾向があります。滋賀県、岐阜県、愛知県、三重県の多くの学校の校歌で「伊吹山」に関する語句が用いられています。

【伊吹山のヤマトタケル伝説】

PA141142.jpg(もう山頂!山小屋?「伊吹山寺覚心堂」です。)
PA141148.jpg
(倭建命を死に至らしめる「伊吹大明神」の白猪)
PA141158.jpg
(倭建命!日本最大級の英雄の姿が~これ?)

伊吹山の神は「伊吹大明神」とも呼ばれ、古事記では「牛のような大きな白猪」、日本書紀では「大蛇」とされています。古事記には倭建命がこの伊吹大明神と戦って敗れる物語があります。伊吹山の神に苦しめられて敗れた倭建命は病に冒されて山を下り、居醒の泉(米原市醒ヶ井の平成の名水百選の一つに選定されている「居醒の清水」)で少し回復したものの、のちに悪化して亡くなったとする伝説が伝えられています。

山頂部にはその倭建命(白猪は、古事記伝説なので倭建命と書きましたが、山頂の石像は日本武尊と刻まれています)の像と、伊吹山の神の白猪の像が設置されています。

表登山道の三合目西側の「高屋」と呼ばれる場所はヤマトタケルが山の神に出会った場所とされ、大正時代に石の祠が建立されその中に木造の日本武尊が祀られました。山麓の長浜市山階町の「伊吹神社」は伊吹神を祭神としています。ちなみに9合目までドライブウエイで上った私には、三合目の「高屋」や「伊吹神社」は素通りなので、確かめることは出来ていません。同級生に本格的に登山している女性陣(日本アルプスやヒマラヤの練習で伊吹山に登っているらしい)が居るので今度機会が有れば聞いておきます。

【山岳宗教と伊吹山寺】
PA141183.jpg(南側にあるから?南弥勒菩薩。)
PA141174.jpg
(弥勒菩薩、三修上人が亡くなったとき、この塚あたり葬られたのではないかとも思いますね)

役小角が伊吹山に登り、弥高寺と大平寺を建立したと伝えられています。白山を開山した泰澄は、この山に分け入り白山信仰を伝えました。9世紀に伝わった密教と結びついて修験の場として、多くの寺院が山中に建立されるようになりました。

「うんちく『役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの)』」についてちょっと説明、舒明天皇6年(634年)伝 によると、役 小角は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者です。修験道の開祖とされている。 実在の人物ですが呪術者部分は後世に作られたものだと考えす。私は寺社仏閣巡りで役 小角にまつわる寺社が結構多い事も知りました。私は横山光輝のSF漫画、『時の行者』(ときのぎょうじゃ)が、「役 小角」の話だと勘違いしていました。(笑)

851-854年(仁寿年間)に僧三修により、伊吹山の南側の中腹の尾根上に山岳寺院の弥高寺が建立されたことが「日本三代実録」に記録されています。三修(さんじゅ)により山上と山麓に山岳寺院が建立され、江戸時代まで山岳修行の山とされていたようです。弥高寺は伊吹山寺と呼ばれる定額寺の中心となる一つで、伊吹四大寺として他に大平寺、長尾寺、観音寺が建立され、のちに伊吹護国寺となっっています。

鎌倉時代には修験者による山岳宗教が発達し一時は数百の堂房が山中に建ち隆盛しましたが、戦国時代に兵火でほとんどが焼失し現存せずその地名だけが残っているようです。弥高寺は戦国時代に京極氏や浅井氏により城郭の一部として改造され、1512年(永正9年)に兵火に遭い、その後ふもとに坊舎が移されました。

円空は伊吹山の太平寺に暮らし、平等石(行道岩)で修業を行い、木彫仏を残しています。「弥高寺跡」は1986年(昭和61年)3月28日に、滋賀県により天然記念物(史跡)の指定を受けました。

「うんちく『円空(えんくう)』」は、江戸時代前期の修験僧(廻国僧)・仏師・歌人です。特に、全国に「円空仏」と呼ばれる独特の作風を持った木彫りの仏像を残したことで知られ、生涯に約12万体の仏像を残したとされます。山頂の「伊吹山寺覚心堂」と呼ばれる本堂のみの小さなお寺に円空上人自刻像があってなでなですることが出来ました。

【伊吹山の歴史の時間です】

伊吹山は古くから神が宿る山として信仰の対象でした。天武天皇(673年 )により麓に三関のひとつである不破関が置かれています。平安時代には、日本七高山(近畿地方の7つの霊山)の一つに数えられました。古事記の景行記(712年「和銅5年」)に、伊吹山にまつわる日本武尊の伝説が記されています。伊吹山の南側の中腹の尾根上に山岳寺院の弥高寺が建立されました(851~854年「仁寿年間」)。

室町時代後期1558年(永禄元年)、この年から1570年(永禄13年)の間に、織田信長が南蛮人から入手した薬草を栽培する菜園を伊吹山上に野草園が造られたとされます(信長ってすごいな~と感心しました)。その菜園には、ポルトガル人が自国で用いていた約3000千種のハーブが移植されたといわれています。

明治以降には近代登山の対象となっています(もちろんドライブウエイは在りませんでした)さらに明治末には川崎義令が千種類に及ぶ薬草を採取しています。

1912年(大正元年)10月山頂の弥勒堂近くに礎石を築き、現代にも残る日本武尊の石像が供養されました。1919年(大正8年)8月1日、山頂に設置された伊吹山観測所が気象観測を開始します。この観測所の建設時には、周辺で古刀や古銭が発掘されています(山岳信仰の遺物ですかね)。さらに大正時代から中山再次郎により、関西におけるスキーの山として注目されるようになります(現在スキー場は在りません)。

1927年(昭和2年)2月14日11.82m の積雪量が観測され、世界山岳気象観測史上1位となる。1929年(昭和4年)5月1日、山頂の観測所が国営の気象庁付属伊吹山測候所となりました。2001年(平成13年)3月31日、伊吹山測候所の観測が終了しています。跡地は2010年に撤去されて更地化されています)。

1950年(昭和25年)7月24日、山腹周辺が琵琶湖国定公園の特別保護地区に指定されます。1967年(昭和42年)3月17日、岐阜県が、岐阜県側の山域を県立伊吹自然公園に指定されました。2003年(平成15年)7月25日、伊吹山頂草原植物群落が、国の天然記念物に指定されています。

1964年(昭和39年)に深田久弥により日本百名山に選定されると、百名山ブームもあり全国的に登山対象の山として知名度も高まっています。1965年(昭和40年)に伊吹山ドライブウェイが開通すると、9合目まで容易に上がれるようになり山頂部は観光地化しました。ちなみに、伊吹山ドライブウェイの料金軽自動車一台で3090円(どか~ン!)一人で行くにはもったいないですね。

【目的の一つ高山植物にがっかり?】

PA141217.jpg(イブキジャコウソウ、もう最後の一輪だそうです)
PA141136.jpg(リンドウ)
PA141219.jpg(固有種、ミヤマコアザミ!ハナムグリが可愛いね。)
PA141137.jpg(やはり日本撫子)
PA141124.jpg(リュウノウギク)

季節が悪かったです。残念、高山植物の最盛期は7~8月だそうです。伊吹山には他では見られない特産種8種あるととされています。イブキタンポポ、コバノミミナグサ、ミヤマコアザミ、ルリトラノオ、イブキアザミ、コイブキアザミ、イブキコゴメグサ、イブキレイジンソウ、ただしイブキヒメヤマアザミを固有種とするサイトも多いようですね。これを加えると9種ということになります。またイブキアザミは伊吹山地と鈴鹿山地北部に固有とされています。これを加えていいのかどうか悩むところですね。追加や変更がある可能性ももちろんあります。

PA141207.jpg
(白猪ならぬ紅の豚~脂肪どうにかしろ!シャッターをお願いした登山小屋のおじさんごめんね、笑)
PA141178.jpg(最後にミステリーの謎を解く?ヤマトタケル遭難の4合目)
PA141222.jpg(美しい花には毒がある「伊吹トリカブト」これだ~!)


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リュミエールブラン ネージュ

  
2016/11/04

『天下分け目の天王山』を旅する。大山崎町「おじさんと登山」②

気持ちの良い秋の日、京都と大阪のちょうど間あたり、大山崎町を散策してみてはどうでしょう。

京都符乙訓郡大山崎町、JR 山崎駅から天王山の史跡を訪ねる「おじさんと登山」です。

今日は本気で登山「天下分け目の天王山」続編です。

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天王寺ハイキングコースももうすぐで山頂!といっても標高270.4メートルですからすぐなんですけどね~(笑)
山頂手前の山中に墓石群を発見し近づいてみると十七烈士の墓とあります(なんなんでしょうね?)。

CIMG6750.jpg(維新の史跡、京都御所には割りとよく出かけます、蛤御門には現在も銃弾の跡が残っているんです。)
CIMG6751.jpg(現総理も長州の方なんですよね~!自説を曲げず国を守り抜く気概を持っておられると信じています。)
CIMG6752.jpg(蛤御門の銃創は又の機会にご紹介いたします。)

十七烈士の墓は、幕末の禁門の変(1864年「蛤御門の変」)の時、尊王攘夷運動を旗印に戦い敗れ天王山中で自刃した隊長、「真木和泉守」(私、真木和泉と久坂玄瑞がこんがらがっていたので、真木和泉は御所で割腹したと思っていました、なんで?こんな所に墓が?と勉強不足を暴露してしまいました。)、以下十七名の眠る墓です。
十七名は天王山に踏みとどまり、殿軍(しんがり)をつとめ、一戦交えた後、全員割腹自刃しました(禁門の変「蛤御門の変」は又どこかでご紹介いたします)。

又、少し登りますと、「自玉手祭来酒解神社(酒解神社) 神社」が在ります。
場所は天王山山頂より約百メートルほど下つたところに位置し、本殿の手前に建つ「神輿庫」は鎌倉時代の建築で日本にある板倉式倉庫としては最古の例であり、国の重要文化財に指定されています。
牛頭天王を祀る旧山崎天王社は天王山の名前の由来になっていますので、お参りしていきましょうか。

CIMG6753.jpg(これは、三社宮です 天照大神社・月讀社・蛭子社ですが、右がやっぱり天照大御神かな?)
CIMG6755.jpg(大山祇神を主祭神とし、素戔嗚尊を相殿に祀ります。神輿庫は歩いている長女の右側にあります。汗!)

さてついに到着~!麓から歩くこと、約1時間程度、270.4メートルの標高の高さにある山頂です。
山頂は大きく広場のようになっており、土肌がみえています。
かつて城が築かれており、その痕跡を発見できるところにあります。
広場には山の上には似つかわしくない石が散見され、五輪の塔、石仏、墓石、井戸の跡などが見つかります。

CIMG6757.jpg(石垣のようですね~。見えにくいですが白い柱が山頂の杭です。)

さて下山しながらご紹介できなかったお寺を二つご紹介いたします(いつもの言い訳ですが、ブログを書く予定が無かったので、写真が・・・)。

CIMG3266.jpg

天王山山中地図を見てください。
「観音寺」は通称、山崎聖天(やまざきしょうてん)と言う古寺です。
山号は妙音山といい、地中から現れた薬師如来の石像に「妙音山寛平法皇剏建地(そうけんち)」と彫ってあったことに由来します。
桜と紅葉の名所としても有名で、春と秋のシーズンには多くの行楽客が訪れるそうです。

CIMG6766.jpg(紅葉は本当に素晴らしいです。)

もう一つ、「宝積寺」は寺伝では724年、聖武天皇の勅命を受けたに行基が建てたと伝えられる真言宗の寺院お寺で、行基が山崎橋という対岸八幡への往来の橋を建てた際に、橋寺として創建した「山崎院」の後身と考える説があります。
歴史上しばしば登場するお寺であり、寺宝や重要文化財が多く残り、聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」「小槌」を祀ることから通称「宝寺」(たからでら)の別名があり、大黒天宝寺として商売繁盛のお寺として知られています。

宝積寺は貞永元年(1232年)の火災で一度焼失し、現存する仏像等はこれ以降のものです。
宝積寺は山崎の戦いでは秀吉の本陣となり、禁門の変では尊皇攘夷派の真木保臣を始めとする十七烈士らの陣地が置かれた場所です。
ちなみに、お寺の途中にあるお墓には、十七烈士の碑があります。
三重塔は山崎の合戦に勝利した羽柴秀吉が寄進したものだそうです。

CIMG6741.jpg
(秀吉が寄進したと伝わる三重塔)


家族で楽しい登山が出来ました。
IMG_0001.jpg
(登頂証明書が100円でもらえます。JR山崎駅近辺で訪ねてください。勿論登頂してからね!)



次回は?山崎の戦いの羽柴秀吉軍の勝因について、考察してみますか。
あ~と!敗北を悟った明智光秀が逃げ込んだ「勝竜寺城」のご紹介をわすれていました。

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2016/11/03

『天下分け目の天王山』を旅する。大山崎町「おじさんと登山」①

気持ちの良い秋の日、京都と大阪のちょうど間あたり、大山崎町を散策してみてはどうでしょう。

京都符乙訓郡大山崎町、JR 山崎駅から天王山の史跡を訪ねる「おじさんと登山」です。

今日は本気で登山「天下分け目の天王山」です。

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古来、大山先は軍事、交通上の要衝として歴史上重要な役割を果たしてきました。
その要の位置をしめている山が標高二七〇・四メートルの「天王山」です。



天王山は摂津国山城国の境をなし、また西国と東国を結ぶ重要なポイントであり、山と川との間は最も狭い部分で200メートルたらずしかなくここを通らずして西へも東へも行けないという位置にあります。

古代、この山には名はなく、中世になって山崎山、そして山頂近くに酒解(さかとけ)神社が建立されて牛頭(ごず)天王を祭ったためそれから天王山の名が生まれました。
しかしこの名が知られるようになるのは室町時代の応仁・文明の乱の時からで、地域的な重要性から天王山に城が築かれ、たびたび合戦が行われました。
「山崎の戦い」は天王山と鴨川水系を挟んだこの狭い地域で行われました(当時は湿地で大きな沼もあり街道以外は取れないほどでした)。
明智光秀はこの狭い地域の出口に鶴翼の陣を張り、狭い西国街道を通過した部隊を各個撃破する戦法を採ったようです。

さてその天王山に登って見ましょう。
JR山崎駅を北へ少し行って線路を渡ると、登山道が見えます。

CIMG3263.jpg
(線路を渡るとすぐに登山道登り口の石碑)
CIMG3262.jpg(古地図山崎宿、街道沿いの狭い地域でしか戦闘が出来ないのがわかりますね。)
CIMG3266.jpg(天王山の名所旧跡ですがすべては回れません、(;´・ω・))
CIMG3268.jpg
(本能寺の変当時の織田家の領地です。)
CIMG6742.jpg
(このように秀吉の道として説明板が作ってあります。)

天王山ハイキングコースの八合目付近、ちょうど酒解神社の鳥居近くに旗立松があります。
山崎でおこった羽柴秀吉と明智光秀による天王山の戦いの際、秀吉軍が自軍の指揮を高めるため、老松の樹上高くに旗印を掲げました.。

CIMG6745.jpg(旗立松の説明板ですが本当に旗立てて見えたかな?)
CIMG6746.jpg
(もう五代目だそうです。400年以上前だからね~。)
CIMG6744.jpg
(だそうです、笑)
CIMG6743.jpg(これは大阪方面だな~???)

すぐ隣には、山頂側に展望台があり風景は、「京都の自然二百選」に選ばれていて、そこから明智軍と秀吉軍が布陣していたとされる山崎の古戦場跡も確認できます。

CIMG6747.jpg(布陣図です。沼も書いてありますね~。)

 
今日は時間が無くてここまでです。
ごめんなさい~。
やぶ蚊が多くて、軽装で登山した子供たちは大変だったみたいですが、良い経験になったはずです。

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2016/05/26

出雲風土記の御柱『三瓶山登山記』!

三瓶山(さんべさん )は、島根県のほぼ中央部の大田市・飯南町にまたがりそびえる大山火山帯に属する火山です。



2003年(平成15年)の活火山の定義見直しで活火山に指定されました。
火山噴火予知連絡会の火山活動度による活火山の分類ではランクCに位置づけられています。
知らなかったのですが、以前の様な活火山、休火山、死火山といわれていたランク(くくり)は無くなってしまったんですね。

三瓶山は主峰・男三瓶山(1126m)をはじめ、女三瓶山(957m)、子三瓶山(961m)、孫三瓶山(907m)、太平山(854m)、日影山(718m)の6つの峰が室の内と呼ばれる火口を囲んで環状に配列しています。

太平山以外の4つの峰は、いわゆる外輪山ではなく、デイサイトからなる溶岩円頂丘(円頂丘溶岩)です。
太平山は、爆発的噴火によって吹き飛ばされた土砂と火山砕屑物が積もって出来た山です。
それらの山々に囲まれた中央に「室の内」と呼ばれる直径5kmのカルデラがあります。
資料によっては室の内を爆裂火口として扱っているものもあります。

室の内には室の内池と呼ばれる火口湖があります。
室の内池は水深1.4m足らずの浅い池で流入する河川もなく、貧栄養池です。

火口はこのほか奥の湯火口があり、ここに三瓶温泉の泉源があります。
西の原の西側に浮布池、北の原には姫逃池があります。
浮布池は三瓶山の噴火でできた堰止湖です。

大山隠岐国立公園の一部に指定されており、男三瓶山北麓から室の内にかけて広がる自然林は、「三瓶山自然林」として国の天然記念物に指定されています。
この自然林は、標高800m以上にはブナ林、それ以下にはコナラやミズナラなどの高木が茂 ます。

石見国と出雲国の国境に位置する三瓶山は、『出雲国風土記』が伝える「国引き神話」に登場します。
国引き神話では、三瓶山は鳥取県の大山とともに国を引き寄せた綱をつなぎ止めた杭とされていますね。
『出雲国風土記』では、三瓶山は「佐比売山(さひめやま)」の名で記されています。
「佐比売」の名は、1954年(昭和29年)に大田市に合併するまでの地名「佐比売村」として残っていましたが、現在は名前が無くなってさみいし限りです。

さて今回の歴史登山は、もちろん一番高い男三瓶山(1126m)です。

三瓶山1(北側登山口)三瓶山4
(雲に隠れていますが大山です。)
三瓶山3
(はい!もう山頂、ここに杭を立てて島根半島を引っ張る壮大な物語です。)
三瓶山2
(ススキが本当にきれいです。)三瓶山5(室の内のカルデラと左は女三瓶です。)
三瓶山7
三瓶山8
三瓶山9
(この三枚は北の原の姫逃池です。綺麗ですね~真ん中は浮き島になっています。)

登山道は何本か有るのですが、時間の関係で登は姫逃池(ひめのがいけ)ルート
三瓶自然館サヒメル駐車場から男三瓶山山頂までの最短ルート(山頂まで約90分)降りは、名号(みょうごう)ルート、国指定天然記念物の三瓶山自然林内を進み、男三瓶山山頂へ至るルート(山頂まで約120分、降りでしたが少しなだらかです。)でゆっくり森林浴を楽しみました。

早めに降りて、国立三瓶青少年交流の家で地元物産イベントを楽しんだのでした。

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