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2017/03/31

写真撮影自由って、驚愕太っ腹!『建仁寺』

『建仁寺』の御好意に甘えて(建仁寺は写真撮影は自由です!)、写真撮影してきた物を出来るだけ御紹介したいと思います。

CIMG8118.jpg(より本物に近い気がしますが?)

ニューヨークでの展覧会への出展要請を機に、京都国際文化交流財団が最新デジタル技術と、、グラフィックデザイナーの色調補正によって、特殊開発された和紙にプリントされたものだそうです。
金箔の再現だけは、西陣の伝統工芸師が協力されたようです。

前回私が陶板複写と書いたものは、現在おかれている平面の物でした。

前回御紹介出来なかったのですが、建仁寺は私の好きな(通好みの武将!)、安国寺 恵瓊(戦国武将&外交僧)にも縁が有り、首塚も有りますので、そちらも御紹介させて頂きます。

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【臨済宗の祖「栄西」について御紹介します。】

CIMG8144.jpg(栄西禅師の説明書きです。)

日本に臨済宗(禅宗、私が時々参禅している曹洞宗も禅宗ですけど、作法が少し違ったりします。)を正式に伝えたのは栄西と言われています。
栄西は永治元年(1141年)、備中国(岡山県)吉備津神社神官の賀悦氏の家に生まれました。
13歳で比叡山に上り翌年得度(出家!なぜ神道じゃ無いんだ~(^^;?)、仁安3年(1168年)と文治3年(1187年)の2回、南宋に渡航して仏教を学びます。
1度目の渡宋はわずか半年でしたが、2度目の渡宋の際、臨済宗黄龍派(おうりょうは)の虚庵懐敞(きあんえじょう)に参禅ししました。
建久2年(1191年)、虚庵から印可(師匠の法を嗣いだという証明)を得て、帰国しますが、当時京都では比叡山(延暦寺)の勢力が強大で、禅寺を開くことは困難だったのです。

そこで、栄西は始めは九州博多に聖福寺を建て、のち鎌倉に移り、北条政子の援助で正治2年(1200年)に建立された寿福寺の開山となります。
その2年後の建仁2年(1202年)、鎌倉幕府二代将軍「源頼家」の援助を得て、元号を寺号として、京都における臨済宗の拠点として建立されたのが建仁寺です。

創建当時の「建仁寺」天台、真言、禅の3宗並立でした。
これは当時の京都では真言、天台の既存宗派の勢力が強大だったことが背景にありました。
創建から半世紀以上経た正元元年(1259年)には宋僧の蘭渓道隆が十一世住職として入寺し、この頃から純粋禅の寺院となりました。

残念な事に「建仁寺」は、応仁の乱による焼失のほか、応永4年(1397年)、文明13年(1481年)などたびたび火災の被害にあっており、創建当時の建物は全く残っていません。

CIMG8125.jpg(染色画家の鳥羽美花さんの作品です。)
CIMG8121.jpg(型抜きの染色法、NHKで特集していた記憶がありました。日本の原風景のようですがべトナム?)

【方丈・山門建物あれこれ!】
「望闕楼」(ぼうけつろう)の別称がある三門は、静岡県浜松市(旧浜名郡雄踏町)の安寧寺から1923年に移築したもので、江戸時代末期の建築です。

CIMG8165.jpg(三門「望闕楼」)

方丈は(重要文化財)、室町時代の建物で、もと広島の安国寺にあり、安国寺恵瓊が慶長4年(1599年)に建仁寺に移築したもです。
東側に設けられた大玄関を介して本坊と連結しています。

CIMG8120.jpg
(〇△□庭△は手洗いだったかな?)
CIMG8128.jpg(方丈の庭「潮音庭」)

各室には桃山時代の画壇を代表する画家の一人である海北友松の水墨障壁画がありましたが、現在は襖から掛軸に改装され、京都国立博物館に寄託されています。

CIMG8139.jpg(花鳥図)
CIMG8140.jpg(花鳥図汚れ具合も重要文化財)
CIMG8141.jpg(花鳥図、孔雀ですかね~生き生きしてますね~。)
CIMG8142.jpg(しかしながら、レプリカなんです。)
CIMG8158.jpg(竹林七賢図)
CIMG8157.jpg(現在は掛け軸に成っているそうです。)

現在は、日本画家橋本関雪による障壁画『生生流転』(しょうじょうるてん)『伯楽』『深秋』『蕭條』『松韻(寒山子)』(計60面、1940年完成)が設置されています。

CIMG8127.jpg
(田村月樵の達磨大師?)
CIMG8148.jpg
(田村月樵の硯、蛙が可愛いです。)

【茶室東陽坊】

北野大茶会の際に千利休の高弟・真如堂東陽坊長盛が好んだと伝えられる茶室(二畳台目下座床の席)です。
構成・意匠ともに薮内家の燕庵に共通する点が多く見られます(大正年間に現在地に移築されました)。


(建仁寺 トリップアドバイザーさんに提供頂きました。写真撮ってなかった(;^_^A)
CIMG8150.jpg(説明版は私の写真です、笑)

【さて安国寺 恵瓊って誰?】
安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗の僧で、武将および外交僧です。
道号(字)は瑶甫、法諱(諱)は恵瓊、号は一任斎または正慶といいます。
「安国寺」は住持した寺(安芸安国寺(不動院))の名で、安国寺恵瓊はよく知られた通名で、禅僧としての名乗りは瑶甫 恵瓊(ようほ えけい)といいます。

毛利氏に仕える外交僧として羽柴秀吉との交渉窓口となり、豊臣政権においては秀吉からも知行を貰って大名に取り立てられたとするのが通説です(異説もf(^_^;)。

生年には諸説があり、天文8年(1539年)とも天文6年(1537年)ともいわれる。
父親に関しても安芸武田氏の一族である武田信重(光広)の子とも、伴繁清の子とも伝わる(つまりわからんて事ですか?笑)。

天文10年(1541年)、毛利元就の攻撃で安芸武田氏が滅亡すると、家臣に連れられて脱出し、安芸の安国寺(不動院)に入って出家します。
その後、京都の東福寺に入り、竺雲恵心の弟子となりますが、恵心が毛利隆元と親交があったため、これがきっかけとなり毛利氏と関係を持つこととなります。
僧としては天正2年(1574年)に安芸安国寺の住持となり、後に東福寺、南禅寺の住持にもなり、中央禅林最高の位にもつきました。
慶長4年(1599年)には建仁寺の再興にも尽力しています。

毛利の外交僧としての活躍は色々と有るのですが、皆さんがご存知なのは、先ずは此ですね。

天正10年(1582年)、毛利氏が羽柴秀吉と備中高松城で対陣していた、「備中高松城の戦い」の最中に本能寺の変が起き、織田信長が亡くなります

このとき秀吉はその事実を隠して、毛利氏に割譲を要求していた備中国・備後国・美作国・伯耆国・出雲国を、高松城主・清水宗治の切腹を条件に備中・美作・伯耆とする和睦案を提示し、恵瓊はその和睦を取りまとめました(高松城以前ご紹介しました)。

また本能寺の変の事実判明後の7月、講和交渉が再開した際には和睦が成らず毛利家が滅ぼされた時には小早川秀包・吉川広家を秀吉の家臣に取り立ててほしいとも願い出ています。
結局、両名を人質として出すことと引き換えに毛利氏の領国は認められ、恵瓊は秀吉がこれから躍進することを予測して進んで和睦を取りまとめたとされ、彼の信任を得る事に成ります。

天正13年(1585年)1月、毛利氏が秀吉に正式に臣従する際の交渉も務めて、秀吉から賞賛されます。
このころすでに秀吉側近となっていた恵瓊は四国征伐後、伊予国和気郡に2万3,000石を与えられ、天正14年(1586年)の秀吉の九州征伐後は6万石に加増され、僧でありながら豊臣大名という異例の位置付となっています。
恵瓊本人の禄では有りませんが、安国寺にも天正19年(1591年)1万1,000石の寺領が与えられています。

秀吉の側近も兼ねることとなった恵瓊は、「九州征伐」「小田原征伐」、その「後肥後国人一揆」「文禄・慶長」の役と活躍しています(本当に簡単で申し訳ないです。恵瓊については、又の機会にゆっくりお話したいですね(^人^))。

そして人生最後と成ったのが、「関ヶ原の戦い」です。

CIMG8160.jpg(「雲竜図」凄い迫力です。)
CIMG8159.jpg(こちらもレプリカ、現在は屏風に変わっているとか?)
CIMG8149.jpg(建仁寺境内にある安国寺恵瓊の首塚)

恵瓊は毛利一族の中では親秀吉派の中心であった小早川隆景に近く、文禄年間に秀吉が病臥した際にはその回復を小早川家重臣・山田某に伝え、同じ書状で隆景の隠居に関しても連絡するなど秀吉と隆景との間を連絡する活動を行っており、隆景が死去すると毛利が軽視されかねないと将来を危ぶんだ様です。

果たして危惧は的中し、自身も小早川氏と並ぶ毛利氏の支柱であった吉川広家と対立し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは懇意であった石田三成と通じて西軍に与し、毛利一族の当主・毛利輝元を西軍総大将として担ぎ出すことに成功しています。

9月15日の関ヶ原における合戦では、毛利秀元・吉川広家とともに徳川家康軍の後方に騎馬700、足軽3,000という部隊で陣取りましたが、前に布陣する吉川広家が家康に密かに通じて毛利軍の参戦を阻んだため、結局戦闘に参加することなく、西軍は敗北してしまいました。

敗北後、恵瓊は一旦毛利本家の陣に赴き、吉川広家に諭され逃亡し鞍馬寺、下間頼廉の婿である端坊明勝が住持である本願寺と匿われ京都の六条辺に潜んでいましたが、奥平信昌隊の鳥居信商(長篠城攻防戦で使者として高名の鳥居強右衛門の子)に捕縛され、大津にいた家康の陣所に送られます。

西軍首脳の1人として、六条河原にて斬首され、石田三成・小西行長と共に梟首に処せられました(享年62または64でした。)。
そして首は此処に埋められて供養されたってことですね。

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2017/03/29

京都五山第三位(私的には俵屋宗達の風神雷神図だけで一位!)『建仁寺』

京都五山の第3位『建仁寺』を御紹介するのですが、何時も言っていますように、京都と言う場所は私の様な「えせ歴男」には、落とし穴🕳️が一杯で怖いのですが頑張って行ってみましょうo(^o^)o

琳派の創始者(勿論名前は尾形光琳ですが)ともいえる、俵屋宗達「風神雷神図屏風」が一度見てみたくて、お伺いしました。
勿論本物は、京都国立博物館に寄託保存されているのですが、キャノンさんの陶板複製?が素晴らしく、基の場所(空間)で見られた事に心が震えました~。

CIMG8119.jpg(ダウン症の書道家金澤翔子さんが2009年に奉納された書「風神雷神」です。)

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CIMG8117.jpg
(建仁寺裏門?生憎の雨!桜も三分咲き?)
CIMG8165.jpg(正面勅使門を入った辺りの場所から三門を撮影、奥に法堂が見えています。)

『建仁寺』
京都府京都市東山区大和大路四条下る四丁目小松町584。
山号は東山(とうざん)宗派臨済宗建仁寺派寺格大本山の寺院です。
京都五山の第3位に列せられています。
本尊は釈迦如来
創建年は建仁2年(1202年)
開基(創立者)は源頼家(頼朝の息子、鎌倉幕府二代将軍)、開山は栄西です(開基と開山が違うって今知った、よく歴史Blog書いてるな~(^^;)。
正式名称は「東山 建仁禅寺」です。

CIMG8144.jpg(栄西禅師は吉備津神社の神官賀陽氏の出身ですね~かや・吉備津ん?音が気に成りますね。)
CIMG8137.jpg(本坊の中庭いかにも禅宗らしいです。)

【京都五山ってなに?】
京都五山とは、五山の制のうち京都の禅宗(臨済宗)の寺格、官寺制度です。

CIMG8132.jpg(禅といえばやはり、達磨大師ですね~、笑)

鎌倉時代末期頃から北条氏は南宋にならい五山制度を導入し鎌倉の寺院を中心とする五山を選定しました。
その構成は定かでは有りませんが、京都の寺院では建仁寺が当初の五山に含まれていたとされています。

鎌倉時代後期に後醍醐天皇が討幕運動を起し、幕府滅亡後に後醍醐による建武の新政が開始されると五山も南禅寺大徳寺を筆頭とする京都本位に改められました。
足利尊氏が建武政権から離れて南北朝時代となると、尊氏や弟の足利直義などは禅宗を信仰したため、五山も足利将軍家が帰依していた夢窓疎石が中心となって京都の寺院から新たに制定されました。

CIMG8133.jpg
(クールジャパン(´∇`))
CIMG8136.jpg
(向こうに見える方丈の裏手に東陽坊という茶室があるのですが…)
CIMG8152.jpg(方丈、慶長四年(1599)あの、安国寺恵瓊(えけい)が安芸の安国寺から移築したもので、優美な銅板葺の屋根が印象的な禅宗方丈建築。本尊は東福門院寄進の十一面観音菩薩像。また前庭に枯山水様式の「大雄苑(だいおうえん)」を有します。)

数回の選定変更がありましたが、室町時代の1386年(至徳3年)には三代将軍足利義満が相国寺を創建した後に五山を京都五山と鎌倉五山に分割し、両五山の上に別格として南禅寺(京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最高位の格式を持ちます。)を置くという改革が行われました。
僧録司制なども定めて住職の任命権などを掌握し、寺社の統制を行い幕府権威に宗教的側面を付加させました(義満の力は天皇をもしのぐ程で、1399年に京都相国寺に完成した八角七重塔は、塔の高さ360尺「約109m」にも及ぶ高層建築物であり、以後500年以上、日本最高記録となっています。それも御所の直ぐ北ですからね~(^^;)。

先日、京都市北区の金閣寺(鹿苑寺)での発掘調査で、義満が北山殿に建立した七重塔「北山大塔」の頂部分を飾る「相輪」とみられる破片が見つかりました。
国内で最も高かった相国寺の七重塔(約109m、四年で落雷によって焼失!)のような巨大な塔の姿が見えて来ましたね~!建築技術は凄いけど、落雷対策は出来なかったのかな?

現在、京都五山は南禅寺(別格)、天龍寺(第一位)、相国寺(第二位)、建仁寺(第三位)、東福寺(第四位)、万寿寺(第五位)の順位に成っています。
(因みに、足利義満のが作った相国寺は義満の力が全盛期の頃に一位に上がった事が有ります。死後二位に戻りました。)
私は、天龍寺(第一位)万寿寺(第五位)はまだ訪れておりません。

一時別格扱いの、大徳寺はどうなったかと言いますと、後醍醐天皇が当寺を保護し、建武元年(1334年)には大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発しています。
しかし建武の新政が瓦解して足利政権が成立すると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から軽んじられ、五山から除かれてしまいました(ToT)。
至徳3年(1386年)には、五山十刹の最下位に近い十刹第9位となってしまいます。
このため第二十六世養叟宗頤は、永享3年(1432年)足利政権の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道をとりました。

さて「建仁寺」ですが、私の目的の一つ、俵屋宗達「風神雷神図」や、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝えます。
豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂さの塔」のある法観寺建仁寺の末寺なんです。

寺号は「けんにんじ」と読みますが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれているそうです。

なお、しばしば日本最初の禅寺と言われますが、そちらは間違いで博多の聖福寺が最初の禅寺である事もうんちく話として一言付け加えます。

CIMG8155.jpg(方丈から見た法堂、仏殿兼用の「拈華堂(ねんげどう)」、五間四間・一重・裳階付の堂々とした禅宗様仏殿建築です。)
CIMG8163.jpg(天井には平成14年(2002年)創建800年を記念して「小泉淳作画伯」筆の双龍が飛んでいます。凄い迫力ですね!)
CIMG8164.jpg
(正面須弥壇には本尊釈迦如来座像が安置されていました。)

【さあて国宝「風神雷神図屏風」です!】
CIMG8118.jpg
(やっぱりこれやな~!風神雷神図屏風・俵屋宗達筆。勿論国宝ですアッ!これはレプリカですけどね(#^.^#))

金地の二曲一双屏風のそれぞれに風神と雷神が描かれています。
たっぷりと取られた余白が広い空間を暗示し、天空を駆ける両神のダイナミックな動きを感じさせられます。
私的には、両神の周りの雲や太鼓?が屛風からはみ出していることで、二神が空間を飛び出て部屋全体をも画面の一部と成っているように見えます(イメージわかります?)。
印も落款も無いのですが、俵屋宗達の代表作として名高いものです。
原本は京都国立博物館に寄託され、常時の公開はされていないのですが、複製の屏風および陶板は建仁寺で見ることができるんです。
元々は京都の豪商「打它公軌(うだきんのり/糸屋十右衛門)」が建仁寺派である妙光寺再興の記念に俵屋宗達に製作を依頼したもので、その後、妙光寺から建仁寺に寄贈されました。

後に尾形光琳が模写してしています。
二つの屏風を比べるのは次の機械にしたいと思います。
僭越ですが、私の意見もその時に(笑)


本当に説明が長く成って申し訳ないです(^人^)。
京都の歴史が私にこんな事をさせるのです・・・(;^_^A

最初に申しました様に、太っ腹な『建仁寺』さん!
写真取り放題なので、次回『建仁寺②』では、お寺の中を写真でゆっくり見て頂きます。


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2017/03/27

松江藩松平家の菩提寺、夜な夜な石の亀が歩き回る?『月照寺』

前回に続いて出雲の国からこんにちはです。

ちょっとその前に、共有Bloggerのお友達紹介です
ザ・カップ麺レポート - 新商品レビューブログの管理人「とりまS」さんとそのブログです。

以前から仲良くさせて頂いていたのですが、仕事が忙しくて、ブログUPを暫くお休みされていました。
この度お仕事も一段落して、ブログもUPされ始めたので(ブログ制作は御本職なのでシンプルで素敵なブログと成っております。)、私共々応援宜しくお願い致します(^人^)。

さて、引き続き出雲神仏霊場第五番札所『月照寺(げっしょうじ)』の御紹介です。

CIMG9683.jpg
(書院で拝見したのですが、初代直政公なのか?七代不昧公なのかわかりません(;^_^A、聞いて無かった市郎右衛門です。)

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前回のUPで、元々は「洞雲寺(とううんじ)」という禅寺で、長い間荒廃していましたが、徳川家康の孫に当たる松江藩松平家初代藩主・松平直政が、生母・月照院の霊牌を安置するために浄土宗の「蒙光山(むこうさん)月照寺」として改称復興したのが始まりで、その後二代藩主の綱隆が父の遺命により境内に廟を造り、山号を「歓喜山」に改めた事、松江藩主を務めた松平家の初代から第9代藩主までの廟所が厳かに並んでいるいる古刹である事など御紹介させて頂きました。

約1万㎡の広さを持つ境内に、本堂や宝物殿と共に、各廟所の保存状態が極めて良好ということで、平成8年(1996年)に「松江藩主松平家墓所」として国の史跡に指定された事も御紹介しました。

又、県指定有形文化財として、高真院直政廟門大圓庵治郷廟門も写真にて紹介しましたね。

今回は先の藩主御二方以外の廟所も御紹介すると共に、「夜な夜な松江を徘徊する」小泉八雲の随筆に登場する、六代宗衍公廟所の巨大亀形の寿蔵碑も御紹介すると共に、不昧公の恩願を受けた力士雷電の碑など、藩主菩提寺として由緒正しき遺品・遺跡が数多く残っている、歴史と信仰の寺「月照寺」を御紹介いたします。

CIMG9653.jpg(七代治郷「不昧公」の看板前が茶筅供養塔のはずなのです。)
CIMG9666.jpg(七代治郷「不昧公」廟所)
CIMG9668.jpg(見えにくいですが、五代宣維公廟所)
CIMG9671.jpg(三代綱近公廟所)
CIMG9672.jpg(九代斉斎公廟所、藩主在任中は斉貴を名乗ってます。)
CIMG9673.jpg(二代綱隆公廟所、綱は第4代将軍家綱の文字を頂いています。)
CIMG9674.jpg(八代斉恒公廟所、お父さんの道楽で苦労したとも…笑えん(;^_^A)
CIMG9675.jpg(四代吉透公廟所三代綱近は兄です。)
CIMG9676.jpg(六代宗衍公廟所)

【夜な夜な徘徊する石の亀】
小泉八雲の随筆に登場するお話では、「月照寺の石で出来た大亀が、夜な夜な松江の町に出て人を食べていた。あまり騒ぎを起こすので、困ったあげく亀の背中に大きな石の杭を打ち込んで、動けなくした。あるいは亀の首を切り落としたとも伝わる」と記載されているようです。

CIMG9679.jpg(贔屓の首に傷が有ますね~切り落とされたのかな?)

【実際は亀趺(キフ)の亀うんちく!】
亀趺(キフ)とは台石の一種で、石碑を載せる台石を大亀の形にしたものです。
亀趺は、もともと中国の貴族階級の風習だったのが、江戸時代に日本でも取り入れられた(私が良く訪れる京都東寺にも有ります。)。
亀趺は功績や功徳などを刻んだ石碑を載せるものが多いのですが、鳥取藩主池田家の墓碑のように墓石を載せるものもある様ですね。
亀趺の亀は贔屓(ひいき)といい、龍の九子のうち龍になれなかった一子で、巨大な亀の形に似た想像上の霊獣だとされます。
「贔屓(ひいき)」は「贔屓にする」などと用いられる「贔屓」の事です。
贔屓は「一生懸命努力して力を出すさま」を意味するとされますが、それが「特別に便宜を図ったり、力添えをする」努力した結果に対するご褒美?の意味で使われているのですかね?

【松江藩主松平治郷の贔屓(笑)、雷電 爲右エ門】

CIMG9687.jpg
(左下に手形も見える雷電の記念碑!2メートル近い大大関でした。)

雷電為右衛門(らいでん ためえもん)、明和4年(1767年)1月 ~文政8年2月11日(1825年3月30日)は、信濃国小県郡大石村(現長野県東御市)出身の大相撲力士です。

現役生活21年、江戸本場所在籍36場所中(大関在位27場所)で、通算黒星が僅か10、勝率9割6分2厘で、大相撲史上未曾有の最強力士とされています。

雷電は、大関が最高位で、横綱には成っていません(横綱推挙が今の様な制度ではなかったのです。)。
本場所も年間二場所で、20日間ですね(#^.^#)
「一年を二十日(十日)で暮らすよい男」と江戸川柳で言われた相撲取、昨日の稀勢の里を見ていると、今は大変ですよね~、もらい泣きしましたけどね!

江戸では当時の第一人者だった谷風梶之助の預り弟子となり、初土俵までの6年間を谷風の元で過ごします。
この間に将来の有望性を見込まれ、松江藩藩主松平治郷の抱え力士となります。
初土俵前から士分への抱え上げは異例でした。
初期の禄は「切米8石3人扶持」と伝わっています。

CIMG9681.jpg(綺麗な中庭です。)
CIMG9684.jpg
(おもてなしの心がにくいね。)
CIMG9685.jpg
(備前焼の花器も素敵です。)

さて松江といえば、お茶ですね~不昧公の影響もあって一般の方でも休憩時間は薄茶なんて事も多いようです。
この時は大圓庵は見られなかったですが、次回は丁寧に散策しましょう(笑)
お茶菓子も松江・京都・加賀は有名なんですよ~背筋の伸びる武家の茶も是非味わってくださいね。


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2017/03/25

松江藩松平家の菩提寺、小泉八雲も愛した!『月照寺』

久々に出雲の国を御紹介致しますo(^o^)o

出雲神仏霊場第五番札所『月照寺(げっしょうじ)』です。

松江城から西へ程近く、島根県松江市外中原町に有る「歓喜山」『月照寺』は歴代松江藩主松平家の菩提寺です。

CIMG9654.jpg(書院です中庭が美しいです。)


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『月照寺』をご紹介するのですが、その前に松江藩の変成について少し説明します。

CIMG9649.jpg(月照寺の入り口)




【松江藩と松平家の成り立ち】
豊臣政権時代、出雲は中国地方西部を領していた毛利氏の支配下で、一族の吉川広家がかつて尼子氏の居城だった月山富田城(現島根県安来市)を政庁として出雲および隠岐の2国を経営していました。

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、毛利氏は周防・長門2国に減封となり、吉川広家も岩国に移されます。
これにより遠江国浜松で12万石を領していた堀尾忠氏が、この前年に隠居して越前国府中に5万石の隠居料を得ていた父・堀尾吉晴とともに、あらためて出雲・隠岐2国24万石で入部、ここに出雲富田藩(いずもとだはん)が立藩します。

忠氏は慶長9年(1604年)に27歳で早世、後を継いだ忠晴はまだ5歳の幼児だったことから、祖父・吉晴がその後見として事実上の藩主に返り咲くことに成ります。
吉晴は月山富田城が山城で不便を感じたため、慶長12年(1607年)から足かけ5年をかけて松江城を築城するとともにその城下町の建設を行いました。
慶長16年(1611年)に吉晴は松江城に移り、ここに松江藩が成立しましたが、吉晴はこれを見届けると間もなく死去します。
忠晴は成人したものの男子に恵まれず、寛永10年(1633年)に33歳で死去すると堀尾家は無嗣改易となりますが、堀尾氏が築いた松江は以後も政治経済の中心として栄え、今日に至っています。

結局、堀尾氏に代わって寛永11年(1634年)若狭小浜藩より京極忠高が入部しました。
京極氏は戦国時代に守護代の尼子氏に支配権を奪われる以前の出雲守護であり、故地に復帰したことになりますね。
24万石の領地に加え、公儀御料の石見銀山、石見国邇摩郡・邑智郡の計4万石を預かることとなりました。
しかしわずか3年後の寛永14年(1637年)忠高は死去しました。
死に臨み末期養子として甥の高和を立てたが認められず改易となってしまいました。

寛永15年(1638年)、結城秀康の三男・松平直政が18万6000石で信濃松本藩より転封しました(松江藩松平家初代藩主)。
以後、出雲一国は越前松平家が領する事に成りました。
また松平家は公儀御料となった隠岐1万4000石も預かることになっっています。

【結城秀康うんちく】

此処で取り上げるのもなんだと思いますが、私の大好きな武将なので、彼の戦国乱世に翻弄された、運命が不可思議で興味深いので少しお話させて下さい。
天正7年(1579年)、武田勝頼との内通疑惑から、織田信長の命令により松平信康(家康長男)が切腹させられます(近年では信康が家康と対立したために切腹させられた、ともされます)。
このため、次男である秀康は本来ならば徳川氏の後継者となるはずでした。
しかし、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和解するときの条件として、秀康は秀吉のもとへ養子(実際は人質)として差し出され、家康の後継者は異母弟の長松(後の徳川秀忠)と成ります。

天正12年(1584年)12月22日、元服して、羽柴の名字、および、養父・秀吉と実父・家康の名から一字ずつ取った名を与えられ、羽柴秀康と名乗ることに成ります。

秀康は天正15年(1587年)の九州征伐で初陣を果たし、豊前岩石城攻めで先鋒を務めます(続く日向国平定戦でも抜群の功績を挙げています。)。
天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜され、天正18年(1590年)の小田原征伐、天正20年(1592年)からの文禄・慶長の役にも参加しています。

しかし天正17年(1589年)、秀吉に実子の鶴松(秀頼とは別人です)が誕生すると、秀吉は鶴松を生後4ヶ月で豊臣氏の後継者として指名され、秀康は他の秀吉の養子同様に、他家へ養子に出されることとなりました。

養子先の結城氏は下野国の守護に任命されたこともある名家、秀康は関東に下り黒田孝高の取り成しで結城晴朝の姪と婚姻して結城氏の家督および結城領11万1000石を継ぎました。
また改めて称号として羽柴姓を贈られ、官位から羽柴結城少将と呼ばれました。
パチンコやスロットをされる方は「鬼武者(蒼鬼)」で有名なのでご存知かもしれません。

その結城秀康の三男・松平直政公が生母月照院の冥福を祈って造立したのが『月照寺』です(創建:開創寛文四年「1664」)。

CIMG9652.jpg(本来ならこちらが徳川宗家ともいえるのですがね。)
CIMG9651.jpg(小泉八雲「ラフカディオ ハーン」もこよなく愛したお寺です。)

この地には洞雲寺(とううんじ)という禅寺がありました。
永く荒廃していましたが、松江藩松平家初代藩主・松平直政は生母の月照院の霊牌安置所として、1664年(寛文4年)に、この寺を再興します。
浄土宗の長誉を開基とし、「蒙光山(むこうさん)月照寺」と改めました。

CIMG9669.jpg(直政の母月照院の墓です。)

直政は1666年(寛文6年)に江戸で死去しましたが、臨終の際に「我百年の後命終わらば此所に墳墓を築き、そこの所をば葬送の地となさん」と遺言しました。
2代藩主・綱隆は父・直政の遺命を継ぎ境内に直政の廟所を造りました(この際に山号を現在の「歓喜山」と改めました。)。
以後、9代藩主までの墓所となっています。

CIMG9656.jpg(松江藩松平家初代藩主直政公のお墓にご対面です。)
CIMG9657.jpg(もう少し早い季節が良いかもですね~蓮池も寂しいです。)
CIMG9658.jpg(お寺なのに鳥居?気にしないで行きましょう。)
CIMG9659.jpg(立派なお腹?五輪塔ではありませんね~笑)


茶人藩主として著名な7代藩主・不昧の廟門は松江の名工・小林如泥の作によるとされ、見事な彫刻が見られます。

CIMG9660.jpg(七代治郷公、不昧公の方が有名ですか、江戸中期の茶人としては一番有名かもしれません?)
CIMG9661.jpg(だそうです。大圓庵をなぜか見なかった?なぜだろう?また来いよかな~?)
CIMG9663.jpg(治郷公がお好きだった葡萄の彫り物です。)
CIMG9664.jpg(見事ですね~ここに来てから、細かい所も撮影するようになりました。)
CIMG9665.jpg(怖いほどの見事さ!昔の職人さんはすごいですね~(;^_^A)

境内には不昧お抱えの力士であった雷電爲右衞門の碑があります(次回ご紹介します。)。
また、不昧が建てた茶室・大円庵があります。
1891年(明治24年)、松江に訪れた小泉八雲はこの寺をこよなく愛し、墓所をここに定めたいと思っていたそうです。

「松江藩主松平家墓所」として1996年(平成8年)3月29日に国の史跡に指定されました。
高真院(直政)と大円庵(治郷(不昧))の廟門は島根県の有形文化財に指定されています。
境内には宝物殿があり歴代藩主の遺品が展示されています。
また、アジサイが数多く植えられており「アジサイ寺」として開花時期には多くの観光客が訪れます。

一度でご紹介しようと思いましたが、とても無理、もう一・二度係りそうです。
本当に城下町というのは素敵な場所が多いのですね~。


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2017/03/23

近畿最大級の円墳(勿論兵庫県では1位)茶すり山古墳の凄さ!

長女の大学合格報告を私の父(長女の祖父、当たり前か(;^_^A)にするということで二か月ぶりに実家但馬に帰省する事に成りました。
折角但馬に帰省するのですから、やはり但馬の歴史に触れておかねばと考えて、途中『茶すり山古墳』に寄ってみる事にしました。

少し前に神戸須磨の「五色塚古墳」のお話をさせて頂いたときに、寄り添うように在った「千壺古墳」が兵庫県の円墳2位の大きさだというので、それでは1番はどこだ?と調べたことから、『茶すり山古墳』に興味を持っていたのです。
さらに以前から、毎回帰省時に利用する、北近畿豊岡自動道の和田山から山東への道中、綺麗に復元された埴輪群が飾られた「茶すり山古墳」を見て気になっていたのでした(北近畿豊岡自動道といえばこの25日に八鹿~日高間が開通します。また一歩但馬が近く成りました~めでたいです~。(´∇`))

P3190082.jpg(兵庫県最大、近畿でも最大級の茶すり山です。)

お話を戻しまして、和田山から山東へ抜ける「宝珠峠」の途中の朝来市和田山筒江、標高約144メートルの尾根の先端に位置する「茶すり山古墳」は、5世紀前期の大型円墳です。
円墳としては奈良県富雄丸山古墳(奈良県奈良市丸山に存在し、富雄川の西岸丘陵上に位置する直径約86メートルの奈良県最大級の円墳です。築造は4世紀末ごろとされます。)よりも大きく、近畿地方最大規模を有しています。
其では、近畿地方最大規模の円墳をご覧いただきましょう。

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【茶すり山古墳の規模】



P3190077.jpg(パネル、埋蔵文化財センターは山東PAに在るのかな?今度行ってみよう~(;^_^A)
P3190081.jpg(流石の大きさですね~毎回帰省する度に見てたんですけどね~(^^;)
P3190089.jpg(テラスの円筒埴輪と朝顔型埴輪です。神戸の五色塚と違い鰭が無いですね?)

直径約90メートル・短径78メートル高さ約18メートルの円墳で、2段に築成されていたと考えられます。

近畿地方では最大、全国でも4番目の規模である事が判明しています(驚)。
墳頂平坦面は長径東西約36m、短径南北約27mの楕円形を呈し、墳丘全体の規模からするとかなり広く、この地域(但馬南部)の墳丘形態の特徴を示しています。
墳丘は大部分が削り出し(元々在った山を切り崩して作っています。)によって造られ、斜面の一部には葺き石が遺存していました。
また、墳頂平坦面及びテラス部からは円筒埴輪や朝顔形埴輪が、墳頂からは家形・翳形(さしばがた)埴輪等も確認されています。

P3190094.jpg(ブルーシートで見られませんでした。夏になるとOKかな?今年は雪が多かったからね。私の影はご愛嬌でm(__)m。)
P3190126.jpg(テラスにも木の柱が有りましたね~トーテムポールの様な魔除けでもあったのでしょうか?)

斜面には葺石が見られますが多くは流出しています(一部観察できるように成っていましたが、季節の関係か?ブルーシートでおおわれていました。)。
墳頂部には二つの埋葬施設があり、大型の第1主体部とこれより小さい第2主体部が平行に並んでいます。
調査の結果、墳丘の規模や中心主体の内容がほぼ判明し、中央政権(ヤマト政権)と強く結びついた首長の墓であることが確認されています。

P3190098.jpg
(墳頂部、私の立ち位置を考えると、前方後円墳だと思うのは、素人考えですかね~笑!ちなみに右山山頂部に松山が見えますが、あの!「竹田城」ですよ~驚きました?)


茶すり山古墳の所在地は播磨と但馬をつなぐ交通の要衝で、古代山陰道の郡部駅の推定地にも当たっています。
平成13年度、北近畿豊岡自動車道建設予定地を兵庫県教育委員会が発掘調査を行ったところ、規模が大きく重要な内容をもつ古墳であることが判明したため、協議を行い、道路計画を変更し現状保存することに成りました。

【埋葬者は誰だろう?】

墳頂平坦面では2基の埋葬施設を検出されました。
中央南寄りにある第1主体部は、墓坑が東西13.7m、南北10.5mで、その中央に長さ8.7mの組合式箱形木棺が埋設されていました。
棺内は粘土を敷き詰めて棺床とし、さらに小礫を敷き詰めた遺体埋葬部と、粘土敷きのままの副葬品埋納部とに分かれます。

P3190101.jpg(誰でしょうね?息子かな?ちなみに礫敷は但馬墳墓の特徴だそうです。)
P3190106.jpg
(こちらは写真タイルで再現されています。)

第2主体部は、第1主体部の北側にあり、東西7.5m、南北3.7mの墓坑内に、長さ4.8mの木棺痕跡が確認されています。
副葬品は非常に豊富で、二つの主体部の副葬品を合わせると、青銅鏡4点勾玉・管玉などの玉類2000点武具類では甲冑2組と盾7点武器類では鉄刀・鉄剣・鉄矛など85点と鉄鏃400点農工具類では刀子・斧・鎌など80点余りが出土しました。

これらの中で注目されるのは、畿内地域以外では初めての出土となる三角板革綴襟付短甲(これはすごい鎧らしいです。)や一つの棺からの出土数が最多であった鉄矛など、多量の武器・武具類が副葬されたことです。
また、漆の遺存状況が良好であり、刀剣類の装具の構造や盾の文様構成が確認されました。
さらには、畿内地域を中心に分布する鉄柄付手斧(釿「ちょうな」の事だと思います。木工に用いられる工具!)が出土したことも貴重です。
茶すり山古墳は古墳時代中期前半の近畿地方最大の円墳であり、武器・武具をはじめとする副葬品は豊富です。

墳丘の構築方法などに地域色は認められるものの、三角板革綴襟付短甲や鉄柄付手斧の出土は畿内地域と密接に関わりがあったことを示し、刀剣類の装具や盾における漆の遺存状況が良好であるなど、傑出した内容となっています。
茶すり山古墳は古墳時代の社会や政治動向、とりわけ畿内の中央政権と地域の首長の関わりを知る上で大変重要です。
(文化庁資料より)

P3190128.jpg(一号埋葬施設、綺麗に復元されています。)
P3190109.jpg(こんな感じ、順番に行きますよ~。)
P3190112.jpg(鎧・兜・鉄剣等、ちなみに蛇行剣が見つかっています。珍しいそうです。大和の大王からのお土産かも?)
P3190113.jpg(鏡や勾玉・櫛・刀等、枕の朱色と礫石が見えますね。)
P3190115.jpg(武器が一杯です。一度に1つの墳墓から出る数としては異例だそうです。)
P3190120.jpg(こちらも槍の先などの武器です。)
P3190122.jpg(最後に模様が見えるのは盾です。副葬品の山々すごいですね~驚!!!!)

【大和政権と但馬首長の関わりとは?】
これらの出土品は、古墳時代中期における但馬地域の王墓の実態、ヤマト王権と地方の首長との関係、古墳時代の祭祀や工芸技術を知る上で極めて重要なものです。
このことが高く評価され、国の重要文化財に指定されました。

兵庫県朝来市内には、4世紀~5世紀代に造られた大型の前方後円墳や円墳が多く存在します。
これは、他の但馬地域にはない状況です。
特に、但馬第1.2の規模を誇る池田古墳(茶すり山古墳の先代の首長の墓と考えられているようです。)船宮古墳は、茶すり山古墳と同じく、但馬全域を治めた王墓(首長の墓)と考えられています。


これらの大型古墳の位置は散在的ではありますが、いずれも丹波や播磨に通じる街道沿いにあります。

これは畿内の大和王権の頂点に立つ大王が、交通の要衝に拠点を置く有力な首長との関係を強めながら、日本列島における、地域支配を進めていった結果の一つであると考えられます。

最後に、北但馬生まれ人間としての私といたしましては、豊岡市日高町に後に国府や国分寺・国分尼寺が作られることを考えると、出雲勢力との境界線であった朝来地区は但馬で最も重要な地域だったために、により強力な中央(大和王権)の補助(保護・援助)政策が行われたのではないかと考えるのですが、皆さんいかがでしょう?

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2017/03/21

平家物語の最後を飾るのは「灌頂巻」そして舞台は『寂光院』

「祇園精舎の鐘の音」とは、無常院無常堂の鐘の事だそうです。
無常堂は祇園精舎で終末期を迎えた僧たちが、最後のひとときを過ごす場所、彼等が臨終を迎えると、建物の4隅に配されていたこの鐘が、ひとりでに鳴るのです。
信者の内なる世界にしみこみ、不安やおそれを取り除いて心の平安をもたらす癒やしの鐘の音は、「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」(すべての物がうつろうのは世の定め。この法則を超越すると、死もまた楽しみとなる)と聞こえるらしいです。
病僧は、その響きを聞いて死の苦悩から解放され、安らかに浄土に旅立ったといわれます。
そして、人々はそこの鐘の音を聞き、いかほど栄華を極めた人でも、最後は滅亡してしまうことを知るのです

飛ぶ鳥を落とす勢いの平家一族の滅亡、平家座頭(平家物語を語る琵琶法師)は当初から廻国の芸能者でありました。
中世には文化人の伝手や紹介状を頼りに、各地の有力な大名家に芸を披露して回りました。

CIMG9938.jpg
(季節外れですが、やはり幕を下ろすにふさわしいのは紅葉ではありませんか?)

琵琶法師が弾き語る歴史物語の『平家物語』、今回シリーズの平家物語の最後を飾るのはやはり、幕引き役平徳子(建礼門院)と後白河法皇ですね。
「盛者必衰の理」の総括を『寂光院』からお届けします

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【後白河法皇寂光院大原御幸((おおはらごこう))】
平家物語の最後は「灌頂巻」といって徳子の後日譚です。
平家滅亡時に壇ノ浦で入水しようとした徳子は助けられて京の大原で隠棲し出家します。
平家や安徳天皇の菩提を弔いますが、そこに後白河法皇が、大原に隠棲した建礼門院徳子(平清盛・時子の娘。安徳帝の母)を訪れる「大原御幸」で終わります。
そして二人は平家の栄華と滅亡を振り返るのです。

そして「平家物語」は徳子の極楽往生で物語が終わります。



CIMG9918.jpg
(有名な大原女も伝統漬物のひとつ「大原のしば漬」も寂光院が始まりだそうです。)
CIMG9941.jpg
(素敵な門構えです。)
CIMG9924.jpg
(雪見鉄灯篭は豊臣秀吉ゆかりの物だそうです。秀吉は平氏を名乗ったために征夷大将軍に成れなかったのだそうです。驚)


『平家物語』によると徳子は安徳天皇・時子の入水の後に自らも飛び込みますが、渡辺昵に救助されたといわれます。
しかし同じ『平家物語』の「大原御幸」の章や説話集『閑居友』では、時子(清盛の妻)が「一門の菩提を弔うために生き延びよ!」と徳子に命じたとしています。
いずれが正しいか不明ですが(後の演者の創作?)、生き残った徳子は平宗盛・平時忠らと京都に護送されます。
宗盛は斬首、時忠は配流となりますが、徳子は罪に問われることはなく洛東の吉田の地に隠棲します。
5月1日には出家して、直如覚を名乗ります。

7月9日、京都を大地震が襲い、多くの建物が倒壊してしまいます。
吉田坊も被害を受けたと思われ、9月になると徳子は「山里は物のさびしき事こそあれ 世の憂きよりは住みよかりけり」(『古今集』読人知らず)の心境で比叡山の北西の麓、大原寂光院に入ります(『平家物語』)。
大原を訪れた建礼門院右京大夫は、御庵のさま、御住まひ、ことがら、すべて目も当てられず (ご庵室やお住まいの様子など、すべてまともに見ていられないほどひどいものだった)。
都ぞ春の錦を裁ち重ねて候ふし人々、六十余人ありしかど、見忘るるさまに衰へはてたる墨染めの姿して、僅かに三四人ばかりぞ候はるる (都ではわが世の春を謳歌して美しい着物を着重ねて仕えていた女房が、60人余りもいたけれど、ここには見忘れるほどに衰えた尼姿で、僅かに3、4人だけがお仕えしている)と涙を流し、今や夢昔や夢とまよはれて いかに思へどうつつぞとなき (今が夢なのか、それとも昔が夢なのかと心は迷い、どう考えても現実とは思えません)
仰ぎ見し昔の雲の上の月 かかる深山の影ぞ悲しき (雲の上のような宮中で見た中宮様を、このような深山で見るのは悲しいことです)と歌を詠んでいます(『建礼門院右京大夫集』)。

CIMG9936.jpg
(ご本尊は聖徳太子ゆかりの六万体地蔵尊と称される地蔵菩薩です。)
CIMG9931.jpg
(建礼門院座像)
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(庭も美しいですね~写真一杯あるんですけど…ほどほどで、笑)
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(一昨年の紅葉はイマイチでした~残念!)

後白河法皇が大原「寂光院」の徳子を訪ねる「灌頂巻」は古典文学『平家物語』の終巻で、徳子の極楽往生をもって作品は終わりますが、この大原御幸の史実性については諸説ある様です。

文治2年(1186年)4月、後白河法皇が徳大寺実定、花山院兼雅、土御門通親や北面武士を伴にお忍びで大原の閑居を訪ねます。
徳子は落魄した身を恥じらいながらも、泣く泣く法皇と対面して、「太政大臣清盛の娘(人間)として生まれ、国母となり、わたしの栄耀栄華は天上界にも及ぶまいと思っていましたが、やがて木曾義仲に攻められて都落ちし京を懐かしみ悲しみました。海上を流浪し飢えと渇きに餓鬼道の苦しみを受けました。そして、壇ノ浦の戦いで二位尼は「極楽浄土とてめでたき所へ具しまいらせ侍らふぞ」と言うと先帝を抱いて海に沈み、その面影は忘れようとしても忘れられません。残った人々の叫びは地獄の罪人のようでした。捕えられ播磨国明石まで来たとき、わたしは夢で昔の内裏よりも立派な場所で先帝と一門の人々が礼儀を正して控えているのを見ました。『ここはどこでしょう』と尋ねると『竜宮城ですよ』と答えられました。『ここに苦しみはあるのでしょうか』と問いますと『竜畜経に書かれています』と答えられました。それで、わたしは経を読み、先帝の菩提を弔っているのです」とこれまでのことを物語した。
法皇は「あなたは目前に六道を見たのでしょう。珍しいことです」と答えて涙を流したと記載されます。
あの後白河院が落ちぶ れた、建礼門院を見て涙を流して同情し、「あなたは生きながらに六道を見た稀有の人だ」等と本当に言ったのでしょうかねぇ(大河ドラマのイメージ入り過ぎかも知れませんが、笑)?

CIMG9939.jpg
(それでも綺麗に映っていますかね。)
CIMG9937.jpg
(この池のほとりでお二人の「平家物語」の最後のワンシーンが実際に在ったんですよ~!)

【建礼門院没年】

『平家物語』(覚一本)では建久2年(1191年)2月に没したとされますが、この時期はまだ人々に平氏への関心が高く、徳子の死も何らかの記録に残ったと思いますので可能性は薄いかと思います。
そのため『皇代暦』『女院小伝』『女院記』などの記述から、建保元年(1213年)に生涯を閉じたとする説が一般的となっています。

【陵墓】

陵墓入口
陵は寂光院隣接地にある(宮内庁管轄の大原西陵)。

CIMG9916.jpg
(勿論宮内庁管轄)
CIMG9947.jpg
(「建礼門院」平徳子のお墓です。)

また安德天皇とともに各地の水天宮で祀られています(前回、須磨でも一箇所御紹介致しました。)。
また、京都府京都市東山区にある長楽寺にも墓があります。

最後に、天の邪鬼の私は、後白河院なら「お前の父清盛が武家の分際で皇室を蔑ろにし、言仁親王(安徳天皇)を強引に即位させた報いなのじゃ」と建礼門院を嘲笑いそうな気もするのですが(((^_^;)。

まあ、後白河天皇(77代)→高倉天皇(80代)→安徳天皇(81代)と実の孫な訳ですから、そこまでは無いかなとも思ってますが!

平氏は滅びますが、清盛が成し遂げた武力(武士)による政治力は此の後も、ずっと続く事に成ります(むしろ武士無くしては、政治が出来なくなります。)。
清盛の努力は決して無駄ではなかったと言うことですね。


安徳天皇は「平家の都落ち」に同行、都では、新天下人たる木曽義仲の要望をあしらって、「治天の君」である後白河法皇の「天皇なしというわけにはいかない」との主張と指図により、安徳帝の異母弟・尊成親王(たかなり)が、三種の神器なしで即位します。
わずか4歳で皇位を継いだこの子こそが、後鳥羽天皇なのです。
後鳥羽帝は「承久の乱」を引き起こして鎌倉幕府討幕を目指すのですが、北条政子の有名な演説「いざ鎌倉」の一言?で坂東武士団に完敗、身柄を隠岐に流され、平家も上皇も天皇もいなくなった都では、平安時代が名実ともに幕を閉じ、武士の世が始まりを告げます。

起業の話と「次世代起業セミナー」を勧める訳



ご無沙汰していました、市郎右衛門です。

歴史ブログが急に起業?と不思議に思われたかもしれません。

皆さんは「人生をやり直して自由になって、
やりたい事を仕事にするぞ!」
と思われたことはありませんか?


先日、私は脱サラして起業するぞ、と大きなことを申しました。
実は以前から起業して自分のやりたい事だけをやれればな~と考えていたんです。

そこで情報発信の初歩として書き始めたのがこの「高天原の縁側日記」というブログです。

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年齢的にもこれが最後のチャンスかもしれないと、
自己投資して一歩を踏み出してみようと決心しました。


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セミナー講師は、 ココデ・グローバル株式会社 代表取締役加藤将太



【経歴及び実績】

●京都大学工学部電気電子工学科卒業。
●京都大学経営管理大学院経営管理専攻事業創再生マネジメントコース終了 MBA取得。
●(株)NTTデータ 第一公共事業本部 第二公共システム事業部を勤務半年で退社。
●日本最高の中学受験塾で歴代最速で講師にに昇格(希学園・創立14年で初・算数科講師・合格率4%・平均1年のところ、5週間で時給5,000円の講師になる)。
●教育改革を目指して、26歳の時に起業(元手20万円)その後、多角化。
●1年目で年商1.1億を達成し、延べ1,000名以上を面接し社員数十人を使う社長になる。
●2年目で年商2億6千万円を達成。
●書籍流通支援システム、法人向けデータマーケティング支援システム等の開発・販売を行う一方で、MBAで学んだ知識や、実際 にゼロから短期間で事業を軌道に乗せた経験を伝える活動を行う。
●2013年より開始した「次世代起業家育成セミナー」はこれまでに5回開催され、累計4,000名以上の法人代表・法人代表候補・起業家 の卵が参加。

この経歴は、凄いとしかいえません。
一般公立中学から高専、そして京都大学、新聞配達のバイトを経ての起業も凄いです。
義弟の大学・学部の後輩ということも、加藤さんに親近感を持った原因のひとつです。

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アドレスとニックネームを登録するだけで、一か月間にわたって無料でセミナーを視聴できます。
12の無料プレゼントがもらえる次世代起業家育成セミナーはコチラ

加藤将太さんは、当時月商100万円いけばトップレベルと言われたせどり業界で、
初年度で年商1億円超え、最盛期には月商4,583万円、
情報発信開始後1ヶ月で5億4000万円というモンスター級の起業家です。



あまりの規模拡大スピードにAmazonが「これ以上在庫を増やさないで」と悲鳴をあげ、
事業が拡大できなくなってやる気をなくした加藤さんは、
儲かっているせどり事業を部下任せにしたという逸話の持ち主です。

ちなみに加藤さんは、京都大学大学院MBA(経営学修士)を取得している経営のプロであり、
人口上位2パーセントのIQ148以上が所属する団体MENSAのメンバーでもあります(凄)


2013年、年間数億円の売上を自動化させて一時的に暇になった加藤さんが、
起業家や経営者に向けて「1億円事業」の作り方を解説したのが、
「次世代起業家育成セミナー」シリーズです。


特に初心者向けに開催された次世代起業家育成セミナー「特別編」は、
映像視聴も含めて累計4000名以上が参加しています。

有料の起業セミナーとしてはもっともヒットしたものの一つとなりました。


MBAの理論的な裏付けを活かしながら、
ネットと物販の両方で大きな実績を持ち、
多業種に渡るコンサル生を指導し、
さらには大手塾で講師もやっていた加藤さんのセミナーは、
間違いなく業界でも唯一無二のものです。

ネット業界にうようよ存在する
“名前だけのセミナーや講師コンサルタント”
とは根本的にレベルが全く違います。



特に最終的に起業して成功したい人にとっては、
加藤さんの提唱する「システム化」という概念は非常に重要だと感じます。


システム化をすると既存ビジネスの売上が10倍になります。

個人の労働時間には限界がありますが、
システムというものは複製・拡大が容易なのです。

システム化という概念を取り入れることによって、
月収10万稼げている人は月収100万に、
月収100万稼げている人は月収1000万になります。



例えば“せどり”というのはずいぶん前からあるありふれたビジネスで、
月商100万稼げればトップクラスと言われていた業界ですが、
加藤さんはシステム化する事によってあっさり月商4500万に到達しました。

いまだに加藤さんの実績を超える人は
せどり業界には現れてないです。

物販やネットビジネスに限らず、大手が参入していない業界であれば、
システム化を実行するだけであっさりライバルに勝てるのだそうです。



加藤さんの教育改革は凄すぎて、目標とはいえないかもしれませんが、
少しでも近づいて私も「日本の(私は歴史と文化ですが!)教育」に一役買いたいですね。

私の夢は、日本文化の伝統を継承するために、
第二の(山陰の)「柳宗悦(思想家)」になる事なんです。


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【感想メールを送ることで受け取れる加藤将太さんからのプレゼント】


■プレゼントの内容■
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感想を送り続けることで、全部で、特別編映像8つ+無償プレゼント1~12で、「19個」の無償プレゼントが手に入ります。
(他にもプレゼントはあります)




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加藤さんの経営手法を全て映像とPDFで週録した秘密のセミナーです。


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次の動画を視聴することが可能です。
まずは、21分間という時間を投資して、加藤さんのセミナー映像をご覧ください。

PDFを見ても楽しいと思いますし、動画+PDFも有りですね。
お好きな方法でご覧いただければと思います(もちろん無料!損はさせませんよ)。



ちなみに、1万円無料プレゼントは終了しましたが、
私には1万円+Webテストで65点取ったので+5000円さらに次世代セミナーにも申し込んだので+1万円で、
2万5000円分の仮想通貨リップル500.000000XRP(1XRPの値段50円計算)が振り込まれました。

今盛り上がっている、仮想通貨のセミナーも視聴できるのです。

知識のない私は?5億~~~!×40円(現在1XRPの値段)=24億円振り込まれた~~~!と、
勘違いしてしまい怖くなってしまいました。(-"-;A ...アセアセ

6桁は少数点以下だったようです(相変わらずの慌て者です・笑)。
タダで頂いたものですから、今日から楽しみにリップルの動向を見守りたいと思います。


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1日で本物のビジネススキルが磨けるので、
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私と同様、ビジネスに対する価値観が変わると思います。

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2017/03/18

悲劇の幼帝『安徳天皇』須磨「一の谷」内裏跡伝説地を訪れて !

今回も涙が多くなりそうでタオルが必要と思うのですが、感傷的に成るよりも、冷静に考察したいと思うお話ですσ(^_^;)?

安徳天皇は2歳で即位しながら、壇ノ浦の戦いで祖母二位の尼(清盛の妻)に抱かれ、平家一門とともに関門海峡に沈んまれた8歳の幼帝です。

須磨の安徳帝内裏跡伝説地を訪れて来たのですが、はっきり言うと「場所分かりにくい~(^^;」でした(笑)

今回のテーマは、「卑怯者だった?義経」「三種の神器の行方」について少しお話させて下さい。

P2220140.jpg
(安徳天皇内裏跡伝説の地)

須磨の安徳天皇内裏跡伝説の地とは余り関係無いのですが(^人^)、勿論内裏跡も御紹介しますよ~(^^;。

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【安徳天皇内裏跡伝説の地】



P2220119.jpg(安徳宮と真理胡弁財天)
P2220120.jpg(安徳宮大鳥居)
P2220124.jpg(安徳宮)

安徳天皇は、高倉天皇を父親平清盛の娘「建礼門院徳子」を母として生まれた悲劇の幼帝です。
1180(治承4)年に2歳で即位しましたが、 1185(寿永4)年、壇ノ浦の戦いで平氏の敗北とともに祖母二位尼(清盛の妻)にいだかれて入水したと伝えられています。
この須磨一の谷の伝説地には、一時内裏がおかれたとのいい伝えがあり、 安徳天皇の冥福を祈って安徳宮がまつられています。

山と海に挟まれた須磨は、古くから白砂青松の景勝地として知られ、歌枕の地としても親しまれています。
かつて一ノ谷合戦で激しい戦いを繰り広げたこの地には、合戦にまつわる史跡や伝説が数多く残っています。

【一ノ谷と戦の濱】
「一ノ谷」は鉄拐山と高倉山との間から流れ出た渓流にそう地域で、須磨公園の東の境界にあたります。
1184年(寿永3年)2月7日の源平の戦いでは、平氏の陣があったといわれ、この谷を200mあまりさかのぼると、二つに分かれ、東の一ノ谷 本流に対して、西の谷を赤旗の谷と呼び、平家の赤旗で満ちていた谷だと伝えられています。

一ノ谷から西一帯の海岸は「戦の濱」といわれ、毎年2月7日の夜明けには松風と波音のなかに軍馬の嘶く声が聞こえたとも伝えられ、ここが源平の戦いのなかでも特筆される激戦の地であったことが偲ばれます(現地説明板より)。
 
「戦の濱」の碑がある辺から北(山側)に向かい、山陽電鉄の線路を越えて、つづら折れの急坂を上って行くと、高台の住宅街の一角に内裏跡公園があります(ハッキリ言って分かりずらい。)。

「福原鬢(びん)鏡」では、安徳天皇皇居跡としながらも、平家の諸軍勢がこもった場所で土手の跡が今も残っているとしています。

【安徳天皇を祀る安徳宮】

安徳帝は平家物語にあるように「海の下にも都があります、涙」との祖母二位の尼の言葉と共に千尋の底へ鎮まれました。
海の下の都とは龍宮であって、龍宮の主は龍神であり、安徳帝の御守護神であると伝えられております。
公園奥には安徳天皇の冥福を祈って「安徳宮」が祀られると共に「真理胡弁財天(龍神)」も祀られています。

P2220131.jpg(説明版)P2220133.jpg(海の下の龍神を祀っています。)

平氏の総大将宗盛(清盛の三男)は、一の谷合戦の三日前に清盛の三回忌を海上で営み、上陸する間もなく突然の源氏軍の来襲に、そのまま安徳天皇や建礼門院らと沖合の船で、戦いの情勢を見守っていたので、実際にここに内裏があったのかどうかはっきりしませんが、地元ではこの地に一時安徳天皇の内裏があったと伝えています。

後白河法皇は源氏に対して平氏追討の命令を発する一方、戦いの直前まで、平氏との間で三種の神器の返還をめぐる和平交渉を進めていました。
講和の相談のために静賢法印(平治の乱で殺害された信西の子)を2月8日に派遣、という内報が平氏側に伝わりましたが静賢法印が辞退してしまい、法皇は和平の提案をしておきながら、結果的に平氏を騙討ちにしたことになりました。
そのような交渉は休戦状態のもとでしか進められないはずであり、平氏側はこの内報を信じ、油断していたようですが、7日、突如源氏軍(義経)が来攻し、意表をつかれた形となりました(この点も平氏惨敗の一因とされています)。

【壇之浦での義経は卑怯者?】

ちょっと強引に壇ノ浦の戦い話題なのですが、関門海峡は潮の流れの変化が激しく、水軍の運用に長けた平氏軍はこれを熟知しており、早い潮の流れに乗ってさんざんに矢を射かけて、海戦に慣れない坂東武者の義経軍に対して優勢に戦いを進めました。
義経軍は満珠島・干珠島のあたりにまで追いやられ、勢いに乗った平氏軍は義経を討ち取ろうと攻めかかります。

ここで不利を悟った義経が敵船の水手、梶取(漕ぎ手)を射るよう命じます(この時代の海戦では非戦闘員の水手・梶取を射ることは戦の作法に反する行為だったのです、現在の戦いでも民間人に対する誤爆が問題になりますが、それを故意に行う事は、戦時国際法違反となります「非戦闘員への攻撃」。)。
義経があえて、その掟破りを行って戦況が変化させたとする話が、ドラマや小説等によく見られます。
しかし『平家物語』では義経が水手・梶取を射るよう命じる場面はなく、もはや大勢が決した段階で源氏の兵が平氏の船に乗り移り、水手や船頭を射殺し、斬り殺したと描かれています(義経は卑怯な戦法を取ったのか?取らなかったのか?)。
義経を弁護するなら、阿波重能の水軍300艘が寝返ったこと?潮の流れが変わった事が勝因として挙げられます。

【源氏の反攻と平氏滅亡】

『平家物語』には平氏一門の最後の様子「先帝身投」の場面が描かれています。
敗けを覚った、建礼門院や二位尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えます。
安徳天皇が「どこへ行くのか」と仰ぎ見れば、二位尼は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、安徳天皇とともに海に身を投じたとされます。
『吾妻鏡』によると二位尼が宝剣と神璽を持って入水、按察の局が安徳天皇を抱いて入水したとあり、続いて建礼門院ら平氏一門の女たちも次々と海に身を投げたと記載が有ります。

武将たちも覚悟を定め、平家の総帥宗盛(清盛の三男)以下教盛(清盛の弟四男)・経盛(清盛の弟三男)・資盛(平清盛の嫡男である平重盛の次男)・有盛(平重盛の四男)・行盛(平清盛の次男である平基盛の長男)・清宗(平宗盛の長男)・入水、皮肉な事に宗盛だけが、水練が達者なために泳ぎ回っていたところを義経軍に捕らえられてしまいました。

【義経の八艘飛びは逃亡するためだった?】
剛の者である平教経(平清盛の弟教盛の次男)は、鬼神の如く戦い坂東武者を多数討たました、知盛(清盛の四男)が既に勝敗は決したから罪作りなことはするなと伝えます。
教経は、ならば敵の大将の義経を道連れにせんと欲し、義経の船を見つけてこれに乗り移った。
教経は小長刀を持って組みかからんと挑むが、義経はゆらりと飛び上がると船から船へと飛び移り八艘彼方へ飛び去ってしまいます。
これが世にいう義経の「八艘飛び」です(詰まり、攻撃の為の八艘飛びではなくて、一目散に逃亡するため~(^^;)。
義経を取り逃がした教経に大力で知られる安芸太郎が討ち取って手柄にしようと同じく大力の者二人と組みかりますが、教経は一人を海に蹴り落とすと、二人を組み抱えたまま海に飛び込んで最後を遂げます。
『平家物語』に描かれた平氏随一の猛将として知られ屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで義経を苦しめた教経(義経のライバルといえますね)の最後ですが、『吾妻鏡』によれば教経はこれ以前の一ノ谷の戦いで討ち死にしているという記述がありますが、『醍醐雑事記』には壇ノ浦で没した人物の一人として教経の名が挙げられている。
知盛は「見るべき程の事は見つ(最後は見届けたの意味ですかね?)」とつぶやくと、鎧二領を着て乳兄弟の平家長と共に入水しました。

申の刻(16時ごろ『玉葉』)(『吾妻鏡』では午の刻(12時ごろ))平氏一門の多くが死ぬか捕らえられ、戦いは源氏の勝利に終わりました。

なお、この戦いで平氏一門は政治勢力としては滅亡しましたが、一般的なイメージとは異なり一門そのものは断絶することなくその後も続いています(私の実家但馬の海岸にも平家の落人村が有るようです。ここでいう「一門そのもの」とは意味合いが違うのですが…)。

【後白河法皇も最後までこだわった『三種の神器』の行栄】

「吾妻鏡」などでは、安徳天皇や二位の尼とともに「三種の神器」が海に沈みます
「八咫鏡」の記載は少なく、引き上げられたとも言われますが、八咫鏡は元来伊勢の神宮の皇大神宮に収められていて、壇ノ浦の「八咫鏡」「形代(レプリカという意味ではありません)」」ということに成りますか。
「八尺瓊勾玉」はハッキリと浮び上がった記載がありますし現在は、皇居の吹上御所の「剣璽の間」に安置されています。
「草薙剣(天叢雲剣、あまのむらくものつるぎ)」は海中に沈んでしまい、行方不明になったとあります。

朝廷に伝わっていたとされる壇ノ浦の「草薙剣」ですが、第十代崇神天皇が神器と一緒にいるのは畏れ多いと剣の「形代」を鋳造し、これを護身のため宮中に置いたといわれます。
『古語拾遺』にも、第十代崇神天皇の時、鏡と剣は宮中から出され、外で祭られることになったため、「形代」が作られたと記載されます。
第十一代垂仁天皇の時、伊勢神宮が創始されたおり、旧剣は伊勢に移され新剣のほうが宮中に留まったとみられています(この新しい剣が壇ノ浦で沈んだ「草薙剣」ではないかと推測します。
日本武尊(第十二代景行天皇の皇子)東征のおりに伊勢神宮から持ち出された「草薙剣(旧剣)」は熱田で宮簀姫(みやずひめ)に渡り、宮簀姫は熱田神宮を建ててこの草薙剣を祀ったとされています

つまり、現在では「草薙剣(旧剣)」は熱田神宮に、「八咫鏡」は伊勢の神宮の皇大神宮内宮にそれぞれ神体として奉斎され、「八尺瓊勾玉「と「草薙剣の形代」、「八咫鏡の形代」は宮中三殿吹上御所の「剣璽の間」に保存されています。
三神器[1]
(三種の神器のイメージ図)

しかし同皇居内に皇族らが住まいされていますが、天皇陛下でさえもその実見はでさえ未だになされていないという事です。

さて、今回の平家物語の最後を飾るのはやはり、幕引き役平徳子(建礼門院)ですね。
平家物語の最後は「勧請巻」といって徳子の後日譚です。
平家滅亡時に壇ノ浦で入水しようとした徳子は助けられて京の大原で隠棲し出家します。
平家や安徳天皇の菩提を弔いますが、そこで後白河法皇の訪問をうけ、平家の栄華と滅亡を振り返ります
そして徳子は極楽に往生して物語が終わります。

私も次回「盛者必衰の理」の総括を寂光院からお届け出来ればと考えています。

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2017/03/16

涙脆い人はハンケチをご用意下さいね!平敦盛『首塚』

前回に引き続き平敦盛ゆかりの場所を御紹介させて頂きます(^人^)。

「敦盛」と言えば「人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり~。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか~~。」の「織田信長」の幸若舞で有名ですが、原作とは少し?意味合いが違い、信長の創作?らしいですよ~(嘘でしょ~って感じです(^^;)

引き続き、「平家物語」の中でも、最も涙の量が多くなる?「巻第九~敦盛最後」ゆかりの地から、須磨寺の「平敦盛の首塚」を御紹介します(。´Д⊂) 
涙脆い人は注意してね~の第二段です。

P2220146.jpg(須磨寺奉納額より、敦盛青葉の笛を奏でる。)

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幸若舞の演目のひとつ「敦盛」は前回御紹介した「平家物語」のお話と少し?相違点がようなので、御紹介します(作者と製作年は不詳ですね)。

【ストーリー】

1184年(元暦元年)(平家方の呼ぶ寿永2年)、治承・寿永の乱(源平合戦)の一戦である須磨の浦における「一ノ谷の戦い」で、平家軍は源氏軍に押されて敗走をはじめます。
 平清盛の甥で平経盛の子、若き笛の名手でもあった平敦盛は、退却の際に愛用の漢竹の横笛(青葉の笛・小枝)を持ち出し忘れ、これを取りに戻ったため退却船に乗り遅れてしまいます。
出船しはじめた退却船を目指し渚に馬を飛ばす敦盛、退却船も気付いて岸へ船を戻そうとしますが、逆風で思うように船体を寄せられません。
敦盛自身も荒れた波しぶきに手こずり馬を上手く捌けずにいました。

そこに源氏方の熊谷直実が通りがかり、格式高い甲冑を身に着けた敦盛を目にすると、平家の有力武将であろうと踏んで一騎討ちを挑みます。
敦盛はこれに対して受けあいませんでしたが、直実は将同士の一騎討ちに応じなければ兵に命じて矢を放つと威迫します。
多勢に無勢、一斉に矢を射られるくらいならと、敦盛は直実との一騎討ちに応ました。
しかし実戦経験の差は歴然、百戦錬磨の直実に一騎討ちでかなうはずなく、敦盛は捕らえられてしまいます。

直実がいざ頸を討とうと組み伏せたその顔をよく見ると、元服間もない紅顔の若武者、名を尋ねて初めて、数え年16歳の平敦盛であると知ります。
直実の同じく16歳の息子熊谷直家は、この一ノ谷合戦で討死したばかり、我が嫡男の面影を重ね合わせ、また将来ある16歳の若武者を討つのを惜しんでためらっていました。
これを見て、組み伏せた敵武将の頸を討とうとしない直実の姿を、同道の源氏諸将が訝しみはじめ、「次郎(直実)に二心あり!次郎もろとも討ち取らむ」との声が上がり始めたため、直実はやむを得ず敦盛の頸を討ち取ります。

一ノ谷合戦は源氏方の勝利に終わりましたが、若き敦盛を討ったことが直実の心を苦しめ事に成ります。
合戦後の論功行賞も芳しくなく同僚武将との所領争いも不調、翌年には屋島の戦いの触れが出され、また同じ苦しみを思う出来事が起こるのかと悩んだ直実は世の無常を感じるようになり、出家を決意して世をはかなむようになります。

という具合です。
敦盛最初は逃げたんですね、幾つか相違点が出てきました。
此方の方が美化が少なくて、現実に近い感じがしますし、直実の無情感の出所を克明に描いていますね。




P2220206.jpg(須磨寺の庭に、合戦のシーンが再現されています。)
P2220207.jpg(呼び止められる敦盛像)
P2220208.jpg(勿論呼び止める直実像)

【人物紹介です前回もしましたが...】
「平敦盛」(1169~1184)父は平経盛、平清盛の甥にあたる。
従五位下に叙せられるが官職につかなかったため、無官大夫と呼ばれます。
笛の名手とされ、愛用の青葉の笛は、祖父の平忠盛が鳥羽院より下賜されたものでだそうです。
この一ノ谷の合戦が初陣、兄(経正・経俊)も一ノ谷の合戦で討死しています。

「熊谷直実」(1141~1207)武蔵国熊谷の御家人、源頼朝の挙兵直後より源氏方となり、各地を転戦します。
一ノ谷の合戦で平敦盛を討ち取る功績を挙げるが、同時に戦いの無常を知り、徐々に仏門への帰依の念を強めていきました。
建久3年(1192年)に相続争いの裁定を不服として出奔、翌年、浄土宗開祖「法然」の弟子となって出家し、名を蓮生とし、後は浄土宗の普及に努めます。

【須磨寺の『敦盛首塚』と平家関連史跡の紹介】

大師堂傍らの池は「敦盛首洗い池」、その背後には、合戦終了後、義経が池の前に腰を掛けて平家武将らの首実検をした名残という「義経腰掛の松」があります(この5年後、義経自らが鎌倉で首実検されるとは、思いもよらなかったでしょうが(((^_^;))。

P2220197.jpg
(義経首実検、腰掛の松です。前に首洗いの池が在るのですが、撮影し忘れてます(;^_^A)

敦盛の首は「須磨寺」で実検を終えると葬られ、その境内に「首塚」が建てられ祀られました。

P2220158.jpg(敦盛首塚の入り口です。)
P2220159.jpg(堂に成っています。五輪塔が首塚)
P2220162.jpg(首塚、敦盛さん眠っておられるのですかね?)


また、須磨寺には敦盛が身につけていた名笛「青葉の笛」が収蔵されています(須磨寺については、とても素敵なお寺なので、又の機械に丁寧に御紹介させて頂きます。)。

P2220210.jpg(青葉の笛?二本在りますね~確か細い方だったような…)
 

【さて幸若舞の謡?ですが】

直実が出家して世をはかなむ中段後半の一節に、『思へばこの世は常の住み家にあらず草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる南楼の月を弄ぶ輩も月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり一度生を享け、滅せぬもののあるべきかこれを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ』
という詞章があり、織田信長がこの節を特に好んで演じたのは皆さんもご存知ですね(#^.^#)。

「人間(じんかん、又は、にんげんと詠みます)五十年」は、人の世の意味です。
「化天」は、六欲天の第五位の世化楽天で、一昼夜は人間界の800年にあたり、化天住人の定命は8,000歳とされます(800×360×8000=23040000年ですか?する事無くなるf(^_^;)。
「下天」は、六欲天の最下位の世で、一昼夜は人間界の50年に当たり、住人の定命は500歳とされます。
信長は16世紀の人物なので、「人間」を「人の世」の意味で使っていた様ですし「化天」を「下天」と読み替えています。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」は、「人の世の50年の歳月は、下天の一日にしかあたらない」という意味になりますが、現代において、「(当時の平均寿命から)人の一生は五十年に過ぎない」という意味としばしば誤って説明される場合があるが、この一節は天界を比較対象とすることで人の世の時の流れの儚さについて説明しているだけで、人の一生が五十年と言っているわけではないのです。
さて、信長が49歳で本能寺に倒れた事もあり、人の人生は50年と信長が謡っていたと思っておられる方が多いいのでは無いでしょうか(若しくは信長が本当に間違えていたのかも知れませんが!)?

【最後にこんな伝説も】

直実は建久元年(1190年)法然の勧めにより、高野山で敦盛の七回忌法要を行っています。
また『一谷嫩軍記』では、実は敦盛は後白河院のご落胤で、直実はそれを知っていて、自分の息子小次郎の首を刎ねたという記述となっているのも面白いですねσ(^_^;)?。

【最後にも一つ】

2012年NHK大河ドラマ「平清盛」で題字を担当し、多岐に渡り様々な活動を展開、人々に感動と勇気と希望を与えているダウン症の女流書家「金澤翔子」さんの書を紹介します(偶然出会えたし、実は大河ドラマの題字の事を知りませんでしたf(^_^;)。

P2220214.jpg
(素晴しいものに出会うことが出来ました。これも敦盛さんの導きです。)
P2220216.jpg(「慈眼視衆生」意味は上に…ガラスが光って申し訳ありません)


1985 年東京都目黒区に誕生。
5歳から書道を始め、母でもある金沢蘭凰に師事。
10歳で「般若心経」を書き、2004 年に雅号 小蘭を取得。
2005年より様々な会場にて席上揮毫を行い、 奇跡の天才書家として注目をあつめる。
2009 年京都・建仁寺に「風神雷神」を奉納(こちらは写真に収めているはずなので、建仁寺ご紹介のおりに紹介いたします)。

歴史は私に新しい発見と素晴しい出会いをもたらしてくれます。
学生時代を通してこんなにも勉強したことが有ったかと思ってしまう、今日この頃です。


又、長々とお付き合いをありがとうございましたm(__)m

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関連記事
  
2017/03/14

涙脆い人はハンケチをご用意下さいね!平敦盛『胴塚』

私のブログの特徴として、時代(時間)の移動が極端すぎる事をご理解ください(^人^)。
今回も12世紀の終わり、前回から7~800年程移動しました(笑)。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。 
中学で覚えて40年忘れた事は有りませんでした。
自慢に成りますけど(自慢するな~(*`Д´)ノ!!!)。
やはり琵琶の音とか欲しいな(((^_^;)

今日は「平家物語」の中でも、最も涙の量が多くなる「巻第九~敦盛最後」ゆかりの地から、「平敦盛の胴塚」を御紹介します(。´Д⊂) 
涙脆い人は注意してね!

神戸市須磨区の須磨公園駐車場の直ぐ隣に有ります。

P2220144.jpg
(須磨寺奉納額より「平敦盛を呼び止める熊谷直実」)

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『平家物語』の中でも最も有名な逸話であり、諸行無常の念を強くさせるのが、平敦盛の最期の場面です。

【平敦盛って誰?】
平 敦盛(たいら の あつもり)は、平清盛の弟、平経盛末子です(清盛の甥に成ります。)。
織田信長が『敦盛』を好んで舞ったと伝わることから、戦国史ファンにとっては馴染の有る名前ですね。  
平敦盛は若年ながら笛の名手と歌われます。
平氏軍が敗走する際、漢竹の横笛(青葉の笛・小枝)を忘れ取りに戻る
そんな「平家物語」のシーンが有名ですね。

【ストーリー】
平安時代末期、政治の実権を握り、栄華を極めていた、平氏一門。
しかし、それに反発する源氏の勢力も急速に拡大し、平清盛の死後、源氏の軍の圧倒的な兵力により、平氏は一度は都を追われてしまいますが、何とか軍勢を立て直し、神戸「一ノ谷(現在の須磨公園の辺りです)」に陣をかまえます。

寿永3年(1184年)の一ノ谷の合戦は、源義経の奇襲によって勝敗を決します

P2220065.jpg(須磨公園駐車場の直ぐ西側、敦盛胴塚です。)
P2220090.jpg(この角度を馬で駆け下りた義経もさるものですね~驚!)
P2220091.jpg(須磨海水浴場が見えていますが、平地部分が一の谷ですね。)
P2220106.jpg(標高253mの旗振山頂上です。ここから源氏の猛攻が始まったんですね。)
P2220108.jpg(駆け下る?ハッキリ言って歩いても簡単ではありません。私はロープウェーです。(;^_^A)

不意を突かれた平家軍は堪えきれず、逃げまどい総退却、 屋島(香川県高松市の東北部)に向かって海上を船で敗走し始めます。

先陣を切ったものの、戦功を挙げることが出来ずにいた源氏方の「熊谷直実」は、「平氏の軍が、助け船に乗ろうと、波打ちぎわの方へ逃げているにちがいない、 身分の高い大将と立ち合いたいものだ」と考えていました。
そこに、馬で沖の舟まで辿り着こうとする一騎の武者を見つけます。
身なりからいって平家の公達であることは間違いないと考えた熊谷直実が「待て敵に背中を見せて逃げるか?戻って立ち合え!」と声を掛けると、敵将の一人がその呼びかけに振り向き、「おう」と凛々しくも応じて陸に向かって引き返して一騎打ちとなります。

直実は歴戦の強者、またたく間に敵将を馬から引きずり下ろして組み伏せます。
そして首を切ろうと相手の顔を見ると、まだ幼さが残る薄化粧にお歯黒(当時の貴族は男性も既婚者は此のような化粧だったようです。)の若く美い若者でした。
直実には、ちょうど自分の息子「小次郎」と同じぐらいに見えました。

直実が名を尋ねると、若者は「名乗る必要は無い。首実検すればわかること」とにべもない返事、殺すに忍びないと、逃がそうかとも考える直実(なんと立派な大将だ!この者一人を討ち取っても、討ち取らなくても、 勝つ時は勝つ、負ける時は負けるのが戦というものであろう。この者の父は、この者が討たれたと聞けば、どんなにか嘆き悲しむ事だろう。 なんと哀れなことだ。なんとかして助けてやろう!)だったのですが。

しかしこの時、味方の騎馬50騎程が近づいており、ここで敵将を助けたならば、武士として恥ずべき裏切り行為を犯すことになります。
「あなたを何とか助けたいとは思うが、味方も数多く迫ってくるので、 もう逃がす事ができない。 あわれとは思うまい、他の誰かの手にかけるよりは、せめて私が首をとって、後に立派に供養いたします」と声をかけるものの、それを聞いても若武者は、 「さあ、さっさと首を取れ!」と相変わらず堂々とした、毅然とした態度は変わりません。

直実は、後世の供養を誓うと、涙ながらに若者の首を取ったのでした。

直実が後に知る事ですが、若武者は名を「平敦盛」といい、歳はまだ16歳。
そして遺体についていた腰の袋の中に、笛を見つけます。
甲冑を着ながらも所持していたその笛は、こんな戦場でも雅を忘れない、貴族の心を持っていた人物だという事の証拠でした。
敵陣から聞こえてきた笛を吹いていたのがこの若者であったのかと気づき、戦の世の無常を悟るのです(ToT)。

平家物語の中でも最も悲しく泣ける話と有名な、敦盛の最後のシーンです。

【平敦盛胴塚】
一ノ谷の古戦場のそば、国道2号線に面したところに大きな五輪塔があります。



これが平敦盛の胴塚とされる敦盛塚です。
高さ3.5mという大きな塔で、室町時代に供養塔として建てられたとされます
一方、敦盛の首は実検を終えると近くの須磨寺に葬られ、その境内に首塚が建てられています。
また、須磨寺には敦盛が身につけていた名笛「青葉の笛」が収蔵されています(首塚・青葉の笛は次回御紹介させて頂きます。)。
 
P2220074.jpg
(敦盛の胴塚お花に線香!美少年の人気は800年経っても変わりませんね。)
P2220067.jpg(五輪塔説明版)
P2220069.jpg
(凄い大きさです。全国2位、1位は石清水八幡宮に在るそうです。写真有ったかな?)


【うんちく~アツモリソウ】
アツモリソウ(敦盛草)の名前は、寿永3(1184)年2月、源氏の名将源義経は、平氏を真下に見下ろす、人間が降りることが困難な断崖絶壁である鵯越を馬で降りて、平氏の陣に火を放ちます。
この奇襲攻撃で平氏は大敗し沖の船に乗り込み逃げ落ちる事に成りました。
この戦いで討たれた平家の若き将、平敦盛の名に由来する花です。

DSC00314[1]
(Wikipediaよりアツモリソウ、綺麗ですね~丸いところが母衣に似ています。)

和名の由来は勿論!当時合戦で流れ矢を背後から受けた場合の防具として、大きく膨らませた袋(母衣、近頃のドラマや映画ではよく出て来るように成りましたね。)を鎧の上に背負っていたようで、その形がこの花の形に似ていることから付いた名称といわれています。

Kumagai_Naozane,Ichinotani[1]
(Wikipediaより、平敦盛を呼び止める熊谷直実。その背中に大きな赤い母衣を負う。永青文庫蔵「一の谷合戦図屏風」より。)

袋状の唇弁を持つ花の姿を、平敦盛の背負った母衣(ほろ)に見立ててつけられています。
また、この命名は熊谷直実の名を擬えた同属のクマガイソウと対をなしています。

W_kumagaisou4041[1]
(Wikipediaよりクマガイソウです。)

日本人の美意識に敬服しますね。
戦国武将の家紋も殆どが花ですが、そんな国が日本以外に有りますかね~(*^.^*)
本当に日本人で良かったと思える発想ですね(#^.^#)。


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関連記事
  
2017/03/12

謀略の偽陵なのか?「五色塚古墳」に浪漫を求めて!

「五色塚古墳」「小壺古墳」最後はのロマンな?お話を御紹介したいと思います。

「五色塚古墳」に関して、『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条が関連記事として知られています。

そちらにによれば、新羅征討から戻った神功皇后が、征討前に崩御した仲哀天皇(第14代)の遺骸および誉田別尊(のちの第15代応神天皇)を伴って大和に戻る際、麛坂皇子と忍熊皇子(いずれも仲哀天皇皇子)が次の皇位が誉田別尊に決まることを恐れて皇后軍を迎撃しようとしたというのです。
25498.jpg
(神功皇后の五円紙幣、価値は60万円程だそうです。ちなみにこっそり教えますが、モデルは造幣局の職員だそうです。)

どうですか?興味が湧いてきませんか。

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【この物語の登場人物は以下の方々です。】

神功皇后
第14 第天皇仲哀天皇
第15 第応神天皇(誉田別尊)
麛坂皇子(仲哀天皇皇子ですが母親は別人)
忍熊皇子(仲哀天皇皇子ですが母親は別人)

【そもそも三韓征伐とはどんな事件なのでしょう?】

三韓征伐(さんかんせいばつ)は、仲哀天皇皇后、神功皇后が軍を起こして三韓に攻め入り新羅を屈服、任邦(みなま)に日本府をおき大陸経営にいそしみ、後に百済を拠点として、朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる戦争を指します。
神功皇后は、仲哀天皇の后で応神天皇の母です(遠征の途中に仲哀天皇を亡くし、応神天皇を身ごもりながら戦闘を行った(井伊直虎も真っ青な女傑です)。
経緯は『古事記』『日本書紀』に記載されていますが、朝鮮や中国の歴史書にも関連するかと思われる記事があります。
新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるためこの名で呼ばれますが、直接の戦闘が記されているのは対新羅戦だけなので新羅征伐とも言われます。
吉川弘文館の『国史大辞典』では、「新羅征討説話」という名称で項目となっています。
ただし三韓とは馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加羅)・辰韓(後の新羅)を示し高句麗を含まない朝鮮半島南部のみの征服とも考えられます。

動機としては、神功皇后は新羅人の族長の娘で自分を追い出した新羅への復讐だったとも言われていますが、定かではありません。
私の実家のある但馬一宮「出石神社」の天の日矛は新羅の王族の王子で、神功皇后の祖先といわれています。
戦後は日本の学者は神功皇后自体を架空の人物として否定的に捉える向きもあるようです。

三韓御征伐の神託を受けた神功皇后は、九州に軍をすすめますが、仲哀天皇の崩御という予期せぬ事態?が起こります。
そこで神功皇后は重臣、武内宿禰と協議の上、仲哀天皇の崩御を隠してして、妊娠の身にももかかわらず男の姿で、多くの軍船を率いて筑紫の松浦より、玄海の荒波を乗越へ、新羅に侵攻します。
朝鮮の史書『三國史記(新羅本紀)』では、第11代新羅王 助賁尼師今3年(西暦232)4月、初めて倭が新羅の都まで討入り「金城」包囲の記述があるようです。
倭国を見た新羅王は、驚いて一戦も交えずして軍門に降り、たとえ太陽が西より出て、河の水が逆さまに流れるようとも、倭国には逆らわない、また毎年貢物を献上すると誓って、80艘に金銀財宝を積み献上をしたので、皇后はこれを許し、毎年貢物を献上される事に成ったと記録されていますが、いかにも都合の良い話です。

むしろ目的は、新羅攻略では無くて、朝鮮と関係を強くして、後躯の憂いを取ってから、倭国の不穏な状況を一掃しようと考えたのではないかと、勝手に想像します。

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(管理事務所のフイルムが光って申し訳ありません。海上封鎖には丁度良い淡路島までの距離ですかね?)
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(大阪湾の立地も考えると迎え撃つのは此処が最適か?)
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(高台は砦としても使えますね、それでは埴輪の必要はあるかな?)
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(鉄道が無い古代すぐに海です。陸を進めば前に在るのはこの古墳ということに成りますが?)

五色塚古墳の築造に関しては、『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条が関連記事として知られる。
同条によれば、新羅征討から戻った神功皇后が、征討前に崩御した仲哀天皇(第14代)の遺骸および誉田別尊(のちの第15代応神天皇)を伴って大和に戻る際、麛坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)、(いずれも仲哀天皇皇子)が次の皇位が誉田別尊に決まることを恐れて皇后軍を迎撃しようとしたというのです。

麛坂皇子と忍熊皇子両皇子が仲哀天皇の陵の造営のためと偽り、播磨に陵(をまねた砦)を、淡路島まで船を渡しその石を運んで赤石(= 現明石)に陣地を構築しました。
明石海峡も封鎖しますが、その名目として、「淡路島の石を運ばせていると嘘をつくのです」( 『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条)。
この伝承について、明石の海沿いで「陵」と呼べる規模の古墳は五色塚古墳のみであることから、古くより五色塚古墳がこの「赤石の山陵」に比定されている。

上の伝承に関連する記事として、『播磨国風土記』賀古郡大国里条(印南郡大国里条)にも、息長帯日女命(神功皇后)が帯中日子命(仲哀天皇)の埋葬の際に讃岐国の羽若石(= 羽床石か)を求めたとする伝承があります。
なお、『播磨国風土記』では明石郡条が欠落していることもあり(残念!)、五色塚古墳自体に関する記述は在りません。

P2220049.jpg
(戦闘の基本は高地に陣すること、理にかなっています。)
P2220032.jpg
(淡路から運んだ石は偽装のためか?投石様か?)
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(凄い量だったですよね~(;^_^A)
P2220063.jpg(墓なのか偽陵墓なのか?謎は多いい方が楽しめます。)
【つまりはこういうお話】
仲哀天皇(第14代天皇)の死後、二人の皇子、麛坂皇子忍熊皇子が、神功皇后に政権を握られることを快く思わず、朝鮮遠征から帰国する皇后を迎え討つために軍船を明石海峡に浮かばせましたが、そのままではクーデターがバレてしまうので、仲哀天皇の墓をつくるための葺石を淡路島から運搬する船に見せかけるため、この墓?7を造ったという事です。
つまり、五色塚古墳は仲哀天皇の偽墓で、実は何も埋葬されていないということに成ります。
実に手の込んだ嘘ですよね。
ちなみに、神功皇后とは、実在性が濃厚な最古の天皇とも言われる応神天皇の生母で、この人が卑弥呼ではないかという説もある人物です(逆に神功皇后そのものが想像の人物との考えもあるようです)。

浪漫~ではないでしょうか?
結局、応神天皇が即位されたということから、このクーデターは失敗に終わって二人の皇子、麛坂皇子と忍熊皇子は無くなってしまったのですかね?


さて、三回にわたって「五色塚古墳」「小壺古墳」についてお話させていただきました。
「前方後円墳」「円墳」ですね。

先日すごい「方墳」の記事が新聞を賑わせました。

方墳の濠(ほり)とみられる巨大な石溝が見つかった奈良県明日香村の小山田(こやまだ)遺跡で、新たに石室への通路跡が見つかったと県立橿原(かしはら)考古学研究所が1日発表した。一辺約70メートルと推測され、飛鳥時代(7世紀)最大級の方墳と確定した。研究所は「出土した瓦片などから640年ごろの築造とみられる。当時の最高権力者の墓」と指摘。被葬者は舒明(じょめい)天皇か大臣(おおおみ)の蘇我(そがの)蝦夷(えみし)に絞られた。

 橿考研は2015年1月、県立明日香養護学校の校舎建て替えに伴い、長さ約48メートル、上部幅約7メートル、底面幅約3・9メートル、残存する深さ約1メートルの石溝を発見したと発表。墳丘の斜面に板石を階段状に積む特異な構造も注目された。石溝は方墳の北辺と考えられ、橿考研は昨年12月から溝の南約60メートルの地点を発掘していた。(新聞記事より)

時代は墳墓の形を方墳に(仏教寺院の影響か?)そして六角形、さらには八角形(現在の天皇陵墓は八角です)と時代と共に変化
していきます。


しかしながら、前夫後円墳という日本独特の墳墓も形の謎はいまだ解けておりません。
一部につぼ型と考えて、壺の中に現世と同じ生活ができる、来世が有ると考えられている学者もおられるようです。
「壺の中を覗いてみたいですね~」市郎右衛門でした。


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