「高天原の縁側日記」
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2019/03/11

3月11日「東日本大震災」を忘れない!記憶することもまた歴史の一つ!

3月11日は8年前に『東日本大震災』が発生した日です。

私こと、市良右衛門は、神戸市に住んでおりますが、阪神淡路大震災の時には、但馬の実家でまだ就職もせずに住んでおりましたので、我が家の小さな墓石が倒れた程度の被害ですみました。

東日本大震災の時にも、鳥取県米子市に単身赴任しており、何一つとして被害を受けることは有りませんでした。

神戸には震災後23年住んでおりますし、東北青森には学生時代も含めて、10年程住んで居りました。

幸いな事に両震災とも、何も被害を受けませんでしたが、神戸・東北共に第二の故郷とも呼べる、とても愛着の有る場所です。

朝日新聞デジタル
(奇跡の一本松、枯れてしまいましたが復興のシンボルとして樹脂で保存されました。朝日新聞電子版よりお借りしました。)


それだけに、4年前の夏にお友達に「東日本大震災」の体験談を聞いて、衝撃と共に感銘を受けたので、是非皆さんにも知って、考えて頂きたいと思い、お友達の体験談を公開することにいたしました(本人は了解してくれました)。

今日の新聞には関連死も含めて2万2千人の文字や、帰宅困難いまだ数万人の記事が記載されていました


新しい、ブログが始まり、このブログはもう書かない予定でしたが、情報発信は続けていくべきと、このブログの使いかたも模索しています。

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~縄文・弥生時代から近現代まで、日本の歴史と文化の旅に神様目線で旅立とう~


今日、ご紹介する【2014年夏のレクイエム】はお友達の「東日本大震災」実体験の手記を記録したものです。

できる限りそのままの形で公開しますが、差しさわりのある名前などは少し訂正させて頂きましました。


【2014年夏のレクイエム】

南三陸町防災対策庁舎
(南三陸町防災対策庁舎、町職員の遠藤未希さんが最期まで、防災無線のマイクを握った場所です。Wkiよりお借りしました。)


(文章の一人称はお友達です。【2014年夏のレクイエム】2014年に成っているのはやっと話すことが出来るようになったからだと思います。)

東日本大震災かぁ…。
思い出したく無くても、頭から離れない。
忘れたいけど、忘れちゃいけない。
いろいろ、酷いものも見ました。
しかしあの時、多くの被災者はじっと耐え、規律を守り、乗り越えました。

これは、私の体験談です。
私の場合、被災者の中でも恵まれた方だったと思います。
面白い話しでは有りませんし、文章力も有りません。

大震災があったあの時、私は宮城の港町(海から100m 足らずのところ)で仕事をしていました。
一度目の揺れが止まり、従業員の安否確認をしようとしたとき、二度目のさらに大きな揺れに襲われました。
どちらもそれまの人生で体験した事が無い、巨大な揺れでした。

程なくして津波警報が発令され、私は近くの高台に避難しました。
回りには同じ様に避難してきた人・人・人。
皆、着の身着のままの格好です。
3月でも冷え込む中、降り始めたみぞれは私達の体力を少しずつ奪って行きました。

きっと大丈夫。
前の三陸沖地震でも大丈夫だった。
私の周りで年配の方々は、口をそろえて話しあっていました。
防災無線からは津波注意の声。
私も周りの人々も、家族への安否連絡のため携帯電話をかけようとしていましたが、回線がパンクしていて、なかなか繋がりません。

やっと実家の母に電話が繋がり、大丈夫と伝えた時、防災無線から津波の高さ予想が発表されました。
『津波の予想高さ10m』私は耳を疑いました。
私達が居る高台はせいぜい8m 程です。
10m の津波なんて到底助かりようが有りません。
私はあの時、初めて死を意識し、そして覚悟を決めました。

多分、母にかけていた電話の声は震えていたでしょう。
私は最悪の事態も有りうる事、私に万が一の事が起こり、私の飼い猫が助かった場合猫の事を頼み、これ迄の感謝を母に告げ、最後まで生きる為に足掻く事を約束して、電話を切りました。

高台では少しでも高い場所へと人が殺到しています。
一人の男性がその様子を制し、赤子連れ、子供、老人を優先に高い場所を確保出来るように呼び掛けています。
さすが日本人です。
その男性に従い、皆場所を譲ります。
第一波到達。
第二波到達... 津波の到達が度々報告されるなか、私は自分達の避難場所に津波が来ない事を不思議に感じました。
その時津波は湾の入り口にいた私達の場所ではなく、湾の奥にある市街地に、濁流となってなだれ込んでいたのです。

夕闇が降り始め、津波が高台まで来ないと判断した私は、帰宅するためのルートを考え始めました。
幸い、会社に置いてきた車は無事。
丘と山を抜けて行けば... 猫の安否が気がかりで、私の頭には避難所へ向かうという選択は有りませんでした。
真っ暗になった道を車のライトだけで走りました。
電気も止まっていて、左右は全く見えません。
道は、でこぼこの起伏があり、さらには道路を一本違えたら津波に遭遇するという、恐怖の中を運転しました。

実際、水没した道路を確認する度に、迂回しながら、ようやく自宅(高台にあるマンション6階)にたどり着き、怯えていた愛猫をみたとき、緊張の糸が切れて涙が溢れ出て止まりませんでした。

翌日、変わり果てた町を歩き会社に行きました。
市街地では2m 以上の浸水。
港には打ち上げられた大型漁船。
えぐられた堤防。
傾いた道路。
津波で流され重なった車。
倒壊した建物。
これ迄当たり前だったものが、自然の猛威の前ではこうも脆いのか...

それから3週間、水・電気の使えない生活(ガスは使えました)を送りました。
猫と居るため避難所に行かなかった私は、露店のような仮設の戦後闇市みたいな店舗(お値段は2~3倍です)で食料を買い、ガスや塩で保存食を作り、細々と生活していきました。

オチも何も有りません。
失ったもの、得たもの、変わったもの、私の中でいろいろあります。
たかがこの程度ですが、最後まで読んで下さった方々に感謝を致します。

震災の話は、被災地に居る限り話す事は無いと思うし、話すべきで無いとも思います。
でも誰かに聞いて欲しいと思う矛盾も抱えてます。
ですから少しだけ?お話ししました。

今では、少しずつですが、海岸沿いにも家が建って来ました。
日本人は強いです。
三陸の基幹産業は漁業です。
行政の復興は少しも進まない中でも、漁師さん中心に被災者の皆は必死に頑張っています。

緊急セットは必ず準備しておいて下さい。
私は震災以降、3日分位の私の食料と2週間位の猫の食料を常備してます。
いざというときの為に是非皆さんも考えて下さい。

私個人は、被災者としては、望むべくも無いぐらい恵まれてました。
家族を失わず、家を失わず、仕事も失いませんでした。
あの震災おかげで、精神的に強くもなり、また弱くもなりました。

まだまだ宮城県でも立ち直れていない人はたくさんおられます。
岩手県や福島県でも同じでしょう。
しかしながら、私は、そんな人達が前を向いて進める様に、あるいは前を向けた時のために、活気ある街に戻して行きたいと考えます。
私に出来ることはとても小さくとても少ないと思いますが、今考える事は行動することです。

『友人の体験談はこれで終わりです』

【私に何ができるのか?】

私(市良右衛門)は阪神淡路大震災の時、神戸に住んでは居ませんでした。

但馬で観る神戸のテレビ映像に「神戸は壊滅した!」と感じとったのを記憶しています。

阪神高速が潰れ、長田が炎に包まれている映像は、私の脳裏に焼き付き今でもはっきりと思い出す事ができます。

其から23年!月日が神戸を元の美しい街に戻しています。

私は、阪神淡路大震災を契機に就職をし、結婚して子どもに恵まれました。東日本大震災の時は、山陰鳥取県米子市に単身赴任しておりました。

東日本大震災が発生し、最初に見た映像は、宮城空港が津波に呑み込まれる映像でした。

未曾有の自然大災害!更には人災としか言い様のない原発事故、しかしながら、私は神戸と同じように、東北地方の復興を信じて疑いません。

日本人(ここで私が言う日本人とは、法律や書類上ではなく、この美しい山々や河、森や海に対して畏敬の念を感じる精神性を持つ人々の事です)は必ずそれを成し遂げるでしよう。

ある外国人宣教師が、自衛隊の給水を並んで列を乱さず整然と待つ被災者を「まるでキリストのパンを待つ聖者の行列がそこに有った!」と世界に配信しました。日本人の礼儀正しい精神性は美徳です。美しい山々や川、正に自然がその美徳を育んで来ました。

今正に、自分がどうなるか解らない状況に置かれた時!何を成すべきか?その答えが友人の手記の中に有ると思います。

私には何も出来そうに有りませんが、大丈夫!お友達や私の大好きな東北は、石割り桜 の様に、必ずや石を割って咲き誇ることを信じて疑いません。

私の大好きな浅田次郎の小説「壬生義士伝」の中にこんな台詞が有ります。

「ええか、みな良ぐ聞け。南部盛岡は江戸より百二十里、奥州街道の涯ゆえ、西国のごとき実りはあり申さぬ。おぬしらが豊かな西国の子らに伍して身をばたて、国ば保つのは並大抵のことではねえぞ。盛岡の桜は石ば割って咲ぐ。盛岡の辛夷は、ほれ見よ、北さ向いて咲ぐではねえか。 んだば、おぬしらもぬくぬくと春ば来るのを待つではねえぞ。南部の武士はらば、みごと石はば割って咲げ。盛岡の子だれば、北さ向いて咲げ。春に先駆け、世にも人にも先駆けで、あっぱれな花こば咲かせてみよ」

私が知る東北人は、私が子どもの頃に持っていたイメージとは全く違う、ポジティブな方ばかりです。

時間は掛かるかもしれませんが、必ず復興は成し遂げられると信じております。

10年程青森に住んでおりました。私の知る東北の桜はソメイヨシノと違って緑の葉と共に花開きます。

確かに美しさはパッと花だけが咲く、ソメイヨシノにはかないませんが、力強さは東北の種類の方が格段に上だと思います。

【Ca va?】

都内にある岩手県のアンテナショップ(「Ca va?」はフランス語で「元気?」の意味!ネーミングもいいですね。)


先日こんな記事を発見しました。下の商品凄い売れ行きだそうです。ツナ缶を越えたという人気急上昇の商品、サバの苦手な人も臭みが無くて本当に美味しいそうです(それにオシャレ!)。

東日本大震災から立ち上がる意味でサヴァ缶に取り組んだのが始まり 、「Ca va?」はフランス語で「元気?」の意味、震災時に全国からもらった元気を返したいという気持ちで名づけ、2013年の発売開始以来、累計300万缶を売るヒット商品に成りました。 サバは水揚げ量が安定し、値上がりしにくいことが人気です。



【最後に一言】

P3100783.jpg
(皇后陛下美智子様の歌が刻まれた碑文、後ろは神戸市役所の展望台です。復興を遂げた神戸の街が一望できます)

『笑み交わし やがて 涙のわきいづる 復興なりし 街を行きつつ』

皇后陛下美智子様が天皇陛下と震災直後がら数回にわたり、被災地を訪問されましたが、この歌は、平成17年震災後の復興が進みつつある、被災地神戸を訪問され、現場を歩かれたとき、無数の笑みに会釈をされ、体育館の冷たい床に被災者と同じく膝をつかれて、お言葉をかけられました、その時のお気持ちを歌に詠まれ、平成18年歌会始に提出された歌です。

P3100792.jpg
(復興モニュメントの火、「1.17希望の灯り」)


「モニュメント」ご遺族やボランティアグループの方々から、「やさしさ」と「思いやり」、そして「生きている証」としての灯りを灯したいとのご提案がありました。これを受けて新たに灯りの保存施設が追加設置されることになり、「1.17希望の灯り」が誕生しました。ここには、被災10市10町を巡って運んだ種火と47都道府県から寄せられた種火を一つにした灯りが灯されています。

この灯りは被災した市民のみなさんの精神的なよりどころとなり、毎月17日には、ボランティアのみなさんが自主的に清掃などを行っています。そして、毎年1月17日には、ここから被災10市10町のみならず遠方の都市まで、震災や灯りが結ぶ絆に関連した行事に分灯され続けています。

また、震災から7年を迎えた2001年1月17日、「希望の灯り」が分灯され、市民ランナーによってこの灯りが全国69都市のみなさんへ届けられました。

「1.17希望の灯り」には碑文が刻まれ、「あの震災で亡くなった方々の命と生き残った私たちへのメッセージ」を発信し続けています。

東北で実際に被災された方々、まだまだおられる帰宅困難者の皆さんや二重のローンで頑張っておられる方々、復興の手助けをして新しい産業を企画される皆様に、遠く神戸より心からのエールを送らせていただきます。「必ず東北は復興します!」

何故日本人はこんなにも強いのでしょう。

コアなブログを長く書いてまいりましたが、なかなかアクセスアップが出来ず悩んだ時期もありました。

今後このブログをどのように運営していくのかに関しても少し考えていと思います。

いつも言っておりますように歴史ブログをやめることはありませんが、少し形を変えさせていただくかも分かりません。

いつもコメントをいただく皆様には、心よりの御礼を申し上げます。

今後とも、下手でコアな私のブログを楽しみにして頂けたら嬉しいと心より思っております。

いつも応援ありがとうございます。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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2018/11/28

「三年のご愛顧感謝します」新規ブログがテスト段階ですが始まりました。

「三年のご愛顧感謝します」ほぼ新規ブログがテスト段階ですが始まりました。

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詳細は改めてお話ししますと申しておりましたので。お知らせさせていただきます。

なお、ブログサークルでお友達に成って頂いております皆様方には、改めてこちらからお願いに上がりますのでよろしくお願いいたします。

こちらでのブログの更新は今日が最期となります。



それでは、『市郎右衛門』のブログをお楽しみください。

絶賛ランキング参加中!二つのバナータグを「 ポチっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にランクインしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。又PCの片方は、Ctrlを押しながら「ポチっと」上のバナーを押していただけますと、ブログから離脱せずに応援していただけます。



『三年間のご愛顧に感謝』


CIMG15955_20181128121505925.jpg(国宝!三徳山投げ入れ堂)


歴史好きの皆さま方、知識の点であった遠い記憶が、
ある時“ふっと”つながって一本の線に変化して、
改めて、歴史物語の本質に気が付く楽しみを体験された事は有りませんか?

私には、そんな経験が何度かありました。
その時の素晴しい感動を皆さんに伝えたくて、
書き伝えるという方法を選びました。

9年程前(2010年)仕事でストレスを抱え込み過ぎた身体が、ついに悲鳴を上げました。

一生涯付き合わなければならない「心と体の病気」にかかり、
「このままでは、命の保証は出来ない」と宣告されました。


三ヶ月の入院を余儀なくされた私は、
入院生活の間、自分の残りの人生や将来(老後)について、
深く考えるようになりました。


退院の後、リハビリや家族の支えもあって少しずつ体力回復した歴史好きの私は、
寺社仏閣巡りを始めることにしました。


神仏に頼ろうとしたわけでは無いのですが、これまで歩んできた人生をもう一度見つめ直して、
棚卸してみようと思い立ったのです。


さらに、子どもの頃からの夢だった歴史を本格的に勉強したいとも思ったのです。
天滝4
(日本100名瀑、兵庫「天滝」)


出会った自然に魅了されて、登山やトレッキングも始めました。

先日兵庫県最高峰の氷ノ山標高1510mへ登頂してきました。

7月には富士山へ登頂しました。

来年は六甲山縦走半分、再来年は全縦走を目指します。

CIMG3119_20181128121722e3e.jpg(祭りの文化にも挑戦します。)


寺社仏閣巡りや史跡・城巡りの途中で、新たに知った神話や歴史・文化・風俗、
そして地方地方の美味しく珍しい食べ物、素晴しい陶器や民芸品にも心を奪われました。

さらに、旅先で出会った人々や祭などなど、それらすべてが私には新鮮で、
“日本という国に生まれて本当に良かった”と思うことができました。

IMG_6504_20181128121717eb9.jpg
(国宝!犬山城)
P7192312_20181128125031049.jpg(国宝、松本城の美しさ)


「私は生きている!いいや生かさせて頂いている。」と思え、
日本の自然に対する感謝と祈りが、
かけがえのないものだと考えるようになりました。



是非、素晴しい日本の文化や歴史を皆さんにご紹介したい、
“その様な方法は無いのだろうか?”と、
考えるように成っていきました。

中学・高校と同級生だった俳優 今井雅之君が、
2015年5月28日に突然病気で亡くなりました。

彼の死は、勿論同級生の一人またファンの一人としても、非常に残念んでなりませんでしたし、
彼自身にはもっとやりたい仕事が数多く有ったに違いありません。



IFがあったならもっと偉大な俳優や作家となって、
多くの作品を世に生み出していた事でしょう。

しかし私は、「彼自身は自分の生きてきた人生にけっして後悔はしていないのではないか」と考えたのです。

彼は一度たりとも振り返らず、自身が選んだ道を駆け抜けたのですから。



そして、彼の様な素晴らしい人生はとても送られないかもしれないが、
私も「今日一日」を精一杯かんばって生き、

「今日はBETTERで、明日はよりBESTな一日」を目指す、
そんな人生を送りたいたいと考えるようになりました。

P5200485_20181128121719d3b.jpg(石舞台の謎にも迫る!)
P5190138_20181128125028420.jpg(箸墓古墳!美しい)


人間は、一呼吸する間にも新たな自分に生まれ変わります。
ひと呼吸前の自分にはもう戻ることは出来ないのです。

だからこそ、その一瞬一瞬を大切に生きていきたいと、考えるようになったのです。

そして何かの方法で、私の考えや自然への感謝や祈りを、
共感出来る方々へ“発信出来ないかと?”考えて、「ブログを始めてみよう」と決心しました。



当初は「何を書いたら良いのか?」「本当にこれが自分の伝えたいことなのか?」悩み、考えて苦労しました。

もちろん、私の稚拙な文章のブログなど見向きもされませんでしたし、
最初の三ヶ月はコメントも全く有りませんでした。
ユーザー数が一桁の日がずっと続きました。


ジャンルを自分の好きな「歴史」にしたことで、
歴史に興味の無い皆さんには敬遠されたのかもしれませんし、
SEO対策など知る由もありませんでした。

ランキング登録した当時は、自分のブログ名を探すのに四苦八苦しました。(笑)

CIMG0364_2018112812150884e.jpg
(当然有名人の謎にも密着しゅざいを敢行します)


ある日、「同じ但馬の出身なのですが…」と始めてコメントが来ました。

うれしかったですね~。
“こんなブログでも見てくれている人が居たんだな”と感動すら覚えました。



今では親友と言ってよいと感じるほどになった彼は、
皆さんご存知のスーパーブロガー、

本日の一杯-Cupmen review blog-の、
◝( ꒪౪꒪)◜ケケケ…のtaka:aさんです。


taka:aさんは私に、多くのブログ友達を紹介してくれました。
そのブロガー皆さんの熱意と、真摯なブログへの思いにKOされた私は、
もっともっと頑張らなければと心に誓ったのです。


私のポリシーは『フィールドワーク』です!
体験した場所・物以外は書かないことを信条にしているのです。

CIMG2608_20181128121720d30.jpg(妻木晩田遺跡の四隅突出墳丘墓!古墳じゃないのです)


当然「歴史」が基本テーマですから、実際の時代を体験することはできません。
ですからデータは、どうしてもWikipediaやパンフレット・ご由緒書きなどに頼らざるをえません、
その代わりに、私が現地で実際に感じた事や写真を皆さんにご紹介したいのです。

写真一枚撮り忘れたために、現地に二度三度と通ったこともありました。


彼らブログ友達の皆さんが居なければ、
三年間にわたってブログを書き続けることは出来なかったと思います。
taka:aさんには感謝してもしきれないほどです。

近頃は、馬肉会も二人でまったりと開催することが多く成っていますが、
いつもアドバイスを頂いてブログ制作に役立てています(本日馬肉会です)。



そんな出会いも有って、私のブログも「部門ランキング」上位に名を連ねるようになりました。
多くはありませんが、訪れてくださる皆さんも徐々に増えていきました。

稚拙なブログを訪れてくださるコアなファンの皆さんが、
『高天原の縁側日記』を支えててくださったことに、
本当に感謝しています。

「ありがとうございました。」

『高天原の縁側日記』をWordPress に移行しました


CIMG2386_2018112812150919c.jpg
(私的に一番美しいと感じる真名井神社の出雲か型狛犬)


改めて、私自身のことと共に「WordPress 」に移行する理由を、お話させて頂きます。

兵庫県北部、山陰但馬国生まれの私「市郎右衛門」が、
大好きな日本の歴史とこだわりのブログ『高天原の縁側日記』を始めたのは、
三年程前です。


「市郎右衛門」のハンドルネームを使っていますが、
市郎右衛門は室町時代から続く我が家の世襲の名前です。


当然、明治以降は普通に名字と名前があるのですが、
江戸時代以前我が家の当主は、市郎右衛門を代々名乗っていたようです。

ですから、もし江戸時代が続いていたならば、
現当主の父が18代、私が19代、私の長男が20代市郎右衛門になります。

そこでハンドルネームに「市郎右衛門」を使うことにしました。



「古い家です」などと書きますと、やんごとなき家柄?と思われたり、
有名武将の末裔?などと思われるかもしれませんが、
そんなことでも無いのです。

ただ古いだけです。
ご先祖さまかが、長く同じ場所に住み続けてくださっただけです。


ルーツについて、幾らかの推測もできるのですが、
江戸時代は小さな?庄屋を営んでいました。


このブログ『高天原の縁側日記』を書くという決心の中には、
私の古い実家(19代を名乗る我が家の家名は、室町時代以前に遡る)を守りたいとの考えも同居しています。

そのための政策として、過疎の田舎でも発信可能なインターネットを通じて、
何か出来ないか(起業したい!)と考えたのです。



最初の試みは、自分の発信力がどの程度なのか、
まず試してみようと思い立って始めたのがブログ製作です。

三年間を経過しまして、それなりの成果は出ていますが、
けして満足出来るところには行きついていません。


稚拙な文章で、皆んを退屈させいるのかも知れませんし、
そもそもテーマが万人受けしないですよね(笑)。

そこで私が選択したのが、本格的にブログ運営を学んでみる事でした。



先生に選んだのは、後でご紹介する「次世代起業セミナー」で、
断トツ トップの実績をお持ちの100%本気の起業相談室の、
ずーみーさんです。


今後の予定


CIMG9939_20181128121716f11.jpg
(平家物語の最期のシーンも再現します)
P5200586_20181128125030af9.jpg(奈良、春日大社)


とりあえずテスト投稿を始めました。
アバターなど改善はまだまだです。

先ずは新しいブログのコンセプト辺りから書き始めました。

歴史ブログを楽しく読んで頂くための工夫をしている最中です。

新しいブログに移行しましてもしばらくは、新しい記事を書かずにリブログに専念したいと思っていますが、
皆様の反応が気になりますのでコメントをいただけましたら幸いです。

どれくらい頑張れるかわかりませんが、「情報発信で起業する」という考えは変わっておりませんので、
出来る限り頑張りたいと思います。


新アカウントとブログ名は?





現在の「高天原の縁側日記」は、

もともと“神様目線で歴史を紐解く”という意図で名づけたのですが、
高天原と縁側がSEO対策では結びつかないですし、
URLの「ichirouemon19th.jp」って何?って感じですよね(-"-;A ...アセアセ

【新アカウント】https://nihon-rekishi.net

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べたですが、単純で分かりやすと思います。

99%歴史が好きになるブログ『高天原の縁側日記』今後の展開



①当然、歴史を中心に日本の文化や自然を紹介します。
②フィールドワークの柱は堅持します。
③プロの情報発信者を目指す。


amaterasu_2018112812150799e.jpg
(天照=卑弥呼?知りたいですよね)


ここで、私の尊敬する但馬の歌人「前田純孝」の歌をご紹介させていただきます。

「いくとせの前の落葉の上にまた
  落葉かさなり落葉かさなる」
 



前田純孝は明治13年(1880)4月3日、浜坂町諸寄(現新温泉町)の旧家に父純正、母うたの長男として生まれました。

余りご存知ないかもしれませんが、与謝野鉄幹に東の啄木(たくぼく)、西の純孝(じゅんこう)と並び称された明治末期の我が国の若き詩人です。

父はかつて池田草庵(いけだそうあん)の青谿書院(せいけいしょいん)の門下生で、村一番の教養人でしたが、生活力がなく前田家はどんどん落ちぶれていきました。

また、うたを正妻に迎えても愛人との関係を断つことができず、妻の親族から離婚を突きつけられ、母は村岡町の実家へ帰って行きました(純孝3歳)。

離婚すると、すぐに愛人が正妻として入り、継母と異母兄弟との生活が始まりました。

継母とうまくいかず、悲しみ多い幼児期を過ごしています。



純孝は7歳にして家族と別れ、鳥取師範付属小学校に入学します。

卒業する15歳まで一度も帰省せず勉学一途に励みました。

彼の孤独な感覚は次第に文学へと転化されていきました。



文学的才能は御影師範学校在学中から発揮され、雑誌「明星」(みょうじょう)の投稿によって、個人的感情的表現は彼の生い立ちと相まって一段と磨かれていきました。

東京高等師範学校に入学後、与謝野鉄幹・晶子らと雑誌「明星」に多くの作品を発表しています。

大阪島之内高等女学校教頭として赴任、妻信子を得てしばしの幸福感に浸りましたが、長くは続きませんでした。

純孝は過労から倒れたのです。肺結核でした。時を同じくして妻も産後の肥立ちが悪化、夫婦枕を並べての療養生活が始まりました。

妻子に迷惑をかけないように純孝は療養場所を故郷に移しました。

死の直前まで数々の学校唱歌や歌集を創作し、前田純孝は明石に残した妻子を思いながら31歳の生涯を閉じました。

(出典は但馬百科辞典を参考にさせていただきました。)

さて私がこの歌を暗記しているのは49歳で亡くなった友人んに、ひつこいくらいに教わったからでもあります。

歌碑が兵庫県美方郡新温泉町諸寄に立っています。

高校を卒業した頃に憧れの女の子と諸寄の海で初めてボートデートした記憶もあります(笑)




さて歌のように、私が死ぬまで毎年落ち葉が重なるように歴史の研鑽につとめてまいりたいと思っています。

CIMG8269_20181128125034db0.jpg(日本といえば桜)

「関ヶ原」の勝負の分かれ目は、他人のために死ぬ事の出来た三成と、自分のためだけを考えて生き抜いた家康の生への執着心の違いかもしれませんね。


三年のご愛顧感謝します.

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2018/09/11

地震・豪雨・猛暑・台風また地震、今年の漢字は二度目の「災」に決定か?歴史ブログ『高天原の縁側日記』の先行き!

私的には「大阪府北部地震」に始まり、広島や岡山に大きな被害をもたらした「平成30年7月豪雨」、記録的な「猛暑」、関西を直撃した「台風21号」。

とどめ(もう勘弁して!)北海道の地震「北海道胆振東部地震」と本当に自然災害の多い年に成っています。
被害を受けられた皆様にお見舞いを申し上げます。

毎年、年の瀬に発表される今年の漢字は、二度目の「災」に決りかもしれません。

さて、こちらでブログを更新するのも後一度か?
歴史ブログ『高天原の縁側日記』の移動が、少しずつ進んで来ましたのでご報告できる事だけ連絡したいと思います。




暴風雨直後の大地震へのお見舞い申し上げます



私的には「大阪府北部地震」に始まりました。
職場の『国立・医薬・基盤・研究所』に到着して朝のコーヒーを飲もうとした瞬間、
「ドン」と突き上げるような縦揺れとその後の横揺れにビックリさせられました。

広島や岡山に大きな被害をもたらした「平成30年7月豪雨」では、
雨によって多くの人命が失われました。

気象庁のまとめによると、
今年7月は全国の雨量観測点の1割強にあたる138地点で、
72時間降水量が観測史上の1位を更新しました。


西日本に豪雨をもたらした7月6~8日の更新が多いですね。

岡山県や広島県の多くの地点で300~400ミリ台の降水量をを記録しました。

警察庁によると西日本豪雨の死者数は225人。

総務省消防庁によると住宅被害は4万5824棟に及びます。
岡山、広島、愛媛の3県で土砂災害や浸水被害が特に多く
、生活再建はまだまだです。


梅雨が明けると今度は記録的な「猛暑」となり、
私の取材旅行中も猛烈な暑さが続きました。


実家でも夏野菜が被害を受け、
長女が毎年楽しみにしている苺の苗株にも被害を出したようです。

西日本は豪雨が明けた9日以降に梅雨明け、
それから全国的な猛暑が始まりました。


23日に埼玉県熊谷市で最高気温41.1度を記録し、
国内記録を5年ぶりに更新しました。

この7月に観測史上最高気温を塗り替えた地点は全体の1割強の113地点に上ります。

関西を直撃した「台風21号」
我が家でも、家が揺れるほどの風と雨が襲いました。


台風21号通過時の様子部屋の窓から撮影

強風による車の横転被害や関空の被害は深刻でしたが、
歴史ブログを書いている私には、


京都府での寺や神社の建物が壊れるなど文化財の被害が相次いでいて、
確認された被害は200件を越えていることが残念でなりません。


近年では類を見ない被害となり、府が全容の把握を急いでいます。


とどめ(もう勘弁して!)北海道の「北海道胆振東部地震」では、

震度7を記録し、北海道全道が停電!

震源の近くでは、すべての山々の姿が変わってしまうほどで、
死者数は41人にもおよびました。



全ての自然災害で、
お亡くなりになられ方々に哀悼の意を示すとともに、
被害を受けられた皆様に心よりの、
お見舞いを申し上げます。


「再生の古代米」を新しく生まれるに結びつく「コウノトリ育む但馬米」と食す



自然災害に打ち勝ち再生を志す気持ちをこめて、

本日の朝食に、「伯耆の国」鳥取県南部町にある、
再生・蘇りの神社「赤猪岩神社」で頂いた古代米を入れて、

こちらも生まれの象徴ともいえるコウノトリ育む「但馬米」を焚きました。

12659865456.jpeg
(器も自作!)

「赤猪岩神社」は、兄神たちが赤いイノシシと偽って転がした、
真っ赤に焼けた大岩に潰され、
命を落とした大国主が再生した伝説の残る神社です。


大国主が死を悲しんだ母神(サシクニワカヒメ)と、
二人の女神(キサガイヒメ・ウムギヒメ)の力によって蘇ったとされる日本神話。


それが「大国主再生神話」です。


その神話の舞台とされるのが、「伯伎國之手間山本(ほうきのくにてまのやまもと)」
現在の鳥取県南部町寺内地内にあり大国主を祀る「赤猪岩神社」で、

日本で唯一「再生・復活・昇運」のご利益があると言われています。


また大国主蘇生のために使用されたとする水が湧く「清水井」は、
現在でも南部町清水川市内に残っています。

このご飯の古代米は、そんな赤猪岩神社の麓にある田んぼで栽培され、
環境条件に恵まれて育ったお米です。


【あわせて読んでいただきたい】

「大国主」蘇りの神社『赤猪岩神社』

私の「心の病」再生の願いとともに、
被災地再生の願いを込めて、
新しい命とともに飛び立つこうのとり育む「コウノトリ米」とともに食しました。


一日も早い再生・復興を心より望みます。


『高天原の縁側日記』リブログ進捗状況



さて、私のブログの再生ですが、Ⅹサーバーと契約ワードプレスをダウンロードして、
テーマはダイバーを購入しました。

URLはhttps://nihon-rekishi.net    高天原日記

アッと、まだ行っても何もありません。
ワードプレス難しいので全然作業が進んでいません。


題名は前回とほぼ同じイメージです。

癒しとストレス解消の遺跡・史跡・城跡・寺社仏閣巡り
       「高天原日記」
~縄文・弥生時代から現代まで、日本の歴史と文化の旅に神様目線で旅立とう~

題名もまだ変わるかもしれません...

9月中に最初のUP7ができましたら、
勢いに乗るのではないかと考えているのですが、
先は長そうです。

ちょっぴりスランプなので珍しい写真でもご覧いただきますか?



自然災害のせいにするわけでは無いのですが、
仕事を休んでいる関係もあり、

生活のリズムを保つために、
朝にウォーキングを1時間ほど行っているのですが、

雨風で、滞りがちに成っています。


中々思い通りに行きませんね~。

珍しい写真でもお目にかけますか?
まだブログで発表していないものばかりです。

PB041441.jpg(場所は秘密!海の中に建つ鳥居)
CIMG8193.jpg(来年使われる?京都御所の高御座)
P7181610.jpg(諏訪市のマンホールには土偶のデザインが有る!)
P7171165.jpg(嫌われ者だけど美しい!富士山頂のカメムシ・笑)
DSC_0483.jpg
(知る人ぞ知る四隅突出墳丘墓、古墳じゃないところがすごい!)


ちょっとうんちく!古墳時代の墓を古墳と呼びます。
箸墓古墳(纒向古墳群を含む)以降が古墳と呼ばれているようです。

弥生時代の墓は墳丘墓です。

取材ソースはいっぱいです~。

いつも応援ありがとうございます。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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2018/08/26

「のご愛顧に感謝」歴史ブログ『高天原の縁側日記』をWordPress に移行、リブログ予定!

歴史ブログ『高天原の縁側日記』を始めて2年10ヶ月が経過しました。この度『高天原の縁側日記』をWordPress に移行してリブログするとともに、新たな形でブログを継続することにしました。

三週間にもわたりブログを更新しなかったのも、悩みながら色々と研究を重ね考えた結果です。三週間にわたりブログを更新しなかったにも関わらず、ブログランキングの順位がそれほど変化することはありませんでした。

コアなファンの皆さんが『高天原の縁側日記』を支えててくださったことに、驚くとともに本当に感謝しています。

詳細は改めてお話ししますが、変更する事実を先ずはお知らせしたいと思います。『本当にありがとうございました。』




それでは、『市郎右衛門』のブログをお楽しみください。

絶賛ランキング参加中!二つのバナータグを「 ポチっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にランクインしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。又PCの片方は、Ctrlを押しながら「ポチっと」上のバナーを押していただけますと、ブログから離脱せずに応援していただけます。



『2年10ヶ月のご愛顧に感謝』



2年10ヶ月のご愛顧に感謝するとともに、
私が「自分の考えを皆さんに伝えたい」と考え始めた理由について、
少し書いておこうとおもいます。


歴史は、『今も執筆され続ける壮大な時の流れの物語』です。

その大河を遡り、禁断のIFを推察する、スリルに満ちたエンターテイメント、
急な流れのむこうや落差ある滝の裏、深い河淵の底や切り立った岩肌の上は、



未だ解明されない多くの謎に満ちています。
この、「大長編スペクタクルストーリー」に魅了されない人はいないですよね?(そこまで~大げさなものか~?笑)。


P7140230.jpg(本物に会いたい方々も楽しめるブログを目指します。「浜松城の歴史家 磯田道史さん監修の徳川家康(リアルすぎて怖い!)」)


歴史好きの皆さま方、知識の点であった遠い記憶が、
ある時“ふっと”つながって一本の線に変化して、
改めて、歴史物語の本質に気が付く楽しみを体験された事は有りませんか?



私には、そんな経験が何度かありました。
その時の素晴しい感動を皆さんに伝えたくて、
書き伝えるという方法を選びました。


CIMG0784.jpg(世界遺産の城も~!「白鷺城」)
CIMG7411.jpg(京都の大名所も~!「東福寺の紅葉」)
CIMG8118.jpg(国宝も~!「俵屋宗達の風神雷神図」)
CIMG7524.jpg(竹下夢二が通った祇園のグルメも~!「八坂神社隣の有名甘味店」)


【生きているぞ~!】


9年程前(2010年)仕事でストレスを抱え込み過ぎた身体が、ついに悲鳴を上げました。

一生涯付き合わなければならない「心と体の病気」にかかり、
「このままでは、命の保証は出来ない」と宣告されました。


三ヶ月の入院を余儀なくされた私は、
入院生活の間、自分の残りの人生や将来(老後)について、
深く考えるようになりました。



退院の後、リハビリや家族の支えもあって少しずつ体力回復した歴史好きの私は、
寺社仏閣巡りを始めることにしました。


神仏に頼ろうとしたわけでは無いのですが、これまで歩んできた人生をもう一度見つめ直して、
棚卸してみようと思い立ったのです。


さらに、子どもの頃からの夢だった歴史を本格的に勉強したいとも思ったのです。

出会った自然に魅了されて、登山やトレッキングも始めました。


CIMG8628_2018071222464198f.jpg(子どもたちと登山した、大山山頂)
大山の高山植物4(大山の美しい高山植物)



寺社仏閣巡りや史跡・城巡りの途中で、新たに知った神話や歴史・文化・風俗、
そして地方地方の美味しく珍しい食べ物、素晴しい陶器や民芸品にも心を奪われました。

さらに、旅先で出会った人々や祭などなど、それらすべてが私には新鮮で、
“日本という国に生まれて本当に良かった”と思うことができました。



「私は生きている!いいや生かさせて頂いている。」と思え、
日本の自然に対する感謝と祈りが、
かけがえのないものだと考えるようになりました。



是非、素晴しい日本の文化や歴史を皆さんにご紹介したい、
“その様な方法は無いのだろうか?”と、
考えるように成っていきました。

【今井雅之君の死】


_29MD005_[1]
(こちらで十分頑張ったのに、天国での舞台でも頑張ってるのかい!)


そんな時、中学・高校と同級生だった俳優 今井雅之君が、
2015年5月28日に突然病気で亡くなりました。

皆さんもご存知だと思います。

彼の死は、勿論同級生の一人またファンの一人としても、非常に残念んでなりませんでしたし、
彼自身にはもっとやりたい仕事が数多く有ったに違いありません。



IFがあったならもっと偉大な俳優や作家となって、
多くの作品を世に生み出していた事でしょう。

しかし私は、「彼自身は自分の生きてきた人生にけっして後悔はしていないのではないか」と考えたのです。

彼は一度たりとも振り返らず、自身が選んだ道を駆け抜けたのですから。



そして、彼の様な素晴らしい人生はとても送られないかもしれないが、
私も「今日一日」を精一杯かんばって生き、

「今日はBETTERで、明日はよりBESTな一日」を目指す、
そんな人生を送りたいたいと考えるようになりました。



人間は、一呼吸する間にも新たな自分に生まれ変わります。
ひと呼吸前の自分にはもう戻ることは出来ないのです。

だからこそ、その一瞬一瞬を大切に生きていきたいと、考えるようになったのです。

そして何かの方法で、私の考えや自然への感謝や祈りを、
共感出来る方々へ“発信出来ないかと?”考えて、「ブログを始めてみよう」と決心しました。



当初は「何を書いたら良いのか?」「本当にこれが自分の伝えたいことなのか?」悩み、考えて苦労しました。

もちろん、私の稚拙な文章のブログなど見向きもされませんでしたし、
最初の三ヶ月はコメントも全く有りませんでした。
ユーザー数が一桁の日がずっと続きました。


ジャンルを自分の好きな「歴史」にしたことで、
歴史に興味の無い皆さんには敬遠されたのかもしれませんし、
SEO対策など知る由もありませんでした。

ランキング登録した当時は、自分のブログ名を探すのに四苦八苦しました。(笑)


【友達ができた~!】


DSC_0226.jpg(神様にも会いに出かけます!「出雲大社の大国主」)
P5190133.jpg(偉大な古墳も!「箸墓古墳」卑弥呼にも会えるブログを目指します。)
P5210798.jpg(大偉人も!「法隆寺」)



ある日、「同じ但馬の出身なのですが…」と始めてコメントが来ました。

うれしかったですね~。
“こんなブログでも見てくれている人が居たんだな”と感動すら覚えました。



今では親友と言ってよいと感じるほどになった彼は、
皆さんご存知のスーパーブロガー、

本日の一杯-Cupmen review blog-の、
◝( ꒪౪꒪)◜ケケケ…のtaka:aさんです。


taka:aさんは私に、多くのブログ友達を紹介してくれました。
そのブロガー皆さんの熱意と、真摯なブログへの思いにKOされた私は、
もっともっと頑張らなければと心に誓ったのです。


私のポリシーは『フィールドワーク』です!
体験した場所・物以外は書かないことを信条にしているのです。



当然「歴史」が基本テーマですから、実際の時代を体験することはできません。
ですからデータは、どうしてもWikipediaやパンフレット・ご由緒書きなどに頼らざるをえません、
その代わりに、私が現地で実際に感じた事や写真を皆さんにご紹介したいのです。

写真一枚撮り忘れたために、現地に二度三度と通ったこともありました。


彼らブログ友達の皆さんが居なければ、
2年10ヶ月にわたってブログを書き続けることは出来なかったと思います。
taka:aさんには感謝してもしきれないほどです。

近頃は、馬肉会も二人でまったりと開催することが多く成っていますが、
いつもアドバイスを頂いてブログ制作に役立てています。



そんな出会いも有って、私のブログも「部門ランキング」上位に名を連ねるようになりました。
多くはありませんが、訪れてくださる皆さんも徐々に増えていきました。

稚拙なブログを訪れてくださるコアなファンの皆さんが、
『高天原の縁側日記』を支えててくださったことに、
本当に感謝しています。

「ありがとうございました。」

『高天原の縁側日記』をWordPress に移行は何故?



改めて、私自身のことと共に「WordPress 」に移行する理由を、お話させて頂きます。

兵庫県北部、山陰但馬国生まれの私「市郎右衛門」が、
大好きな日本の歴史とこだわりのブログ『高天原の縁側日記』を始めたのは、
2年10ヶ月程前です。


「市郎右衛門」のハンドルネームを使っていますが、
市郎右衛門は室町時代から続く我が家の世襲の名前です。


当然、明治以降は普通に名字と名前があるのですが、
曽祖父は順三郎、祖父は洋一、父は重通、私は●●、おっと…笑、
江戸時代以前我が家の当主は、市郎右衛門を代々名乗っていたようです。

ですから、もし江戸時代が続いていたならば、
現当主の父が18代、私が19代、私の長男が20代市郎右衛門になります。

そこでハンドルネームに「市郎右衛門」を使うことにしました。



「古い家です」などと書きますと、やんごとなき家柄?と思われたり、
有名武将の末裔?などと思われるかもしれませんが、
そんなことでも無いのです。

ただ古いだけです。
ご先祖さまかが、長く同じ場所に住み続けてくださっただけです。


ルーツについて、幾らかの推測もできるのですが、
江戸時代は小さな?庄屋を営んでいました。


CIMG7483.jpg(WordPress に移行は清水の舞台から飛び降りたつもりで~!「清水寺」)


このブログ『高天原の縁側日記』を書くという決心の中には、
私の古い実家(19代を名乗る我が家の家名は、室町時代以前に遡る)を守りたいとの考えも同居しています。

そのための政策として、過疎の田舎でも発信可能なインターネットを通じて、
何か出来ないか(起業したい!)と考えたのです。



最初の試みは、自分の発信力がどの程度なのか、
まず試してみようと思い立ったて始めたのがブログ製作です。

2年と10ケ月を経過しまして、それなりの成果は出ていますが、
けして満足出来るところには行きついていません。


稚拙な文章で、皆んを退屈させいるのかも知れませんし、
そもそもテーマが万人受けしないですよね(笑)。

そこで私が選択したのが、本格的にブログ運営を学んでみる事でした。



先生に選んだのは、後でご紹介する「次世代起業セミナー」で、
断トツ トップの実績をお持ちの100%本気の起業相談室の、
ずーみーさんです。


ずーみーさんにコンサルして頂いたことで、
前回のブログがかなり改善されたことが、お解り頂けましたでしょうか?

【比べてみてください】

①神々をね訪ねて「出雲大社」を歩く!スピンオフ『天照大御神は卑弥呼なのか?』
②源氏と平氏はどう違う?征夷大将軍は源氏しか成れない?清和源氏発祥の地「多田神社」を訪ねて。


明らかに、シンプルで読みやすくなったと思いませんか?(笑)



そして私の弱点でもある、SEO対策を完璧なものにする為に、
『高天原の縁側日記』をWordPress に移行、りブログすることにGOサインを出していただきました。

AMP対応や集客・SSL対応にも有利ですね。


今後の予定




今後の予定についてですが、
今日このブログをアップして、エックスサーバーを契約しアカウントを決めた後、
ご報告を兼ねてこちらのブログで、詳細をご報告させていただきます。

次に、新しいブログのプロフィールを書き込むために少し時間をいただきます。
さらにライバル研究の観点から自分の上位のランキングのブロガーさん方を、
研究したいと考えています。



新しいブログに移行しましてもしばらくは、新しい記事を書かずにりブログに専念したいと思っていますが、
皆様の反応が気になりますのでコメントをいただけましたら幸いです。

それではもう少しお時間を頂きますが、
ブログ移行に向けて頑張りたいと思いますので、よろしくお願いいたします。



どれくらい頑張れるかわかりませんが、「情報発信で起業する」という考えは変わっておりませんので、
出来る限り頑張りたいと思います。


CIMG7742.jpg
(季節を問わず!「雪の銀閣」)
P7171141.jpg(地の果てまでも行きます。「富士山山頂」)


次のブログのサーバー契約は今月中に終わるとおもますので、
次ブログのご紹介も、今月中にさせて頂けると思います。


新アカウントとブログ名は?



エックスサーバーを使用予定です。
新アカウントは未決定ですが、
現在の「高天原の縁側日記」は、

もともと“神様目線で歴史を紐解く”という意図で名づけたのですが、
高天原と縁側がSEO対策では結びつかないですし、
URLの「ichirouemon19th.jp」って何?って感じですよね(-"-;A ...アセアセ


癒しとストレス解消の遺跡・史跡・寺社仏閣巡り
       「高天原日記」
~縄文・弥生時代から現代まで、日本の歴史と文化の旅に神様目線で旅立とう~


こんな感じになると思います。
べたですが、単純で分かりやすと思います。


IMG_6110_20180826133502cd0.jpg
(神跡「黄泉平坂」、黄泉の国の入り口までもまいります)



『高天原の縁側日記』今後の展開



PA140624_20180712224644978.jpg(戦場だとて参ります、関ケ原・石田三成の陣地)



①当然、歴史を中心に日本の文化や自然を紹介します。
②フィールドワークの柱は堅持します。
③プロの情報発信者を目指す。



ここで、私の尊敬する人物を一人ご紹介させていただきます。

上杉鷹山[1]
(尊敬する日本人の一人上杉鷹山公)



私が最も尊敬する歴史上の人物『上杉鷹山』をご紹介します。
もちろんお会いしたことは無いので、藤沢修平の歴史小説「漆の実のみのる国」からお話をさせていただきます。


まずその前に、“うんちく自慢?”から失礼します(笑)。
J・F・ケネディご存知ですよね、「アメリカ35代大統領」です。

JFKと短縮記憶していませんか?
「ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ」が本名なんですよ、知ってましたか?


1961年、アメリカ35代大統領に就任したJ・F・ケネデ ィは、
日本人記者団からこんな質問を受けました。



「あなたが、日本で最も尊敬する政治家はだれですか?」ケネディはこう答えました。
「上杉鷹山(ようざん)です。」

記者の誰もが「上杉鷹山」を知らなかったといわれています。
“そんなわけ無いだろう”と思うのは私だけかもしれません。


この話は大統領が本当に「上杉鷹山の名前を明言した!」の言った?言わない?で、
都市伝説の様になっていましたが、
2013年11月に娘のキャロライン・ケネディ元駐日大使が、


「父が、米沢藩の名君上杉鷹山を尊敬していて、あの有名な就任演説、
『国が人民になにができるかではなく、貴方が国家に対してなにができるか考えてほしい!』の
スピーチ作成に影響を与えました。」

と発言して、都市伝説に終止符が打たれました。



『上杉鷹山』と言えば、
「為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり」
(やればできる。やらなければできない。何事も、できないのは人がやらないからだ)の名言で有名ですよね。

上杉治憲(鷹山)と重臣たちの苦闘を描いた藤沢修平絶筆の歴史小説
「漆の実のみのる国」を是非読んでください。



財政に窮乏し、風紀は乱れ、亡国の危機にある名門上杉家(上杉謙信以来の名門)
米沢藩を再興するべく並々ならぬ努力を重ねる治憲。

長い辛苦の中に見える未来への光が感じられたにもかかわらず、
彼らの苦闘が報われ、藩の窮乏から脱する様子が描かれていないことは残念でした。


作者、藤沢修平の病魔が直ぐそこまで来ていたのでしょう。
藩の困窮を救うはずだった漆の実とは、優秀な人材だったのではないでしょうか?



藩政改革から殖産振興に至るまでを示した、
十六ヶ年組立と呼ばれる改革案(寛三の改革)を治憲に提出するまでを描き、
鷹山と改名した治憲が、漆の実が藩の窮乏を救うという心躍った過去を思い返すところで幕が閉じられています。

解説によると、この三十七章が原稿用紙六枚分で終わっているのは、
これが著者藤沢周平最後の原稿だからだそうです。



本来なら、あと四十から六十枚の予定だったといいますから、
著者は光を浴びた米沢藩を描きたかったに違いない、と考えられています。




さて、新しく?より分かりやすいブログの作成に取り掛かります。

もちろん今後はこれまで恐れ多くて避けていた歴史や史跡にも挑戦します。
ブログ仲間に負けないように、

今井君にも上杉鷹山にも負けないように頑張りますので、
もうしばらくお待ち願います。


「為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり」

P1080087.jpg(妖怪のように歴史・文化・風土を食べつくす所存!笑、よろしくお願い仕りまする。)


いつも応援ありがとうございます。歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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2018/08/08

源氏と平氏はどう違う?征夷大将軍は源氏しか成れない?清和源氏発祥の地「多田神社」を訪ねて。

「源氏と平氏はどう違うの?」「なぜ、征夷大将軍は源氏しか成れないの?」「源朝臣徳川次郎三郎家康ってどいうこと?」の謎を求めて、清和源氏発祥の地「多田神社」にお詣りしてきました。

子ども・孫代で臣籍降下すると源氏を名乗り、の曾孫の代で臣籍降下すると平氏に成ります。

「征夷大将軍は源氏しか成れない」は嘘だった、鎌倉幕府の4代・6代将軍は藤原氏でしたし、平氏である織田信長も、望めば征夷大将軍に成れたはずなので、源氏以外でも将軍になれるのは間違いありません。                             

徳川家康は先祖を清和源氏の新田氏だと称していました。 朝臣はもともとは「八色の姓(カバネ)」のひとつでしたが、やがて「五位以上の貴族が名乗れる尊称」というべきものになっていきました。
答えが出ちゃいましたが(笑)丁寧に「多田神社」 をご紹介しましょう。




【プロローグ】源氏と平氏はどう違う?



先ず、姓(かばね)について少し説明しましょう。
姓は現在現在私たちが名乗ってる姓(氏・名字)とは違うものです。

姓(かばね)は天皇が臣下に与える姓の事で、代表的なものの一つとして源平藤橘を「四姓」と呼びますが、そのほかにも姓は沢山あります。清原、菅原、高階、大江、大伴(伴)、紀、安倍、などです。
豊臣秀吉の豊臣もそうでしたね。

姓について簡単に説明すると、姓「天皇からもらったもの、朝廷での役職や地位をあらわすもの」、氏「古代日本で親族ごとに集団を作っていた残りの呼名や氏族」、名字「自由に付けていいもので、氏が分家したときに区別に使ったり、武士が増えてきて自分の支配する地名を名字にして所有権を表したものです。
一般的には、明治になって法令によって定められました。

平民苗字必称義務令(へいみんみょうじひっしょうぎむれい、平民苗字必唱義務令・太政官布告第22号)は、1875年(明治8年)2月13日公布で、すべての国民に苗字(名字・姓)を名乗ることを義務付けました。

江戸時代まで、日本において公的に苗字を使用したのは、原則として、公家及び武士などの支配階層に限られ、一種の特権とされていました。
明治維新により、従来の身分制度の再編が図られ、明治3年9月19日(1870年10月13日)に「平民苗字許可令」(明治3年太政官布告第608号)が発布されました。
この布告では初めて「平民」の語を用いて、華族及び士族(この両者は公家・武士の家柄がほとんどですが)に属さない平民に「苗字」の使用が許可されました。

しかし、当時の国民(平民)の中には、「課税されることを恐れて届け出が少なかったり」「めんどくさい・・・おらは団子屋の市さんでいいや」と、あえて苗字を使用しない人も多かったので、1875年(明治8年)に改めて名字の使用を義務づける「苗字必称義務令」が発令され、すべての人々が名字を名乗ることに成りました。

P7150627.jpg
(JR川西池田駅にある。清和源氏の祖、「源義仲」の像。)

かなりややこしくなってきましたので、具体例を出してみたいと思います。
「織田信長」さんと「徳川家康」さんにお願いしましょう。
正式名は「平朝臣織田三郎信長」と「源朝臣徳川次郎三郎家康」です。
この場合、「織田信長」さんは氏姓・平朝臣、名字・織田、通称・三郎、 実名・信長、「徳川家康」さんは氏姓・源朝臣、名字・徳川、通称・次郎三郎、 実名・家康に成ります。

信長が平氏だったので、部下の秀吉は同じく平氏姓を名乗ったために征夷大将軍に成れなかったといわれていますがそんなことはなかったはずです。
戦国時代には、清和源氏の末裔を称して家格を誇張する者も出てきました。
清和源氏を称している近世大名の多くは、その事実が歴史学的に証明されたわけではありません。

さらに、藤原頼経(第4代征夷大将軍)といった先例が存在し、織田信長も征夷大将軍に就任する可能性がありました。
武家伝奏の勧修寺晴豊が京都所司代・村井貞勝と懇談し、信長が征夷大将軍・太政大臣・関白のうちどれかに任官することが、朝廷側もしくは信長側から提案されています(三職推任問題)。

さてお題に戻って、平安時代以降臣籍降下が頻発して源・平の二姓ばかりになって来ます。
最近の研究で「一世王(子ども)、二世王(孫)が源、三世(曾孫)以降が平」だった事が判明しています。
源姓(本姓が源氏)の家系はそれぞれ別の苗字を号しているため、現在「源」を今日的な意味の姓(名字)として名乗る例は少なく(それでもいるんですね)、推定人口は4000人程だそうです。

平安時代以降は、皇族の分家はおおむね「源」か「平」になり、その家の開祖となる天皇の名前をつけて呼ばれます。
例として、平将門・清盛らの「桓武平氏」、源頼朝・義経らが「清和源氏」などになります。

一世(天皇の子)のうち、母親の身分が低くて皇族扱いされない「庶子」は、源氏を名乗ることになります。
嵯峨源氏の源融(みなもとのとおる)、醍醐源氏の源高明(みなもとのたかあきら)などがその例となります。

二世(天皇の孫)でも、天皇にならない親王から生まれた子は源氏です。
清和天皇の孫は源経基(みなもとのつねもと、源満仲の父ですね)と呼ばれ、この人が源頼朝らのご祖先に成ります。

平氏は三世(天皇の曾孫)以降が名乗ります。桓武天皇の曾孫は高望王(たかもちおう)と呼ばれますが、この人が最初に平氏を名乗り、桓武平氏となりました。
高望王は平清盛の祖先に成ります(ちょっと難しくなりましたね…今回は少し難しいです。)。

清和源氏って何?



源氏には祖とする天皇別に21の流派(源氏二十一流)があり、清和源氏(せいわげんじ)はそのうちの一つで清和天皇から分かれた氏族です。

清和源氏は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つで姓(カバネ)は源朝臣です。

清和天皇の皇子のうち4人、孫の王のうち12人が臣籍降下して源氏を称しています。
一般に武家として知られる清和源氏の起源は、清和天皇の第六皇子貞純親王の子である経基王(六孫王)が臣籍降下により源姓を賜り源経基と名乗ったことに遡り、子孫が著しく繁栄しました。

中級貴族であった経基の子・源満仲(多田満仲)は、藤原北家の摂関政治の確立に協力して中央における武門としての地位を築き、摂津国川辺郡多田の地に武士団を形成しました(分家に摂津源氏・大和源氏・河内源氏などが有ります。)。

そして彼の子である頼光、頼親、頼信らも父と同様に藤原摂関家に仕えて勢力を拡大していきます。
のちに主流となる頼信流の河内源氏が東国の武士団を支配下に置いて台頭し、源頼朝の代に武門の棟梁として鎌倉幕府を開き、武家政権を確立しました。

その後の子孫は、嫡流が源氏将軍や足利将軍家として武家政権を主宰したほか、一門からも守護大名や国人が多く出ます。

経基王については、貞純親王の子ではなく貞純親王の兄陽成天皇の子・元平親王の子であるとする陽成源氏説がありますが、
この出自論争は実証ができずに決着はついていません。

P7150742.jpg(橋を渡るとすぐに多田神社、神社側から撮影しています。)
P7150748.jpg(静かな構えです。)

武士団の形成と武力による時代形成・平安時代



経基の名跡を継いだ源満仲は藤原摂関家に仕えて各地の受領を歴任、摂津国川辺郡多田(現 兵庫県川西市多田)を本拠地として源氏武士団を形成しました。

酒呑童子退治などで有名な満仲の長男・源頼光も摂津国に拠点を置いたことから、摂津源氏と呼ばれる武士団を形成しています。
摂津源氏の中でも本拠である多田を継承した嫡流源頼綱(頼光の孫)の系統を多田源氏といいます。

満仲の次男・源頼親の系統は大和国宇野(現奈良県)を本拠地としたことから大和源氏と呼ばれる武士団を、三男・源頼信の系統は河内国壷井(現大阪府羽曳野市壷井)を本拠としたことから河内源氏と呼ばれる武士団が形成されました。

源満仲の子の中でも特に三男の源頼信(河内源氏)は、長元元年(1028年)房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で起きた平忠常の乱(長元の乱)を平定するなどの武功をあげます。

また頼信の子・頼義は康平5年(1062年)から陸奥国奥六郡に蛮拠する俘囚の長・安倍氏を討ち(前九年の役)、頼義の子・八幡太郎義家は、同族の源国房、源重宗と合戦を繰り広げ、寛治元年(1087年)には出羽国の俘囚長・清原氏の内紛を収めて(後三年の役)声望を高め、頼信流の河内源氏は東国に足掛かりを持つようになりました。

河内源氏はこのように武名を上げ、それまでの清和源氏庶流であった地位から嫡流の地位を事実上占めるに至ります。
このような興隆は時の権力者白河法皇の警戒を招き、河内源氏は抑圧されています。

河内源氏が摂津源氏のように京都を活動舞台にせず板東を拠点としたのは、兄の源頼光、源頼親が藤原道長に側近として仕えたのに対し、頼信は上野介や常陸介など遠方で収入の少ない東国受領となっていたからです。

しかし、上記のように武功を重ね、義家、義綱(美濃守)、義光(新羅三郎)兄弟の頃には清和源氏最大の勢力となっていました(しかし、義家と義綱の仲は悪く、義綱は中央で昇進を重ねます。)。
この頃から、源氏庶流は国の下級官人を辞し、地方の荘官などとなることにより勢力を築いていきました。

しかし、義家の晩年に次男の義親が朝廷に反抗したため義家は苦境にたたされ、河内源氏に陰りが見え始めます(義家の長男は早世していた)。
また、弟の新羅三郎義光(常陸源氏、甲斐源氏の祖)と四男の荒加賀入道義国(上野源氏、下野源氏の祖)が嘉承元年(1106年)に常陸合戦を引き起こし、両者が勅勘を受けてしまいます。

さらに天仁2年(1109年)、義家の死後に家督を継承し栄名を誇った、義家の三男源義忠が暗殺され、当初事件の主犯とされた弟の義綱(美濃守)が、白河法皇の命を受けた源義親の子源為義と源光国(美濃源氏)の討伐を受けて壊滅しています。
また事件後真犯人が新羅三郎義光であったことが明らかになるなど、河内源氏内部の分裂は明白になり、権勢はしばらく失墜してしまいます。

この背景には、河内源氏が拠り所にしていた摂関家の摂関政治から、白河法皇の院政への移行があったことが原因として挙げられます。

P7150753.jpg(史跡多田院の文字がありました。神社らしくないかな?)


清和源氏発祥の地「多田神社」を訪ねて





P7150760.jpg(多田大権現!神社ですね。)


「多田神社(ただじんじゃ)」は兵庫県川西市に在り、多田院として国の史跡に指定されています。
元々多田院という天台宗の寺院でした。
六孫王神社(京都府京都市南区)、壺井八幡宮(大阪府羽曳野市)とともに「源氏三神社」の1つに数えられます。

「多田神社」は摂津国に位置しており、清和源氏や多田院御家人発祥の地です。
この地に館を構えた清和源氏の祖摂津守源満仲によって天禄元年(970年)に満仲の子源賢を開山とする天台宗寺院・多田院鷹尾山法華三昧堂(通称多田院)が建立されました。
満仲は自らの館と多田院を中心として多田荘の開発に勤しんだといわれています。

本尊の丈六釈迦如来像は満仲、文殊菩薩像は満仲の長男源頼光(但馬国司にもなっているので頼光ファンです。)、普賢菩薩像は次男源頼親、四天王像は三男源頼信がそれぞれ願主となって作られました。

平安時代の長徳3年(997年)8月27日に源満仲が亡くなると多田院に葬られ、新たに廟所と満仲像を祀る御影堂が建立されました。
なお、満仲の廟所はまれに「多田院鳴動」といって大事件の前触れとして廟が震えることがあったとされます。

以後は清和源氏の霊廟とされましたが、戦乱や災害などにより次第に衰微していきました。
しかし、鎌倉時代に幕府からの命令で文永10年(1273年)に西大寺の忍性が造営奉行に任じられ、ようやく再興します。
そしてこれにより宗旨は天台宗から真言律宗に転じ、やがて源頼光も祀るようになっています。

P7150766.jpg(鳥居が見えてやっと神社の趣、武門の社らしい清々しさです。)
P7150819.jpg(狛ちゃんも武骨な感じです。)

室町時代に入ると、清和源氏である将軍足利尊氏の崇敬もあって栄えます。延文3年(1358年)には将軍足利義詮によって尊氏の分骨が多田院に納められます。これ以降歴代足利将軍の遺骨が分骨されています。

戦国時代の天正5年(1577年)には織田信澄の軍勢によって社殿が焼失しましたが、江戸時代にも清和源氏を称した徳川家から崇敬され、寛文7年(1667年)、将軍徳川家綱によって本殿、拝殿、随神門などが再建されました。
さらに将軍徳川綱吉によって満仲に贈正一位多田大権現の神号が送られると、次第に多田院は寺から神社の色合いが強くなっていきました。

P7150815.jpg(拝殿もさっぱりとしています。)
P7150797.jpg(清和源氏の紋といえば、笹竜胆「ささりんどう」。)

【最後に一言】その後の源氏


P7150818.jpg(廟とかは見られませんでした。しっかりお詣りしてきました。)

治承4年(1180年)、平氏政権での皇位継承の不満から反乱を企図した以仁王に源頼政(摂津源氏)が協力する「以仁王の挙兵」が起こります。

この乱は失敗に終わりますが、熊野に潜んでいた義朝の弟の源行家らが以仁王の令旨を全国に伝えると、河内源氏の源頼朝、源希義(土佐冠者)、源範頼、源義円、源義経ら兄弟や、源義朝の弟の源義賢の子であり、頼朝の従兄弟にあたる源義仲(木曾次郎義仲)、源義光の子孫の武田信義・安田義定(甲斐源氏)、山本義経・柏木義兼(近江源氏)、義国の子孫の足利義清(下野源氏)、新田氏庶流の山名義範、里見義成、そして新田義重(上野源氏)、摂津源氏では、源頼綱を祖とする嫡流多田行綱(多田源氏)、源頼綱の弟国房を祖とする源光長(美濃源氏)、大和源氏では、源親治らが各地で挙兵し、俗に源平合戦と呼ばれる治承・寿永の乱が発生します。

当初は平家が源氏を圧倒していましたが、次第に形勢が逆転して平家は源義仲に京都を追われることになります。
その後、源義仲軍と源頼朝軍・平家の三つ巴となりましたが、最終的に頼朝軍が圧倒し、寿永3年(1184年)に粟津の戦いで義仲軍を、元暦2年(1185年)に壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼして頼朝軍が勝利しました。

平家の追討に成功した頼朝は、乱の中で他の源氏一門(源義広・佐竹秀義(常陸源氏)、新田義重(上野源氏)、武田信義(甲斐源氏)、多田行綱(多田源氏)、弟の源義経・源範頼)を滅亡や衰退させ、奥州藤原氏を討ち勢力基盤を固めます。

後白河法皇が崩御すると、建久3年(1192年)に征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉幕府が成立しました。
これにより、清和源氏が武家の棟梁であると名実共に認められたことに成りました。
しかし、源頼朝の系統は、頼朝の子・源実朝が兄源頼家の子・公暁に殺害されると、その公暁も殺され完全に断絶しました。

また、鎌倉幕府において源氏一門は、血統や功績などにより源姓を称することが許される「御門葉」と、源姓を称することが適わず、名字を称するものに区別されました。

御門葉には信濃平賀氏(信濃源氏)、大内氏(信濃源氏)、安田氏(甲斐源氏)、加賀美氏(甲斐源氏)などの新羅三郎義光の系統、足利氏、山名氏などの源義国の系統が名を連ねましたが、平賀氏、大内氏は、承久3年(1221年)の承久の乱により得宗家(鎌倉幕府の北条氏惣領の家系)に敗れ没落しています。

鎌倉幕府末期の混乱期に頭角を表した、源義国の次男・足利義康を祖とする足利氏の棟梁・足利尊氏は、源義国の長男・新田義重を祖とする新田義貞らの対抗勢力を打ち破り、武家の棟梁として1338年に征夷大将軍に任じられ室町幕府を開きます。

足利義満は清和源氏出身者として初めて源氏長者となり、その後の将軍が源氏長者となる道を開きました。
その後、尊氏の子孫は鎌倉公方、古河公方、小弓公方、堀越公方、堺公方、阿波公方などに別れて勢力を伸ばします。

また、足利氏庶流で「御一家」とされた吉良氏・渋川氏・石橋氏や、「三管領」の斯波氏・細川氏、「四職」の一色氏の他、山名氏(新田氏庶流)、土岐氏(美濃源氏)が中央で台頭し、地方では九州探題や駿河・遠江守護を歴任した今川氏(吉良氏庶流)、奥州探題の大崎氏(斯波氏庶流)、羽州探題の最上氏(斯波氏庶流)が勢力を伸ばしました。

このように軍事力を背景にする清和源氏は、鎌倉時代・室町時代・江戸時代と長きにわたって時代の主流を進むことに成りました。

さてそれでは、現代の源氏長者は誰でしょう?愛子内親王が誕生された数日後の儀式に、武家代表として徳川宗家当主の徳川恒孝氏と加賀前田家当主の前田利祐氏がよばれて、武家末裔代表として儀式に参加しています。

この事から朝廷はいまも武家筆頭は徳川宗家と認識しているという事になり、武家筆頭は徳川恒孝氏と考えられます。

ちなみに、徳川恒孝さんですが、2代将軍徳川秀忠の四男保科正之を家祖とする会津松平家の家系で、徳川宗家に養子に入られています(驚)。

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