2017/10/12

伝説と歴史に彩られる『瀬田の唐橋』①

今日は日本三名橋の一つ、瀬田唐橋(滋賀県大津市/瀬田川)をご紹介する予定なのですが、日本三名橋については、まず日本橋(東京都中央区/日本橋川)、錦帯橋(山口県岩国市/錦川)、眼鏡橋(長崎県長崎市/中島川)という意見があります(瀬田唐橋入っていない)。

さらには今回の瀬田唐橋(滋賀県大津市/瀬田川)、二重橋(東京都千代田区/皇居の濠)、三条大橋(京都府京都市/鴨川)の意見やウィキトラベルだと、三奇橋として錦帯橋(山口)・猿橋(山梨)・かずら橋(岩国)が選ばれています。

さて今回は歴史に基づいて、日本三古橋の宇治橋(京都府宇治市/宇治川)、山崎橋(京都府八幡市・大山崎町/淀川)、と瀬田唐橋を、日本三大橋と理解して、ご紹介したいと思います。
ちなみに山崎橋(やまさきばし)は、かつて山城国山崎–橋本間(現在の京都府乙訓郡大山崎町–八幡市橋本間)で淀川に架かっていた橋です。日本三古橋の筆頭として、山崎太郎と呼ばれましたが、現在は存在していません。

PA080294.jpg(瀬田の唐橋、ボートが行き交う優雅ですね。)


それでは、滋賀県大津市にある、瀬田川にかかる橋、瀬田の唐橋をご紹介しましょう。

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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【その前に(まだあるのかい)自慢話を一つ】

(是非ご覧ください)

昨夜Facebookのお友達にはお知らせしたのですが、ブログランキングの「ブログ村」日本史部門で初めて一位を獲得しました~(喜)もちろん一日だけです。(笑)先日、現在一位の「しばやん」さん(URLをご紹介する必要もないでしょう。一位なのですからね~)とコメントでお話させていただきました。ブログがとても素晴らしいのはもちろんですが、人柄や知識にも圧倒されました。
とてもじゃないが、私の様な文章も書いた事のない、理系の人間が追いつけるレベルではありえないと思っておりました。

しばやんさんから「素敵なブログを書かれますね」とコメントされた時には、お世辞とわかっていながらうれしくてふるえてしました。そのトップブロガーさんにたとえ一日でも追いつけたことは、大きな自信につながりました。二年間ブログを書いて来てこれほど諦めなくてよかったと思った日はありませんでした。

これもひとえに、応援してくださった皆様と、支え・励まし・教授してくれた。ブログ仲間の皆さんのおかげです。これからももっともっと努力して、今回のように一日天下ではない一位を目指しますので、これからもよろしくお願いいたします。

【瀬田の唐橋(せたのからはし)に話を戻して~】



PA080303.jpg(中州が有るので、長い橋と短い橋が有ります。こちらは短い方)
PA080322.jpg(信号までの長さです交通量も多いですね。)
PA080343.jpg(下から撮影すると風情が無いですね~コンクリート橋)
PA080346.jpg(ビニール袋はゴミ箱に捨てようね、水草があります。バリスネリアか!和名はとちかがみだったかな?)

瀬田の唐橋(せたのからはし)は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる橋の名前です。全長260m。滋賀県道2号大津能登川長浜線がこの橋を通過しています。「勢多の唐橋」とも書かれ、「瀬田の長橋」とも言われています。

京都の宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋・日本三大橋の一つとされてきました。また、1986年(昭和61年)8月10日の道の日に、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定されました、「日本の道100選」にも選ばれています。

【歴史と伝説「古代から室町」】

PA080308.jpg(こちらは長い橋です。瀬田川の文字ですね。)

戦国時代から現代までは次回のお楽しみです。立地ですが、東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡るか、もしくは南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要があります。1889年(明治22年)まで瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は、交通の要衝であり、京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われて来ました。実際に唐橋を舞台として繰り広げられた、「壬申の乱(672年 )」、寿永の乱(1180年から1185年)、承久の乱、建武の乱(もしくは、延元の乱・1336年4月11日)など、昔から様々な戦乱に巡り合ってきました。

本格的には近江大津宮遷都の時に架橋されたと考えられますが、当時は現在の位置より65m南の龍王社・雲住寺を東端としていたようです。

唐橋が架けられた年代は不詳ですが、神功皇后の時代にはすでにあったと考えられ、摂政元年、香坂皇子と忍熊皇子が反乱を起こしたとき。忍熊皇子は神功皇后(応神天皇の母)の家来である武内宿禰の軍に攻められ、瀬田で自害したとされます(『日本書紀』 気長足姫尊 神功皇后)。

こちらを参考にしてください。
 ①謀略の偽陵なのか?「五色塚古墳」に浪漫を求めて!

「壬申の乱(671年)」では、大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となりました。大友皇子方が、橋板をはずして大海人皇子方を待ち受けたが、突破されて滅んでいます(私的には瀬田の唐橋は城にも匹敵する鉄壁の防御力だと考えるねですが)。御霊神社(滋賀県大津に在る四つの御霊神社の内三つの主祭神は大友皇子です(『日本書紀』天武天皇&上 元年七月)。これが瀬田の唐橋の文献上に見られる初見です。。

「藤原仲麻呂の乱(764年)」孝謙太上天皇・道鏡と対立した太師(太政大臣)藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)が軍事力をもって政権を奪取しようとして失敗した事件です。または、恵美押勝の乱とも言われ、宇治から近江を取ろうとした恵美押勝に対して、孝謙上皇方は田原道(関津遺跡)を通って瀬田の唐橋に先回りし橋を焼き落とします。押勝は高島郡に走りますが、滅びてしまいました(『続日本紀』淳仁天皇天平宝字八年九月)。

【平安時代はよく焼ける木の橋ですから】

870年1月9日(貞観11年12月4日)に火事(『日本三代実録』巻十六)。871年12月19日(貞観13年11月4日)に火事(『日本三代実録』巻二九)。『延喜式』主税式によれば、近江国の国司の管理下に置かれています。近江国の正税・公廨稲から「勢多橋料」1万料が拠出され、その出挙収入によって橋の維持が行われました、橋の建て替えは朝廷への報告義務が有ったようです。

【俵藤太「藤原秀郷」の伝説】

PA080302.jpg(俵藤太大ムカデ退治伝説の看板がありました。)

「俵藤太大ムカデ退治伝説」、近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなりましたが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまいます。その夜、美しい娘が藤太を訪ねて来ました。娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で、昼間藤太が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えた姿だったのです。娘は龍神一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願しました。

藤太は美しい娘の話に快諾し(いつでも美女には弱いよね)、剣と弓矢を携えて三上山に臨むと、山を七巻き半する大百足が現れます。藤太は矢を射たが大百足には全く通じません。最後の1本の矢に唾をつけ、八幡神に祈念して射るとようやく大百足を退治することができました。藤太は龍神の娘からお礼として、米の尽きることのない俵などの宝物を贈られます。また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、討ち取ることができたといわれています(この伝説自体が「平将門の乱平定」から作られたと思って間違いないでしょう)。

【蜻蛉日記と更級日記】

PA080327.jpg(まさしく瀬田の唐橋です。)

「更級日記(竹芝伝説の章)」で、下男と帝の娘が京から武蔵国へ逃走する際、追手から逃れるため瀬田橋を破壊したとの記述があり、当時から交通の要所であったことがうかがえます(下男といえど帝の娘と駆け落ち?する度胸が有れば、橋くらいは破壊するかもしれません)。「更級日記」の作者は菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標の次女菅原孝標女で、母の異母姉は『蜻蛉日記』の作者藤原道綱母です。970年8月25日(天禄元年7月21日)に藤原道綱母(作者本人)が明け方に船で勢多橋を渡河の記録が有ります。題名は日記のなかの文「なほものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし」からつけられています。

【鎌倉・室町の戦】

治承・寿永の乱(源平合戦) 1183年(寿永元年)に源義仲対平家が戦います(ちなみに1183年は現代歴史でも鎌倉時代ではありませんが(-"-;A ...アセアセ)。『平家物語』において源義仲は、朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれています。

以仁王の令旨によって挙兵、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京します。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となります。1184年(寿永2年)に源義経対義仲の合戦があった際に、源範頼が攻める瀬田橋の橋板をはずして守っていたのは今井兼平でした。宇治で義経に敗れた義仲と合流しますが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれています。

「承久の乱」では1221年(承久3年)、後鳥羽上皇の京軍(山田次郎重忠が率いる比叡山の僧兵三百騎)と北条義時の弟・時房率いる鎌倉幕府軍が瀬田川を挟んで交戦しました。結果はご存知ですよね~。
後鳥羽上皇は隠岐島(隠岐国海士郡の中ノ島、現海士町)に配流され、隠岐島で亡くなっています。百人一首99番目の歌人「人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は」ですね。(人を愛しくも恨めしくも思う。世の中も自分の思い通りにならなくて悩んでしまう)という感じですか?ちなみに16弁の菊の御門、後鳥羽上皇が作者です。


「建武の戦い」 1336年(建武4年)、足利直義率いる足利勢と名和長年率いる朝廷軍が瀬田川を挟んで交戦。足利尊氏は南下して宇治川で楠木正成に勝利し、京都へ進攻しました(宇治川は渡河できたんですね)。

「観応の擾乱」 1350年(観応元年)12月4日、足利直義派の伊勢・志摩守護石塔頼房が上野直勝とともに近江に進出し、近江守護軍と交戦しました。その日のうちに瀬田へ進出し、唐橋を焼き払っています(観応の擾乱 、こちらは 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦いです) 。

PA080363.jpg(4人乗りルスカル、良いですね~!)
PA080335.jpg(やはりこれでなきゃね~水面も綺麗です。笑)

【最後まで戦乱】

このように、瀬田の唐橋は古代からずっと日本の栄華と衰退を見て来た橋といって過言ではありません。次回は戦国時代から瀬田の唐橋の面白エピソードをご紹介します。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/10/10

兵どもが夢の跡!明智光秀居城『坂本城跡』の哀れ。

今日ご紹介するのは、裏切り者、主人殺し、謀反者と呼ばれ430年間にわたって悪役を一手に引き受けた明智光秀の居城『坂本城(さかもとじょう)』です。何故光秀は「本能寺の変」を起こしたのか?日本史最大の謎といっても過言ではないでしょう。
今回はミステリーは、またの機会のお楽しみにさせて頂いて、光秀の居城「坂本城」がその後どのようになっているのか、取材してきました。


1689年3月27日(新暦5月16日)、松尾芭蕉は門人の曾良をともなって、江戸から東北・北陸へ600里(約2400km)、150日間の「おくのほそ道」の旅に出ました。奥州藤原氏が平泉で滅亡してから500年後のことです。江戸・深川を出発してから44日目、5月13日(新暦6月29日)に奥州平泉を訪れた芭蕉は、藤原三代の栄華の儚さと義経の最期を偲び、あの有名な句を詠みました。

「夏草や 兵どもが 夢の跡」(なつくさや つわものどもが ゆめのあと)

高館(たかだち)にのぼってあたりを見渡すと、藤原氏の栄華の痕跡はあとかたもなく、ただ夏草が茂る風景が広がるばかり。栄華の儚さを詠んだ句です。

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(明智光秀図)

「坂本城」は、明智光秀によって築かれた近江国滋賀郡坂本(滋賀県大津市下阪本3丁目の坂本城址公園内)にあった琵琶湖に面する平城です。さて現在坂本城はどうなっているのでしょうか?

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【坂本城はどんな城だった?】

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(坂本城址公園、駐車料無料です。)
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(滋賀県の皆さん~これでいいのか?)
PA080227.jpg(文化人五木ひろしに似てないか?隣は鳥羽市郎さんの歌碑だし?)
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城址公園のまわりにそれらしき石積)

城郭構造は平城、水城天守構造不明(天守と小天守が推定されています)築城主はもちろん、明智光秀で築城は1571年(元亀2年)主な改修は、丹羽長秀・浅野長政など、主な城主明智光秀、丹羽長秀、杉原家次、浅野長政です。1586年(天正14年)廃城となっています。残る遺構は遺石垣、井戸、暗渠、礎石建物等で指定文化財も再建造物も全くありませんでした。

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(これは本物!すこしだけ残る遺構は石垣)

坂本城は、琵琶湖の南湖西側にあり、大津市の北郊に位置します(取材は正に大津まつり当日でした)。西側には比叡山の山脈があり、東側は琵琶湖に面していることから、天然の要害を具えた地です。比叡山は近江国と山城国にまたがっており、白鳥道と山中道の2つの道は両国を結ぶ道路が通じていて、中世~近世においても頻繁に利用され、比叡山への物資輸送のための港町として、坂本は交通の要所として繁栄しました。

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(湊の繁栄が偲ばれます。)

現在城郭の大半は宅地化され、推定地の中央には国道161号が本丸上を通っています。

【坂本城の役割は何?】

1571年(元亀2年9月)、比叡山焼き討ちの後、宇佐山城の城主であった明智光秀に近江国滋賀郡が支配を命じられ、織田信長の命によって京の抑えと、比叡山延暦寺の監視、琵琶湖の制海権の獲得が目的で、坂本城が築城されました。

『永禄以来年代記』によると、「明智坂本に城をかまへ、山領を知行す、山上の木にまできり取(永禄以来年代記)」とあります。山領というのは延暦寺のことで、比叡山焼き討ち後、1571年(元亀2年)中に築城が開始されたと思われます。

また『兼見卿記』元亀3年(1572年)12月22日の記述によると、「明智見廻の為、坂本に下向、杉原十帖、包丁刀一、持参了、城中天守作事以下悉く披見也、驚目了(—兼見卿記)」とされていることから坂本城には天守があり、作事が行われ翌12月頃には天守がかなり進捗(物事が進みはかどる)していたと思われます。『兼見卿記』の筆者でもある吉田兼見は、短文ながら天守の壮大さに驚いている様子が分かります。

また坂本城はイエズス会宣教師のルイス・フロイスは著書『日本史』にて豪壮華麗で安土城に次ぐ名城と記しています。フロイスの日本史(坂本城の記述部分ではないですが)には、「明智は、都から4レーグァほど離れ、比叡山に近く、近江国の25レーグァもあるかの大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に、邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗にもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。」と記されている。この記述はルイス・フロイスの感想ではありますが、名城安土城と並び称される建物として認識していたことが分かります。

【坂本城主明智光秀の活躍】

その後明智光秀は坂本城を拠点に近江国の平定を目指します。1572年(元亀3年)~1573年(天正元年)にかけては木戸城、田中城を落城させ、また湖面より囲船にて湖北の浅井勢に襲撃し打撃を与えました。その後、石山城、今堅田城も攻城し湖南はほぼ手中に収めています。その後坂本城は近江国における反織田信長に対する重要な軍事施設として使用されました。黒井城の戦いでほぼ丹波国を手中に収めると、1580年(天正8年)亀山城の城主となったが、坂本城もそのまま城主となっていたようです。

天正10年(1582年)6月2日、明智光秀は中国攻めには向かわず本能寺の織田信長を急襲し、本能寺と共に信長を炎の中で焼き、次いで二条城を攻城し織田信忠を自害させました(本能寺の変)。しかし、同年6月13日山崎の戦いで敗れた明智光秀は一旦勝竜寺城に退き、その後坂本城を目指している途中、山城国の小栗栖周辺で百姓らに襲われ死去したと言われています(少なくとも3日天下ではなく11日生存していますね)。

一方安土城の城主となっていた明智秀満(光秀の娘婿、福知山城代)は、山崎の戦いで敗戦を知り安土城から移ってきましたが、羽柴秀吉軍が城を囲む中、明智秀満自身が天守に火を放ち光秀の妻子もろとも焼け落ちました。

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(明智供養塔一応私有地です。)

その後、羽柴秀吉が丹羽長秀に再建を命じ城主となりました。その後賤ヶ岳の戦いの軍事上の基地として使用され、後に杉原家次そして浅野長政が城主となります。この時期に城下町が形成されたとかんがえられます。

しかし1586年(天正14年)秀吉の命を受けた浅野長政が大津城を築城し居城を移したことにより廃城になり、資材は大津城築城に使用されました。築城からたった15年後のことでした。

【なぜ廃城】

なぜ廃城になったか『信長戦国近江』によると2つの理由を紹介しています。

ひとつは山門に対する監視の必要性が薄くなったことです、本能寺の変で信長が倒れ、光秀も山崎の戦いで敗れると、生き残った僧侶達は続々と比叡山に帰山し始めます。秀吉は山門復興こそ簡単には許しませんでしたが、詮舜とその兄賢珍の2人の僧侶を意気に感じ、陣営の出入りを許るし、軍政や政務についての相談にものって、徐々に秀吉の心をつかんでいったと思われます。

そして小牧・長久手の戦いで出軍している豊臣秀吉に犬山城で度重なる要請を行い、ついに天正12年(1584年)5月1日、正覚院豪盛と徳雲軒全宗に対して山門再興判物が発せられ、ついにに山門復興が許可されました。

もうひとつは1583年(天正11年)~1588年(天正16年)に大坂城を築城しており、大津の地が東海道や淀川を通じた北国を結ぶ上に重要視された為ではないかと考えられます(坂本の役目が大津にとって変わられたということです)。


【坂本城の構造】

PA080214.jpg(見えにくいですが、ごめんね、城址公園は城外です。)
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(公園周りの石積二が坂本城の物と思いたいですね。)
PA080264.jpg(二の丸内にある立専寺の無縁仏が明智一族の物であってほしいです。)
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(二の丸端にある坂本城の石碑)
PA080279.jpg(溝ですが、地図と合わせると二の丸の堀跡とだいたい合致します。)

坂本城は歴史上重要な役割を果たしていましたが、ながらく城の位置や構造については不明となっていました。しかし1979年(昭和54年)に実施された発掘調査によって城の構造が明確になってきました。

天正6年(1578年)1月11日に明智光秀の茶の師匠であった堺の津田宗及が坂本城に招かれ茶会がひらかれたいますが。この時の『天王寺屋会記』の資料によると、「御座船を城の内より乗り候て、安土へ参(天王寺屋会記)」と記載されています。城内には琵琶湖の水が引き入れており、城内から直接船に乗り込み、そのまま安土城に向かえたようです。

従って城郭の建物が湖水に接した「水城」形式の城であったとかんがえられます。また吉田兼見が天正10年(1582年)1月20日に坂本城に訪れた時に「小天守」で茶湯を喫した記録があります。これによりただちに小天守があったと断言はで来ませんが、『信長戦国近江』によると「姫路城のような大天守と小天守が並び建つ壮麗な城だったのであろうか」と紹介しています。

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(こんな感じ?連結式天守の例/天守と小天守)
PA080282.jpg(推定本丸の上を通る国道161号!この下が本丸ですね。)

【発掘調査】

1979年(昭和54年)まで坂本城は一度も発掘調査されなかったため、坂本城の遺構に関してはほとんど注目されませんでした。しかし、坂本城跡の中心部で大規模な宅地開発が計画され、これに伴う調査を実施したことがきっかけとなり、現在に至り断続的に発掘調査が行われ、城の縄張りなどが少しずつ明らかになってきました。

1979年(昭和54年)に行われた発掘調査では、10cm-30cmの焼土層が発見されています。これは明智秀満が天守に火を放ち光秀の妻子もろとも落城した時のものと推測できます。その焼土層の上に整地した層があり、この遺構は丹羽長秀時代のものと考えられています。

本丸部分で発掘された遺構は、礎石の規模や配列から推察して邸宅遺構の可能性が強く、城主が使用されていた可能性が高いと考えられます。またこの周辺からは、大量の瓦、壺、甕、碗、鉢、擂鉢、天目茶碗の他、中国から輸入されたと思われる青磁、青白磁、白磁などの遺物が発掘されました。このことより贅を尽くした城内の様子が伺えますね。また金属製品としては、銭貨、鏡、刀装具、鋲等が出土しています。これらの出土物は室町時代後期から安土桃山時代のもと判断されました。

坂本城は後に築かれた大津城、膳所城(琵琶湖大橋の袂に在ります)も琵琶湖に面して本丸がその先端部に位置していること等、類似点が多い縄張りとなっており、坂本城が二城のモデルとなった可能性が大きいですね。

PA080290.jpg(お山の向こうは比叡山延暦寺)

【最後に夏草!】

松尾芭蕉は平泉の藤原氏の栄華と衰退を歌っていますが、同じものを坂本城跡で感じました。城の址らしきものは殆どありません。整備された坂本城址公園も地図で見ると城外です。少し寂しいですね。歴史ファンよりも多くの人がバス釣りやヨットセイルに興じていました。石垣もあとで積んだ物なのか判断できませんでした。

以前、渇水で琵琶湖の水位が下がった平成6年夏のニュースが注目を浴びました。現在の水際から約10メートル沖で城の一部の石垣が姿を現したのです。夢は夏草の中ではなく水の中に在ったわけです。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/10/08

聖武天皇は東大寺より先に大仏を作っていた?『甲賀寺跡』なのか『紫香楽宮跡』

昨夜は大阪でミュージカル「キャッツ」の家族サービス。
今日はFacebookのお友達、篠原希さんにお会いしたくて、珍しく妻と信楽焼き祭りに出かけました。素敵な焼き締めの徳利を頂き帰宅しようと、会場を後にすると、直ぐな場所に「紫香楽宮前」という駅名があるではありませんか!歴史好きの私の事「ピピン」と頭の歴史レーダーが反応しました。

帰宅して資料を調べてみると面白いことが分かったので、ご紹介したいと思います。ただこの『紫香楽宮跡』が本物の宮跡なのか?東大寺に先立って作られた『甲賀寺跡』なのかはいまだに議論があるようです。

PA080044.jpg(おじさんご機嫌です。真ん中は篠原希さんと、左は下北沢ORIBE開発部長の奥村さんです。)

ただ私が重い身体を引きずりながら、汗だくで走り廻った限りにおいては、巨大な寺院か宮殿跡が存在したことは間違いありません。

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【紫香楽宮って何?】

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(見つけた~て感じだったんですけどね、笑)
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(ちょっと田舎すぎますかね?)
PA080065.jpg(感じは国分寺そっくりです。)
PA080072.jpg(紫の東大寺と比べると、黒い甲斐寺?小さいな~!)

紫香楽宮・信楽宮(しがらきのみや)は、奈良時代に聖武天皇が近江国甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市)に営んだ離宮の事で、後に甲賀宮(こうかのみや)とも呼ばれ、都となりました。

740年(天平12年)の藤原広嗣の乱ののち、聖武天皇は恭仁京(現在の京都府木津川市加茂地区)に移り、742年(天平14年)には近江国甲賀郡紫香楽村に離宮を造営してしばしば行幸しました。これが紫香楽宮といわれています。

『うんちく「藤原広嗣の乱」』
奈良時代、天平 12 (740) 年9月北九州で起こった反乱です。大養徳守(やまとのかみ)から大宰少弐(だざいのしょうに)に左遷され不満のあった藤原広嗣(宇合(うまかい)の子)は、管轄下の兵1万に及ぶ兵をを動員して九州で反乱を起しました。左大臣橘諸兄の政権を構成する、吉備真備 (きびのまきび) 、僧正玄 昉 (げんぼう) を除こうとして東上を開始しました。朝廷では大野東人を将として1万 7000の兵で鎮圧にあたらせます。戦闘はほぼ2ヵ月にも及びましたが、広嗣は捕えられて処刑され鎮圧されました。この結果、広嗣の出た藤原式家は一時衰えて南家が台頭し遷都が計画されました。玄 昉、真備は左遷されています。


翌年743年(天平15年)10月、天皇は紫香楽の地に盧舎那仏を造営することを発願します(奈良東大寺に先だってですよ~事件です!)。これは恭仁京を唐の洛陽に見立て、その洛陽と関係の深い龍門石窟の盧舎那仏を紫香楽の地で表現しようとしたものだと考えられます(中国の真似がしたかったのね)。12月には恭仁宮の造営を中止して、紫香楽宮の造営が更に進められました。

【信楽宮から甲賀宮へ】

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(行ってみよう~!いつもの階段じゃないだけましですね。)
PA080073.jpg(何が出るかな~?)
PA080079.jpg(南大門を入り中心伽藍に入る中門跡です。)
PA080094.jpg(祠が寄進されています。お寺の中心金堂跡ですね?)
PA080106.jpg(やはり金堂跡です。礎石が綺麗に残っていますね)

翌年744年(天平16年)、信楽宮から甲賀宮へ宮名の変化が徐々にあらわれ、11月には甲賀寺に盧舎那仏像の体骨柱が建てられ始めます。

745年(天平17年)1月にはもう新京と呼ばれ、宮門に大楯と槍が立てられ、甲賀宮が都とされることに成りました。更に同年4月15日には、流罪となっていた塩焼王(名前が凄いね)を許して京に入ることを許していることから、実態はいまだ不明ながら京(紫香楽京)の範囲が設定されていたとみられます。しかし人臣の賛同を得られず、また天災など不幸なことが相次ぎ、同年5月に平城京へ戻ることになりました(わがままに振り回される周りも大変ですね)。このため甲賀寺の盧舎那仏の計画は、「奈良の大仏」東大寺盧舎那仏像として完成されることになりました。

『うんちく「塩焼王」』塩焼王(しおやきおう)は、日本の奈良時代の皇族です。 ?-764 奈良時代,新田部(にいたべ)親王の王子で道祖(ふなど)王の兄で、不破(ふわ)内親王の夫に成ります。天平勝宝(てんぴょうしょうほう)9年(757)皇太子候補となりますが、しりぞけられています。のちに臣籍降下し氷上 塩焼(ひがみ の しおやき)と称しました。天武天皇の孫にあたります。

紫香楽の地は、当時の感覚においては余りに山奥である事から、ここを都としたことを巡っては諸説があります、恭仁京周辺に根拠を持つ橘氏に対抗して藤原仲麻呂ら藤原氏に関与したとする説や天皇が自らの仏教信仰の拠点を求めて良弁・行基などの僧侶の助言を受けて選定したとする説などがあります(なお、藤原氏と同氏出身の光明皇后に関しては紫香楽宮放棄と大仏計画中止の原因になった紫香楽周辺での不審な山火事に関与したとする説もあります)。

「紫香楽」の地名表記については、正倉院文書には「信楽宮」としたものが3件ある一方で、「紫香楽」と表記したものが全く無いため、続日本紀が編纂されたときの修辞(うまく書き直された)の可能性も考えられます。また744年(天平16年)を境に、宮名が「信楽宮」(続日本紀では「紫香楽宮」)から「甲賀宮」へと変化しており、これは単なる離宮から甲賀寺と一体の都とされたことにより宮名が改められたか、離宮の紫香楽宮とは別に宮町遺跡の地に甲賀宮が新しく造営されたことによるともいわれます。

【紫香楽宮遺跡】

PA080134.jpg(規模の大きさからも国分寺によく似ています。)
PA080115.jpg(鐘楼跡です)
PA080128.jpg(塔の礎石、五重の塔が有ったと考えられますね。)
PA080140.jpg(金堂の後ろは講堂に成っています。仏教の教義のお勉強です。)

かつては甲賀郡信楽町(現・甲賀市)黄瀬・牧地区の遺跡(1926年「紫香楽宮跡」として国の史跡に指定)が紫香楽宮跡と考えられていましたが、北約1kmに位置する宮町遺跡から大規模な建物跡が検出され、税納入を示す木簡が大量に出土したことなどから、宮町遺跡が宮跡と考えられるようになり、黄瀬・牧地区の遺跡は甲賀寺(甲可寺)跡であるという説が有力に成りました。2005年には宮町遺跡を含む19.3ヘクタールが史跡「紫香楽宮跡」に追加指定れています。北約1kmに位置する宮町遺跡が本当の『信楽宮→甲賀宮』ですかね?

今回「妖怪レーダー」ならぬ私の「歴史レーダー」に反応したのは黄瀬・牧地区の遺跡は甲賀寺(甲可寺)跡の可能歳が強くなっています。しかしながら、現在でも、「宮町」「勅旨」「内裏野」などの地名が残り、往事の宮城の名残を残しています。

【紫香楽宮(しがらきのみや)跡比定地ご紹介】

PA080149.jpg(さらに後ろは多くの僧侶が寝泊まりする僧房です。ずっと紹介してきたのですが(-"-;A ...アセアセ)
PA080169.jpg(金堂の左は経堂、多くのお経が安置されていました。)
PA080172.jpg(横から見た金堂跡礎石が見事です。ここに廬舎那仏が作られるはずだったのですかね?)

聖武天皇が天平17年(745年)に遷都した紫香楽宮(しがらきのみや)の跡に比定され、1926年(大正15年)に史跡として約33000平方メートルが指定されました。しかし、その後の発掘調査の進展により、当遺跡の北2キロメートルにある甲賀市信楽町宮町の宮町遺跡が実際の紫香楽宮跡とみなされるようになり、黄瀬・牧にある遺跡は東大寺に先駆けて紫香楽宮で大仏建立を行った甲賀寺の跡、または近江国国分寺の跡である可能性が高くなっています。

黄瀬・牧の遺跡は、300あまりの礎石が残るなど遺構の保全状態はとても良好です。礎石の配列から東大寺の伽藍配置と同様の建物配置を持つ寺院跡とみられています。当遺跡から出土した軒丸瓦が種類、軒平瓦2種類のうち、創建期とされる瓦は、恭仁宮大極殿造営に際して新調された瓦をモチーフとした単弁十七葉蓮華文の軒丸瓦と均整唐草文の軒平瓦が、恭仁宮廃都後に建立された山城国分寺の塔跡と同笵瓦であることが確認されていることから、寺院跡であることは疑う余地はありません。

遺跡の北東約600メートルには2000年(平成12年) ~2002年(平成14年)にかけて、新名神高速道路建設に関連して発掘された鍛冶屋敷遺跡があります。この遺跡は銅鋳造関連遺跡で、紫香楽宮跡にも近い場所です。遺跡周辺では当時作られた信楽製の坩堝(るつぼ)が多数出土しています。この坩堝は、銅を混ぜた合金を作るのに使われたとかんがえられます。

坩堝は、江戸時代に使用された真鍮を溶解した「梅干壷」と呼ばれるもので、大仏建立に関連した奈良時代のものではありません。大仏鋳造や寺院などの大型品の鋳造では、坩堝は用いず溶解炉から直接鋳型に流し込む技法であったことが考古学的にも立証されています。つまり大仏を作るための物ではなかったということですかね?何を作ってたんでしょう。

PA080177.jpg(希望をこめて「紫香楽宮」の祠が寄進されています。ある所にはあるんだな~ホント!)

なお、当地域では、甲賀市信楽町勅旨の玉桂寺を保良宮の跡とする伝承もあるようです。つまりどういうことだ?今回私が見つけた『紫香楽宮跡』は本来は『甲賀寺跡』で後に奈良に建築された『東大寺』の試作モデルだったのかもしれません?

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リュミエールブラン ネージュ

2017/10/06

やはり不思議な仙人が開基していた。西国三十三番札所第26番『法華山一乗寺』

みなさん、こんばんわ~!前回「水戸黄門」を取りあげたにもかかわらず、放送時間間違えて見られなっかお馬鹿さんです。
今日は、まじめに西国三十三番札所をご紹介します。


実は大きな声では?言ってなかったのですが、私ある意味オタクなんです。興味を持つと「ずっぽし」はまりこんでしまい、楽しくてしょうがなくなってしまう、しょうがない性格です。御朱印集めにはまっているのもその性格故かもしれません。収集癖は子どもの頃からありました。当時はみんなが集めていた?「切手」「古銭」「化石」「土器のかけら」などなど今も田舎を探せば出てくると思います。

CIMG9206.jpg(インパクトでトップフォトにしました~猿の腰掛デカ~!)

漫画は読まない子どもでした。自慢ではないですが「漫画」読んだのは大学生に成ってからです。漫画収集は結婚してから(笑)弟が途中であきらめていた。「三国志」60巻、ジョジョ全巻『ジョジョの奇妙な冒険』Part6 ストーンオーシャンと『スティール・ボール・ラン』全24巻までは集めています。『ジョジョの奇妙な冒険 Part8 ジョジョリオン』はまだ連載中ですかね?などなど結構集めているんですよね~「ゴルゴ13」は途中で諦めましたけどね。

そんな私が近頃ハマっているのが「御朱印集め」です。歴史ももちろん好きな私にとっては一石二鳥の趣味となっています。そこでそろそろ(これまでも四寺院ほどはご紹介したと思いますが)本格的に、西国三十三番観音霊場をご紹介していきたいと思っています。まだ満願はしておりませんが、十八寺は廻っておりますので、機会があるごとにご紹介していきたいと思います。

今日は兵庫県内で、それほどわが家から遠くない、加西市の『一乗寺』をご紹介したいと思います。

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【まず復習から、西国三十三カ所観音霊場巡りとは?】

P32167982.jpg
(一乗寺伽藍)
CIMG9186.jpg(粟嶋堂粟嶋堂は一乗寺の塔頭寺院である隣聖院にある御堂)
CIMG9184.jpg(水子供養のお供え)

養老2年(718年)、大和国長谷寺の開山「徳道上人」が病にて仮死状態になられた際、冥土で閻魔大王に会い、「生前の悪い行いによって地獄へ送られるものが多い故、観音の霊場へ参ることにより功徳が得られるよう、人々に観音菩薩の慈悲の心を説け」とのお告げを受け、起請文と三十三の宝印を授かって現世に戻され、その証拠でもって人々に観音信仰、及びその霊場へ参ることをすすめられました。

徳道上人が極楽往生の通行証となる宝印をお配りになったという場所は、観音菩薩が衆生を救うために示現された霊験所や寺院でした。上人と弟子たちはこの三十三所巡礼を人々に説きましたが、世間の信用が得られずあまり普及しなかったため、機が熟すのを待つこととし、閻魔大王から授かった宝印を摂津国の中山寺の「石の唐戸」の中に納めました。そして月日がたち、徳道は隠居所の法起院で80歳で示寂し、三十三所巡礼は忘れ去られていきました。

徳道上人が中山寺に宝印を納めてから約270年後、花山法皇(安和元年 ~寛弘5年「968年~1008年」)が紀州国の那智山で参籠していた折、熊野権現が姿を現し、徳道上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を授けます。

花山法皇は、988年(永延2年)観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった摂津国の中山寺(兵庫県宝塚市)で宝印を探し出し、播磨国書写山圓教寺の性空上人の勧めにより、河内国石川寺(叡福寺)の仏眼上人を先達として紀伊国熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し修行に勤め、大きな法力を身につけたといわれます。

このことにより、やがて観音霊場を巡る西国三十三所という信仰となり、西国三十三所は日本最古にして、巡礼の元祖となりました。この花山法皇の観音巡礼が西国三十三所巡礼として現在でも継承されており、各霊場で詠んだ御製の和歌が御詠歌となっています。

【第26番札所『法華山一乗寺』】

CIMG9187.jpg(説明版です。)
CIMG9189.jpg(階段上るぞ~!境内入口左手に宝物館 「公開は年に2日、4月4日と11月5日のみで、それ以外の拝観は事前の許可が必要」。)

山号は「法華山」といいます。 宗派は「天台宗」ですね、 大事なご本尊は「聖観音菩薩」です。創建年は「伝・白雉元年(650年)」、開基は、伝・法道仙人(そうここら辺ではちょっと?有名な)孫悟空の様な方です。

西国三十三所26番札所の他、播磨西国三十三箇所33番札所、神仏霊場巡拝の道 第77番札所などの札所に成っています。 文化財としては三重塔、聖徳太子及び天台高僧像10幅が(国宝)、本堂他が(重要文化財)に指定されています。

寺伝では孝徳天皇の勅願で650年に創建、開基(創立者)は法道仙人とされています。 国宝に指定されている三重塔(1171年建立)は平安時代後期を代表する和様建築の塔であり、日本国内屈指の古塔ですね。 境内は山深く、春は桜、秋は紅葉の名所としてもよく知られています(私が訪れたのはそのどちらの時期でもありませんが)。

【法道仙人って誰?】

法道仙人(ほうどうせんにん)開基伝承をもつ寺院は兵庫県東部地域に集中しています。法道仙人はインド出身だということに勝手に?なっています。鉄の宝鉢を持っており神通力で鉢を飛ばし、米などの供物を得ていたため、「空鉢仙人(からはちせんにん)」とも呼ばればれていたことから、不思議な術を使う超能力の持ち主だったと伝わっています。

多くの寺の縁起などによると、推古天皇(すいこてんのう)の頃に日本へ渡ってきたとされていますので、6~7世紀の人物ということになりますが、本当の事跡や没年、墓所などすべて不明で、伝わっているのはその名前と仙術にまつわる伝説ばかりです。つまり実在の人物か解りません。第一、「法道上人」や「僧法道」ではなく、なぜか「仙人」の名前がついています。

播磨国の山には、法道仙人を開山もしくは開基と伝える寺が多いのです。此までに御紹介した寺院の多くに仙人開基の寺が有りました。西国三十三観音霊場でも二十五番札所の「清水寺」・番外の花山院菩提寺などです。仙人が開いたと伝える寺院は、兵庫県下に110か所以上あるといわれています。

また、彼が日本に渡るときに、共に渡ってきた「牛頭天王(ごずてんのう)」は、姫路市の広峰神社(ひろみねじんじゃ)に祭られ、その後、八坂神社(やさかじんじゃ)中の座に祭られたとされていますから、播磨の国がとりわけ仙人と関わりが深いことは間違い有りません。つまり須佐之男命と同一視されたり、大国主の荒魂とも言われます。「牛頭天王(ごずてんのう)」もう少し勉強が要りますね。(-"-;A ...アセアセ。

伽藍(がらん)を構えた寺院だけでなく、あちこちにある不可思議な自然物が、法道仙人と結びつけて理解され伝えられていることは、仙人に対する素朴な信仰がこの地の人々にとっても身近であったことを示しています。「インドから紫雲に乗って飛来」云々の真偽は別としても、こうした伝承の元になり、地域の信仰の中心となった人物が実在した可能性は否定できません。

法道仙人は、天竺(インド)から紫の雲に乗って飛来したとされる伝説的人物です。『元亨釈書』等の記述によれば、法道はインドに住んでいたが、紫の雲に乗って中国、百済を経て日本へ飛来、播州賀茂郡(兵庫県加西市)に八葉蓮華(8枚の花弁をもつハスの花)の形をした霊山を見出したので、そこへ降り立ち、法華経の霊山という意味で「法華山」と号したといわれます。


【法華山一乗寺の歴史】

不思議な法道仙人の評判は都へも広まり、白雉元年(650年)、時の帝である孝徳天皇の勅命により法道に建てさせたのが今回ご紹介する一乗寺なんです。

一乗寺には7世紀~8世紀にさかのぼる金銅仏6躯が存在し(うち3躯は重要文化財)、付近には奈良時代にさかのぼる廃寺跡、石仏などが存在することからも、この地域一帯が早くから仏教文化の栄えた地であることは確かなようです。

創建当時の一乗寺は現在地のやや北に位置する笠松山にあったと推定されています。笠松山の山麓には古法華(ふるぼっけ)石仏と称される奈良時代の三尊石仏(重要文化財)があり、「古法華」とは「法華山一乗寺の旧地」の意味と思われます。

現存する一乗寺国宝三重塔は平安時代末期の承安元年(1171年)の建立であるところから、その年までには現在地において伽藍が整備されていたと思われますが、正確な移転時期は不明なんです。

一乗寺は中世、近世には何度かの火災に遭っていますが、平安時代の三重塔をはじめとする古建築がよく保存されていてうれしいですね。本堂は姫路藩主本多忠政の寄進により、寛永5年(1628年)に建てられたものだそうです。

【建築物「伽藍」の紹介】

CIMG9188.jpg(石造笠塔婆、ちょっと遠くて見えませんね~!)
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(石造五輪塔 - 鎌倉時代、元亨元年(1321年)の銘がある。)
CIMG9190.jpg
(太子堂)

山間に位置する境内は長い石段が続き、数段に分けて整地されています。バス通りに面した境内入口には山門はなく、正面に石造笠塔婆(県指定文化財)が立つっています。その左方には宝物館(平素は非公開)と本坊の地蔵院があります。右方は公園風に整備され、太子堂、放生池、やや奥まったところに見子大明神の社がありました。

CIMG9192.jpg(常行堂)
CIMG9194.jpg(古いけど風情があります。本堂への階段。左が国宝です。)
CIMG9204.jpg
(国宝の三重塔)
境内入口から最初の石段を上った狭い平地の左手に常行堂があり、次の石段を上ると左手に国宝の三重塔、右手に法輪堂(経蔵)があります。三重塔の直上、さらに階段を上った位置に懸崖造の本堂が建つっています。このため、本堂の縁に立つと三重塔を見下ろすことができます。本堂裏手には鎮守社の護法堂、妙見堂、弁天堂(以上重要文化財)、行者堂があり、本堂からさらに200メートルほど登ったところに法道仙人を祀る奥の院開山堂が建つっています(大雨の影響で通行止めになっていました。残念)。

CIMG9200.jpg(本堂「重要文化財」)
CIMG9199.jpg
(重要文化財からの国宝三重塔)

本堂(重要文化財) は大悲閣または金堂とも称されます(だいたいの寺院では御朱印は大悲閣と書かれますね~。入母屋造、本瓦葺き、正面9間、側面8間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を示す建築用語です)。斜面にせり出した懸造とし、内部は広い外陣と、閉鎖的な内陣、脇陣、後陣からなる、密教仏堂の典型的な平面をもっています。札所寺院として、参拝者用の空間である外陣を広く取っており、外陣天井には巡礼者の打ちつけた木札が大量に残っています(現在は木札や千社札は禁止されています)。

『法華山諸堂記』の記載により、寛永5年(1628年)、藩主本多忠政の援助で再建されたことがわかります。内陣には三間の大厨子を置き、中央の間に本尊聖観音立像(重要文化財)、左右の間には不動明王と毘沙門天像を安置するが、いずれも秘仏なんです。厨子外の左右には二十八部衆と風神・雷神像が安置されています。

堂は1998年の台風で大きな被害を受け、1999年から2009年にかけて災害復旧を兼ねた半解体修理が行われた。 銅造観音菩薩立像(重要文化財) の秘仏本尊像は像高72.7 cm、お前立ち像(現在は宝物館に安置)は80.3 cm。いずれも飛鳥時代末~奈良時代初(7世紀後半)の金銅仏です。直立した姿勢、素朴な顔貌表現、緻密に表現された装身具などに時代の特徴が出ています。秘仏本尊像は、2009年11月1日~30日及び2010年5月11日~30日、22年ぶりに開扉されました(見たかった~)。

CIMG9480.jpg
(お姿(レプリカ)だけですが、こんな秘仏本尊像です)

三重塔(国宝)は伏鉢(屋根上、相輪の下部にある半球状の部材)の銘から、承安元年(1171年)の建立と判明しています。平安時代にさかのぼり、建立年代の明らかな塔として日本でもとても珍しいものです。塔身部の逓減率(初重から三重に向かって小さくなる率)の大きいことが特色です。

【その他の建造物】

CIMG9203.jpg
(本堂横手から裏手に廻りたいかったのですが・・・)

護法堂(重要文化財) - 本堂裏手、石段上に建つ、一間社春日造の社殿。鎌倉時代。
妙見堂(重要文化財) - 本堂裏手に建つ、三間社流造の社殿。室町時代。
弁天堂(重要文化財) - 妙見堂の左に並んで建つ、一間社春日造の社殿。室町時代。

法道仙人を祀る開山堂(超危険なために通行止めでした)

国宝「聖徳太子及び天台高僧像 10幅」 は平安時代、11世紀後半頃の作。各図とも縦125.6~131.6 cm、横74.7~75.8 cm。龍無畏像と慧文像は東京国立博物館、灌頂像は大阪市立美術館、他の7幅は奈良国立博物館に、それぞれ寄託されている。

謎の仙人の正体については少し調べてみます。まずは姫路の広峰神社へ行きますかね~?

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リュミエールブラン ネージュ

2017/10/04

『水戸黄門』再開!漫遊もせず、名君でも無かった、史実的見処のご紹介!

時代劇がなくて寂しく毎日を過ごしておりましたが、『徳川光圀』がTVで再開されるそうです。(もうしたのかな?)
アッ!今日からでした(笑)


そこで今日は東京や水戸迄は取材に行けないので、TVドラマ水戸黄門観賞法?もお話しながら、実際の水戸光國公のお話をさせて頂きます。

p6985346.jpg
(フレッシュなメンバーで楽しみです。)

今回のTVシリーズは、水戸光圀に武田鉄矢さん、佐々木助三郎(助さん)に財木琢磨さん、渥美格之進(格さん)に荒井敦史さん、風車の弥七(復活)津田寛治を迎え、6年ぶりの再開に成ります。

武田さん以外全く知りませんでしたm(__)m

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【何故水戸黄門様?】

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(水戸光圀公の肖像)


水戸家は御三家の中では格下で、尾張・紀伊が大納言なのに比べて、歴代藩主の殆どが最終的には従三位権中納言に叙任されていました。水戸黄門というのは歴代水戸藩主の別名でもあります。その中でも特に第二代藩主の徳川光圀が著名ななので、水戸黄門と言うと一般的には徳川光圀を指します。

中国の宮殿の「禁門」(きんもん)を、秦や漢では、宮殿の門が黄色に塗られていたことに由来して「黄門」と呼びました。中国皇帝に近侍して勅命を伝える職務であった「黄門侍郎」(または「給事黄門侍郎」)を略して黄門と呼び、転じて、日本の中納言を唐名の「黄門侍郎」または「黄門」と呼んだことから、水戸の中納言「水戸黄門」なわけですね。ドラマでは「諸国漫遊」を楽しむ黄門様ですが、水戸家は参勤交代もなく、当主は江戸常駐を言い渡されていたので、漫遊どころか、実際は日光、鎌倉、金沢八景、房総などしか訪れたことがなく、関東に隣接する勿来と熱海(新編鎌倉志参照)を除くと現在の関東地方の範囲から出た記録は無いはずです。

【徳川光圀ってどんな人】

徳川 光圀(とくがわ みつくに)は、常陸水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られます。 水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たります。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくりました。

生誕寛永5年6月10日(1628年7月11日)死没元禄13年12月6日(1701年1月14日)。

藩主時代には寺社改革や殉死の禁止、快風丸建造による蝦夷地(後の石狩国)の探検などを行っています。また、後に『大日本史』と呼ばれる修史事業に着手し、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業も行いました。さらに、徳川一門の長老として、徳川綱吉期には幕政にも大きな影響力を持っていました。

光圀の主導した多方面の文化事業が評価されている一方で、為政者としては、石高に対し高い格式のために頼房時代からすでに悪化していた藩財政に対し、広範な文化事業がさらに財政悪化をもたらしたとの指摘がなされています。

水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たります。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくりました。

【出産~~~!】

寛永5年(1628年)6月10日、水戸徳川家当主・徳川頼房の三男として水戸城下柵町(茨城県水戸市宮町)の家臣・三木之次(仁兵衛)屋敷で生まれています。

後年の光圀自身が回想した『義公遺事』によれば、久子は奥付きの老女の娘で、正式な側室ではありませんでした。母につき従って奥に出入りするうちに頼房の寵を得て(ドキドキ)、光圀の同母兄である頼重を懐妊しましたたが、久子の母はこのことに憤慨し、正式な側室であったお勝(円理院、佐々木氏)も機嫌を損ねたため、頼房に堕胎を命じられています。

同じく奥付老女として仕えていた三木之次の妻・武佐が頼房の准母である英勝院と相談し、密かに江戸の三木邸で頼重を出産したといいます。光圀にも同様に堕胎の命令が出されましたが、光圀は水戸の三木邸で生まれました。英勝院は大河ドラマ「真田丸」で家康の側にいた女性(話題の?斉藤由貴さんが演じてました。)「一番上手いものは塩」の逸話で有名な女性です。

寛永9年(1632年)に水戸城に入城します。翌寛永10年(1633年)11月に光圀は兄を差し置いて世子になるこtが決定し、翌月には江戸小石川邸に入り世子教育を受けることに成りました。世子内定の時期や経緯は諸書で若干異なっていますが、頼房の付家老・中山信吉が水戸へ下向して行われており、第3代将軍・徳川家光や英勝院の意向もあったのではないかといわれています。翌寛永11年(1634年)には英勝院に伴われて江戸城で家光に拝謁しました。

寛永13年(1636年)には元服し、将軍・家光からの偏諱を与えられて光国と名前を改めました。また水戸藩家老職の山野辺義忠の薫陶を受けるようになります。義忠は山形藩の藩祖・最上義光の子で、最上騒動で改易される要因になりましたが、有能な人物として知られています。光圀18歳の時、司馬遷の『史記』伯夷伝を読んで感銘を受け不良光圀から正義の力を授かっています(笑)。

【兄を差し置いて水戸藩相続】

寛文元年(1661年)7月、父・頼房が水戸城で死去しました。葬儀は儒教の礼式で行い、領内久慈郡に新しく作られた儒式の墓地・瑞竜山に葬られました。光圀は当時の風習であった家臣の殉死を禁じ、自ら殉死の噂が有った家臣宅を廻り、「殉死は頼房公には忠義だが私には不忠義ですよ~」と問いかけ殉死をやめさせたといわれています。幕府が殉死禁止令を出したのはその2年後なので、『義公行実』では殉死の禁止の初例としています。ただし、同じ頃、紀州・彦根・会津でも殉死を禁ずる旨の記録があるので、水戸藩が初例かどうかは定かではありませんね。

藩主就任直後の寛文2年(1662年)、町奉行・望月恒隆に水道設置を命じました。頼房時代に造営された水戸下町はもともと湿地帯であったため井戸水が濁り、住民は飲料水に不自由でした。望月は笠原不動谷の湧水を水源と定め、笠原から細谷まで全長約10kmを埋設した岩樋でつなぐ笠原水道に着工、実際の敷設は永田勘衛門とその息子が担当しています。約1年半で完成、笠原水道は改修を重ね、明治時代に近代的な水道が整備されるまで利用されています。

寛文5年(1665年)、明の遺臣・朱舜水を招く。朱舜水の学風は、実理を重んじる実学派でした。朱舜水を招いた主な目的は、学校建設にあったようですが、おそらく費用の面から実現しなかったようです。しかし、その儒学と実学を結びつける学風は、水戸藩の学風の特徴となって残りました。朱舜水は、17年後の天和2年(1682年)死去し、瑞竜山に葬られています。

【不良少年光圀君】

だが、少年の頃の光圀の振る舞いはいわゆる不良であり、光圀16~17歳のとき、傅役の小野言員が「小野言員諫草(小野諫草)」を書いて自省を求め程だそうです。

幼少時には、兄(頼重)を差し置いての世子決定が光圀の気持ちに複雑なものを抱かせたといわれ、少年時代は町で刀を振り回したりする不良な振る舞いを行っており、吉原遊廓通いも頻繁にしていた。さらには辻斬りを行うなど蛮行を働いている。

光圀が18歳の時、『史記』伯夷伝を読んで感銘を受け、それまでの素行を改めて学問に精を出すようになった。この経験により、紀伝体の日本の史書を編纂したいと考えるようになったと、後年、京都の遣迎院応空宛の書簡(元禄8年10月29日付)に書いている。19歳の時には、上京した侍読・人見卜幽を通じて冷泉為景と知り合い、以後頻繁に交流するが、このとき人見卜幽は光圀について朝夕文武の道に励む向学の青年と話しています。

没後15年後に書かれた『大日本史』の序文には、「善は以て法と為すべく、悪は以て戒と為すべし、而して乱賊の徒をして懼るる所を知らしめ、将に以て世教に裨益し綱常を維持せんとす」とあり、紀伝体の史書を編み歴史を振り返ることにより、物事の善悪や行動の指針としようという考えでした。個人がいかなる役割を果たしたかを明らかにし、それにふさわしい「名」をその人物に与えるという、儒教の正名論に基づいたものでした。

【兄への贖罪】

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(神戸「摂津」湊川の黄門様です。ちょっとイメージが(-"-;A ...アセアセ)

寛文元年(1661年)8月19日、幕府の上使を受け水戸藩28万石の第2代藩主となりました。『桃源遺事』では、この前日、兄・頼重と弟たちに「兄の長男・松千代(綱方)を養子に欲しい。これが叶えられなければ、自分は家督相続を断り、遁世するつもりである」と言ったとされます。兄弟は光圀を説得しましたが、光圀の意志は固く、今度は弟たちが頼重を説得し、頼重もやむなく松千代を養子に出すことを承諾した、とされています。しかし実際には、綱方が光圀の養子となったのは、寛文3年(1663年)12月でした。翌寛文4年(1664年)2月、光圀の実子・頼常が頼重の養子となりました。さらに寛文5年には頼重の次男・采女(綱條)が水戸家に移り、綱方死後の寛文11年(1671年)に光圀の養子となって水戸家を継ぐことになります。また、弟・頼元に那珂郡2万石(額田藩)を、頼隆に久慈郡2万石(保内藩)を分与しています。

水戸家三代、水戸綱條は、明暦2年(1656年)8月26日、讃岐高松藩主・松平頼重の次男として江戸の高松藩邸にて生まれます。
寛文5年(1665年)8月、本家・水戸家に移り、2,000石を与えられます。これに先立って同母兄・徳川綱方が第2代水戸藩主・徳川光圀の養嗣子に迎えられており、綱條は光圀の次男格という扱いでした。

綱條の実父・松平頼重は光圀の実兄ですから、綱條は甥に当たります。父・頼重の後嗣には、光圀の子・頼常が内定していたため、高松藩主の次男であるより水戸藩主の次男である方がいいだろうということで、水戸家に入ったといわれています。 兄・綱方が早世したため、寛文11年(1671年)6月、正式に光圀の養嗣子として迎えられました。

光圀が養嗣子を迎えた理由は、彼の生い立ちにあります。光圀の父・徳川頼房(綱條の祖父)は、頼重・光圀の母である久昌院が身ごもると、家老・三木之次に久昌院を預け、頼重は江戸で、光圀は水戸で生まれました。頼重はその後に京へ送られたため、同母兄弟であったが、互いに会ったのは頼重12歳、光圀6歳のときでした。

こうしたことから光圀は、実子による藩主の世襲にこだわらず、他家から養子に迎えた者の方が色々な識見もあってよいとの考えが有ったようです。光圀はまた、『史記』の「伯夷伝」の影響や、兄を差し置いて家督を継いだことへの負い目もあって、兄の子を養子として迎えることを決意したといわれます。なお、頼常は生後間もなく京都に、翌年には高松に送られて、2歳から高松城内にて養育されています。のちに頼重の養嗣子となる(高松藩2代目藩主)です。いわば兄弟の子のトレードがなされたのでした。

【あの御隠居が住む西山荘】

元禄3年(1690年)10月14日に幕府より隠居の許可がおり、養嗣子の綱條が水戸藩主を継ぎました。翌15日、権中納言に任じられた光圀は。11月29日江戸を立ち、12月4日水戸に到着。5か月ほど水戸城に逗留ののち、元禄4年(1691年)5月、久慈郡新宿村西山に建設された隠居所(西山荘)に隠棲しました。佐々宗淳ら60余人が伺候しました。

同年、水戸藩領・那須郡馬頭村近隣の湯津上村(旗本領)にある那須国造碑の周辺の土地買い取りが整い、佐々宗淳に命じて碑の修繕、鞘堂の建設を行います。加えて、碑のそばの古墳(上侍塚・下侍塚)を那須国造の墓と推定して発掘調査を行っています。出土品は絵師に描き取らせたのち、厚い松板の箱に入れて元のように古墳内におさめさせています。これは日本初の学術的着想による発掘といわれています。

調査は、翌元禄5年(1693年)4月に終了し、6月には光圀が湯津上村を訪れ、那須国造碑と両古墳を視察しました。また、古墳の調査を終えた同年4月、佐々を楠木正成が自刃したとされる摂津国湊川(神戸)に派遣し、楠木正成を讃える墓を建造させました(湊川神社)。墓石には、光圀の筆をもとに「嗚呼忠臣楠氏之墓」と刻まれています。
CIMG1842.jpg(説明版です。)
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(光圀の筆をもとに「嗚呼忠臣楠氏之墓」)


72歳頃から食欲不振が目立ち始め、元禄13年12月6日(1701年1月14日)に食道癌のため死去した。享年73(満71歳没)。

【水戸黄門の初めて?】

日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるものは、餃子、チーズ、牛乳酒、黒豆納豆があります。ラーメンも光圀が最初と言われてきたが、光圀が食した時期より200年以上前の『蔭涼軒日録』(相国寺の僧による公用日記)に、ラーメンのルーツとされる経帯麺を食べたことが記されていたことが2017年に判明しました~(残念)。肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は5代将軍徳川綱吉が制定した「生類憐れみの令」を無視して牛肉、豚肉、羊肉などを食べていました。野犬20匹(一説には50匹)を捕らえてその皮を綱吉に献上したという俗説も生まれています。鮭も好物であり、カマとハラスと皮を特に好んだようです。

オランダ製の靴下、すなわちメリヤス足袋(日本最古)を使用したり、ワインを愛飲するなど南蛮の物に興味を示し、海外から朝鮮人参やインコを取り寄せ、育てています。蝦夷地(後の石狩国)探索のため黒人を2人雇い入れ、そのまま家臣としています。また、亡命してきた明の儒学者・朱舜水を招聘し、教授を受けています。

朱舜水が献上した中華麺をもとに、麺の作り方や味のつけ方を教えてもらい、光圀はこれを自分の特技としてしきりにうどんを作りました。汁のだしは朱舜水を介して長崎から輸入される中国の乾燥させた豚肉からとり、薬味にはニラ、ラッキョウ、ネギ、ニンニク、ハジカミなどのいわゆる五辛を使っていますね、正に現在でいうラーメンです。光圀はこの自製うどんに後楽うどんという名をつけた。後に西山荘で客人や家臣らにふるまったとの記録もあります。

『大日本史』完成までには光圀の死後250年もの時間を費やすこととなり、光圀の事業は後の水戸学と呼ばれる歴史学の形成につながり、思想的影響も与えました。

【全然名君じゃなかった?】

「大日本史」の編纂に水戸藩は多大な費用を掛けました。一説に藩の収入の3分の1近くをこの事業に注ぎ込んだといわれている(3分の1説の他、多くの費用を当てて完成した説もあります。)。

水戸藩の財政は初代の父・頼房の藩主時代から苦しく、光圀の藩主時代後期には財政難が表面化していました。光圀は藩士の俸禄の借り上げ(給料削減)を行っているが、大きな成果は上がりませんでした。光圀の養子・綱條も財政改革に乗り出しますが、水戸藩領全体を巻き込む大規模な一揆を招き、改革は大失敗します。その後も水戸藩にとって財政の立て直しは重要課題であり続け、様々な改革と幕府からの借金を繰り返しました。一方で「大日本史」の編纂は光圀の死後も継続され、豊かとはいえない慢性的な逼迫財政をさらに苦しめたとされます(少しは考えろよ~!)。

また光圀は他の御三家(尾張・紀伊)に対抗するため、当時1間=6尺3寸だったのを6尺に改め、表高が28万石だった水戸藩を見かけ上36万9千石にしました(どうするよ)。この石高が次代の綱條の代に幕府に認められることとなり、これが上記大日本史編纂事業とあいまって水戸藩困窮の要因となりました(見栄っ張りですね)。

光圀の学芸振興が「水戸学」を生み出して後世に大きな影響を与えたことは高く評価されるべきですが、その一方で藩財政の悪化を招き、ひいては領民への負担が大きく、そのため農民の逃散が絶えなかったのは残念ですね。結果的には「民を愛して悪を憎む」水戸黄門思想の理想からは逸脱している側面も存在し、単純に「名君」とはいえません。

反面、父の頼房が死の床にあったとき自ら看病に当たり、死去すると3日も食事がのどを通らなかった。など、のやさしさも見せています。

五代将軍綱吉期に大老の堀田正俊が稲葉正休に刺殺され、正休も大久保忠朝らによってすぐに殺害された事件が発生します。光圀は幕閣の前で「如何に稲葉が殿中で刃傷に及んだとはいえ、理由も聞かず取り調べもせず誅するとは何事か」と激怒し、幕閣に対して強い不信を抱いたといいます(正義感は強いようです)。

【先の副将軍水戸光圀公に在らせられるぞ~は嘘?】

水戸徳川家は参勤交代を行わず江戸に常駐しており、帰国は申し出によるものでした(常に将軍の傍に居る事から水戸藩主は(俗称として)「(天下の)副将軍」と呼ばれるようになります(実際に副将軍という地位はありません)。財政悪化もあり、中・後期の水戸藩主はほとんど帰国しませんでした。光圀は藩主時代計11回帰国しており、歴代藩主の中では最も多い回数帰国しています。また歴代藩主唯一の水戸生まれであり、誕生から江戸に出るまでの5年と、隠居してから没するまでの10年を水戸藩領内で過ごしました。そのため、水戸藩領内における関連した史跡は後の藩主に比べると格段に多いようです。

初期のTVドラマでは「先の中納言(副将軍ではない)水戸光圀公に在らせられるぞ~」といって格さんが印籠を出していました。その時間は午後8時45分前後に固定されていました。背景には二代目黄門様の西村晃さんが、特攻隊時代からの友人である千玄室(茶道裏千家前家元15代汎叟宗室)が時代劇が好きでどうしても見たいが、お茶の稽古が40分まであるので、印籠シーンの時間を一定(45分)にするよう西村晃さんに依頼したことがきっかけで45分に決まったといわれています。

【格さん助さんにはモデルが有った】

そこで活躍するのが、格さん助さんですが、ドラマでの名前は助さんは佐々木助三郎、格さんは渥美格之進です。
この二人はモデルが実在します。
本当の名前は助さんは、佐々木十竹(ささじゅちく・介三郎宗淳)、1640~1698)、格さんは、安積 澹泊(あさかたんぱく・覚兵衛、1656~1737)という学者だそうです。

【史実的見処】

実の親子ではない、後継ぎ徳川綱條(養嗣子)面会の場面でよそよそしい「つなえだ殿」と遠慮がちに呼びかけます。逆に高松藩2代目藩主松平頼常(光圀実子)には優しく上座から「よりつねどの~」「父上」と親子の情を感じさせる設定に成っていますね。

今回は、南部支藩八戸藩?へ行くようです。震災もありましたからね~。もし上の様な場面が有りましたら注目です。

また、他の時代劇にも見られるため水戸黄門のみの話ではありませんが、「藩」や「藩主」といった名称は後世のものであり、江戸時代においてはそのような呼称は用いていません。これ最初私も苦労したんです。ブログを全て過去と同じに表記しようと思ったからです。ハッキリ言って無理です。例えば私が但馬出石藩士だったと仮定しましょう。ブログで名前を呼ぶには、「但馬国出石仙石家御家中○○市郎右衛門」がとなります。「出石藩○○市郎右衛門」!どうですか藩を使うと簡単ですよね~、つまりそういうことです。(笑)

光圀の敵役として柳沢吉保(今回は袴田吉彦さんです。)が登場しますが、実際の光圀隠居時には柳沢保明と名乗っており、吉保を名乗るのは光圀が亡くなってからです。

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(いつも適役でかわいそう?今の袴田さんならうってつけか?柳沢吉保公)
CIMG1670.jpg(奈良大和郡山城内にある柳沢神社です)
CIMG1678.jpg(息子が柳沢吉保を祀っています。)

毎回うるさ型の家老として、水戸藩国家老・山野辺兵庫が出演していますが、実際の光圀隠居時にはすでに亡くなっています。

最後に、但馬豊岡藩の藩主(藩が使えると楽でしょ)として京極高永が出演していましたが、実際の光圀隠居時の豊岡藩主は祖父の京極高住である。高永が豊岡藩主に就任するのは、1726年です(重箱のすみをつついて申し訳ありませんが)これも期待の表れです。

【最後に黄門様のお墓】

「墓所」 常陸太田市瑞竜町の瑞龍山にあり、現在、日本最大の儒式墓所となっています。
「霊廟」 母の菩提寺である常陸太田市新宿町の久昌寺の義公廟があります。
「奉斎神社」 水戸市常磐町鎮座の常磐神社に主祭神として祀られます。神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。

【まだ行くか~雑学王?】

私が子供の頃「仮面の忍者赤影」というヒーロー物がありました。前水戸黄門の里見浩太郎さんが木下藤吉郎役で出演されています。秀吉といえば「猿面冠者」といわれた天下人。個性的な俳優さんがキャスチングされるのがほとんどです。なんと40年前の里見浩太朗さんですよ~ビックリです(爆)

いや~時代劇まだまだ語りつくせませんが、今日はこの辺で失礼しときます。

いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!
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