2018/01/04

新年はやはり神社から「伯耆国一宮」『倭文神社』

皆さん、明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願い致します。年末にひいた風邪の体調回復が思わしくなく、初記事が4日にずれ込んでしまいました。毎年おおくりする初日の出ですが、元旦は実家但馬に居たので、「初日の出」は曇りで撮影することが出来ませんでした(残念&申し訳ない)。

初詣も例年は、但馬一宮の出石神社に出掛けるのですが、そちらもままならずに元日神戸に帰宅しました。結局初詣は、昨日神戸の我が家からには一番近い「有間神社」に詣でて来ました。おみくじは『大吉』今年は良い年になる予感がします。

P8260042.jpg(伯耆国一宮鳥居)

ということで、関連性は無いのですが、同じ一の宮繋がりとお正月はお宮参りでしょということで、伯耆一宮の『倭文神社(しとりじんじゃ)』をご紹介したいと思います。

今年も私と一緒に日本の歴史散策にお付き合いくださいね~。それではみんなで~~「歴史にGO!」

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【伯耆一宮『倭文神社(しとりじんじゃ)』って何処?】



P8260171.jpg(神社への道すがら、平成28年10月21日の鳥取県中部地震マグニチュード6.6の傷跡が残っていました。)
P8260043.jpg
(鳥居の扁額「伯耆一宮倭文神社」)
P8260054.jpg(神門歴史を感じますね)

『倭文神社(しとりじんじゃ/しずりじんじゃ)』は、鳥取県東伯郡湯梨浜町大字宮内にある神社です。式内社、伯耆国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社と成っています。境内にある経塚は国の史跡に指定され、出土品は国宝に指定されています。

倭文神社拝殿所在地:鳥取県東伯郡湯梨浜町大字宮内754
主祭神:建葉槌命
社格等:式内社(小)

機織に携わった氏族である倭文氏が祖神の建葉槌命を祀ったのが起源とされています。ただし、社伝には下照姫命に関するものが多く、大正時代までは下照姫命が主祭神であると考えられていました。社伝によれば、出雲から渡った下照姫命が現在の湯梨浜町(旧羽合町)宇野に着船し、御冠山に登って現在地に鎮まったといわれます。

着船したと伝えられる場所には、下照姫命が化粧を直したという「化粧水」や、腰を掛けたという「お腰掛岩」などが残っています。これについて、『式内社調査報告』では、元々は織物の神である建葉槌命を祀っていたのが、当地で織物が作られなくなったことにより建葉槌命の存在が忘れさられ、共に祀られていた下照姫命だけが残ったと推察されています。

具体的な創建年代は不明ですが、平安時代初期にあたる大同3年(808年)の医学書『大同類聚方』には「川村郡倭文神主之家所傳方 原者下照姫神方也 中暑小便止 頭痛煩熱 口乾者與之」(原文)という記述があり、これが文献上の初見とされています。

【主祭神に返り咲いた?建葉槌命とは!】

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(犬年に、狛犬阿形、出雲型の見事な狛犬です。)
P8260121.jpg
(狛犬云形、来待石ですね~見事です。)
P8260117.jpg(拝殿も綺麗でシンプル。)
P8260104.jpg(寝殿の鰹木は3本男神様です。千木も外削ぎ、同じく男神様です。アッ!一概には言えないそうですねんの為)
P8260095.jpg(神社を巡るように成って彫り物も興味が出ました。素晴らしい麒麟と牡丹ですか?)
P8260086.jpg(拝殿の中も綺麗で心洗われるようです。)

建葉槌命(武葉槌命・たけはづちのみこと)は、『日本書紀』に登場する倭文神で、経津主神(ふつぬし)・武甕槌命(たけみかずちのみこと)では服従しなかった星神香香背男(ほしのかがせお)を征服した神とされます。経津主神・武甕槌命は国譲りを成し遂げた武神として有名ですね。香取神社と鹿島神宮に祀られているので、関東の皆さんもご存知ですよね。ちなみに古事記では、「建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)」や「建御雷神(たけみかづちのかみ)」と記載される「タケミカズチ」しか出てきません。

別名と同一視されるのは天羽槌雄神(あめのはづちのおのかみ)で、日本神話の神です。こちらの方をご存知の方々も居られるかもしれません。『古語拾遺』に登場する。天羽雷命(あめのはづちのみこと)や、倭文神(しとりのかみ)、倭文神(しずのかみ)とも呼ばれます。

天照大神を天の岩戸から誘い出すために、文布(あや)を織ったとされます(女性的なのに、武神の一面も有るとは面白いですね~。)。文布は倭文布とも倭文とも書き、「シドリ」また「シヅリ」という織物の事です。同じ織物の神では栲幡千々姫命、天棚機姫命が挙げられますが、天羽槌雄神は機織りの祖神とされています(織女と違い機織工神なのですかね?)。また倭文(しどり)氏の遠祖でも有ります。

信仰としてはどちらの名でも織物の神、機織の神として信仰され、全国の倭文神社、静神社、服部神社などで祀られています。

【下照姫命って?】

下照姫命(したてるひめ)は、日本神話に登場する女神です。『古事記』、『日本書紀』などに記述される他、『先代旧事本紀』などでも記述されています。

『古事記』では、大国主神と多紀理毘売命の娘で、阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこね)の 妹として。『日本書紀』では、顕国玉(大国主)の娘として。『先代旧事本紀』地神本紀では、大巳貴神(大国主)と田心姫命の娘で、味金且高彦根神の同母妹として記載されています。

『古事記』の大国主神の系譜においては、アヂスキタカヒコネの同母妹と記されています。そのため、高比売(高姫)はシタテルヒメの別名とされるが、姉妹の別神とする解釈もあるようです。『先代旧事本紀』地神本紀では、大巳貴神と高津姫神の子、都味齒八重事代主神の同母妹に高照光姫大神命がおり、これと混同された可能性もあります。

『古事記』および『日本書紀』本文によれば、葦原中国平定のために高天原から遣わされたアメノワカヒコと結婚しました。天若日子が高天原からの返し矢に当たって死んだとき、シタテルヒメの泣く声が天(『古事記』では高天原)まで届き、その声を聞いたアメノワカヒコの父の天津国玉神は葦原中国に降りてアメノワカヒコの喪屋を建て殯を行っています。

それにアヂスキタカヒコネが訪れたが、その姿がアメノワカヒコにそっくりであったため、天津国玉神らはアメノワカヒコが生き返ったと喜びました。アヂスキタカヒコネは穢わしい死人と間違えるなと怒り、喪屋を蹴り飛ばして去って行きます。シタテルヒメは、アヂスキタカヒコネの名を明かす歌を詠みました。この歌は「夷振(ひなぶり)」と呼ばれる(夷振を詠んだという記述は『日本書紀』本文にはありません)。『日本書紀』の第一の一書では、アメノワカヒコの妻の名は記されておらず、夷振を詠んだ者の名としてのみシタテルヒメの名が登場し、アヂスキタカヒコネの妹と記載されています。

漢字・ひらがな・カタカナが混ざって混乱すると思いますが、基本的には漢字の前には「記紀」の記述どちらであるか記しています。ひらがなはその漢字の読み、カタカナは「記紀」両方の物語として簡略化して書いたものです。私的には「古事記」を正史と考えていますが、神社のご由緒には「日本書記」の記述が多いので説明文にご由緒を用いた時は、「日本書記」の記述に成っていることもあります。以上の事を踏まえて、同一人物にも関わらず漢字が違っていたり、読みが違っている事も有ると思いますが、ご容赦ください。

【配神】

通常、神社では複数の神を祀っており、その中で主として祀られる神を主神(しゅしん)・ 主祭神(しゅさいじん)、それ以外の神を配神(はいしん)と呼びます。

下照姫命:大国主と多紀理毘売命の娘
建御名方命:事代主命の弟、諏訪神社で有名
天稚彦命:下照姫命の夫、下照姫命と結婚し8年も高天原に連絡なし
事代主命:大国主の息子、恵比須神)
少彦名命:小人神、大国主とペアで祀られる事が多い
味耜高彦根命:下照姫命の兄、同じ両親

【経塚】

P8260135.jpg(経塚はこちら参道から少しだけ登ります。滑るのでトレッキングシューズが必要ですね。)
P8260057.jpg(説明版の出土品目録。)
P8260141.jpg(神様の墓ですよ、よく発掘調査出来ましたね~笑)
P8260142.jpg(穴のような物がありました。)
P8260152.jpg(国宝経筒出土場所。)

境内の塚が下照姫命の墓であると考えられていたが、大正4年(1915年)の発掘により経塚であることが判明しました。その出土品の銘文から、当社が平安時代後期には伯耆国一宮であったことがわかっています。このときの出土品である観音菩薩立像などは「伯耆一宮経塚出土品」の名称で、一括して国宝に指定されています。

先日、国宝展で足利義満が埋めた、国宝の経筒(経典を後世に遺すため埋納した塚)を見ることが、出来ましたが、此方も負けず劣らず素晴らしいものです。現在は東京国立美術館に所蔵されているようです。

戦国時代、当地を治めた武将に社領を没収され荒廃しましたが、天文23年(1554年)に尼子氏が社殿を再建しています。また、地元の国人・南条氏からも寄進を受け、その後江戸時代、当地を治めた池田氏も崇敬し、鳥取藩主の祈願所となっています。昭和14年(1939年)、国幣小社に列格し、第二次世界大戦後は別表神社となりました。

かつて主祭神であった下照姫命が女神であることから、安産に霊験があるとされています。本殿の後には、かつて「乳神」と呼ばれる神木がありましたが、現在は倒壊しています。

参道沿いには「安産岩」と呼ばれる岩があります。昔、毎回難産に苦しんでいた女性が願かけをし、その満願の日の夢に下照姫命が姿を現し、参詣の帰途、この岩の所で簡単に出産したため安産岩と呼ばれるようになったと伝えられます。この岩を削って飲むと霊験があるとされ削り後が有ります。

P8260170.jpg(安産岩右に削り跡があります。夫婦岩などもありました。)

【さあお宝、伯耆一宮経塚出土品(国宝)】

P伯耆一宮経塚出土品
(Wikipediaよりお借りしました。東京国立博物館展示、右奥は銅経筒、その手前は左から銅板弥勒像、銅鏡、銅銭、瑠璃玉。)
P伯耆一宮経塚出土_金銅観音菩薩立像・銅造千手観音菩薩立像
(Wikipediaよりお借りしました。出土品のうち金銅観音菩薩立像(左)・銅造千手観音菩薩立像(右))

伯耆一宮経塚出土品 一括(考古資料)内訳は以下のようなものです。大正4年(1915年)、社殿の南南東180メートルほどのところにある経塚(経典を後世に遺すため埋納した塚)から出土した一括遺物。銅経筒は径20センチ、高さ42.5センチで、円筒形の筒身に宝珠鈕付き、屋根形の蓋を付す。筒身には15行236字の銘文が線刻され、康和5年(1103年)に京尊という僧が埋納したものであることがわかりました。出土品のうち、金銅観音菩薩立像は奈良時代にさかのぼる作品です。出土品一括は東京国立博物館に寄託。1920年(大正9年)4月15日、当時の古社寺保存法に基づく旧国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定されます。1953年(昭和28年)3月31日に国宝に指定されました。

銅経筒 1口 康和五年十月三日伯耆一宮辰巳岳上奉埋納在銘
金銅観音菩薩立像 1躯
銅造千手観音菩薩立像 1躯
銅板線刻弥勒立像 1面
銅鏡 2面
桧扇残片 一括
短刀刀子残闕 一括
瑠璃玉 一括
銅銭 2枚
漆器残片 一括

【今日の一言は何故神社に経塚?】

何故神社に経塚が埋められていたのでしょう。平安時代も末期に成ると神仏習合が進み、神社にも神宮寺というお寺ができるようになります。

世界遺産の日光東照宮は神社で、家康は東照大権現という神様ですが、作った家光は日光山輪王寺に大猷院に廟所(墓所)がありお寺に眠っています。境内には世界遺産に 登録された22件の国宝、重要文化財が建ており、315基の灯篭も印象的です 。日本人らしくて良いではありませんか、多くの文化を柔軟に受け入れる日本人の美徳がそこに有るように感じました。

歴史って本当に面白いですよね~!
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リュミエールブラン ネージュ

2017/12/30

鶴の恩返しならぬ「亀の恩返し」?西国三十三所第22番札所『総持寺』

皆さん今年の年末風邪には、お気を付けください。この一週間下痢から始まり、頭痛、鼻水、くしゃみの後に、喉の痛みに、咳と続き、最後が高熱38.2℃、インフルエンザかと思いましたが一日で下がって、ようやく今日まともに動けるようになりました。

家族は本日半日だけ有った私の仕事に都合で、先に妻の実家に帰省しましたが、義弟妹の子どもたちはまだ小さいので、仕事終わりに妻の実家の餅つきに参加するつもりでしたが、中止して明日直接実家に帰省する事にしました。

CIMG8756.jpg
(西国三十三所第22番札所『総持寺』の名石も亀に乗っています。)

「須恵器(馬肉会)」以来ブログを更新できる状態ではなく、皆さん何しとるん?と思われたかもしれませんが、風邪ひきで寝込んでいたのでした。

今日は今年最後となる、歴史ブログをありがたい亀のお話で皆さんの長寿を願おうと考え、西国三十三所第22番札所『総持寺』をご紹介します。

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【総持寺はどんなお寺なの】

CIMG8744.jpg(山門中々立派ですね。)
CIMG8747.jpg(大師堂)
CIMG8751.jpg(お庭も綺麗です。もちろん亀がいっぱいです。正面は薬師堂です。)
CIMG8752.jpg(不動明王を祀る不動!堂そのまんまやん)

総持寺(そうじじ)は、大阪府茨木市にある高野山真言宗の寺院です。山号は補陀洛山 (ふだらくさん)。西国三十三所第22番札所で本尊は千手観音です。

観音様の台座といえば、美しい蓮華座が定番。とはいえ仏像界を見わたせば、邪気を踏み付ける四天王、像や獅子に乗る菩薩さまと個性的な仏像もたくさんある中で、総持寺の御本尊「千手観音菩薩像」稀有な存在感を示しています。本堂に祀られた御本尊(秘仏なためつうじょうはお前たち)で注目すべきは足元です。神獣の一つとされる亀が観音様を凛々しく支えています。この組み合わせは寺の縁起に由来するものなので歴史をご紹介しましょう。

【総持寺の歴史】

p1596843250.jpg
(本尊御影200円、お金の問題じゃないですよ、(;^_^A)
CIMG8748.jpg
(御前立、御本尊のレプリカに成るのかな?総持寺のご本尊は像高75.4cm、亀に乗った「千手千眼観世音菩薩」です。秘仏となっていますが、毎年4月15日~21日のみ開扉されているそうです。)

総持寺の草創説話は、助けた亀の恩返しと観音の霊験に関するもので、寺所蔵の縁起絵巻のほか、『今昔物語集』などにも納められたエピソードです。それによると、開基藤原山蔭の父・藤原高房は、漁師たちが大亀を捕らえているのを見、「今日18日は観音様の縁日だから」と言って、亀を買い取って逃がしてやりました。

その日の夜、高房の子・山蔭は、継母の計略で船から川に落とされてしいます(今昔物語を馬鹿にするつもりはありませんがストーリーが安直過ぎませんかね?笑)。父の高房はこれを悲しみ、観音様に祈ったところ、高房が助けた亀が、山蔭を甲羅に乗せて現れたと言います。それを感謝した高房は、観音像の造立を決意しましたが、それからすぐに高房は亡くなってしまいました。

息子の山陰が遺志を継ぎ、仏師を探すため、長谷寺へ籠もり祈願すると。ある朝、観音様のお告げで童子姿の仏師に仏像の作成を依頼すると、「仏様を彫刻する千日の間は誰もこの仏舎に入らぬ事。また、山蔭卿自身で私の食事を作ること」を申し付けられました。

そして千日目の朝、童子(長谷観音の化身)は空に飛び立っていきました。驚いて中に入ってみると、亀の背に千手観音像が立っており、その前には千日間の食事をお供えしてあったそうです。つまりは長谷観音が願を聞いてお造りになったということですかね?伝説はさておき、藤原山蔭が報恩のため観音像を造立し祀ったのが当寺の起源だといわれています。

寺伝では元慶3年(879年)頃、藤原山蔭が創建し、山蔭の三回忌の寛平2年(890年)に伽藍が完成したとされます。

【藤原山蔭ってどんな人】

藤原 山蔭(ふじわら の やまかげ)は、平安時代前期の公卿。越前守・藤原高房の三男。

うんちく『公卿(くぎょう)』って何、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位の事です、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上「非参議」)の高官(総称して議政官という)を差す用語です。参議は従三位以下でも任命されます。山蔭は従四位上で参議となっています。

仁寿4年(854年)の左馬大允を振り出しに衛門少尉を務めた後、天安2年(858年)3月に皇太子・惟仁親王の春宮大進に任ぜられ、同年11月の惟仁親王の即位(清和天皇)に伴い従五位下に叙せられます。

清和朝では天皇の側近として蔵人・近衛少将を務める傍ら、備後権介・伊予介・美濃守と地方官を兼ねる。貞観6年(864年)従五位上に叙せられてから10年近く昇進の機会がなかったが、貞観14年(872年)の太政大臣・藤原良房の没後に俄に昇進し、貞観15年(873年)正五位下、貞観17年(875年)従四位下・蔵人頭兼右近衛権中将に叙任されます。

昇進問題は私的にも縁が無いのでどうでもよいのですが、山蔭は「やめたいやめたい」と言い続けながら昇進していくのが面白いのでちょっとご紹介します。

貞観18年(876年)12月に陽成天皇が即位すると、清和上皇に仕えるために近衛中将の辞任を重ねて奏上し、翌貞観19年(877年)正月に一旦中将の辞任を許されます。しかし早くも翌月には右大弁に任ぜられたため山蔭は再度辞任を上奏するが、陽成天皇の強い慰留を受けて、太上天皇宮別当を兼帯しながら右大弁を務めることになっています。

元慶3年(879年)正月に従四位上に叙せられるが、同年5月の清和上皇の出家に前後して山蔭はまたも致仕(官職を辞して隠居すること。)の上奏を重ねて行うも許されず、逆に10月には参議に叙任され公卿に列しています。元慶4年(880年)清和上皇が崩御されますが、山蔭は出仕を続けて元慶5年(881年)左大弁、元慶6年(882年)正四位下に叙任されています。

光孝朝の仁和2年(886年)従三位・中納言に至る。仁和4年(888年)2月4日に薨去。享年65。最終官位は中納言従三位兼行民部卿。どうですか?分かりにくいと思うので、最初の「左馬大允」が名前の通り御所の馬屋番の課長クラスだと思います。最後の従三位・中納言は正に水戸黄門様ですね。豊臣秀吉程ではないですが、大岡越前よりは断然凄い出世ですね(余計分かりにくくなりましたかね)。

四条流庖丁式の創始者としても知られています。これまで磐鹿六雁命の末裔高橋氏が庖丁式を執り行っていましたが、光孝天皇の命により今までとは別の新たな庖丁式(料理)を編み出した。料理というよりは、平安時代より伝わる、庖丁師により執り行われる儀式の事です。(こちらも寺の伝承と重なる処がありますね。)

烏帽子・直垂、あるいは狩衣を身にまとい、大まな板の前に座り、食材に直接手を触れず、右手に庖丁、左手にまな箸を持ち食材を切り分け、並べる儀式のことを庖丁式といいます。時々TVでも見たことが有ります。総持寺には山陰が料理の名人であったことに因む「山陰流包丁式」や包丁塚があり、料理人の崇敬を受けている事でも有名です。

CIMG8753.jpg(包丁塚)


【続・総持寺の歴史】

CIMG8755.jpg(開山堂)
CIMG8745.jpg(慶長8年再建の本堂)

総持寺縁起には、元亀2年(1571)織田信長の兵火により焼失と記されています。この兵火は正確には、元亀2年(1571)8月の白井河原合戦で和田惟政を破った荒木村重ら池田衆の茨木・高槻への攻撃・放火などによるものだとみられます。ルイスフロイスの「日本史」では荒木村重をはじめとする池田衆らが高槻を放火したとあり、総持寺もこの時の戦火を受けたものだと思われます。

「信長公記」にみえる織田方の拠点「惣持寺砦」のあった場所との記載もあり、白井河原合戦の戦火に見舞われた際、本尊の観音は上半身が焼けずに金色に輝いていたことから「火除け観音」として、信仰を集めたとも言われます。再建は慶長8年(1603)、豊臣秀頼の名のもと諸社寺修造が行われた際、片桐且元が奉行となり、総持寺も再建されました。

【今年最後の一言】

山陰は藤原北家(藤原鎌足・不比等・義満などに連なる名門)仙台伊達宗家初代当主・伊達朝宗、仙台藩祖17代達政宗は子孫にあたるらしいです。開基が藤原山陰ということで、明日山陰但馬に帰省するにふさわしい落ちが着きました。

伊達宗家初代当主伊達朝宗、第3代義広の代に分家。鎌倉時代に但馬国の地頭職に補任され土着しています。但馬で伊達さんってあんまり知らないし?同級生にも居なかったけど、結構凄い血脈ですね~中臣 鎌足ですよ、大化の改新(乙巳の変)の、だから歴史は面白いのですよね~皆さん良いお年をお迎えくださいね。それでは来年もよろしくお願いいたします。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/12/26

器として生まれたからには『須恵器』を使ってみようではないか?

昨日、Blogger仲間恒例の馬肉会(ブログオフ会・クリスマスイベント・過去最高人数)が有りましたので、歴史ブログを書いている私としては、サプライズ企画として、約1500年前の『須恵器(すえき)』を実際に料理の器として使ってみる事にしました(近頃危ない企画が多いかも知れません・笑)。

『須恵器(すえき)』は、日本で古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器(炻器)です。青灰色で硬いのが特徴で同時期の土師器とは色と質で明瞭に区別できます。

器として生まれたからには、器として使ってみよう。歴史好きの無謀なチャレンジですが、けして偽物でも盗品でもありません。偶然がかさなって私の手元に有る物で、形としては多く出土している須恵器の蓋部分かもしれません(考古学の博物展示場では多く見られるものです)。しかし料理の器として使った人はあまりいないのではないでしょうか。(笑)

PC260070.jpg(高菜御飯と具沢山スープに「須恵器」使用、角皿は丹波焼の清水剛さんの作品、蓮華は金城貴史さんの作品。市松模様のおてしょうは私の作品です。)

と勇んで、馬肉会会場のお店に行ったのですが、1500年前の器と聞いた大将が割れたらあかんやんと?使ってもらえませんでした。

それでは自分でと一日遅れで、わが家で使ってみました~(*^^*)。勿論その他に持っていった備前焼の器は使っておりますので、美味しい料理と共にお楽しみ下さい。なお場所(おおよそ関西とだけ・笑)と店名は馬肉会の性質上お教えする事は出来ません。ごめんなさい!毎月行われていますので、参加希望がございましたら幹事長(本人は「知らん」と申しておりますが!)taka:a氏もしくは、幹事代行の私(市郎右衛門)までご連絡ください。

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【『須恵器(すえき)』って何?】

PC250004.jpg(今日の馬肉会は、軽くおでんから始まりました。遅れて行ったので、その前にアボカドと海鼠があったはずです。)

「須恵器」歴史の教科書で学習しましたよね~。平安時代には「陶器」と書いて「すえもの」「すえうつわもの」と読まれていましたが、それが古墳時代までさかのぼるのかは分かっていないようです。陶器(とうき)と混乱を避けるため、現代の考古学用語としては須恵器が一般化しています。

PC260076.jpg(わが家の「須恵器」は小ぶりです。特徴的な青灰色は酸化第二鉄が還元されて酸化第一鉄に変質されるためです。1500年前の器、風格が有ります。)

須恵器の起源は朝鮮半島(特に南部の伽耶)とされ、初期の須恵器は半島のものと区別をつけにくいほど似ている様ですが、用語としては日本で製作された還元焔(かんげんえん・酸素が足りない状態で燃焼が進行する焼き方の事、つまり不完全燃焼といえば分かりやすいかな?)焼成の硬質の焼物だけを須恵器と呼んでいます。朝鮮半島のものは、普通名詞的に陶質土器と呼ばれるか、伽耶土器・新羅土器・百済土器などともう少し細分化した名で呼ばれています。

【それでは、『土師器(はじき)』って何?】

PC250014.jpg(生ガキ~~~!)

「縄文土器」から「土師器」までの土器は、日本列島古来の技法である「輪積み(紐状の粘土を積み上げる)」により成形され(現代でも輪積み・巻き上げ・紐づくりなどと呼ばれて陶芸教室で最初に教わる技法です。)、野焼きで作られていました。このため焼成温度が800~900度と低く、強度があまり有りませんでした。また、酸化焔焼成(酸素が充分に供給される焼成法)となる為に、表面の色は赤みを帯びることになります。

それに対し、「須恵器」は全く異なる技術(轆轤技術)を用いて成形し、窖窯(あながま)と呼ばれる地下式・半地下式の登り窯を用いて1100度以上の高温で還元焔焼成されることで強く焼締まり、従来の土器以上の硬度を得ました。閉ざされた窖窯の中では酸素の供給が不足しますが、高熱によって燃焼が進む事に成ります。

PC250008.jpg(キンキの刺身ですが表面軽くあぶってあります。この器は私の備前焼との出会いジェイムスイラズムスさんの備前火だすき?ゴマです。)
PC250040.jpg(キンキの熱物)

燃料からは、酸素が十分なら二酸化炭素と水になるところ、一酸化炭素(不完全燃焼といえば、一酸化中毒ですよね)と水素が発生します。これが粘土の成分にある酸化物から酸素を奪ってしまいます。つまりは還元することで二酸化炭素と水になる事に成ります。「須恵器」の特徴的な青灰色は、粘土中の赤い酸化第二鉄が還元されて酸化第一鉄に変質するために現れます。

【古墳時代の須恵器】

PC250038.jpg(タグ付き鳥取産の松葉蟹・船の名前まで付いているのは珍しいです。大将が愛情込めて剥いてくれます。)
PC250026.jpg(練り物は、さつま揚げ?)
PC250029.jpg(もちもちの関サバなり!)

高温土器生産の技術は、中国江南地域に始まり、朝鮮半島に伝えられました。『日本書紀』には、百済などからの渡来人が製作したの記述がある一方、垂仁天皇(垂仁3年)の時代に新羅王子天日矛とその従者として須 恵器の工人がやってきたとも記されています。そのため新羅系須恵器(若しくは陶質土器)が伝播していた可能性も有りますが、現在ではこの記述と関係が深いと思われる滋賀県竜王町の鏡谷窯跡群や私の実家近く、天日矛が住んだといわれる旧但馬地方でも初期の須恵器は確認されていません。ですから、この技術は百済から伽耶を経て日本列島に伝えられたと考えられています。

今日使用している「須恵器」も天日矛が住んだといわれる但馬地方の物ですが、それほど古い(須恵器としては)物では無いと思います。

PC250030.jpg(18キロのヨコワ、もうヨコワと言えるんか?赤身・中トロ・トロですね。)
PC250010.jpg(マグロの目玉、コラーゲンが凄い、taka:aさん・女性陣に大人気!こちらの備前焼は、人間国宝伊勢崎淳先生の弟子、石川泰次郎さんの窯変ボウル。)

考古学的には、大阪府堺市・和泉市・大阪狭山市・岸和田市にまたがる泉北丘陵に分布する陶邑窯跡群の発掘調査と、一連の編年的研究により、須恵器の出現は古墳時代中期の5世紀中頃とされていましたが、近年では、陶邑窯跡群内に含まれる堺市大庭寺遺跡や、野々井西遺跡において、より古い段階に位置づけられる須恵器が発見され、少なくとも5世紀前半頃には、朝鮮半島から陶質土器が持ち込まれるのとほぼ同時に生産技術も招来され、須恵器生産が開始されたことが明らかとなっています。

このほか最初期に須恵器生産が始まった場所(窯跡)として福岡県の小隈・山隈・八並窯跡群が知られています。また、吹田市吹田32号窯、岡山県奥ヶ谷窯跡、香川県宮山1号窯・三谷三郎池西岸窯跡、福岡県夜須町山隈窯跡などの初現期の窯跡も日本各地に造られました。これらはいずれも伽耶系と考えられています。

PC250049.jpg(明石のタコ)
PC250047.jpg(あん肝)
PC250044.jpg(厚揚げ)

このうち大阪府の「陶邑窯跡群」は日本列島最古かつ最大であり、日本三大古窯の一つに数えられています。天皇陵を含む百舌鳥古墳群と地理的に近接しており、やがてヤマト王権の管理のもとで、同じ規格の製品を生産するよう統御されるようになったと考えられます。そのような「品質管理」の状況を物語る遺跡として堺市の深田遺跡や小角田遺跡が挙げられます。

6世紀代に列島各地に須恵器窯が造られました。これらの須恵器窯で多くの陶邑様式の須恵器が生産されています。福岡県大野城市・春日市・太宰府市にまたがる「牛頸窯跡群(三大古窯の一つ)」、兵庫県明石市・三木市付近に分布する東播地域窯跡群、岐阜県岐阜市の美濃須衛窯跡群、愛知県尾張地方東部の「猿投窯跡群(三大古窯の一つ)」、静岡県湖西市の湖西窯跡群などがあげられます。

この窯跡群の拡散を陶邑工人の地方拡散と考える説、現地(ヤマト)工人が陶邑様式を受け継いで生産したとみる説とが有ります。微妙な地域差が見出せるものの、列島的規模での規格化の力が働いていることは確かなようです。このことから、須恵器生産においてヤマト王権が主導的役割を果たしていたと考えられます。

古墳時代の須恵器は、主に祭祀や副葬品に用いられました。初めのうち古墳からの出土に限られ、普及が進んだ後期になると西日本で集落からも出土しています。西日本では須恵器、東日本では土師器が優勢という違いが現れます。

【奈良時代から平安時代へ土師器の品質向上と釉薬の出現】

PC250019.jpg(いつに成ったら出るんだ馬肉~!これです。かいの身、めっちゃ甘い抜群に美味しい。こちらもジェイムスイラスムスさんの炎が張り付いたような備前焼き。)
PC250022.jpg(よだれが落ちる~~!馬レバーの刺身!「こりこり」っす。)

奈良時代以降になると、各地方で国分寺の瓦を焼成するために、瓦窯とともに須恵器焼成窯が造られるようになります。国や郡の官衙での使用が柱にあったが、それだけに留まらず日常の器としても盛んに用いられるようになって来ました。須恵器生産は蝦夷に対峙する城柵の設置にともなって東北地方にも達しています。

平安時代には、これまで須恵器生産が盛んだった西日本で一郡一窯の体制から一国一窯への収斂がみられ、産地の数が減る傾向が現れます。地方統治における郡の役割の低下と、国の役割の向上が背景にあるとも言われます。しかし辺境域の東日本では逆に生産地拡散の傾向がみられ、関東地方では新規の窯が増えています。東北地方中部・南部でも奈良時代には少なかった須恵器が9世紀には盛んに製作されました。しかしそれも9世紀末には衰退し、土師器系の土器にとってかわられる形で須恵器生産は10世紀に絶えることになりました。

【須恵器の衰退】

PC250054.jpg(最後はモノグラムさん持参のロ-ルケーキで締めました。)

この背景には、 古墳時代初頭に大陸から伝来して 始まった須恵器の生産は、奈良・平安時代へと引き継がれていきましたが、皮肉にも、器物に上薬(釉薬)をかける技法が朝鮮半島から伝来し、平安時代末期には良質な輸入陶磁器の増加などにより「須恵器」の製造が衰え、やきものの主流は、光沢のあるガラス化した釉薬(ゆうやく、うわぐすり)が表面にほどこされた陶器に変化します。

現在六古窯といわれる、信楽、備前、 丹波、越前、瀬戸、常滑の窯場が有名ですが、その中でも私の好きな備前焼は釉薬を用いない焼成方法を用いる事、また還元状態を作り出す等の陶工の工夫で、多くの窯変と呼ばれる変化を見せます。備前焼は須恵器の継承と言って過言ではないかと考えます。

馬肉会参加者「taka:a・ビー玉・ちょび・みーな・えたばりゅ・ものグラム・そして私市郎右衛門」みんな敬称略してごめんね~。
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時間を忘れるほど楽しかった。ちょっと風邪気味で、もしかしたらみーなちゃんに移しちゃったかもしれません。みーなファンの皆さん許してね~。


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リュミエールブラン ネージュ

2017/12/24

『日蓮聖人真筆曼陀羅』なのか?言いっぱなし、我が家の「日蓮宗」

前回我が家の「家の宗派」として『日蓮宗』を取り上げました。代々、寺記録(檀家寺創建自体がその頃なので)としては、羽柴秀吉の但馬制圧以前から日蓮宗を信仰してきたようです。

450年の昔ということに成りますので、他の仏教宗派やその他の宗教を信仰されておられる方々には、何の価値も無いのですが、わが家にとっては御先祖様からの贈り物として大事に?守り続けているものが有るので、二点ほど紹介したいと思います。

CIMG7747.jpg(今日は美しく雪の銀閣から)


(゜ロ゜;!そうそう、前回も申しました様に、日蓮宗の宣伝・広告のつもりは全く有りませんし、私も今日は長女のChristmasプレゼントを用意しながら、午後は、お正月の神棚飾りを購入予定です~f(^_^;。中立を保とうと努力する管理人の姿勢をご理解お願います。

そういえば、前々回で一旦終了した「関ヶ原」シリーズですが、新聞を読んで居りますと、関ヶ原の前哨戦で焼けた石垣が発掘・発見されたニュースが有りました。焼け落ちた城跡の石垣(幅4.2メートル)は火災で表面の一部が赤く変色しており、ひび割れや欠けも見つかったそうです。次々に発見される歴史の欠片?来年も楽しみですね(#^.^#)

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【日蓮上人の板曼陀羅】

言いたい放題と題しましたが、本当に言いたい放題すると、大変な事に成りますので(笑)常識的な所からお付き合い下さい。『日蓮(にちれん、貞応元年(1222年)2月16日~-弘安5年(1282年)10月13日)』は、鎌倉時代の仏教の僧侶です中学時代?高校時代に歴史で勉強しましたね。

鎌倉仏教のひとつである日蓮宗・法華宗の宗祖です。滅後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈されています。

ここで難しい問題が少しあるのですが、我が家の宗派としての日蓮宗は分裂習合を繰り返しているために、ちょっと難しいです
。前回京都二大本山六本山と申しましたが、これは1941年(昭和16年)、三派合同により成立した現行の「宗教法人・日蓮宗」の事です。身延山久遠寺を総本山としています(顕本法華宗(日什門流)、本門宗(日興門流)が、対等の立場で合併(三派合同)して発足しています。)。

ですから、現在も日蓮宗と法華宗の各派合わせて十六本山が京都には存在していますが、教義の違いなどで必ずしも一枚岩ではなかった時期もあったということです(以前ご紹介した本能寺は法華宗大本山ですが京都十六本山にふくまれていません)。

この分裂には御本尊を釈尊とするか?釈迦が末法と予言された鎌倉時代(結構釈尊もいい加減?ですが)に出現した日蓮とするかの一点と、諸門流のうち、所依の法華経を前・後半で迹門(しゃくもん)・本門(ほんもん)に二分し、本門が迹門に優れるという勝劣をたてる諸派(勝劣派)と。二つで一つとする一致派の分裂が有ったからです。

そういう意味では、日蓮正宗さんや創価学会さんも分裂派なんです(;^_^A。池田大作さんが神様(日蓮の生まれ変わり)といわれ、政治部門の「公明党」を造られた方と元が同じといわれても実感わかないですけどね~(笑)。読まれた方が気を悪くされましたら読み飛ばしてください。オウム真理教のように、犯罪行為が起きないかぎり信心は自由だと思っておりますので。

今回お見せする我が家のお宝第一弾は、日蓮正宗大本山大石寺の秘仏?日蓮直筆板曼陀羅と同じものです(同じものではないですね)。ほぼ同じものです(殴られるぞいつか?)。本物ならば750年前位(国宝指定されるぞおい!)偽物ですよ~どろぼうさん~そんな物がもし有ったら、どこかの美術館の館長さんお話伺いますよ~(笑)

日蓮の花押をみてください。さんずいが上から入るのも特徴的です。時代は鎌倉時代に成りますね、比べる物が無いので、京都国立博物館 「日蓮展」に出展された、「弘安三年 日蓮直筆曼荼羅本尊 静岡 妙法華寺 紙曼陀羅」と比べてもらいます。こちらは国が本物と言っているので、まがい物ではないと思います。

CIMG8075.jpg
(わが家の日蓮上人の板曼陀羅)
弘安三年 日蓮直筆曼荼羅本尊 静岡 妙法華寺
(弘安三年 日蓮直筆曼荼羅本尊 静岡 妙法華寺)
CIMG8074.jpg(花押日蓮判断は専門家と皆さんでお願します。)

【鍋がぶり日新上人】

『日親(にっしん、応永14年9月13日(1407年10月14日)~長享2年9月17日(1488年10月21日))』は、室町時代の日蓮宗の僧です。埴谷重継の子と言われ、「不受不施義」を初めて唱えたとされています。久遠成院と号しました。

上総国(現在の千葉県中部)生まれ、妙宣寺において父の実弟にあたる日英に学び、中山法華経寺に入門します。応永34年(1427年)に上洛し、鎌倉や京都など各地で布教活動を行っています。永享5年(1433年)には中山門流の総導師として肥前国へ赴き、門徒を指導したものの、その厳しい折伏(しゃくぶく・衆生教化の一方法で、悪人・悪法を、威力をもってくじいて仏法に従わせることです。今でいう無理やり勧誘ですかね)、に対して反発を買い、同流から破門されてしまいます。

鶴岡八幡宮北東角
(将軍くじ引きが行われた。岩清水八幡宮北東角鬼門が削られて角が立たないようになってます。)

同9年(1437年)再び上洛し、本法寺(京都市上京区にある、日蓮宗の本山)を開いています。日親は諸寺院を日蓮宗に改宗させ、6代将軍足利義教(石清水八幡宮のくじ引きで選ばれたことで有名な将軍)への説法の機会を得た際に他宗の喜捨を説いて建言を禁止されました。永享12年(1440年)2月、禁に背いたために投獄され、本法寺は破却となってしまいます。拷問を受けた際に灼熱の鍋を被せられたまま説法を説いたという伝説が誕生し、「鍋かぶり上人」「鍋かぶり日親」等と呼ばれています。

翌嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で義教が殺されたことによって赦免され、本法寺を再建。寛正元年(1460年)肥前で布教したために再び本法寺を破却され、8代将軍足利義政(銀閣寺を立てたことで有名、日本三大悪女とも言われる日野富子の夫)からの上洛命令を受けました。同3年(1462年)11月、千葉元胤によって京都に護送され、細川持賢邸に禁錮となるが、翌年(1463年)赦されて、町衆の本阿弥清延の協力を得て本法寺を再々建します。長享2年(1488年)に入寂、享年82。

【不受不施義】

日蓮の法華経に対する純粋な姿勢も、南北朝の戦乱や室町時代に入ると宗派が勢力を拡大していく過程の中で、他宗派との妥協や他宗派の信者からの施しを受けるなど、次第に変質していった。特に中山法華経寺に代表される中山門流は本来他宗派に対して比較的寛容であったとされ、同寺の寺宝である『立正安国論(現在国宝とされている日蓮真蹟本)』が建武3年(1336年)に律宗寺院であった鎌倉・普恩寺(現在は廃絶)に貸し与えられて書写されていた事が記録されている程でした。このような状況の中で、日親は不受不施を主張しました。

不受不施義(ふじゅふせぎ)とは、日蓮における思想の1つで、不受とは法華信者以外の布施を受けないこと、不施とは法華信者以外の供養を施さないことです。 日蓮の法華経に対する純粋な姿勢も、室町時代に入ると宗派が勢力を拡大していく過程の中で、他宗派との妥協や他宗派の信者からの施しを平気で受けるなど、次第に変質していきます。このような状況の中で、室町幕府6代将軍足利義教の頃、日親が不受不施を主張しました。

【日親の活動】

日親は京都一条戻橋で辻説法をはじめたが、比叡山延暦寺や将軍家の帰依を受けていた臨済宗などの他宗派から激しい弾圧を受けました。また、日親は法華経によって、当時の乱れた世の中を救うべく(同時代は正長の土一揆や後南朝勢力の反乱などの動乱が続いた)、足利将軍家の日蓮宗への改宗を目論み、永享12年(1440年)『立正治国論』を著して直訴を試みたが、投獄されて、舌先を切り取られたり、真っ赤に焼けた鉄鍋を頭に被せられるなどの拷問を受けます。この鍋は伝承では終生頭から取れることはなかったといわれています(熱いって~!)。

説法石(晴明石)、日親は一丈戻橋でこの石に傘を立て、辻説法を行ったという。江戸時代、1702年の夢告により当地に移された。また、安倍晴明の邸内にあったとされ晴明石ともいう
(本山本法寺、説法石「晴明石」、日親は一丈戻橋でこの石に傘を立て、辻説法を行ったという。江戸時代、1702年の夢告により当地に移された。また、安倍晴明の邸内にあったとされ晴明石ともいう。)

お宝ご紹介はその「鍋かぶり日親」直筆曼陀羅です。こちらは580年ほど前に成るので、本物ならば重文かな?

CIMG0338.jpg
(日新&花押入り曼陀羅)


【最後に一言】

京都市上京区にある、日蓮宗の本山本法寺(長谷川等伯の涅槃図が素晴らしい)をはじめ、6代将軍足利義教のくじ引きでも有名な石清水八幡宮、さらに8代将軍足利義政の銀閣寺等々、ご紹介したいところは限が無いのですが、今回は我が家のお宝で我慢してください。少しだけチラリズム発揮しときますね。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/12/20

「小泉八雲」作『水飴を買う女』のモデルに成った人物のサインがわが家に?

小泉八雲(ラフカディオハーン)の 怪談「飴を買う女」は、島根県松江市民なら知らない人は居ないし、そのモデルと成った寺は「大雄寺」といってとても有名らしいのです(残念ながら、私はまだお参りしておりません)。

そして、皆さんも必ず知っている『ゲゲゲの鬼太郎』の最初のシリーズともいえる、『墓場奇太郎』はこの「水飴を買う女」を参考に、水木しげるさんが創作されたものです(知ってましたか~?)。

PC200008.jpg(立本寺の幽霊飴です)

実は有名とは言いがたいので、皆さんご存知無いかとも思いますが、前回「島左近」のお墓を紹介した、京都日蓮宗『立本寺』の高僧が元々のモデルらしいのですがご存知でしょうか。

水木しげるさんの「ゲゲゲの鬼太郎」の原作、小泉八雲「飴を買う女」の原作?ともいえる、立本寺の高僧『日審上人』のお話をご紹介しましょう。こちらは実在の人物で、我が家に幽霊に育てられた「ご本人証拠の品」が残っているんです。

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【全国に存在する「子育て幽霊」、「飴買い幽霊」の話】

PC200013.jpg(ほんのりと甘い、心に染み入る味わいです。)

似たような話が日本各地で聞かれ、島根県松江市では藩主が舟で大溝を通ってお参りしたという「大雄寺」に伝わっています。

中原町に、水飴を売っている小さな飴屋の店があった。水飴というのは、麦芽からつくった琥珀色の糖液で、乳のない子あたえるものである。
この飴屋へ、毎晩、夜が更けてから色の青ざめた女が白い着物を着て、水飴を一厘買いにくる。飴屋は、女があんまり痩せて、顔の色が悪いものだから、不審に思って、親切にたびたび尋ねてみたが、女は何も答えない。
とうとう、ある晩のこと、飴屋は物好きに女のあとをつけて行ってみると、女が墓場へ帰ってゆくので、飴屋は怖くなって家へ戻ってきた。

そのあくる晩、女はまたやってきたが、その晩は水飴は買わずに、飴屋に自分と一緒に来てくれといって、しきりに手招きをする。そこで飴屋は、友達と語らって女の後について墓場へ行ってみた。
とある石塔のところまでくると、女の姿がぱっとかき消えた。すると地面の下から、赤児のなき声が聞こえる。それから、みんなして石塔を起こしてみると、墓の中には、毎夜水飴を買いに来た女の骸(むくろ)があって、そのそばに、生きている赤児がひとり、差し出した提灯の火を見て、にこにこ笑っていた。

そして、赤児のそばには、水飴を入れた小さな茶碗がおいてあった。この母親はまだほんとに冷たくならないうちに葬られたために、墓の中で赤児が生まれ、そのために、母親の幽霊が、ああして水飴で子供を養っていたのである。

小泉八雲は、「母の愛は死よりも強いのである」と結んでいます。松江に伝わる民話は、「娘は北堀町のある家にもらわれて良い娘に育ったゲナ(松江では女の子です)」としています。北堀町は、お城の北に位置する町で、職人の町ですから多分職人のおかみさんになったかもしれません。

小泉八雲は「母親の愛の強さ」を物語の結びにしました。幼くして母ローザと生き別れた自分の境遇への思いから出た言葉だろう。」と大雄寺の山門に記載されています。

(出典 平井呈一訳「小泉八雲作品集」)

水木しげるさんの、漫画「ゲゲゲの鬼太郎」(紙芝居『ハカバキタロー(墓場奇太郎)』原作:伊藤正美、作画:辰巳恵洋)は、この話をモチーフにして生まれたとされます。

【ご本家?京都市東山区『幽霊子育飴』 】

幽霊子育飴の伝承が残る「六道の辻」 、六道珍皇寺門前で四百年余り前から売られていた麦芽糖の飴「幽霊子育飴」だそうです。

慶長四(1599)年、夜な夜な若い女が飴を買いに来ました。不審に思った飴屋の主人が後をつけると、鳥辺山の墓地で姿を消してしまいます。翌日、寺の住職と一緒に墓地に向かうと、盛り土の中から赤子の声がします。掘り返すと、女の遺体の横で赤子が飴をしゃぶっていました。赤子は八歳で僧となり母の菩提(ぼだい)を弔い、寛文六(1666)年3月15日、高名な僧として68歳で亡くなりました。

飴を販売する「みなとや幽霊子育飴本舗」は、後継者難などから委託販売を続けていましたが、数年前に少し西の西福寺門前に移転しています。「六道の辻」は、平安時代以来の葬送の地、鳥辺山のふもとにあり、現世と冥界との境域とされて来ました。

【それでは、元祖!立本寺に伝わる話のご紹介】

CIMG0344.jpg
(前回鬼子母神のおはなしを少しだけしました?曼陀羅の鬼の文字角が無くなっているのがお解りですか?鬼子母神が仏に帰依したことで角が落ちたんです。)


上京区・立本寺に伝わる話では、赤子は同寺二十世貫首、日審上人(1599~1666)だといわれます(我が家のご先祖三十世貫首日應の十代前の貫首です)。壺(つぼ)を図案化した花押を用いたことから、「壺日審」と親しまれ、生涯に二万回余りの説法を行ったといいます。同寺にまつられる上人の木像は安産守護の信仰を集めています。

現貫首の上田尚正上人は「飴は滋養のある食べ物。墓の近くで、飴を与えて子育てした母親がいたのだろう。ある程度、史実に基づいた話では?」と推測されているようです。死が身近だった殺伐とした時代を思わせますが、心に染み入る話です。飴に劣らず、味わい深い話です。

もちろん、立本寺でも「幽霊子育飴」が販売されています(丁度私が訪れた時は団体のお参りが有り、多めに残っていました)。立本寺の説明によれは、女性は毎夜1文銭を持って飴屋「みなとや」に飴を買いに来たが、7夜目の1文銭は暫らくすると「しきみの葉」と化し、不審に思った飴屋が女性の後を追っていって、女性が姿を消した寺の墓地まで来ると、土の中から赤ん坊の泣き声が聞こえてくるではありませんか、慌てて寺の住職とともにお墓を掘り起こすと、大きな壺の中から飴を食べて丸々と太った赤ん坊と、その傍らに毎晩飴を買いに来ていた女性の遺体が見つかりました。

身ごもったまま亡くなった女性は、樽の中で産んだ赤ん坊の命をつなぐため、幽霊となって飴を買いに来ていたのです。三途の渡し賃は六文(真田家の家紋でも有名ですね)7夜目にはお金が尽きていたのです。そのときの赤ん坊は住職が育て「日審」と名づけました。

助けられた子どもはのちに出家して立本寺第二十世・霊鷲院日審上人となったと言われています。後にこの日審上人は、京都本圀寺(ほんこくじ・水戸光圀が造った京都日蓮宗大本山)にある壇林(だんりん・僧侶の養成機関)の化王(かおう・校長)となり、多くの学生を育成し、日本全国を遊説してまわりました。

釈迦(しゃか)の十大弟子の一人、説法第一とうたわれた富楼那尊者(ふるなそんじゃ)の名をいただいたのも、説法の回数が2万余座にも及んだからだと言われます。「子育て幽霊」「飴買い幽霊」伝説は説法で全国をまわった日審上人自らが各地で語ったからとは考えると納得がいきますね。

大阪堺市の櫛笥寺には、日審上人の墓が有るようです。母親は堺の織屋、絹屋清左衛門の娘、お梅です。お梅の膝に丸まるとした赤ん坊が抱かれていた(当時は横に寝る棺桶(かんおけ)ではなく、壺(つぼ)の中に座らせるようにして入れた)と伝わっているようです。

この飴買い幽霊の話は「大阪伝承地誌集成」にも書かれており、そこでは京都が舞台の話として紹介されています。飴家徳兵衛も絹屋清左衛門の娘、お梅の名も同じですが、日審上人が堺に来て、櫛笥寺の住職になることになっています。また、祖父の清左衛門が日審を援助するべく、彼も堺に織物業者を大勢連れて近くに移住したとあり、それが堺市絹屋町の起こりであると書かれています。

【落語「幽霊飴」】

私の大ファン、桂米朝によると、上方落語の2代目桂文之助による落語に『幽霊飴』という話があるそうです。夜、女が六道あたりの飴屋に飴を買いに来るというあらすじはほぼおなじですが、落語では女が姿を消した墓の場所が高台寺(コヲダイジ=子を大事)という落ちになっています。高台寺は秀吉の妻ねねのお寺です。自分の子宝に恵まれなかったねねの心がしみいるお話です。

【最後にお見せするのは幽霊に育てられた『日審聖人』直筆花押です。】

その赤ん坊は後にお坊さんになり、立本寺の20世貫首『日審聖人』になったと伝わっています。そんなお話が伝わる立本寺では怪談番組の収録が行われたり、かつては大河ドラマ『織田信長』のロケも行われたこともあるそうです。『日審聖人』壺から生まれただけあって花押もつぼ型なんです。ちょっと面白いと思いませんか?見たいですか?お見せしましょう~~~!

CIMG8063.jpg
(まず我が家の日蓮上人像です。額の傷が分かりますか?)
CIMG8064.jpg(小松原法難の傷が有る像は珍しいです。)

日蓮聖人といえば綿帽子、日蓮宗では祖師像(日蓮聖人像)に綿帽子をおつけする慣わしがあります。わが家では全くですが(-"-;A ...アセアセ。

なぜ、綿帽子するようになったかと申しますと、日蓮聖人小松原法難に由来します。小松原で東条景信の襲撃をうけた日蓮聖人は額に傷をうけました。傷から流 れる血を小川や井戸の水で洗いながら、岩高山の洞穴に身を休めているとき、通りかかった老婆のおいちが自分のかぶっていた真綿を差出し「傷口に風を当てて は痛みまする。どうぞこれで寒さをおしのぎ下さい。」と差上げました。その時額にのせた綿は、血潮で赤くそまったといわれます。これが、日蓮上人像におつ けする綿帽子の由来です。

CIMG8069.jpg
(そして最後に日蓮像の真裏と台座裏に在る日審聖人のつぼ型花押つまり、1666年以前の仏像ということに成りますね。)

これ実は凄い事なんです。日蓮宗の皆さんはお解りだと思いますが、値段の問題ではございません~(笑)。家に在って良いの物なのか?思案のしどころです。

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