2017/06/12

千年前?の日本最古古民家「箱木千年屋」

土曜日にFacebookを乗っ取られ大変な事態に成った市郎右衛門です。
皆様にもご迷惑をお掛けして本当に申し訳有りませんでした。
やり方が巧妙で、非常に手がこんでいますので、皆様もお気をつけ下さいm(__)m


本日御紹介致しますのは、日本最古の民家 「箱木家住宅」です。

P6030136.jpg(箱木千年家、日本で一番古い民家といわれています。)


箱木家住宅(はこぎけじゅうたく)は、兵庫県神戸市北区山田町衝原(つくはら)にある歴史的建造物です。
国の重要文化財(1967年6月15日指定)。
「箱木千年家」(はこぎせんねんけ/せんねんや)の通称で広く知られる日本最古と推定される民家の一つです。

私はこの民家?に少し思い入れが有りますので、恥ずかしながら、そちらも一緒にお話したいと思います。

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【箱木千年家ってな~に?】

箱木家住宅
(箱木千年家)

簡単に言えば、日本で一番古い古民家です。



P6030076.jpg(勿論、箱木さんが住んでおられたわけです。現在はお隣の近代住宅に住んでおられます。)

母屋所在地(現在):兵庫県神戸市北区山田町衝原字道南1-4
旧所在地 :兵庫県神戸市北区山田町つくはら湖底(つまりダム建築で沈んだって事ですね)
類型:民家形式・構造木造、入母屋造、茅葺建築年:室町時代
文化財国の重要文化財に指定されています。

【私の思い入れ話】

もう七年半位前に成りますが、仕事のストレス?から心の病気に成り、3ヶ月程入院致しました。
心が砕けておりまして、毎日どうしたら死ねるのか?と本気で悩み考えておりました(重い話で申し訳ありません)。
体もぼろぼろで、全てを捨て去ってやり直すつもりで、入院致しました。

病院では体力作りのために一月に一度この衝原湖の周回コース10キロを歩く遠足?が有り、その主発点が千年家でした。
その時は、近くの駐車場からの出発でしたので、古民家は見ていなかったのですが、一月ごとに少しずつ体力が回復に向かっているのを感じ、まだまだ行ける「頑張れ俺!」と念じながら、湖畔を歩いた思い出の地です。
幸い、全てとは言えませんが、体力・気力共に全快に近づきつつ有ります?。
そんな、千年家に七年半ぶりに行ってみました(笑)。

P6030065.jpg(吞吐ダムと衝原湖、ダムの上も歩けます。)

【移築住宅の概要】

室町時代建立の主屋(「おもや」)江戸時代建立の「離れ」(「はなれ」)の2棟が重要文化財に指定され、他に築山、中庭、納屋、土蔵等が遺存しています。
現在は、重文の「おもや」「はなれ」は隣接している資料館と共に公開されています。

見学料金 300円
おじいちゃん(勿論箱木さん)がお店番されてました。
良い小遣いに成るか?「昭和までは住んどったからな」と教えてくださいました。

【教育委員会解説から千年家の歴史】

箱木家は地元の豪族・別所氏に仕えたとされ、後に庄屋となった一族です。

『摂津名所図会』などの近世の記録によれば、この住宅は、806年(大同元年)に建てられたとされており、近世初期から「千年家」と呼ばれていたようです。

1967年(昭和42年)に国の重要文化財に指定され、1977年(昭和52年)までは実際に住居として使用されていましたが、呑吐ダムの建設により旧所在地が水没するため、1977年から1979年(昭和54年)に掛けて現在地に移築されました。

通称「千年家」とは「古い家」の意で、実際の建立年代は不明でしたが、移築時の解体調査の結果、次のようなことが明らかになりました。

「おもや」の建設は室町時代と推定されました。

長年の間に多くの部材が取り換えられていましたが、柱などの根幹材には当初の部材が残存していました。
当初からの部材で残っているのは柱6本のほか、桁、梁、貫などの一部です。

江戸時代中期に「おもや」に隣接して「はなれ」が建設されます。
江戸時代末期に母屋と離れを連結し、屋根を広げて一つの家屋にしたようです。

ですから、「おもや」と「はなれ」は、移築以前は1棟の建物でしたが、解体修理時に、建築当初の姿に近づけるように復元され、現在は「おもや」と「はなれ」が別棟として建てられています。

2005年に当初材の松の柱6本の放射性炭素年代測定を行った結果、年輪の最も外側の炭素濃度から、1283~1307年(鎌倉時代後期)に伐採された木が使われていることがわかったという(千年家ではなくて、七百年家だった訳ですねφ(..))。

【構造】

当初建てられた「おもや」、江戸時代中期に建てられた「はなれ」(ともに入母屋造、茅葺)と「くら」から成ります。
先ずは「おもや」です。
「おもや」の内部は東半部(正面から見て右側)が「にわ(土間)」、西半部が床上部に成っています。
床上部は3室に分かれ、表側が「おもて(客間)」、裏手は土間に面した部分が「だいどこ(台所)」、奥が「なんど(納戸)」です。

P6030093.jpg(「おもて部屋」間仕切りの壁が木で仕切られています。右側!)

また、建設当初は畳が敷かれていなかったことも分りました。
移築された今も無いですが(笑)、床板も手斧(ちょうな)削りですし、部屋を仕切るのも柱のほぞに板をはめ込んで土壁ではありません。

P6030098.jpg(手前「だいどこ」と奥の「なんど」です。)
P6030099.jpg(「だいどこ」の床が手斧で削られているのが綺麗ですね。)

「おもや」内部。
「にわ(土間)」から床上部を見ます。
一番左の部屋が「おもて」、次の部屋が「だいどこ」、その奥が「なんど」です。
写真では3本の柱が見えますがが、うち左の2本は建築当初のものです。

P6030097.jpg(おくどさんから見た三部屋、何人んで暮らしていたのでしょう)
P6030107.jpg(古道具が山積みです持って帰りたい~!)

「おもや」(主屋)は、最も古い建築で入母屋造茅葺きです。
屋根が非常に巨大、かつ、軒が極端に低いため遠くから見ると縄文時代~弥生時代の竪穴住居を思わせるような形態に見えます。
また、屋根を支えるために壁が多く窓などの開口部が極端に少ないのも特徴的です。
建設当初から残る柱などには鉋が発明される前まで使われた大工道具・手斧(ちょうな)での仕上げがよい状態で残っています。
軸部は柱間を足固貫、飛貫、桁で繋ぎ、後世の民家のような、曲りのある材を用いた梁は用いていません。
小屋組は古式の「おだち鳥居組」(垂木構造)です。

P6030106.jpg(木が逆さに立てられているのが解りますか?上の方が根元で太いのです。)

土間には竈(かまど)と厩(うまや)が併設されていたため、実際に人間が起居していたのは「おもて」「だいどこ」「なんど」の3部屋のみですね。

P6030129.jpg(馬や、馬がいない代わりに、古い農機具の展示場です。)


P6030122.jpg(江戸時代中期に建てられた「はなれ」「ともに入母屋造、茅葺」)
P6030118.jpg(内部、こちらは障子やふすまが取り付けられています。)
P6030112.jpg(面白いものです。秀吉の三木城攻略時の人質文書、箱木家の母が別所氏の方?長治君自殺うんぬんの文字が読めます。)
P6030113.jpg
(こちらも面白い、千年家が通り名前です。手形も発行してますね~。)

【訪れた微笑ましい夫婦】

私は基本は、取材?は一人で行くことにしています。
かなりの強行軍に成りますので、家族に構って居られ無いのです。
子供達のわがまま?で予定が遅れたりすると折角の取材が無駄に成るので一人で行く様にしています。
この日も一人で二場所目の取材でしたが、時間が早すぎ(個人の持ち物で家族で経営されていました)、少し待つことに成りました。
9:00~の公開でしたが、門が空いたのは9:20分でした。
私が一通り見終わった頃にご夫婦が見学に来られました。
私より少し年輩ですかね?因みに、私気持ちが若いので(笑)大体私より年輩等と思うと、年下な事が多いのです。

奥様「千年家っていうのだから、千年立ってるんだよね~!」

{私心の声:いえいえ移築されてますから此処には40年ほどですよ}

夫君「そおやな~千年ゆうたら鎌倉時代か!」

{私心の声:え?1000年前は平安時代ですから~!}

夫君「いい国作ろう鎌倉幕府ゆうやろが!1192年やったな。」

{私心の声:1192年~2017年、830年ほどで、とても1000年には足りませんよ、それに今の教科書は「いい箱作ろう鎌倉幕府」って1185年に成ってます。}

奥様「そんな昔からこんな湖の側にあるんだ!」

{私心の声:ですから移築されたんですって!}

夫君「そおや、足利尊氏が幕府鎌倉に開いたときやな。」

{私心の声:え~!鎌倉幕府開いたの、源頼朝ですよ~~~!}

皆さん私が作ったと思っているでしょう~(笑)本当にあったんですって!
だから歴史って面白い?


P6030133.jpg(文化財の保存は本当に大変だと思いますが、日本人の私たちの先祖の歴史なのです。大事に保存したいですね。)


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2017/06/09

「戦いに生き・信仰に死す」殉教者『高山右近』福者に認定②!

今回は「戦いに生き・信仰に死す」と題して「高山右近」を御紹介します。
今日は、前回とは逆に「戦国武将」としての高山右近を取り上げます。

P6040276.jpg
(「太平記英雄伝」より戦国時代には用いない大鎧に薙刀で床机に座る右近!)


前回とは全く逆の、凛々しい?錦絵から御紹介です。
やはり戦国武将なんですよね~(^^;
余りのイメージの違いに驚かれたかもしれませんf(^_^;

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【高山右近の戦!高槻城主編】

P6040181.jpg(こちらの裏側が本丸辺りに成ります。)
P6040177.jpg(前回も申しましたが。高山右近の時代は城も整備されていません。)

高山氏は摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人領主でした。
出自は秩父氏の一派の高山党の庶流とも甲賀五十三家の一つともいわれています。

父の友照が当主のころには、当時畿内で大きな勢力を振るった三好長慶に仕え、三好氏の重臣・松永久秀にしたがって大和国宇陀郡の沢城(現在の奈良県宇陀市榛原)を居城としていました。

そうした中、右近は天文22年(1553年)に友照の嫡男として生まれます。
永禄6年(1563年)に10歳(数え12歳?)でキリスト教の洗礼を受けたようです。
それはが友照が奈良で琵琶法師だったイエズス会修道士・ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためでした。

永禄7年(1564年)、三好長慶が没すると三好氏は内紛などから急速に衰退し、高山氏の本来の所領がある摂津国においても豪族の池田氏・伊丹氏などが独自の力を強めていきました。

永禄11年(1568年)に織田信長の強力な軍事力の庇護の下、足利義昭が15代将軍となると状況は一変します。
義昭は摂津国の土着領主の一つである入江氏を滅ぼすと、直臣である和田惟政を高槻城に置き、彼と伊丹親興・池田勝正を加えた3人を摂津守護に任命しました(摂津三守護)。
高山父子はこの和田惟政に仕えることとなります。

元亀2年(1571年)、和田惟政が池田氏の被官・荒木村重と中川清秀の軍に敗れて討死し(白井河原の戦い)、まもなくその村重が池田氏を乗っとるかたちに成ります。
村重は信長に接近して「摂津国の切り取り勝手(全域の領有権確保)」の承諾を得ると、三好氏に再び接近した伊丹氏を滅ぼし
、摂津国は石山本願寺が領有する石山周辺(現在の大阪市域)を除き、村重の領有となりました。

和田惟政の死後高槻城はその子・惟長が城主となりましたが、17歳と若年だったため、叔父の和田惟増が彼を補佐することに成ります。
しかし惟長は何を思ったのか、この叔父を殺害してしまいます。

これにより高山家が和田惟長の主だった相談役とりましたが、これを良く思わない和田家臣たちは、惟長に高山親子の暗殺を進言します。
高山家には「惟長は好機があり次第、高山親子を殺すことに決めた」という知らせが届いていましたが、友照はこの事を荒木村重に相談、村重は「もしそうであるなら殺される前に殺すべき、自分は兵をもって援助する。」と言い、惟長の所領から2万石を与えるという書状を与えます。

元亀4年(1573年)3月、惟長は反高山派の家臣と共に、高山父子を話し合いと偽って呼び出しに成功します。
高山父子は仲間から呼び出しが罠だと聞かされていましたが、14~15名の家臣を連れて高槻城へ赴き、待ち構えていた惟長らと斬り合いになります。

夜だった上に乱闘で部屋のロウソクが消えてしまい真っ暗な中、右近は火が消える直前に惟長が床の間の上にいるのを確認、火が消えるとすぐさま床の間に突っ込んで、腕に傷を受けつつも惟長に二太刀の致命傷を負わせました。
だが、騒ぎを聞いて駆けつけた高山の家臣達が加勢すると、そのうちの1人が誤って右近に斬りつけ、右近は首を半分ほども切断するという大怪我を負ってしまいます(半分は言い過ぎ違いますか?)。
およそ助かりそうにない傷でしたが、右近は奇跡的に回復し、一層キリスト教へ傾倒するようになりました。
一方、惟長は輿に乗せられて家族や家臣たちと和田家の生国・近江国甲賀郡へ逃れましたが、同地で死亡します。

この事件の後、高山父子は荒木村重の支配下に入る事になります。
村重は既に信長から摂津一円の支配権を得ていたため、この事件は問題にされることもなく、高山父子は晴れて高槻城主となることができました。
2人はまもなく高槻城の修築工事を行い、石垣や塗り壁など当時畿内で流行しつつあった様式を取り入れました。

P6040265.jpg(西国街道の位置と比べると重要な要害なのが解りますね!側面を突かれると終わりです。)
P6040258.jpg(こちらはかなり新しい江戸中期の高槻城、守りも固くできていますね!)
P6040330.jpg(だそうです(;^_^A、枡形門とは、コの字型に入った敵を三方から攻撃できる防御門です。上の模型でも確認できます。)
P6040331.jpg(桜の根本の石がそうですが、右近は築城の技術にも優れていたようですね。)

【高槻城主変遷】

P6040176.jpg
(全国の城が破却されずに残っていたらどんなに凄いかといつも思います。)

室町時代は入江氏の居城でしたが織田信長に滅ぼされ、その後和田惟政、次いで高山右近が城主と成ります。
天正元年(1573年)からは本格的な城塞が築かれました。
豊臣氏滅亡後は内藤信正が城主となり、以降高槻藩の藩庁として用いられ、内藤氏の後は土岐氏、松平氏、岡部氏、永井氏とたびたび城主が入れ替わりますが、長井氏は十三代を数え廃藩置県を迎えます。

【天下人の影響による畿内動乱】

P6040196.jpg
(もう少し戦国武将としても評価されても良いのではないでしょうか?)

天正6年(1578年)、右近が与力として従っていた荒木村重が主君・織田信長に反旗を翻します(三木の別所氏に呼応する形です)。
村重の謀反を知った右近はこれを翻意させようと考え、妹や息子を有岡城(伊丹市錦絵城跡が残ります)に人質に出して誠意を示しながら謀反を阻止しようとしましたが重村の考えは変わりませんでした。
右近は村重と信長の間で苦悩し、尊敬していたイエズス会員・オルガンティノ神父に助言を求めました。
神父は「信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよ」とアドバイスしたようです。

高槻城は要衝の地(西国街道のそばです)であったため、信長はここをまず落とそうとします。
右近が金や地位では動かないと判断した信長は、右近が降らなければ畿内の宣教師とキリシタンを皆殺しにして、教会を壊滅させると脅迫までします。

城内は徹底抗戦を訴える父・友照らと開城を求める派で真っ二つに別れました。
懊悩した右近は信長に領地を返上することを決め、紙衣一枚で城を出て、信長の前に出頭しました(豊臣秀吉の前に出た伊達政宗ですね)。
村重は城に残された右近の家族や家臣、人質を殺すことはしませんでしたが、結果的に右近の離脱は荒木勢の敗北の大きな要因となりました(後に村重の重臣であった中川清秀も織田軍に寝返っています)。
この功績を認めた信長によって、右近は再び高槻城主としての地位を安堵された上に、2万石から4万石に加増されました。

天正10年(1582年)6月に「本能寺の変」で信長が没すると、明智光秀高山右近中川清秀の協力を期待していたようですが、右近は高槻に戻ると羽柴秀吉の幕下にかけつけました。
まもなく起こった「山崎の戦い」では先鋒を務め、清秀や池田恒興と共に奮戦、光秀を敗走させ、清洲会議ではその功を認められて加増されています。
また、本能寺の変後の動乱で安土城が焼けると安土のセミナリヨ(イエズス会司祭・修道士育成のための初等教育機関、小神学校のこと)を高槻に移転しています。

「賤ヶ岳の戦い」では岩崎山を守るものの、柴田勝家の甥・佐久間盛政の猛攻にあって清秀は討死し、右近はやっとのことで羽柴秀長の陣まで撤退して一命を保ちました。
この件では助かったことで、勝家への内通を疑われ、天正11年5月16日(1583年7月5日)には一時、居城・高槻城を攻められています(多聞院日記)。
その後も「小牧・長久手の戦い」「四国征伐」などにも参戦しています。

秀吉からも信任のあつかった右近は、天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城としました。
しかし、まもなくバテレン追放令が秀吉によって施行されてしまいます。
キリシタン大名には苦しい状況となるが、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、世間を驚かせます。
その後しばらくは小西行長に庇護されて小豆島や肥後国などに隠れ住むが、天正16年(1588年)に前田利家に招かれて加賀国金沢に赴き、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らしました。

天正18年(1590年)の「小田原征伐」にも建前上は追放処分の身のままでありながら前田軍に属して従軍しています。

金沢城修築の際には、右近の先進的な畿内の築城法の知識が大きく役に立ったともいわれます。
また利家の嫡男・前田利長にも引き続き庇護を受け、政治・軍事など諸事にわたって相談役になったと思われます。

慶長14年(1609年)には、利長の隠居城・富山城の炎上により、越中国射水郡関野(現富山県高岡市)に築かれた新城(高岡城)の縄張を担当したともいわれます。

慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康による「キリシタン国外追放令」を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去しました。
長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着しました。
しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに熱病にかかります。
翌年の1月6日(1615年2月3日)に息を引き取ります(享年63)。

P6040283.jpg
(高槻カトリック教会の式場ですか?十字架の光が取り入れられていますね。)
P6040287.jpg
(その一番下にやはり高山右近のレリーフです。)


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2017/06/07

「戦いに生き・信仰に死す」殉教者『高山右近』福者に認定①!

今回は「戦いに生き・信仰に死す」と題して「(戦国武将)高山右近」を御紹介します。
今日は殉教者としての高山右近を取り上げます。

2017年2月7日(火)、大阪城ホール(最大16,000人収容)で、ある人物をたたえるためのカトリック教会の世界的式典が有りました。
そのある人物とは、400年前の戦国大名「高山右近」です。
キリシタン大名・高山右近が、キリスト教カトリックの「福者(ふくしゃ)」に認められたことを宣言する「列福(れっぷく)式」が開催されたのです。

P6040278.jpg
(福者に列せられた、ユスト高山右近)

不遇の死をとげて400年、21世紀になりその生き方に光があたり始めました。
会場には1万人近くの人が詰めかけ、コンサート前の様な熱気に包まれていました。
しなしながら、彼等が待っているのはローマ法王の使者、教皇代理のアンジェロ・アマート教皇庁列聖省長官です。
この日、戦国時代を生きた、大阪のキリシタン大名『高山右近』が「福者(ふくしゃ)」として世界に認められる存在となりました。

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【高山右近ってどんな人?】

P6040289.jpg
(高槻カトリック教会に在る高山右近像です)
P6040295.jpg
(綺麗な教会ですね~これまで古い寺社ばかりUPしていたので違和感がありますか?)

高山右近(たかやま うこん)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名です。
代表的なキリシタン大名として知られており、洗礼名は、ジュスト(ユスト)、父は摂津国人・高山友照、母は洗礼名マリアです。
12歳で洗礼を受け、父を跡を継ぎ「高槻」の城主になると熱心に布教活動を行います。
洗礼名はポルトガル語で「正義の人、義の人」を意味するジュスト(ユスト)、 号は南坊、千利休の七高弟(利休七哲)の一人としても知られています。
同じく摂津国人の中川清秀は従兄弟とされています。

高槻市には、いまもそのキリスト教の痕跡が残っています。
高槻城の跡から日本で初めてキリシタンの墓が27基見つかりました。
木の棺には十字架の印が彫られ、墓から見つかった遺骨の手元には、「ロザリオ」という祈るときに使う数珠のようなものが置かれていました。
棺の十字架とセットで発掘されたのは高槻だけだそうです。



P6040334.jpg
(こちらは現在は商工会議所に成っている。高山右近高槻天主教会跡地です)

 全領民2万5千人のうち1万8千人が信者になったとも言われていますが、豊臣秀吉が「バテレン追放令」(1587年)を出すとその人生は一変します。

しかし、右近の領地で遺志を継ぎひそかにキリスト教を信仰した人たちがいました。
茨木市の山奥の集落、千提寺地区の人々です。
その中でも、ある家では先祖代々、ひそかにキリスト教の品々をずっと守ってきました。
その品は「あけずの櫃」と呼ばれる木の箱に収められ蔵の中に隠されていました。

末裔の東満理亜さんはこのように言われています。
世継ぎだけに伝承され、『あけずの櫃』といわれてまして、開けてはいけない事に成っていました。
「あけずの櫃」の中には、教科書でお馴染みの「フランシスコ・ザビエル」の肖像画も入っていました。
明治少し前まで、盛んに日曜日ごとに集まって、洗礼式とか感謝祭もしていたそうです。

P6040282.jpg(有名!教科書で見たことない人はいないでしょうが、大阪茨木で発見?保存されていたフランシスコザビエル像です)

ひそかに息づいてきた右近の姿、時を経て世界中の脚光を浴びることになりました。
ローマ法王庁が信仰に生きて死んだ「殉教者」として「福者」に認定したのです。
「福者」とはカトリックで最高の称号である「聖人」につぐ立場、400年の時を経て、その生き方が公に認められたのです。
地位や富を捨て信念に生きた高山右近の姿が、400年の時を経て再び蘇ろうとしています。

【高山右近の「列福」の儀式はどんなものなのでしょう?】

大阪城ホールで開催された「高山右近」が、キリスト教カトリックの「福者(ふくしゃ)」に認められたことを宣言する「列福(れっぷく)式」は、フランシスコ教皇の代理としてヴァチカン市国の教皇庁から派遣されたアンジェロ・アマート枢機卿が進行役の主司式を務めました。
「福者」は、「聖人」に次ぐ崇敬の対象で、高山右近は昨年1月、フランシスコ教皇から承認されていました。
列福式では、聖遺物として右近のチョッキの切れ端が壇上に置かれ、岡田武夫・東京大司教区大司教が福者の列に右近を加えるよう請願。
教皇代理のアンジェロ・アマート教皇庁列聖省長官がフランシスコ教皇の書簡を読み上げ、イタリア語で「福者の列に加えます」と告げ、その後、長崎の信者で画家の三牧(みまき)樺(か)ず子さんが今回の列福式のために描いた右近の肖像画が除幕されました。
カトリック教会は、今後、高山右近が亡くなった2月3日を記念日として毎年祝うことになります。

式典の参加者数などは以下の通りです。
総参加者数 約10,000人
招待者 約200人
枢機卿 アンジェロ・アマート枢機卿(教皇代理、列聖省長官)、
     ルイス・アントニオ・タグレ枢機卿(マニラ大司教)
司 教 約30人
司 祭 約300人
聖歌隊 約1,000人

【信長の進出と荒木村重の謀反】

P6040205.jpg
(茨木城跡に建つ高山右近の像です。)
P6040190.jpg(左下にこんな文言が書かれていました。)
P6040177.jpg(先ほどの像の道を挟んで裏手に成りますが、石碑があります。右近の時代は此処までは城では無かったかも?)

高山家は主君を何度も変えながら戦国の世を渡っています。
松永久秀→和田惟政→荒木村重→織田信長→豊臣秀吉→前田利家→前田利長 以上が右近が使えた主君ですね。

天正6年(1578年)、右近が与力として従っていた荒木村重が主君・織田信長に反旗を翻します。
村重の謀反を知った右近はこれを翻意させようと考え、妹や息子を有岡城(伊丹市錦絵城跡が残ります)に人質に出して誠意を示しながら謀反を阻止しようとしましたが失敗に終わります。
右近は村重と信長の間にあって悩み、尊敬していたイエズス会員・オルガンティノ神父に助言を求めました。
神父は「信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよ」とアドバイスした様です。

高槻城は要衝の地であったため、信長はここをまず落とそうとします。
右近が金や地位では動かないと判断した信長は、右近が降らなければ畿内の宣教師とキリシタンを皆殺しにして、教会を壊滅させると脅迫までします。

城内は徹底抗戦を訴える父・友照らと開城を求める派で真っ二つに別れました。
懊悩した右近は信長に領地を返上することを決め、紙衣一枚で城を出て、信長の前に出頭しました(秀吉の前に出た政宗ですね)。
村重は城に残された右近の家族や家臣、人質を殺すことはしなかったが、結果的に右近の離脱は荒木勢の敗北の大きな要因となりました(後に村重の重臣であった中川清秀も織田軍に寝返った)。
この功績を認めた信長によって、右近は再び高槻城主としての地位を安堵された上に、2万石から4万石に加増されます。

【右近キリシタン大名として生きる】

天正10年(1582年)6月に本能寺の変で信長が没すると、明智光秀高山右近中川清秀の協力を期待していたようですが、右近は高槻に戻ると羽柴秀吉の幕下にかけつけました。
まもなく起こった「山崎の戦い」では先鋒を務め、清秀や池田恒興と共に奮戦、光秀を敗走させ、清洲会議でその功を認められて加増されています。
また、本能寺の変後の動乱で安土城が焼けると安土のセミナリヨを高槻に移転しています。
「賤ヶ岳の戦い」では岩崎山を守るものの、柴田勝家の甥・佐久間盛政の猛攻にあって清秀は討死し、右近はやっとのことで羽柴秀長の陣まで撤退して一命を保ちました。
この件では助かったことで、勝家への内通を疑われ、天正11年5月16日(1583年7月5日)には一時、居城・高槻城を攻められています(多聞院日記)。
その後も小牧・長久手の戦いや四国征伐などにも参戦しています。

右近は人徳の人として知られ、多くの大名が彼の影響を受けてキリシタンとなりました。
たとえば牧村利貞・蒲生氏郷・黒田孝高などです。
細川忠興・前田利家は洗礼を受けませんでしたが、右近に影響を受けてキリシタンに対して好意的でした。

友照の政策を継いだ右近は、領内の神社仏閣を破壊し神官や僧侶に迫害を加えたため、畿内に存在するにもかかわらず高槻周辺の古い神社仏閣の建物はほとんど残らず、古い仏像の数も少ないという異常な事態に陥要ります。
領内の多くの寺社の記録には「高山右近の軍勢により破壊され、一時衰退した」などの記述がある。
反面、『フロイス日本史』などのキリスト教徒側の記述では、あくまで右近は住民や家臣へのキリスト教入信の強制はしなかったが(実際に寺社への所領安堵状も受洗後に出している)、その影響力が絶大であったために、領内の住民のほとんどがキリスト教徒となったと記載され、そのため廃寺が増えたので、寺を打ち壊して教会建設の材料としたと記されている。

【右近信仰に死す】

P6040188.jpg
(本丸天守跡を見るような位置です。)
P6040185.jpg(説明版、いつも私の解説よりも説明版がわかりやすいと思ってしまいます(;^_^A)

秀吉からも信任のあつかった右近は、天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城としました。
しかし、まもなく「バテレン追放令(1587年)」秀吉によって施行されます。
キリシタン大名には苦しい状況となりますが、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、世間を驚かせました。
その後しばらくは小西行長に庇護されて淡路島、小豆島や肥後国などに隠れ住見ますが、天正16年(1588年)に前田利家に招かれて加賀国金沢に赴き、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らします。

徳川家康によるキリシタン国外追放令「キリシタン禁教令(1614年)」を受けて、人々の引きとめる中をお世話になっていた前田家(加賀)を退去しました。
キリスト教の信仰に生きるため、すでに豊臣秀吉によるバテレン(宣教師)追放令あたりで大名の身分と領地を捨てていました。
ついにフィリピン・マニラへと追放、長崎から家族と共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着、イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペインの総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けました。
しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年の1月6日(1615年2月3日)に殉教しました。
享年63歳、マニラ到着からわずか40日目のことでした。
その後、日本は厳しいキリスト教弾圧の時代に入ります。

葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげてイントラムロスの中にあった聖アンナ教会にて、10日間という長期間で盛大に行われた。右近の亡骸は、イエズス会コレジオのサンタ・アンナ聖堂の近くに埋葬されました。
1634年には、右近の遺骨はサン・ホセにあったコレジオの聖堂に移され、石棺の上には右近の画像が掲げられます。
1767年、マニラのイエズス会が閉鎖され、土地と建物はマニラ大司教区の所有となります。
その後、右近の遺骨と画像は行方不明となりますが、右近の遺骨を探す活動は今も続けられています。
右近の死後家族は日本への帰国を許され、現在、石川県羽咋郡志賀町代田、福井県福井市、大分県大分市に直系子孫の3つの「高山家」がある様です。

【カトリックの福者と聖人】

私は日本人で、神社とお寺が好きなうえに、クリスマスにはケーキを食べて、近頃USJのハロウィンに興味深々な純粋な?日本人なので、福者と聖人の違いが判りませんが、人物例を出すことでご理解いただけましたら幸いです。

カトリック教会のHPを参考にしますと殉教者であること、時がたち、法皇に認められると福者となります。
更に時がたち、更に法皇に認められた方が聖人になるようです(奇跡が起こることも重要な要因かも知れません?)。
現在日本人の聖人は20名です(たぶん(;^_^A)。

1597年2月5日、長崎・西坂において十字架刑に処せられ、最初の殉教者となった26人の司祭、修道士、信徒は、1627年に教皇ウルバノ8世により福者に、1862年、教皇ピオ9世によって聖人に列せられました。
この「日本26聖人」のうち、5人はスペイン人、1人はポルトガル人で、残りの20人が日本人です。
日本と関係が深いと言えば聖フランシスコザビエル聖人に列せられています。

時代が近い所ではマザーテレサ(聖人)列聖に先立ってマザー・テレサが福者として列福されたのは2003年10月19日、重い腹部腫瘍を患い治癒の望みのない34歳のインド人女性がマザー・テレサの設立した《死を待つ人々の家》を訪問、シスターたちと一緒に祈った翌日に腫瘍が無くなったことが奇跡と認められ、時の教皇ヨハネ・パウロ2世が福者として認定しました。
列福から13年、脳腫瘍で危篤に陥ったブラジル人男性がマザー・テレサの執り成しで回復したことが2つ目の奇跡と認められ、現教皇フランシスコ猊下が聖人として認定する運びになったそうです。

福者(ふくしゃ Beatus)は、カトリック教会において、死後その徳と聖性を認められた信者に与えられる称号です。
この称号を受けることを「列福」といいます。
その後、さらに列聖調査がおこなわれて聖人に列せられることもあります。

日本の福者は、ペトロ岐部と187殉教者、2008年11月24日、長崎市で「福者」に列せられました。
17世紀前半に全国各地でいのちを絶たれた188人の殉教者です。

そして、今回取り上げたユスト高山右近ですね。

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2017/06/05

「八岐大蛇」の首を切り落とした「十束の剣」を追って『石上神宮』へ②。

本日は、御約束通り『石上神宮』、前回の続きです。

P5190186.jpg(神徒、鶏~凄く鳴いてました~暑かったから?)

日本神話で「素盞嗚尊(須佐乃男命「前回古事記記載で書いてました(^人^)」)」が八岐大蛇の首を切り落とした時、尻尾から出てきた剣が「天叢雲剣(草薙の剣)」で『三種の神器(天皇の証)』の一つであることは、皆さんご存知ですよね。

常々私は、後で出てきた(少々不敬なのですが)「雨の叢雲(草薙の剣)」より八岐大蛇の首を一撃の元に切り落とした『十束の剣』の方が霊力?が有るのではないか?とブログでも申し上げて来ました。
その十束の剣を祀るのがここ『石上神宮』なのです。

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【石上神宮は神使、鶏が放し飼い】

P5190185.jpg(放し飼い、そういえば池には「わたか」という天然記念物の魚がおりましたがどれか解らなかったので割愛いたしました。)

神宮に入ると直ぐに目につくのが鶏です。
鶏は石上神宮の一番の人気者らしいのです。
現在約30羽が参道をはじめ境内の各所にいます。
神宮に到着するや否や「こけこっこ~」の声が響き渡っています。
長鳴鶏(ながなきどり)の一種の東天紅(とうてんこう:高知県産・天然記念物)、烏骨鶏(うこっけい:天然記念物)、採卵用種のレグホン・ミノルカなどが棲んでいます。

今から40年程前に奉納され、以後時々の奉納や自然繁殖、時にはイタチ、タヌキ、テンなどの小動物による被害を受け、羽数は増減しますが、大きく変ることはありません。
そのため鶏たちは夕方暗くなる前に低い木々から順々に高い枝に飛び上がり、そこで一夜を過ごしています。
烏骨鶏やレグホンは高く飛び上がることが出来ず、専用の鶏舎にて夜を過ごします。

ニワトリはすでに『古事記』『日本書紀』に登場し、暁に時を告げる鳥として、神聖視され、神様のお使いともされています。
広い境内で自由にいろいろな物を啄(ついば)みながら、生息しており、職員も玄米をはじめ野菜など与えているそうです。

P5190171.jpg(静かな参道の様ですが、鶏の声がうるさい!)
P5190181.jpg(そしてこの日はすごく暑い日でした。)
P5190239.jpg(社務所ですが御朱印は拝殿前でもらえます。)

【御配神の御柱】

宇摩志麻治命(うましまじのみこと)
五十瓊敷命(いにしきのみこと)
白河天皇
市川臣命(いちかわおみのみこと)天足彦国押人命(孝昭天皇皇子)後裔で、石上神宮社家の祖。

【神宮の歴史は?】

古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓に鎮座します。
非常に歴史の古い神社で、『古事記』『日本書紀』に既に、石上神宮・石上振神宮との記述があります。
古代軍事氏族である物部氏(にも拘らず、蘇我氏に負けたのは油断かな?)が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられています。

古くは斉宮が居たともいわれ、その中で、(本当に斎宮であったかどうか議論が在る様ですが)布都姫という名が知られています。

【斎宮うんちく】

斎宮(さいぐう/さいくう・いつきのみや/いわいのみや)は古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮(石上神宮?)に奉仕した斎王の宮もしくは、斎王の御所(現在の斎宮跡)を呼ぶ様です。

CIMG2751.jpg(こちら偶然に伊勢神宮遷宮の少し後、祭主の池田厚子さんが参拝された時の写真です。皇宮警察とSPのガードすごい!)

南北朝時代に制度が廃絶しましたので、現在は伊勢神宮にも斉王は居らず、斎主を設けています。
2015年現在の祭主は池田厚子(今上天皇のお姉様)さんがお勤めされています。
ご高齢の為、職務は臨時祭主の黒田清子(今上天皇陛下の長女)さんが代行されていますね。
戦後は皇族出身の女性が就任していることから斎宮と混同されることもありますが、斎宮は神宮に仕えた未婚の皇族女性のことです。

【神宮の呼び名】

また、神宮号を記録上では伊勢神宮と同じく一番古く称しており、伊勢神宮の古名とされる「磯宮(いそのみや)」と「いそのかみ」とに何らかの関係があるのかが興味深いです(伊勢神宮と同じ扱いと言うことですかね)。

社伝によれば、布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下(夢に天照大神、高木神、建御雷神が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡ったといわれます。

その後物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていましたかわ、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが神社の創建と成りました。

社伝の一方では、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの十握剣が、石上布都魂神社(現・岡山県赤磐市)から当社へ遷されたとも伝えています。
この剣は石上布都魂神社では明治以前には布都御魂剣(同じ剣て事ですかね)と伝えていました。

天武天皇3年(674年)には忍壁皇子(刑部親王)を派遣して神宝を磨かせ、諸家の宝物は皆その子孫に返還しようとしましたが、「日本後紀」"巻十二 桓武天皇 延暦二十三年(804年)二月庚戌 "条に、代々の天皇が武器を納めてきた神宮の兵仗を山城国 葛野郡に移動したとき、人員延べ十五万七千余人を要し、移動後倉がひとりでに倒れ、次に兵庫寮に納めたが、桓武天皇も病気になる等の怪異が次々と起こり、使者を石上神宮に派遣して、女巫に命じて、何故か布都御魂ではなく、布留御魂を鎮魂するために呼び出したところ、女巫が一晩中怒り狂ったため、天皇の歳と同じ数の69人の僧侶を集めて読経させ、神宝を元に戻したとあります。
当時それほどまで多量の神宝(武器)があったと推測されます。

神階は850年(嘉祥3年)に正三位、859年(貞観元年)に従一位、868年(貞観9年)に正一位。
『延喜式神名帳』には「大和国山辺郡 石上坐布都御魂神社」と記載され、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預ると記されています。

中世以降は布留郷の鎮守となりますが、興福寺と度々抗争を繰り返し布留郷一揆が頻発、戦国時代に入ってからは織田信長の勢力に負け、神領も没収されてしまいました(何時もながら第六天魔王恐るべし)。
しかし、氏子たちの信仰は衰えず、1871年(明治4年)には官幣大社に、1883年(明治16年)には神宮号を再び名乗ることが許されます。

石上神宮には本来、本殿は存在せず、拝殿の奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」「御本地」などと称して祀り、またそこには2つの神宝が埋斎されていると伝えられていました。
1874年の発掘を期に、出土した刀(布都御魂剣)や曲玉などの神宝を奉斎するため本殿を建造しました 。
本殿建造のための1878年の禁足地再発掘でも刀「天羽々斬剣」が出土し、これも奉斎します。
1913年には、本殿が完成し禁足地は今もなお、布留社と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれています。

【摂末社あれこれ】

摂社としては摂社出雲建雄神社(延喜式内社)・天神社・七座社があります。

P5190231.jpg(摂社板札)
P5190232.jpg(天神社中央右に少し写っているのが、七座社です。)
P5190215.jpg(出雲建雄神社板札)
P5190220.jpg(わざと斜め角度ではありません日光が強すぎてハレーション起こしました。)
P5190226.jpg(こじんまりした猿田彦神社)

「出雲建雄神社」祭神:出雲建雄神(草薙剣の荒魂、縁起では「吾は尾張の氏の女が祭る神である。」とあり宮簀媛を示すとされます。)
神官の方にお聞きしますと、この出雲は島根県の出雲では無く、雲が湧き上がる様のようにすごいという事だそうでした。

P5190207.jpg(これがどど~んと割り拝殿「国宝」です~!)
P5190212.jpg(真ん中が土間「馬道」なのが珍しい国宝です。)

摂社出雲建雄神社の拝殿は、内山永久寺(天理市杣之内町にあった寺院、明治時代初期に廃絶)の鎮守社拝殿だった建物を1914年に移築したもので、正安2年(1300年)頃の建立で、桁行5間の建物の中央1間分を土間の通路「馬道」とした「割拝殿」と呼ばれる形式の拝殿です(国宝に指定)。

【末社紹介】

猿田彦神社・神田神社・祓戸神社、境外に恵比須神社が有ります。

【少し想像力で楽しもう】

素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの十握剣が何故岡山県に有ったのでしょう。
「鳥髪山神山(船上山)」標高1,142mへおりたった素盞嗚尊、斐伊川を上流方向へ行きます(岡山県方向なんです)。

又、「古事記」では神武天皇の舟軍は、吉備国の高島宮で8年過ごしています。
当時の交通網は基本的に船ですね、陸地を戦闘するために多くの軍人?が移動することは現在とは違い無理と考えます。
戦闘が起こりうるケースは隣合わせの地域か、又は船で移動して襲うかのパターンしか有り得ないと考えます。
吉備に8年!隣国の出雲と凌ぎを削ったと、思いませんか?戦いに勝った神武天皇軍は出雲を従えて、古代ヤマト勢力を撃ち破り、橿原の宮で即位します(私の勝手な妄想ですよ~)。
石上布都魂神社の「布都御魂剣」「草薙剣」が神話だけでなく、活躍したのかもしれません。

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2017/06/03

「八岐大蛇」の首を切り落とした「十束の剣」を追って『石上神宮』へ①。

「日本最古」の称号をもつ神社を、三社を一度に参拝できる道、それが奈良「山辺の道」です。
今回は、日本神道の始まりと、原始のままの「神」を今に伝える神社をピックアップして、皆様にご紹介します。

本日御紹介するのは『石上神宮』です。

P5190170.jpg(本当に五月かと思うような暑い日でした。古代の武器庫石上神宮!)

日本神話で「須戔鳴尊」が八岐大蛇の首を切り落とした時、尻尾から出てきた剣が「天叢雲剣(草薙剣)」で『三種の神器(天皇の証)』の一つであることは、皆さんご存知ですよね。

常々私は、後で出てきた(少々不敬なのですが)「天叢雲剣(草薙剣)」より八岐大蛇の首を一撃の元に切り落とした『十束の剣』の方が霊力?が有るのではないか?とブログでも申し上げて来ました。
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P5190171.jpg(鳥居ですがうまい具合に紅葉の青葉で扁額が隠れています。)
P5190179.jpg
(布都御魂大神、神剣が神様です。)

【須佐乃男命の大蛇退治復習~!(日本書紀参考)】

高天原(たかまがはら)での悪さが度を越して、高天原を追放された須戔鳴尊(すさのおのみこと)は、出雲の国(島根県)、斐伊川(ひいがわ)上流の鳥髪(現船通山、登山してきました♪)に降り立ちます。

船通山11
(おっさん初めての登山が船通山でした。)

須戔鳴尊が上流へ向かうと、一人の娘を囲んで泣いている老夫婦を見つけます。
二人は脚摩乳(あしなづち)、手摩乳(てなづち)と言い、傍らにいた小さな娘が奇稲田姫(くしいなだひめ)でした。
須戔鳴尊が、泣いている理由を尋ねると、「私たちには、8人の娘がいたのですが、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)がやってきては、毎年娘たちを一人ずつ食べていったのです。そして今年もまた八岐大蛇がやってくる時期がきたので、最後の娘である奇稲田姫も食い殺されてしまうかと思うと悲しくて、涙が止まらないのです」と申します。

須戔鳴尊がその八岐大蛇とは何者だと尋ねると、「一つの胴体に8つの頭、8つの尾を持ち、目はほおずきのように真っ赤であり、体には苔や檜、杉が生え、8つの谷と8つの丘にまたがるほど巨大で、その腹は、いつも血でただれている」と2人は答えました。

その恐ろしい風貌に須戔鳴尊はしばらく考え、「あなたたちの娘・奇稲田姫をわしにくれるなら、八岐大蛇を退治してやろう。お前たちは今からわしの言う通りにするのだ。そうすれば、化け物は必ず退治できる」と切り出しました。
須戔鳴尊の急な提案に脚摩乳、手摩乳は戸惑いましたが、「娘の命が助かるなら」と頷きました。

須戔鳴尊は、退治の準備の前に、まず嫁になった奇稲田姫の身を守るために、彼女を爪櫛の姿に変え、髪にさしました。
そして脚摩乳、手摩乳に、「8回も繰り返して醸造した強い酒を造り、また、垣根を作り、その垣根に8つの門を作り、門ごとに8つの棚を置き、その棚ごとに酒を置いておくように」と指示を出しました。

二人は言われたとおりに準備し、八岐大蛇がやってくるのを待つっていると、そこに八岐大蛇がすさまじい地響きを立てながらやってきました。
そして、8つの門にそれぞれの頭を入れて、がぶがぶと辺り一帯に響き渡る豪快な音をたてながら、酒を飲み始めました。
酒を飲みほした八岐大蛇は酔っ払ってしまったのか、ぐうぐうとすさまじいいびきをかきながら眠り始めました。

その時を待っていた須戔鳴尊は刀を振りかざし、八岐大蛇に切りかかり、体を切り刻み始めたのです。
刀が八岐大蛇の尻尾に差しかかった時、何かが刃先に当たり、中を裂いてみると、なんと剣が出てきました。この剣は、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)で、不思議に思った須戔鳴尊は、姉(天照大御神)にこの剣を献上したと伝えられています。
八岐大蛇を無事退治し、この出雲の地が気に入った須戔鳴尊は、ここに奇稲田姫と住むための宮殿を造ることにしました。
この宮殿を作る最中、雲が立ち上がった様子を見て、須戔鳴尊は歌を詠みます。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(ご)みに 八重垣作る その八重垣を」、これは、日本で初めて詠まれた和歌として神話に残されているのです。

八重垣神社A
(島根県八重垣神社の石碑です。須戔鳴尊絶好調です。)

その後、須戔鳴尊と奇稲田姫の間には多くの子どもが誕生、そのうちの1人、須戔鳴尊の7世の孫が、因幡の白兎でも有名な大国主命(おおくにぬしのみこと)とも言われています。
余談ですが、大国主は須戔鳴尊の娘、須勢理毘売命と結ばれているので、「大国主」は一人ではなく出雲王の称号なのかもしれませんね。

この八岐大蛇を切り刻んだ剣こそ『十束の剣』です。

【十束剣てどんな剣?】

十束剣(とつかのつるぎ)は日本神話に登場する剣で「十握剣」「十拳剣」「十掬剣」など様々に表記されます(同じ一本の剣だとは思えませんね)。
様々な場面で登場していることや、「10束(束は長さの単位で、拳1つ分の幅)の長さの剣」という意味の名前であることから、一つの剣の固有の名称ではなく、長剣の一般名詞と考えられ、それぞれ別の剣であると考えらます。

その中で『石上神宮』に関係が有ると思われる剣を抜粋してご紹介します(近頃女性の間で日本刀ブームが盛んなようですが、こちらはそれら刀とは性質が違うと思います)。

「天之尾羽張剣(伊都之尾羽張剣)」
天照大御神と須戔鳴尊の誓約の場面では、古事記では須戔鳴尊が持っていた十拳剣から天照大御神が3柱の女神を産んでいます(宗像三女神ですね)。

「天羽々斬(あめのはばきり)」最も有名な剣といえますね、八岐大蛇退治の時に須戔鳴尊が使った十拳剣(別名「天羽々斬」です。
羽々とは大蛇の意味)で、八岐大蛇の尾の中にあった草薙剣に当たって刃が欠けたとされます。
この剣は石上布都魂神社(現・岡山県赤磐市)に祭られていましたが、崇神天皇の代に石上神宮に遷されました。
石上神宮ではこの剣を布都斯魂剣と呼び、本殿内陣に奉安され祭られています。

「布都御魂剣(韴霊剣)」
葦原の中津国平定の説話において、「建御雷神」らが大国主の前で十掬剣を海の上に逆さまに刺し、その切先にあぐらをかいて威嚇しました。
この剣は後に神武東征の場面において神武天皇の手に渡る事となります。
そこに、この剣が「佐士布都神」(さじふつのかみ)「甕布都神」(みかふつのかみ)または「布都御魂」(ふつのみたま)という名前であると記されています。
現在は上述の布都斯魂剣と共に、石上神宮本殿内陣に御神体として奉安され祭られています。

P5190193.jpg(綺麗な楼門「重文」ですね~。)
P5190196.jpg(前から見るとこんな感じです。)

【石上神宮御祭神三柱】

「石上神宮」は武門の棟梁である物部氏の総氏神として、当然のことながら?剣を御祭伸としてお祀りしています。

その三柱とは、神武天皇東征の砌、国土平定に偉功をたてられた天剣(平国之剣)とその霊威を「布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)」、古事記・日本書紀に見える国譲りの神話に登場される武甕雷神(たけみかづちのかみ)が用いた剣だそうです。
鎮魂の主体である天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)に宿る起死回生の御霊力を称えて、神体に宿る「布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)」です。

最後は天十握剣(あめのとつかのつるぎ)に宿られる御霊威を称えて「布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)」素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの剣だと伝わっています。
岡山県(なぜ岡山県なのかも面白い疑問ですが?)の「石上布都魂神社」(いそのかみふつみたまじんじゃから)に祀られ、後に崇神天皇の時代、奈良天理市の石上神宮に移されています。

P5190204.jpg
(こちらご神体では無いです。国宝「七支刀」古代の日朝関係を考察できる刀として重要です。)


【石上神宮データ】

所在地:奈良県天理市布留町
社格等:式内(名神大)、二十二社(中七社)、旧官幣大社
神社創建:(伝)崇神天皇7年
本殿の様式:流造
札所等:神仏霊場巡拝の道19番(奈良6番)

【社名別名】

石上振神宮・石上坐布都御魂神社・石上布都御魂神社・石上布都大神社・石上神社・石上社・布留社・岩上大明神・布留大明神
(おいおい!)などがあります。
幕末~明治期には地元で「いわがみさん」と呼ばれていた様です。

なお『日本書紀』に記された「神宮」は「石上神宮(他には伊勢神宮の二つだけ)」です。
つまり日本最古の神社といっても過言ではありませんね。

P5190227.jpg(楼門を少し上から撮影しました。)
P5190237.jpg(上部のみです。綺麗な木組みですね。)
P5190199.jpg(国宝の拝殿です。)
P5190201.jpg(本殿も入れて撮影しました。剣だけに枕木立っています。男神様です。)

長くなってしまいました?
まだ写真が有るので次回お見せしたいと思います。

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