2017/03/12

謀略の偽陵なのか?「五色塚古墳」に浪漫を求めて!

「五色塚古墳」「小壺古墳」最後はのロマンな?お話を御紹介したいと思います。

「五色塚古墳」に関して、『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条が関連記事として知られています。

そちらにによれば、新羅征討から戻った神功皇后が、征討前に崩御した仲哀天皇(第14代)の遺骸および誉田別尊(のちの第15代応神天皇)を伴って大和に戻る際、麛坂皇子と忍熊皇子(いずれも仲哀天皇皇子)が次の皇位が誉田別尊に決まることを恐れて皇后軍を迎撃しようとしたというのです。
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(神功皇后の五円紙幣、価値は60万円程だそうです。ちなみにこっそり教えますが、モデルは造幣局の職員だそうです。)

どうですか?興味が湧いてきませんか。

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【この物語の登場人物は以下の方々です。】

神功皇后
第14 第天皇仲哀天皇
第15 第応神天皇(誉田別尊)
麛坂皇子(仲哀天皇皇子ですが母親は別人)
忍熊皇子(仲哀天皇皇子ですが母親は別人)

【そもそも三韓征伐とはどんな事件なのでしょう?】

三韓征伐(さんかんせいばつ)は、仲哀天皇皇后、神功皇后が軍を起こして三韓に攻め入り新羅を屈服、任邦(みなま)に日本府をおき大陸経営にいそしみ、後に百済を拠点として、朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる戦争を指します。
神功皇后は、仲哀天皇の后で応神天皇の母です(遠征の途中に仲哀天皇を亡くし、応神天皇を身ごもりながら戦闘を行った(井伊直虎も真っ青な女傑です)。
経緯は『古事記』『日本書紀』に記載されていますが、朝鮮や中国の歴史書にも関連するかと思われる記事があります。
新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるためこの名で呼ばれますが、直接の戦闘が記されているのは対新羅戦だけなので新羅征伐とも言われます。
吉川弘文館の『国史大辞典』では、「新羅征討説話」という名称で項目となっています。
ただし三韓とは馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加羅)・辰韓(後の新羅)を示し高句麗を含まない朝鮮半島南部のみの征服とも考えられます。

動機としては、神功皇后は新羅人の族長の娘で自分を追い出した新羅への復讐だったとも言われていますが、定かではありません。
私の実家のある但馬一宮「出石神社」の天の日矛は新羅の王族の王子で、神功皇后の祖先といわれています。
戦後は日本の学者は神功皇后自体を架空の人物として否定的に捉える向きもあるようです。

三韓御征伐の神託を受けた神功皇后は、九州に軍をすすめますが、仲哀天皇の崩御という予期せぬ事態?が起こります。
そこで神功皇后は重臣、武内宿禰と協議の上、仲哀天皇の崩御を隠してして、妊娠の身にももかかわらず男の姿で、多くの軍船を率いて筑紫の松浦より、玄海の荒波を乗越へ、新羅に侵攻します。
朝鮮の史書『三國史記(新羅本紀)』では、第11代新羅王 助賁尼師今3年(西暦232)4月、初めて倭が新羅の都まで討入り「金城」包囲の記述があるようです。
倭国を見た新羅王は、驚いて一戦も交えずして軍門に降り、たとえ太陽が西より出て、河の水が逆さまに流れるようとも、倭国には逆らわない、また毎年貢物を献上すると誓って、80艘に金銀財宝を積み献上をしたので、皇后はこれを許し、毎年貢物を献上される事に成ったと記録されていますが、いかにも都合の良い話です。

むしろ目的は、新羅攻略では無くて、朝鮮と関係を強くして、後躯の憂いを取ってから、倭国の不穏な状況を一掃しようと考えたのではないかと、勝手に想像します。

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(管理事務所のフイルムが光って申し訳ありません。海上封鎖には丁度良い淡路島までの距離ですかね?)
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(大阪湾の立地も考えると迎え撃つのは此処が最適か?)
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(高台は砦としても使えますね、それでは埴輪の必要はあるかな?)
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(鉄道が無い古代すぐに海です。陸を進めば前に在るのはこの古墳ということに成りますが?)

五色塚古墳の築造に関しては、『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条が関連記事として知られる。
同条によれば、新羅征討から戻った神功皇后が、征討前に崩御した仲哀天皇(第14代)の遺骸および誉田別尊(のちの第15代応神天皇)を伴って大和に戻る際、麛坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)、(いずれも仲哀天皇皇子)が次の皇位が誉田別尊に決まることを恐れて皇后軍を迎撃しようとしたというのです。

麛坂皇子と忍熊皇子両皇子が仲哀天皇の陵の造営のためと偽り、播磨に陵(をまねた砦)を、淡路島まで船を渡しその石を運んで赤石(= 現明石)に陣地を構築しました。
明石海峡も封鎖しますが、その名目として、「淡路島の石を運ばせていると嘘をつくのです」( 『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条)。
この伝承について、明石の海沿いで「陵」と呼べる規模の古墳は五色塚古墳のみであることから、古くより五色塚古墳がこの「赤石の山陵」に比定されている。

上の伝承に関連する記事として、『播磨国風土記』賀古郡大国里条(印南郡大国里条)にも、息長帯日女命(神功皇后)が帯中日子命(仲哀天皇)の埋葬の際に讃岐国の羽若石(= 羽床石か)を求めたとする伝承があります。
なお、『播磨国風土記』では明石郡条が欠落していることもあり(残念!)、五色塚古墳自体に関する記述は在りません。

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(戦闘の基本は高地に陣すること、理にかなっています。)
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(淡路から運んだ石は偽装のためか?投石様か?)
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(凄い量だったですよね~(;^_^A)
P2220063.jpg(墓なのか偽陵墓なのか?謎は多いい方が楽しめます。)
【つまりはこういうお話】
仲哀天皇(第14代天皇)の死後、二人の皇子、麛坂皇子忍熊皇子が、神功皇后に政権を握られることを快く思わず、朝鮮遠征から帰国する皇后を迎え討つために軍船を明石海峡に浮かばせましたが、そのままではクーデターがバレてしまうので、仲哀天皇の墓をつくるための葺石を淡路島から運搬する船に見せかけるため、この墓?7を造ったという事です。
つまり、五色塚古墳は仲哀天皇の偽墓で、実は何も埋葬されていないということに成ります。
実に手の込んだ嘘ですよね。
ちなみに、神功皇后とは、実在性が濃厚な最古の天皇とも言われる応神天皇の生母で、この人が卑弥呼ではないかという説もある人物です(逆に神功皇后そのものが想像の人物との考えもあるようです)。

浪漫~ではないでしょうか?
結局、応神天皇が即位されたということから、このクーデターは失敗に終わって二人の皇子、麛坂皇子と忍熊皇子は無くなってしまったのですかね?


さて、三回にわたって「五色塚古墳」「小壺古墳」についてお話させていただきました。
「前方後円墳」「円墳」ですね。

先日すごい「方墳」の記事が新聞を賑わせました。

方墳の濠(ほり)とみられる巨大な石溝が見つかった奈良県明日香村の小山田(こやまだ)遺跡で、新たに石室への通路跡が見つかったと県立橿原(かしはら)考古学研究所が1日発表した。一辺約70メートルと推測され、飛鳥時代(7世紀)最大級の方墳と確定した。研究所は「出土した瓦片などから640年ごろの築造とみられる。当時の最高権力者の墓」と指摘。被葬者は舒明(じょめい)天皇か大臣(おおおみ)の蘇我(そがの)蝦夷(えみし)に絞られた。

 橿考研は2015年1月、県立明日香養護学校の校舎建て替えに伴い、長さ約48メートル、上部幅約7メートル、底面幅約3・9メートル、残存する深さ約1メートルの石溝を発見したと発表。墳丘の斜面に板石を階段状に積む特異な構造も注目された。石溝は方墳の北辺と考えられ、橿考研は昨年12月から溝の南約60メートルの地点を発掘していた。(新聞記事より)

時代は墳墓の形を方墳に(仏教寺院の影響か?)そして六角形、さらには八角形(現在の天皇陵墓は八角です)と時代と共に変化
していきます。


しかしながら、前夫後円墳という日本独特の墳墓も形の謎はいまだ解けておりません。
一部につぼ型と考えて、壺の中に現世と同じ生活ができる、来世が有ると考えられている学者もおられるようです。
「壺の中を覗いてみたいですね~」市郎右衛門でした。


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2017/03/10

五色塚古墳にひっそり寄り添う『小坪古墳』可愛いと思ったらデカかった!

『小壺古墳』を御紹介します。
『五色塚古墳』と一緒に御紹介する予定だったのですが、文章長くなり過ぎて、別々にしました(o^-')b !

ところで、兵庫県が古墳の数日本一ってご存知でしたか?

文化庁のウェブサイトの中に埋蔵文化財の数を調査した報告書があります。
その中から古墳・横穴だけを抽出、数の多い都道府県順に並べてみました。
『最新全国古墳の数、多い順ランキング!』
「平成24年度周知の埋蔵文化財包蔵地数(古墳・横穴)」(文化庁調べ、現存と消滅を合算した数です。)

総数:158905
1位:兵庫県:18841個
2位:鳥取県:13459個
3位:京都府:13089個
4位:千葉県:12750個
5位:岡山県:11726個

2位3位の鳥取県京都府を5000個引き離して、断トツのトップです(⌒‐⌒)v

兵庫県って但馬・播磨・淡路・摂津・丹波の五つの国が合併しているので、まず広いですからね~(^^;

それでは18841個の一つ「小壺古墳」を御紹介します。

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(小壺古墳、大きいですよね、写真のテクニックです。笑)

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【小壺古墳】

所在地兵庫県神戸市垂水区五色山4丁目

高さは8.5mです。
築造年代4世紀末~5世紀初頭。
国の史跡に指定「五色塚(千壺)古墳 小壺古墳」。

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(二段目が埋められて小さく見えるようです。)

「小壺古墳(こつぼこふん)」は、五色塚古墳の西にある古墳です。
形状は円墳。
五色塚古墳と合わせて国の史跡に指定されています。



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(柴の変わり目あたりから、二段目が有るようです。)

古墳名の「小壺」は、五色塚古墳の別称「千壺」との対比とされます(小さな壺が一つだけ出土では無いですよ!)。
墳丘は2段築成。
下段直径は70メートル、上段直径は43メートル、墳頂高さは約8.5メートルを測り、円墳としては茶すり山古墳(朝来市、直径86メートル、北近畿豊岡自動車道からよく見えますよ。)に次ぐ兵庫県第2位の規模になります(結構でかいんじゃない?)。
現地での感じでは、陪塚(中心となる大型の古墳に埋葬された首長の親族、臣下を埋葬するもののほか、大型の古墳の埋葬者のための副葬品を埋納するために建設されたものもあるようです。)かと思いました。

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(手前の五色塚古墳後円部と比べると「小壺古墳」はいかにも小さいと思いませんか?)

墳丘が周辺道路の下まで及ぶため、現在は元来の2段では復元されず、盛土をして1段に成形して保護されています(だからなんだね、下はまだ埋ってるんだ!)。
墳丘表面では各段に埴輪列(推計約320本)が検出されていますが、五色塚古墳と異なり葺石は葺かれていません。
また、墳丘周囲には周濠が巡らされており、周濠内では墳丘北側で通路状遺構(土橋)も認められています。

出土品としては、円筒埴輪・朝顔形埴輪のほか、形象埴輪(家形・靭形・蓋形埴輪など)があります。
この小壺古墳は、五色塚古墳と同時期の4世紀末~5世紀初頭頃の築造と推定されますが、五色塚古墳との築造年代の前後は明らかでは有りません。

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(これ面白いです。初めてみました。滑石製子持勾玉!!!、こんな勾玉は初めてです~。驚!)
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(こちらも面白いです。場所柄明石海峡近く、昔1600年前もタコツボ漁が行われていたんですね~驚きです。)

文献によれば、かつて五色塚古墳の周囲には、小壺古墳のほかにも遊女塚・小塚(小壺古墳の事?)・四ッ塚・七ッ塚・東側陪塚と称される古墳が存在したとされます。

参考までに、兵庫県の近隣府県の古墳の大きさを比べてみると、兵庫県は数こそ日本一位ですが、大きさで負けている事が分かります(勝ち負けの問題じゃあ無いけどねf(^_^;)。

兵庫県で一番大きい「五色塚古墳」194m、鳥取県で一番大きい湯梨浜町の「北山1号墳」全長は110m(数でも大きさでも勝った!勝ち負けちゃう言うとんねん(*`Д´)ノ!!!)、岡山県で一番大きい「造山古墳」全長約350~360mの全国第4位の巨大古墳(因みに岡山2位の作山古墳も282mの規模です。)です。
京都府で最大の古墳「網野銚子山古墳」198m(惜しいf(^_^;因みに、網野銚子山古墳は山陰一位です。)、最後は大阪府ですが、此は説明する必要が有るかなって感じです。
「大仙古墳(私達が子供の頃は仁徳天皇陵でした!)」墳丘長486m(面積は世界一かも?)。

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(五色塚古墳の上からですが、周りの家から比べるとほどほどの大きさです。)

古墳大きさベスト10を御紹介(何の意味があるん?只のうんちくです。)!順位・古墳名・墳丘規模全長(約m)・所在地の順です。

1位:仁徳天皇陵古墳(大山古墳)486大阪府堺市堺区大仙町
2位:応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)425大阪府羽曳野市誉田
3位:履中天皇陵古墳(石津ヶ丘古墳)365大阪府堺市西区石津ヶ丘
4位:造山古墳350岡山県岡山市新庄下
5位:河内大塚山古墳335大阪府羽曳野市南恵我之荘・松原市西大塚
6位:五条野丸山古墳310奈良県橿原市見瀬町・五条野町
7位:ニサンザイ古墳300以上大阪府堺市北区百舌鳥西之町
8位:渋谷向山古墳(景行陵)300奈良県天理市渋谷町
9位:仲姫命陵古墳(仲津山古墳)290大阪府藤井寺市沢田
10位:作山古墳286岡山県総社市三須

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(敷地が四角いので方墳のようですが、円墳です。周りの道路下にも二段目が眠っています。)

大阪府・奈良県・岡山県、なんとなく倭が海に近づいて交易を始める、その前線基地が吉備の国!
五色塚古墳・小壺古墳はその途中の関所な感じがしてきますね。
皆さんも是非、想像を逞しくして考古学を楽しんで下さいね(#^.^#)


事実究明には、気候学や海洋科学、地質学に天文科学等の他分野からの知識が必ず必要だと考えますのでね(o^-')b !

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2017/03/08

兵庫県最大の前方後円墳「五色塚古墳」の謎!

前回30年も前の取材ソースでしたので、今回は一番新しい取材から『五色塚古墳』を御紹介致します(o^-')b !

とその前に、先月末にブログ友達のオフ会を行ったのですが、新しくお友達に成って頂いた上に、意気投合した「えたばりゅ」さんを御紹介致します。

ブログ共有もしていただきました~(^o^)v。
「えたばりゅ」さんのブログは、こちらです。
自然とペットとアラフォー野郎と 生命と人とのWinWinをめざして
私の専門でも有る、動物(犬猫~爬虫類・魚類は元より、過去の恐竜やシーラカンス迄)いいえ、生き物に対する愛情に溢れたブログなんです。
是非とも私のブログ共々、応援してくださいね(^人^)。

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(史跡五色塚「千壺」古墳、小壺古墳)

『五色塚古墳(千壺古墳)』
所在地は、兵庫県神戸市垂水区五色山4丁目
形状は、前方後円墳
規模は、墳丘長194.0m、高さ18.8m(後円部)
築造年代4世紀末~5世紀初頭埋葬施(推定)
竪穴式石室被葬者(伝)第14代仲哀天皇の偽陵(偽陵ってのが不思議ですし謎?気になりますね。)
出土品円筒埴輪・形象埴輪などが史跡指定され、「五色塚(千壺)古墳 小壺古墳」が国の史跡と成っています。

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【五色塚古墳】

P2220017.jpg(モニュメントです。ちょっと前方部が長すぎないかな?)




兵庫県第1位の規模
『日本書紀』に佐紀陵山古墳(奈良県奈良市)と同形との記述が有ります。

五色塚古墳は、兵庫県神戸市垂水区五色山にある古墳です。
形状は前方後円墳、国の史跡に指定されているほか、出土埴輪は国の重要文化財に指定されています。
別称を「千壺古墳」ともいわれます。

P2220018.jpg(管理棟に在る航空写真ですが、フイルムで光って見にくいですよね~m(__)mでも明石海峡大橋のすぐ近くで、素晴らしいロケーションです。)
P2220001.jpg(手前の大きい湾曲が五色塚古墳の後円部です。右手の小高い丘が小壺古墳に成ります。)
P2220012.jpg(前方部と後円部の繫がり、くびれ部分です。二段目から葺石が見えます。)


兵庫県では最大規模の古墳で、4世紀末~5世紀初頭(古墳時代前期末~中期初頭)の築造と推測されます。
「五色塚古墳」の西側にある『小壺古墳』(五色塚古墳と合わせて国の史跡に指定!)についは次回御紹介します。

兵庫県南部、神戸市西部の垂水丘陵南端部において、眼下に明石海峡を、対岸に淡路島を望む位置に築造された巨大前方後円墳です。

古墳名の「五色塚」や「千壺」は江戸時代から呼ばれる呼称で、「五色塚」の由来は明らかでは有りませんが、「千壺」の由来は墳丘上の埴輪群による様です(数から言えば、二千坪古墳でも良いと思いますが(´∇`))。

古墳域は戦前には松林として保護されていましたが、戦中に松は油採取等に利用するため伐採され、戦後には畑として開墾されてしまいました。
加えて、前方部前面には山陽電鉄本線・JR神戸線が引かれたほか、古墳周囲にも道路が敷かれたため、周濠等も改変を受けてしまいました。

考古学的には、これまでに数回の発掘調査が実施されたほか、築造当時の姿へと復元整備も実施されており、日本で最初に復元整備が行われた古墳として知られています(知らなかった、そうだったんだ!)。

P2220031.jpg(形がわかりやすいですね~!くびれのマウンドと右斜めのマウンドを覚えていてください。)
P2220041.jpg(前方部から見た明石海峡大橋です。手前の線路がJR?その向こうが山陽電鉄かな?)
P2220040.jpg(この立地ですよ~大阪湾を手中に収めた水軍の王かも知れませんね。)
P2220033.jpg(三層に積まれた石が良くわかります。)

【歴史に残る記録】

明暦3年(1657年)の『摂津名所図会』に、「五色塚」の名称で図示。

元禄11年(1698年)の『諸陵周垣成就記』に、「仲哀天皇陵土俗五色塚千壺と云ふ」と記載(『兵庫縣史蹟名称天然記念物調査報告書 第一輯』に引用、ただし「勤王文庫」所収原本に記載なし)。

享保年間(1716-1736年)の『明石記』に詳述(宝暦12年(1762年)の『播磨鑑』にも引用)。

古墳域は、1921年(大正10年)に小壺古墳の古墳域と合わせて国の史跡に指定されました。

2012年(平成24年)9月6日には、出土品(円筒埴輪群)が国の重要文化財に指定されています。

【形状と規模】

墳形は前方後円形で、前方部を南方(瀬戸内海側)に向けています。
墳丘は3段築成。
墳丘長は194メートルですが、これは兵庫県では最大規模になります(全国では第40位程度ですね。)。

墳丘表面の各段には円筒埴輪列が巡らされるほか、各段斜面には葺石が葺かれています。
特に埴輪は推計2,200本、葺石は推計2,233,500個(数えたんか?)・2,784トンにおよび、上段・中段の葺石は淡路島産と判明しています。

P2220036.jpg(くびれ部分のマウンド、やっぱり造出かな?司祭が行われたのでしょうか?)

墳丘周囲には深い周濠・浅い外部周溝が2重(二重部分は分からなかったです。)で巡らされており、周濠内では、墳丘のくびれ部左右・後円部北東の3ヶ所に方形の島状遺構(マウンド)が認められています
くびれ部左右の島状遺構は一辺20メートル。
後円部北東の島状遺構では円筒埴輪棺および副葬品が出土しています。
これらの島状遺構の用途は明らかでないが、一説にくびれ部の遺構は祭壇(後の造出?)、後円部北東の遺構は陪塚(中心となる大型の古墳に埋葬された首長の親族、臣下を埋葬するもののほか、大型の古墳の埋葬者のための副葬品を埋納するために建設されたものもあるようです。)と推測されます。
主体部の埋葬施設は明らかでは有りませんが、竪穴式石室の使用が推定されています。

P2220063.jpg(こちらちょっと見えにくいですが後円右側のマウンド、真ん中の白い部分です。陪塚と考えらています。)


この五色塚古墳は、墳形・出土埴輪から古墳時代前期末~中期初頭の4世紀末~5世紀初頭頃の築造と推定されています。
被葬者は明らかでは無いのですが(ここが重要です。)、明石海峡やその周辺を支配した豪族首長では無いかとと推測されています。
特に、築造に際して明石海峡対岸の淡路島から多量の石が運ばれたという事実は、『日本書紀』神功皇后紀の記事と対応するものとして注目され、これより被葬者の支配領域は淡路島まで及んだとする説もあります。

P2220050.jpg(埋葬されたのは誰でしょう?浪漫が掻き立てられますね。)

また、当時としてはヤマト王権の大王墓(佐紀古墳群)に匹敵する規模の古墳になりますが、一帯は明石海峡を押さえる要衝でありながら、巨大古墳を築造できるだけの経済基盤の無い地域であることから、築造に際してはヤマト王権中枢からの強い関与が推測されます。
加えて、当時はヤマト王権の大王墓が大和(佐紀古墳群)から河内(百舌鳥・古市古墳群)へと移行する時期にも重なるため、ヤマト王権中枢の移動との関係を想定する説もあります。

古墳の規模は次の通り(括弧内は信頼性に欠ける推定値です)。
長さ・後円部直径・くびれ部幅・前方部幅の順番に記載。
上段(3段目)150.5m72.2m19.0m33.5m
中段(2段目)171.0m100.0m37.0m53.7m
下段(1段目)194.0m125.5m65.2m(82.4m)

五色塚古墳の墳形は佐紀陵山古墳(奈良県奈良市)伝日葉酢媛命陵とほぼ同一規格とされます。

墳丘周囲には鍵穴形と見られる周濠(水を張らない空濠)が巡らされています。
前方部前面には山陽電鉄本線・JR神戸線が通過し、墳丘周囲には道路が敷かれているため周濠の全体像は明らかでは有りませんが、元来の周濠は墳丘を全周していたと推測されています。
周濠の前方部南側では、通路状遺構(土橋)も検出されました。

また後円部側では、周濠のさらに外側に周溝も巡らされていたようです。
この周溝は西側で小壺古墳の周濠外側へと沿うように変形しますが、これが五色塚古墳・小壺古墳の同時築造を示すものか、いずれかが後に築造された際に溝に変形を加えたものかは定かでは有りません。

【埴輪】

P2220020.jpg
(鰭付き朝顔型埴輪です。)
P2220022.jpg(鰭付き円筒型埴輪)
P2220048.jpg(並びはこんな感じに成ります。)

墳丘表面では、墳頂・テラスの各段に円筒埴輪列が巡らされています。
埴輪列は10メートルに18本程度とし、鰭付円筒埴輪5~6本に1本の割合で鰭付朝顔形埴輪が、いずれも鰭を墳丘と平行に置かれています。

各段計3重に巡らされる埴輪の総数2,200本程度と推計され、検出された埴輪は全て黒斑を有しています。
また鰭付円筒埴輪は4条突帯5段構成・5条突帯6段構成の2型で、高さはそれぞれ100センチメートル・114センチメートルと異なりますが、突帯間隔は約17.5センチメートルと共通しています。
なお、同様の埴輪列は一部の周濠外堤でも見つかっています。

なお、五色塚古墳の円筒埴輪と同様の埴輪は、西隣の小壺古墳のほか、歌敷山東古墳、歌敷山西古墳、舞子浜遺跡、幣塚古墳でも検出されています。

【葺石「石にも歴史有り」】

墳丘各段の斜面には、葺石が葺かれ、古墳全体としては2,233,500個・2,784トンにも達します。

石材は、上段・中段(推計714,800個・2,278トン)では主に斑糲岩(一部に花崗岩等)で、地質学的には明石海峡対岸の淡路島北東岸産と推定されました。
下段では主にチャート・珪石で、古墳付近の海岸・河川産です。
『日本書紀』神功皇后紀の記載では、淡路島の石を運んで赤石(= 明石)に陵を築いたとする伝承が記されており、上の事実はその伝承を裏付けるものとして注目されます(面白いじゃないですか~(^^;)。

P2220044.jpg(後円部!流石に大きいですね~(;^_^A)
P2220046.jpg(後円部の上に立っています。石室が埋まっているはずでが?)


【埋葬施設】

埋葬施設は調査が実施されておらず、明らかでは有りません(未盗掘ですかね?)。
復元整備前の墳丘後円部において結晶片岩(徳島県東部産か)の出土が見られたことから、竪穴式石室(竪穴式石槨)が存在するものと推測されますが、詳らかでは有りません。

文献上では、『播磨鑑』『明石記』から引用して本古墳について「石棺露」と記すことから石棺(一説に長持形石棺)が使用されたと推測する説がありますが、これについて近年の『発掘調査・復元整備報告書』では、この「石棺露」は実際には「竪穴式石槨の一部の露出」を指したものであって、時代的には割竹形木棺が埋納されている可能性が高いと考えられます。

なお、『日本書紀』神功皇后紀の記事では遺骸を伴わない「偽陵」が赤石(= 明石)に築かれたとされますが(ワクワク(*^.^*))、考古学的には本古墳が古墳時代の人物の墓であることは確実とされています(ロマンぶち壊し~(*`Д´)ノ!!!)。

【出土品】

出土埴輪(国の重要文化財)五色塚古墳からの出土品としては、前述の円筒埴輪群が代表的なものとして知られます。
埴輪は総数2,200本と推計されるうち600本が採集されています。
特に採集埴輪のうち鰭付円筒埴輪42点・鰭付朝顔形埴輪3点・円筒埴輪3点の計48点は全形が復元されており、国の重要文化財に指定されています。
以上の出土品の多くは、神戸市埋蔵文化財センターで保管されています。

五色塚古墳の築造には、『日本書紀』に有るように、神功皇后の三韓征伐帰途に応神天皇の母違い兄弟の謀略目的によって造られた説が、私的には古代ロマンを掻き立てられるのですが、其は又お話致します(^人^)。

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2017/03/06

『日本中央の碑』と「坂上田村麻呂」

もう一つ青森話題をお送りします(o^-')b !

記事を書くにあたり、調べなおしてびっくり!
なんじゃこりゃ~~~!Σ(×_×;)!
正に、「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」大袈裟かな?。

hinomoto_monument[1]
(青森県のHP~お借りしました。現在はこんなに整備されたようです。それではタイムカプセルで30年前へ!)

御紹介するのは30年前の『日本中央の碑』ですf(^_^;。

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【そもそも、『日本中央の碑』って何?】
何か分からないんですよね、此がf(^_^;。
日本古代史の中でも屈指の謎を持つのが「日本中央の碑」なのです。

「遠くの土地にある謎めいた何か」ですかね。
その典拠は意外に古く、歌学者の藤原顕昭が出した『袖中抄』『陸奥には「つぼのいしぶみ」という石碑があり、蝦夷征討の際に田村将軍(坂上田村麻呂)が矢筈を使って「日本中央」という文字を刻んだものである』という一説があります。

そんな言い伝えもありまして、平安時代の昔から東北の歌枕として数多くの偉人・歌人に和歌に使われた「壷の石文(つぼのいしぶみ)」という、幻の遺跡ではないかと言われてきたのです。

江戸時代には宮城県の多賀城の碑が「つぼのいしぶみ」と考えられていましたが、その所在は明治天皇も気にかけられ、明治9年の天皇の東北行幸に際して、宮内省から青森県に「つぼのいしぶみ」発見の要請がありました。
石文にまつわる伝説の残る千曳神社の境内を掘り起し、捜索したのです。
千曳神社には魔除として崇めていた巨大な石碑を1000人で引っ張ったという伝説がありました(千曳神社は、『大同2年(807年)坂上田村麻呂の創始と伝えらられる、青森県最古の神社です。「日本中央」と刻んだ「つぼのいしぶみ」を建てたという伝説があり、これを訪ねた和歌や紀行文などが多いことで知られます。)。
それが、「つぼのいしぶみ」=「日本中央の碑」ではなかったかと考えられたのですが、残念ながら明治天皇(政府?)はその石碑を見つけることはできませんでした。

235487.jpg
(一生懸命に探された明治天皇様、写真の枚数の関係で大変失礼なのですが、勇ましいお姿を載せさせていただきました。)

ところが昭和24年6月に、その千曳神社近くの青森県東北町石文(いしぶみ)という所から突如として「日本中央」と刻まれた石碑が出土してきたわけです。
村の農家が馬頭観音を祀るためにちょうど良い石を物色していたところ、湿地帯で半分土中に埋もれた大石を掘り起し、汚れを落としたところ「日本中央」と刻まれていました。
壷の碑伝説は村人も周知しており、村中が大騒ぎになったといいます(大騒ぎしたわりには、私が知る限り、発見から30年以上放置?されていましたけど!)。



現在は、青森県東北町(旧七戸町)の国道4号線沿いにある「日本中央の碑歴史公園」の敷地内にあり、無料で見学できる保存館には、日本中央の碑はもちろん、石碑にまつわる興味深い伝説や、東北町に残る伝承、源頼朝や西行法師、岩倉具視ら数々の偉人・歌人が詠んだ歌などが展示されて、本州の果てにある日本中央の碑の謎への好奇心が大いにくすぐられます。

【「日本中央の碑保存館」で日本中央の碑を見てみましょう】

「日本中央」、正確には「ひのもとのまなか」と読みます。
かつて東北の人々は、自らの国を日本、すなわち「ひのもと」と称していたとされます。

お世辞にも達筆とは言えない字体で「日本中央」と彫られていますが、彫ったのは平安時代の征夷大将軍・坂上田村麻呂と伝えられています
征夷大将軍がこんな字を!?といった所からして大きな謎ですが、坂上田村麻呂が彫ったという確証は得られていません。
というよりは、坂上田村麻呂が青森に迄攻め込んだ記録が無いと思うのですが!

【「日本中央の碑発見地」はぬかるみの湿地帯に有った】

日本中央の碑保存館から車で5分ほど。青森方面に向かい、国道4号線から右折し、県道8号線に入り、青い森鉄道・千曳駅と交差した先に、日本中央の碑発見地があります。
発見地は、県道8号線沿いに大きな看板があって見つけやすく、完備された駐車場があり、そこから木造の階段を降りると、「日本中央の碑」と書かれた180cm(発見された石碑と同じ大きさ)の木造の碑が建っています(私が訪れた時には、現物が置かれて居ました。)。

SCN_0007.jpg
(スキャンで読みにくいですが、説明版が有りました。場所は此処ではないのかな?)

石が発見された集落の名は、今でも残っている地名で、「石文(いしぶみ)」、隣の地名は「都母(つぼ)」で、これがまさに「つぼのいしぶみ」の伝説と地名の符合する場所だったのです(私には出来すぎに思えますが!)。

日本中央の碑発見地は、発見当時と変わらず今でも小川が流れる泥濘の湿地帯で、何かに曳きつけられるような不思議な雰囲気が漂っています(私の記憶では畑+林+雑木林のイメージでしたが。)。

【最北の真ん中?「日本中央の碑」を訪ねて…】

SCN_0010.jpg
(あばら家に鎮座する30年前の日本中央の碑!色も感じが違いますね、日は読めますね~笑)


日本中央の碑は、その信憑性が証明されないためか国からの文化財指定はありません(失礼を承知で「そりゃそうだわな」)。
しかし、東北町の人々により大切に保管され、古くから信じられてきた伝説の「壷の碑」として、東北町の有形文化財に指定されています。

しかしこの碑の最大の謎は、ここに刻まれた文字「日本中央」です。
なぜこのような文字が日本の最北部に当たる青森県に置かれたのでしょうか?。
蝦夷征討の際に刻まれたという逸話から考えると、まだここは「日本」の領土ではなく、しかも「日本」という国号が使われていなかった時代です。
さらに付け加えると、この碑を刻んだとされる坂上田村麻呂はこの地まで遠征していません(後任の征夷大将軍・文屋綿麻呂がはじめてこの地域一帯まで足を運んだのが史実です。文屋綿麻呂が刻んだとも考えられますね。)。

実際のところ、ここに刻まれた「日本」という文字は「ひのもと」と読ませ、平安初期の文献によると、東北地方一帯を指す言葉として使われていたようです。
つまり、この「日本中央」とは、坂上田村麻呂以下の蝦夷征討軍が敵地の中央部分に当たる場所としてマークしたポイントではないでしょうか(若しくは全くの出鱈目、ロマン無いですね~(*^.^*))?

☆藤原顕昭
1130?~1209?。
平安末~鎌倉初期の歌僧。
六条藤家の中心的存在として活躍(本人は藤原氏の出身ではなく、養子として姓を賜う)。
当時最高峰の歌合と言われた「六百番歌合」にも参加しています。
『袖中抄』は文治年間(1185~1190年)に出されています。

☆つぼのいしぶみの歌枕
和泉式部・寂蓮・西行・慈円などが詠んで居ます。
「遠くにあるもの」や「どこにあるか分からないもの」という意味で使われることが多い様ですね。

☆多賀城碑
江戸時代初期に発見された古碑。
発見当初より「つぼのいしぶみ」であるとされてきた。
松尾芭蕉が『奥の細道』で「つぼのいしぶみ」と記しているのは、この碑のことでで、青森県の物では有りません(因みに、松尾芭蕉も奥の細道で青森には行っていませんね。)。

☆坂上田村麻呂
758~811。
平安初期の武官。
797年に征夷大将軍に任ぜられ、蝦夷征討の最高責任者となります。
801年に遠征を行い大勝、翌年に胆沢城(現・岩手県奥州市)を建設、さらに次の年に志波城(現・岩手県盛岡市)を建設しました。東北地方の多くの社寺の創建伝説、またその他の伝承に多数登場するが、そのほとんどは後年の創作と思われます。

日本の中心候補の中で最も異彩!数々の偉人たちが思いを馳せ、1000年以上も謎とされてきた「日本中央の碑(つぼのいしぶみ)」。
皆さんはどう考えられますか?


余談ですが、私学生時代を青森県で過ごした事もあり、青森県が大好きです。
そのなかでも、ねぶた祭りは日本一番の祭りだと思います(他のお祭りファンの方々m(__)m)。


他のお祭りも凄いと思うのですが、観光客がその日に御祭りの輪の中で参加できるお祭りが有るでしょうか?
ねぶた祭りは其が可能何です。
衣装さえちゃんとしていれば、あっという間に跳人の一人として祭りの中に溶け込む事が出来ます(跳ねるのにコツが有るので、地元の方には観光客だとすぐ解るようですが、地元の皆さんは優しく接して、楽しく過ご過ごす事が出来ます。)。
因みに私、二回跳ねてます(o^-')b !

その私の大好きなねぶた祭りの「ねぶた」最高賞が田村麿賞(ねぶた祭りでは田村麻呂ではなく田村麿です)だったのですが、昭和三十七年制定の、「田村麿賞」の名称が平成七年度より改称されました。
坂上田村麿が蝦夷征伐のため現在の青森県城に遠征した史実やその際にねぶたを用いた(大きな紙人形を威嚇に使用した言い伝えがあります。)ことが立証できないこと、田村麿と蝦夷征伐を結びつけてのネーミングは、民族の人権上からふさわしくないこと、国の重要無形民俗文化財指定にあたっても「ねむり流し(睡魔を払う行事。主として七夕 (たなばた) 行事として、水浴をしたり、形代 (かたしろ) などを模型船や灯籠・笹竹などにのせて川・海に送り流したりします。ねぶたも最終日は海上運航ですね。)」の習俗と明記されていること。
また、市民意識の変革 など、各界各層の意見、世論をふまえた結果、平成七年度より、青森ねぶたの最高賞は「ねぶた大賞」となりました。

此は、どうなんだろう?田村麿賞で良かったのではないかと思うのですが!
確かに私の産まれ年~ですから其ほどの歴史は無いですがねf(^_^;

会津若松でユニクロの不買運動が起きる感じなのかな(起きないけどね!)?
因みに、「ユニクロ」を中心とした企業グループ持株会社であるファーストリテイリング代表取締役会長兼社長「柳井 正」さんは山口県宇部市の出身です。

又は、戦後新嘗祭が勤労感謝の日に成った位?

どちらもしっくり来ないですね~(^^;

私的には、負けはしたが、強大な中央政権の大将軍に勇敢に戦いを挑んだ陸奥の人々の魂の鼓動がねぶた祭りにはあるように思いますし、勝利した後に武官としてではなく、執政官としての田村麻呂の手腕が陸奥の奥地に豊穣をもたらしたと考えてみたいです。

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2017/03/03

雛祭りの原点?『流し雛』の民俗学的考察。

今日は桃の節句!お雛様です。

我が家には娘が二人(まん中に長男の三人兄弟です)いるのですが、ひな祭りを祝った事は余り無いです(娘達!ゴメンね)。

長女の最初の雛祭り(桃の節句)に妻の両親から大きなお雛様を頂きました。
但馬の実家に置いていて、毎年父(母が亡くなる前は二人で)が飾ってくれています。
とても大きいので、残念ながら神戸の狭い家には飾るところが無いのです。

P3030024.jpg
(桃は398円でしたが、一輪挿しは~備前焼「金重晃介」さんの作です。初めて使った~(;^_^A)

我が家のお雛様については、昨年も御紹介したので、今年は昨年のお話にプラスして、雛祭りの原型ともいえる『流し雛』について少しお話させて頂きたいと思います。

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『流し雛(ながしびな)』は雛祭りのもとになったといわれる行事とも言われています(「雛流し」ともいわれます)。

祓い人形と同様に身の穢れを水に流して清める意味の民俗行事として、現在も各地で行われています。
今回写真で御紹介するのは鳥取県倉吉市の「流し雛」です。

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(鳥取県倉吉市の流し雛!鳥取市の物とはまた違った風情がありますね~。)
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(綺麗で穏やかですが、建物は地震で被害が有ったとも聞きました。残念な出来事です。)

起源は、『源氏物語』の須磨の巻に出てくるほどに古い歴史を持っています。
光源氏がお祓いをした人形(形代)を船に乗せ、須磨の海に流したという記述がありますね。

三月節句に川や海へ流し送る雛人形、鳥取市周辺では竹骨に貼った小型の一対の紙人形を、三月節句(雛祭)に飾り祭ったうえ、3日の夕方供物の苞(つと)ともども、桟俵にのせて川へ流すのだそうです。

現在は郷土玩具として流布もしますが、罪穢を移して流す「祓」の形代(かたしろ)の古意をとどめるもので岐阜県などでは粗製の土人形を流し送る風習が残っています。
また関東・中部の各地には、三月節句に子供たちが野外に雛人形を据えて祭り、名残を惜しみつつ「雛送り」をする風習がかなりみられる様です。
さらには古びた雛人形を神社や辻に送り納める習俗も広くみられ、「流し雛」とのつながりを示していると思われます。

出雲「佐太神社」の「祓」形代(かたしろ)を紹介します。
此がお雛様の最も原形かも知れませんね。

P3030037.jpg(佐太神社の水無月大祓の形代です。これがひな人形の原型「原点」だと考えます。)

江戸時代以来、雛人形が美術工芸品と化して保存愛玩されるようになると、「祓の人形」としての古意は失われますが、なお一部には古い「流し雛」の風習が残りました
「上巳(陰暦三月三日の桃の節句。)の祓」と習合した三月節句の原義は、むしろこうした「流し雛」の風習によくその跡をとどめているように思います。

その後、流し雛からさまざまな雛人形の形が生まれます。 

そして、江戸時代のはじめに、雛祭りと呼ばれるようになり現在の雛人形の形ができあがります。

その形に至る過程は、女性自身と子供の幸せを祈る気持ちの積み重ねによるものであることが、十五人の人形や付随する道具の多くのいわれの中からうかがわれます。

【うんちく~①】
雛人形の道具の中には、一対の貝桶が付いています(家の大きいお雛様にはついてると思ったけど、ついてませんでした(;^_^A)。
貝桶とは、現在のカルタと同じような遊び方をする、平安時代の遊具を入れる器で、中には蛤の貝が百八十づつ入っています。
そして、その貝の裏側には、絵が描かれ、同じ絵を合わせて遊んだり、また、歌貝とも言われ、和歌の上歌と下歌を会わせて遊ばれました。
蛤は、他の蛤のフタとは絶対に合わないので、女の子が大きくなって婚姻したら蛤のように、一生夫と心を合わせて仲良く暮らしたいという気持ちを蛤に託したのでしょう。

今日、貝合わせの遊びはなくなりましたが、雛祭りの料理としてちらし寿司に蛤のお吸い物は、付き物になっています。

因みに、今日私も作ります~!(料理は大好きです!)。
蛤のお吸い物は先日、蛤の身を柔らかなままに作るコツを長女に伝授したので、今日は長女がチャレンジします(#^.^#)
ちらし寿司は、インスタント?ですけれどね。

P3030021 (2)(蛤のおすましに、ちらし寿司に菜の花を添えて、器の説明したいけど見えないからな~笑、残念!)

【うんちく~②】
雛人形のお飾りとして、また食べ物として欠かせないものに、菱餅があります(今日は菱餅じゃなかった、笑)。
菱餅の形は、水草のひしの実からきています(ひしの実が菱形なんです。)。
昔は、ひしの実は、万病に効く薬草として重宝されました。
また、菱餅の色は、下から白、緑、赤の順番になっていますね、これは雪が降り、芽が出て花が咲く、といった春の草木の成長を表しているようです。
子供が、健やかに成長し、立派に育ってほしいといった親の願いが込められているのですね(#^.^#)。

【うんちく~③】
同じく、雛人形の飾りとして欠かせないものとして桃の花があります(桃の節句(*`・ω・)ゞだからね)。

古くから中国では桃は単なる果物ではなく、桃源郷の不老不死の「仙果」として考えられていました。
『西遊記』の中で、仕事もなくぶらぶらしていた孫悟空は天界の桃園・蟠桃園の管理をまかされます。
その桃園には、3,600本の桃の木があり、それを食べると不老不死が約束されるとされていました
この桃を、西王母(中国で古くから信仰されている仙女)の誕生日を祝う会・蟠桃会で食べる慣わしとなっていましたが、孫悟空が盗み食いをしてしまい、蟠桃会をめちゃくちゃにしてしまったばかりか、不老不死の力も手に入れてしまうのは有名なお話です。
西王母の誕生日が3月3日、つまり桃の節句です。

また、桃の花は、悪魔を祓うと言われてきました。
古事記の神話で「黄泉の国」から逃げ帰る伊邪那岐は、その場にあった桃の木から実をもぎ取ってを投げつけることで黄泉の醜女を追い払っており、ここらにも中国文化の影響が出ているのかもしれません。

そうしたことから、お雛さまの横には、桃の花を花瓶に生けたり、前飾りとして三宝を置き、その上の徳利に、桃の花をさして飾っているのです。
そして、旧暦三月三日頃には、桃の花が咲くことから三月三日は、桃の節句とも言われています。

そして、現代になって雛人形の飾りとして、最も象徴的な存在が、雪洞(ぼんぼり)!これは、雛祭りの歌によるものが大きいと考えられます。
「あかりをつけましょぼんぼりに…」から始まるこの歌はあまりにも有名です。
雪洞に照らされたお雛さまのはんなりした雰囲気は、家庭の中にやすらぎと家族の絆を強く感じさせてくれます。
この雪洞に照らされた雛人形の姿は、日本人が世界に誇る人形文化の傑作といえます。 

PICT0291.jpg
(でかい!高い!八畳を占拠してしまいます。長女の?お雛様です。貝桶は無いかな?)


次女が産まれて、実家の物は二人の物だよと納得させようとしましたが、やはり子供の事、「私のやで~」と長女をが権利を主張するので、亡くなった母が次女を気遣って、可愛らしい、神戸でも飾る事が出来る、コンパクトなお雛様をプレゼントしてくれました。
中々セットする機会が無かったのですが、最後に御紹介したいと思います。

【うんちく~④】
ところで、お内裏様とお雛様の位置関係が、京都(京都でも一部だけかも?)と関東地方(京都以外の全て?)で違うのをご存じでしょうか。
普段見慣れているお雛様は、お内裏様は向かって左側に並べられている場合が多いと思います。
これは、関東(京都以外)でのお雛様の並べ方なんです。一般的なお雛様は向かって左側がお内裏様(男雛)で、右側がお雛様(女雛)ですね。

京都は公家の装いで飾るといわれています。
京都ではお内裏様(男雛)が向かって右側に並べられます。
理由については諸説がありまが、ちょっとややこしく成るので、よく考えて下さいね。
分りやすく説明出来ないかもしれません。
御所における天皇の玉座の位置は左だから(天皇陛下に成ったつもりで考えて下さい)。
つまり、天皇(自分に置き換えて、天子様に成ったつもりで考えてください)の左側には誰もいません。
日本古来の左は右よりも格が高い「左上座」という考えに倣っています。
「左上座」とはお雛様側に立ってみて左であり、お雛様に向かってみると右になります。
「天子は南面し、臣下は北面す」とあるように天皇は南を向いているので、東は左、右は西に成ります。
京都御所から見て東が左京区、西が右京区なのも(地図を北を上に見ると左右が逆転しています)内裏目線です。
御所の左近の桜右近の橘も同じですね。
見に行くと(勝手には入れませんよ~笑)右側が「左近の桜」です。
ここで重要なのは、日が昇る東が上座にあたるということで、天仰とも関連しているかもしれません。
左大臣・右大臣が、天子の前に座っている場合、左大臣が東側で上位に当たります(左大臣から見ると下位の右大臣が左側に居ることに成り、左上座のルールが崩れた様に思えますが、この場合も天皇を中心に考えて、西側に座って居るから右大臣が下位と考えれば良いでしょう)。
日本古来の「左上座」の考え方があるのなら、関東(京都以外)のお内裏様はなぜ向かって左に並べられているのでしょうか?江戸は武家の装いで飾る。武家社会中心の関東では「右上位」という考え方があり、身分や等級によって座る順番が決められていました。

そのため関東地方のお雛様の配置もそちらに習って決められました。
大正天皇が、御即位式で皇后陛下の右に立たれた事は、文明開化以降に西洋文化が日本に入ってきて、西洋スタイルの即位に倣ったと思われます。
大正天皇以降の天皇御即位式の配置が、お雛様の並び方に影響を与えた事は確かなようですが、それを決定付けたのは、昭和天皇の御即位式時、陛下が御立ちになる、高御座の位置が右側だった事が基準とされたようです(この時始めて新聞紙上に天皇と皇后の「写真」が載りました。)。
その際にお二人がお写りになった位置をもって、関東の雛人形では右(お雛様側からの右です)がお内裏様(男雛)、左がお雛様(女雛)と決めた様です(写真で見ると昭和天皇が左側に香淳皇后が右側ですね)。

【かわいいですね~トリを取るのは次女のお雛様です。】

CIMG2905.jpg
(最後に登場、次女のお雛様!かわいいですね~このブログは時間かかりました~半日有給、爆笑)

元は中国の影響かも知れませんが、現在は完全に日本のひな祭りに成っています。
こんな素敵な文化を子供たちに受け継いで行ければ、日本の国は1000年は大丈夫だと考える市郎右衛門です。


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