2017/08/07

「事代主神と鶏異聞」の真相は?『長田神社』って面白い。

文字色本日ご紹介いたしますのはご近所?の神社です。と、その前にうれしいニュースが飛び込んで来ましたので、先にこちらをご紹介いたします。

文化審議会は7月31日、2019年の世界文化遺産登録を目指す候補に「百舌鳥・古市古墳群」(大阪府)を推薦することを決めました。閣議了解などを経て、政府が来年2月1日までに推薦書を国連教育科学文化機関(ユネスコ)に提出。19年夏のユネスコ世界遺産委員会で審査される事に成ります。

百舌鳥古墳群(堺市)と古市古墳群(羽曳野市、藤井寺市)を知らない方は居ませんよね?しかしながら私市郎右衛門、いまだ訪れたことが有りません(ToT)。
二つの古墳郡の合計49基で構成され、古墳時代最盛期の4世紀後半から5世紀後半にかけて築造され、古代日本の王と関係者が埋葬されたと考えられています。堺市の仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)は墳丘の長さ486メートルの前方後円墳で、日本最大の古墳(広さでは世界一?)。
記者会見した文化審世界文化遺産部会長の佐藤信東京大大学院教授は「世界最大級から小規模までの古墳がまとまって造営され、古代王権確立期の社会、文化を示す世界的にまれな物証という普遍的価値が視覚的に理解されやすく、推薦書の準備も相対的に最も進んでいた」との評価が有りました。

CIMG7751.jpg(季節違いで申し訳ないですがおめでたいのでご勘弁ください。)
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(見せないわけにもいかないかな?堺市のホームページより)

おめでたいお話は此くらいで、本日御紹介するのは、ご近所神戸市長田区長田町に有ります。『長田神社』です。

廣田神社・生田神社とともに神功皇后以来の歴史を持つ名社とされ、生田神社・湊川神社とともに神戸を代表する神社の一つです(此まで御紹介しなかったのが不思議です)。

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【長田神社ってどんな神社なの?】



CIMG7753.jpg(神門!震災で被害もなんのその、綺麗に再建されました。)
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(カメラに納まらないほどの大楠)

長田神社(ながたじんじゃ)は、兵庫県神戸市長田区長田町にある神社です。『延喜式神名帳』にある「長田神社(摂津国・八部郡)」に比定される式内社(名神大社・月次相嘗新嘗)で、近代社格では官幣中社、現在は神社本庁の別表神社となっています。

主祭神:事代主神「於天事代於虚事代玉籖入彦厳之事代主神(あめにことしろそらにことしろたまくしいりひこいつのことしろぬしのかみ)」を主祭神としています(舌噛みそうですし、神様の名前ほど覚えにくいものは有りません)。事代主神は大国主の息子で天津神に国譲りを認めた神として有名です。
境内社に、垣内に八幡社・天照皇大御神社があり、他に、楠宮稲荷社、蛭子社・出雲大社、月読社・松尾社などがお祀りされています。

創建:201年(神功皇后摂政元年) と伝わります。

【創建歴史についてのお話】

CIMG7755.jpg(初詣といっても一月の終わり頃ですから、長田神社の初詣がおじいさん二人と思わないでね!アッ私もいますし。)
CIMG7754.jpg(御祭神版)

『日本書紀』によると、201年(神功皇后摂政元年)2月、神宮皇后が三韓征服後、新羅から難波に帰還する途中、武庫の水門(現在の駒ケ林あたりといわれます)で船が進まなくなったので占いを行ったところ、事代主の神より「吾を長田國に祀れ」と御神託を受け、創祀されたといわれています(以前にもこんなお話有りましたね)。
確か、生田神社の由緒とも共通しています。なお、この事代主の神が最初に降臨した地が天神山であるとされ、その地には今、神戸水天宮が鎮座しています。また、『日本書紀』には、住吉大社(大阪市)も同様な由緒による創建とされています。『日本書紀』には有りませんが、社伝では神戸市の海神社も同様の由緒ですね。

この由緒から、2001年(平成13年)には鎮座1,800年を世盛大にお祝いいたしました。太古から長田神社と呼ばれていましたが、その他にも長田社・長田宮・長田大明神・摂津本宮長田大明神等とも呼ばれていました。

延喜式神名帳では名神大社、神名帳の他に、『延喜式』巻3「臨時祭」祈雨神祭条に「長田社一座」とあり、祈雨神祭85座に含まれます。また、『延喜式』巻11「玄蕃寮」に記載されている新羅から入朝した者に賜う神酒を作る工程の中で記された神社の一つでもあります。社に奉祀する神戸(かんべ)41戸によって護持されていました(新抄格勅符抄)。現在まで続く「神戸(こうべ)」の地名は、この神戸職に由来しています(これまた同じようなお話いたしましたね?)。

1862年(文久2年)刊行の随筆『雲錦随筆』(暁晴翁(暁鐘成)・著)には長田神社の追儺式神事(鬼追い)についての著述が、鬼の挿絵とともに記載されています。

近代社格制度のもとで1871年(明治4年)に県社に列格し、その後1885年(明治18年)に明治天皇の西国巡幸の際、初めて官幣社に列し官幣小社に、1896年(明治29年)には官幣中社に昇格しました。なお、社格昇格の経緯は同じ神戸市内の生田神社と全く同様・同時です。

明治時代末期まで55代、約1000年にわたり大中家が代々神職を務めてきました。

【事代主神と鶏異聞】

私は阪神・淡路大震災の時は神戸市民では無かったのであの大変さを良く知らないのですが、1995年(平成7年)1月17日の大震災では本殿こそ倒壊を免れたものの、大きな被害を受けました。参集殿は震災時、避難所と成りました。氏子以下の寄進等により、2000年(平成12年)夏に復旧しています。
現在は境内には鳩が放されていますが、かつては境内には数百の鶏が飼われており、外国人からは「チキンテンプル」と呼ばれていたようです。その由来から祈願の際には、境内に鶏を奉納したり、鶏の絵馬を捧げる風習がありました。そしてかつては氏子は鶏肉や卵を一切食さない、また、婦女の歯を鶏の羽根を用いて染める風習も在ったようです。

此処の長田神社の説明に一寸興味を持ちました(面白い~σ(^_^;)?同じ御祭神「事代主」なのに)。
島根県は美保関町の「美保神社(勿論御祭神は、事代主命)」では、事代主が鶏を嫌うという言い伝えがあります。その理由として、事代主の妻訪い(妻問い)の物語が紹介されています。それによると、「事代主は、夜毎海を渡って対岸の揖夜(イフヤ)の里の美保津姫のもとへ通っていましたが、鶏が間違って真夜中に鳴いたため、事代主はうろたえて小船に乗ったものの、櫂を岸に置き忘れて仕方なく手でかいたところ、鰐(サメのこと)に手を噛まれてしまいました。以来、事代主は鶏を憎むようになり、それにあやかって美保関では鶏を飼わず、参詣人にも卵を食べることを戒める」としています。

島崎藤村は、「釣り好きの事代主が寝ぼけて鳴いた鶏の声を聞いて未明に船を出し、荒れた海で櫓も櫂も失い、足で水をかいたところ鰐に足を噛まれた」という話を紹介していて、現代でも、事代主を再現した美保関の青柴垣神事の際に当屋に指名された者は、1年間鶏肉を食べないで身を清める習わしがあり、美保関から中海を渡った対岸には、美保津姫を祀った揖夜神社があるのです。

事代主神という同じ神様をお祀りしているにもかかわらず、食べないことは全く同じですが、その理由が全くの逆なのが面白いと思いませんか?何処でお話が変化したのか興味が湧きますね~?、子供の頃伝言ゲームって有ったでしょ!あれかな(笑)

【黄金伝説御船山旧跡】

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(此処には埋まっていませんから掘り返すと捕まりますよ~笑)

旧西国街道から長田神社に至る参道の中ほど東方、新湊川沿いに碑石が立っています。明治時代の湊川改修のためかつての位置とは異なっているのだそうです。かつては30坪ほどの丘があり御船山もしくは御船の森と呼ばれており長田神社付属の土地でした(30坪ほどの丘=古墳だな!)。伝説によると、長田大神鎮座の際、神功皇后が御船具を埋めた場所とされており、黄金の船が埋まっているといわれています。近隣の町名、御船通はこの旧跡の伝説にちなんだものだそうです。三韓征伐で多くの宝物を持ち帰った神功皇后が、何か人々に困ったことが起きた時に掘り出して使うように埋めたのかもしれませんね。ん~~またまた同じような話をブログに書いた記憶が有りますね?あの時は金の鶏でした(笑)

【大変珍しい?「痔の神様」楠宮稲荷社】

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(こちらがお尻に心地よい楠宮稲荷神社です。)
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(アカエイの絵馬が有名なの当時は知らなかったのです。勘弁してください。)

痔の神様としても知られる長田神社内にある摂社「楠宮稲荷社」同神社に伝わる話によると、6世紀ごろ、近くの刈藻川が台風で増水したとき、繁殖のために近くの海にいたアカエイの群れが川をさかのぼり、浸水した境内にも入ってきたそうです。住民たちが捕まえようと追いかけたが、神社内にある摂社、楠宮稲荷社のご神木クスノキ付近で見失居ました。以来、このクスノキは神の化身であるアカエイが宿るとして信仰されるようにまりました。昔は貴重なタンパク源だったアカエイを食べることを断ち、同稲荷社に祈願すると、腫れ物、できもの、特に痔に効くとされています。

市郎右衛門は痔と水虫は経験したことが無いので、良く分からないのですが、良く効く御守りが有るそうです。佐々木知行禰宜(55)は「おおっぴらにできず、痔で苦しんでいる人が、懐にお守りを忍ばせることで少しでも楽になってほしい」と話しておられました(本当に話したのか?)。類似の信仰は、大阪市浪速区の廣田神社にもある様です。

ちなみに、楠宮稲荷社と永田神社を一緒に参拝すれば、御朱印を頂けるのは勿論ですが。二つで500円でした(100円得したかな?)。



【お得情報「長田神社宝物庫はひょうごっ子ココロンカードの無料対象」】

ひょうごっ子ココロンカード(通称:ココロンカード)は、兵庫県内の小学生・中学生が兵庫県内の優待対象に指定された博物館などに入場する際に提示すると入場料や観覧料が無料になるカードです。ただし、一部の特別展示などは無料対象外の場合も有ります。カードは小学校新1年生時に配布され、転入・紛失の場合は学校に申請すれば発行・再発行が可能だそうです。小中学生の学校外活動を促進する為に兵庫県の「博物館等無料開放事業」として1992年(平成4年)度より開始されました。

元々無料の施設を含め県内176箇所の施設が対象となっています(平成23年度時点)。内訳は、県立施設11箇所、市町立施設や私立施設などが神戸地区25箇所・阪神南地区21箇所・阪神北地区19箇所・東播磨地区5箇所・北播磨地区14箇所・中播磨地区12箇所・西播磨地区23箇所・但馬地区32箇所・丹波地区8箇所・淡路地区6箇所です。
兵庫県の子供達~~使わなければもったいないじゃないか!夏休み皆で色々な博物館に無料で出かけよう。

最後に観ていないのでエラそうには言えませんが節分良いらしいでよ~~~!

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リュミエールブラン ネージュ

2017/08/05

「一休み一休み」!社員会の写真コンテストに出品してみた。第二弾!

今回は余り歴史とは関係ない?話題です。たまには「一休み一休み」です。ブログを書き始めた頃に、丁度会社(社員会)の写真コンテストがあったのです。

二年前位ですね、現社員会の会長はほぼ同期入社なので、協力しなければ、と出品してみたのですが、あえなく落選!もう二度と出すものか~とふて腐れていたのですが、今回は社員の皆さんも興味が薄れたのか出品数が定数に届かないという、お粗末さだったので、再募集のメールが各現場に回ってきました。

わが社は社員200名程の中小企業ですし、殆どの社員が派遣されたり出向したりと、横の繋がりがはとんど無いのです。
かくゆう私も、現在の職場(「国立研究所(医薬系)」、凄くかっこいい響きですが下働きです)にお世話に成って五年程に成りますが。他の現場がどんな状態かよく分からないのです(;^_^A。

そこで出品数が少ないのなら、社長賞(10000円券)のチャンスも在るのでは?と意地汚く考え、普段からブログで色々廻って写真だけは撮影しているので、何か掘り出し物がが有るだろうと、探してみたのですが、ブログ用の写真は記録が本分なので、面白みに欠けてしまいます。

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(社員会のコンテストに応募した、次女出演の「天の橋立又覗き」賞金が出たらアイスいっぱい買ってやろっと!)

そこで私が選んだのが、丹後国一宮「元伊勢の一社」の『籠神社(このじんじゃ)』と西国三十三所観音霊場第28番札所『成相山 成相寺』、先日に家族で行きましたおりに、撮影した傘松公園からの「日本三景又覗きの図」を景品欲しさに出品してみました。

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【一寸休憩して日本三景を!】



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(登りはケーブルカーを使いました。桜がまだ残っていますね。)

傘松公園(かさまつこうえん)は、京都府宮津市にある日本三景の天橋立を眼下に望む展望公園です。天橋立の北西にあり、丹後海陸交通が運営している展望台は観光名所のひとつになっています。麓の府中からケーブルカー(天橋立鋼索鉄道)かリフトで登ることができます。

【展望の醍醐味】

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(傘松公園の松、江戸末期宮津藩主松平伯耆の守一行が急な雨をしのいだことから名前がついたそうです。)
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(当時の松とは違うと思いますが、枝ぶりはなかなかのものです。)
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(見事な橋立、実は又覗きで撮影したのですが、カメラの修正機能が賢いのか普通に撮れています。私が逆転すべき?)

傘松公園から観る天橋立は「斜め一文字」と呼ばれ、股のぞきをして観ることの楽しさで有名です。股のぞきをすると、天地が逆転し、まさに天にかかる橋のようにみえます。公園は山の上にありますが、さらに徒歩で3分ほど登ると、「傘松」という名の松がある『股のぞき発祥の地』があります(ちょっと歴史ブログらしく成って来ました。笑)。発祥の地からは西国三十三所第28番札所の成相寺へ行くバスが出ています(料金がもったいないので?健康のために歩いてみました?。どっちやねんな)。公園内には「天橋立パノラマハウス」があり、中には、レストランや軽食コーナー、売店などがあります。また公園の一角には籠神社の祭神が降臨したとされる冠島、沓島遥拝所がありました。

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(籠神社の祭神が降臨したとされる冠島、沓島遥拝所がありました。)
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(冠島見えますよね~(;^_^A)

天橋立を挟んで対岸には同様の展望施設がある天橋立ビューランド(眺めは「飛龍観」と呼ばれる)が所在しています。

【日本三景って誰が決めたの?】

江戸時代前期の儒者、林羅山の三男の林 鵞峰(はやし がほう)、元和4年5月29日(1618年7月21日) ~延宝8年5月5日(1680年6月1日)が決めています。

那波活所(なわかっしょ)に師事し、その後父羅山同様江戸に赴き江戸幕府に仕えました。父羅山の死去後の明暦3年(1657年)林家を継ぎ、幕政に参与しています。寛文3年(1663年)、4代将軍徳川家綱に五経を講義して弘文院学士号を与えられ、訴訟関係・幕府外交の機密を担った役人です。

日本史に通じ、父羅山とともに『日本王代一覧』、『本朝通鑑』(『本朝編年録』)、『寛永諸家系図伝』など、幕府の初期における編纂事業を主導し、近世の歴史学に大きな影響を与えました。鵞峰が整えた林家学塾の組織は、その後の昌平坂学問所の基礎となっっています。

多方面な関心をいだいて博学広才ぶりを発揮した父羅山にくらべ、鵞峯は、『本朝通鑑』や『日本王代一覧』などにおいて「日本」の国柄がどのようなものであったかを追究し、幕府政治の正統性や妥当性がどうあればいいかについて、その支配イデオロギー形成の端緒を開いたとも評されています。

寛永20年(1643年)の著書『日本国事跡考』のなかで「松島、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳、與丹後天橋立、安藝嚴島爲三處奇觀」(松島、この島の外に小島若干あり、ほとんど盆池月波の景の如し、境致の佳なる、丹後天橋立・安芸厳島と三処の奇観となす)と記していて、これが現在の「日本三景」の由来となったと思われます。2006年(平成16年)、林鵞峰の誕生日にちなみ、7月21日が「日本三景の日」と制定されています(へ~そうなんだ!林 鵞峰の経歴はWikiを参考にさせて頂きました)。

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(のこり桜の橋立もなかなかです。)
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(下りはリフトで、これが子供達には好評でした。)




丹後国一宮「元伊勢の一社」の『籠神社(このじんじゃ)』と西国三十三所観音霊場第28番札所『成相山 成相寺』は又の機会に必ずご紹介させていただきます。

【最後にもう一つ、らしいうんちくを】

題名にした「一休み一休み」!は私が子供の頃のアニメ一休さんのCM前の「あわてない、あわてない、一休み一休み」の一言から遣わしていただきました。一休さんこと(一休宗純・いっきゅうそうじゅん)は、1394年(応永元年)正月元旦に、後小松天皇と、宮仕えしていた日野中納言の娘照子姫との間に生まれました。つまり皇子ですね、お墓は京田辺市薪の酬恩庵一休寺にあります。
皇族ですから勿論宮内庁管轄なんですよ。(オット行ってない所は書かない御約束なので、この辺で止めておきます。)

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リュミエールブラン ネージュ

2017/08/03

草薙剣より霊力は上位?「天十握剣」を追って『石上布都魂神社』へ

昨夜ブログを書こうと思いPC前に座ったのですが、FC2ブログ下書一覧が開きません?ウェイト合図がくるくる回っているだけでした(皆さんは大丈夫でしたか?)。

今日は何故か?治っていたので、急いでブログ製作に取り方かかりました。さて今回は、お寺・城・古墳と順次UPしてきましたので、順番的に神社を御紹介したいと思います。

そして、こんなにも早く岡山取材の秘密兵器レポートをUPする予定は無かったのですが、岡山で一生懸命探しながら、極上桃を食べられなかった私は、「ほ~ら羨ましいだろう~(⌒0⌒)/~~」桃が無くてもこの神社にお詣りに行ければ満足なんだ~よ~な~と考え方を変えました(*´ω`*)(子供か?笑)。

ということで、あの八俣遠呂智を叩き斬った「天十握剣(十拳剣)」が最初に収められたといわれる、『石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)』をご紹介です(歴史ファンなら垂涎の的のはず!)。ネット状態も今二つ?だったことも秘密兵器情報投入の一因です。

P7301004.jpg(こちらが石上神社の原点ともいえる備前古一宮石上布都魂神社です)


さて、最初にお話するのは、勿論神話「須佐乃男命の八俣大蛇退治」からですが、此までにも幾度となくお話しておりますので、簡単に粗筋だけ行きますよ~(^^)b

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タイトルで使用した「天十束剣」は、日本三霊剣の一本で、すべての剣の祖とされる剣です。凄まじい破壊力を秘め、使いこなせば一太刀で海を割る事も出来るともいわれ、折れる事や刃毀れする事も有りません。更に、この刀は意思を持っており、自ら持ち主を選ぶといわれます。刀に気に入られた相手でなければ抜く事はおろか、持つ事すら出来ないのです。十握と言うのは、刀身が十握り分、約75.8㎝~78.8㎝程度の長さがあるという事に成ります。

別名が非常に多い剣である事も有名です。 「天羽々斬(あめのはばきり)」(天の羽羽斫、天羽羽斬)、「10束(束は長さの単位で、拳1つ分の幅)の長さの剣」十握り分という意味では「十握剣(とつかのつるぎ)」「十拳剣」「十掬剣」など様々に表記されています。一つの剣の固有の名称ではなく、長剣の一般名詞と考えられ、それぞれ別の剣と考えた方が良いかもしれません。

【「昔話」須佐乃男の八俣大蛇退治!】

むかし、その昔、そのまた古い神代のお話、高天原で悪戯がすぎて、姉の天照大御神に追放処分にされた、建速須佐之男命は、出雲国肥の河(斐伊川)上流の、鳥髪(現奥出雲町鳥上)に降ってきました。

この時、須佐乃男命が河の流れに目をやると、箸が河を流れ下ってきました。須佐乃男命は、その河上に人が居ると考え尋ねて上ってゆくと、おじいさんとおばあさんの二人が美しい娘と一緒に泣いているでは有りませんか。

須佐乃男が「あなた達は誰か?」と問うと、おじいさんは「私は国の神。大山津見神の子で名前を足名椎(あしなづち)、妻の名は手名椎(てなづち)、娘の名は櫛名田比賣(くしなだひめ)といいます」と答えました。

「どうして泣いているのか?」と訳を聞くと、足名椎は「私には八人の娘がいましたが、高志(越の国)の八俣遠呂智が毎年来て、一人ずつ喰ってしまいました。今年も来る頃なので、悲しくて泣いているのです」と答えました。

その八俣遠呂智とは「どのような形をしているのか?」と尋ねると、「その目は、あかかがち(ほおずき)ように真っ赤で、一つの身に八つの頭と八つの尾があり、体には苔や檜や椙が生え、その長さは八つの峡谷と八つの尾根に渡っています。その腹を見ると、いつも血でただれています」と足名椎は答えました。

「八岐大蛇を退治するから娘を私の妻に貰えないか」と足名椎に問うと、「恐れ多いことですが、あなたの御名を存じません」と答えました。「私は、天照大御神の弟須佐乃男だ。いま高天原から降ってきたところだ」。足名椎と手名椎は畏み「それは恐れ多いことを申しました。娘をさし上げます」と申し奉りました。

須佐乃男命はすぐにを隠すために、櫛名田比賣を櫛に変えて自分の角髪に刺しました。そして足名椎と手名椎とに、「何度も醸した、八鹽折の強い酒を造り、垣根をめぐらし、垣根に八つの門を作り、門毎に八つの桟敷を作り、その桟敷毎に酒船を置き、船ごとに八鹽折の酒を盛って待て」と命じました。

命ぜられたように備えをして待っていと、八俣遠呂智がが本当に現われ来て、八つの頭を酒船ごとに垂らし入れ、その酒を飲み干すと、強い酒に酔いが回り死んだように伏して寝てしまったのです。すかさず須佐乃男命は、十拳剣を抜いて、「大蛇」を切り散らすと、肥の河は「血の河」に変わり流れ下りました。

中の尾を切った時、十拳剣の剣先が欠けたので、怪しいと思い御刀で刺し割って見ると、都牟刈大刀(つむかりのたちは、草薙の剣であり、天叢雲劒でもあります。)が出て来ました。須佐乃男はこの不思議な大刀を、姉の天照大御神に献上しました。この大刀が、天皇の証「三種の神器」の一つ『草那藝之大刀(くさなぎのたち)』なのです。

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(私たちの大蛇のイメージはやっぱりこれかな?)

さてこうして、須佐乃男命は、宮作りの地を出雲国に求めて須賀の地に着くと「この地に来て我が心はすがすがしくなった」と申され宮を作られました。それでこの地を今でも須賀といっています。

須佐乃男命が、初めて須賀の宮を作られたとき、その地より雲が立ち騰ぼりました。そこで歌をつくられました。その歌は、八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣つくるその八重垣を(やくもたついずもやえがきつまごみにやえがきつくるそのやえがきを)ですが。この歌が日本最初の和歌と言われています。

須佐乃男命は足名椎を喚び「我が宮の首」に任じ、「稲田宮主須賀之八耳神」(イナダノミヤヌシ スガノヤツミミノカミ)と名號けました。須佐乃男命は、櫛名田比賣と共に暮らし出雲国の基礎をつくり、子孫の「大國主命」が大八州国を平定し治めました。

【石上布都魂神社を訪れてみた】



P7300922.jpg(田舎ですが、まずは本宮を目指します。)
P7301039.jpg(本宮途中への山道に在る鳥居です。横を車ですり抜ける。)
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(石上布都魂神社奥の院への第一歩です。)
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(本殿への道まで登って来ました。)

P7300934.jpg(本殿を正面から一宮ですがかわいいですね~!)


所在地:岡山県赤磐市石上字風呂谷1448に成ります(山の中ですし、奥の宮まで登るのならトレッキングシューズが必要です)。
主祭神は1柱:素盞嗚尊です(明治時代に布都明神から改められました)。
社格:式内社(小)備前国一宮・旧郷社、創建不詳、本殿の様式流造です。

P7301012.jpg(石上布都魂神社御由緒)
P7301017.jpg(磐座祭縁起、自然のパワーが霊力を上がるのでしょうか?)
P7300940.jpg(神殿も可愛いです。吉備の神社に特徴的な鰹木の複数と枕木の縦カット!)
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(備前には一宮が三社あるのですよ~)
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(神官の奥様が言われていた、一番の霊気が湧き出る場所だそうです。)


【まずは草薙の剣の行方】

須佐乃男命は、八岐大蛇由来の神剣を高天原の天照大御神に献上しました。 続いて天孫降臨に際し他の神器と共に邇邇芸命に託され、地上に降臨しました。崇神天皇の時代に草薙剣の形代が造られ、形代は宮中(天皇の側)に残り、本来の神剣は笠縫宮を経由して、伊勢神宮に移されたといわれます。景行天皇の時代、伊勢神宮の倭姫命(やまとひめのみこと)は、東征に向かう「倭建命」(古事記)「日本武尊」(日本書紀)に神剣(草薙の剣)を託します。倭建命の死後、草薙剣は神宮に戻ることなく宮簀媛(倭建命の妻)と尾張氏が尾張国で祀り続けたます。これが熱田神宮の起源となって、現在も同宮の御神体として祀られています。

宮中(天皇の側)に残った、形代の草薙剣は、壇ノ浦合戦(源平合戦)における安徳天皇(第81代天皇)入水により関門海峡に沈み、失われてしまいました。神剣の喪失により、様々な伝説・神話が生まれました(中世神話)。その結果、後鳥羽天皇(第82代天皇)は三種の神器がないまま即位、平氏滅亡により神璽と神鏡は確保できましたが、神剣を手にすることは出来ませんでした。その後、朝廷は伊勢神宮より献上された剣を「草薙剣」とします。南北朝時代、北朝陣営・南朝陣営とも三種神器(神剣を含む)の所持を主張して正統性を争い、この混乱は後小松天皇(第100代天皇)における南北朝合一まで続いたのです(明徳の和約)。現在、神剣(形代)は宮中に祭られています。

【不遜ながら十拳剣(天羽々斬・天十握剣)の方が霊力は上なのでは?】

さて、以前から、申します通りに、大蛇の尻尾から出て来た草薙剣よりも、大蛇を退治した十拳剣の方が霊力では上なのでは?と疑問?を持っているのです。
八俣遠呂智については色々な説が有りますが、「斐伊川が血で染まる」を斐伊川の洪水を静めた須佐乃男と考える方も居られますし。「赤く染まった斐伊川」から砂鉄の存在を示唆する方々も居られます。この場合は草薙剣は鉄剣となり強力な武器と考えても良いかもしれません。更に「越の八俣遠呂智」から越国の攻撃とも考えられますね!浪漫溢れる幾つもの説、皆さんはどの説が正しいと思われますか?

そんな八俣遠呂智を退治した十拳剣、私が不遜にも三種の神器よりも霊力が上だと勝手に考えている。十拳剣が最初に納められたのが、今回の『石上布都魂神社』なのです。どのような、経緯でこちらの神社にもたらされたのかは不明ですが、十拳剣は日本神話に登場する八俣遠呂智を切り裂いた、あの刀剣です。別名「天羽々斬剣」(あめのはばきりのつるぎ)は 、奈良石上神宮では「布都斯魂剣」として祀られています。 別名「天十握剣」(あめのとつかのつるぎ)、 「蛇之麁正」(おろちのあらまさ)、 「蛇之韓鋤」(をろちのからさひ/おろちのからさび)、 「天蠅斫剣」(あめのははきりのつるぎ/あめのはえきりのつるぎ)等の別名が有ります。

須佐乃男命が八岐大蛇を斬ったときの十握剣が、石上布都魂神社(現・岡山県赤磐市)から石上神宮へ遷されたとも伝えている。この剣は石上布都魂神社では明治以前には布都御魂剣と伝えていたとされています。
須佐乃男が八俣遠呂智を退治した時に用いた神剣。 当初は十掌剣/十握剣/天十握剣としか言及されず、古事記と日本書紀本文では固有名詞を与えていません。十掌剣とは「一握り十個分の長さの剣(約75.8㎝~78.8㎝)」という普通名詞の事です。 須佐乃男の十握剣には、八俣遠呂智(八岐大蛇)退治の時に天羽々斬剣と名称がつけられました。日本書紀では複数の別名があ事は説明いたしました。伝承によれば、現在は石上神宮で祀られています。

【十拳剣は幾つも在る?】

三貴子の一柱、須佐之男命(素戔嗚尊)が最初にもっていた十掌剣は、天照大御神(アマテラス)と宇気比(誓約)した際、姉神によって三つに折られて口に含まれ、宗像三女神(多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命)に生まれ変わっています(古事記、日本書紀本文)。

天岩戸隠れを経て高天原を追放された須佐乃男は、新たな剣を持っていた。まず大気都比売神を斬り殺してしまいますが、剣の名称について古事記では言及していません。こちらも十拳剣といえるのかもしれませんね、日本書紀では穀物神の保食命(うけもち神)を斬り殺したのは月読尊(つくよみ)とされています。

「日本書紀」では布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下(夢に天照大神、高木神、建御雷神が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡っています。その後物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていましが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が「石上大神」として石上神宮に祀られています。

現在、石上神宮では天羽々斬剣とされる鉄刀が、布都御魂剣とともに石上神宮本殿内陣に奉安され祭られています。これは明治11年(1878年)の石上神宮の社殿建造のための禁足地発掘の際、出土した全長120cm位の片刃の刀です。本殿内陣には布都御魂剣とこの片刃鉄刀の他に、同じ明治11年の発掘で出土した全長60cm位の両刃の鉄剣も奉安され祭られていますが、片刃鉄刀の方が天羽々斬剣とされています。

一方、岡山の「石上布都魂神社」は布都明神を祀っていたが、明治時代に祭神を素戔嗚尊に改められました。更には鹿島神宮にも、「十握剣」とされる直刀(国宝)が納められています。こちらは国譲り神話で武甕槌が使用した十拳剣ですかね~。

【石上布都魂神社奥の宮を訪れよう】

P7301000.jpg(さあ、奥の院目指して登山です)
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(意思の坂道、意思の強さを試される階段だそうです)
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(奥の院本宮への最後の階段竜の道だそうです。竜の尻尾のようにうねっています)
P7300953.jpg(さあ奥の宮へ着きました~神秘的ですね~!)
P7300970.jpg(元々こんな感じの祠が立っていたようです。岡山藩主池田綱政公の創設時絵図です)
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(現在の小さな祠と磐座禁足地です。此処に素盞嗚命が八岐大蛇を退治した十握剣が眠っていたのでしょうか)


本宮(奥の院)、石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)は、明治時代までは、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの剣である布都御魂と伝えられていた。明治3年(1870年)の『神社明細帳』では神話の記述に従って十握剣と書かれています。

上述の十握剣を祀ったのが当社の創始と伝えられる。この剣は崇神天皇の時代に大和国の石上神宮へ移されたとされており、このことは石上神宮の社伝にも記されています。『延喜式神名帳』では小社に列し、備前国総社神名帳では128社中2位に正二位布都魂神社と記載されている。寛文9年(1669年)、岡山藩主池田光政が山頂にあった小祠を復興しました。次代綱政は延宝2年(1674年)社領20石を寄進し、宝永7年(1710年)に社殿・神楽殿を造営します。その後も歴代の藩主の崇敬を受けました。

明治6年(1873年)に郷社に列した。祭神を素盞嗚尊に変更したのはこのときと考えられます。明治40年(1907年)、大火で山頂の社殿が焼失し、大正4年(1915年)に中腹の現在地に再建されました。昭和21年(1946年)1月10日、内務省より由諸などから県社となるべき資格ありと認定されたが、この年の2月2日に社格制度が廃止されています。山上にある本宮(奥の院)が、昭和59年(1984年)2月18日に赤磐市史跡(指定当時は旧吉井町)に指定されました。

看板には、「石上布津魂神社の由来」として、「当社は日本書紀に素盞嗚命が八岐大蛇を退治した剣を奉斎したと記す古社である。延喜式内社であり備前一宮として格式高い神社で、広く全国から参拝される。山頂は磐座で、禁足地である。」と書いてあります。



この地に何故「天十握剣」が眠っていたのか、須佐乃男が持ってきたのか?出雲と吉備関係の結果なのか?そして倭「石上神宮」へ移動させたのはなぜなのか?それぞれの点が線に繋がる時、倭の政権の本質がわかるのだろうか、謎は解けるのかそれとも深まっていくのか、皆さんどう思われますか?

最後に今回のブログの表記に「須佐乃男・素盞嗚尊」又「八俣遠呂智・八岐大蛇」等の名前違いが有りますが、こちらは「記紀」中表記違い、それぞれの神社御由緒の違いからですのでご容赦願います。

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リュミエールブラン ネージュ

2017/08/01

この大きさになると古墳なのか山なのか分かります?「景行天皇天皇陵」

奈良の取材旅行の残りが少し?有りますので、お城の後は古墳廻りということで、崇神天皇の孫にあたります、景行天皇(第12代天皇)の陵墓を御紹介いたします。
とはいっても、題名にも付けましたように、300mを越える陵墓を近くから見ても山なのか、何なのか良く解りません(笑)、不遜な話ですが、灌漑様の池の向こう側が山に成ってる?位の感じですね。古墳拝所がなければ、いえカーナビと看板が無ければ本当に分からないのです。

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(大きすぎる場合小さな物からアピールする方が良いかもしれません。)

其では、景行天皇の陵墓、山邊道上陵(奈良県天理市)を御紹介致しますm(__)m景行天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県天理市渋谷町にある山邊道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ、山辺道上陵)に治定されています。公式形式は前方後円で考古学名は「渋谷向山古墳」(墳丘長300m国内第7位の大きさ)。

『古事記』には「御陵は山邊の道上にあり」とあります。

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【景行天皇ってどんな天皇?】

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(景行天皇の画像が無かったのでWikiよりお借りしています。)
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(拝所、玉砂利踏むと背筋が伸びますね~!)
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(宮内庁の看板は出来ればもう少し説明が欲しいですね。)
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(空撮写真も同じくWikiからお借りしました。少し時代が古いみたいですね。左の水口神社も前方後円墳に見えますが、陪塚?)

景行天皇(けいこうてんのう、垂仁天皇17年~景行天皇60年11月7日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第12代天皇です(在位:景行天皇元年7月11日~同60年11月7日)。記紀によれば第11代垂仁天皇と丹波道主王の娘日葉酢媛(ひばすひめのみこと)の子、垂仁天皇の第三皇子、日本武尊(やまとたけるのみこと)の父として有名です。『日本書紀』には自ら九州に遠征して熊襲・土蜘蛛を征伐し、東国には日本武尊を遣わして蝦夷を征討させたと伝わっています。和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)・大帯日子淤斯呂和氣天皇(古事記)と記載され。「常陸風土記」には大足日足天皇と「播磨風土記」には大帯日子天皇、大帯日古天皇、大帯比古天皇と多くの名前が有りますね~(記紀も風土記も発音を漢字に当てはめるのに苦労した様子がうかがえます)。
皇后は播磨稲日大郎姫、その死後は八坂入姫。子に第13代成務天皇、日本武尊がいます。都は纏向日代宮(桜井市穴師付近)。自ら日向(九州南部)の熊襲を討ち、日本武尊をして熊襲、出雲、東国を征討させたといわれています。子は80人におよび、その多くは地方に分封したと伝えられます。また九州関係の『風土記』には多様な巡行、活動が描かれる。伝承上の事績は事実としては疑わしいですが、地方伝承への強い浸透を念頭におくと、実在の人物としの可能性が有ります。

【物語、景行天皇熊襲を征伐する】

第12代景行天皇は、日本書紀によると、6年間にわたって、日向(ひむか)に滞在したと記され、熊襲征伐の伝承が伝えられています。ある年、九州南部の熊襲一族が朝廷に反抗し、みつぎ物を差し出しませんでした。景行天皇は熊襲を討つことを決め、みずから軍を率いて、九州へ向かいます。そして、豊後の国(今の大分県)を通って、日向の国に入ると、「高屋宮(たかやのみや)」という仮の住まいを建てました。ある日、天皇は熊襲討伐作戦を考えます。

「聞くところによると、熊襲には熊襲梟帥(くまそたける)という強者がいるらしい。何かうまく攻略する方法はないものか」景行天皇の臣の一人が、「熊襲梟帥には姿は美しく、心は雄雄しい2人の娘がいるので、その娘たちを傍に召し、利用すれば、自らの手を汚さずに、熊襲を滅ぼすことが出来るでしょう。」と天皇に奏上しました。それはいい考えということで、2人の娘は財宝を与えられ、天皇の下に召しだされます。そして景行天皇は、その姉のイチフカヤを寵愛しました(その愛は勿論偽りだったのですが)。懐柔されたイチフカヤは策を話します。「私に良い考えがあります」イチフカヤは家に帰ると強いお酒をたくさん用意して父親の熊襲梟帥にそれを飲ませると、熊襲梟帥は酔ってぐっすり寝てしまい、その間に天皇の兵によって殺されてしまいました。熊襲梟帥を失った熊襲一族は勢力を失い、その半年後には天皇によってほろぼされてしまいました。

襲国を平定し、高屋宮に滞在する事6年、景行天皇は御刀媛(ミハカシヒメ)という美しい女性を妻に迎え、豊国別皇子(トヨクニワケノミコ)という名の男の子をもうけました。豊国別皇子は日向を支配した「日向国造(ヒムカノクニノミヤツコ)」の先祖といわれています。

また、あるとき、天皇は児湯(こゆ)地方に出かけ、そのとき、東の方を見て、こう言いました。「この国はまっすぐに日の出る方に向かっている」それでこの地方を名付けて「日向(ひむか)」というようになったそうです。皆さんおかしい?と思いませんでしたか?初代天皇の神武天皇が東征に出発したのが日向ですよね~12代景行天皇が日向に名前を付けたのなら~?神武天皇の出発点は現在の日向ではないことに成りませんか(あら~やっちまったよ!大足彦忍代別天皇)?

色々な出来事が有りましたが、気がつけば景行天皇が日向にきてから、はや六年の月日が過ぎていました。天皇はいよいよ都に帰ることになり、出発した翌年に無事に都に着いたということです。

【景行天皇九州巡幸記】

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(景行天皇九州巡行記録)

景行12年熊襲が背いたので、これを征伐すべく、8月に天皇自ら西下。周防国の娑麼(さば、山口県防府市)で神夏磯媛から賊の情報を得て誅殺します。筑紫(九州)に入り、豊前国京都郡(福岡県行橋市)に行宮(かりみや)を設けます。豊後国の碩田(おおきた、大分県大分市)で土蜘蛛を誅して、11月ようやく日向国に入ることが出来ます。熊襲梟帥(くまそたける)をその娘に殺させ、翌年夏に熊襲平定を遂げた。日向高屋宮(宮崎県西都市か)に留まること6年。18年3月に都へ向け出立し、熊県(熊本県球磨郡)や葦北(同葦北郡)・高来県(長崎県諫早市)・阿蘇国(熊本県阿蘇郡)・的邑(いくはのむら、福岡県浮羽郡)を巡り、19年9月に還御しました。なお、この天皇親征について、古事記には一切記されていません。

「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇が持ち、時代が下って7世紀前半に在位したことが確実な34代舒明・35代皇極(37代斉明)の両天皇も同じ称号をもつことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであるとして、12,13,14代の称号は後世の造作と考える説があり、景行天皇の実在性には疑問が持たれています。記紀の記事は多くが日本武尊(やまとたける)の物語で占められ、残るのは帝紀部分のみになり史実性には疑いが持たれるものの、実在と仮定すれば、その年代は4世紀前半だと考えられています。

【垂仁天皇の業績と羨ましいくらいの子だくさん!】

『古事記』によれば記録に残っている御子が21人、記録に残ら無い御子が59人、合計80人もの御子がいたことになっています。

垂仁天皇37年1月1日に立太子。景行天皇元年7月に即位、翌2年3月3日に播磨稲日大郎姫を皇后に立てます。
景行4年、美濃国に行幸し、泳宮(くくりのみや、岐阜県可児市)に滞在します。八坂入媛命を妃とします。
景行51年8月4日、八坂入媛命との間の皇子・稚足彦尊(後の成務天皇)を皇太子に立てます。
景行52年5月4日に播磨稲日大郎姫が崩御されたので、同年7月7日に八坂入媛命を新たな皇后としました。
景行25年7月、武内宿禰を遣わして、北陸・東方諸国を視察させます。

【日本武尊の活躍に涙しない者はいない!】

景行27年8月、熊襲が再び叛旗を翻す。10月に日本武尊を遣わして、熊襲を征討させます。首長の川上梟帥を謀殺し、翌年に復命します。
景行40年10月、日本武尊に蝦夷征討を命じます。尊は途中、伊勢神宮で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)より草薙剣を授かっっています。陸奥国に入り、戦わずして蝦夷を平定します(常陸は蝦夷)。日高見国から新治(茨城県真壁郡)・甲斐国酒折宮・信濃国を経て尾張国に戻り、宮簀媛(みやずひめ)と結婚します。その後近江国に出向来ますが、胆吹山の荒神に祟られて身体不調に陥ります。そのまま伊勢国に入りますが、能褒野(のぼの、三重県亀山市)で病篤くなり崩御しました(景行43年)。白鳥陵に葬られました。なお、『古事記』によれば、死の直前に大和を懐かしんで「思国歌(くにしのびうた)」を詠んだとされ、この歌は、太平洋戦争中に東アジア地域へ派遣された兵士の間で大変流行ったといわれます。
『倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし(『日本書紀』歌謡三一)』
景行53年、息子の日本武尊を追慕し、東国巡幸に出る。東国から戻って伊勢に滞在し、翌年9月に纒向宮に帰ります。
景行58年、近江国に行幸、高穴穂宮に滞在すること3年、60年11月に崩御143歳でした。『古事記』では137歳でした(あと90年は生きられるな)。

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(実は前の玉砂利を踏めないので環濠も見られないのです。不遜で失礼ですが、森です。)

【宮はどこだ編】

宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では纒向日代宮(まきむくのひしろのみや)といわれます。伝承地は現在の奈良県桜井市穴師です。
また晩年の景行天皇58年には、近江国に行幸して、志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや、現在の滋賀県大津市穴太か)に滞在したと考えられます。



現実と虚像が入り混じるこの時代、真実は何処に在るのか?140歳の天皇が居たとはとても思えませんが、だからといって景行天皇の業績や、日本武尊の活躍が全くの夢物語とも思えません。さて皆さんはどう思われますか?


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リュミエールブラン ネージュ

2017/07/30

市郎右衛門は裏鬼門の呪いを解いたのか?「明石城跡」

前回、写真が多過ぎて、選ぶのに苦労したばかりか、取材旅行中で未完成なブログをUPする不手際で申し訳ありませんでした。思い出話が過ぎてしまい、「歴史ブログもとしては、一寸な~」と思われた方々も多かったのでは無いでしょうか?その分今回はしっかり行きますよ~(^^)b

さて、明石城が造られ始めた1617年(元和3年)は、1615年の大阪夏の陣も終わり、徳川将軍家にとっては、戦後処理を考えた大名の転封が非常に多く行われた時期になります。

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(巽櫓、この角度が一番綺麗です。)

明石城も西国外様大名の抑えとして、譜代大名が次々に転封されています。もうひとつ西に有る姫路城との二段構えに成っているのです。

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明石城は、兵庫県明石市に在り、明石公園として整備されています。旧明石藩の政庁と藩主の居所が置かれ、別名、喜春城(きはるじょう、きしゅんじょう)又は錦江城(きんこうじょう)とも呼ばれています。本丸付近には柿本人麻呂を祀った人丸塚があったと言われており実際に古墳らしき小さな丘が有ります。



P7140456.jpg(高さは2m位、柿本人麻呂が眠っているのか?小さな円墳程度の大きさです。)

【柿本人麻呂って誰?】

柿本人麻呂(かきのもと の ひとまろ、斉明天皇6年(660年)頃~神亀元年(724年)3月18日)は、飛鳥時代の歌人です。名は「人麿」とも表記されます。後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられています。また三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されています(短歌の達人ですね)。

【さてややこしい江戸時代の説明】

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(巽櫓と坤櫓良い感じです。)
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(後ろに明石大橋を従える巽櫓高いので展望台?が有りました。)
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(本丸公園から巽櫓を眺める。)
P7140449.jpg(狭間です弓矢や鉄砲を安全に打てます。)

1617年(元和3年)信濃松本より明石へ転封となった小笠原忠真は、明石城の西方明石川河口西岸にあった船上城に入城しします。譜代大名たる小笠原氏10万石の居城として城郭を建設するよう、同年2代将軍徳川秀忠より築城命令されました。当時姫路城の城主であった本多忠政と小笠原忠真は相談しながら(忠政は忠真の義父にあたります)、築城から町割りまで行ったようです。当初三ヵ所が検討されたが、人丸山(赤松山)には大きな池があり城の防備に役立つとして人丸山に決定されました。徳川秀忠は旗本の都筑為政、村上吉正、建部政長らを普請奉行として派遣するとともに、築城費として銀一千貫を支給したと言われます。

人丸山の地の利を利用し、三木城、高砂城、枝吉城、船上城の木材を使用し着工され、坤櫓は伏見城、巽櫓は船上城の遺材が使用されたと伝えられています。元和5年(1619年)正月から作事が始まり、元和6年(1620年)正月には小笠原忠真が船上城から移り住み、同年6月から城内の建物関係の工事が開始されました。このとき天守は台石まで積まれましたが結局建てられませんでした。

本丸を中心に配して、東側に二の丸、その東に東の丸が配され、南側に三の丸、西側には稲荷郭が設けられました。本丸、二の丸、東の丸は明石城の主郭部分で、この部分の石垣、土塁、堀などの作事は徳川幕府が担当し、三の丸と町屋に関しては、小笠原氏と徳川幕府の共同事業として進められました。

本丸の西南に天守台の広さは約152坪有ります。広さから推察すると5重規模相当の天守が築かれる予定でしたが、天守は建設されず、四隅に巽櫓、坤櫓、乾櫓、艮櫓が建設されました。天守台の規模を考えると熊本城天守と、ほぼ同じ広さだそうです。ただ、堀とか石垣も中途半端な感じもありますので、平和な時代が訪れたことで役所以上の戦略的意味が喪失したのではないかと思います。

『日本城郭大系』によると「坤櫓が天守の代用となっている」となっていると記載されています。4基のうち南側の2棟、すなわち巽櫓(たつみやぐら、南東側)、坤櫓(ひつじさるやぐら、南西側)が現存し国の重要文化財に指定されています。巽櫓・坤櫓の棟(破風)の方向は実際とは違っています。西側は明石川を自然の外堀とし、南側は運河を掘って港を兼ねた外堀(現在の明石港)としました。北側は鴻の池(剛の池)と自然林、谷筋で防備を固めています。艮櫓(うしとらやぐら)は神戸相生小学校(現在の湊川小学校)の建築用材とするため解体利用されました。

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(艮櫓の調査説明版です。ハッキリ北東方向に在るのが分かります。)
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(大きな木の根と見間違うかもしれませんが、艮櫓の石組です。)

築城と並行して城下町の町割りも実施され、当時小笠原忠真の客分だった宮本武蔵が指導したと『赤石市中記』『播磨鑑』『播州明石記録』『小笠原忠真一代覚書』など各史書に記録されています。平成15年、三の丸に「武蔵の庭園」を整備し一般公開してます。

P7140504.jpg(流石明石ともなると、案内板もカラフルです。真ん中下の武蔵の庭園に注目~!宮本武蔵の才能は凄いです。)
P7140493.jpg(本丸と二の丸の間の谷に成ります。)
P7140511.jpg(向こうに見える石垣が東の丸に成ります。)
P7140498.jpg(こちらは二の丸公園)

【歴代城主の皆さん(転封が多すぎて記憶に残らないかも)】

苦心して明石城を築城した小笠原忠真ですが、1632年(寛永9年)豊前小倉藩(小倉城)に転封となります。翌1633年(寛永10年)信濃松本藩より 松平庸直(戸田氏)が7万石で入城しましたが、急死したため松平光重が城主となった。しかしその松平光重も1639年(寛永16年) が美濃加納藩(加納城)に転封となると、大久保忠職が7万石で入城しますが、1649年(慶安2年)のわずか10年間で肥前唐津藩(唐津城)に転封してしまいます。
その後、丹波篠山藩より松平忠国が7万石で入城、その子・松平信之と共に名君として知られ、林崎掘割の用水路や一里塚の設置、海岸の防風林の造成、そして多くの新田の開発に努めました。文化人でもあったらしく城内十景を選んでこの時に「喜春城」の名を付けています。しかしその松平信之も、1679年(延宝7年)大和郡山藩(郡山城 (大和国))に転封となると、代わりに郡山城 にいた本多政利が6万石で入城します。しかし、領内を収める事ができず1682年(天和2年) 僅か3年後、苛政を責められ陸奥岩瀬藩に1万石に減知転封となり、その後改易になっています。
僅か50年の間に城主が目まぐるしく入れ替わったのですが、本多氏転封の後、越前家の松平直明が6万石で入城し、以後明治維新まで10代、189年間親藩として松平氏の居城となりました(やっと平穏な日々)。各城の遺材を集めて築城したせいか、老朽化が早く第2代藩主松平直常の1739年(元文4年)には大修築が行われました。最後の明石城主は松平直致で、1874年(明治7年) 廃城令により廃城となっています。

【明石城は裏鬼門?】

鬼門(きもん)とは、北東(「艮」うしとら:丑と寅の間)の方位のことです。陰陽道では、鬼が出入りする方角であるとして、万事に忌むべき方角とされています。他の方位神とは異なり、鬼門は常に艮の方角にあります。鬼門とは反対の、南西(坤、ひつじさる)の方角を裏鬼門(うらきもん)と言い、この方角も鬼門同様、忌み嫌われるのです。私が住む神戸北区から見ると正に南西(坤、ひつじさる)の方角を裏鬼門(うらきもん)に成りそうです(笑)。でも前回の佐用高校の勝利で(三回戦も勝利しました)私の鬼門疑惑も晴れました。
以前もお話いたしましたが「鬼」は虎皮のパンツに牛の角が基本ですよね、これも丑寅の方角から来ています。

【「13人の刺客」という映画のお話】

明石の殿様といえば、これまた以前に「13人の刺客」という映画を見ました。「十三人の刺客」のあらすじは、弘化元年、明石藩江戸家老間宮図書(内野聖陽さん)が、筆頭老中土井利位(平幹二朗さん)邸の門前で明石藩主松平斉韶(元SMAPの稲垣吾郎さん)の暴政に抗議の訴状と共に自決します。斉韶の異常性格と暴虐ぶりがこの事件によって幕閣の知るところとなりますが、将軍徳川家慶の弟である斉韶を幕閣は容易に処罰できません。しかも事情を知らない将軍が斉韶を老中に抜擢する意向を示したことから、老中土井利位は暴君斉韶の暗殺を企てるという筋立てです。

利位は予てから信任を置いていた御目付役旗本島田新左衛門(役所広司さん)に斉韶暗殺を命じるのですが、島田新左衛門が暗殺と言う姑息な手段で?老中にて裁きを下し将軍を説くべきだと正論を進言しますが、斉韶の前回の参勤交代の折、尾張領、木曽上松陣屋にて尾張藩士、牧野靭負(松本幸四郎さん)の息子・妥女(斉藤工さん)の嫁、千世(谷村美月さん)を手込めにし、千世を探しに来た妥女をメッタ刺しに惨殺し、千代も自害させられるも斉韶には何のお咎めもなしという理不尽極まりない仕打ちをされた牧野靭負と引き合わされ事情を聞き、身震いがするほどの憎悪感が画面から伝わって来ました。殿様の余りの凶悪さに、当時はまだアイドルグル-プSMAPの一員だった稲垣吾郎さんのアイドルとしての役目は終わったなと思ったほどでした。よろしければ近頃時代劇が余り無いので是非ご覧ください。



【最後の最後に!お城に関係ない歴史の話】

明石城が造られた1617年(元和3年)と言えば、鳥取藩の町人が日本海に浮かぶ竹島を発見した年にあたります。当然ですが竹島には一人の人間も住んでおりませんでした。その変わりに竹島を天国として生息していたのは、今や絶滅に追いやられてしまった、我が国固有の海獣「日本アザラシ」だったのです。竹島の領有権を示す、大きな一次資料の一つをここで明石とは関係ないのですが、付け加えておきます。

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