2016/02/13

真田丸の検証の為に現地視察してきました。

以前、スクープ第3段で真田丸の古地図を公開しましたが、その後テレビ等での検証を見ていると、私の考えが少し変わって来たので再度修正報告します。

歴史学者では無いので、自説を曲げるなんてへっちやらな処が、素人歴史マニア?の良い所です。
論文書いていたら、STAF細胞のゴタゴタの様にならざるをえません(笑?)。

大阪冬の陣!両軍の陣立て古地図を発見して、真田丸の真の姿が判明出来たと思ったのですが?
前回披露した図面写真を見て頂きましょう。
大阪冬の陣の一部、真田丸に間違い有りません!

真田丸

前回、出所については、差し障りが有り公開できないと申し上げておりましたが、検証の必要性から、ある程度の情報は公開する必要があると考えました。

保存舘(戦国時代のテーマ館等ではありません)の方には決して、迷惑が掛からない様、名前と場所は控えたいと思います。

大阪冬の陣で、真田丸の南東一番近くに布陣していた南部家、南部利直(前田利家に気に入られて名前の一字を拝領しています)側近の新渡戸家(子孫の新渡戸稲造は旧5000円札になっている有名人です)

研究等の目的で必要性が有ると思われた方は、連絡を下されば、保存館と場所をお教えいたしますので、保存舘の方へお問い合わせ下さい。

大阪城天守閣に展示の、真田丸図面は浅野家の物「浅野文庫 諸国古城之図―大阪真田丸」だったと思います。
NHKの「歴史秘話ヒストリア」ではこの古図面が現実の真田丸(真田丸は●ではなくて■だった。)に近いと推定していました。

以下その他のNHK推定を述べます。

浅野家真田丸
(こちらですね)
真田丸航空写真
(航空写真「Googleからお借りしました」と比べてください)

Google地図明星中学校近辺地図でも確認してください。

浅野家図面北東隅に描かれている寺、上から「心眼時」「高徳寺」「大慶寺」が現在の寺と同位置ならば、寺町台地を利用して真田丸を構築したと考えられる。
寺町は真田丸が築かれる以前から存在し、戦いは原原ではなく町中で行われた。

徳川軍には狭い寺町を抜けると深い掘が待ち構えて(堀についても地中レーダーで深さ8メートル幅40~50を確認)、大軍故に退却も出来なかった等です。

一方、真田丸の北側は深い谷ばかりで、大阪城から孤立した砦(城塞)と成っており、大阪城内からの兵担(援軍や兵糧・弾薬)の補給が無かったと推定し、独立した城と呼べるものだったとしていました。

前回の投稿で、いくつかの謎について説明しました。そのなかの「孤立無援の城」については、NHKも、それなりの結論を引き出してました。

真田丸跡とされる、「三光神社秘密の抜け穴が存在して城内とつながっていた」の事も書きましたので、実際に見てきました。

三光神社向け穴


抜け穴方角が西に向いていて(内部で北に向かっているとのことですが)、大阪城とつながっていたとは考えにくく、抜け穴の機能があったとすれば真田丸からの、物見の出入りに使われた可能性のほうが大きいと感じました。
さらには、徳川方が攻撃(デモンストレーションも含めて)の為に作った、真田からの鉄砲避けの塹壕とも考えられます。

NHKの説明について、いくらかの私なりの疑問も感じましたので、考察してみた。

真田丸に一番近い位置に布陣していた南部家は(その他の大名家も)なぜ四角い真田丸を半円型に記録したのでしょう?

一つ目は、四角い南東側の角に布陣していた南部家からは、実際にそのように見えたと考えられます。
二つ目は、真田家得意(武田家家臣時代からの伝統戦法)の丸馬出し(城門から飛び出す出撃用陣地)と考えたからではないでしょうか。
三つ目は惣構(空堀)が南北にずれる場所にあたり、惣構がほぼ直線と考えた諸侯は飛び出した真田丸を半円形と考えたと思います。

次に、真田丸と大阪城の連絡補給についてですが、空堀上の橋の存在は確実とはいえなく成りましたが、北に連絡路が有り大阪城内との連係が有ったことは、「木村重成」「長宗我部盛親」「後藤基次」等との連係作戦も、成功している記載も有りますので、確実と思えます。

門は南と東側に2つ、石垣もしくは崖上に塀囲い、2層?の櫓も見られますし、前方左手に池があり、お堀の呈であることも両図面から想定されます。

寺や寺町を利用することで、兵の進駐が容易で、当事瓦を使用していた寺を使用した、防火能力も流石といわねば成りませんね!攻撃方向(路地)が決められてしまう寺町での構築もよく考えられています。

航空写真と浅野家の図面と比較してみて下さい、ほらもう結論は出ていますね。
大きさを浅野家図面通り(百間)とする約180メートル+α四方と考えて推定すると。
上記三寺の位置、明星高校、比較してください。
比べていただきますと、寺の配置から、空堀町へ下る道路の湾曲まで当時そっくりそのまま残っていると感じませんか?

【結論】
真田丸の場所、東側は上記三寺「心眼時」「高徳寺」「大慶寺」外縁道路か、陸軍墓地へ下るまでの高台で、三光神社までは少し距離(150メートル以上)がありすぎるので城外と考えます。
西門は明星高校正門辺りまで、南側は大圓寺辺りの道路下のレーダー探査を信じる事にします。

心眼寺
(真田丸北の端になるはずです。)
心願寺2

心願寺3
(お墓もあり、供養されてました。)
心願寺4

心願寺5

心願寺から空堀町
(心眼寺前から空堀方面、かなり下っています。大阪城との連絡路があったと考えられます)
心願寺裏
(心眼寺裏手、高いです。当時でもかなりの崖だったのかも、簡単に登れるとは思えません。)
心願寺裏2
(陸軍墓地へさらに下ってます。三光神社はその先でさらに下ります。)
明星学園
(真田丸の中心部!子供たちは知ってるかな?)
明星学園2
(明星高校前、空堀町側に下り始めています。)
明星学園3
(立派な学校!写真を撮っていると守衛さんににらまれてしまいました。笑!)
寺町通り
(寺町通り、この先に、深さ8メートル幅40メートルの堀があったはずです。)
私はこれが、真田丸跡と確信しました。

歴史に「if」は禁句ですが、あえて関ヶ原の戦い、大阪冬の陣、夏の陣でもし豊臣方が勝利(私は紙一重の差だと考えますので)をおさめていたならば!

現代の日本はどの様に成っていたでしょうか?首都は大阪ですよね、関西弁が標準語ですか?

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