2018/04/22

『出雲大社創建』「古事記神話」の記載は侵略か?恫喝か?それとも交渉?①

今回は、出雲大社神代創建のお話をしたいと思います。コメントでも頂いたのですが、一番数多くお詣りしている神社なのに、よく知らなかったとの意見も頂きました。(笑)

私はたぶん、実家の村社「井田神社」(こどもの頃からカブトムシを採取するために夏休み毎日通っていました。)、初詣は大体ここに訪れる但馬一宮の「出石神社」(新羅渡来の天日鉾をお祀りする。)に次いでお詣りの数が多いのが『出雲大社』だと思います。

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(兎たちは何をお祈りしてるのかな?)

鳥取県の最西部、米子市に単身赴任していて、すぐ近くの島根県に神跡が多い事を知り、一つ一つ訪ねるようになったのが要因です。出雲国風土記や古事記(日本書紀)の神話等も、どんどんご紹介したいと思います。

それでは、『市郎右衛門』の歴史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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(出雲大社裏側からお祈りする二兎)

【出雲大社は何故造られたの?「国譲りか葦原の中国平定か?」】

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(出雲の名前の始まり、巌藻掛け)
P8111101.jpg(チラッと見覚えのある?大しめ縄)

天照大御神ら高天原にいた神々(天津神)は、「葦原中国を統治すべきは、天津神、とりわけ天照大御神の子孫であるべきだ」と考え、神の遣いを出雲に送りました。大国主神の子である事代主神(ことしろぬし)・建御名方神(たけみなかた)が天津神に降ると、大国主神も自身の宮殿建設と引き換えに国を譲る事になります。その過程を順番にお話していきましょう。

『第一の使者・天忍穂耳(誓約で生まれた天照の長男)』

天照大御神は、「葦原中国は私の子の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(あめのおしほみみ)が治めるべき国だ」と命に天降りを命じたが、命は天の浮橋から下界を覗き、「葦原中国は大変騒がしく手に負えない」と高天原の天照大御神に報告しました。この「大変騒がしく」が意味するものは?面白いですね~。魏史倭人伝の倭騒乱かもなんて考えちゃいますし、神話なら越の八又大蛇退治だったりして。

『第二の使者・天穂日命(誓約で生まれた天照の次男)』

高木神(高御産巣日神・たかみむすび)と天照大御神は天の安の河の河原に八百万の神々を集め、どの神を葦原中国に派遣すべきか尋ねます。思金神(おもいかね)と八百万の神が相談して「天菩比命(天穂日命・あめのほひ)を大国主神の元に派遣するのが良い」という結論になりました。高木神と天照大御神は天菩比命に大国主の元へ行くよう命じました。しかし、天菩比命は大国主の家来となり、三年たっても高天原に戻りませんでした。天穂日命は、出雲国造(いずものくにのみやつこ・千家家や北島家)らの祖神。天菩比神とも呼ばれます。

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(こちらはもう一つの国造、北島家です。)

『第三の使者・天若日子』

高木神と天照大御神が八百万の神々に今度はどの神を派遣すべきかと問うと、八百万の神々と思金神が相談して「天若日子(あめのわかひこ)を遣わすべきです」と答えます。そこで、天若日子に天之麻古弓(あめのまかこゆみ)と天之波波矢(あめのははや)と与えて葦原中国に遣わしました。しかし、天若日子は大国主の娘の下照比賣(したてるひめ・宗像三姉妹の市杵島姫命の娘)と結婚し、自分が葦原中国の王になろうとして八年たっても高天原に戻りませんでした。

天照大御神と高木神がまた八百万の神々に、天若日子が戻らないので、いずれの神を使わして理由を訊ねるべきかと問うと、八百万の神々と思金神は「雉(きぎし)の鳴女(なきめ)を遣わすべき」と答えたので、天つ神は、鳴女に、葦原中国の荒ぶる神どもを平定せよと言ったのに、何故八年間も帰らないのかを、天若日子に聞くように命令します。鳴女が天より下って、天若日子の家の木にとまり理由を問うと、天佐具賣(あまのさぐめ「あまのじゃくの原型だともいわれています。」)が「この鳥は鳴き声が不吉だから射殺してしまえ(因みに、雉はケーンって鳴きますけど、音に不吉な感じ無いですよね、まさか〈いけーん〉じゃないよね、笑)」と天若日子をそそのかします。そこで彼は高木神から与えられた天之麻古弓と天之波波矢で鳴女の胸を射抜き、その矢は高天原の高木神の所まで飛んでゆきました。

高木神は血が付いていたその矢を、天若日子に与えた天之波波矢であると諸神に示して、「天若日子の勅(みことのり)に別状無くて、悪い神を射た矢が飛んで来たのなら、この矢は天若日子に当たるな。もし天若日子に邪心あれば、この矢に当たれ」と祈り、天之波波矢を下界に投げ返しました。矢は天若日子の胸を射抜き、天若日子は死んでしまいました。更に鳴女も高天原へ帰る事は有りませんでした。

この後、天若日子の葬儀や真打ちの建御雷が登場しますが長くなりますので、次回のお楽しみにしてください。

IMG_6115.jpg(真打ちの建御雷登場の舞台、稲佐の浜・弁天島)

【出雲大社は現実には何時造られたのか?】

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(出雲大社の中はこんな配置です。)
IMG_6117.jpg(勢溜の鳥居・平成の大遷宮時、次は60年後!)
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(新ためて、きれいな神社です。)

出雲大社の創建については、記紀の日本神話などにその伝承が語られています。以下その主なものをご紹介しましょう。

先ずは神話のお話、大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造くらせました。『古事記』より。「多芸志の浜」は現在の出雲大社に近い、稲佐の浜では無いようです。縄文海進の影響も有って現在の宍道湖と外海は繋がっていました。そこに斐伊川が流れ込む形です。「多芸志の浜」に「天之御舎」が出雲大社の原型か天津神の饗応用に造られた建物なのか、原文からは分かりにくいです(私の理解力ではですよf(^_^;)。

DSC_0052.jpg(強烈なパワースポット・裏山、八雲山)

高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴命に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)

所造天下大神(大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)

神魂命が「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風土記』楯縫郡)

崇神天皇60年7月、天皇が「武日照命『日本書紀』・建比良鳥命『古事記』、(天穂日命の子)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上を命じ、武諸隅(タケモロスミ)を遣わしたところ、飯入根(いいいりね)が、当時の当主で兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上。出雲振根は飯入根を謀殺しますが、本人は朝廷に誅殺されています。(『日本書紀』)崇神天皇時代にすでに出雲大社が存在していた事が書かれています。

垂仁天皇の皇子本牟智和気(ほむちわけ)は生まれながらに唖(おし、おうし・言語障害の一種。発話に障害があり、しゃべることができないこと。この語は現代では発話障害者に配慮して余り用いられません。)であったが、占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませると、本牟智和気はしゃべられるようになった。奏上をうけた天皇は大変喜び、菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮」を造らせました(『古事記』)。垂仁天皇の父親、崇神天皇は欠史八代を除き倭に最初に政権を作った天皇ともいわれ、神武天皇と同一視される天皇でも有ることから。垂仁天皇が造らせた「神宮」が最初(もしくは崇神天皇時代の物を更に改築し神社機能を持ち得た?)の出雲大社かも知れませんね。

659年(斉明天皇5年)、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させたとあります。(『日本書紀』)修造つまり改築ですからこちらが二度目に成りますね。出雲大社の社伝においては、垂仁天皇の時が第1回、斉明天皇の時が第2回の造営とされています。

古事記では「天之御舎(あめのみあらか)」、日本書紀では「天日隅宮(あめのひすみのみや)」、出雲風土記には「天日栖宮(あめのひすのみや)」とそれぞれ表記されています。伝承の内容や大社の呼び名は様々ですが、共通して言えることは、天津神(または天皇)の命令によって、国津神である大国主神の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえます。

【最後の一言】

国譲りはただ出雲の国を天津神に譲り渡したという側面だけなのか?私は、大王(天皇)の地位も渡したのではないかと考えています。天皇の作らせた大和の歴史中に日本神話の半分以上といっても良い程に出雲が記載されている理由を推測すると、ほかにどんな答えが見つかるでしょうか?大国主、正に「大きな国の主」の地位です。大国主に多くの別名が有る事も、多くの妻が出てくるのも、大国主が一人の名前ではなく、地位だと考えれば納得がゆくのではないでしょうか?



歴史って本当に素敵ですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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