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2018/03/11

記憶を呼び戻せ!3月11日を忘れない『東日本大震災』は終わっていない。

今日は7年前に『東日本大震災』が発生した日です。私こと、市良右衛門は、神戸市に住んでおりますが、阪神淡路大震災の時には、但馬の実家でまだ就職もせずに住んでおりましたので、我が家の小さな墓石が倒れた程度の被害ですみました。東日本大震災の時にも、鳥取県米子市に単身赴任しており、何一つとして被害を受けることは有りませんでした。

神戸には震災後22年住んでおりますし、東北青森には学生時代も含めて、10年程住んで居りました。幸いな事に両震災とも、何も被害を受けませんでしたが、神戸・東北共に第二の故郷とも呼べる、とても愛着の有る場所です。


朝日新聞デジタル
(奇跡の一本松、枯れてしまいましたが復興のシンボルとして樹脂で保存されました。朝日新聞電子版よりお借りしました。)

それだけに、4年前の夏にお友達に「東日本大震災」の体験談を聞いて、衝撃と共に感銘を受けたので、是非皆さんにも知って、考えて頂きたいと思い、お友達の体験談を公開することにいたしました(本人は了解してくれました)。今日の新聞には関連死も含めて2万2千人の文字や、帰宅困難いまだ7万人の記事が記載されていました

今日、ご紹介する【2014年夏のレクイエム】はお友達の「東日本大震災」実体験の手記を記録したものです。できる限りそのままの形で公開しますが、差しさわりのある名前などは少し訂正させて頂きましました。

それでは、『市郎右衛門』のブログです。これもつらいですが、また歴史です。語り継がなければいけません。
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【2014年夏のレクイエム】

南三陸町防災対策庁舎
(南三陸町防災対策庁舎、町職員の遠藤未希さんが最期まで、防災無線のマイクを握った場所です。Wkiよりお借りしました。)


(文章の一人称はお友達です。【2014年夏のレクイエム】2014年に成っているのはやっと話すことが出来るようになったからだと思います。)

東日本大震災かぁ…。
思い出したく無くても、頭から離れない。
忘れたいけど、忘れちゃいけない。
いろいろ、酷いものも見ました。
しかしあの時、多くの被災者はじっと耐え、規律を守り、乗り越えました。

これは、私の体験談です。
私の場合、被災者の中でも恵まれた方だったと思います。
面白い話しでは有りませんし、文章力も有りません。

大震災があったあの時、私は宮城の港町(海から100m 足らずのところ)で仕事をしていました。
一度目の揺れが止まり、従業員の安否確認をしようとしたとき、二度目のさらに大きな揺れに襲われました。
どちらもそれまの人生で体験した事が無い、巨大な揺れでした。

程なくして津波警報が発令され、私は近くの高台に避難しました。
回りには同じ様に避難してきた人・人・人。
皆、着の身着のままの格好です。
3月でも冷え込む中、降り始めたみぞれは私達の体力を少しずつ奪って行きました。

きっと大丈夫。
前の三陸沖地震でも大丈夫だった。
私の周りで年配の方々は、口をそろえて話しあっていました。
防災無線からは津波注意の声。
私も周りの人々も、家族への安否連絡のため携帯電話をかけようとしていましたが、回線がパンクしていて、なかなか繋がりません。

やっと実家の母に電話が繋がり、大丈夫と伝えた時、防災無線から津波の高さ予想が発表されました。
『津波の予想高さ10m』私は耳を疑いました。
私達が居る高台はせいぜい8m 程です。
10m の津波なんて到底助かりようが有りません。
私はあの時、初めて死を意識し、そして覚悟を決めました。

多分、母にかけていた電話の声は震えていたでしょう。
私は最悪の事態も有りうる事、私に万が一の事が起こり、私の飼い猫が助かった場合猫の事を頼み、これ迄の感謝を母に告げ、最後まで生きる為に足掻く事を約束して、電話を切りました。

高台では少しでも高い場所へと人が殺到しています。
一人の男性がその様子を制し、赤子連れ、子供、老人を優先に高い場所を確保出来るように呼び掛けています。
さすが日本人です。
その男性に従い、皆場所を譲ります。
第一波到達。
第二波到達... 津波の到達が度々報告されるなか、私は自分達の避難場所に津波が来ない事を不思議に感じました。
その時津波は湾の入り口にいた私達の場所ではなく、湾の奥にある市街地に、濁流となってなだれ込んでいたのです。

夕闇が降り始め、津波が高台まで来ないと判断した私は、帰宅するためのルートを考え始めました。
幸い、会社に置いてきた車は無事。
丘と山を抜けて行けば... 猫の安否が気がかりで、私の頭には避難所へ向かうという選択は有りませんでした。
真っ暗になった道を車のライトだけで走りました。
電気も止まっていて、左右は全く見えません。
道は、でこぼこの起伏があり、さらには道路を一本違えたら津波に遭遇するという、恐怖の中を運転しました。

実際、水没した道路を確認する度に、迂回しながら、ようやく自宅(高台にあるマンション6階)にたどり着き、怯えていた愛猫をみたとき、緊張の糸が切れて涙が溢れ出て止まりませんでした。

翌日、変わり果てた町を歩き会社に行きました。
市街地では2m 以上の浸水。
港には打ち上げられた大型漁船。
えぐられた堤防。
傾いた道路。
津波で流され重なった車。
倒壊した建物。
これ迄当たり前だったものが、自然の猛威の前ではこうも脆いのか...

それから3週間、水・電気の使えない生活(ガスは使えました)を送りました。
猫と居るため避難所に行かなかった私は、露店のような仮設の戦後闇市みたいな店舗(お値段は2~3倍です)で食料を買い、ガスや塩で保存食を作り、細々と生活していきました。

オチも何も有りません。
失ったもの、得たもの、変わったもの、私の中でいろいろあります。
たかがこの程度ですが、最後まで読んで下さった方々に感謝を致します。

震災の話は、被災地に居る限り話す事は無いと思うし、話すべきで無いとも思います。
でも誰かに聞いて欲しいと思う矛盾も抱えてます。
ですから少しだけ?お話ししました。

今では、少しずつですが、海岸沿いにも家が建って来ました。
日本人は強いです。
三陸の基幹産業は漁業です。
行政の復興は少しも進まない中でも、漁師さん中心に被災者の皆は必死に頑張っています。

緊急セットは必ず準備しておいて下さい。
私は震災以降、3日分位の私の食料と2週間位の猫の食料を常備してます。
いざというときの為に是非皆さんも考えて下さい。

私個人は、被災者としては、望むべくも無いぐらい恵まれてました。
家族を失わず、家を失わず、仕事も失いませんでした。
あの震災おかげで、精神的に強くもなり、また弱くもなりました。

まだまだ宮城県でも立ち直れていない人はたくさんおられます。
岩手県や福島県でも同じでしょう。
しかしながら、私は、そんな人達が前を向いて進める様に、あるいは前を向けた時のために、活気ある街に戻して行きたいと考えます。
私に出来ることはとても小さくとても少ないと思いますが、今考える事は行動することです。

『友人の体験談はこれで終わりです』

【私に何ができるのか?】

私(市良右衛門)は阪神淡路大震災の時、神戸に住んでは居ませんでした。但馬で観る神戸のテレビ映像に「神戸は壊滅した!」と感じとったのを記憶しています。阪神高速が潰れ、長田が炎に包まれている映像は、私の脳裏に焼き付き今でもはっきりと思い出す事ができます。其から22年!月日が神戸を元の美しい街に戻しています。

私は、阪神淡路大震災を契機に就職をし、結婚して子どもに恵まれました。東日本大震災の時は、山陰鳥取県米子市に単身赴任しておりました。東日本大震災が発生し、最初に見た映像は、宮城空港が津波に呑み込まれる映像でした。未曾有の自然大災害!更には人災としか言い様のない原発事故、しかしながら、私は神戸と同じように、東北地方の復興を信じて疑いません。

日本人(ここで私が言う日本人とは、法律や書類上ではなく、この美しい山々や河、森や海に対して畏敬の念を感じる精神性を持つ人々の事です)は必ずそれを成し遂げるでしよう。ある外国人宣教師が、自衛隊の給水を並んで列を乱さず整然と待つ被災者を「まるでキリストのパンを待つ聖者の行列がそこに有った!」と世界に配信しました。日本人の礼儀正しい精神性は美徳です。美しい山々や川、正に自然がその美徳を育んで来ました。今正に、自分がどうなるか解らない状況に置かれた時!何を成すべきか?その答えが友人の手記の中に有ると思います。

私には何も出来そうに有りませんが、大丈夫!お友達や私の大好きな東北は、石割り桜 の様に、必ずや石を割って咲き誇ることを信じて疑いません。

私の大好きな浅田次郎の小説「壬生義士伝」の中にこんな台詞が有ります。「ええか、みな良ぐ聞け。南部盛岡は江戸より百二十里、奥州街道の涯ゆえ、西国のごとき実りはあり申さぬ。おぬしらが豊かな西国の子らに伍して身をばたて、国ば保つのは並大抵のことではねえぞ。盛岡の桜は石ば割って咲ぐ。盛岡の辛夷は、ほれ見よ、北さ向いて咲ぐではねえか。 んだば、おぬしらもぬくぬくと春ば来るのを待つではねえぞ。南部の武士はらば、みごと石はば割って咲げ。盛岡の子だれば、北さ向いて咲げ。春に先駆け、世にも人にも先駆けで、あっぱれな花こば咲かせてみよ」

私が知る東北人は、私が子どもの頃に持っていたイメージとは全く違う、ポジティブな方ばかりです。時間は掛かるかもしれませんが、必ず復興は成し遂げられると信じております。10年程青森に住んでおりました。私の知る東北の桜はソメイヨシノと違って緑の葉と共に花開きます。確かに美しさはパッと花だけが咲く、ソメイヨシノにはかないませんが、力強さは東北の種類の方が格段に上だと思います。

【Ca va?】

都内にある岩手県のアンテナショップ(「Ca va?」はフランス語で「元気?」の意味!ネーミングもいいですね。)

先日こんな記事を発見しました。下の商品凄い売れ行きだそうです。ツナ缶を越えたという人気急上昇の商品、サバの苦手な人も臭みが無くて本当に美味しいそうです(それにオシャレ!)。東日本大震災から立ち上がる意味でサヴァ缶に取り組んだのが始まり 、「Ca va?」はフランス語で「元気?」の意味、震災時に全国からもらった元気を返したいという気持ちで名づけ、2013年の発売開始以来、累計300万缶を売るヒット商品に成りました。 サバは水揚げ量が安定し、値上がりしにくいことが人気です。



【最後に一言】

P3100783.jpg
(皇后陛下美智子様の歌が刻まれた碑文、後ろは神戸市役所の展望台です。復興を遂げた神戸の街が一望できます)

『笑み交わし やがて 涙のわきいづる 復興なりし 街を行きつつ』

皇后陛下美智子様が天皇陛下と震災直後がら数回にわたり、被災地を訪問されましたが、この歌は、平成17年震災後の復興が進みつつある、被災地神戸を訪問され、現場を歩かれたとき、無数の笑みに会釈をされ、体育館の冷たい床に被災者と同じく膝をつかれて、お言葉をかけられました、その時のお気持ちを歌に詠まれ、平成18年歌会始に提出された歌です。

P3100792.jpg
(復興モニュメントの火、「1.17希望の灯り」)

「モニュメント」ご遺族やボランティアグループの方々から、「やさしさ」と「思いやり」、そして「生きている証」としての灯りを灯したいとのご提案がありました。これを受けて新たに灯りの保存施設が追加設置されることになり、「1.17希望の灯り」が誕生しました。ここには、被災10市10町を巡って運んだ種火と47都道府県から寄せられた種火を一つにした灯りが灯されています。

この灯りは被災した市民のみなさんの精神的なよりどころとなり、毎月17日には、ボランティアのみなさんが自主的に清掃などを行っています。そして、毎年1月17日には、ここから被災10市10町のみならず遠方の都市まで、震災や灯りが結ぶ絆に関連した行事に分灯され続けています。また、震災から7年を迎えた2001年1月17日、「希望の灯り」が分灯され、市民ランナーによってこの灯りが全国69都市のみなさんへ届けられました。「1.17希望の灯り」には碑文が刻まれ、「あの震災で亡くなった方々の命と生き残った私たちへのメッセージ」を発信し続けています。

東北で実際に被災された方々、まだまだおられる帰宅困難者の皆さんや二重のローンで頑張っておられる方々、復興の手助けをして新しい産業を企画される皆様に、遠く神戸より心からのエールを送らせていただきます。「必ず東北は復興します!」

何故日本人はこんなにも強いのでしょう。
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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