2018/02/24

没ネタ復活祭?竹中半兵衛の策略、『三木の干殺し』ご近所の城(砦)を探索してみよう!

三木合戦の支城三つの城(砦ですかね)を取材していたのですが、これはちょっと、記事に成らないかもと考えて、ご紹介していなかったのですが、やはり「小さな事からコツコツと砦?をフィールドワーク(笑)」と言うことで、勿体無いの精神でご紹介致します(何ゆうてるのか?)。

CIMG6481.jpg(神戸市北区淡河町「道の駅淡河」の南側の小高い山の上「淡河城跡」の石碑)

三木合戦(みきかっせん)は、天正6年3月29日(1578年5月5日)から天正8年1月17日(1580年2月2日)にかけて行われた織田氏と別所氏の合戦の事です。織田家の武将羽柴秀吉が行った播州征伐のうちの1つで、別所氏は播磨三木城(兵庫県三木市)に篭城しています。この合戦で秀吉が行った兵糧攻めは、三木の干殺し(みきのひごろし、ほしごろし)と呼ばれるほど苛烈な物でした。考案したのは羽柴軍の天才軍師「竹中半兵衛」ですが、自分の作戦の苛烈さが心労に成ったのか?三木合戦の途中、天正7年6月13日(1579年7月6日)に亡くなっています。

そのなかで、神戸市北区道場町『松原城跡』、我が家からも近く「仙石権兵衛(但馬出石藩の元と成った武将です、)」が落城させて、兵糧を止めた『茶臼山城跡』と戦国時代には別所氏に属した『淡河城跡』が没ネタに成っていたので、ご紹介したいと思います。羽柴軍は徹底的な囲みこみを行うために、別所氏の支城を攻略するとともに、羽柴軍が築いた砦は数多いようですが、今回はまず我が家のご近所三か所です。

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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【室町から戦国への播磨と周辺の情勢】

三木城址1(三木城址別所長治像)

室町時代の播磨は守護赤松氏の領国でした、嘉吉の乱(室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が、室町幕府6代将軍足利義教を暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱の事です。)で没落、後に再興されるものの一族や家臣の台頭を許す事に成りました。室町後期の戦国時代になると、これらの勢力は半独立状態となって数郡ごとを領し割拠します。別所氏もその1つで、赤松氏の一族であり、東播磨一帯に影響力を持っていました。

周辺国では西の大国毛利氏とその幕下の宇喜多直家、畿内を制しつつある織田信長が勢力を広げており、播磨国内の諸勢力は毛利氏と織田氏の両方と友好関係を結んでいました。この二大勢力も播磨を緩衝地帯として友好関係を保っていましたが、信長に京都から追放された足利義昭や石山本願寺の顕如の要請により、毛利氏は反織田に踏み切ります。

播磨国内では、天正5年(1577年)5月に中播磨の御着城主小寺政職が毛利氏と争って旗幟を鮮明にするなど、多くの勢力が織田氏寄りとなりました。同年10月、羽柴秀吉が織田氏の指揮官として播磨入りし、宇喜多直家の支配下となっていた西播磨の上月城や福原城などを攻略、上月城の守備に尼子勝久・山中幸盛を入れ、一旦は播磨のほぼ全域が織田氏の勢力下に入ります。

しかし、織田と別所間の関係は織田勢による上月城の虐殺、同月に加古川城で行われた秀吉と別所吉親の会談(加古川評定)で生じた不和などをきっかけに悪化していきました。翌天正6年(1578年)に秀吉は中国地方攻略のため再び播磨入りしますが、同年2月、吉親の甥で別所氏当主別所長治が離反し毛利氏側に着きます。別所氏の影響下にあった東播磨の諸勢力がこれに同調、浄土真宗の門徒を多く抱える中播磨の三木氏や西播磨の宇野氏がこれを支援し、情勢が一変してしまいます。長治は三木城に篭城して毛利氏の援軍を待つ方針を決定、三木合戦が開始される事に成ります。

【三木合戦】

当時の時代背景ですが、織田軍中国攻め司令官、羽柴秀吉が小寺勘兵衛(黒田勘兵衛)の活躍も有り、播磨を平定した矢先の1778年(天正6年)三木城主、別所長治が毛利に通じて突如反旗を翻します。

備前、宇喜多直家の動向も未だに不明な時、秀吉軍は播州(姫路)で前後ろを挟み撃ちされる形に成り、中国攻めを一時的に中断し別所氏攻略に取りかかります。これにより上月城の尼子氏を見捨てざるをえなくなり、毛利軍吉川元春らに攻められて上月城は開城、尼子勝久は切腹し尼子氏は断絶、私の大好きな、猛将「山中鹿之助」も謀殺されています。

別所家は播磨の名門(名門が故に新参の秀吉配下に反攻した説も有ります)、三木城は周りの一族、国人衆の支城も含めての籠城戦に入ります。羽柴秀吉は周りの支城を落とした後、あの有名な兵糧攻め(戦わずして勝つ!秀吉としては始めてで、その後の城攻めの転換点となります)、三木日干し戦術を取ります。この籠城は、荒木重村や小寺政職の離反応援も加わって、2年にも及びました。

【離反の理由】

秀吉と別所吉親の会談(加古川評定)でもお話しましたが、別所氏が離反した理由としてよく言われるのが、赤松氏の一族という別所氏の名門意識が評定での秀吉との対立を招いたというものです。これ以外にも数多くの要因があり、織田軍による上月城の虐殺への義憤、かつては毛利氏とも友好関係であったこと、播磨国内に浄土真宗の門徒が多かったこと、信長による所領安堵の約束への不信感、別所吉親と別所重棟(重宗)兄弟の対立、姻戚関係にあった丹波の波多野氏の織田氏からの離反、上月城での処置への不信感など数々挙げられますが、はっきりとはせずむしろすべてがまとまったと言えるのではないでしょうか?

【三木城・別所氏の籠城】

別所長治が籠城した三木城には、東播磨一帯から約7500人が集まりました。この中には、別所氏に同調した国人衆の他に、その家族や浄土真宗の門徒なども含まれており、いわゆる諸篭り(もろごもり・一族妻子、時には領民丸ごと城に篭る事))でした。このため多くの兵糧(食料)を必要とし、別所氏にとってはこれが重要な課題となりました。合戦中、瀬戸内海の制海権を持つ毛利氏や英賀城の三木通秋などによって兵糧の海上輸送が行われます。別所氏側では、海沿いにある高砂城や魚住城などで兵糧を陸揚げ、主な支城と連携して加古川や山間の道を通って三木城に兵糧を運び込んでいます。

これに対し、秀吉は支城攻略の方針を採用します。天正6年3月29日に秀吉は三木城包囲を開始、4月1日に別所軍が近辺の細川庄(現在の三木市細川町)領主の下冷泉家当主冷泉為純・為勝父子と別府城の別所重棟(別所長治の叔父ですが織田軍に従いました)を攻撃しました(為純父子は討死、重棟は撃退に成功します)。4月3日から6日にかけて秀吉軍は支城の1つである南西の野口城を落城させますが、同じ頃に毛利氏の3万の大軍が尼子勝久の上月城を包囲します。秀吉は東播磨での展開を一次中断して4月下旬に上月城東側の高倉山に布陣しましたが、兵力が少なく毛利軍に手出し出来ず膠着状態になりました。

高倉山の織田軍は三木城攻略を優先して書写山まで撤退、7月には毛利氏が上月城を攻略します。毛利氏の目的が上月城の奪還のみであったためか、補給路が伸びきってしまうのを避けるためか、毛利氏はそれ以上東進しませんでした。これを受けて織田軍は東播磨での活動を再開、上月城救援のために派遣した軍勢と信忠の軍勢で6月から10月にかけて神吉城・志方城・魚住城・高砂城を攻略、三木城に対峙する平井山(三木城の北東約2km)本陣と包囲のための付城を築きます。翌天正7年5月、秀吉は摂津からの兵糧輸送の中継地点、丹生山明要寺と淡河城を攻略、これによって再び補給が困難となりました。

さらに、この間に共同戦線の一角姻で戚関係にあった波多野氏が明智光秀に敗れ、毛利氏側であった宇喜多直家が離反、同じく共同戦線を張った荒木村重の有岡城が織田軍に攻略されます。

天正8年(1580年)1月、三木城内の食料は既に底をつき「三木の干殺し」状態が続いてました。一方の織田軍は三木城内の支城を攻撃、6日に長治の弟友之が守る宮ノ上砦落城、11日に吉親が守る鷹尾山城が落城、残るは本城のみとなりました。14日、重棟の城中への勧告により城主一族の切腹で城兵の命を助けるという条件が示されます。17日に長治一族が切腹(吉親は抗戦しようとして城兵に殺害)、1年10ヶ月に及ぶ篭城戦が終了したものの、このとき、羽柴軍によって大量殺りくが行なわれた可能性が高いそうです。有岡城に荒木村重を説得に行って、幽閉されていた黒田孝高は家臣に救出され、この後孝高は居城姫路城を秀吉に提供、姫路城は秀吉の居城となりました。

【松原城跡】



P2240058.jpg
(悲しいお話じゃないですか~~涙。)
P2240067.jpg(神戸電鉄「道場駅」の上から見ると良く見えますが、城とはわからないですよね。)
P2240062.jpg(石垣?らしき物が少しだけ見えます。)
P2240072.jpg(南から見るとこんな感じ、砦の大きさです。)

まずご紹介するのは、現・神戸市北区道場町日下部に在った「松原城跡」です。別名・道場城、蒲公英(タンポポ・本真かいなの名前です、笑)城と呼ばれていました。南北朝時代に赤松円心則村の四男、弾正少弼氏範の子氏春が居城として築きましたが、永徳3年に赤松氏範と氏春は播磨の清水寺に敗死()したので、しばらくは廃城となりました。

室町幕府に仕えた三田の住人松原兵衛尉貞朝の子貞直が、その後、松原城に入り天正年間頃まで居城したようです。松原氏は早くから三木城の別所氏の麾下でした。 この為、天正7年の三木城攻めの時、秀吉方に包囲され落城し、城主の貞利以下が討死、または自刃して果てたといわれます。その後、廃城となって遺構の井戸・土塁・空堀等が残っています(ほぼ確認できなかったのが没ネタの原因です)。

CIMG9161.jpg
(播州清水寺にある氏範切腹石・氏範らの墓も有るようです。一族郎党142名自刃!)

【茶臼山城跡】



P2240001.jpg(神戸三田アウトレットのすぐ傍です。左下側青い部分が茶臼山城跡です。周りは今も開発中です。)
P2240053.jpg(南丸と散歩道)
P2240051.jpg(南丸に堀切らしき構造がなんとなく分かります?)
P2240028.jpg
(本丸登り口良い散歩コースに成っています。)
P2240038.jpg(本丸平面、50メートル四方くらいですかね。)
P2240035.jpg(「一蓮坊(いちれんぼう)祐之」顕彰碑!)


次にご紹介するのは、現・神戸市北区上津台に在った「茶臼山城跡」、別名・上津城とも呼ばれていました。この茶臼山城は、一般的に全国に200以上あるといわれている戦跡の茶臼山のひとつです。茶臼山(ちゃうすやま)は、形状が茶の湯のてん茶を抹茶に挽く茶臼に似ているとされる富士山のような末広がりの形の山のことを言います。茶磨山(ちゃすりやま)とも呼ばれる。かつて戦で縁起を担ぐ武将に好まれ陣が張られた場所が多い。天然の山ではなく古墳であることもしばしばある様です。前方後円墳の形が茶臼に見えるからのようです。

「茶臼山城」は「一蓮坊(いちれんぼう)祐之」という土豪が指揮を執っていましたが、羽柴秀吉の三木城攻めの際に、秀吉の家臣による攻撃を受け、降参することを余儀なくされました。一蓮坊祐之は、自分の自害を条件に家臣の命を救ったといわれています。茶臼山城は秀吉の家臣(当時仙石秀久が家臣だったのかは疑問です。信長の命による与力だったかもしれません。)「仙石権兵衛秀久」に与えられています。現在の長尾町上津の茶臼山城は、地元住民の要望によって、安全な公園化を行い、展望台や顕彰碑などの整備もされています。名の「茶臼山城跡(ちゃうすやましろあと)」を改め、「茶臼山城緑地」と呼ばれています(もう全く城跡と言えない?公園だったのが没ネタの原因(;^_^A)。

【淡河城跡】



CIMG6481-2.jpg(模擬楼閣、確か私が訪れた時にはありませんでした。ウキペディアよりお借りしました。)
CIMG6482.jpg(下に記載したことが書かれているはずです。)

最後にご紹介する「淡河城跡(おうごじょう)」別名・上山城 は、現・神戸市北区淡河町淡河「道の駅淡河」の南側の小高い山に城跡があります。城跡としては前の二つより城らしいいです。現在は丘の上に田畑となっている本丸址と模擬櫓(私が取材した当時は無かったと思います)があり公園になっています。

播磨一帯の豪族であった北条時房(執権北条氏の一族)の孫にあたる淡河時治の城とされます。淡河成正(淡河時治との関係は不明でした。)が1222年に築城したと言われます。淡河氏は南北朝時代の暦応2年(1339年)に石峯寺・三津田とで赤松則村(円心)率いる南朝方と戦い敗れてしまいます。明徳3年(1392年)には淡河範清が養子として赤松氏より季範を養子として迎え、その後は赤松氏に属しました。

戦国時代には別所氏に属しましたが、淡河定範が城主であった天正7年(1579年)に羽柴秀長の攻撃で落城、有馬則頼が城主となっています。慶長6年(1601年)に則頼は三田城に移り、元和元年(1615年)に廃城となりました(遺構、模擬城壁・曲輪・天守台・土塁・空堀・切岸等の撮影ができていないので没ネタです。と言いますか取材?時まだブログ書くと思っていなかったのです。笑)。

CIMG6483.jpg
(淡河氏のお墓ですがお参りする人も無くの状態です。)
CIMG6484.jpg(五輪塔も草に埋もれていました。)

【最後に一言】

今回の没ネタ復活ですが、けして取材ソースが無くなったわけではありませんが、せっかく取材したにも関わらず、ご紹介しないのはもったいないと考えて、三つひとまとめでご紹介することにしました。この場所は我が家から車で30分かからない場所ばかりです。こんな身近な場所にも歴史に関連した遺構が在る事を皆さんに知って頂ければと思います。つまり皆さんの住んでいらっしゃるご近所にも必ず面白い歴史が埋まっているのです。是非探してみると面白いですよ。

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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