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2018/05/31

コウノトリ舞う豊岡市日高町で『楯縫古墳と故郷の地区』の歴史を考える。

『出雲大社・荒垣外摂社』シリーズは前回で終了しました。取材の後ゴールデンウィークで実家に帰省しましたので、少し故郷の話題もご紹介したいと思います。



【プロローグ】レッドリストAランクの魚「ニホンイトヨ」が5年ぶりに発見!


先日うれしいニュースに接しました。私の実家近くの、但馬豊岡市の市立ハチゴロウの戸島湿地(大陸から渡ってきたコウノトリ「ハチゴロウ」が住み付いた場所です。)で、兵庫県版レッドリストAランクの魚「ニホンイトヨ」が5年ぶりに発見されたのです(円山川城崎町楽々浦の辺りです。円山川は県北部を流れる一級河川です。)。コウノトリも帰省の度に見られる様に成りましたし、生まれ育った故郷に自然が回復していると考えると嬉しいですね。「ニホンイトヨ」長くなりそうなので、後でもう一度説明します。

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(毎回帰省の度に見られるようになりました。)

さて本題はこちらです。私の実家の地区に有る『楯縫古墳』と故郷の歴史を考えて見ようと思います。私の実家がある兵庫県豊岡市日高町の地区(集落)は、日高町(市町村合併によって豊岡市日高町・旧城崎郡日高町)の中でも歴史上一番といっても過言では無い大きな地区です。勿論但馬地方の過疎化によって人口は減ってきてはいますが、平安期に国府が存在した場所(二度の移動があり二期国府の位置は確定出来ていません。)と、明治以降日高町久斗地区にグンゼ工場の社員寮(女工さんがかなりの人数労働に従事していました。)が有った時期意外は、日高町最大の人口を誇っていたと思います。

地区の円山川対岸に古墳群が有り、私も子ども頃は良く行って里山遊びに興じていました。その中で一番大きな石室を有している『楯縫古墳』を40年以上ぶりに訪れて来ました。

それでは、『市郎右衛門』の歴史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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『ニホンイトヨ』ってどんなお魚?


「ニホンイトヨ」ご存知でしたか?北半球の亜寒帯に広く分布し、日本でも山口県と利根川以北に分布する。トゲウオ科の仲間です。全長は10cmほどで、体は木の葉のように左右に平たく。背中には背びれの棘条が3本離れて発達し、さらに腹に2本、尻びれ付近にも1本とげがある。うろこはありませんが、トゲウオ科特有の鱗板が体の側面に並ぶび、体色は褐色ですが、成熟したオスは体が青っぽくなり、のどから腹部にかけて赤色の婚姻色を発現させます。

イトヨはサクラマス・回遊型(ヤマメ・陸封型)と同じで、川で生まれた稚魚は海へ下って成長し、産卵前に川をさかのぼる回遊(遡河回遊)を行いますが、海まで降りずに淡水域に留まって成長する陸封型の個体群があります。岩手県大槌町では東日本大震災による津波の引き波で陸封型イトヨが川の下流に運ばれ、春に海から遡上してきたニホンイトヨと自然交雑した例が報告されています。

繁殖(求愛行動)に面白い特徴があるのでご紹介します。若い個体は群れで生活し、小型の甲殻類などを捕食して成長しますが、婚姻色を発現させたオスは縄張りを作り、同種のオスを激しく追い払うようになります。同時にオスは縄張り内の川底に穴を掘って水草の根などを集め、トンネル状の巣を作り、メスを誘って産卵をおこないます。オスは産卵後も巣に残って卵を保護します。寿命は1年で、オスメスとも産卵が終わると死んでしまうのですが、まれに生き残って2年目の繁殖に参加する個体もいる様です。なお、繁殖期のオスに様々な模型を近づける実験では、たとえ形が似ていなくても体の下面が赤ければ攻撃行動を起こします。この習性は本能行動の例として知られ、生物(理科)の教科書などにも登場しています。


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(こちらが見つかたニホンイトヨです。但馬情報特急便も参考にしてください。)

私、トゲウオは以前、青森県に在住していた時に奥入瀬渓流側の蔦温泉の蔦沼で発見しました。日本のイトヨには日本海系、太平洋系降海型および太平洋系陸封型の3系群があります。豊岡市で発見されたものは日本海系に成りますね。私が青森で観察したものはもちろん太平洋系陸封型の個体群でしょう。

トゲウオ類はすべての種が、雄による巣作りと卵塊の保護を行います。海産種は海藻を、淡水産種は水草または水底を利用した巣を形成します。トゲウオ科魚類は進化学・遺伝学・動物行動学・生理学の研究対象として古くから利用され、多くの業績が導かれています。オランダの動物行動学者であるニコ・ティンバーゲンは、イトヨの本能行動を詳細に解析した研究により、1973年のノーベル生理学・医学賞を受賞しています。

但馬最大級の石室を持つ『楯縫古墳』ってどれくらいの規模なの?


P5052024.jpg(子どもの頃は橋の欄干を歩いて度胸だめしもした旧鶴岡橋、懐かし!)
P5052029.jpg(新鶴岡橋、我が家の畑の上も通過しています。)
P5052023.jpg(円山川沿いの井田神社参道ですが、通交止めに成っています。)

『楯縫古墳』は、兵庫県豊岡市日高町日高区・鶴岡区の円山川対岸、右岸の山裾にあります。上記名称のほかに、森坂古墳とも呼ばれることがあります。現在は鶴岡橋の付け替えと井田神社参道の道路封鎖により、新鶴岡橋経由上之郷区から井田神社へ向かう山道か、もしくは日置区日置橋から鶴岡区の多田谷(たたのや・元々はひとつの集落だったと思われます)経由の迂回路を使わないと楯縫古墳には行けなくなっています。鶴岡区・多田谷集落の谷間農道を南へ進むと、楯縫古墳群の石柱が建っています。そこから林の中へ100m程入っていくと谷間の奥に但馬最大級の巨大な石室が露出しています。

P50520361.jpg(楯縫古墳群の石柱)
P5052044.jpg(熊?イノシシの罠がありました。もう怖い!)
P5052049.jpg(100mほど山に入ると見えて来ました。)

墳丘は単純な円形をしており、円墳と呼ばれる全国の古墳形態でもっとも多数を占める古墳の形状を持っています(私のblog読んでる皆さんに要るのかこの説明?笑)。墳丘の規模については資料が不足しているため、古墳側の説明板を参考にさせて頂きます。墳丘の直径が29mと測量されています。測量調査が1974年に行われました(当時小学6年生だった私は、カブトムシやクワガタ虫の採取に夢中で野山を駆け巡ってました。)。

P5052055.jpg(説明版が設置されています。)

埋葬施設は両袖型横穴式石室で、全長13m、玄室長5.1m、幅2.6m、高さ3.4m、羨道長8m、幅1.5m、たかさ1.7mの両袖式の単室構造です。しかし左袖部はほとんど削られてしまっています。床面には川原石が敷かれ、閉塞石が一部残っています。今回は確認出来ませんでしたが、周りににも古墳が有り楯縫古墳群を構成しています。私の記憶ではもう少し農道沿いに山道を行くと幾つかの石室が有ったと記憶しています。

P5052056.jpg(ど~~~ん、結構な大きさです。)
P5052060.jpg(石室内に進入禁止!こっそり入ってみましょう。良い子の皆は真似しちゃダメだよ~!)
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(天井にも、かなり大きな石が使われています。)
P5052072.jpg(石室から外を眺める!うっとりします。)
P5052069.jpg(石室の中から木漏れ日を眺めるの図)

この古墳の築造は古墳時代の後期にあたる6世紀末ごろと推定されています。 「楯縫古墳」は兵庫県の史跡に指定されています。
 

『楯縫古墳』の埋葬者の謎を推理してみましょう。


P5052073.jpg(周りを一周してみます。)P5052076.jpg
(石室むき出しです。)
P5052077.jpg(木々も伸び放題、45年も経過していますからね(;^_^A)
P5052080.jpg(こんなだったっけ?整備してほしいですね。)

盾縫(たてぬい)とは、古代日本(古墳時代から律令時代)において、盾を作ること、または作る人を指した語です。表記では、楯縫・作盾者とも記されています。盾を作る部民は楯部(たてぬいべ)と称され、神代紀には、「彦狭知神(ひこさしりのかみ)を盾縫とす」とあるように、日本神話においても、盾を製作する神々が登場しています(この他にも、大国主が白盾を作る記述が見られるようです)。

伝説上においても、盾縫は登場しており、垂仁紀39年条(10年)「一云」文註に、五十瓊敷入彦命が、「河上と称する鍛(かぬち)に命じて大刀一千口を作らしめたので、この時、楯部以下の十の品部を賜った」と記述されています(この一千口の大刀は石上神宮に奉納されたと記載されます)。職人をたたえるのは日本独特の文化だと考えます。

現在から1400年以上前に、但馬の山奥に武器を作る集団が定住していたのです(そんなに言い切っていいのか~f(^_^;)。証として私が考えているのは、場所です。後ろに須留岐山を配して、燃料の調達が簡単な事。最初にご紹介した多田谷地区に多くの田を耕作するだけの土地が無い(にもかかわらず田の多い谷は考えられない。)!楯縫古墳と鶴岡村社「井田神社」の間に「楯縫神社」が有ったとされる伝承(楯縫神社は円山川を挟んで反対側に移築されました。)。鶴岡区は江戸期以前は伊福村の名前だった(だからどうした?後で説明します。)!

そうです。もう皆さん私が言わんとしていることは、お分かりですね。結論『武具製造集落の首長の墓』です。

「実は証拠も持ってます。」


P5052100.jpg(多田谷集落、同級生も住んでいますが、10軒もありません。)

楯部の谷(たてぬいべのたに)=多田谷(たたのや)、若しくは多田谷(たたのや)=多々良の谷(たたらの谷)、更に伊福(いふく)=火吹(ひぶく)に通じるとおもいませんか?音が似ているというだけで、全て私の考え通りとは思いませんが、1400年前に造られた古墳がこんな山奥に存在する事がその事実を証明していると思いませんか?食料が多く取れる場所でもないですし、古くからの名前が残っているわけですから、山の中には当時”武器製造集団村”があり、多くの職人が武器を製造する仕事に従事していたと考えると辻褄が合うと思いませんか?

村があった痕跡も探してみました。実は子供の頃遊びに行った山の中はかなり姿を変えていましたが、当時私が夢中になったのは土器拾いだったんです。「楯縫古墳」は古墳時代としては後期に成りますが、実際に煮炊きに使用されたと考えられる土師器(はじき)がゴロゴロ拾えたと記憶していました。当時ぶどう園(デラウエア畑)だったと思われるその場所に行っていみることにしました。少し農道を奥に歩いて小川の橋を渡りますと、当寺の果樹園は牧草地になっていました。あたりを少し歩いて探してみるとありましたよほら~!あった又、45年前にタイムスリップしたように感じです。いかがですか?この山間の谷に集落が存在したことは間違いありません(笑)。

P5052090.jpg(アッ!見つけましたね~。土師器です。)
P5052095.jpg(ほんの15分ほどでこんなに見つけました。童心に帰りました。)

【最後に一言】「実は我が家、古墳の上に建ってます。」


今回の記事に地図は載せないことにします。私の同級生や同郷に住んでおられる方は場所が特定できると思いますが、あえてこの山あいの谷を皆さんに地図でご紹介するのは、土地の持ち主にもご迷惑がかかる可能性がありますので控えさせていただきます。けしてブログをご覧になる皆さんを信頼しないわけではありませんが、田舎のことですから熊が出たりイノシシが出たりと、危険もあると思われますのでお許しください。

その代わりと言ってはなんですが、もう一つ珍しいものをご覧に入れましょう。これは「楯縫古墳」と同じ時代に作られた古墳から発掘された遺物ですが、決して私が盗んだものではありません。出土したものとして鉄刀、金鍔、金環、鉄鏃と多くの須恵器・馬の下顎骨等です。この遺物実は我が家の庭から出土しました。わが家実は古墳の上に建っています(笑)。驚くべきことですが1400年間我が家の土地は堆積物に覆われませんでした。つまりつまり洪水や川の氾濫とは無縁だったと考えられます。但馬国府は第2期がどこに存在したのか、まだはっきりと証明されていません。私の実家のある地区が1400年にわたって堆積物がないことから考えても候補地の一つとなっても良いのではないかと考えています。いや~あまりに凄い事言ってしまった自分にビックリさせられました。

CIMG2800.jpg(価値は不明ですが、我が家のお宝?拾得物として届けなければ犯罪ですが、さすがに時効は成立してますね。)

いつも応援ありがとうございます。歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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