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2018/01/16

「大国主」は暗殺された?哀愁の『須勢理毘売命』を追って!vol②

さて、今回も前回ご紹介した、出雲の成り立ちと古事記の説明も交えながら、前回の続き『須勢理毘売命』の逃避行の続編をお送り致します。勿論看板兎もご紹介します(笑)!

P8111160.jpg(大国主と須勢理毘売命の結婚式壁画の前で三々九度をする二匹の兎可愛い~!)

現在と違い、陸路の交通網は整備されておらず、須勢理毘売命を追い掛ける?大和軍もアウェイな陸路道中のリスクは避けなければいけなかったのかも知れませし、強力な水軍の存在は疑問が残ります。元々日本海交易の中心を担って来たのは、出雲なのですから。

一方、逃げる須勢理毘売命側の上陸地点近くには環濠集落をも備えた、妻木晩田遺跡も有り、出雲勢力が色濃く残っています。妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)は、鳥取県西伯郡大山町富岡・妻木・長田から米子市淀江町福岡に所在する国内最大級の弥生集落遺跡です。遺跡の面積は156ヘクタールにもなり、これは発掘当時国内最大級と喧伝された吉野ヶ里遺跡(当時32ヘクタール、現在は調査が進み、約2倍の面積になっている)の5倍にもおよぶ大規模なものです。

ところで、まだご紹介していないのですが、出雲には四隅突出墓といわれる、独特の古墳が有り、国譲り以前の出雲が独特の文化を有していたのではないのかと考えています。妻木晩田遺跡には四隅突出墓が数多く発掘されています。正に出雲の牙城といえます。

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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【意宇の杜ってなに?】

CIMG2378.jpg(杜というより林位ですが、周りは国府や国分寺、六所神社・真名井神社等、正に古代出雲の中心です。)

前回写真で紹介致しましたが意宇の杜(おうのもり)は、『出雲風土記』の中に登場する(「古事記」「日本書紀」にも登場しない)『くにびき神話(出雲成り立ちの物語)』の最後の地で古代出雲の中心といえます。国引き神話(くにびきしんわ)は、出雲国に伝わる神話の一つです。『古事記』や『日本書紀』には記載されておらず、『出雲国風土記』の冒頭、意宇郡の最初の部分に書かれています。

昔々、出雲の創造神、八束水臣津野命は出雲の国を見渡して「この国は、細長い布のように小さい国だ。どこかの国を縫いつけて大きくしよう」とお思われました。

そこで、どこかに余分な土地はないかと海の向こうを眺めると、朝鮮半島の新羅(しらぎ)という国に余った土地がありました。ミコトは、幅の広い大きな鋤(すき)を使い、大きな魚を突き刺すように、ぐさりと土地に打ち込み、その魚の身を裂いて切り分けるように土地を掘り起こし、切り離しました。

そして三つ編みにした丈夫な綱をかけて、「国来、国来(くにこ、くにこ)」と言いながら力一杯引っ張ると、その土地は川船がそろりそろりと動くようにゆっくりと動いてきて出雲の国にくっつきました。

こうして合わさった国は、杵築(きづき)のみさき「出雲市小津町から日御碕まで」になりました。その時、引っ張った綱をかけた杭が佐比売山「さひめやま、現在の三瓶山(さんべさん)」で、その綱は薗の長浜(稲佐の浜の海岸です)になりました。

その後も、ミコトは北の方の国から同じように狭田(さだ)の国「小津から東の鹿島町佐陀まで」と、闇見(くらみ)の国「松江市島根町のあたり」を引っ張ってきてつなぎ、最後に北陸地方の高志(こし)の国から引っ張ってきた国が三穂の埼「松江市美保関町のあたり」になりました。

この時、ミコトが引っ張った綱をかけた杭は伯耆の国の火の神岳「ひのかみたけ、現在の大山(だいせん)」で、持って引っ張った綱は夜見の島(弓ヶ浜)になりました。

そしてミコトは「国を引くのが終わった」とおっしゃって、杖をおつきになって「おえ。(終えた~~!おりゃ~~!の掛け声かも)」と言われたので、その地を意宇というようになりました。

意宇の杜はその杖が刺さった場所です。「出雲国風土記」の冒頭を飾る「国引き神話」の主人公である「八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)」は出雲神仏霊場の「長浜神社」に主祭神として祀られています。

【古事記を簡単に説明します】

私が出雲神話の基本としている「古事記」は上つ巻(序・神話)中つ巻(初代から十五代天皇まで)下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで)の3巻より成っています。

上つ巻神話部分の約半分が何かしら、出雲に関わっていると言われています。何故大和政権はそこまで、出雲を持ち上げる必要性が有ったのでしょう。征服者なのに不思議だと思いませんか?

内容は、神代における天地の始まりから推古天皇の時代に至るまでの様々な出来事(神話や伝説などを含む)が紀伝体で記載された歴史書です。また、数多くの歌謡を含みます。さらに、『古事記』は「高天原」という語が多用される点でも特徴的な文書です。

【古事記より古い文献の存在が有った?】

中大兄皇子(天智天皇)らによる蘇我入鹿暗殺事件「乙巳の変(いっしのへん」に憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害しました。この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上したと言われています。『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ「国記」は難を逃れ天智天皇に献上されたとされますが、共に現存していません。

天智天皇は白村江の戦いで唐と新羅連合に敗北し、予想された渡海攻撃への準備のため記紀編纂の余裕はな有りませんでした。その時点で既に諸家の帝紀及本辭(旧辞)には虚実が交じってしまいました。壬申の乱後、天智天皇の弟である天武天皇が即位し、『天皇記』や焼けて欠けてしまった「国記」に代わる国史の編纂を命じます。

まずは28歳の稗田阿礼の記憶と帝紀及本辭(旧辞)など数多くの文献を元に『古事記』が編纂されました。古事記には、大国主と須勢理毘売命は杵築の日隅宮[ひすみのみや](出雲大社)でお暮らしになったと記されています(この取材の趣旨からすると間違いですね。)。なんて事をしてくれたんだ、中大兄皇子・中臣鎌足~~と叫びたいところです。(ノ-_-)ノ~┻━┻

奈良県高市郡明日香村豊浦にある丘陵、「甘樫丘(あまかしのおか)」の、朝廷の歴史書を保管していた書庫が残っていたら、『天皇記』など数多くの歴史書が失われずに現存したら、今日の教科書の古代史部分にかなりの違いが有るはずです。

【唐王神社御由緒書(公式サイトより抜粋)】

PB051686.jpg(神紋は梅!)
PB051699.jpg(千木・鰹木・神紋はどうやら菅原道真公のようです。)

須勢理比売命[すせりびめのみこと]は古来唐王御前神社と号し、普[あまね]く諸民の尊崇他に異れる旧社なり。

社伝に曰く、須勢理比売命は、大国主大神と共に夜見[よみ]の国より帰り座して、土地経営の神功を畢[お]へ、稼穡[かしょく](農業)の道を立て、疾苦患難救助の神咒[かじり]の法則[ことわり]を萬世に垂訓し給ひて、大国主大神は永く日隅宮[ひすみのみや](出雲大社)に鎮座し、須勢理比売命は比地に鎮座す。

故に該神社域内宏大なりしこと、往古の規模を存せり。字御前畑[あざごぜんばた]と申所西側にあり。

井屋敷とて御手洗の井泉東側にあり、今は人家の邸内となれども汚穢[おあい]の輩[やから]此の水を汲めば忽[たちま]ち濁る、即ち社前の砂を投じて浄むれば、自ら清水となる。

社伝口碑に據[よ]るに、此の所正しく須勢理比売の御陵[みささぎ]ならむと。太古より一社の伝説あり。

蓋[けだ]し該地位は大山を距[へだた]る三里、夜見浜を距ること三里強、其の中間にあり。

往古は此地も出雲の国境なるや詳[つまび]かならざれども、出雲風土記に「持曳く綱は夜見島是なり云々」中世海洋を隔[へだ]つる外国は総て加羅と通称せり、故を以て夜見国より帰り給ひをも唐土より来り給へるものとし、又大国主大神の后神[きさきがみ]なるを以て唐王御前神と稱[たた]へ奉りしなり。

亦、命の御陵と認むる所以は、神験不測[しんけんふそく]の神呪方神蹟[しんせき]今猶此地に存在す。

本殿の下に方一間余の石の玉垣あり、其中に高五尺余の古造の碑石あり。中古仏者の為に惑わされ、命の尊陵たるを知らず。往々祭祀を廃絶し社字衰頽す。

諸人該玉垣内の砂を請ひ或は之を御手洗の井泉に撒きて其の身を清むれば、年中虫毒の難に触るること無く、適其害に遭ふも其水を温湯にし砂を入れて紙に涵し、身体の損傷せし所を摩拭すれば疼痛忽ち止み全癒す。故に崇敬の信徒日に増し月に加はる。

《鳥取県神社誌より》

現在のように医薬が発達していなかった時代、蝮や毒虫は人々の暮らしに危険この上ない存在だったと想像できます。明治初期の氏子が12300人で、その範囲は中山町から東出雲町にまで及んでいたのはそれ故でしょう。しかし蝮や毒虫の危険が減るに連れ、往年の参詣者は減り賑わいも無くなっています。

鳥居の扁額は松籬社とありました。神殿の屋根の千木は外削り、鰹木は3本でしたね、神紋は梅(どうやら天満宮が合祀されたようです。『鳥取県神社誌』によれば「菅原道真は古来天満宮と号し壹宮神社の摂社なり、明治元年10月神社改正の際唐王神社の境内に移転し松籬神社と称せしを同12年允許を得て唐王神社と改称合祀せらる。」とのことですので、扁額は明治初期の物に成るかと思われます。唐王神社の謎が、少し解けて来ました。

【『須勢理毘売命』の道行き続編】 

大山町の阿弥陀川河口付近に上陸され、最初は大山町国信の「若宮原」に居を構え暫らく滞在します。今でも大きな松の切り株や弥生式の土器が出土するようです。

しかしここは、海辺ゆえの波風が立ち海の音も高いがゆえに、大山町末吉の「天皇さん」に居を移されたといいます。暫らくご滞在になられましたが、やはりまだ海から近いということで、末長の「天皇さん(地元でこのように呼ばれています。末吉・末長共にめでたい名前ですね。)」に移られたということです。近くに喉を潤した湧き水と腰を下ろされた腰掛岩が在るとの記載がありました。そこでもまだ海が近いと唐王へお移りになったとの言い伝えもあります。

PB051735.jpg(末長の「天皇さん」ここも神社では無いので、聞き込みに苦労しました。)
PB051741.jpg(石の祠がいくつかありますが、神社の痕跡は在りません。)
PB051742.jpg(祠はあるのですが、須勢理毘売命とは関係なさそうです。場所は末長の「天皇さん」に間違いありません。)
PB051762.jpg
(走り回る事一時間、これか~?)
PB051753.jpg(須勢理毘売命が喉を潤した湧き水!私も舐めてみました。笑)
PB051765.jpg(須勢理毘売命が腰かけた岩、さすがに座れませんでした。)

【最後に一言】

PB051725.jpg(本当にこの下に眠るのか?「須勢理毘売命」)


神蹟を探すことは容易な事ではありません。時代を考えるとイエス・キリストの井戸や住処先をたどるのと変わりが無いのです。現地の古老のお話に耳を傾け地域地域を何度も回りました。そしてついにという感じですが、移動場所らしき場所は全て見つけました。最後の「本殿下に方一間余の石の玉垣があり、その中に高五尺余の古い碑石が在り、それが須勢理毘売命の陵墓だという。」だけ見つかりませんでした。唐王神社の神殿下に眠るのか?とても残念です。

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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