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2017/12/26

器として生まれたからには『須恵器』を使ってみようではないか?

昨日、Blogger仲間恒例の馬肉会(ブログオフ会・クリスマスイベント・過去最高人数)が有りましたので、歴史ブログを書いている私としては、サプライズ企画として、約1500年前の『須恵器(すえき)』を実際に料理の器として使ってみる事にしました(近頃危ない企画が多いかも知れません・笑)。

『須恵器(すえき)』は、日本で古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器(炻器)です。青灰色で硬いのが特徴で同時期の土師器とは色と質で明瞭に区別できます。

器として生まれたからには、器として使ってみよう。歴史好きの無謀なチャレンジですが、けして偽物でも盗品でもありません。偶然がかさなって私の手元に有る物で、形としては多く出土している須恵器の蓋部分かもしれません(考古学の博物展示場では多く見られるものです)。しかし料理の器として使った人はあまりいないのではないでしょうか。(笑)

PC260070.jpg(高菜御飯と具沢山スープに「須恵器」使用、角皿は丹波焼の清水剛さんの作品、蓮華は金城貴史さんの作品。市松模様のおてしょうは私の作品です。)

と勇んで、馬肉会会場のお店に行ったのですが、1500年前の器と聞いた大将が割れたらあかんやんと?使ってもらえませんでした。

それでは自分でと一日遅れで、わが家で使ってみました~(*^^*)。勿論その他に持っていった備前焼の器は使っておりますので、美味しい料理と共にお楽しみ下さい。なお場所(おおよそ関西とだけ・笑)と店名は馬肉会の性質上お教えする事は出来ません。ごめんなさい!毎月行われていますので、参加希望がございましたら幹事長(本人は「知らん」と申しておりますが!)taka:a氏もしくは、幹事代行の私(市郎右衛門)までご連絡ください。

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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【『須恵器(すえき)』って何?】

PC250004.jpg(今日の馬肉会は、軽くおでんから始まりました。遅れて行ったので、その前にアボカドと海鼠があったはずです。)

「須恵器」歴史の教科書で学習しましたよね~。平安時代には「陶器」と書いて「すえもの」「すえうつわもの」と読まれていましたが、それが古墳時代までさかのぼるのかは分かっていないようです。陶器(とうき)と混乱を避けるため、現代の考古学用語としては須恵器が一般化しています。

PC260076.jpg(わが家の「須恵器」は小ぶりです。特徴的な青灰色は酸化第二鉄が還元されて酸化第一鉄に変質されるためです。1500年前の器、風格が有ります。)

須恵器の起源は朝鮮半島(特に南部の伽耶)とされ、初期の須恵器は半島のものと区別をつけにくいほど似ている様ですが、用語としては日本で製作された還元焔(かんげんえん・酸素が足りない状態で燃焼が進行する焼き方の事、つまり不完全燃焼といえば分かりやすいかな?)焼成の硬質の焼物だけを須恵器と呼んでいます。朝鮮半島のものは、普通名詞的に陶質土器と呼ばれるか、伽耶土器・新羅土器・百済土器などともう少し細分化した名で呼ばれています。

【それでは、『土師器(はじき)』って何?】

PC250014.jpg(生ガキ~~~!)

「縄文土器」から「土師器」までの土器は、日本列島古来の技法である「輪積み(紐状の粘土を積み上げる)」により成形され(現代でも輪積み・巻き上げ・紐づくりなどと呼ばれて陶芸教室で最初に教わる技法です。)、野焼きで作られていました。このため焼成温度が800~900度と低く、強度があまり有りませんでした。また、酸化焔焼成(酸素が充分に供給される焼成法)となる為に、表面の色は赤みを帯びることになります。

それに対し、「須恵器」は全く異なる技術(轆轤技術)を用いて成形し、窖窯(あながま)と呼ばれる地下式・半地下式の登り窯を用いて1100度以上の高温で還元焔焼成されることで強く焼締まり、従来の土器以上の硬度を得ました。閉ざされた窖窯の中では酸素の供給が不足しますが、高熱によって燃焼が進む事に成ります。

PC250008.jpg(キンキの刺身ですが表面軽くあぶってあります。この器は私の備前焼との出会いジェイムスイラズムスさんの備前火だすき?ゴマです。)
PC250040.jpg(キンキの熱物)

燃料からは、酸素が十分なら二酸化炭素と水になるところ、一酸化炭素(不完全燃焼といえば、一酸化中毒ですよね)と水素が発生します。これが粘土の成分にある酸化物から酸素を奪ってしまいます。つまりは還元することで二酸化炭素と水になる事に成ります。「須恵器」の特徴的な青灰色は、粘土中の赤い酸化第二鉄が還元されて酸化第一鉄に変質するために現れます。

【古墳時代の須恵器】

PC250038.jpg(タグ付き鳥取産の松葉蟹・船の名前まで付いているのは珍しいです。大将が愛情込めて剥いてくれます。)
PC250026.jpg(練り物は、さつま揚げ?)
PC250029.jpg(もちもちの関サバなり!)

高温土器生産の技術は、中国江南地域に始まり、朝鮮半島に伝えられました。『日本書紀』には、百済などからの渡来人が製作したの記述がある一方、垂仁天皇(垂仁3年)の時代に新羅王子天日矛とその従者として須 恵器の工人がやってきたとも記されています。そのため新羅系須恵器(若しくは陶質土器)が伝播していた可能性も有りますが、現在ではこの記述と関係が深いと思われる滋賀県竜王町の鏡谷窯跡群や私の実家近く、天日矛が住んだといわれる旧但馬地方でも初期の須恵器は確認されていません。ですから、この技術は百済から伽耶を経て日本列島に伝えられたと考えられています。

今日使用している「須恵器」も天日矛が住んだといわれる但馬地方の物ですが、それほど古い(須恵器としては)物では無いと思います。

PC250030.jpg(18キロのヨコワ、もうヨコワと言えるんか?赤身・中トロ・トロですね。)
PC250010.jpg(マグロの目玉、コラーゲンが凄い、taka:aさん・女性陣に大人気!こちらの備前焼は、人間国宝伊勢崎淳先生の弟子、石川泰次郎さんの窯変ボウル。)

考古学的には、大阪府堺市・和泉市・大阪狭山市・岸和田市にまたがる泉北丘陵に分布する陶邑窯跡群の発掘調査と、一連の編年的研究により、須恵器の出現は古墳時代中期の5世紀中頃とされていましたが、近年では、陶邑窯跡群内に含まれる堺市大庭寺遺跡や、野々井西遺跡において、より古い段階に位置づけられる須恵器が発見され、少なくとも5世紀前半頃には、朝鮮半島から陶質土器が持ち込まれるのとほぼ同時に生産技術も招来され、須恵器生産が開始されたことが明らかとなっています。

このほか最初期に須恵器生産が始まった場所(窯跡)として福岡県の小隈・山隈・八並窯跡群が知られています。また、吹田市吹田32号窯、岡山県奥ヶ谷窯跡、香川県宮山1号窯・三谷三郎池西岸窯跡、福岡県夜須町山隈窯跡などの初現期の窯跡も日本各地に造られました。これらはいずれも伽耶系と考えられています。

PC250049.jpg(明石のタコ)
PC250047.jpg(あん肝)
PC250044.jpg(厚揚げ)

このうち大阪府の「陶邑窯跡群」は日本列島最古かつ最大であり、日本三大古窯の一つに数えられています。天皇陵を含む百舌鳥古墳群と地理的に近接しており、やがてヤマト王権の管理のもとで、同じ規格の製品を生産するよう統御されるようになったと考えられます。そのような「品質管理」の状況を物語る遺跡として堺市の深田遺跡や小角田遺跡が挙げられます。

6世紀代に列島各地に須恵器窯が造られました。これらの須恵器窯で多くの陶邑様式の須恵器が生産されています。福岡県大野城市・春日市・太宰府市にまたがる「牛頸窯跡群(三大古窯の一つ)」、兵庫県明石市・三木市付近に分布する東播地域窯跡群、岐阜県岐阜市の美濃須衛窯跡群、愛知県尾張地方東部の「猿投窯跡群(三大古窯の一つ)」、静岡県湖西市の湖西窯跡群などがあげられます。

この窯跡群の拡散を陶邑工人の地方拡散と考える説、現地(ヤマト)工人が陶邑様式を受け継いで生産したとみる説とが有ります。微妙な地域差が見出せるものの、列島的規模での規格化の力が働いていることは確かなようです。このことから、須恵器生産においてヤマト王権が主導的役割を果たしていたと考えられます。

古墳時代の須恵器は、主に祭祀や副葬品に用いられました。初めのうち古墳からの出土に限られ、普及が進んだ後期になると西日本で集落からも出土しています。西日本では須恵器、東日本では土師器が優勢という違いが現れます。

【奈良時代から平安時代へ土師器の品質向上と釉薬の出現】

PC250019.jpg(いつに成ったら出るんだ馬肉~!これです。かいの身、めっちゃ甘い抜群に美味しい。こちらもジェイムスイラスムスさんの炎が張り付いたような備前焼き。)
PC250022.jpg(よだれが落ちる~~!馬レバーの刺身!「こりこり」っす。)

奈良時代以降になると、各地方で国分寺の瓦を焼成するために、瓦窯とともに須恵器焼成窯が造られるようになります。国や郡の官衙での使用が柱にあったが、それだけに留まらず日常の器としても盛んに用いられるようになって来ました。須恵器生産は蝦夷に対峙する城柵の設置にともなって東北地方にも達しています。

平安時代には、これまで須恵器生産が盛んだった西日本で一郡一窯の体制から一国一窯への収斂がみられ、産地の数が減る傾向が現れます。地方統治における郡の役割の低下と、国の役割の向上が背景にあるとも言われます。しかし辺境域の東日本では逆に生産地拡散の傾向がみられ、関東地方では新規の窯が増えています。東北地方中部・南部でも奈良時代には少なかった須恵器が9世紀には盛んに製作されました。しかしそれも9世紀末には衰退し、土師器系の土器にとってかわられる形で須恵器生産は10世紀に絶えることになりました。

【須恵器の衰退】

PC250054.jpg(最後はモノグラムさん持参のロ-ルケーキで締めました。)

この背景には、 古墳時代初頭に大陸から伝来して 始まった須恵器の生産は、奈良・平安時代へと引き継がれていきましたが、皮肉にも、器物に上薬(釉薬)をかける技法が朝鮮半島から伝来し、平安時代末期には良質な輸入陶磁器の増加などにより「須恵器」の製造が衰え、やきものの主流は、光沢のあるガラス化した釉薬(ゆうやく、うわぐすり)が表面にほどこされた陶器に変化します。

現在六古窯といわれる、信楽、備前、 丹波、越前、瀬戸、常滑の窯場が有名ですが、その中でも私の好きな備前焼は釉薬を用いない焼成方法を用いる事、また還元状態を作り出す等の陶工の工夫で、多くの窯変と呼ばれる変化を見せます。備前焼は須恵器の継承と言って過言ではないかと考えます。

馬肉会参加者「taka:a・ビー玉・ちょび・みーな・えたばりゅ・ものグラム・そして私市郎右衛門」みんな敬称略してごめんね~。
このメンバーは全て私のサイトでリンクさせて頂いているので応援してください(私が言わなくても皆さんご存知ですよね)。
時間を忘れるほど楽しかった。ちょっと風邪気味で、もしかしたらみーなちゃんに移しちゃったかもしれません。みーなファンの皆さん許してね~。


歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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