2017/12/14

「十九代 市郎右衛門家」の討ち入りそば、平成29年バージョン。

今日12月14日は、赤穂浪士の討ち入りの日です。

我が家では赤穂浪士の討ち入り日に合わせて、毎年お蕎麦を食べています。

PC140027.jpg(器は丹波焼「俊彦窯」の清水剛さんの作品・本年度兵庫県芸術奨励賞を受賞されました。おめでとうございます🎵。箸置きは信楽の篠原希さんの焼き締め、おてしょう「お手塩」は私の自作です。お箸はtaka:aさんからのプレゼントです。)

つまり、今日の晩御飯はお蕎麦なんです(実際の討ち入りは15日未明なんですけれどね!)。

毎年「我が家の討ち入り蕎麦」と題してわが家に伝わる古いお話をUPさせて頂いております!

その経緯については毎年ご報告しておりますね。今年は大石りくの自筆文章が見つかり、実家但馬豊岡は大いに盛り上っています。私の調べ直しによりますと、但馬豊岡藩京極家と大石(内蔵助妻)りくの実家、石束家とわが家との関係に、少し新しい事実が判明しましたのでご紹介させてください。

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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PC140039.jpg(taka:aさんのお箸、初デビューです。)
討ち入りそば(昨年の「討ち入りそば」出西窯の器に輪島塗の箸で100円のかきあげでも少し贅沢な感じです)

昨年の今日このようにブログをUP致しましたが今年はプラスアルファがいっぱいです。

【今回発見された資料とは】

忠臣蔵で知られる大石内蔵助の妻りくによる直筆の手紙がこのほど、りくの出身地、兵庫県豊岡市で見つかりました。手紙には内蔵助の遺児となった三男の(広島浅野本家への)仕官や、次女の縁組への喜びがつづられ、関係者は「300年の時を超え、りくの思いがよみがえった」と喜んでいます。赤穂義士の討ち入りがあった14日(今日)から2日間、公開されます。

りくは、内蔵助との間に3男2女をもうけました。三男の大三郎をみごもっていた時、家族に罪が及ぶのを避けるため、討ち入り前に豊岡に帰されています。夫の死後も子どもたちを育て、赤穂義士の評判により三男が広島の浅野家の本家に召し抱えられ、一緒に広島に移っています。

書状は豊岡市城崎町の土産物店主で、郷土資料を集める森貞淳一さん(73)が約10年前に古書店から購入し、保管していたそうです。今年夏に資料を整理した際、同市立歴史博物館の資料調査員、石原由美子さん(56)に調査を依頼。筆跡や宛先、朱書きされた年号などから本物と確認されました。

手紙は討ち入りから12年後の1714(正徳4)年10月、三男の仕官にも尽力した大石家の親戚に宛てたものです。「かように子供仕合(しあわ)せよくなり候(そうろう)」「祝言(しゅうげん)用意にとりこみまいらせ候」などと、仕官できたことへの感謝や、次女るりの婚礼の支度に追われている幸せをつづっています。同時に見つかった三男の書状も、姉の婚礼が無事終わったことへの礼などが書かれています。

石原さんによると、市内に残るりくの書状は実家の菩提(ぼだい)寺に残る1通だけで、貴重だそうです。「夫の死後、りくと子らが再び幸せを取り戻していく様子が分かる」と話されます(地方歴史学者も捨てたものではありませんね~)。

【以下昨年のブログ内容です】

話せば長いお話なのですが、簡単に書きますと、大石内蔵助の妻、りくの父親、豊岡藩京極家家老、石束源五兵衛と我が家のご先祖が懇意にしていたらしく、赤穂義士討ち入り成功(仇討ち成就)が伝わると、近所に蕎麦がき(当時蕎麦切りが、全国に的に広まっていたかは不明ですf(^_^;)を振る舞ったという、言い伝えが残っているのです。

離縁されて実家に帰って来ていたりくと子ども達ですが、のちに三男大三郎が、忠臣の子息と言うことで、広島安芸、浅野本家に仕官がかない(りくも忠臣の妻として録をもらってます)、我が家で家財を売って、路銀のたしにして広島へ向かったという、言い伝えがわが家に有り、そのとき石束家からの家屋を借りた礼として、京極家拝領の野点茶道具を頂いたと伝えられています(実物確認が出来ていません、時間が有るときに倉の中を調べて見ます)。

などのいわれを、一昨年書きました。昨年にブログを書くときに調べ直しててみますと、石束家と懇意にしていた事実は変わりませんが、家財を売った人物とその経緯に少し特殊な事情を発見しました。

当時の石束家は但馬豊岡藩、京極家筆頭家老として1200石の家柄でした。貞享4年(1687年)にりくが播州赤穂浅野家、筆頭家老大石(内蔵助)良雄(知行1500石)の正室となったのも頷けます。

CIMG1191.jpg
(大石りく、長女くう、次男吉千代ですかね~?)
CIMG1192.jpg(顕彰碑)


【大石りくの父、石塚源五兵衛】

大石りくの父、石塚源五兵衛は寛永18年(1641年)、但馬国豊岡藩、京極家筆頭家老の石束毎術(知行1200石)の長男として生まれます。本名は「毎公」でしたが、主君京極高住に対しては「毎好」を使っています。

佐々休西(佐々成政の曾孫・話が大きく成ってきました。)の娘と結婚し、その間に石束毎明・石束毎済・りく(香林院)などの子をもうけます。延宝2年(1675年)、父の隠居により家督相続、このとき父と同じ源五兵衛に改名し、筆頭家老職を継ぎました。

赤穂事件の際には、赤穂藩浅野家改易後の元禄14年(1701年)5月には大石(内蔵助)良雄が、遠林寺で赤穂藩残務処理にあたっている間、りくやその子・松之丞(大石良金)通称(こちらの方が有名ですね)は主税(ちから)らを石束家に受け入れ、この際に良金に自らの脇差を与えています。

7月に大石良雄が山科に住居を落ち着けると、りくや良金たちも山科へ移りますが、次男の吉之進(碑文では吉千代)は石束家に残っています。元禄15年(1702年)4月15日、仇討ち計画が進むなか大石は、盟約に加わることを望んだ長男良金(主税)を除いてりくと子らを、再度石束家に戻しています。

このときりくは身ごもっており、7月に石束家にて大石大三郎を出産しています。元禄16年(1703年)に家督を長男の毎明に家督を譲って隠居しました。正徳3年(1713年)7月25日に死去、享年73

【大石りくの兄「石束毎明」】

石束家を継いだ、りくの兄石束毎明(いしづか つねあき)、生年不詳~宝暦5年1月15日(1755年2月25日)もちろん豊岡藩、京極家の筆頭家老です。通称は宇右衛門(うえもん)です。元禄16年(1703年)に石束家の家督と家老職を相続しています。この際に300石を加増され、石束家の家禄は都合1500石となりました。

しかし享保12年(1727年)主家京極家が無嗣になり、京極高永に家督相続が認められたものの3万石から1万5千石に半地(末期養子の決りですね~(^^;)される事件があり、石束家の家禄も半減してしまいます。毎明はこの半地に対応するため、積極的に家人(武士)のリストラと倹約にあたり、豊岡藩、京極家の財政維持にあたります。

殖産興業に力を尽くし、のちに豊岡名物品となる柳行李を生産させたのも、彼の業績なんです。現在では、その柳行李の代わりに鞄の生産に取り組んで、豊岡鞄は日本全国シェア70%を誇る迄に成っています(豊岡の鞄関係者の皆さん知ってますか?)。

中谷高房の娘を妻に迎え、その間に石束毎雅をもうけます。毎雅に家老職を譲りますが、嫡男毎雅は京極高永と御家改革を巡って対立を深め、延享4年(1747年)には家老を辞して京極家を去ることとなり、毎明も豊岡を去っています。

晩年は甥、大石大三郎(大石内蔵助良雄の子)のもとに身を寄せています。宝暦5年(1755年)広島で死去。妹・りくと同じ国泰寺に埋葬されました。

【大石りくの甥・毎雅、さあこの人物です】

石束毎雅(いしづか つねまさ)、元禄13年(1700年)~宝暦2年5月22日(1752年7月3日)は、父毎明より石束家の家督と筆頭家老職を相続しましたが、主家京極高永と対立を深めて御家を去ています。通称は、一学(いちがく)、源五右衛門(げんごえもん)、宇右衛門(うえもん)。

父毎明から豊岡藩、京極家筆頭家老職を受け継ぎ、また前の殿様京極高住の娘万里姫を妻に迎えますが、当代主家・京極高永とは御家改革を巡って対立を深め、延享4年(1747年)に家老を辞して豊岡京極家を去ることになってしまいます。その後は京都に隠遁し、宝暦2年(1752年)に同地で死去しています。墓は京都の妙心寺に有ります。芳名は馨徳院殿立所?伯居士。

さてここで問題が起こるわけです。我が家の言い伝え石束家が家財を売ったという話は、お父さんか?りくの兄か?それとも殿様と喧嘩別れしたりくの甥かという事です。

どうも当初は赤穂事件に関係している(石束家から大罪人の妻を出した!)と考えていましたが、りくの兄や甥の可能性の方が高いのではないかと思われます。理由の一つは、父が「源五右衛門(石束毎雅の通称です)」の名前を記憶(先祖から伝えられていること)二つ目は我が家に置いて行ったとされる、野点の茶器が京極の殿様から拝領したものだと記憶(先祖から伝えられていること、そんな大事な物をと考えますよね)等です。しかし殿様と仲たがいして豊岡藩を去ったなら、「もういらないわ」も考えやすいですね(笑)



CIMG1193.jpg(正福寺の大石りく遺髪塚、長女くう、次男吉千代?吉之進の墓です。)
CIMG1195.jpg(大石良雄妻理玖の墓はちょっと歌いすぎではないですかね~笑)


【日付うんちく話!】

最後にすごく余談なお話をいたしましょう(笑)赤穂浪士の討ち入りは、12月14日とされていますが、実際は15日未明です(ただし当時では朝日が登って翌日の感覚だった様です)。何故15日を選んだかですが、もちろん月明かりの必要性です。松明や提灯を持っていたとしても、元禄時代の事ネオンや街灯が有るわけではありませんね。月明かりが無いと戦えない状態になります。旧暦は陰陽歴ですから、15夜は必ず満月に成ります(お分かりですか)。

又、旧暦元禄15年12月14、15日はユリウス暦1703年1月30、31日に成りますし、今年?の旧暦12月14、15日は、2017年の12月312018年の1月1日(元旦)に成るはずです(月の満ち欠けで満月つまり雲が無ければ今年の除夜の鐘は満月の中で突けます)。だからどうなんだのお話です。

「十九代 市郎右衛門家]の討ち入りそばと題してお贈りいたしましたが、討ち入り蕎麦をいつ食べるのかはっきりと決めているわけではないのです。今年は今日12月14日にしました。ブログ更新の関係で正月は無理と判断いたしました。

【最後に一言】

我が家では、この時期にお蕎麦が食べたく成ると(年越し蕎麦とは別です)、子供たちに少しだけ赤穂浪士のお話と、我が家の歴史を話して、お蕎麦(必ず出石蕎麦)を食べる事にしています。わが家は古い家なので(お金は持っていませんが)、出来るだけ昔の話を子供たちにしてやりたいと考えています。日本史の成績が悪いのがたまにきずなのですが、そういえば蔵の中の整理をしなければなりませんね(-"-;A ...アセアセ。

今年はあえて書かなかったのですが、まだ父が「え~?」と思う話をしていますのでそちらは来年の十二月にでもお話ししましょう。
『忠臣蔵』における不忠臣の代表格、「大野九郎兵衛」赤穂藩浅野家の末席家老650石の子孫についてのお話なのですが、これは眉唾かもしれません。


赤穂城も訪れていないので(兵庫県広いんですよね)出来れば来年は訪れたいと思っています。年末のこの時期には必ず「赤穂浪士」の映画やドラマが有ったものですが、時代劇が少なくなり歴史ファンとしてはさみしいかぎりです。

次回は「えっ!島左近生存説」で「関ケ原シリーズ」の最後を飾ります。我が家のお宝も公開しちゃうかもしれません。

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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リュミエールブラン ネージュ

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