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2017/12/11

映画やドラマで描かれた、或いは描かれ無かった名場面!

皆さん、こんばんわ~!昨日college collectionのイベントthe partyに行って来ました。それ何?の方々が多いと思いますが、要は学生主体のファッションショーといったところですか?またなんでそんなところに「紅の豚」が出没しているのだとお思いでしょうが、私市郎右衛門の長女が、イベントの中で行われるミュージカルに、ご出演(笑)ということで、親バカですが大阪まで出かけました。

学生の本文は勉強ですが、色々と経験して楽しんでいる様子を観賞してまいりました。東京・福岡・大阪と行われたようですが、若くて(若く無くても)ファッションに興味のある方は、来年も開催されると思いますので是非行かれてみてはいかがでしょうか?

PA151572.jpg(最初から衝撃的ですが三成の頭骸骨、三成の墓所は墓は京都大徳寺三玄院にありますが公開されていません。こちらは学術調査時の物です。)

さて、「天下分け目の関ケ原」の取材で書き始めたこのところの、「関ケ原」シリーズですが、取材ソースも後少しとなりました。まだまだ表面的で、「慶長の擾乱ともいえる」と私が評しているように、全国各地で色々な戦闘が起こっておりますので、今回のシリーズは後2回で終わる予定ですが、また関連事項の取材ができましたら。ご紹介していきたいと思います。

さて本日は、映画「関ケ原」の話題や、原作の司馬遼太郎「関ケ原の中から、これまでまだブログに書いていない名場面(名エピソード)をご紹介するコーナーを作ってみました。

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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【映画「関ケ原撮影場所名場面】

CIMG9492.jpg(「書写山圓教寺」家康の岐阜赤坂岡山の陣所の場面!)

私が映画「関ケ原」を見に行ってこのシーンはこの場所で撮影されたと分かる場面がいくつかありましたのでまずご紹介しましょう。まずは家康の岐阜赤坂岡山の陣所となった場所です(現在の岐阜県大垣市赤坂町字勝山にある安楽寺)。ハリウッド映画『ラストサムライ』でも使用され、大河ドラマ「軍師官兵衛」でも使用された、兵庫県姫路市にある西国三十三観音霊場、「書写山圓教寺」が使われていました(圓教寺はまだブログでご紹介していませんので、近いうちにご紹介出来ればと思います)。家康の赤坂円山陣地が凄く立派だという設定が少々おかしいと感じました(笑)。

PA151576.jpg(西軍血判状の場面は龍潭寺での撮影でした。)
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(姫路城!この角度よく出て来ます。)

さらには、西軍前線基地となった大垣城ですが、今回の「関ケ原シリーズ」でもご紹介した通り、先の大戦で燃えてしまっておりますし立て直された、現在の大垣城は規模も小さくて撮影向きではありません。こちらも見覚えのある城が登場しました。同じく兵庫県の世界遺産「姫路城」でした。ドラマ「暴れん坊将軍」等でも使われている場所だったので、すぐに気が付きました。

それなら合戦場面は同じく兵庫県神崎郡神河町の砥峰高原(とのみねこうげん・標高800~900mに位置する面積約90ヘクタールの草原)かと考えました。映画『ノルウェイの森』『信長協奏曲』や、大河ドラマ「軍師官兵衛」「平清盛」等でも使われた有名な場所なんです。しかし今回の合戦場面は山梨県小淵沢で行われたそうです。

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(兵庫県神崎郡神河町の砥峰高原・とのみねこうげん)

いつものうんちく話を少ししましょう。なぜほとんどの合戦場面の撮影が、同じ場所(同じ草原や高原)で行われるのでしょうか?それには、その場所でなければいけない理由が有るからです。その理由とは、セイタカアワダチソウのせいです。北アメリカ原産で、日本では切り花用の観賞植物として導入された帰化植物(外来種)であり、ススキなどの在来種と競合しています。つまり戦国時代には無かった黄色い花が時代劇の合戦シーンにあると非常に困るのです。しかしこのセイタカアワダチソウ実は寒さに弱いい性質が有り高所の高原や、北海道東北部などでは生息出来ません。そこで兵庫県砥峰高原の様な標高800以上の高原や山梨県小淵沢等の高原地域での撮影ではセイタカアワダチソウそのものが無く、撮影に適しているというわけです(納得?)。

p6953547セイタカアワダチソウ(篠山市)(同じく兵庫県の平地のススキとセイタカアワダチソウ)

京都下賀茂神社糺の森では流鏑馬のシーンや三成が小川から水を飲むシーンが有ったような気がします。以上が私が映画「関ケ原」を観賞して「アッ!この場所は」と気付いたロケ地になります。

CIMG7986.jpg(京都下賀茂神社糺の森)

【場所の特定はできなかったが、映画に描かれた名場面】

PA151701.jpg(三成が繋がれる、彦根城太鼓門、大津城として撮影。)

これは、なるほどと思わされた名場面です。撮影場所は彦根城太鼓門でした(重要文化財)。捕まった三成が縛られて繋がれる大津城の城門の設定だと思います。東軍諸将とここで再会します。この時のエピソードは原作「関ケ原」でも書かれている名場面です。

捕まった石田三成は、大津城門前に晒される訳ですが、ここで多くの東軍武将達が三成の顔を見に来ます。福島正則は三成に罵詈雑言を浴びせ、黒田長政や浅野幸長は逆に三成に労りの声を掛けています。また小早川秀秋は三成に裏切りを激しく詰られたと伝えられています。それぞれの武将たちの素顔が判るエピソードです(諸説あるので、真逆の話もあるようです)。

まず最初に通りかかったのは、福島正則だといわれています。正則は馬上から、「汝は無益の乱を起こし、日本一の弓取り内府公にたてをつき、このような有様に成った。これが五奉行筆頭のなれの果てか」と大声で怒鳴ると、三成は「我武運つたなくして、汝を生け捕ってこのようにすることが出来なかったのを残念に思う。汝の様な知恵足らずに我の心が分かってたまるか」と毅然と答えます。

さらに正則は「何故死なぬ、腹切らぬ、縄目の辱めを受けながらおめおめと…」とたたみかけますが、「人々の心の底をこの目で見て、泉下の太閤殿下に報告し奉る。正則、心得ておけ」と返すと正則は返す言葉もなく「世迷言を言うわ」とつぶやき去っています。

次は、黒田長政です。長政は三成を認めると馬から下りて、「勝敗は天運とはいえ、不幸にもこのようになられて、さぞ不本意であろう」と敵ながらその将に対し労りの言葉をかけて、三成の汚れた服装を見ると、自らの羽織を三成に着せたといわれます。一方の三成は一言も放たなかったそうですが、実際には長政の調略により敗北したといっても過言ではなく、長政のしたたかさと三成の純粋さが際立つエピソードだと思います。

小早川秀秋は、余程のおバカさんといいますか節操の無いというのか、捕らえられた三成を一目見てやろうと細川忠興が止めるにも関わらず、三成のいる陣外へ赴いたところ、三成は秀秋を見て、「金吾か~!その伺い方のあり様よ、聞こえたか!我、汝の二心あるを知らなかったのは愚かであったが、太閤の恩を忘れ、義を捨てて約に違い、裏切りをした汝は、武将として恥じる心はないか」と激しく罵倒したので秀秋は何も言えず赤面して引き下がったと言われます。

藤堂高虎との問答は非常に面白いと思いました。高虎は三成に、「関ヶ原での我が軍の鉄砲隊は如何でござった?」と尋ねています。この高虎の問いに対し三成は、「少し乱れがござった」と答え、その原因は何かと高虎が重ねて聞くと、「指揮官に自信がないせいかと思われる。お替えになるがよかろう」と答えました。それを聞くと高虎は、「実は拙者もそう思っておりました。ご指導、ありがとうございます」と、三成の返答に満足してその場を離れています。ここでは敗色濃厚な中でも情勢を冷静に判断していた、に三成の優秀さが良くわかる逸話です。

家康との対面は双方無言であったとも伝えられます。その後三成を預けられた本多正純は、三成に向かって「秀頼様はまだ年若く、事の是非もしろしめされないのであるから、ただ太平を致す道を講ずべきであるのに、よしなき軍を起こして、かかる縄目の恥辱を受けられる結果になった」のではないかと三成批判しました。

それに対し三成は「世のさまを見るに、徳川殿を打ち滅ぼさなければ、豊臣家のためにならないと考え、宇喜多秀家・毛利輝元を始め同心しない者を強いて語らって軍を起こした。ところが戦いに挑んで二心ある輩があって反撃したため、勝つべき軍に打ち負けたのが口惜しい。自分の負けたのは全く天命である」と嘆息して答えたといいます。

さらに正純が反駁して「智将は人情をはかり、時勢を知るというが、諸将が同心しないのも知らず、軽々しく軍を起こし、軍に破れても自害せず、搦め捕らえられたのは、貴公にも似合わないことである」と言うと、三成は憐れむように嘲笑し「この心事はこの大事を起こした者のみが知る。古に源頼朝公有り、今三成が有る。汝らの様な葉武者の知る処ではない」と言い放つと以降は口を閉ざしたといわれます。

一方家康との面会には会話説もあります。家康は関ヶ原の戦いで敗れて捕縛された三成に面会した際、「このように戦に敗れることは、古今良くあることで少しも恥では無い」と言っています(どっちだ?)。三成が「天運によってこのようになったのだ。早々にに首を刎ねよ」と応えると家康も「三成はさすがに大将の器量である。平宗盛などとは大いに異なる」と嘆じたとも言われます。

【映画に描かれたて知った福島正則・黒田長政の兜交換】

PA151471.jpg(井伊家菩提寺「清凉寺」)

映画の中で福島正則・黒田長政が、仲直りの証として『一の谷形兜』「黒漆塗桃形大水牛脇立兜」を交換するシーンが描かれていました。撮影場所は滋賀県井伊家菩提寺「清凉寺」だと思います。佐和山城時代は石田三成と島左近の屋敷跡に建てられています。

秀吉の朝鮮出兵、文禄・慶長の役で黒田長政は出撃順の運が良く多くの功績を残しましたが、出撃順の運が悪く名護屋留守居を命じられた正則が因縁をつけたとも言われます。つまり功績が少なかった、福島正則と不仲になっていました。その仲直りの証として、黒田長政所用の「大水牛桃形兜」と、福島正則所用の「一の谷形兜」とを交換しました。

関ヶ原での戦場ではお互い、交換した兜を着用したと伝えられ、現在も残る馬上での軍装姿を描いた肖像画にも、一の谷形兜を付けている様子が見えます。この一の谷形兜は、非常に変わった形をしています。遠目で見ると、正面からも背面からも長方形。横から見ると大きな曲面が特徴的です。銀箔が光を反射し、奇抜な印象を与えます。

これは、源義経の現在の神戸市『鵯越(ひよどりごえ)』の断崖をモチーフに作られたものだと言われています。ずいぶんと重そうに見えますが、張り懸けという製法で軽く仕上げられているそうで、着用の負担は大きくありません。大水牛形と共に代々、少しずつ形や性能を変え、黒田家で長く愛用された兜です。

元々の所有者である竹中半兵衛が作らせたと言われます。黒田官兵衛と半兵衛は豊臣軍において両兵衛と言われた名軍師でした。廻り廻って黒田長政の元に移ったのも因縁かもしれませんね。

【確か映画の場面には無かったかもと思う名シーン】

秀吉が開いた茶会において、一口ずつ飲み次へ茶碗を回す回し飲みが開かれました。ハンセン病を患っていたといわれる大谷吉継は飲む振りのみで茶碗を回そうとしましたが、顔から出た膿が茶に落ちてしまいました。以降の諸大名は茶に口を付けるのを嫌がり飲む振りだけで茶碗を回していったが、三成は躊躇わず茶を飲み干すというシーンです。それ以降二人の間には厚い友誼が結ばれたといわれます。ただしこの逸話の典拠は不明で、江戸時代に遡ることが難しく、明治44年(1911年)に刊行された『英雄論』では、三成ではなく秀吉が吉継の膿が落ちた茶を飲んだ話として記載されています(このシーンが映画の中に有ったような気がしたのですが、飲んだのは秀吉でした?記憶違いなら申し訳ないです)。

【「島津ののきぐち」も無かったが、これも入れてほしかった「如水無念」のシーン】

関ケ原の戦いの前年には、病の療養を口実に、家康から暇をもらって居城のある中津に戻り、大阪・備後・周防の三箇所に船を停泊させて、天下の情勢を見極めていました。そして三成が挙兵の意志を固め、諸将に大阪参集を呼びかけると、早々に家康方について出陣することを决めました。このことについて官兵衛は「家康公の進撃を聞いてから出陣したのでは、戦勝の分前にあずかれない」と述べています。

関ヶ原の戦いの6日前の9月9日、官兵衛は9千の兵を率いて中津城を出ます。そして豊後の大友氏、筑後の立花氏らと戦い、11月半ばには一円を平定してしまいました。しかし、関ケ原の戦いは9月15日に開戦すると半日で決着していましたので、官兵衛は肥後・水俣で停戦命令を受けとり、撤退することになります。

戦後官兵衛は吉川広家に宛てた手紙で「関ケ原の戦いがもう1ヶ月も続いていれば、中国地方にも攻めこんで、華々しい戦いをするつもりだったのに、家康勝利が早々と確定したため何もできなかった」と述べ、関ケ原の戦いに乗じて勢力を拡大しようとしたことがわかる記録が残されています。

また、関ヶ原の戦いの後、九州に戻ってきた黒田長政は意気揚々でした。戦功によって大幅加増されて52万石の大名が約束されました。「父上、徳川殿から一番手柄と手を握って喜ばれました」「我が徳川家の子孫の末まで黒田家に対して疎略はしない」と右手を握って家康が感謝していたことを報告する長政でしたが、黒田如水(官兵衛)は浮かばれない表情で、とても不機嫌であったといわれています。

長政には如水の胸中が分かりません。以外に喜ばない如水に(父上はお耳が悪いのかと)もう一度家康が自分の手を三度押し頂いたというくだりをもう一度繰り返します。如水はやっとうなずき、「その手は右手で有ったか、左手であったか?」と問い返します。長政が「されば、それがしの右手でございます」と答えると、「右手の一件は相分かった。しかしその時お前の左手は何をしていたのだ」と言います。左手で家康を討つこともできたのにという趣旨の発言をした逸話もあります。このとき長政は初めて父である黒田官兵衛が天下を狙い、そのために行動していたということが分かったのでした。

【「三成の処刑」シーンが有ったなら涙をそそったはず】

家康は処刑前の三成、小西行長、安国寺恵瓊の3人が破れた衣服ままである事を聞き、「将たるものに恥辱を与える行為は自分の恥である。」として小袖を送り届けましたが。三成は小袖を見て「誰からのものか」と聞き、「江戸の上様(家康)からだ」と言われると、「上様とは誰だ」と聞き返します。「徳川殿だ」と言われると「なぜ家康を尊ぶ必要があるのか?上様とは秀頼様の他にはおられるはずが無い。」と礼もいわずに嘲笑うという逸話です。是非映画のシーンに入れてほしかった。

さらに、三成が京都の町を引廻されている最中に喉が渇き、警護の者に伝えたところ、お湯がなかったので干柿を差出されます。三成は「柿は痰の毒であるから食べない」と言って断るシーンです。警護の者は間もなく首を刎ねられる者が毒を断つのはおかしいと笑いますが、三成は「大義を思うものは、首をはねられる瞬間まで命を大事にするものだ、それは何とかして本望を達したいと思うからである」と言って刑場に向かう場面です。(『明良洪範』亨保以降成立)。

【三成辞世の句と共に最後の一言】

石田三成辞世の句は『筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり 』

筑摩江は滋賀県の琵琶湖東北端にある場所の事で処刑される前に、「ああ、あの芦の間に燃えているかがり火がやがて消えていくように、自分の命ももうすぐ潰(つい)えてしまうのだな」という半分のあきらめと半分の覚悟のこもった歌だと思います。

映画「関ケ原」は歴史に詳しい人でないと分かりにくい映画でした。それを分かりやすくするために「義の人」石田三成、「義を支えた」島左近、「義に殉じた」大谷吉継、「義を果たさなかった」小早川秀秋という単純な人物表現によって歴史フアン以外にも分かりやすいストーリーを展開しています。それでも規模が大きすぎて分かりにくいと思いますけどね~(-"-;A ...アセアセ

DSC_0029.jpg(覚悟を決めた三成の心は伊吹山頂のように清々しかったのか?)

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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