2017/12/18

「島左近は生きていた」我が家の先祖も守った左近の墓!

「関ケ原」シリーズ今回の取材では最後に成ります。石田三成の軍師として、また武人として三成を最後まで支えた「島左近」が関ケ原の戦いを生き延びて、三成の菩提を弔ったというお話です。

隆慶一郎さんの『影武者徳川家康』というフィクション時代小説が有り、漫画化もされています。その続編として『SAKON(左近) -戦国風雲録-』(さこん せんごくふううんろく)漫画が有ります。こちらは物語として面白いので是非読んでみてください。

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(関ケ原大軍師島左近の墓こちら~!)

今日ご紹介するのは、島清興(左近)生存説ですが、左近は関ヶ原の戦いで戦線を離脱し、京都に身を隠し僧侶となって三成の菩提を弔いながら余生を過したといわれる日蓮宗本山『立本寺』をご紹介いたします。

我が家との関係についてですが、立本寺30世貫首『日應』が我が家11代○○市郎右衛門則清の弟なのです。(現住は97世上田日瑞貫首)。言っておきますが、日蓮宗のコマーシャルではありません~f(^_^;、偶然私の家が日蓮宗で家系から僧侶が出た!というだけです。

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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(わが家の祖先?分家に成るのか?日應上人の我が家への曼陀羅、○○市郎右衛門子孫の繁栄を祈るとか左に記載されてます。)




【立本寺のご紹介】

PA280197.jpg(山門)
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(本堂扁額)
PA280233.jpg(本堂です。本山の割にはちょっと寂しいたたずまいでした。)
PA280238.jpg(方丈入り口)

『立本寺(りゅうほんじ)』
所在地:京都府京都市上京区七本松通仁和寺街道上ル一番町107
山号:具足山
宗派:日蓮宗
寺格:本山 (日蓮宗では京都に大本山2寺・本山6寺が有ります)
本尊:三宝尊
創建年:1321年(元亨元年)
開山:日像

『立本寺(りゅうほんじ)』は、京都府京都市上京区にある、日蓮宗の本山(由緒寺院)です。山号は具足山。塔頭が4か院あります(正行院、教法院、光源院、大輪院)。

【立本寺の歴史】

PA280196.jpg(立本寺説明版)
PA280216.jpg(鬼子母神堂「刹堂」ちょっと痛んでますね。)

日像が創建した妙顕寺を起源としています。日蓮の孫弟子で京都での布教に携わった日像は元亨元年(1321年)、御溝傍今小路(京都市上京区)に妙顕寺を創建します。そののち、暦応4年(1341年)、四条櫛笥(下京区四条大宮付近)に寺地を移しました。

妙顕寺は嘉慶元年(1387年)山門(延暦寺)により破却されてしまいますが、明徳4年(1393年)、三条坊門堀川(二条城南東付近)に再興され、寺号を妙本寺と改めました(新興の鎌倉仏教に対して、延暦寺は厳しかったようですね)。応永20年(1413年)、妙本寺は再度山門により破却され、5世月明は丹波に難を逃れました。

一方、応永23年(1416年)、日実は妙顕寺の旧地(四条櫛笥)に寺を再興し、本応寺と号しましたが、丹波に逃れていた月明は帰京して五条大宮に妙本寺を再興(後に妙顕寺に復称)、本応寺と対立しています(身内同士の対立は切ないですね)。

この本応寺が改称して立本寺と号していまふ。なお、妙顕寺(妙本寺)と本応寺(立本寺)の分立については異説もあり、明徳4年(1393年)、日実が四条櫛笥の旧地に妙顕寺を再興し、本応寺(のち立本寺)と号したとする説もあります。

立本寺は天文5年(1536年)天文法華の乱で他の法華宗寺院とともに焼失し、堺に避難するが、天文11年(1542年)後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、法華宗寺院は京都へ戻ることとなった。立本寺は天文13年(1544年)新町三条に伽藍を再建した。その後文禄3年(1594年)、豊臣秀吉の命により、寺町今出川(上京区立本寺前町)にふたたび移転しています。広大な寺域を得ますが宝永5(1708)年の大火で焼失し、現在地へ移転しています。妙顕寺、妙覚寺、立本寺の三寺で「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」と呼ばれています。

【天文法華の乱】

しつこい様ですが、我が家が日蓮宗だからといって、日蓮宗布教をするつもりは一切有りませんので宜しくお願い致します(^人^)

日本の戦国時代に起きた、京都における宗派間の紛争です。日蓮宗の立場からは「天文法難」、ほかの宗派からは「天文法華の乱」などと呼ばれます。

天文年間、京都では六条本圀寺などの日蓮宗(法華宗)寺院を中心に、日蓮宗の信仰が多くの町衆に浸透し、強い勢力を誇るようになっていました。1532年(天文元年)、浄土真宗本願寺教団の門徒(一向一揆)の入京の噂が広がり、日蓮宗徒の町衆(法華衆)は細川晴元・茨木長隆らの軍勢と手を結んで本願寺教団の寺院を焼き討ちしています。

当時の京都市街から東山を隔てた山科盆地に土塁に囲まれた伽藍と寺内町を構えていた山科本願寺はこの焼き討ちで全焼しています(山科本願寺の戦い)。この後、法華衆(日蓮宗)は京都市中の警衛などにおける自治権を得て、地子銭の納入を拒否するなど、約5年間にわたり京都で勢力を拡大しました。こうした法華衆の勢力拡大を、ほかの宗派の立場からは「法華一揆」と呼んでいます。

1536年(天文5年)2月(旧暦)、法華衆は比叡山延暦寺に対して宗教問答をすることを呼びかけました。延暦寺もこれに応じ、3月3日(旧暦)に延暦寺西塔の僧侶・華王房と上総茂原妙光寺の信徒・松本久吉(松本新左衛門久吉)とが問答したところ、松本久吉が華王房を論破しています(松本問答)。

当時の宗派間はある意味戦争状態で、現在の僧侶のイメージとはかなり違います。そうそう「大河ドラマ」のように武器も扱えるし、集団化して僧兵などとも呼ばれていました。

【島清興(左近)の墓】

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(妙法院殿嶋左近源友之(みなもとのともゆき)大神儀・土葬)
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(寛永九壬申六月二十六日歿)

左近の位牌が安置されているのは、立本寺の塔頭「教法院」です。墓も「教法院」の墓地内に有ります。

石田三成の筆頭家老。三成に仕える前の筒井順慶の家老時代から天下にその名は知れ渡っており、司馬遼太郎氏の長編小説『関ヶ原』でも限りなく主人公的役割を果たしています。関ヶ原の戦いで討死したと思われますが、関ヶ原の戦いで左近の遺体は確認されなかったことから戦線離脱・逃亡説というのは江戸時代からあったようです。岩手県陸前高田から長崎県対馬まで全国各地に左近の墓と伝わる墓が存在しています。

京都市上京区の立本寺・塔頭「教法院」に位牌が安置され過去帳も存在しているようです。墓も「教法院」の墓地内に有ります。墓石正面に「妙法院殿嶋左近源友之(みなもとのともゆき)大神儀」、裏面には「寛永九壬申六月二十六日歿(ぼつ)」と刻まれ、台石正面には「土葬」とあります。これらによると、左近は関ケ原合戦で討死したのではなく、合戦後32年も生きながらえ、寛永9(1632)年に亡くなったことになります。

【『立本寺』二つの伝説】

PA280210.jpg(妙見堂と刹堂、桜の名所だそうです。我が家の先祖も関係あるしまた行ってみたいですね。)

立本寺には「兜(かぶと)の御影」という伝説が残っています。戦国時代の有名な武将・松永久秀(まつながひさひで/別名・松永弾正)の家臣・佐々木博嗣が、戦の前に立本寺を訪れ、日蓮上人の坐像に自らの兜を被せて戦勝祈願をしました。そして、無事勝利を治められたお礼に祖師堂を建てたとも言われています。

また、「幽霊子育て飴」の伝説も有名です。江戸時代のある夕刻、東山の六道珍皇寺近くにある飴屋「みなとや」に、若い女性が現れました。店を閉めようとする店主に一文銭を手渡し、「飴をください」と言うのです。それから6日間、同じ時刻になるとその女性は一文銭を持って飴を買いに現れました。このお話小泉八雲も小説にしています。全国に有るんですね~。元はこの立本寺です。

【最後に一言】

冬なのに幽霊話、またまた~とお思いでしょうね~。実は「幽霊子育て飴」の証拠?が我が家にあります。見たいですか?見たいですよね~(笑)では次回ご紹介しましょう。

「関ケ原」の取材は「島左近の墓」で今回は終わりです。又取材を重ねて皆さんにご紹介する時が来ると思います。その時までSee you !


歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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