2017/12/07

関ヶ原の戦いはいかにして終わったのか?「それぞれの顛末」

こんばんわ~!今日は「関ヶ原の戦」の顛末や、西軍・東軍それぞれの武将後日談をご紹介いたします。今回の「関ケ原シリーズ」ともいえる一連の戦いは、私の取材に基づくと、室町時代創成期に起こった、足利尊氏と弟義直の戦い「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」に匹敵するものであり、後世『慶長の擾乱』と呼び変えられる可能性が否定できないほどの全国規模の大きな戦いでした。

「関ケ原」の戦いそのものは、徳川家康中心の東軍が、小早川秀秋の内通・裏切りによって形勢を一気に引き入れることに成功し、六時間という短時間で勝利を勝ち取りました。

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(不運の天才武将、石田三成図)

一部で「島津ののきぐち」といわれるような敗走時の戦闘は有りましたが、総崩れを犯した西軍は北國街道を伊吹山方面、あるいは中山道を西へ、一部は伊勢街道を通って自国の領土へ帰国を始めます。

勝ったとはいえ、全国でまだその火種はまだくすぶっている状態でした。家康はこの火種を絶やすために、粛々と戦勝軍としての行動を始めます。

西軍の首謀者とみられる三成や小西行長、宇喜多秀家には追手命令が下され、「関ケ原」では首実検(残酷なようですが、礼儀作法に基づいたものだったようです。)や論功行賞が始まります。

今回取材しながらご紹介で来ていない「関ケ原の闘い」の史跡跡や武将のその後もご紹介したいと思います。

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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【西軍逃走続編】

PA141108.jpg(伊吹山から関ケ原を望む①中央の山が毛利陣の南宮山)
PA141106.jpg(伊吹山から関ケ原を望む②天満山と奥に松尾山です)
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(観光協会の史跡巡り図)
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(東軍方面)
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(小早川秀秋の軍監として家康に遣わされた奥平貞治の墓)
PA141089.jpg(軍監にもかかわらず討たれている程大谷吉継の攻撃が激しかった証拠ですね)

西軍が壊滅する様を目の当たりにした南宮山の毛利勢は戦わずして撤退を開始します。浅野幸長・池田輝政らの追撃を受ますが、長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊の援護を受けて無事に戦線を離脱し、伊勢街道から大坂方面へ撤退しました。殿軍に当たった長宗我部・長束・安国寺らの軍勢は少なからざる損害を受けますが、退却に成功しています。安国寺勢は毛利勢・吉川勢の後を追って大坂方面へ、長宗我部勢と長束勢はそれぞれの領国である土佐と水口を目指して逃亡しています。

PA140805.jpg(井伊直政・松平忠吉陣の傍に東首塚が有ります。)
PA140806.jpg(史跡東首塚)
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(関ケ原の町の皆さんにより整備されています。)
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(東首塚説明版)
PA140757.jpg(西首塚・奥には胴塚とあります)
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(西首塚説明版)

家康は、翌日9月16日には裏切り組である小早川秀秋、脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠に石田三成の本拠である佐和山城攻略の先鋒を命じ、これに近江方面の地理に明るい田中吉政のほか軍監として井伊直政が加わり、2万を超える大軍を以って近江鳥居本へ進軍します。

佐和山城には三成の兄である石田正澄を主将に父・石田正継や三成嫡男・石田重家、大坂からの援兵である長谷川守知ら2,800の兵が守備しており、6倍以上もの兵力差に加えて御家安泰のために軍功を挙げねばならない秀秋らの攻撃を津田清幽らの奮戦で退けています(流石過ぎたるものの一つ名城佐和山ですね)。

正澄は家康の旧臣だった清幽を使者に降伏交渉に入ります。正澄の自刃、開城とひきかえに他の一族、城兵、婦女子を助命するという条件でまとまった交渉出したが、9月17日長谷川守知が寝返り、東軍の兵を引き入れ三の丸が陥落すると翌18日早朝に田中吉政隊が天守に攻め入り落城しました。

正澄ら三成の一族は自刃して滅びます。清幽は家康に違約を激しく詰問し、三成の三男佐吉をはじめとする生き残った者を助命させています。重家(三成嫡男)は脱出して京都妙心寺に入り、後に助命されて同寺へ出家させられました(以前人質として大坂城にいて助命と書きましたが混乱の時代ゆえお許しください)。

【家康さらに西へ進軍す】

家康は西軍の首謀者で、敗戦後逃亡し行方不明となっている石田三成や宇喜多秀家、島津義弘らの捕縛を厳命する一方で大坂城無血開城を行うべく、福島正則と黒田長政に西軍総大将である毛利輝元との、開城交渉を命じました。

家康は現在の近江八幡、日牟禮八幡宮で戦勝祈願の後、9月20日に京極高次の居城である大津城に入城し、しばらく留まっています。この間北陸方面の東軍総大将であった前田利長(利家嫡男)が、西軍に属した丹羽長重(丹羽長秀の長男)と青木一矩(末期の病床にあり10月10日死亡)の嫡男・青木俊矩を連れて合流しています。家康は両名の懇願を聞くことなく改易処分としました。

また家康が大津城に入城した同日に、中山道軍総大将であった徳川秀忠が合流します。真田昌幸に上田城で翻弄され本戦に間に合わなかった秀忠に対して家康は激怒していました。しばらく目通りを許さなかったとも伝わります。榊原康政の必死の諫言により9月23日対面が叶っています。

【三成捕縛】

一方逃亡していた西軍諸将でしたが、まず9月19日に小西行長が竹中重門(半兵衛嫡男)の兵に捕らえられ、草津に滞在中であった家康本陣に護送されました。

続いて三成が9月21日、近江伊香郡古橋村(後の高時村)において旧友である田中吉政の兵に逮捕されています。逮捕された場所は三成の領内であり、同地の農民が処罰を覚悟の上で匿っていました。しかし三成は逃亡場所が発覚したことを知ると、領民の処罰を考慮して、自ら吉政の兵に身分を明かし、捕縛されています。

捕縛された三成は9月22日に大津へ送られ、東軍諸将とここで再会しました。この時、福島正則は三成に罵詈雑言を浴びせ、黒田長政や浅野幸長は逆に三成に労りの声を掛けました。また小早川秀秋は三成に裏切りを激しく詰られたと伝えられています。このエピソードは映画「関ケ原」でも描かれ、原作司馬遼太郎の「関ケ原」下巻でも書かれていますので、次回エピソード特集として映画・本のお話を詳しくご紹介したいと思います。

9月23日には京都において安国寺恵瓊が奥平信昌の兵によって捕らえられ、大津に護送されました。この石田三成・小西行長・安国寺恵瓊の三名は、9月26日に家康が大津城から淀城に移動する際、大坂へ護送されました。五奉行の一人で関ヶ原本戦に参じていた長束正家は居城である水口城(滋賀県甲賀市)へ戻っていましたが、これを知った家康は池田輝政・長吉兄弟と稲葉貞通に水口城攻撃を命じ、9月30日に開城させています。

また細川忠興は家康の命を受け、父・細川幽斎の籠る田辺城を攻撃した総大将・小野木重勝が拠る丹波福知山城攻撃に向かっています。途中丹波亀山城において父と再会、丹後田辺城の戦いに加わりながら戦意を見せなかった谷衛友、別所吉治、川勝秀氏、藤掛永勝らを従え9月23日より攻撃を開始します。重勝は徹底抗戦の構えを見せましたが、井伊直政と山岡景友の説得により開城、城下の寺へ謹慎しました。

【家康の論功行賞】

家康は淀城を経て9月27日に大坂城に入城。豊臣秀頼や淀殿と会見した後、毛利輝元退去後の大坂城西の丸へ入り、井伊直政・本多忠勝・榊原康政・本多正信・大久保忠隣・徳永寿昌の6名に命じて、家康に味方した諸大名の論功行賞の調査を開始します。

9月30日、慶長出羽合戦を繰り広げていた上杉景勝の下に、ようやく西軍敗戦の報が伝えられ、長谷堂城にいた直江兼続は撤退を開始しています(長谷堂城の戦い)。

10月15日以降、論功行賞が順次発表されました。宇都宮城に拠って上杉景勝・佐竹義宣を牽制した結城秀康(家康次男)の67万石を筆頭に、豊臣恩顧の諸大名は、軒並み高禄での加増となっています。しかしいずれも西国を中心に遠国へ転封となり、京都・大坂および東海道は、家康の子供達や徳川譜代大名で占められました。

また豊臣氏の蔵入地(江戸時代の天領と同意で、豊臣時代は太閤蔵入地と呼ばれます)が廃止され、それぞれの大名領に編入されたことで、豊臣直轄領は開戦前の222万石から摂津・河内・和泉65万石余りに事実上減封されています。

一方家康は自身の領地を開戦前の255万石から400万石へと増加させ、京都・堺・長崎を始めとする大都市や佐渡金山・石見銀山・生野銀山といった豊臣家の財政基盤を支える都市・鉱山も領地としました。また豊臣恩顧の大名が家康の論功行賞によって加増された事は、彼らが豊臣家の直臣から切り離され、独立した大名家となった事を意味しています。これにより徳川家による権力掌握が確固たるものになり、徳川と豊臣の勢力が逆転することに成りました。

ただし以前は、この一連の論功行賞で豊臣家が一大名の地位に陥落したとする学説が一般的でしたが、豊臣家がなお特別の地位を保持して、徳川の支配下には編入されていなかったとする説が現在では一般的と成っています。

【三成処刑時も尊厳を失わず】

CIMG81499516.jpg(京都建仁寺にある安国寺恵瓊首塚)

10月1日、大坂・堺を引き回された三成・行長・恵瓊の3名及び伊勢で捕らえられた原長頼(関ケ原参戦を目指すも敗北を知り、敗走し、10月13日に自害したとも言われます。享年57。)は京都六条河原において斬首されました。首は三条大橋に晒されました。
三成斬首は三成成りの関ヶ原戦の正統性を主張するエピソードでもありますので、こちらも次回ご紹介いたします。

10月3日には長束正家と弟の直吉が自刃し、やはり三条大橋に首を晒されています。福知山城を開城した小野木重勝は、直政や景友の助言によって、一旦は出家ということで助命が決まりかけたが、細川忠興が強硬に切腹を主張し、重勝は10月18日に丹波福知山浄土寺で自刃しました。一説には父の面前で自刃させたとも伝えられています(忠興意外と残忍ですね。愛する妻・ガラシャが死んだとはいえ、ちょっとひどいかな?)。この他赤松則英、垣屋恒総(私の故郷、日高町を本拠にしていた但馬四天王の一人です。)、石川頼明、斎村政広などがこの10月に自刃を命じられています。

家康の弾劾状に署名した残りの五奉行、増田長盛と前田玄以については、両名とも東軍に内通していたが、長盛は死一等を減じられましたが武蔵岩槻に配流。玄以は所領の丹波亀山を安堵されるという、両極端な処分が下されました。

一方、西軍副将を務めた宇喜多秀家は、家康から捕縛を厳命されましたが、薩摩へ逃亡を果たしていました。島津と家康の和睦により、秀家は家康に引き渡され、前田利長と忠恒による助命嘆願により死罪を免れて1606年(慶長11年)八丈島に流罪となっています。

【大坂城開城と毛利氏の処分】

吉川広家や毛利秀元ら毛利一族、福原広俊ら毛利家臣団の反対を押し切り、三成と彼の意を受けた安国寺恵瓊の要請によって、西軍の総大将に就任した毛利輝元でしたが、関ヶ原の敗北後もなお秀頼を擁して大坂城に滞在していました。立花宗茂は大坂城に籠城しての徹底抗戦を主張しており(『立斎旧聞記』)、秀頼の命と称して篭城抗戦が行われる可能性も残されていました。

家康は大野治長を大坂城に遣わし、秀頼と淀殿が今回の戦に関係あるとは家康は全く思っていないと説得させました。淀殿は礼の手紙を持たせて大野を送り返しています。

一方で、関ヶ原本戦において功のある吉川広家が「輝元の西軍総大将就任は本人の関知していないところである」と家康を説得し、家康はその説明に得心したと回答しています。これを知った輝元は、福島正則と黒田長政の開城要求に応じてしまいます。

さらに家康家臣の本多忠勝と井伊直政が、家康に領地安堵の意向があることを保障する起請文を輝元に差し出し、それと引換えに、輝元は9月24日に大坂城西の丸を退去しました。27日、家康は大坂城に入城して秀頼に拝謁し、西の丸を取り戻して秀忠を二の丸に入れています。

しかし10月2日、家康は、黒田長政を通じ広家に対し、実際には輝元が積極的に西軍総大将として活動していたという証拠(諸大名への西軍参加を呼びかけた書状の発送、伊予において河野通軌ら、河野氏遺臣に毛利家臣である村上元吉を付けて、東軍・加藤嘉明の居城である伊予松前城攻撃に従軍させたこと、大友義統を誘い軍勢を付けて、豊後を錯乱したことなど)が多数発覚してしまいます。

家康は広家の説明は事実ではなかったことが明らかだとして、所領安堵の意向は取り消して「毛利家は改易し、領地は全て没収する」と通告しています。その上で広家には彼の「律儀さ」を褒めた上で、「律儀な広家」に周防国と長門国を与えて西国の抑えを任せたいという旨を同時に伝えています。

毛利氏安泰のための内応だったにも関わらず、その努力が水泡に帰した吉川広家は進退窮まる形になりました。謀反人の宿老であるにも関わらず「律儀さ」ゆえに彼のみは破格の扱いを受けるという形になった以上、今更「輝元の西軍への関与は知っていたが、自分の努力でなるべく動かないようにさせたので免責してほしい」などと前言を翻し実情を述べて交渉することもできなくなってしまいます。

そのため、自分自身に加増予定の周防・長門(現在の山口県)を毛利輝元に与えるよう嘆願し、本家の毛利家を見捨てるくらいなら自分も同罪にしてほしい、今後輝元が少しでも不届きな心をもてば自分が輝元の首を取って差し出す、という起請文まで提出しています。

家康としても、九州・四国情勢などの不確定要素がある以上は毛利を完全に追い詰めることは得策ではないと考え、吉川広家の嘆願を受け入れ、先の毛利氏本家改易決定を撤回し、周防・長門29万8千石(現在の山口県)への減封とする決定を10月10日に下しました。さらに本拠地を毛利氏が申請した周防山口ではなく、長門萩にするよう命じました。輝元は出家し、家督を嫡男である毛利秀就に譲り隠居す事に成りました。

毛利領が、安芸ほか山陽・山陰8か国(112万石)から防長2か国(29万8千石、のち高直しにより36万9千石)まで一気に減らされたことから、吉川氏に対し毛利本家は、残された毛利領より3万石(岩国領、後に高直しして6万石)を割き与えたものの諸侯待遇の推挙を幕府に行わない仕打ちを行っています。

しかし吉川広家の功績を知る幕府は、吉川氏を諸侯並みの待遇とし、当主は代替わりに将軍への拝謁が許されるという特権を与えて、吉川広家の功に報いました。本家の為を考えた広家ですが、結果は皮肉なものになりました。広家の行動が無ければ、毛利将軍家と成っていたかも知れませんね~残念ながら歴史にIFは有りません。

【上杉氏・佐竹氏の処分】

10月に毛利氏の処分が決定し、11月には島津氏が謝罪したことにより、西軍に加担した大大名で処分が未決となっているのは、関ヶ原の導火線となった上杉征伐の張本人である上杉景勝と、態度を曖昧のままにしていた佐竹義宣の2人となりました。

景勝は最上軍と長谷堂城を中心に激戦を繰り広げましたが、9月30日に西軍敗走の一報が伝えられると撤退しています。

勢いづいた最上義光は庄内へ攻撃を開始、伊達政宗も10月6日より桑折への侵攻を開始しています。景勝は防戦する一方で家中に今後の対応を協議しました。この中で直江兼続や甘糟景継、竹俣利綱らは徳川との抗戦を主張するが、本庄繁長や千坂景親らは和睦を主張しています。最終的に10月23日に和睦の方針が決定され、主君の意を汲んだ兼続は主戦派の「江戸へ南下するべし」との意見を退けました。

交渉には本多正信と親交の深い千坂景親と和睦を主張した本庄繁長が任命され、以後正信を始め東軍の対上杉防衛軍総大将であった結城秀康、本多忠勝、榊原康政らに取り成しを依頼しています。彼らの取り成しにより、当初領地没収を予定していた家康も、次第に態度を軟化させていきました。

年が明けた1601年(慶長6年)7月1日、千坂・本庄両名の報告などから和睦が可能となったことを受け景勝は兼続と共に上洛し、秀頼への謁見後、8月8日結城秀康に伴われて伏見城の家康を訪問し謝罪しています(『上杉家御年譜』)。

上杉氏への処分は1ヶ月ほど経った8月16日に言い渡され、陸奥会津120万石から75%減の出羽米沢30万石(出羽置賜1郡および陸奥伊達・信夫2郡)へ減封となります。景勝はこの時「武命の衰運、今において驚くべきに非ず」とだけ述べ、11月28日に米沢へ移動し。ました

一方、佐竹義宣は、三成との親交から西軍への加担を決め、景勝と密約を結び、上杉領内に入った徳川軍を挟撃する方針を採っていた。このため上杉征伐では動かず、与力大名である岩城貞隆、相馬義胤、多賀谷重経もこれに同調しました。しかし佐竹家中では父である佐竹義重、弟の蘆名義広、佐竹氏家臣筆頭である佐竹義久が東軍徳川方への加担を主張します。

特に父・義重は、東軍への加担を強く主張し、これに抗し切れない義宣は、佐竹義久を中山道進軍中の徳川秀忠軍へ、兵300と共に派遣するという、曖昧な態度を取っています。しかし家康はすでに佐竹氏の動向を疑っており、松平信一や水谷勝俊などを佐竹監視部隊として国境に配置し、秀忠も義久ら派遣部隊を、謝絶しました。

西軍敗北後、父・義重はただちに家康に戦勝を祝賀する使者を送り、さらに上洛して家康に不戦を謝罪した。しかし義宣は居城である水戸城を動かず、そのまま2年が経過しました。上杉氏、島津氏の処分も決定し、処分が済んでいないのは佐竹義宣のみとなってしまいます。その上、謝罪すら行っていませんでしたが、それでも義宣は動きません。しかし、義重の説得により1602年4月に上洛し、ようやく家康に謝罪したといわれます。

しかし家康は義宣の観望について『寛政重修諸家譜』の中で「上杉景勝より憎むべき行為」として厳しく非難したと記載されえいます。死罪は許されましたが、常陸一国など、佐竹氏勢力の54万石は没収され、出羽久保田に20万石格での減転封となりました。また与力大名である岩城・相馬・蘆名・多賀谷の各大名も改易となっっています。義宣はわずかな家臣を連れて久保田へ移動しています。佐竹氏の石高が確定するのは2代藩主・佐竹義隆の代になってからです。

【最後に織田氏の処分】

CIMG153645987.jpg(兵庫県柏原市勲君神社、京都はお詣りしましたが山形はまだです。)

織田信忠の遺児で、幼名三法師とよばれていた織田家嫡流の織田秀信は改易となり岐阜城を追われ高野山に追放となりました。

おなじく織田秀雄も改易され江戸に居住することを命じられましたが、父に先立ちて夭逝。織田信雄も改易となりましたが後に許され大和で大名となっています。信長・信雄の子孫は、天童藩2万石と柏原藩2万石(信長の弟・信包立藩、後天領、再立藩)の2家が明治に至っています。

因みに、織田信長を祀る勲君神社は全国に三社のみ、京都と山形県の天童市・兵庫県柏原市に在ります。さらには七男織田信高の家系、1616年(元和2年)1月、嫡男高重は幕臣として召し出されて近江・安房に2000石を与えられました。高重の孫信門は高家となり、以後、同家は明治維新まで高家旗本として存続しています。尚、フィギュアスケート選手織田信成さんは信高系の旗本織田家の末裔であると称しておられますが、それを客観的に裏付ける証拠はないそうです(残念ですね)。

【最後に一言】

佐竹氏の減転封が決定されたことで関ヶ原における一連の論功行賞と西軍諸大名への処罰は終了しました。1603年(慶長8年)、家康は征夷大将軍に任命され江戸幕府を開きます。

西軍に加担した大名の中には明治維新まで存続したものも多く、島津氏の薩摩藩や毛利氏の長州藩は倒幕に活躍しています。関ケ原の恨みを、明治維新でと言えるのかもしれません。

しかし、領地を没収された西軍加担大名及びその家臣の多くは浪人となります。幕府旗本や諸藩の藩士として天寿を全うする者もいましたが、長宗我部盛親や毛利勝永(毛利勝信嫡男)、真田信繁(真田昌幸二男・幸村)、大谷吉治(大谷吉継嫡男)などは、10数年後の大坂の役で豊臣方の浪人衆として幕府軍と戦い、戦死することになります。

「関ヶ原」の勝負の分かれ目は、他人のために死ぬ事の出来た三成と、自分のためだけを考えて生き抜いた家康の生への執着心の違いかもしれませんね。

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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