2017/12/05

西軍の敗北決定!「鬼島津・島津義弘」の戦いが今始まる!

「関ケ原開戦」シリーズ第四弾、ついに決着、私的には非常に残念なのですが(家康ファンの皆さんご免なさい!)、小早川隊の寝返りによる大谷隊の壊滅により、旗本中心の家康本隊も動き出し、東軍は西軍に最後の猛攻撃をかけます。

宇喜多隊は小早川隊などを相手に奮戦しますが、やがて3倍以上の東軍勢の前に壊滅してしまいます。宇喜多秀家は善戦むなしく、北国街道を敗走します。宇喜多隊の総崩れに巻き込まれた形の小西隊も壊滅し、小西行長も同じく北国街道を北に逃れます。

石田隊も東軍の攻撃を相手に戦闘を続けましたが、島・蒲生・舞などの重臣が討死したことにより壊滅し、三成も伊吹山方面へ逃走しました。

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(こんな穏やかな顔ですが、鬼島津こと島津義弘なんです。)

このような状況の中で、鬼島津こと島津義弘率いる島津隊は取り残され敵に包囲される状況に陥ります。ここにおいて、島津勢の敵中突破退却戦、いわゆる「島津の退き口(捨て奸・すてがまり)」が開始されます。後の薩摩藩島津家、明治維新にまで影響を及ぼしたと語り継がれる名場面です。

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CROOZ


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(凄い!島津の退路を毎年青少年が大阪まで歩くんだって。完歩すると後ろの石碑に名前を刻んでもらえる。)
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(灯篭にも丸に十の島津紋)
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(状況を見ていた義弘、守備のみの戦いに徹していました。)
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(島津義弘陣地跡)
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(島津ファンが多いのか?薩摩の人が訪れるのか?ほかの陣地よりも盛りが多いんですよね、笑)

【退き口って何だ?】

戦国時代を主にした、撤退戦(退却戦)の方法、あるいはその戦いそのものを意味します。有名なのは、織田信長軍が朝倉義景軍との戦いの最中、浅井氏の離反に遭って撤退した「金ヶ崎の退き口」、三方ヶ原の前哨戦で、徳川家康を護った本田忠勝の「一言坂の戦い」、直江兼続と前田慶次(事実よりも漫画の中で有名かもしれませんが?)が参加した「長谷堂城での戦い」、そしてこの関ケ原において、島津義弘軍が行った「島津の退き口」が有名です。と言いますか?それ以外の例はネットで探しても見つかりません。それほど、負け戦の中で勢いづいた敵に背中を見せて逃げるということは至難だと言わざるをえません。

殿(しんがり)は撤退する軍勢の最後尾に位置して、追撃してくる敵軍に効果的な迎撃を加えながら、味方の軍勢が安全な場所まで逃避出来る時間を稼ぐ部隊の事です。殿の第一目的は主君を無事に逃がすことであり、そのため殿を引き受けた部隊は命懸けで敵軍を阻止し、追撃してくる敵と交戦しながら本隊を無事に退却させなければなりません。

最悪の場合、殿を引き受けた部隊はが全滅することも多く、非常に難しく危険の大きい任務でした。従ってこの任務を遂行するには、「主君のために死ねる」という確固たる意思がなければ務まらず、自らこの任務を引き受けようとする者は少なかったようです。

しかしながら視点を変えると、殿は負け戦の中で功名を立てるチャンスであり、信長軍が朝倉、浅井軍の挟み撃ちにされそうになった「金ヶ崎の退き口」でも、殿を務めた秀吉は功名を立てるチャンスとばかり、最も危険な殿の役目を引き受けたのでしょう。

【殿の作戦はどんなもの】

「金ヶ崎の退き口」の殿作戦は、複数の殿部隊が交互に追撃してくる敵を撃退しながら退却する戦法です。秀吉は金ヶ崎城に立て籠り砲隊で朝倉勢を撃退し、城を出て家康に追いついて、光秀とともに峠の山道で敵を引きつけては銃撃を加えて敵の追撃を振り切り、退却に成功。この例は「長谷堂城での戦い」で、直江兼続も採用しています。

「一言坂の戦い」では、退却する本多・内藤隊が一言坂で武田軍に追いつかれ、内藤隊ら先発隊は挟み撃ちに遭いますが、本多忠勝が単騎で敵中に馬を進め、鬼気迫る忠勝に武田軍はたじろき、さらに忠勝は民家に火を放って味方の退却を促し、忠勝に威圧された武田軍はひるんで道を開けたところを、徳川全軍が一気に走り抜けて撤退に成功しています(「名将言行録」にある逸話で、誇張があると思われます)。

羽柴秀吉・徳川家康・明智光秀・本多忠勝・直江兼続・前田慶次、皆さんこのメンバーがいかに優秀な人物達かご存知ですよね。つまり、だからこそ成功したのです。

【鬼島津「島津義弘」中央突破の退却を決意す】

東軍に囲まれ孤立した義弘は「敵はいづかたが猛勢か」と家臣に問いかけます。問われた家臣は「東よりの敵、もってのほか猛勢」と応じました。東には家康の本陣が居ます。この時義弘の心は決まります。「その猛勢の中に、あい駆けよ~~!」と突撃を命じました。

島津義弘隊(1588)『日本戦史 関原役』が鉄砲を放ち、正面に展開していた福島隊の中央に突撃を開始します。西軍諸隊が壊滅逃亡する中での反撃に虚を衝かれた福島隊は混乱し、その間に島津隊は福島隊強行突破に成功します(福島正則の軍勢と数メートルの距離まで接近しますが、福島勢は決死の島津勢との戦闘を避け、攻撃をせずに傍観します。)。更に寝返った小早川隊をもかすめ抜け、家康旗本の松平忠吉・井伊直政・本多忠勝の3隊に迎撃されますがこれも突破します。

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(松平忠吉・井伊直政陣跡、東首塚と同じ場所です。)
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(古い石柱と新しい説明版が丁寧ですね。)
PA140829.jpg(こちらはあの本田忠勝陣地ですが、忠勝は軍監として500の兵しかともなっていませんでした。余裕?)
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(下に書いてある通りの姿でドラマに登場するので分かりやすいキャラ設定です。)
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(忠勝陣所跡、ボランティアのおばさまが説明してくださいましたが、ごめん!知ってます。笑)


この時点で島津隊と家康本陣までの間に遮るものは無くなっています。島津隊を見た家康は、迎え撃つべく床几から立ち、馬に跨って刀を抜いたといわれます。しかし島津隊は直前で転進、家康本陣をかすめるように通り抜け、正面の伊勢街道を目指して撤退を開始しました。

松平・井伊・本多の徳川諸隊は島津隊を追撃しますが、島津隊は「捨て奸戦法」を用いて戦線離脱を試みます。島津隊将兵の抵抗に、追撃した井伊直政が狙撃されて負傷し後退(この傷が元で井伊直政は二年後死没します)。この際島津方では島津豊久(義弘の甥)、阿多盛淳が戦死しています。

次に追撃した松平忠吉は申の中刻に狙撃されて後退(『関ヶ原合戦進退秘訣』)、負傷しています。本多忠勝は乗っていた馬が撃たれ落馬して追撃をやめます。徳川諸隊は島津隊の抵抗の凄まじさに加え、指揮官が相次いで撃たれたことと、すでに本戦の勝敗が決していたこと、また家康から追撃中止の命が出たことなどから深追いを避けたと思われます。

一方の島津隊は島津豊久・阿多盛淳・肝付兼護ら多数の犠牲者を出し、兵も80前後に激減しながらも、殿軍の後醍院宗重、木脇祐秀、川上忠兄らが奮戦し義弘は撤退に成功しました。盛淳は、義弘がかつて秀吉から拝領した陣羽織を身につけ、義弘の身代わりとなって切腹したと言われています。島津家は下馬して踏み止まり奮戦した5人に「小返しの五本鑓(こがえしのごほんやり)」の顕彰を与えています。

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(とても分かりやすい地図です。薩摩への愛情感じさせていただきました。)

地図をお借りしました。ありがとうございました。">

【一死一殺の「捨て奸(がまり)戦法」とは】

「捨て奸(すてがまり)」は、最後尾の何人かが点々と敵前に散って敵を待ち、敵が接近すると銃撃して敵を倒して本陣に戻って次の射撃の準備をし、その間に別の捨て奸が留まって敵を待つという戦法です。「島津の退き口」関ヶ原の戦いの退却時に敵中突破の手段として島津義弘が用いたことで知られています(座禅陣とも言われます)。

ただ関ケ原の島津軍は小勢であり、本隊が撤退する際に「殿の兵の中から小部隊をその場に留まらせ、追ってくる敵軍に対し死ぬまで戦い、足止めする作戦に成っています。そうして小部隊が全滅するとまた新しい足止め隊を退路に残し、これを繰り返して時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせる」という戦法を用い、足止め隊はまさに置き捨てであり生還する可能性がほとんど無い、壮絶なトカゲの尻尾切り作戦に成りました。

西軍方が崩壊し、周りが徳川方の敵だらけの中で陣を引くにあたり、すでに300程に減っていた兵数で「捨て奸戦法」を用いて伊勢街道経由で戦場から撤退しました。それは敵に視認しづらくするのと射撃時の命中率向上の為に、退路叢に点々と配置しておいた数人ずつの銃を持った兵達を、あぐらをかいて座らせておき、追ってくる敵部隊の指揮官を狙撃してから槍で敵軍に突撃するという壮絶なものでした。、

【生還率5パーセントの帰還】

それでも島津兵の士気は高く、「捨て奸戦法」に志願しない者の方が少ないくらいであったといわれます。その後、伊賀を越えて境の港まで行き、ここで義弘は冷静に大坂城の人質となっていた妻子を助け、船で薩摩に着いた時、義弘に従ったのはわずか 80人でした。

この義弘に対する兵士の忠義は何処から生まれたものでしょう。いくつかの逸話がそれを語っています。『身分の上下にかかわらず』秀吉が始めた朝鮮出兵は寒さが厳しく、日本軍では凍死者が続出したといわれます。しかし島津隊には一人の凍死者も出ませんでした。加藤清正は不思議に思い、義弘の陣を訪れます。兵営では身分の上下に関わらず一緒に暖を取って粥をすすっていました。義弘は兵士と寝食を共にして、夜は3回程陣中を巡って火が不足していないか気を配っていました。これを見た清正は深く感じ入ったといわれています。

『為高麗國在陣之間敵味方戦死軍兵皆令入佛道也』朝鮮出兵から帰還した義弘が紀州高野山に建立した供養碑の碑文で、朝鮮の戦いで死んでいった者は敵も味方も平等に供養するという内容です。この供養碑は後に日本が国際赤十字に加入を認められる決め手となりました。

【島津は領地を失わなかった】

「関ケ原」の後、九州は島津討伐の機運が最高潮に達しましたが、島津義弘が家康に謝罪の使者を送ったため、島津征伐は中止となりました。

以降、家康と島津氏の間で交渉が行われましたが、義弘は退却戦において傷を負わせた、井伊直政に仲介を依頼しました。
直政は、この仲介要請を快諾し、以降徳川方の仲介役として島津氏との交渉に当たりましたが、島津側の窓口は義弘ではなく、
兄の当主島津義久、及び養子である島津忠恒が受け持ちました。

家康は義弘上洛の上で謝罪することを再三迫ったが、義久・忠恒は、本領安堵の確約がない限りは上洛には応じられないとしてこれを拒否します。交渉は長期化しました。島津側は家康に対し、そもそも家康の要請で義弘が伏見城守備に就こうとしたが、鳥居元忠に拒絶されたために止む無く西軍に加担したのであり、積極的な加担ではないと主張しました。

その後二年にわたり交渉は続けられたが、のらりくらりと逃れる義久に、最終的に家康が折れる形で直筆の起請文を書き、1602年(慶長7年)3月に薩摩・大隅・日向諸県郡60万石余りの本領安堵が約束されました。本領安堵決定後、島津家は義久の名代として忠恒が12月に上洛し、謝罪と本領安堵の御礼を家康に伝え、島津氏も徳川氏の統制下に入りました。

結果から見れば、交渉の長期化を避けたい家康の心理を逆手に取った義久の巧みな外交手腕が、島津氏の本領安堵に結びついた、島津側の交渉の「粘り勝ち」と言えます。この家康の安易な妥協が250年後明治維新での徳川敗北への階段の一歩だったとは歴史とは皮肉なものですね。

【最後に一言】

今日は島津の良い所ばかりを書いてきました。ですが最後にこれだけは皆さんに知っておいていただかなくてはいけません。それは、『琉球侵攻(りゅうきゅうしんこう)』です。薩摩藩が1609年に行った、琉球王国(中山)版図に対する軍事行動を指します。対する中山王府は、一貫して和睦を求める方針をとり、全面的な抵抗を試みることは有りませんでした。

発端は1602年、仙台藩領内に琉球船が漂着しましたが、徳川家康の命令により、1603年に琉球に送還されました。以後、薩摩を介して家康への謝恩使の派遣が繰り返し要求されたが、中山王府は最後までこれに応じませんでした。1608年9月には、家康と徳川秀忠が軍船を出そうとしていると聞いた島津家久が、改めて使者を遣わして、尚寧王及び三司官に対し、家康に必ず来日して礼物を献じるするよう諭したが、琉球側は応じませんでした。

こうして遂に、琉球征伐の御朱印が、薩摩に下る事となりました。日本側の資料は幕府とその命を受けた島津氏による「琉球征伐」と位置づけています。1610年、尚寧は、薩摩藩主島津忠恒と共に江戸へ向かいました。途上の駿府で家康に、8月28日に江戸城にて秀忠に謁見しています。忠恒は、家康から琉球の支配権を承認されたほか、奄美群島を割譲させ直轄地としました。この事実は是非皆さんには覚えていてほしいです。

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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