2017/12/03

「関ケ原」に二柱の烽火が上がり問鉄砲が火を噴く、ついに動くか『小早川秀秋』

「関ケ原開戦」シリーズ第三弾、ついに家康の問鉄砲が火を噴きます。決めかねていた「小早川秀秋」に決断の時が迫ります。
秀秋はどちらを選択したのか?皆さんもうご存知ですよね~(笑)


さて今日は前回の続きとして、西軍諸将の数的な不利にもかかわらず驚異的な健闘により持ちこたえていた前線に決定的な不運がやって来ます。西軍が健闘していた午前10時頃から正午の問鉄砲直後までをお話させてください。

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(男が惚れ込む大谷吉継)

頑張れ西軍!頑張れ三成!まだ南宮山には毛利秀元(15000)長宗我部盛親(6600)が居る。松尾山の小早川秀秋15000が徳川の側面を突けば勝利はこっちのものだ~。「もう少しの辛抱だ~」と声をかける市郎右衛門です。

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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【互いの狼煙】

PA140692.jpg(煙出てるの分かりますよね~西軍の狼煙写真紛失、涙)
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(東軍烽火ばまであと少し。ちょっと登ります。)
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(烽火場=黒田・竹中陣地です。)
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(東軍岡山烽火場)
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(黒田長政・竹中重門、の幼馴染コンビ陣です。)

動けなかった、毛利秀元(15000)長宗我部盛親(6600)長束正家(1500)安国寺恵瓊(1800)らは、家康との密約で本家毛利の所領安堵を約束していた吉川広家(3000)によって道をふさがれ後方の四部隊は戦闘参加出来ませんでした。これはのちに、秀元宰相殿の空弁当として逸話に成っています。結局、最後まで南宮山の毛利軍ら33000もの大軍は参戦出来ませんでした。

動けるのは松尾山の小早川秀秋(15000)です。秀秋が乱戦の側面を突けば、勝負はどちらに動くかわからない状態でした。そんなんな中先に動いたんのは三成です。午前10時過ぎ、三成は秀秋に戦闘参加の狼煙を自陣前方で上げます。松尾山の小早川陣は高地に位置し、関ケ原全体を見渡せるばかりか、武将陣地も見渡せる場所にあります(今回は時間の関係で松尾山陣地までは登れませんでした)。

一方東軍も秀秋の寝返りを促す狼煙を、黒田長政と竹中重門が上げます。二人は黒田官兵衛と竹中半兵衛という「両兵衛」とうたわれた秀吉政権の名参謀二人の嫡男で幼馴染でもありました。重門は当初は西軍に属していましたが、井伊直政の仲介で東軍に鞍替えし、黒田長政軍に合力して激戦地で奮戦し、さらに戦後まもない9月19日(10月25日)、伊吹山で、西軍の武将・小西行長を捕縛するなどの大功を挙げています。

【ついに撃たれた問鉄砲】

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(松尾山小早川陣地まで十丁)
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(小早川秀秋陣地。ここは松尾山の下に成るので本人はもっとお山の上だったと思います。)
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(同じく呼応して寝返った脇坂安治陣、賤ヶ岳七本槍の気概はどこへやった~~!)

家康は内応を約していた小早川秀秋隊が、松尾山の山奥に布陣したまま動かないことに業を煮やし、正午過ぎには松尾山へ向かって威嚇射撃を加えるように命じます(問鉄砲)。この家康の督促によって東軍に与する事を決断した秀秋は、松尾山を降り小早川隊15000の大軍は、ようやく東軍に寝返ったといわれていますが、一部の歴史家は当時の信用できる史料で威嚇射撃は裏付けることはできないとして、家康は小早川軍に鉄砲を撃ち込ませてはいないとしています。

その理由として地形上の疑問点を上げています、轟音が響き渡り、黒煙が視界を塞いでいる中で、家康が打ちかけた鉄砲だけを、松尾山で識別できるはずが無いというものです。当然家康が打った鉄砲だけを峻別するのは無理だったと思われますし、現地を見た私には、家康の陣地から鉄砲を撃っても、到底秀秋の松尾山に弾が届く距離だとは思えません。家康が打った鉄砲は小早川の寝返りを促したというより、小早川隊に西軍を攻めよとの合図のようにも受け取られています。

前回も御紹介いたしましたが、小早川秀秋隊が最初から寝返っていた場合は、問鉄砲自体の存在が有りえない事に成っていきます。

なお、小早川隊の武将で先鋒を務めた松野重元は「盾裏の反逆は武士としてあるまじき事」として秀秋の命令を拒否・離反・出奔しています。しかし、このことが豊臣家を裏切らなかった忠義者としての評価を受け、戦後は田中吉政に仕官しています。

【盾裏の反逆か、帰り忠?小早川秀秋動く】

PA140928.jpg(ここから大谷吉継は松尾山の情勢を見ていました。裏切られた時の気持ちはいかばかりか?)
PA140927.jpg(松尾山が良く見えますね頂上付近の白旗が秀秋の陣です。)
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(名前のサインは全て吉継としているが吉隆が本名とも言われます。同一人物です。)

小早川隊は山を駆け降りると、東軍の藤堂・京極隊と戦闘を繰り広げていた大谷隊の右翼を攻撃します。大谷吉継は、かねてから風聞のあった秀秋の裏切りを予測していたため、温存していた600の直属兵でこれを迎撃し、小早川隊15000を松尾山の麓まで押し返しています(大谷吉継に愛すら感じる)。

ところが、それまで傍観していた脇坂安治(賤ヶ岳七本槍の一人)、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱ら(秀秋の黒田長政ルートではなく藤堂高虎ルートで内通を約束していました)計4,200の西軍諸隊も、小早川隊に呼応して東軍に寝返り、大谷隊の側面を突きました。予測し得なかった四隊の裏切りで戦局は一変、戸田勝成・平塚為広は戦死し、吉継も自刃しています。

「うんちく『戸田勝成』」織田長孝(とその父の織田長益(有楽斎))は勝成を討ち取る功を挙げ、徳川家康の前での論功行賞の際、長孝が勝成を討ち取った際に使用した槍が披露されたが、家康家臣が誤って槍を取り落とし、家康の指から血がしたたり落ちました。家康は「この槍は尋常の槍ではない。作は村正であるか。」と聞き、有楽は「村正」の作であると答えます。

退出した有楽は、近習から徳川家と村正の因縁を聞き、「内府(家康)の御味方である自分が村正を使うべきではない」と槍を微塵に砕いたといわれます。この話は、「妖刀村正」などと呼ばれ、徳川家に災いを成すと巷談で語られる村正伝説の数あるうちのひとつとなっています。

また勝成は織田長孝ではなく津田信成であったとする異説もあるようです。なお、有楽・信成は共に勝成の友人でした。『武功雑記』によれば、勝成は東軍の諸大名にも親交のある者が多く、その死を聞いて皆涙したといわれています。

「うんちく『平塚為広』」徳川家康に対して挙兵しようとする三成を大谷吉継と共に佐和山城にて諫言したが聞き入れられず、西軍に与することとなりました。大力で、薙刀の名手といわれた為広ですが、20000ともいわれる敵兵の中で孤軍奮闘しますがついに力尽きます。そして親友大谷吉継に敵将の首と一緒に辞世の句を送りました。

攻めるも退くもままならなくなった吉継の元に、為広からの使者が到着します。手紙には辞世の句が書かれていました。
「君がためすつる命は惜しからじ 終(つひ)にとまらぬ浮世と思へば」(主君を同じくし友誼を結んだ君のためになら、命を捨てるのも悪くない。この世で永遠に生きられるわけでもないのだから)書いていて涙が止まりません。

命を惜しまず、爽やかささえ感じるこの句を見て、吉継も覚悟を決め、返歌として次のように詠んでいます。
「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」(もしあの世でも縁があるとしたら、死後の世界の入り口で待っていてくれ。遅かれ早かれ、私もそこへ行くだろうから)なんていい人たちなんだ~涙!こんな素晴らしい人達の努力でつくられた日本という国に生まれて、なんて幸せな私なのだと思います。ちょっと30分いえ10分だけ泣かせてくださいね。

PA140976.jpg(この奥の小高い丘に陣を構えました。)
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(同じく吉継に準じたと言えるかも、薙刀の名手、平塚為廣碑)
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(大谷吉継の墓です。吉継の首は側近である湯浅隆貞の手により関ヶ原に埋められたまたは部下が持ち去ったとも言われます。)


宣教師のフェルナン・ゲレイロはその報告の中で奉行(石田三成)側の軍勢中には裏切り行為によってざわめきが起きて陣列の混乱が続いたと述べています。

大谷隊を壊滅させた小早川、脇坂ら寝返り部隊や、藤堂、京極などの東軍部隊は、宇喜多隊に狙いをつけ、関ヶ原中央へ向け進軍を始めます。ここに関ヶ原の戦いの勝敗は、ほぼ決しました。

【最後に一言】

確かに未来永劫戦争などという野蛮な行為は無いに越したことはありません。しかしながらこれまでに起きてしまった戦争(争い)においては、勝った者のの言い分だけが正しいわけではありません。負けた側にも勝った側と同じく正論が有ります。勝った者が作った歴史を眺めているだけでは、真の歴史には触れることが出来ません。敗者側の歴史に触れることで本当の歴史認識が培われるのだということを是非覚えていてほしいですね。

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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リュミエールブラン ネージュ

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