2017/11/30

天下分け目の『関ヶ原の戦』は朝八時にこの場所で始まった!

「関ヶ原」開戦シリーズ第2弾!「戦闘はこの場所から始まった。」9月15日早朝8時、垂れ込めていた霧が少しずつ消え始めた頃、井伊直政隊が緊張に耐えかねて、先走って抜け駆け戦闘を起こしてしまいます。歴史学者によると、抜け駆け行為は霧の中での偶発的な遭遇戦という形をとっており、戦闘開始はそれに続く福島正則の宇喜多隊に向けた銃撃戦とされています。

これは、家康から諸将に七月七日付で出された軍法の第四条で抜け駆けを厳禁の決めを破った事に成ります。この合戦に就いては先陣が福島正則と決まっていました。

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(史跡関ケ原古戦場 開戦地・井伊家の井戸囲いと福島の桐)


しかし、合戦開始時においても、合戦後においても福島正則から井伊直政に対して何らの抗議は示されておらず、井伊隊の開戦時における行為は、かなり抑制されたものであって、福島隊の名誉を傷つけないように配慮されたものだったと推測されます。

福島正則VS宇喜田直家の戦いで開始された「関ヶ原合戦」最初の二時間の様子を見てみましょう。新説では、小早川秀秋が最初から裏切っていた事で正午までの4時間で決着したとも言われてますが、ここでは通説の6時間で2時間区切りの三回で合戦をまとめたいと思います。

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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【開始2時間!早朝8時~10時】

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(西軍副大将宇喜多秀家陣所・秀吉の養子として波乱の人生を送ります。)
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(宇喜多秀家陣所跡の天満神社・父は秀吉を苦しめた直家です。)
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(こちらも秀吉の親戚筋何故こんなことになったのでしょう。)
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(福島正則は春日神社に陣を構えています。)
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(樹齢800年の大杉!ということは、「関ケ原」に有りました。関ケ原前回の屏風右側の一番左下に描かれています。)

前回も最後に書いた通り、開戦直後に激突した主な武将は以下のとおりです(Wikipediaの資料を参考に部隊人数も記載しておきます。ただし人数には諸説あるのでおおよそと考えてください)。

東軍・福島正則(6000)VS西軍・宇喜多秀家(17220)
東軍・藤堂高虎(2500)・京極高知(3000)VS西軍・大谷吉継・吉治(3100)
東軍・織田長益「信長の弟・有楽斎如庵」(450)・古田重勝(1200)VS西軍・小西行長(4000)
東軍・松平忠吉(3000)、井伊(3600)、本多忠勝(500)VS西軍・島津義弘(1588)
東軍・黒田長政(5400)、細川忠興(5000)VS西軍・島清興「石田三成隊先陣」(6900内)

東軍・福島隊と西軍の宇喜多隊の争いは、「福島家の旗と、宇喜多家の旗が双方とも二、三度も退却した」(『関ヶ原軍記大成』)という激しい戦闘でした。

石田隊には黒田隊、細川隊が攻めかかりました。石田隊は木柵、空堀からなる野戦陣地(本当に笹尾山だったのか?)で敵勢を防ぎつつ、鉄砲、大筒などを用いて、必死に東軍部隊を抑えています。黒田隊の精鋭別働隊狙撃兵15名が石田隊の先陣・島左近の右山手に迂回して狙撃!左近を負傷させ、石田隊の先陣が退却すると、一斉攻撃を加える黒田・細川隊に石田隊は大砲の発射で応戦しています。

やや遅れて大谷隊には藤堂隊、京極隊が襲い掛かります。兵力的には東軍側が圧倒していましたが、吉継は2倍近い藤堂隊、京極隊を何度も押し返しています。西軍部隊の前線は地形の利を事前に考慮して陣を配置していたのが少数ながら善戦した要因の一つに成ります。

PA140936.jpg(不運の義将、大谷吉継陣所跡の看板、北斗の拳ならレイ?シュウですか?)
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(少し歩くと松尾山の小早川陣が良く見えます。)
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(小学校の中にあります。当日関ケ原祭りで開放中。土日は開いていても平日は無理かもです。)
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(藤堂・京極陣跡、京極氏は宮津に入封されますその後分家して我が但馬豊岡藩の殿様に成りますよ。)

小西隊には古田隊、織田隊がそれぞれ攻めかかりました。ここで疑問点が有るのでご紹介しておきます。新井白石は『藩翰譜』の中で古田重勝を茶人として有名な古田重然(漫画・「へうげもの」の織部で有名!「織部」の名は、従五位下織部正の官位に叙任されたことに由来しています)の甥としていますが、古田重勝重は慶長5年(1600年)、上杉景勝討伐のため会津に向かいますが、西軍挙兵の報を受け急ぎ帰国しています。松坂城に篭り鍋島勝茂らと対峙します。『日本戦史』図では重勝が関ヶ原合戦に参戦したように描かれていますが、重勝は松坂城に籠城していることは明らかであることから、関ヶ原に参戦したのは古田重然の誤りであると考えられています。

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(小西行長陣所)
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(キリシタン大名がゆえに自殺できず、捕縛されます。最後は三成と共に斬首されました。)

【家康本隊3万が戦闘不参加の理由】

明治時代に成って日本陸軍に招聘されたドイツ陸軍の参謀メッケルが「関ケ原布陣図」を見て即座に西軍勝利と断じたのは有名な逸話です。つまりそれほど東軍の布陣は無謀だったと言えます。

にもかかわらず、家康本隊3万は戦闘には参加していませんでしたが、開戦間もなく桃配山を降りて最前線近く(現在の床几場)まで陣を移しています。関ケ原の戦いに参加したのは豊臣恩顧の武将達がほとんどです。家康軍は徳川本隊3万は中山道を秀忠と共に進んでおり。家康本体3万も家康の旗本だけで、強力な武将が居たわけではありません。

歴戦の強者、本田忠勝は軍監として兵数は500で戦闘には参加していませんし、井伊直政・松平忠吉がそれぞれ3600・3000の兵で島津義弘に対峙していましたが、逆に島津義弘は兵数も少なかったせいか、ほぼ趨勢が決まるまで戦いに参加してい無いのです。

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(鬼島津と呼ばれた名将!この人物の「関ケ原」の戦いが明治維新を切り開いたと言える。お楽しみにね~!)
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(遠方から訪れるファンも多いようです。)
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(この日も島津イベントが有りました。来年の大河ドラマの影響もありかな?)

調略によって南隅山の毛利勢を足止めした家康にとって、戦闘は必要ではなかったと言えます。豊臣恩顧の武将たちによる。消耗戦を見ているだけで良かったと考えられます。双方が消耗しあう方が家康にとっては都合が良かったのかもしれませんね。

【三成動く】

三成は、開戦から2時間を過ぎたころ(11時頃とも)、まだ参戦していない武将に戦いに加わるように促す狼煙を打ち上げました。さらに動きのない島津隊に応援要請の使いを出しています。西軍は総兵力のうち、戦闘を行っているのは3万3,000ほどながら、地形的に有利なため戦局をやや優位に運んでいました。しかし、西軍は宇喜多、石田、小西、大谷とその傘下の部隊がそれぞれの持ち場を守って各個に戦っているだけで部隊間の連携が取れているとは言えませんでした。

それに対し、部隊数、戦闘兵力数で上回る東軍は西軍一部隊に対し、複数の軍勢が連携して、同時多方面から包囲攻撃を仕掛け、または入れ替わり立ち代り波状攻撃を仕掛けるなどして間断無く攻め立てました。

さらに遊撃部隊として最前線後方に控えていた寺沢勢、金森勢が増援として加わったため、時間が経つにつれて次第に戦局は東軍優位に傾き始め、特に石田隊は攻撃を受けて柵の中に退却しています。各西軍武将にとっても三成の首を上げることが最大の戦功だということは分かっていたでしょう。しかしながら地の利がある西軍主力部隊の抵抗も頑強であり、戦況を決めるには至りませんでした。

【動かない西軍】

西軍の抵抗から、ここで松尾山の小早川秀秋隊1万5,000と南宮山の毛利秀元隊1万5,000、その背後にいる栗原山の長宗我部盛親隊6,600ら、計4万7,000が東軍の側面と背後を攻撃すれば、西軍の勝利へと形成は逆転するものと思われました。

しかし、島津は「使者が下馬しなかったため無礼だ」という理由で応援要請を拒否、また毛利秀元(輝元養子)・長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊らは、徳川家と内応済みの吉川広家に道を阻まれて参戦できずにいました。

うんちく「宰相殿の空弁当」毛利軍の背後に陣を構えていた長宗我部盛親の出陣要請に困惑した秀元は、苦し紛れに「今、兵に弁当を食べさせている」と答えた。そこから秀元の官位(参議。唐名で宰相)をとって「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれています。

結局、最後まで南宮山の毛利軍ら3万3,000もの大軍は参戦せず、直後に起きる小早川秀秋の裏切りと並ぶ西軍の敗因となりました。

【最後に一言】

陣形的には圧倒的に有利な西軍でしたが内情は、ほとんどが戦闘に参加しない日和見でした。その中で自分の陣地を守り抜いた西軍戦闘隊の諸将の活躍は目を見張るものが有ります。

宇喜多秀家・大谷吉継・小西行長などの西軍防御ラインの頑強さは素晴らしいの一言です。それにもまして、笹尾山に陣取る石田三成隊の活躍はすさまじいとしか言いようが有りません。

ここで私が最後に言いたいのは、三成隊に逃亡者も裏切り者も出ていないことです。通常これほどまでに劣勢で勝ち目のない戦いの場合、兵士たちは浮足立って次第に雲散逃亡して行くのが戦場の常ではないでしょうか?

ところが石田隊にはそのような兆候はみじんも見られていません。先方の島左近(生存説もあり)と蒲生郷舎も最後まで奮戦して討ち死にしています。二人のみならず末端の兵士一人に至るまで、配色歴然たる陣中においても最後まで三成の元を去らずに奮戦敢闘した態度は正にあっぱれで、三成が天下無双の徳川家康に匹敵する武将だったという証明ではないでしょうか。

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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リュミエールブラン ネージュ

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