2017/11/26

「開戦?」布陣を終えたはずの陣営に謎の情報が飛ぶ『関ケ原開戦』

前回、細川藤孝(幽斎)の「古今伝授の太刀(こきんでんじゅのたち)」の御紹介をいたしました。同じような出来事が他でも起きています。9月2日に西軍の北陸道平定軍に従軍していた京極高次が突如として戦線を離脱、翌3日、居城の大津城に籠城して東軍への加担を鮮明にしました。

このため三成は毛利元康を大将に、小早川秀包、立花宗茂、筑紫広門ら1万5000の軍勢を割いて、9月7日、大津城攻撃へと向かわせました。この「大津城の戦い」は京極高次の開城で終わったものの、毛利元康らは本戦当日の9月15日まで足止めされ、関ヶ原に布陣する事は出来ませんでした(ここでも1万5000の軍勢・猛将、立花宗茂や毛利元康等は「関ヶ原」に必要な人材でした)。

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(関ケ原合戦屏風左西軍部分)

また三成は大坂城に居る豊臣秀頼、あるいは総大将である輝元の出馬を要請していましたが、いずれも淀君に拒否され果たせなかったといわれています。輝元には出馬の意思があったといわれますが、このころ増田長盛内通の風聞があり、動けなかったともされています。

更には、前図のように布陣したといわれる通説が、一時資料によって覆される発見も見られます。

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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(関ケ原合戦屏風右東軍部分)



【西軍有利「鶴翼の陣」のはずが?】

関ケ原配置図
(定説関ケ原配置図、慶長5年9月15日午前8時前)
PA140692.jpg(石田三成陣最前列右翼の旗は島左近、左翼は蒲生郷舎が配置しています。お祭りのテントが邪魔ですね、笑)
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(島左近陣地幟)
PA140609.jpg(島左近については漫画にも成っていますからご存知ですかね?討ち死にしたとも?笑ここみそです。)
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(左近の陣地を抜けて笹尾山に登ります。ほんの15分ほどです。三成の霊が写っているんじゃないですから)
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(丁度開戦時間の8時ごろでした。)
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(不運の天才武将と言えるのかもしれません。)
PA140624.jpg(大一大万大吉の家紋がさみしそうにはためいていました。)

細川幽斎の丹後田辺城籠城、京極高次の大津城籠城、増田長盛内通の風聞、さらに9月14日には西軍の首脳であったはずの前田玄以が大坂城を退去し、閑居するという事態も発生しました。この玄以も、一説には東軍に内応していたといわれます。

このように西軍の統率は東軍とは対照的にまとまりに欠けており、当初の戦略に少しずつ狂いが生じて来ます。家康は秀忠の到着を待ちましたが、9月14日に美濃の赤坂の岡山(現在の岐阜県大垣市赤坂町字勝山にある安楽寺)に設営した本陣に入ります。

三成は家臣である島清興(左近)の進言により、赤坂付近を流れる杭瀬川に兵を繰り出して、東軍の中村一忠・有馬豊氏を誘い出し、宇喜多隊の明石全登と連携してこれをに打ち破っています「杭瀬川の戦い」。

14日夜家康が赤坂を出て中山道を西へ向かう構えを見せます。これを察知した三成は東軍よりも早く大垣城を出陣、福原長堯に城の守りを託して、関ヶ原方面へ転進します。西軍の転進を知った家康も、関ヶ原への進軍を命じ、松平康元や堀尾忠氏、津軽為信らに大垣城監視を命じて夜中(15日2時)、西へ向かっています。

この14日には、小早川秀秋がそれまで陣を敷いていた伊藤盛正を追い出す形で松尾山に陣を構えます。秀秋は伏見城の戦い以降病と称して戦場に出ず、東軍への内応を黒田長政経由で家康に打診していました。このため三成ら西軍首脳は秀秋に対する不信の念を抱いていました。秀秋は文禄・慶長の役で三成の報告が元で筑前名島35万石から越前北ノ庄12万石に大減封されており、それを家康に回復してもらった経緯が有ったのです。

【不思議な幾つかの一次資料】

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(三成は本当に笹尾山に布陣していたのか?)

新たに歴史学者が「一次史料にみる関ヶ原の戦い」の中で、三成は笹尾山に布陣していないとしています。上記の家康が赤坂の岡山から中山道を西へ向かう構えを見た三成が大垣城を出陣して関ヶ原方面へ転進したことは何かしっくり行きません。後からの追撃の方が、家康を挟み撃ちにできるからです。

つまり、笹尾山という地名は一次史料には出て来ない事(山中の地名)、笹尾山には陣地の遺構が無い事等から。 通説の三成が笹尾山に本陣を置いていないとしています。これまで通説で流布してきた関ヶ原の戦いの布陣図が変更される日が来るかもしれません。

それでは何故三成が大垣城を出陣して関ヶ原方面へ転進したのか?ですが、家康ではなく裏切った小早川秀秋を先に討つためだという考えです。問鉄砲(家康が小早川秀秋に寝返りを催促した銃撃)の存在も無く、家康が赤坂の岡山から桃配山に布陣したことも「慶長年中卜斎記(軍医)」に東軍田中吉正が南宮山の毛利勢と小競り合いを起こした記録が有り。家康がそれを見ていた場所に居たのなら桃配山への布陣は無い事に成ります。

小早川秀秋は寝返ったのではなく、表帰った(伏見城では東軍に着く予定でした)ということに成ります。秀秋が手配して東軍諸将、福島正則・藤堂高虎・黒田長政・細川忠興を引き入れたともいわれ、最初から東軍として戦ったと考える歴史家もいるようです。

今これ程「関ケ原の戦」が議論を呼ぶことは歴史ファンにとっては好ましい事です。いずれ教科書が「観応の擾乱(観応のじょうらん・足利尊氏と弟直義との戦い)」のよう、『慶長の擾乱』と呼ばれるようになるかも知れません。

【事実は後世の歴史家の判断に任せて通説をお話しましょう】

前記の事情により、小早川秀秋は三成を恨んでおり当初から東軍への参戦を考えていたが、伏見攻めの一件により、成り行きで西軍についたという経緯がありました。1万5,000の大軍を擁する秀秋を繋ぎとめるため、家康と三成双方は秀秋に、恩賞を与える約束を行っています。家康は上方二ヶ国を与えると提示し、西軍は秀頼が15歳になるまでの間秀秋を関白に就け、さらに播磨一国を加増すると提示したのです。

秀秋を巡る水面下での謀略が入り乱れるなか、両軍は中山道、北国街道、伊勢街道が交差する要衝・関ヶ原に集結しました。

東軍に先んじて関ヶ原に到着した西軍方は三成の拠る笹尾山、宇喜多秀家の拠る天満山、小早川秀秋の拠る松尾山、そして毛利秀元が布陣する南宮山のラインで東軍を囲む鶴翼の陣を布くと同時に、実質的に関ヶ原における高所の大半を抑えました。しかし、東軍は鶴翼の「翼」の部分に相当する諸将の多くを内応させており、本来ならば圧倒的に不利である鶴翼の陣の奥深くに陣を置いたのである。

また、この戦いの総兵員のうち、10分の1(=約2万)ほどが鉄砲を装備しており、実際本戦や東軍の小早川秀秋に対する寝返り催促(問鉄砲といわれます)にも鉄砲が使われており、このことから、日本は世界一の鉄砲保有量を誇っていました(凄いですね~)。

主な東西の大名(石高の隣、○印は関ヶ原に布陣した大名、●は寝返った大名、▲は布陣のみに終った大名)
下表の兵力は、関ヶ原本戦に参陣した武将の動員兵力です。出典は『日本戦史・関原役』に拠る。

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(データはWikipediaより拝借しました。)


【開戦】

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(史跡「関ケ原古戦場」決戦の地)
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(「関ケ原」の戦い概要)
PA140662.jpg(笹尾山からの「関ケ原」全景)
PA140645.jpg(左手配置、写真と比べると分かりやすいですね。)
PA140647.jpg(開戦後?午後に成って家康も最後を見届けに出て来ます。最後の床几場)
PA140651.jpg(一番の激戦地と言えるかもしれません。)
PA140636.jpg(手前山頂に見えるのが小早川秀秋布陣場所、さすがに山裾までしか行けませんでした。)
PA140620.jpg(左手が開戦地、西軍は小西行長・宇喜多秀家軍が布陣していました。)


9月15日早朝霧がが立ち込める関ケ原で始まります。合戦は先陣が福島正則と決まっていたにもかかわらず、井伊直政の抜け駆けによって開始されたとされていますが、笠谷和比古によると実際は抜け駆け行為は霧の中での偶発的な遭遇戦という形をとっており、戦闘開始はそれに続く福島正則の宇喜多隊に向けた銃撃戦とされています。 家康から諸将に七月七日付で出されている軍法の第四条で抜け駆けを厳禁しています。合戦開始時においても、合戦後においても福島から井伊に対して何らの抗議めいた態度は示されておらず、井伊の開戦時における行為は、かなり抑制されたものであって、福島の名誉を傷つけないように配慮されたものと推測されています。

開戦直後に激突した主な武将は以下のとおりです。
東軍・福島正則VS西軍・宇喜多秀家
東軍・藤堂高虎・京極高知VS西軍・大谷吉継
東軍・織田長益・古田重勝VS西軍・小西行長
東軍・松平、井伊、本多忠勝VS西軍・島津義弘
東軍・黒田長政、細川忠興VS西軍・島清興(石田三成隊先陣)

東軍・福島隊と西軍の宇喜多隊の争いは、「福島家の旗と、宇喜多家の旗が双方とも二、三度も退却した」(『関ヶ原軍記大成』)という激しい戦闘となっっています。

石田隊には黒田隊、細川隊が攻めかかりました。石田隊は木柵、空堀からなる野戦陣地で敵勢を防ぎつつ、鉄砲、大筒などを用いて、必死に東軍部隊を抑えています。黒田隊の狙撃兵が石田隊の先陣・島を負傷させ、石田隊の先陣が退却すると、攻撃を加える黒田・細川隊に石田隊は大砲の発射で応戦しています。

やや遅れて大谷隊には藤堂隊、京極隊が襲い掛かります。兵力的には東軍側が圧倒していましたが、吉継は三倍近い藤堂隊、京極隊を何度も押し返しています。小西隊には古田隊、織田隊がそれぞれ攻めかかりました。

家康本隊3万は戦闘には参加していませんでしたが、開戦間もなく桃配山を降りて最前線近く(現在の床几場)まで陣を移しています。

【本日の最後は】

笹尾山陣地跡敵味方押し合い、鉄砲放ち矢さけびの声、天を轟かし、地を動かし、黒煙り立ち、日中も暗夜となり、敵も味方も入り合い、しころ(錣)を傾け、干戈を抜き持ち、おつつまくりつ攻め戦う―激戦をこの地で体験した太田牛一は『慶長記』において次のように記しています。

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(さあ~三成どうする~?)

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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