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2017/11/21

「三成に過ぎたるものが二つある。島の左近に佐和山の城」『佐和山城』をご紹介します!

早く関ケ原に行け~!という皆さんの声が聞こえそうですが、私にも都合が有りまして(言い訳ですけど、笑)その前に三成の居城『佐和山城』をご紹介します。「三成に過ぎたるものが二つある。島の左近に佐和山の城」は三成を揶揄した狂歌ですが、実は元々「○○に過ぎたるもの」の狂歌モデルが家康だったと知ってましたか?

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(じらす作戦ではありませんがもう少しお待ちください。いい話しますから、笑)

一説には怖さの余り脱糞して帰城したともいわれる、武田信玄に大敗北を喫した、三方原の戦いの前哨戦、元亀3年(1572年)10月13日に遠江国「二俣城」をめぐり、武田信玄と徳川家康の間で行われた戦いが有りました。結果はもちろん若き家康の大敗北、そして家康の退却戦「一言坂の戦い」の後、「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」という本多忠勝の武功を称える狂歌(落書)が登場しました。これは殿(しんがり)を見事に務めきった、本多平八に対して道を譲った小杉左近(武田軍将)が書いたと言われています。

「本多平八」とは徳川四天王、本多平八郎忠勝のことです。「唐の頭(からのかしら)」とはヤクの毛で作られた兜のことで、中国四川省やチベット原産(つまり「唐」原産)の日本では珍しい品でした。一説には家康が難破した南蛮船からこれを入手し、愛用していたといわれています。

正に勝者が歴史を作るのです。家康の時は勝った武田が家康を笑い(本多忠勝を褒め称えたのか?)、三成の時は関ケ原で勝った東軍が三成を笑いました。『佐和山城』は本当に三成に過ぎた城だったのか?検証もかねてご紹介します。

それでは、『市郎右衛門』のブログをお楽しみください。

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p2456987.jpg(教育委員会の参考地図を見ていただけたら登るのは龍潭寺からしか行けないようです。)
PA151232.jpg(ということで龍潭寺からの朝登山です。城趾への登山道入口となっている龍潭寺門前!)
PA151224.jpg(佐和山城へGO!)


【揶揄されるほど三成は無能だったのか?】

三成のエピソードをご紹介するお約束をしておりましたので、一つ二つご紹介します。秀吉が三成に禄を与えようとしたとき、三成が「領地はいりません。その代わり、淀川の河原の葦に対する運上(税金)を許していただきたい。それで一万石の軍役を致します。」と嘆願したという逸話です。秀吉は「何と欲の無い奴よ」と笑ったといわれています。

「ちなみに『一万石の軍役』」ですが、諸大名の所領・石高で準備しておく、一定の兵員と武器最低数の事です。備える義務のある兵員は石高50石につき一人(信長・秀吉・家康時代で少しずつ変化するようです)で、1万石では最低200名が必要とされ、軍役・武器は馬上(侍)10騎・鑓30本・旗30本・弓10張・銃20丁が規定として課されていました。

話を戻して、葦はご存知のとおり、屋根を葺いたり、簾や御座などに使われるものです。当時は河原に自生していたものを、使っていました。三成はこれに課税することで、秀吉の丹波攻めの時には、約束どおり一万石分の軍役をし、華麗な軍装で参加したといわれています。

これは「古今武家盛衰記」「名将言行録」等に出てくる話ですが、他の多くの逸話と同じく史実として裏づけることは出来ません。「秀吉の丹波攻め(但馬攻めに関しては、資料が残っています。)」とは一体いつのことを指してるのか、特定できません(光秀ならわかるのですが?)。

三成には、このような官吏能力は高いが、功利的(効果や利益のみを重視するさま)な逸話が、いくつかあります。これからも江戸時代の三成観を察することができます。

「翁物語」に記載される、功利的な逸話をもう一つご紹介しましょう。大雨で淀川の水かさが増し、土嚢を積んでも間に合わず、もう少しで堤が決壊しそうになった時、三成は部下に指示して大坂城の米倉を開き、土嚢の代わりに米俵を積み上げて、決壊を食い止めたというものです。

雨が上がったのち、三成は近在の百姓に米俵を土嚢に積み替えさせ、報酬にその米俵を与えたため、百姓も喜び工事が一気に進んだといいます。

私はこうのような逸話は?三成らしく無いように感じます。むしろ秀吉の逸話を三成にすり替えた様な気がします。三成の政策の特徴は、律儀に筋を通すことにあり、こういう奇策はいかにも秀吉らしい逸話のように感じます。ただ戦国から安土桃山のこの時期は、人々が功利性に走り、似たようなことが数多くあった可能性はあります。

三成はもともと官僚タイプです。とても優秀な官僚・政治家でした。 しかしながら、先頭に立っての戦は経験が少ないです。むしろ縁の下の力持ちといった兵站運用を得意としています。

しかしながら、本人自身はけしてひ弱な文官では有りませんでした。賤ヶ岳の戦いと言えば、七本槍(糟屋武則・片桐且元・加藤清正・加藤嘉明・平野長泰・福島正則・脇坂安治のこと)といわれるほど、秀吉の若き近習たちの武功は有名ですが、賤ヶ岳で活躍したのは七本槍だけでは有りません。賎ヶ岳の先駆け衆と呼ばれた14人の若者もおり、その中には石田三成、大谷吉継らも含まれていて、先駆け衆が一番槍を付けたともいわれています。

先駆け衆とは、その名の通り本体よりも先駆けて戦場で戦った者たちのことを呼びます。石田三成という人物は、いわゆる武断派と呼ばれた加藤清正、福島正則、黒田長政らとは反りが合わず、武断派の面々は三成は槍働きをせずに出世したと思い込んでいました。確かに武功という意味では三成は武断派には敵わなかったでしょう。しかしながら武断派の活躍は三成の兵站あってこそのものだったことを、忘れては行けません。

関が原の戦いでは戦術的には戦上手の家康と互角の戦いをしています。戦略的には三成の方が上だったと考えて良いのではないでしょうか、しかし戦には計略がつきものです。 家康と違い姑息な手段を嫌う三成にとっては考えられなかった裏切りが続出し大敗してしまいました。三成ファンにとっては残念ですね。

【佐和山城はどんな城】

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(門を入った左手に三成の像が正座して見据えています。)
PA151290.jpg(220m結構きついですよ~、登山靴を忘れないように、途中分かれ道を右へ進むと西の丸へ到着)
PA151302.jpg(塩櫓とありますが柱は硝煙櫓、混乱が有るようです。)
PA151294.jpg(硝煙櫓とあります。西の丸は三段に区切られています。かなりの段差です。)
PA151295.jpg(最後に火薬で爆発?瓦も出土!間違いありませんね、想像です。)
PA151308.jpg(西の丸だけでも竪堀がかなりあります。竪堀は自然地形の斜面に上下方向に設けた堀で、多くは攻城軍が斜面を横に移動しにくくするために設けます。)

佐和山城(さわやまじょう)は、中世中期から近世初期にかけて、近江国坂田郡(現・滋賀県彦根市)の佐和山に存在した山城です。

城郭構造は連郭式山城で天守は五層(三層説もあります)でした。主な城主は佐保氏、小川氏、磯野氏、丹羽氏、石田氏、井伊氏慶長11年(1606年)廃城と成っています。現在は、石垣、土塁、堀、曲輪、等が残っています。

織豊政権下において畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも重要な拠点であり、16世紀の末には織田信長の配下の丹羽長秀、豊臣秀吉の奉行石田三成が居城とし、関ヶ原の合戦後は井伊家が一時的に入城したことでも知られています。

【佐和山城の歴史】

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(登りました~本丸です。)
PA151325.jpg(かなりの広さです。残るのは隅石垣位です。)
PA151323.jpg(大きな城ですね~!)

佐和山城の歴史は、鎌倉時代、近江守護職・佐々木荘地頭であった佐々木定綱の六男・佐保時綱が築いた砦が始まりとされ、建久年間(1190- 1198年)の文書にその名が見られます。

六角政頼・久頼・高頼・氏綱・定頼の代の期間、六角氏が犬上郡を支配し、応仁の乱の後、家臣の小川左近大夫・小川伯耆守を城主として置いています。

しかし戦国時代が後期に入ると、北近江における六角氏勢力は衰退し、それにともなっては新興勢力である浅井氏が勢力を伸ばします。佐和山城もその支配に入って、城は磯野員吉に引き渡され、小谷城の支城の1つとなりました。

元亀年間には時の城主・磯野員昌が織田信長らと8ヶ月におよぶ戦闘を繰り広げています。しかし、1571年(元亀2年)2月に員昌は降伏し、代わって織田氏家臣の丹羽長秀が入城、浅井氏旧領と朝倉氏の旧領南部、すなわち、北近江六郡と若狭国の支配拠点としています。

天正10年(1582年)6月の本能寺の変の後に行われた清洲会議では、明智光秀討伐に功があった堀秀政に与えられ、秀政は翌年に入城しています。これ以降は事実上、豊臣政権下の城となってゆきます。堀秀政の留守中は弟の多賀秀種が城代を務めました。天正13年(1585年)には、転封となった堀家に替わって堀尾吉晴が入城、さらに、天正18年(1590年)には五奉行の一人である石田三成が入城したとされますが、三成の佐和山領有が文献上でみえるのは文禄4年からです。 三成は、当時荒廃していたという佐和山城に大改修を行って山頂に五層(三層説あり)の天守が高くそびえたつほどの近世城郭を築きました。

ただし、三成は奉行の任を全うするために伏見城に滞在することが多く、実際に城を任されていたのは父の正継であった。城内の作りは極めて質素で、城の居間なども大抵は板張りで、壁はあら壁のままであった。庭園の樹木もありきたりで、手水鉢も粗末な石で、城内の様子を見た当時の人々もすこぶる案外に感じたと記されています(『甲子夜話』)。

【佐和山城の戦いと廃城】

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(かなりの規模です。山城としては凄いです。)
PA151342.jpg(眼下に見えるのが彦根城ですよ!佐和山城本丸趾より!)

皆さんご存知でしょうが、慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を猛攻撃しています。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人でした。城主不在にもかかわらず城兵は健闘し、敵を寄せ付けなかったが、やがて城内で長谷川守知など一部の兵が裏切り、敵を手引きしたため、同月18日、奮戦空しく落城し、父・正継や正澄、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てました。

家康に従軍した板坂卜斎は陥落した佐和山城に金銀が少しもなく、三成は殆んど蓄えを持っていなかったと記録しています(『慶長年中卜斎記』)。

石田氏滅亡の後、徳川四天王の一人である井伊直政がこの地に封ぜられ、入城しています。井伊家が、このまま佐和山城を利用すると、領民は井伊家が石田家を継承したような錯覚を抱き、領民達の前領主への思慕を断ち切ることができないことから、新たに彦根城築城を計画しました。しかし、直政は築城に着手できないまま、慶長7年(1602年)に関ケ原の傷が悪化して死去します。

計画は嫡子の直継が引き継ぐこととなり、大津城・佐和山城・小谷城・観音寺城などの築材を利用しつつ、天下普請によって彦根城を完成させています。佐和山城は慶長11年(1606年)、完成した彦根城天守に直継が移ったことにともない、廃城となりました。なお、彦根城の城下町までを含めた全体の完成は元和8年(1622年)のことです。

佐和山城の建造物は彦根城へ移築されたもののほかは徹底的に城割されたため、城址には何も残っていないません。しかしそれでも、石垣の一部、土塁、堀、曲輪、その他施設が一部に現存しています。

【最後に一言】

石田三成は『大一大万大吉』と記された家紋を用いました。「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」という意味なんです。悪者に作り上げられた三成像、近頃変わって来ましたよね。テレビの影響かもしれませんが、私がいつも言うように敗者には敗者なりの言い分が有ります。「関ケ原」は天下分け目の戦い、一歩間違えば立場は逆転していたはず。敗者の言い分が正しかったとも言えませんか?

三成は関ヶ原の戦いに万が一敗北した場合を考え、佐和山城での再戦も考えていたのではないでしょか?『佐和山城』確かに堅固な素晴らしい要塞だったことが分かりました。その素晴らしい城に見合う名武将だったと思いますね。

PA151446.jpg(模型と実物の佐和山城址)
PA151363.jpg(本丸下の30cmの大キノコ、三成の心はキノコに託された~笑。)


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【経歴及び実績】

●京都大学工学部電気電子工学科卒業。
●京都大学経営管理大学院経営管理専攻事業創再生マネジメントコース終了 MBA取得。
●(株)NTTデータ 第一公共事業本部 第二公共システム事業部を勤務半年で退社。
●日本最高の中学受験塾で歴代最速で講師にに昇格(希学園・創立14年で初・算数科講師・合格率4%・平均1年のところ、5週間で時給5,000円の講師になる)。
●教育改革を目指して、26歳の時に起業(元手20万円)その後、多角化。
●1年目で年商1.1億を達成し、延べ1,000名以上を面接し社員数十人を使う社長になる。
●2年目で年商2億6千万円を達成。
●書籍流通支援システム、法人向けデータマーケティング支援システム等の開発・販売を行う一方で、MBAで学んだ知識や、実際 にゼロから短期間で事業を軌道に乗せた経験を伝える活動を行う。
●2013年より開始した「次世代起業家育成セミナー」はこれまでに5回開催され、累計4,000名以上の法人代表・法人代表候補・起業家 の卵が参加。

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一般公立中学から高専、そして京都大学、新聞配達のバイトを経ての起業も凄いです。
義弟の大学・学部の後輩ということも、加藤さんに親近感を持った原因のひとつです。

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加藤将太さんは、当時月商100万円いけばトップレベルと言われたせどり業界で、
初年度で年商1億円超え、最盛期には月商4,583万円、
情報発信開始後1ヶ月で5億4000万円というモンスター級の起業家です。



あまりの規模拡大スピードにAmazonが「これ以上在庫を増やさないで」と悲鳴をあげ、
事業が拡大できなくなってやる気をなくした加藤さんは、
儲かっているせどり事業を部下任せにしたという逸話の持ち主です。

ちなみに加藤さんは、京都大学大学院MBA(経営学修士)を取得している経営のプロであり、
人口上位2パーセントのIQ148以上が所属する団体MENSAのメンバーでもあります(凄)


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ネットと物販の両方で大きな実績を持ち、
多業種に渡るコンサル生を指導し、
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月商100万稼げればトップクラスと言われていた業界ですが、
加藤さんはシステム化する事によってあっさり月商4500万に到達しました。

いまだに加藤さんの実績を超える人は
せどり業界には現れてないです。

物販やネットビジネスに限らず、大手が参入していない業界であれば、
システム化を施すだけであっさりライバルに勝てるのだそうです。



加藤さんは凄すぎて、目標とはいえないかもしれませんが、
少しでも近づいて私も「日本の(私は歴史と文化ですが!)教育」に一役買いたいですね。

私の夢は、日本文化の伝統を継承するために、
第二の(山陰の)「柳宗悦(思想家)」になる事です。



ですから歴史ブログは絶対に止めませんし、
「柳宗悦」さんは大きな目標ですが、
少しずつでも近づきたいと考えています。

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勘違いしてしまい怖くなってしまいました。(-"-;A ...アセアセ

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