2017/10/28

「旧本能寺跡」と現「本能寺」!「本能寺の変」の影の役者は誰だ?

今日は台風に秋雨前線が台風に持ち上げられて、ぐずついた天気に成りました。明日はもっと影響が出ると覚悟して、京都に取材に出かけました。目的の一つは旧本能寺史跡です。現在の本能寺は以前も伺っていたのですが、やはり実際に「本能寺の変」の舞台となった場所は気になりますよね。

信長は、1568(永禄11)年に足利義昭を奉じて上洛を果たしましたが、京都には居館を構えず、妙覚寺や本能寺を宿所としていたといわれています。

PA280085.jpg(旧本能寺南西角にあたると思います。)

いろいろ廻ってへとへとになりましたが、気力を振り絞って京都御苑へ行ってみました。いつもの駐車場の入り口が入車禁止になってました。引き返すとなんと蛤御門が駐車場の入り口に成ってます。「蛤御門の変の」取材に来たのでその門から入れるなんて、運がいいなと思いきや、何やら御所の門が空いているではありませんか、知らなかったのですが、(本当に歴史ブロガーかい)

2016(平成28年)7月26日から通年公開されているらしいです。是非皆さんも日程時間の変更がありますので、webでご確認の上拝観してください、素晴しいですよ~(美)

そんなんことはつゆ知らない私、「こ、これは拝観せねば~」と入所させていただいたホルダーナンバーが39番(サンキュー!)なんて出来すぎじゃないですか(笑)、雨で拝観者も少なく、御所の庭園をのんびり散策~日本人の心の豊かさを改めて感じ、癒された一日を過ごしました。

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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【旧本能寺はどこにあった?】

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(一本の道標、旧本能寺南にあたります。)
PA280092.jpg(この蛸薬師通が南端部分だと思います。)

本能寺跡の所在については、元本能寺町や本能寺町の町名などから旧京都市立本能小学校付近と推定されていました。しかし、1992(平成4)年に小学校の廃校後に行われた発掘調査により、織田信長の定宿だった当時の遺構が発見されて話題を呼びました。現在では石柱が建立されているのが南側の端で、南は蛸薬師通、北は三条通、東は西洞院通、西は油小路に囲まれた区域とする説が有力視されているようです。上記の通りを囲む地域が本能寺の敷地だと考えると、寺の大きさも東西約100m、南北約200mの規模を有していたものと考えられています。

旧地の元本能寺南町には京都市立本能小学校がありましたが、平成4年(1992年)廃校となり、その際に発掘調査が行われました。現在は京都市立堀川高等学校本能学舎と高齢者福祉施設本能(京都市が設置し指定管理者が運営)、カフェ「信長茶寮」となっています。平成19年(2007年)マンション建設に伴う遺構調査では、本能寺の変において焼けたと思われる瓦や、「能」の旁が「去」となる異体字がデザインされた丸瓦が、堀跡の屁泥の中から見つかっています。

PA280088.jpg(廃校になった小学校を表す記念碑、ここで焼け瓦などの遺物が見つかっています)
PA280095.jpg(こんな物が~笑、旧本能寺境内になるはずです。元本能寺跡 信長茶寮です)

【現在の本能寺にGO!】

PA280106.jpg(雨の現代、本能寺へGO!)
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(朝鮮通信使も宿泊しています。教科書で習いましたよね。)
PA280098.jpg(表札上手く取れた?読める?)
PA280114.jpg(本能寺ご由緒沿革!)

現本能寺(ほんのうじ)は、京都府京都市中京区下本能寺前町にある、法華宗本門流の大本山。本能寺の変の舞台として知られる。現在の寺院には、恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、龍雲院の7院の塔頭があります。法華宗とは、日蓮を開祖とする宗旨の名称または、宗旨「日蓮宗」の別称です。日蓮門下の全門流の総称としての呼称でも有ります(ちょっと難しいね)。1334年に後醍醐天皇より日像が宗派の名として法華宗の宗号を賜ったといわれています。(我が家は日蓮宗ですが、本門流では無いのでよくわからないのですが(-"-;A ...アセアセ)。

日隆上人(本能寺「大本山」が所属する。法華宗本門流の開祖)は妙本寺(現在の「妙顕寺(みょうけんじ)」、京都府京都市上京区にある、日蓮宗の大本山)の4世・日霽に師事するが、法華経の解釈をめぐり本迹勝劣を主張した日隆は、妙本寺5世・月明と対立します。日隆は応永22年(1415年)伯父にあたる日存・日道両聖人と共に妙本寺綱紀の粛清に務めましたが志を遂げられず同寺を後にします。

うんちく『本迹勝劣』とは? 所依の法華経を構成する二十八品(28章)を前半の「迹門」、後半の「本門」に二分し、本門に法華経の極意があるとする考え方です(分からなくても良いと思いますけど・・・)。

後半の「本門」に極意があるとする勝劣思想ですが、勝劣派(対義語→一致派「二十八品(28章)」を一体として所依とします。次の問題は、勝劣派の中で本仏を、釈尊とするか日蓮とするかで意見の対立が有ります。末法思想では釈尊入寂後、年代がたつにつれて正しい教法が衰滅することを説いた仏教の予言思想で、1500年~2000年といわれ、新しい釈尊に変わる人物が現れるという思想です。法華宗ではそれが日蓮上人であるという考えに基づく宗派伐もあります。(難しいよね~説明している私が理解してない部分も多いのでね)。

応永5年(1418年)、本応寺は月明により破却され、日隆は河内三井(本厳寺)・尼崎(本興寺)へ移りました。永享元年(1429年)、帰洛して大檀那・小袖屋宗句(山本宗句)の援助により、千本極楽付近の内野(大内裏跡、南北朝時代に現在の御所に場所が移動しています。東寺・西寺跡の真ん中に朱雀大路が通っていたと考えると、大内裏は現在の千本丸太町辺りにあったと思います。)に本応寺を再建します。永享5年(1433年)、檀那・如意王丸なる人物から六角大宮の西、四条坊門の北に土地の寄進を受け再建し、寺号を「本能寺」と改めました。

そして油小路高辻と五条坊門の間に本応寺を建立し、日蓮大聖人の念願である人々の口に「南無妙法蓮華経」を唱えさせるべく教化を始めました。本能寺は1415年から1432年までは「本応寺」と寺名を使い、1433年から現在まで「本能寺」を使用しています。
その理由は「本門八品相応能弘之寺」の言葉より本応寺を本能寺という寺名に変えました。また現在「䏻」という文字に替えて使用しているが、これは五度も火災に遭遇したので匕(火)を嫌い䏻を用いる字に替えたものです。有名な信長が上杉謙信に送った「洛中洛外図屏風」では「本能寺」と書かれています。

写真のとおり、本能寺の「能」の字は「䏻」という俗字になっている。これは本能寺が度重なって焼き討ちに遭っているため、「『ヒ』(火)が『去』る」という意味で字形を変えているといわれています。なお、この「䏻」は本能寺のために作字されたわけではなく、当時は現在の「能」よりも広く使われていた字体だそうです。

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(字体の違い見てくださいね、死体が発見されなかったのにお墓?何が眠っているのかは次回です。)

その後、本能寺は法華経弘通の霊場として栄え、中世後期には洛中法華21ヶ寺の一つとなり、足利氏の保護を受けます。寺域は六角小路以南、四条坊門小路以北、櫛笥小路以東、大宮大路以西で方1町の敷地を有し、また多くの子院も有していたようです。応仁の乱後、京都復興に尽力した町衆は、大半が法華宗門徒で、法華宗の信仰が浸透し「題目の巷」と呼ばれ、本能寺は繁栄を極めます。天文5年(1536年)天文法華の乱にて延暦寺・僧兵により、堂宇はことごとく焼失し、一時堺の顕本寺に避難する事態が起きます。

【日承上人と本能寺の変】

天文16年から17年(1537-1538年)ごろに帰洛し、日承上人(伏見宮第5代邦高親王の子)が入寺して本能寺8世となります。四条西洞院大路、油小路、六角小路、四条坊門小路にわたる地域(旧本能小学校のあたり)に広大な寺地を得て、大伽藍が造営され、子院も30余院を擁しました。

日隆の開山以来、尼崎の本興寺とともに山号はなく両山一貫主制をしいていたが、その後、歴代貫主が地方に布教し、日承の時代には末寺が畿内、北陸、瀬戸内沿岸諸国さらに種子島まで広布し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立しました。

今はやりの刀剣女子にプレゼン、「本興寺」は兵庫県尼崎市にある法華宗(本門流)の本山です。天下五剣の一つ、日蓮大聖人御所持の名刀「数珠丸」(重要文化財)があることで知られています。

「うんちく『天下五剣』」

「童子切安綱」源頼光が酒呑童子退治に用い、童子の首を落とした刀。人の胴体六つを叩き斬り、土台に刃が食い込むほどの鋭さを誇るという噂です。
「鬼丸国綱 」北条時政を鬼の呪詛による病から救った刀です。その際、時頼の夢に老人の姿で現れたといわれています。
「三日月宗近 」天下五剣で最も美しいとされる刀ですね。高台院(ねね)が所有しており、高台院の死後は徳川家に渡っています。
「大典太光世 」人の胴体を二つ以上を輪切りにできるという謂れを持つほか、年月を経て強大な霊力を宿しているそうです。
「数珠丸恒次 」日蓮上人ゆかりの刀で、身延山に久遠寺を開山する際に寄進され、以来、数珠を巻き付けて“魔除けの守り刀”とされてきました。

童子切安綱・鬼丸国綱は「鬼を斬った」という退魔の霊刀であり、また童子切安綱・三日月宗近・大典太光世は国宝指定を受けています。鬼丸国綱に至っては「御物(ぎょぶつ/皇家所蔵の宝物)」です。 数珠丸恒次も重要文化財とされています。

年に一度の数珠丸お披露目。それが、11月3日に行われる大本山本興寺(ほんこうじ)の虫干会です。つまり来週の金曜日です。
刀剣女子は是非お出かけください。私?もちろん出雲取材中です(今年も見られへん~涙)。

織田信長は日承に帰依して、この寺を上洛中の宿所としていました。しかし、天正10年6月2日(1582年6月21日)、明智光秀の率いる軍勢に包囲されるという本能寺の変が起きて、その際の兵火で本能寺は焼失しました。『信長公記』では同寺で信長が自害したとされていますが、遺体は発見されず、その最期は明らかに成っていません。しかし一般的には生害地とされ、光秀を破って京に入城した織田信孝(秀吉はいまだ影に徹しています)は、16日、焼け跡に光秀の首と胴、その手勢3,000の梟首を晒させて供養しています。7月4日、信孝は同寺に御触を出して、信長の御屋敷として造成された焼け跡を墓所とするように、離散した住僧は戻るように命じています。

【現在の場所への移転とその後】

天正19年(1591年)、豊臣秀吉の命で、現在の寺域(中京区下本能寺前町)へと移転させられました(現在の京都を作り上げたのは基本秀吉です)。伽藍の落成は、天正20年(1592年)。現在の御池通と京都市役所を含む広大な敷地でした。元和元年(1615年)、江戸幕府から朱印地40石を与えられた。前述の理由で戦国大名との関係も深かったこともあり、寛永10年(1633年)の『本能寺末寺帳』によれば末寺92を数える大寺院になっています。

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(辻説法をする日蓮上人像!いいですね~個人は宗教観はあんまりですが、長男なので家の宗派は大事にしています。笑)

天明8年(1788年)の天明の大火、元治元年(1864年)の禁門の変(蛤御門の変)に伴い発生したどんどん焼けにより堂宇を焼失しています。従来は長州藩邸に隣接していたため、長州藩邸の火が延焼したと思われていたが、それ以前に薩摩藩の砲撃により長州藩邸よりも先に焼け落ちたという説もあります。境内の大銀杏が長州藩邸の目印になったためとも言われますが、このイチョウにも伝説があるのですが、長くなったので次回にお話しします。

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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