2017/10/10

兵どもが夢の跡!明智光秀居城『坂本城跡』の哀れ。

今日ご紹介するのは、裏切り者、主人殺し、謀反者と呼ばれ430年間にわたって悪役を一手に引き受けた明智光秀の居城『坂本城(さかもとじょう)』です。何故光秀は「本能寺の変」を起こしたのか?日本史最大の謎といっても過言ではないでしょう。
今回はミステリーは、またの機会のお楽しみにさせて頂いて、光秀の居城「坂本城」がその後どのようになっているのか、取材してきました。


1689年3月27日(新暦5月16日)、松尾芭蕉は門人の曾良をともなって、江戸から東北・北陸へ600里(約2400km)、150日間の「おくのほそ道」の旅に出ました。奥州藤原氏が平泉で滅亡してから500年後のことです。江戸・深川を出発してから44日目、5月13日(新暦6月29日)に奥州平泉を訪れた芭蕉は、藤原三代の栄華の儚さと義経の最期を偲び、あの有名な句を詠みました。

「夏草や 兵どもが 夢の跡」(なつくさや つわものどもが ゆめのあと)

高館(たかだち)にのぼってあたりを見渡すと、藤原氏の栄華の痕跡はあとかたもなく、ただ夏草が茂る風景が広がるばかり。栄華の儚さを詠んだ句です。

P81306024.jpg
(明智光秀図)

「坂本城」は、明智光秀によって築かれた近江国滋賀郡坂本(滋賀県大津市下阪本3丁目の坂本城址公園内)にあった琵琶湖に面する平城です。さて現在坂本城はどうなっているのでしょうか?

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
ブログランキングならblogram
👆絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。

CROOZ


【坂本城はどんな城だった?】

PA080187.jpg
(坂本城址公園、駐車料無料です。)
PA080228.jpg
(滋賀県の皆さん~これでいいのか?)
PA080227.jpg(文化人五木ひろしに似てないか?隣は鳥羽市郎さんの歌碑だし?)
PA080242.jpg
城址公園のまわりにそれらしき石積)

城郭構造は平城、水城天守構造不明(天守と小天守が推定されています)築城主はもちろん、明智光秀で築城は1571年(元亀2年)主な改修は、丹羽長秀・浅野長政など、主な城主明智光秀、丹羽長秀、杉原家次、浅野長政です。1586年(天正14年)廃城となっています。残る遺構は遺石垣、井戸、暗渠、礎石建物等で指定文化財も再建造物も全くありませんでした。

P659321654.jpg
(これは本物!すこしだけ残る遺構は石垣)

坂本城は、琵琶湖の南湖西側にあり、大津市の北郊に位置します(取材は正に大津まつり当日でした)。西側には比叡山の山脈があり、東側は琵琶湖に面していることから、天然の要害を具えた地です。比叡山は近江国と山城国にまたがっており、白鳥道と山中道の2つの道は両国を結ぶ道路が通じていて、中世~近世においても頻繁に利用され、比叡山への物資輸送のための港町として、坂本は交通の要所として繁栄しました。

PA080200.jpg
(湊の繁栄が偲ばれます。)

現在城郭の大半は宅地化され、推定地の中央には国道161号が本丸上を通っています。

【坂本城の役割は何?】

1571年(元亀2年9月)、比叡山焼き討ちの後、宇佐山城の城主であった明智光秀に近江国滋賀郡が支配を命じられ、織田信長の命によって京の抑えと、比叡山延暦寺の監視、琵琶湖の制海権の獲得が目的で、坂本城が築城されました。

『永禄以来年代記』によると、「明智坂本に城をかまへ、山領を知行す、山上の木にまできり取(永禄以来年代記)」とあります。山領というのは延暦寺のことで、比叡山焼き討ち後、1571年(元亀2年)中に築城が開始されたと思われます。

また『兼見卿記』元亀3年(1572年)12月22日の記述によると、「明智見廻の為、坂本に下向、杉原十帖、包丁刀一、持参了、城中天守作事以下悉く披見也、驚目了(—兼見卿記)」とされていることから坂本城には天守があり、作事が行われ翌12月頃には天守がかなり進捗(物事が進みはかどる)していたと思われます。『兼見卿記』の筆者でもある吉田兼見は、短文ながら天守の壮大さに驚いている様子が分かります。

また坂本城はイエズス会宣教師のルイス・フロイスは著書『日本史』にて豪壮華麗で安土城に次ぐ名城と記しています。フロイスの日本史(坂本城の記述部分ではないですが)には、「明智は、都から4レーグァほど離れ、比叡山に近く、近江国の25レーグァもあるかの大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に、邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗にもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。」と記されている。この記述はルイス・フロイスの感想ではありますが、名城安土城と並び称される建物として認識していたことが分かります。

【坂本城主明智光秀の活躍】

その後明智光秀は坂本城を拠点に近江国の平定を目指します。1572年(元亀3年)~1573年(天正元年)にかけては木戸城、田中城を落城させ、また湖面より囲船にて湖北の浅井勢に襲撃し打撃を与えました。その後、石山城、今堅田城も攻城し湖南はほぼ手中に収めています。その後坂本城は近江国における反織田信長に対する重要な軍事施設として使用されました。黒井城の戦いでほぼ丹波国を手中に収めると、1580年(天正8年)亀山城の城主となったが、坂本城もそのまま城主となっていたようです。

天正10年(1582年)6月2日、明智光秀は中国攻めには向かわず本能寺の織田信長を急襲し、本能寺と共に信長を炎の中で焼き、次いで二条城を攻城し織田信忠を自害させました(本能寺の変)。しかし、同年6月13日山崎の戦いで敗れた明智光秀は一旦勝竜寺城に退き、その後坂本城を目指している途中、山城国の小栗栖周辺で百姓らに襲われ死去したと言われています(少なくとも3日天下ではなく11日生存していますね)。

一方安土城の城主となっていた明智秀満(光秀の娘婿、福知山城代)は、山崎の戦いで敗戦を知り安土城から移ってきましたが、羽柴秀吉軍が城を囲む中、明智秀満自身が天守に火を放ち光秀の妻子もろとも焼け落ちました。

P963214637.jpg
(明智供養塔一応私有地です。)

その後、羽柴秀吉が丹羽長秀に再建を命じ城主となりました。その後賤ヶ岳の戦いの軍事上の基地として使用され、後に杉原家次そして浅野長政が城主となります。この時期に城下町が形成されたとかんがえられます。

しかし1586年(天正14年)秀吉の命を受けた浅野長政が大津城を築城し居城を移したことにより廃城になり、資材は大津城築城に使用されました。築城からたった15年後のことでした。

【なぜ廃城】

なぜ廃城になったか『信長戦国近江』によると2つの理由を紹介しています。

ひとつは山門に対する監視の必要性が薄くなったことです、本能寺の変で信長が倒れ、光秀も山崎の戦いで敗れると、生き残った僧侶達は続々と比叡山に帰山し始めます。秀吉は山門復興こそ簡単には許しませんでしたが、詮舜とその兄賢珍の2人の僧侶を意気に感じ、陣営の出入りを許るし、軍政や政務についての相談にものって、徐々に秀吉の心をつかんでいったと思われます。

そして小牧・長久手の戦いで出軍している豊臣秀吉に犬山城で度重なる要請を行い、ついに天正12年(1584年)5月1日、正覚院豪盛と徳雲軒全宗に対して山門再興判物が発せられ、ついにに山門復興が許可されました。

もうひとつは1583年(天正11年)~1588年(天正16年)に大坂城を築城しており、大津の地が東海道や淀川を通じた北国を結ぶ上に重要視された為ではないかと考えられます(坂本の役目が大津にとって変わられたということです)。


【坂本城の構造】

PA080214.jpg(見えにくいですが、ごめんね、城址公園は城外です。)
PA080237.jpg
(公園周りの石積二が坂本城の物と思いたいですね。)
PA080264.jpg(二の丸内にある立専寺の無縁仏が明智一族の物であってほしいです。)
PA080272.jpg
(二の丸端にある坂本城の石碑)
PA080279.jpg(溝ですが、地図と合わせると二の丸の堀跡とだいたい合致します。)

坂本城は歴史上重要な役割を果たしていましたが、ながらく城の位置や構造については不明となっていました。しかし1979年(昭和54年)に実施された発掘調査によって城の構造が明確になってきました。

天正6年(1578年)1月11日に明智光秀の茶の師匠であった堺の津田宗及が坂本城に招かれ茶会がひらかれたいますが。この時の『天王寺屋会記』の資料によると、「御座船を城の内より乗り候て、安土へ参(天王寺屋会記)」と記載されています。城内には琵琶湖の水が引き入れており、城内から直接船に乗り込み、そのまま安土城に向かえたようです。

従って城郭の建物が湖水に接した「水城」形式の城であったとかんがえられます。また吉田兼見が天正10年(1582年)1月20日に坂本城に訪れた時に「小天守」で茶湯を喫した記録があります。これによりただちに小天守があったと断言はで来ませんが、『信長戦国近江』によると「姫路城のような大天守と小天守が並び建つ壮麗な城だったのであろうか」と紹介しています。

p7695169.png
(こんな感じ?連結式天守の例/天守と小天守)
PA080282.jpg(推定本丸の上を通る国道161号!この下が本丸ですね。)

【発掘調査】

1979年(昭和54年)まで坂本城は一度も発掘調査されなかったため、坂本城の遺構に関してはほとんど注目されませんでした。しかし、坂本城跡の中心部で大規模な宅地開発が計画され、これに伴う調査を実施したことがきっかけとなり、現在に至り断続的に発掘調査が行われ、城の縄張りなどが少しずつ明らかになってきました。

1979年(昭和54年)に行われた発掘調査では、10cm-30cmの焼土層が発見されています。これは明智秀満が天守に火を放ち光秀の妻子もろとも落城した時のものと推測できます。その焼土層の上に整地した層があり、この遺構は丹羽長秀時代のものと考えられています。

本丸部分で発掘された遺構は、礎石の規模や配列から推察して邸宅遺構の可能性が強く、城主が使用されていた可能性が高いと考えられます。またこの周辺からは、大量の瓦、壺、甕、碗、鉢、擂鉢、天目茶碗の他、中国から輸入されたと思われる青磁、青白磁、白磁などの遺物が発掘されました。このことより贅を尽くした城内の様子が伺えますね。また金属製品としては、銭貨、鏡、刀装具、鋲等が出土しています。これらの出土物は室町時代後期から安土桃山時代のもと判断されました。

坂本城は後に築かれた大津城、膳所城(琵琶湖大橋の袂に在ります)も琵琶湖に面して本丸がその先端部に位置していること等、類似点が多い縄張りとなっており、坂本城が二城のモデルとなった可能性が大きいですね。

PA080290.jpg(お山の向こうは比叡山延暦寺)

【最後に夏草!】

松尾芭蕉は平泉の藤原氏の栄華と衰退を歌っていますが、同じものを坂本城跡で感じました。城の址らしきものは殆どありません。整備された坂本城址公園も地図で見ると城外です。少し寂しいですね。歴史ファンよりも多くの人がバス釣りやヨットセイルに興じていました。石垣もあとで積んだ物なのか判断できませんでした。

以前、渇水で琵琶湖の水位が下がった平成6年夏のニュースが注目を浴びました。現在の水際から約10メートル沖で城の一部の石垣が姿を現したのです。夢は夏草の中ではなく水の中に在ったわけです。

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナー「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。

ブログランキングならblogram

リュミエールブラン ネージュ

コメント

非公開コメント