2017/09/24

信長に反旗を翻し、信長の死後茶人として復活した「荒木 村重」の生涯『花隈城』編

江戸時代に築かれ、復元が計画されている尼崎城について、尼崎市は2016年12月19日、完成予想図を公表しました。阪神尼崎駅の南東、徒歩約5分の場所に当時とほぼ同規模の天守閣が建てられるということです。12月20日に着工し、築城400年の2018年8月に完成する見込みです。

尼崎城は江戸初期に尼崎藩主の戸田氏鉄(うじかね)が築来ました。海が近いことから「琴浦城」の名で親しまれたが、1873年の廃城令で取り壊されています。

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(尼崎城は江戸初期に尼崎藩主の戸田氏鉄(うじかね)が築きました。海が近いことから「琴浦城」と呼ばれました。)

しかし、同市で創業した家電量販店ミドリ電化(現エディオン)の創業者が一昨年、私財で天守閣を復元した上で、市に寄贈を打診。完成後は市が管理することで協定を結びました。

尼崎城(あまがさきじょう)は、兵庫県尼崎市にあった日本の城です。江戸時代初期に築城された平城で安土桃山時代の天正6年(1578年)に荒木村重が織田信長に反旗を翻した際、有岡城から逃げ込んだ先である大物城は尼崎城(尼崎古城)とも呼ばれますが、今回復元が決定した尼崎城とは残念ながら別物です。

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【村重卑怯也】

P9220003.jpg(神戸高速鉄道花隈駅を上がったすぐにあります。『花隈城跡』)
P9220007.jpg(城址公園、三階建ての城内地下?駐車場に成っています。)
P9220008.jpg(JRと三陽電鉄の高架がすぐそばを通る神戸の中心地にあります。)

村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦したましたが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となってしまいます。まわりは全て織田の兵に囲まれ、兵糧も尽き始めます。期待していた毛利氏の援軍も現れずに窮地に陥ることとなりました。天正7年(1579年)9月2日、単身で有岡城を脱出し、嫡男・村次の居城である尼崎城(大物城)へ逃げ出してしまいます。

信長は「尼崎城と花隈城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束を、村重に代わって有岡城の城守をしていた、荒木村重の家臣たちと取り交わし、尼崎城の村重を説得に向かわせますが、村重は全く受け入れませんでした。信長は村重への見せしめの為、人質の処刑を命じざるをえなかったのです。

しかし肝心の村重本人は息子・村次とともに荒木元清(荒木一族)のいる花隈城に移り、花隈城の戦いで最後の戦いを挑むも敗北、最後は毛利氏に亡命し、尾道に隠遁したとされたところまでは前回もお話いたしました。

【茶人として復活~?】

P9220021.jpg(全てが近年に作られたものです)
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(池田侯爵とは、戦国武将池田恒興の末裔です。旧岡山藩池田家第15代当主ですね。)
P9220035.jpg(裏手に小さなお地蔵さんの祠が有りました。小さな五輪塔などは往時の物かも知れません!)

村重は、天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で明智光秀に殺害されると、堺に戻りそこに居住しています。豊臣秀吉が覇権を握ってからは、大坂で茶人として復帰し、千利休らと親交を持つようになりました。しかし有岡城の戦いでキリシタンに恨みを持っていた村重は、小西行長や高山右近を讒訴して失敗し、秀吉の勘気を受けて長く引見を許されませんでした。

注)小西行長や高山右近の二人はキリシタン大名で有岡城の戦いで村重を裏切り?信長についています。
注)讒訴とは、他人をおとしいれようとして、事実を曲げて言いつけること。陰で人の悪口を言うことです。

さらに、秀吉が出陣中、村重が秀吉の悪口を言っていたことが北政所に露見したため、処刑を恐れて出家し、荒木道薫(どうくん)と名乗るようになりました。はじめは過去の過ちを恥じて「道糞」(どうふん)と名乗っていたが、秀吉は村重の過去の過ちを許し、「道薫」に改めさせたと言われています。天正14年(1586年)5月4日、堺で死去しました。享年52歳。戒名は、秋英宗薫居士心英道薫禅定門 。墓所は大阪府堺市堺区南宗寺と兵庫県伊丹市荒村寺に在ります。

【謀反の原因と理由を考察する】

P9220032.jpg(天主様の石垣も組まれています。)
P9220029.jpg(登ってもベンチも無いので夜景を眺める程度ですか?)
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(城跡?ただの公園に成っています。)

村重の織田信長に対する謀反の理由は、諸説があって今でも定かではありません。現在検証が進められているいくつかの説について、ご紹介いたします。ただ、信長は村重を重用していたため、その反逆に驚愕し、翻意を促したと言われています(信長公記、フロイス日本史など)。

村重は足利義昭や石山本願寺とも親しかったため、両者の要請を受けて信長に反逆したと考えるのはどうでしょう。村重が支配していた摂津は当時、中国方面に進出していた羽柴秀吉と播磨、丹波方面に進出していた明智光秀らにとって重要な地点であり、村重が反逆した場合、両者は孤立することになるため、義昭や本願寺の意向を受けての謀反だったのではないかという説ですね。この説では、幕府奉公衆の小林家孝が有岡城に入城して連絡係を務めていたといわれています。

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(幽閉は黒田官兵衛の事です。この図面を見るといかに有岡城が重要な地点に在ったか理解できます。)

村重の家臣(中川清秀という)が密かに石山本願寺に兵糧を横流ししていたため、それが信長に発覚した場合の処罰を恐れての謀反であったという説が有ります(こちらはNHKの大河ドラマで採用されていました)。

信長の側近・長谷川秀一の傲慢に耐えかねたという説(『当代記』)。同書では秀一が村重に対して小便をひっかけたとしている。これは竹中重治と同じ逸話であり信頼性は乏しいが、信長の側近衆と何らかの対立があったとみる説もあります。

黒田孝高(当時は小寺孝隆)と相談の謀略説もありました。信長暗殺のため手勢が手薄なところへ誘き出し夜襲する計画であったといわれます。そのため信長の遺産を継いで天下人となった豊臣秀吉・徳川家康などからは厚遇されることになったとされる説です。これを採用すると「本能寺の変」自体を豊臣秀吉・徳川家康が仕組んだか、そこまでは言えなくとも、知ってはいたことに成りそうです。実際、信長は孝高を村重方に寝返ったと決めつけ、人質としていた孝隆の子・松寿丸(のちの黒田長政)の処刑を秀吉に命じています。処刑について大河ドラマでは、軍師としての器量をかった竹中半兵衛が、自分の領地にかくまって助けた設定でした。

将来に希望が持てなくなったからという説はどうでしょう?石山合戦では先鋒を務め、播磨国衆との繋がりもありましたが、本願寺攻めの指揮官が佐久間信盛になってしまった上に、播磨方面軍も羽柴秀吉が司令官に就任したことから活躍の場がなくなったからといもいわれています。

歴史のいたずらか、本願寺攻めの指揮官、佐久間信盛は功を立てられず。信長から19ヶ条にわたる折檻状を突きつけられて、嫡男の信栄と共に高野山へと追放されました。信盛失脚後に信長の実質的な本拠地である近畿地区で大軍団を統率することになったのは明智光秀であり、この事件は「本能寺の変」に動機(信長に仕え続けることの難しさ)と機会(近畿地区の掌握)の両面で影響したといえます。

摂津国内では信長勢力の進出までは国衆や寺内町・郷村などが比較的独自の支配体制を築いてきたが、信長はこうした勢力を統制下に置こうとしたために織田政権への反発が強まり、その矛先が村重に向けられつつありました。村重は国衆や百姓からの突き上げに追い込まれた結果、かえって信長に叛旗を翻して彼らの支持を受けた方が摂津支配を保てると判断したとする説はどうでしょう。

実際、村重の反逆の直後にこれまで石山本願寺の目の前にありながら石山合戦に中立的であった摂津西部の一向一揆が蜂起し、尼崎城や花隈城の戦いではむしろ彼ら百姓主導による抵抗が行われました。信長軍も西宮から須磨の村々を焼き討ちにして兵庫津では僧俗男女の区別なく皆殺しにしたと伝えられます。

P9220040.jpg(東からの眺め、立地的に便利なので私も良く使っています。)
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(人通りも多くて人が居ない時の撮影に苦労しました。)


【荒木村重という男】

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(「太平記英勇伝三十八:荒木摂津守村重」(落合芳幾作))

『絵本太閤記』が何らかの史実に基づいてこの場面を描いたのかは不明ですが、これによると、天正元年(1573年)、信長を近江の瀬田で出迎え拝謁した村重は、「摂津国は13郡分国にて、城を構え兵士を集めており、それがしに切り取りを申し付ければ身命をとして鎮め申す」と言上しました。これに対して、信長は腰刀を抜き、その剣先を饅頭を盛っている皿に向けて饅頭3、5個を突き刺して、「食してみろ」と村重の目の前につき出します。周りにいたものは青ざめてしまったが、村重は「ありがたくちょうだいします」と大きな口を開け剣先が貫いた饅頭を一口で食べ、それを見ていた信長は大きな声を上げて笑い、その胆力を賞して摂津国を村重に任せたといわれています。(こちらも大河ドラマで再現されていたような気がしますね)。

村重はこの時38歳。信長は村重が高槻城を攻略した(高槻城攻城戦)事を激賞して、村重がどのような人物なのか、どのような態度をとるのか試したのではないか、とも想像できる逸話です。信長は村重を信頼していたのかもしれません。

【殺害を免れた子孫の人々】

江戸時代初期に絵師として活躍し浮世絵の祖といわれる岩佐又兵衛は、信長による処刑から乳母の機転によって生き延びた子孫のひとりとされています。
荒木善兵衛も荒木村重の子であり、有岡城落城の際に幼い善兵衛を細川忠興が預かって家中で育てた。成長すると無役の御知行三百石を賜り、後に丹後大江山の細川家高守城代などを務めています。
現在の大阪府岸和田市荒木町には、伊丹城陥落時に村重の子の岩楠が乳母と共に当地へ逃れ来て、吉井村の荒地だった当地を開墾して土着し、後に荒木村が成立したという伝承があるようです。
熊本藩に息子・荒木村勝の子・荒木克之の系統が仕官しています。
荒木流拳法は創始者を村重の孫・荒木夢仁斎源秀縄としています。

【最後に有岡城の歌碑をご紹介】

P9220180.jpg(最後にと思ってとっておいた有岡城の歌碑をご紹介します)

有岡城での抗戦の最中にもかかわらず、荒木家家臣、その家族を置き去りにして村重は一人子息の尼崎城へ脱出する際に、妻荒木ダシが村重に送ったとされる歌である。

「霜がれに残りて我は八重むぐら 難波の浦の底のみくづに」
(私は霜枯れた路傍の雑草のようなもの。このまま難波の海の底に沈む水屑となるのでしょう)
これに対し、村重は次の歌を返したと言われています。
「思ひきや あまのかけ橋ふみならし 難波の花も夢ならんとは」
(自分が築き上げてきたものは夢のようにはかなく、このようなことになるとは思わなかった)


重村さんもう少し考えましょうね~(;^_^A アセアセ・・・

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