2017/09/23

池田家を乗っ取り、信長にに反旗を翻した「荒木 村重」の生涯『有岡城』編

昨日は定期通院で神戸県立中央病院に診察に行った後の時間を利用して、ブリューゲル「バベルの塔」展に行ってきました。
そちらの話題は近々にブログにUPしたいと思っておりますが、ついでと行っては何ですがJR伊丹駅前の有岡城址を取材に行ってきました。

有岡城といえば、城主「荒木村重」と黒田官兵衛が一年間監禁されたことで有名ですが、実際どの程度の城だったのかはイメージ出来ておりませんでした。

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(「太平記英雄伝 廿七 荒儀摂津守村重」歌川国芳筆 嘉永元年-2年(1848-49年)頃)

記事関連事項と言えるのかは少し疑問ですが、尼崎城が再現されることが昨年末新聞の話題になりました。疑問といいますのは、荒木村重が体一つで逃げ込んだ、嫡男荒木村次の尼崎城ではないようなのです。尼崎は私が予備校時代に一年間過ごした地でもありますし、新名所ができるのは歓迎なのですが。(笑)

それでは、『市郎右衛門』の歴史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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【有岡城跡】



P9220122.jpg(JR伊丹駅前の史跡有岡城址の石碑ですが、JR伊丹駅そのものが城の主郭部を崩して作られています。)
P9220102.jpg(かなり大きな城だったことがうかがえますね~)
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(東は川でまもられ、西南北に砦を築きその中に町屋もある総構えの城郭です)
P9220115.jpg(整備された駅前の石垣です)
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(エスカレーターに時計台?付きの城に成ってます)

【荒木 村重ってどんな武将?】

荒木 村重(あらき むらしげ)は戦国時代~安土桃山時代 に活躍した武将・大名です。誕生は天文4年(1535年)、 死没天正14年5月4日(1586年6月20日)です。 利休十哲の1人でもあり(利休七哲は有名ですが十哲は初めて聞きました)。幼名を十二郎、後に弥介(または弥助)、村重、道糞、道薫(号)と名前を変えています 。荒木氏は元は波多野氏の一族とされ、先祖は藤原秀郷です。

「藤原秀郷」は別名「俵藤太」としても有名です。室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山の百足退治の伝説で有名ですね。平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられて、勢力を拡大します。死後、正二位を追贈されており。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出しました。

【荒木村重の生涯・池田氏織田家臣時代】

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(村重説明版)
P9220125.jpg(綺麗に整備されていますが史跡公園というほどではありませんね)
P9220134.jpg(結構雨が降っていて、落ち葉かたずける余裕も無くてごめんなさい。)

摂津池田城主である摂津池田家の家臣・荒木信濃守義村(よしむら)の嫡男として池田(現:大阪府池田市)に生まれました。最初は池田勝正の家臣として仕え、池田長正(勝正の一族)の娘を娶り一族衆となります。しかし、三好三人衆の調略に乗り池田知正(長正の長男)と共に三好家に寝返り、知正に勝正を追放させると混乱に乗じ池田家を掌握します。

その後、元亀2年(1571年)8月28日の白井河原の戦い(村重の摂津勢力拡大の戦い)で勝利し、池田氏が仕えていた織田信長からその性格を気に入られて三好家から織田家に移ることを許され、天正元年(1573年)には茨木城主となり、同年、信長が足利義昭を攻めた時にも信長を迎え入れ、若江城の戦い(織田信長軍と三好義継軍の合戦)で功を挙げています。

一方義昭方に属していた池田知正はやがて信長に降って村重の家臣となり、村重が完全に主君の池田家を乗っ取る形となりました。下剋上を果たした村重は、天正2年(1574年)11月15日に摂津国人である伊丹氏の支配する伊丹城を落とし、伊丹城主となり、摂津一国を任されます。翌年には有馬郡の分郡守護であった赤松氏を継承する摂津有馬氏を滅ぼして同郡も平定します。

村重は細川政権・三好政権を通じての摂津統治の中心であった芥川山城・越水城の両城を廃して有岡城(伊丹城の改称)を中心とした新たな支配体制を構築しました。以後も信長に従い、越前一向一揆討伐・石山合戦(高屋城の戦い、天王寺の戦い)や紀州征伐など各地を転戦し、武功を挙げています。この間の活躍により、従五位下摂津守に任ぜられています。

【村重謀反~~~!】

P9220151.jpg(当時をしのばせるほぼ唯一の石垣です)
P9220162.jpg(墓石なども使用した野づら積みですかね?)
P9220171.jpg(井戸跡が二つと建物跡の礎石ですが、綺麗すぎて、半分くらいは後にあつらえた物だと思います)

天正6年(1578年)10月、三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた村重は有岡城(伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻した(理由については次回考察したいと思います)。一度は糾問の使者(明智光秀、松井友閑、万見重元)に説得され翻意し、釈明のため安土城に向買いますが、途中で寄った茨木城で家臣の中川清秀から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け伊丹に戻ってしまいます。

秀吉は村重と旧知の仲でもある小寺孝隆(官兵衛、のちの黒田孝高)を使者として有岡城に派遣し翻意を促しますが、村重は孝高を拘束し土牢に監禁しています。黒田官兵衛がTVなどのメディアに取り上げられる時には必ず杖をついて、跛行する姿が目に付きますが、この原因は一年間にも及ぶ監禁生活の現れだと思います。

以後、村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦しましたが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となりました。その後も万見重元(織田信長元小姓で有能な側近といわれます)らの軍を打ち破るなど、一旦は織田軍を退けることに成功しますが、兵糧も尽き始め、期待の毛利氏の援軍も現れず窮地に陥ることとなりました。

それでも村重は「兵を出して合戦をして、その間に退却しよう。これがうまくいかなければ尼崎城と花隈城とを明け渡して助命を請おう」と家臣を励ましますが、自身は天正7年(1579年)9月2日、単身で有岡城を脱出し、嫡男・村次の居城である尼崎城(大物城)へ逃げてしまっています(情けない~)。

P9220183.jpg(裏側から見ると空堀?のように見えますね)
P9220167.jpg(建物跡からまだ2m程度は土塁の高さが有ります)
P9220188.jpg(空堀と言えるのか高低差はなんとなくわかりますね、右が主郭部です)



【信長の逆鱗】

11月19日、信長は「尼崎城と花隈城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束を、村重に代わって有岡城の城守をしていた荒木久左衛門(池田知正)ら荒木の家臣たちと取り交わしました。久左衛門らは織田方への人質として妻子を有岡城に残し、尼崎城の村重を説得に向かいますが、村重は受け入れず、窮した久左衛門らはこちらも、妻子を見捨てて出奔してしまいます(本当に情けない連中です)。これをみた信長は村重や久左衛門らへの見せしめの為、人質の処刑を命じました。

12月13日、有岡城の女房衆122人が尼崎近くの七松において鉄砲や長刀で処刑されます。この事は「百二十二人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目もくれ心も消えて、感涙押さえ難し。これを見る人は、二十日三十日の間はその面影身に添いて忘れやらざる由にて候なり」 と信長公記に記載されるほどの虐殺だったようです。

12月16日には京都に護送された村重一族と重臣の家族の36人が、大八車に縛り付けられ京都市中を引き回された後、六条河原で斬首されました。

立入宗継はその様子を、「かやうのおそろしきご成敗は、仏之御代より此方のはじめ也。」 — 立入左京亮宗継入道隆佐記と記しています。「立入宗継」は禁裏御蔵職をあずかる戦国時代から安土桃山時代にかけての商人であり官人です。

その後も信長は、避難していた荒木一族を発見次第皆殺しにしていくなど、徹底的に村重を追及していきました。天正9年(1581年)8月17日には、高野山金剛峯寺が村重の家臣をかくまい、探索にきた信長の家臣を殺害したため、全国にいた高野山の僧数百人を捕らえ、殺害するほどの断罪を行っています。

裏切り者の家族・一族に対して容赦しなかった信長ですが、それほど卑怯者に対する怒りを爆発させてのか?またはそれほど荒木村重の力を認めていたとも考えられます。しかし肝心の村重本人は息子・村次とともに荒木元清(村重の一族)のいる花隈城に移り(花隈城の戦い)、最後は毛利氏に亡命し、尾道に隠遁したとされています。

【最後にヒント?】

信長に対して反旗を翻した理由については、次回考察したいと思いますが、当時は、三木合戦(みきかっせん)の最中でした。天正6年3月29日(1578年5月5日)から天正8年1月17日(1580年2月2日)にかけて行われた織田氏と別所氏の合戦は22か月にも及び、織田家の武将羽柴秀吉が行った播磨征伐の一戦です。中国攻めの織田勢から離反した別所氏は、播磨三木城(兵庫県三木市)に一族・領民7500人と共に篭城したといわれます。この合戦で秀吉が行った兵糧攻めは、三木の干殺し(みきのひごろし、またはほしごろし)と呼ばれる凄惨な物でしたが。この陣中で病気で命を落とした、もう一人の軍師竹中半兵衛の「兵を失わずに勝つ」を実行したものといわれています。

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