後醍醐天皇!悪党「名和長年」を頼って都に帰り咲く!『名和神社・MODIFY』
今日御紹介致しますのは、伯耆国のお話です。地理に弱い私の子供達の為?に伯耆国の位置を説明します。山陰地方、鳥取市辺りの因幡国と島根県東の出雲国の間、現在の米子市、倉吉市辺りと考えて下さいね(#^.^#)。
以前、「名和長年」を祭る、『名和神社』を御紹介しました。
前回のお詣り時は、本殿の改築が行われておりまして、社殿がブルーシートで覆われ神社全体を撮影出来ず、御紹介出来ませんでした。先日訪れますと綺麗に改修されておりましたので、改めて御紹介させて頂きます。
名和長年は鎌倉時代末に隠岐国から脱出した後醍醐天皇を迎えて倒幕(鎌倉幕府ですよ!)に功があり、最後まで後醍醐天皇の御側で戦った武将の一人です。
其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいね(人´ω`*).☆.。




【名和神社ってどんな神社なの?】
鳥取県西伯郡大山町(旧名和町)にある神社です(山陰道を走ると見落としてしまうので注意です)。旧社格は別格官幣社。建武中興十五社の一社です。社紋は、名和氏の家紋の帆懸船です。
名和長年を主祭神とし、名和一族以下42名を合祀しています。
私!僭越ではございますが、歴代の天皇の中でも五本の指に入る、後醍醐天皇ファンなのです。後醍醐天皇の不屈の精神力と意志の強さに憧れております。100年早くにお生まれに成ってしまったと思うくらいに天才的な天皇だと心酔しています。勿論昭和天皇陛下、今上陛下を御尊敬している事は当然なのですけれどね(#^.^#)
【後醍醐天皇、隠岐の島を脱出、伯耆の浜に降り立つ!】
1331年(元弘元年)の元弘の乱で鎌倉幕府の討幕計画が露見してしまい捕縛されて隠岐島に流罪となっていた後醍醐天皇が、1333年(元弘3年、正慶2年)閏2月、名和長年を頼って隠岐島を脱出し、伯耆国の船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発しました。
時代背景の詳しい?所や後醍醐天皇伯耆到着の場所等も、以前にブログUP致しましたので、詳しく知りたい方はそちらを読んで頂けましたらありがたいです。
①鎌倉幕府消滅の足音!『後醍醐天皇』VS『鎌倉幕府』
②『後醍醐天皇』悪党「名和長年」の力を頼って隠岐を脱出す!
【後醍醐天皇船上山に立つ!】
幕府は船上山を討つため、足利高氏名越高家らの援兵を送り込みます。しかし、4月27日には名越高家が赤松円心に討たれ、足利高氏(尊氏)所領のあった丹波国篠村八幡宮で幕府へ反旗を翻します。
5月7日、足利高氏は佐々木道誉や赤松則村らと呼応して六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧しました。北条仲時、北条時益ら六波羅探題の一族郎党は東国へ逃れようとししますが、5月9日、近江国の番場蓮華寺で自刃し、光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇は捕らえられることになりました。
この伯耆、船上山からの倒幕戦に勝利した名和長年は後醍醐天皇により伯耆守に任じらています。また、後醍醐天皇の帰洛の際の護衛も務めています。
船上山に天皇を迎えて討幕活動に参画するまでのくだりは、方『太平記』『梅松論』に詳細に記載されていますが、船上山リポートもブログUPしておりますので、天然の要害と後醍醐天皇御座所をご覧頂けましたら幸いです。
③後醍醐天皇反撃の狼煙を上げる『船上山登山記』壱
④後醍醐天皇反撃の狼煙を上げる『船上山登山記』弐
幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された『建武の新政』において、河内国の豪族、楠木正成らとともに天皇近侍の武士となり、記録所や武者所、恩賞方や雑訴決断所などの役人を務め、帆掛け船の家紋を与えられました。
また、京都の左京の市司である東市正にも任じられました。これは名和氏の商業者的性格を重んじての人事と考えられています(現代なら東寺の弘法市も名和長年の仕切りですね(^〇^))。この役職は代々中原氏が世襲してきたが、後醍醐天皇は強引にこのポストに長年を組み込み込んでいます。自分の手足となって動いてくれる長年をこの役職に就任させることで、京都の商業・工業を直接掌握しようとしたと考えられます。
建武2年(1335年)に西園寺公宗が北条氏の残党と組んで新政を転覆しようとした謀略が発覚して逮捕されると、公宗を出雲国へ流刑する途中に謀って処刑しています。また、討幕運動において京都の六波羅探題を滅ぼした足利尊氏と対立し、後醍醐天皇とも確執があった護良親王を結城親光とともに捕縛するなど、後醍醐天皇の先兵として活躍しています。
足利尊氏が中先代の乱の討伐を契機に、建武政権から離脱すると、「楠正成」「新田義貞」らと共に宮方として足利尊氏と戦いますが、延元元年(建武3年、1336年)の湊川の戦いの後に京都に入った足利尊氏に敗れ討死してしまいました。討死にした場所については、『太平記』には京都大宮、『梅松論』には三条猪熊とされています。
後醍醐天皇はこの後、京都脱出し奈良吉野へ移られ、京都と吉野に二人の天皇が居られることになりました。この事件以降を「南北朝時代」といいます。
【建武政権下の立役者「三木一草」って誰のこと?】
長年の死を以って、後醍醐天皇の恩寵を受け栄達した「三木一草」( 三木一草は、後醍醐天皇の建武政権下で寵遇を受けた4人の寵臣の呼称。楠木正成、結城親光、名和長年、千種忠顕をあわせて呼ぶ。 名称の由来は、楠木は「クスノキ」、結城は「ユウキ」、名和は伯耆守であったことから「ホウキ」、千種は「チグサ」と4人の姓や官職名に因みます。 )は悉く果てました。
『歯長寺縁起』は長年の戦死を「南朝の盛運が傾く凶兆である」と記しており、その通り廷臣を相次いで喪った南朝は劣勢に追いやられてゆくことになって行きます。
今回の伯耆国の旅どうでしたでしょうか?出雲も良いけど、伯耆も格別です。是非お出掛け下さいね(#^.^#)
リメイクなので全てがご理解いただけるように工夫しています。お楽しみいただけましたら幸いです。
いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!
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以前、「名和長年」を祭る、『名和神社』を御紹介しました。
前回のお詣り時は、本殿の改築が行われておりまして、社殿がブルーシートで覆われ神社全体を撮影出来ず、御紹介出来ませんでした。先日訪れますと綺麗に改修されておりましたので、改めて御紹介させて頂きます。
名和長年は鎌倉時代末に隠岐国から脱出した後醍醐天皇を迎えて倒幕(鎌倉幕府ですよ!)に功があり、最後まで後醍醐天皇の御側で戦った武将の一人です。
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【名和神社ってどんな神社なの?】
鳥取県西伯郡大山町(旧名和町)にある神社です(山陰道を走ると見落としてしまうので注意です)。旧社格は別格官幣社。建武中興十五社の一社です。社紋は、名和氏の家紋の帆懸船です。
名和長年を主祭神とし、名和一族以下42名を合祀しています。
私!僭越ではございますが、歴代の天皇の中でも五本の指に入る、後醍醐天皇ファンなのです。後醍醐天皇の不屈の精神力と意志の強さに憧れております。100年早くにお生まれに成ってしまったと思うくらいに天才的な天皇だと心酔しています。勿論昭和天皇陛下、今上陛下を御尊敬している事は当然なのですけれどね(#^.^#)
【後醍醐天皇、隠岐の島を脱出、伯耆の浜に降り立つ!】
1331年(元弘元年)の元弘の乱で鎌倉幕府の討幕計画が露見してしまい捕縛されて隠岐島に流罪となっていた後醍醐天皇が、1333年(元弘3年、正慶2年)閏2月、名和長年を頼って隠岐島を脱出し、伯耆国の船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発しました。
時代背景の詳しい?所や後醍醐天皇伯耆到着の場所等も、以前にブログUP致しましたので、詳しく知りたい方はそちらを読んで頂けましたらありがたいです。
①鎌倉幕府消滅の足音!『後醍醐天皇』VS『鎌倉幕府』
②『後醍醐天皇』悪党「名和長年」の力を頼って隠岐を脱出す!
【後醍醐天皇船上山に立つ!】
幕府は船上山を討つため、足利高氏名越高家らの援兵を送り込みます。しかし、4月27日には名越高家が赤松円心に討たれ、足利高氏(尊氏)所領のあった丹波国篠村八幡宮で幕府へ反旗を翻します。
5月7日、足利高氏は佐々木道誉や赤松則村らと呼応して六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧しました。北条仲時、北条時益ら六波羅探題の一族郎党は東国へ逃れようとししますが、5月9日、近江国の番場蓮華寺で自刃し、光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇は捕らえられることになりました。
この伯耆、船上山からの倒幕戦に勝利した名和長年は後醍醐天皇により伯耆守に任じらています。また、後醍醐天皇の帰洛の際の護衛も務めています。
船上山に天皇を迎えて討幕活動に参画するまでのくだりは、方『太平記』『梅松論』に詳細に記載されていますが、船上山リポートもブログUPしておりますので、天然の要害と後醍醐天皇御座所をご覧頂けましたら幸いです。
③後醍醐天皇反撃の狼煙を上げる『船上山登山記』壱
④後醍醐天皇反撃の狼煙を上げる『船上山登山記』弐
幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された『建武の新政』において、河内国の豪族、楠木正成らとともに天皇近侍の武士となり、記録所や武者所、恩賞方や雑訴決断所などの役人を務め、帆掛け船の家紋を与えられました。
また、京都の左京の市司である東市正にも任じられました。これは名和氏の商業者的性格を重んじての人事と考えられています(現代なら東寺の弘法市も名和長年の仕切りですね(^〇^))。この役職は代々中原氏が世襲してきたが、後醍醐天皇は強引にこのポストに長年を組み込み込んでいます。自分の手足となって動いてくれる長年をこの役職に就任させることで、京都の商業・工業を直接掌握しようとしたと考えられます。
建武2年(1335年)に西園寺公宗が北条氏の残党と組んで新政を転覆しようとした謀略が発覚して逮捕されると、公宗を出雲国へ流刑する途中に謀って処刑しています。また、討幕運動において京都の六波羅探題を滅ぼした足利尊氏と対立し、後醍醐天皇とも確執があった護良親王を結城親光とともに捕縛するなど、後醍醐天皇の先兵として活躍しています。
足利尊氏が中先代の乱の討伐を契機に、建武政権から離脱すると、「楠正成」「新田義貞」らと共に宮方として足利尊氏と戦いますが、延元元年(建武3年、1336年)の湊川の戦いの後に京都に入った足利尊氏に敗れ討死してしまいました。討死にした場所については、『太平記』には京都大宮、『梅松論』には三条猪熊とされています。
後醍醐天皇はこの後、京都脱出し奈良吉野へ移られ、京都と吉野に二人の天皇が居られることになりました。この事件以降を「南北朝時代」といいます。
【建武政権下の立役者「三木一草」って誰のこと?】
長年の死を以って、後醍醐天皇の恩寵を受け栄達した「三木一草」( 三木一草は、後醍醐天皇の建武政権下で寵遇を受けた4人の寵臣の呼称。楠木正成、結城親光、名和長年、千種忠顕をあわせて呼ぶ。 名称の由来は、楠木は「クスノキ」、結城は「ユウキ」、名和は伯耆守であったことから「ホウキ」、千種は「チグサ」と4人の姓や官職名に因みます。 )は悉く果てました。
『歯長寺縁起』は長年の戦死を「南朝の盛運が傾く凶兆である」と記しており、その通り廷臣を相次いで喪った南朝は劣勢に追いやられてゆくことになって行きます。
(左から長年、義高、高光ですか?)
今回の伯耆国の旅どうでしたでしょうか?出雲も良いけど、伯耆も格別です。是非お出掛け下さいね(#^.^#)
リメイクなので全てがご理解いただけるように工夫しています。お楽しみいただけましたら幸いです。
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今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
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