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2018/08/08

源氏と平氏はどう違う?征夷大将軍は源氏しか成れない?清和源氏発祥の地「多田神社」を訪ねて。

「源氏と平氏はどう違うの?」「なぜ、征夷大将軍は源氏しか成れないの?」「源朝臣徳川次郎三郎家康ってどいうこと?」の謎を求めて、清和源氏発祥の地「多田神社」にお詣りしてきました。

子ども・孫代で臣籍降下すると源氏を名乗り、の曾孫の代で臣籍降下すると平氏に成ります。

「征夷大将軍は源氏しか成れない」は嘘だった、鎌倉幕府の4代・6代将軍は藤原氏でしたし、平氏である織田信長も、望めば征夷大将軍に成れたはずなので、源氏以外でも将軍になれるのは間違いありません。                             

徳川家康は先祖を清和源氏の新田氏だと称していました。 朝臣はもともとは「八色の姓(カバネ)」のひとつでしたが、やがて「五位以上の貴族が名乗れる尊称」というべきものになっていきました。
答えが出ちゃいましたが(笑)丁寧に「多田神社」 をご紹介しましょう。




【プロローグ】源氏と平氏はどう違う?



先ず、姓(かばね)について少し説明しましょう。
姓は現在現在私たちが名乗ってる姓(氏・名字)とは違うものです。

姓(かばね)は天皇が臣下に与える姓の事で、代表的なものの一つとして源平藤橘を「四姓」と呼びますが、そのほかにも姓は沢山あります。清原、菅原、高階、大江、大伴(伴)、紀、安倍、などです。
豊臣秀吉の豊臣もそうでしたね。

姓について簡単に説明すると、姓「天皇からもらったもの、朝廷での役職や地位をあらわすもの」、氏「古代日本で親族ごとに集団を作っていた残りの呼名や氏族」、名字「自由に付けていいもので、氏が分家したときに区別に使ったり、武士が増えてきて自分の支配する地名を名字にして所有権を表したものです。
一般的には、明治になって法令によって定められました。

平民苗字必称義務令(へいみんみょうじひっしょうぎむれい、平民苗字必唱義務令・太政官布告第22号)は、1875年(明治8年)2月13日公布で、すべての国民に苗字(名字・姓)を名乗ることを義務付けました。

江戸時代まで、日本において公的に苗字を使用したのは、原則として、公家及び武士などの支配階層に限られ、一種の特権とされていました。
明治維新により、従来の身分制度の再編が図られ、明治3年9月19日(1870年10月13日)に「平民苗字許可令」(明治3年太政官布告第608号)が発布されました。
この布告では初めて「平民」の語を用いて、華族及び士族(この両者は公家・武士の家柄がほとんどですが)に属さない平民に「苗字」の使用が許可されました。

しかし、当時の国民(平民)の中には、「課税されることを恐れて届け出が少なかったり」「めんどくさい・・・おらは団子屋の市さんでいいや」と、あえて苗字を使用しない人も多かったので、1875年(明治8年)に改めて名字の使用を義務づける「苗字必称義務令」が発令され、すべての人々が名字を名乗ることに成りました。

P7150627.jpg
(JR川西池田駅にある。清和源氏の祖、「源義仲」の像。)

かなりややこしくなってきましたので、具体例を出してみたいと思います。
「織田信長」さんと「徳川家康」さんにお願いしましょう。
正式名は「平朝臣織田三郎信長」と「源朝臣徳川次郎三郎家康」です。
この場合、「織田信長」さんは氏姓・平朝臣、名字・織田、通称・三郎、 実名・信長、「徳川家康」さんは氏姓・源朝臣、名字・徳川、通称・次郎三郎、 実名・家康に成ります。

信長が平氏だったので、部下の秀吉は同じく平氏姓を名乗ったために征夷大将軍に成れなかったといわれていますがそんなことはなかったはずです。
戦国時代には、清和源氏の末裔を称して家格を誇張する者も出てきました。
清和源氏を称している近世大名の多くは、その事実が歴史学的に証明されたわけではありません。

さらに、藤原頼経(第4代征夷大将軍)といった先例が存在し、織田信長も征夷大将軍に就任する可能性がありました。
武家伝奏の勧修寺晴豊が京都所司代・村井貞勝と懇談し、信長が征夷大将軍・太政大臣・関白のうちどれかに任官することが、朝廷側もしくは信長側から提案されています(三職推任問題)。

さてお題に戻って、平安時代以降臣籍降下が頻発して源・平の二姓ばかりになって来ます。
最近の研究で「一世王(子ども)、二世王(孫)が源、三世(曾孫)以降が平」だった事が判明しています。
源姓(本姓が源氏)の家系はそれぞれ別の苗字を号しているため、現在「源」を今日的な意味の姓(名字)として名乗る例は少なく(それでもいるんですね)、推定人口は4000人程だそうです。

平安時代以降は、皇族の分家はおおむね「源」か「平」になり、その家の開祖となる天皇の名前をつけて呼ばれます。
例として、平将門・清盛らの「桓武平氏」、源頼朝・義経らが「清和源氏」などになります。

一世(天皇の子)のうち、母親の身分が低くて皇族扱いされない「庶子」は、源氏を名乗ることになります。
嵯峨源氏の源融(みなもとのとおる)、醍醐源氏の源高明(みなもとのたかあきら)などがその例となります。

二世(天皇の孫)でも、天皇にならない親王から生まれた子は源氏です。
清和天皇の孫は源経基(みなもとのつねもと、源満仲の父ですね)と呼ばれ、この人が源頼朝らのご祖先に成ります。

平氏は三世(天皇の曾孫)以降が名乗ります。桓武天皇の曾孫は高望王(たかもちおう)と呼ばれますが、この人が最初に平氏を名乗り、桓武平氏となりました。
高望王は平清盛の祖先に成ります(ちょっと難しくなりましたね…今回は少し難しいです。)。

それでは、『市郎右衛門』の歴史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。

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清和源氏って何?



源氏には祖とする天皇別に21の流派(源氏二十一流)があり、清和源氏(せいわげんじ)はそのうちの一つで清和天皇から分かれた氏族です。

清和源氏は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つで姓(カバネ)は源朝臣です。

清和天皇の皇子のうち4人、孫の王のうち12人が臣籍降下して源氏を称しています。
一般に武家として知られる清和源氏の起源は、清和天皇の第六皇子貞純親王の子である経基王(六孫王)が臣籍降下により源姓を賜り源経基と名乗ったことに遡り、子孫が著しく繁栄しました。

中級貴族であった経基の子・源満仲(多田満仲)は、藤原北家の摂関政治の確立に協力して中央における武門としての地位を築き、摂津国川辺郡多田の地に武士団を形成しました(分家に摂津源氏・大和源氏・河内源氏などが有ります。)。

そして彼の子である頼光、頼親、頼信らも父と同様に藤原摂関家に仕えて勢力を拡大していきます。
のちに主流となる頼信流の河内源氏が東国の武士団を支配下に置いて台頭し、源頼朝の代に武門の棟梁として鎌倉幕府を開き、武家政権を確立しました。

その後の子孫は、嫡流が源氏将軍や足利将軍家として武家政権を主宰したほか、一門からも守護大名や国人が多く出ます。

経基王については、貞純親王の子ではなく貞純親王の兄陽成天皇の子・元平親王の子であるとする陽成源氏説がありますが、
この出自論争は実証ができずに決着はついていません。

P7150742.jpg(橋を渡るとすぐに多田神社、神社側から撮影しています。)
P7150748.jpg(静かな構えです。)

武士団の形成と武力による時代形成・平安時代



経基の名跡を継いだ源満仲は藤原摂関家に仕えて各地の受領を歴任、摂津国川辺郡多田(現 兵庫県川西市多田)を本拠地として源氏武士団を形成しました。

酒呑童子退治などで有名な満仲の長男・源頼光も摂津国に拠点を置いたことから、摂津源氏と呼ばれる武士団を形成しています。
摂津源氏の中でも本拠である多田を継承した嫡流源頼綱(頼光の孫)の系統を多田源氏といいます。

満仲の次男・源頼親の系統は大和国宇野(現奈良県)を本拠地としたことから大和源氏と呼ばれる武士団を、三男・源頼信の系統は河内国壷井(現大阪府羽曳野市壷井)を本拠としたことから河内源氏と呼ばれる武士団が形成されました。

源満仲の子の中でも特に三男の源頼信(河内源氏)は、長元元年(1028年)房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で起きた平忠常の乱(長元の乱)を平定するなどの武功をあげます。

また頼信の子・頼義は康平5年(1062年)から陸奥国奥六郡に蛮拠する俘囚の長・安倍氏を討ち(前九年の役)、頼義の子・八幡太郎義家は、同族の源国房、源重宗と合戦を繰り広げ、寛治元年(1087年)には出羽国の俘囚長・清原氏の内紛を収めて(後三年の役)声望を高め、頼信流の河内源氏は東国に足掛かりを持つようになりました。

河内源氏はこのように武名を上げ、それまでの清和源氏庶流であった地位から嫡流の地位を事実上占めるに至ります。
このような興隆は時の権力者白河法皇の警戒を招き、河内源氏は抑圧されています。

河内源氏が摂津源氏のように京都を活動舞台にせず板東を拠点としたのは、兄の源頼光、源頼親が藤原道長に側近として仕えたのに対し、頼信は上野介や常陸介など遠方で収入の少ない東国受領となっていたからです。

しかし、上記のように武功を重ね、義家、義綱(美濃守)、義光(新羅三郎)兄弟の頃には清和源氏最大の勢力となっていました(しかし、義家と義綱の仲は悪く、義綱は中央で昇進を重ねます。)。
この頃から、源氏庶流は国の下級官人を辞し、地方の荘官などとなることにより勢力を築いていきました。

しかし、義家の晩年に次男の義親が朝廷に反抗したため義家は苦境にたたされ、河内源氏に陰りが見え始めます(義家の長男は早世していた)。
また、弟の新羅三郎義光(常陸源氏、甲斐源氏の祖)と四男の荒加賀入道義国(上野源氏、下野源氏の祖)が嘉承元年(1106年)に常陸合戦を引き起こし、両者が勅勘を受けてしまいます。

さらに天仁2年(1109年)、義家の死後に家督を継承し栄名を誇った、義家の三男源義忠が暗殺され、当初事件の主犯とされた弟の義綱(美濃守)が、白河法皇の命を受けた源義親の子源為義と源光国(美濃源氏)の討伐を受けて壊滅しています。
また事件後真犯人が新羅三郎義光であったことが明らかになるなど、河内源氏内部の分裂は明白になり、権勢はしばらく失墜してしまいます。

この背景には、河内源氏が拠り所にしていた摂関家の摂関政治から、白河法皇の院政への移行があったことが原因として挙げられます。

P7150753.jpg(史跡多田院の文字がありました。神社らしくないかな?)


清和源氏発祥の地「多田神社」を訪ねて





P7150760.jpg(多田大権現!神社ですね。)


「多田神社(ただじんじゃ)」は兵庫県川西市に在り、多田院として国の史跡に指定されています。
元々多田院という天台宗の寺院でした。
六孫王神社(京都府京都市南区)、壺井八幡宮(大阪府羽曳野市)とともに「源氏三神社」の1つに数えられます。

「多田神社」は摂津国に位置しており、清和源氏や多田院御家人発祥の地です。
この地に館を構えた清和源氏の祖摂津守源満仲によって天禄元年(970年)に満仲の子源賢を開山とする天台宗寺院・多田院鷹尾山法華三昧堂(通称多田院)が建立されました。
満仲は自らの館と多田院を中心として多田荘の開発に勤しんだといわれています。

本尊の丈六釈迦如来像は満仲、文殊菩薩像は満仲の長男源頼光(但馬国司にもなっているので頼光ファンです。)、普賢菩薩像は次男源頼親、四天王像は三男源頼信がそれぞれ願主となって作られました。

平安時代の長徳3年(997年)8月27日に源満仲が亡くなると多田院に葬られ、新たに廟所と満仲像を祀る御影堂が建立されました。
なお、満仲の廟所はまれに「多田院鳴動」といって大事件の前触れとして廟が震えることがあったとされます。

以後は清和源氏の霊廟とされましたが、戦乱や災害などにより次第に衰微していきました。
しかし、鎌倉時代に幕府からの命令で文永10年(1273年)に西大寺の忍性が造営奉行に任じられ、ようやく再興します。
そしてこれにより宗旨は天台宗から真言律宗に転じ、やがて源頼光も祀るようになっています。

P7150766.jpg(鳥居が見えてやっと神社の趣、武門の社らしい清々しさです。)
P7150819.jpg(狛ちゃんも武骨な感じです。)

室町時代に入ると、清和源氏である将軍足利尊氏の崇敬もあって栄えます。延文3年(1358年)には将軍足利義詮によって尊氏の分骨が多田院に納められます。これ以降歴代足利将軍の遺骨が分骨されています。

戦国時代の天正5年(1577年)には織田信澄の軍勢によって社殿が焼失しましたが、江戸時代にも清和源氏を称した徳川家から崇敬され、寛文7年(1667年)、将軍徳川家綱によって本殿、拝殿、随神門などが再建されました。
さらに将軍徳川綱吉によって満仲に贈正一位多田大権現の神号が送られると、次第に多田院は寺から神社の色合いが強くなっていきました。

P7150815.jpg(拝殿もさっぱりとしています。)
P7150797.jpg(清和源氏の紋といえば、笹竜胆「ささりんどう」。)

【最後に一言】その後の源氏


P7150818.jpg(廟とかは見られませんでした。しっかりお詣りしてきました。)

治承4年(1180年)、平氏政権での皇位継承の不満から反乱を企図した以仁王に源頼政(摂津源氏)が協力する「以仁王の挙兵」が起こります。

この乱は失敗に終わりますが、熊野に潜んでいた義朝の弟の源行家らが以仁王の令旨を全国に伝えると、河内源氏の源頼朝、源希義(土佐冠者)、源範頼、源義円、源義経ら兄弟や、源義朝の弟の源義賢の子であり、頼朝の従兄弟にあたる源義仲(木曾次郎義仲)、源義光の子孫の武田信義・安田義定(甲斐源氏)、山本義経・柏木義兼(近江源氏)、義国の子孫の足利義清(下野源氏)、新田氏庶流の山名義範、里見義成、そして新田義重(上野源氏)、摂津源氏では、源頼綱を祖とする嫡流多田行綱(多田源氏)、源頼綱の弟国房を祖とする源光長(美濃源氏)、大和源氏では、源親治らが各地で挙兵し、俗に源平合戦と呼ばれる治承・寿永の乱が発生します。

当初は平家が源氏を圧倒していましたが、次第に形勢が逆転して平家は源義仲に京都を追われることになります。
その後、源義仲軍と源頼朝軍・平家の三つ巴となりましたが、最終的に頼朝軍が圧倒し、寿永3年(1184年)に粟津の戦いで義仲軍を、元暦2年(1185年)に壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼして頼朝軍が勝利しました。

平家の追討に成功した頼朝は、乱の中で他の源氏一門(源義広・佐竹秀義(常陸源氏)、新田義重(上野源氏)、武田信義(甲斐源氏)、多田行綱(多田源氏)、弟の源義経・源範頼)を滅亡や衰退させ、奥州藤原氏を討ち勢力基盤を固めます。

後白河法皇が崩御すると、建久3年(1192年)に征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉幕府が成立しました。
これにより、清和源氏が武家の棟梁であると名実共に認められたことに成りました。
しかし、源頼朝の系統は、頼朝の子・源実朝が兄源頼家の子・公暁に殺害されると、その公暁も殺され完全に断絶しました。

また、鎌倉幕府において源氏一門は、血統や功績などにより源姓を称することが許される「御門葉」と、源姓を称することが適わず、名字を称するものに区別されました。

御門葉には信濃平賀氏(信濃源氏)、大内氏(信濃源氏)、安田氏(甲斐源氏)、加賀美氏(甲斐源氏)などの新羅三郎義光の系統、足利氏、山名氏などの源義国の系統が名を連ねましたが、平賀氏、大内氏は、承久3年(1221年)の承久の乱により得宗家(鎌倉幕府の北条氏惣領の家系)に敗れ没落しています。

鎌倉幕府末期の混乱期に頭角を表した、源義国の次男・足利義康を祖とする足利氏の棟梁・足利尊氏は、源義国の長男・新田義重を祖とする新田義貞らの対抗勢力を打ち破り、武家の棟梁として1338年に征夷大将軍に任じられ室町幕府を開きます。

足利義満は清和源氏出身者として初めて源氏長者となり、その後の将軍が源氏長者となる道を開きました。
その後、尊氏の子孫は鎌倉公方、古河公方、小弓公方、堀越公方、堺公方、阿波公方などに別れて勢力を伸ばします。

また、足利氏庶流で「御一家」とされた吉良氏・渋川氏・石橋氏や、「三管領」の斯波氏・細川氏、「四職」の一色氏の他、山名氏(新田氏庶流)、土岐氏(美濃源氏)が中央で台頭し、地方では九州探題や駿河・遠江守護を歴任した今川氏(吉良氏庶流)、奥州探題の大崎氏(斯波氏庶流)、羽州探題の最上氏(斯波氏庶流)が勢力を伸ばしました。

このように軍事力を背景にする清和源氏は、鎌倉時代・室町時代・江戸時代と長きにわたって時代の主流を進むことに成りました。

さてそれでは、現代の源氏長者は誰でしょう?愛子内親王が誕生された数日後の儀式に、武家代表として徳川宗家当主の徳川恒孝氏と加賀前田家当主の前田利祐氏がよばれて、武家末裔代表として儀式に参加しています。

この事から朝廷はいまも武家筆頭は徳川宗家と認識しているという事になり、武家筆頭は徳川恒孝氏と考えられます。

ちなみに、徳川恒孝さんですが、2代将軍徳川秀忠の四男保科正之を家祖とする会津松平家の家系で、徳川宗家に養子に入られています(驚)。

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