2017/07/15

特派員報告第二弾「 廃墟ファン必見・世界文化遺産」『軍艦島』へ上陸②!

廃墟マニアなる人々が居るらしい!

ぎっくり腰を再発して、ブログUP出来なかったうつけ者も居たらしい(お前やがな!)。

私にはよく理解出来ませんが、廃墟に衰退の美を感じられておられるのでしょうか?人の手が加わった建物の荒廃に盛者必衰の思いをいだかれるのでしょうか?桜が満開に咲いて、そして儚く散っていく様を見て美しいと感じる心と似ているようにも思えます。
私が生活する神戸市の摩耶山にはその山中の鬱蒼とした森を漂流する一艘の軍艦があるそうです。それは昭和4年、摩耶山にケーブルが開通した際にその客の誘致施設の一つとして建設された鉄筋L字5階建てのホテルの事で、神戸の街から遠目で見るとまるで軍艦のように見える事から「山の軍艦ホテル」という名で呼ばれていました。此が今!廃墟マニアの聖地と言われているようです(世界遺産には成りませんけど)。

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(北側の社員住宅群、こちらは船でしか見る事が出来ません。)

此方はもう世界遺産!「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の『軍艦島』上陸記です。

其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいね(人´ω`*).☆.。
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(三ツ瀬側から見た軍艦島です。)



今日は第二次世界対戦が修理した後の日本の復興を裏から支えた『軍艦島』についてお話しましょうね(#^.^#)。

【第四期・復興・近代化期(1945~1964年)】

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(右下に見えるのが第一次埋め立て石積ならば、こちらは世界遺産に成ります。)
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(この辺は緑も多いですね~上の建物は職員クラブハウス?パンフレットによって地図が曖昧です。)
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(第二見学広場から撮影の「総合事務所跡」です。煉瓦が綺麗ですね~オット私は廃墟マニアではないですよ、笑)


終戦直後、朝鮮人・中国人の帰国や労働者の島外離脱のために一時的に人口が激減しますが、戦後の復興資金の供給や復員者の帰還によって1948年以降には逆に人口が急激に増加します。1946年には労働組合が結成され、組合闘争の結果として賃金が上がり、ますます転入者が増えることになります。同時に住宅不足は深刻化することになりました。労働法の整備などによって、労働者の労働時間が制限されたため、人口が増加したにもかかわらず、石炭の生産量は戦時中を超えるには至りませんでした。

賃金の上昇と同時に炭坑の稼働率は下がり、余暇が増えます。遊び場にブランコ(それだけか?で感じですが、笑)も設置され、住みやすくなっていきます。特に1957年の海底水道開通で、いつでも真水の風呂に入れるようになるなど生活環境は劇的に改善していきます。ただし、住宅問題は労使のタブーであり、会社の職員に上層の広い部屋があてがわれ、一般の鉱員に中層のやや狭い部屋があてがわれ、下請け労働者に下層のとても狭い部屋があてがわれる、と言う不公平な区分は歴然と存在したようです。

人口が最盛期を迎えた1960年(昭和35年)には5,267人の人々が生活し、人口密度は83600人/km2と世界一を誇り東京特別区(東京23区)の9倍以上に達したといわれます。炭鉱施設・住宅のほか、小中学校・店舗(常設の店舗のほか、島外からの行商人も多く訪れていました)・病院(外科や分娩設備もありました)・寺院「泉福寺」(禅寺だがすべての宗派を扱っていました、しょうがありませんね、笑)・映画館「昭和館」・理髪店・美容院・パチンコ屋・雀荘・社交場(スナック)「白水苑」などがあり、島内においてほぼ完結した都市機能を有していたと考えられます。ただし火葬場と墓地、十分な広さと設備のある公園は島内になく、これらは端島と高島の間にある中ノ島に(端島の住民のためのものが)建設されました。

【第五期・石炭衰退・閉山期(1964~1974年)】

1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行(エネルギー革命)により衰退が始まります。特に1964年の九片治層坑道の自然発火事件が痛手となり、人口が急速に減少を始めます。しかし端島炭坑は1965年(昭和40年)に三ツ瀬区域の新坑が開発されて一時期に持ち直し、人口は減ったものの機械化・合理化によって生産量も戦時中に迫る水準を回復します。さらに、空き部屋となった2戸を1戸に改造するなどして、住宅事情は劇的に改善しました。住民の満足度も高く、この時期の端島は、福祉施設の不足を賃金の高さでカバーしている他は、全てが狭い所で完結している、「シビル・ミニマムの完全充足期」と評されます。

『シビル・ミニマム』(シビルミニマム、civil minimum)は、都市化社会・都市型社会において、市民が生活していくのに最低限必要な生活基準の事です。これに基づき市民と自治体の協働で、社会資本整備、まちづくり、社会保障等の基準を定めるべきとされます。

しかし、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受け、数百万トンの石炭を残したまま1974年(昭和49年)1月15日に閉山しまいます(残念じゃないの?)。閉山時に約2000人まで減っていた住民は4月20日までに全て島を離れ、4月20日の連絡船の「最終便」で退去した総務課のN氏、端島の最後を見届けるべく乗船していた研究者の片寄俊秀、阿久井喜孝、片寄の友達である作家の小松左京(日本沈没はここから生まれた?)らの離島をもって、端島は無人島となります。しかしその後すぐに人がいなくなったわけではなく、高島鉱業所による残務整理もあり、炭鉱関連施設の解体作業は1974年の末まで続しました。

【第六期・廃墟ブームと産業遺産期(1974年~)】

閉山前より西山夘三や、片寄俊秀をはじめとする西山研究室の人々によって、主に「住まい」の方面からの調査が行われていましたが、島全体が三菱の所有地と言うことから、部外者に対しては「外勤」と呼ばれる監視が付き、調査を行う西山研究室の人々の後を総務課のN氏が密かに付けているなど、会社に常に監視されており、調査は限定的にならざるを得ませんでした(北朝鮮ですか?)。

また、住人らは戦時中の「闇」の部分を語ろうとはしなかったといいます。長崎造船大学の教授として、京大の西山夘三に代わって1970年5月から1974年の閉山までにかけて端島の生活を詳細に調べ上げた片寄は、軍艦島の充足した生活という「光」の部分だけでなく、戦時中の「圧制ヤマ(言葉自体は戦時中だけの表現ではないはずです)」と呼ばれる奴隷労働や、中国人・朝鮮人の強制労働の実態といった「闇」の部分も明らかにし、論文『軍艦島の生活環境』(1974年)としてまとめ上げ、雑誌『住宅』(日本住宅協会、1974年5月号~7月号)に掲載されました(この論文は西山研究室の研究の一環とみなされ、 西山の撮影した閉山前の写真・西山の論文とともに『軍艦島の生活(1952/1970)住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート』としてまとめられている)。

差別的な待遇や、過酷な労働が無かったとは言いませんが、敵国捕虜と当時日本人として徴用された朝鮮の人々を全く同じ尺度で推し量るのには無理が有るように感じます(私見です)。

しかし、「これ以上暗い時代のことをほじくり出さないで欲しい」と言う元住民のまなざしの間で板挟みとなり、片寄は研究を中断するに至ります。一方で、戦時中の奴隷労働や強制労働は無かったと言う説もあり、軍艦島の当時を知るNPO法人「軍艦島を世界遺産にする会」理事長の坂本道徳や、軍艦島に詳しい音楽家の黒沢永紀も、徴用または出稼ぎだったと証言しており、2017年4月に雑誌『SAPIO』に掲載された。

閉山後より阿久井喜孝の調査によって、建築の方面からも光が当てられます(端島の建築には鉱山の技術が使われていることが明らかにされた)。また、高浜村端島支所の跡地から戦時中の日本人・中国人・朝鮮人の死亡者が記された『火葬認可証付申請書』が発見され、林えいだいの調査によって、端島炭坑の「闇」の部分にも光が当てられるようになった。戦時中の端島の朝鮮人坑夫の足取りに関しては、1992年に『死者への手紙―海底炭鉱の朝鮮人坑夫たち』としてまとめられた(奴隷労働があったとする片寄は、この調査に対して「その努力を決して無駄にしてはならないと思う」としていますが、「強制連行は無かった」という立場から見ると、この本は虚偽ということに成り、仮に虚偽であってもこの本が出版されたことは事実なので、両論併記をしてその事実を記す)。しかし、当時は一般人の上陸は禁止されていました。

『徴用(ちょうよう)』とは、戦時などの非常時に、国家が国民を強制的に動員して、一定の仕事に就かせること、また、物品を強制的に取り立てることです。占領地住民に対する徴用・徴発についてはハーグ陸戦条約に規定があり、正当な対価のない徴用・徴発は禁じられていました(朝鮮は当時日本国内でハーグ陸戦条約に規定占領地住民に対する徴用・徴発には当たりません)。

国民徴用令(こくみんちょうようれい、昭和14年7月8日勅令第451号)とは、国家総動員法に基づいて、昭和14年に制定された日本の勅令です。一部地域では白紙などと呼ばれました。
国家総動員法第4条の規定に基く国民の徴用
国家総動員法第6条の規定に基く被徴用者の使用、賃金、給料、その他従業条件に関する命令
の二つについて規定されました。1945年、国民勤労動員令によって廃止されています。

朝鮮における施行については、1944年(昭和19年)8月8日、国民徴用令の適用を免除されていた朝鮮人にも実施する、とした閣議決定がなされました。1944年9月より実施され、1945年8月の終戦までの11ヶ月間実施されています。日本本土への朝鮮人徴用労務者の派遣は1945年3月の下関-釜山間の連絡船の運航が困難になるまでの7ヵ月間でした。


【廃墟ブーム到来】

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(灯台の隣が、貯水槽なのか?独身寮なのか不明です。)
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(大正5年築造の30号棟「140戸」旧鉱員社宅、下請け飯場!)
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(下請け作業員飯場、旧船頭小屋)
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(見学広場と呼ばれる安全な場所は三か所だけです。どうしても写真が同じようになりますね(;^_^A)
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(見学通路から外れることはできません)


『軍艦島』は2000年代より、近代化遺産として、また大正から昭和に至る集合住宅の遺構としても注目されていました。廃墟ブームの一環でもしばしば話題に上るように成ります。無人化以来、建物の崩壊が進んでいますが、外壁の崩壊箇所については、一部コンクリートで修復が行われています。

島は三菱マテリアルが所有していたが、2001年(平成13年)、高島町(当時)に無償譲渡されました。所有権は、2005年(平成17年)に高島町が長崎市に編入されたことに伴い、長崎市に継承されています。建物の老朽化、廃墟化のため危険な箇所も多く、島内への立ち入りは長らく禁止されていました。2005年(平成17年)8月23日、報道関係者限定で特別に上陸が許可され、荒廃が進む島内各所の様子が各メディアで紹介され始めます。
島内の建築物はまだ整備されていない所が多いものの、ある程度は安全面での問題が解決され、2008年に長崎市で「長崎市端島見学施設条例」と「端島への立ち入りの制限に関する条例」が成立したことで、島の南部に整備された見学通路に限り、2009年(平成21年)4月22日から観光客が上陸・見学できるようになりました(条例により、見学施設以外は島内全域が立入禁止)。解禁後の1か月で4,601人が端島に上陸し、その後も、半年間で34,445人、1年間で59,000人、3年間で275,000人と好調です。なお、上陸のためには風や波などの安全基準を満たしていることが条件になっており、長崎市は上陸できる日数を年間100日程度と見込んでいます。

【行政区域の変遷】

江戸時代は幕府領の彼杵郡高浜村に属していました。ただし前述のように境界をめぐる争論があり、1773年(安永2年)に「幕府領・佐賀領とも端島に干渉しない」とされ、帰属先は定められていません。1889年(明治22年)4月1日の町村制施行により西彼杵郡高浜村端島名となります。1955年(昭和30年)4月1日に高浜村が野母村・脇岬村・樺島村と合併して野母崎町(現・長崎市)となった際、端島は高浜村から分離し、高島町に編入されます。2005年(平成17年)1月4日に高島町が長崎市に編入され、長崎市高島町字端島となっています。

【小説で紹介された『軍艦島』】

赤川次郎『三毛猫ホームズの無人島』(みけねこホームズのむじんとう)は、赤川次郎によって1997年に発表された三毛猫ホームズシリーズの短編集です。

炭鉱が突然閉山になり、無人島となった軍艦島。それから10年が経ったある日、突如軍艦島に明かりが点灯。翌朝、江川哲也という人物から、軍艦島のパーティーに招待する手紙が届きます。だが、江川がその手紙を書けるはずはなかったのです。江川はもう死んでいたのですから。そして惨劇の始まり、4作品が納められた肩のこらない短編集です。

そして私の大好きな内田康夫の人気「浅見光彦」シリーズ記念すべき100番目の事件『棄霊島(きれいじま)』.

浅見光彦は「旅と歴史」の依頼で、長崎県五島列島へ教会堂の取材に行くことになった。飛行機嫌いの浅見がフェリーで九州へ向かっていると、船中で元刑事の後口と出会い意気投合する。彼は浅見を案内しながら、軍艦島で起きた未解決の連続変死事件について語る。だが、後口は娘が住むという長野県へと向かう途中で、静岡県御前崎の海岸で遺体となって発見された。現地で浅見は、後口と意外な人物との接点に気づいたのですが。

軍艦島全景(写真集)をご紹介!



【最後にえ~!なうんちく】

『軍艦島』は島全体が世界文化遺産構成資産ではなく、島の8割近くは緩衝地帯(バッファーゾーン)と呼ばれる世界遺産の核心部分を保護するため周囲に巡らされた区域です。勿論緩衝地帯は世界遺産ではありません(え~)。

軍艦島を含む世界遺産の正式名称は「明治日本の産業革命遺産」です。ユネスコへ提出した推薦書でも、その下限は1910年までと定めています。つまり軍艦島というと99%の方が廃墟が世界文化遺産だと連想されておられると思いますが、あの廃墟の大半が大正・昭和に建築れたもので、1910年「明治日本の産業革命」のものではないため、世界遺産には登録されていません。

それでは、軍艦島の中で本当の世界遺産部分はどこかというと、島の中心部、廃墟建物の地下にある明治時代の石炭の掘削坑になります(上陸しても誰も見られない部分です)。大正・昭和の掘削坑は世界遺産ではありませんので、軍艦島上陸ツアーで現地を訪れても、安全上この明治の掘削坑は公開してしません。
そレでは、何故明治の掘削坑の何が評価されたかというと、明治3年の時点で海底トンネルを掘削していたことです。掘削機械を欧米から買い付け、地質に合わせて独自改良しながら掘り進めました。当時、同時期に欧米の鉱山技術を独自改良して生産性を高めた事例は皆無であり、日本人の探究心の高さを物語っています。
また、元々は小さな岩礁島だった端島を開拓すべく、島の周囲を護岸工事を施したのですが、断片的に残る明治の石積護岸は、西洋の技術に九州地方に江戸時代から伝わる技法を組み合わせ、より頑丈なものに仕上げています。この天川(あまかわ)積みの護岸も世界遺産に登録されており、こちらは上陸ツアーで見ることができます(軍艦島で本当の世界遺産見ても気づかないかも!)。

いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!

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