2017/07/10

祝!海の正倉院「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産登録記念 本当の『正倉院』

ユネスコ世界遺産委員会は9日、福岡県の「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」の世界文化遺産登録を決めました~(^^)b。
政府が推薦した構成資産8件全てが登録され、世界遺産委員会がユネスコ諮問機関イコモスの資産半分の除外勧告を覆しました\(^o^)/。

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(東大寺正倉院です。大きすぎて一番後ろからでも写真に納まらなかったのです。)

おめでとうございます🎵やはり天照大神と須佐乃男の誓約に始まる宗形三女神の海の道は全てが一緒に登録されないと、意味が無いですよね。
伊邪那岐に海を任されて泣いてばかりいた須佐乃男の涙も渇れたはずです。

登録祝を祝して?本物の「奈良東大寺」『正倉院』を御紹介します(一寸無理やりな感じがありますが!笑)。

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(関連遺産群の位置関係と沖ノ島の航空写真です。Wikipediaより拝借しました。)



せっかくなので、少しだけお話しましょう。但し私まだ訪れてはいないので、参考です。

【「宗像・沖ノ島と関連遺産群」を世界文化遺産登録】

ユネスコ世界遺産委員会は昨日(9日)、「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」を世界文化遺産登録しました。

福岡県宗像市の沖ノ島(宗像大社沖津宮)は九州と朝鮮半島の中間にあり、4~9世紀に大陸との交流の成就を祈る国家的祭祀が行われていました。
朝鮮半島製の金製指輪や中東のペルシャからもたらされたカットグラスの破片など、約10万点の出土品の内8万点が国宝(凄いと思いませんか?)に指定され、「海の正倉院」とも呼ばれています。

今も女人禁制などの禁忌が守られており、地元自治体は「島を信仰の対象とする伝統が継承されてきた世界でもまれな例」と説明、「文化的伝統や文明の存在を伝える」というスローガンのもと、世界遺産への登録申請がなされていました。

遺産群は福岡県宗像市の沖ノ島と3つの岩礁(小屋島、御門柱、天狗岩)のほか、除外勧告を受けていた宗像大社沖津宮遥拝所、同中津宮、同辺津宮、祭祀を担った豪族の新原・奴山古墳群(同県福津市)全八件が一括で登録されました。

沖ノ島は神官が交代で一人だけ駐在するほぼ無人島!行けない世界遺産が誕生しました(笑)。実は特別に行ける方法が有るので最後迄読んで下さった男性(女性は無理ですm(__)m)の方々には、こっそり?最後に御紹介します。

其では今日の本論「東大寺正倉院」です。

【正倉院正倉って何】

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(垣根?か柵でこれ以上後ろにいけませんでした。見苦しいですがお顔を伏せさせていただきました。)

正倉院(しょうそういん)は、奈良県奈良市の東大寺大仏殿の北北西に位置する、校倉造(あぜくらづくり)の大規模な高床式倉庫。聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた建物で、1997年(平成9年)に国宝に指定され、翌1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されてい。

元は東大寺の正倉(倉庫)でしたが、1875年(明治8年)3月10日、収蔵されていた宝物の重要性に鑑み、東大寺から内務省の管理下に置かれました。1881年(明治14年)4月7日、農商務省の設置に伴い、内務省博物局が農商務省へ移管され、1884年(明治17年)5月に宮内省所管となっています。1908年(明治41年)4月、正倉院は帝室博物館の主管となり、第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)5月3日に宮内府図書寮の主管となりました。現在は宮内庁の施設等機関である正倉院事務所が正倉院宝庫および正倉院宝物を管理しています。

正倉院の宝物には日本製品のみならず、中国(唐)や西域、ペルシャなどからの輸入品を含めた絵画・書跡・金工・漆工・木工・刀剣・陶器・ガラス器・楽器・仮面など、古代の美術工芸の粋を集めた作品が多く残るほか、奈良時代の日本を知るうえで貴重な史料である正倉院文書、東大寺大仏開眼法要に関わる歴史的な品や古代の薬品なども所蔵され、文化財の一大宝庫です。シルクロードの東の終点ともいわれていますね。

【正倉院の意味は?】

奈良時代の官庁や大寺院には多数の倉が並んでいたことが記録されています。「正倉」とは、元来「正税を収める倉」の意で、律令時代に各地から上納された米穀や調布などを保管するため、大蔵省をはじめとする役所に設けられたものでした。その中でも大寺院にはそれぞれの寺領から納められた品や、寺の什器宝物などを収蔵する正倉があり、正倉のある一画を塀で囲ったものを「正倉院」と称していました。南都七大寺にはそれぞれに正倉院が存在したが、歳月の経過で廃絶して東大寺正倉院内の正倉一棟だけが残ったため、「正倉院」は東大寺に所在する正倉院宝庫を指す固有名詞となっています。

「補足」南都七大寺は、奈良時代に平城京(南都・奈良)及びにその周辺に存在して朝廷の保護を受けた7つの大寺を指す。興福寺(こうふくじ、奈良市登大路町)・東大寺(とうだいじ、奈良市雑司町)・西大寺 (さいだいじ、奈良市西大寺芝町)・薬師寺(やくしじ、奈良市西ノ京町)・元興寺(がんごうじ、奈良市中院町、芝新屋町)・大安寺(だいあんじ、奈良市大安寺)・法隆寺(ほうりゅうじ、生駒郡斑鳩町)です。

【正倉院にはどんな宝物が納められてるの?】

756年(天平勝宝8歳)6月21日、光明皇太后は夫である聖武太上天皇の七七忌に際して、天皇遺愛の品約650点、及び60種の薬物を東大寺の廬舎那仏(大仏)に奉献したのが始まりです。光明皇太后はその後も3度にわたって自身や聖武天皇ゆかりの品を大仏に奉献し、これらの献納品は正倉院に納められました。献納品目録である献物帳も正倉院に保管されています。
献物帳は五巻からなり、それぞれ『国家珍宝帳』、『種々薬帳』、『屛風花氈等帳』、『大小王真跡帳』、『藤原公真跡屛風帳』と通称されています。

正倉院宝庫は、北倉(ほくそう)、中倉(ちゅうそう)、南倉(なんそう)に区分されます。

北倉は主に聖武天皇・光明皇后ゆかりの品が収められ、中倉には東大寺の儀式関係品、文書記録、造東大寺司関係品などが収められていました。また、950年(天暦4年)、東大寺羂索院(けんざくいん)の双倉(ならびくら)が破損した際、そこに収められていた物品が正倉院南倉に移されています。南倉宝物には、仏具類のほか、東大寺大仏開眼会(かいげんえ)に使用された物品なども納められており、1185年(文治元年)の後白河法皇による大仏再興の開眼会に宝物の仏具類が用いられた事は知られています。そのほか、長い年月の間には、修理などのために宝物が倉から取り出されることが度々あり、返納の際に違う倉に戻されたものなどがあって、宝物の所在場所はかなり移動しているようです。

上述のような倉ごとの品物の区分は明治以降、近代的な文化財調査が行われるようになってから再整理されたものです。

「献物帳」記載の品がそのまま現存しているわけではなく、武器類、薬物、書巻、楽器などは必要に応じて出蔵され、そのまま戻らなかった品も多いようです。刀剣類などは藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)の際に大量に持ち出され、「献物帳」記載の品とは別の刀剣が代わりに返納されている事も知られています。
また大仏開眼の際に聖武天皇・光明皇后が着用した冠など、何らかの事情で破損した宝物も存在するが、その破片が所蔵されている場合もあります(礼服御冠残欠などの残欠)。また、一部の唐櫃は鎌倉時代、江戸時代のものであり、宝物の中にも後世に追納されたものが多いという説もあります。

国家珍宝帳に記された献納品には後の時代に持ちだされたことを示す除物の付箋が付けられたものが7点(封箱、犀角蕆、陽宝劔、陰宝劔、黄刀、黒作懸佩刀、挂甲)あり、このうち光明皇后が死去する半年前の天平宝字3年(759年)12月に出蔵された陽宝劔と陰宝劔は、献物帳にある大刀100口の筆頭に記されていましたが、その後の行方は判明していませんでした。

1907年(明治40年)から翌年にかけて東大寺金堂(大仏殿)盧舎那仏須弥壇の周辺から大刀6口、水晶玉、挂甲残欠などが発見され「東大寺金堂鎮壇具」として国宝に指定されていましたが、2010年に元興寺文化財研究所がこのうち金銀荘大刀2口のX線撮影をおこなったところ、刀身から「陽劔」「陰劔」の象嵌銘が発見され、国家珍宝帳に記されていた陽宝劔と陰宝劔であることが確認されました。専門家の間では光明皇后が国家の平安を願って埋納したものであると考えられています。陽宝劔と陰宝劔は東大寺ミュージアムに保管されています(今回取材その実物を拝見させて頂きました)。

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(こちらが北倉に成ります。)

正倉院の三倉のなかでも特に北倉は聖武天皇・光明皇后ゆかりの品を収めることから、早くから厳重な管理がなされていました。宝庫の扉の開封には勅使(天皇からの使い)が立ち会うことが必要とされています。なお「勅封」という言葉は本来「天皇の署名入りの紙を鍵に巻きつけて施錠すること」を指しています。正倉院宝庫がこの厳密な意味での「勅封」になったのは室町時代以降ですが、平安時代の各種文書記録にも正倉院を「勅封蔵」と表現しており、事実上の勅封であったと見なして差し支えないといわれます。
平安時代中期には北・中・南の三倉とも勅封蔵と見なされていたが、東大寺の什器類を納めていた南倉のみは、後に勅封から綱封(東大寺別当らの寺僧組織が管理する)に改められました。1875年(明治8年)、正倉院全体が明治政府の管理下におかれてからは南倉も再び勅封となっています。

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(南倉ですね!)

毎年正倉院展が行われていて、正倉院の宝物の公開が有ります。私も特別な予定が無いかぎり出来るだけ足を運んで、日本の宝物を見させて頂くようにしているのですが、正倉院の宝物の中で是非見たいものがあるんです。それが「蘭奢待」です。

『蘭奢待(らんじゃたい)』天下第一の名香と謳われる香木なのです。正倉院の中倉薬物棚にあり、現在までに、足利義満、足利義教、足利義政、土岐頼武、織田信長、明治天皇らが切り取ったといわれています。どんな香りがしたのか?気に成りませんか?

p56984535.jpg(左から紙の帯が付いている所明治天皇の削られたところです。真ん中織田信長公右隣足利義満公の削り跡です。)


【建造物としての正倉院校倉造】

校倉造(子供の頃習いましたよね~)、屋根は寄棟造、瓦葺。規模は正面約33.1メートル、奥行約9.3メートル、床下の柱の高さ約2.5メートルです。

建立時期は不明ですが、光明皇后が夫聖武天皇の遺愛の品を大仏に奉献した756年(天平勝宝8歳)前後とみるのが通説に成っています。759年(天平宝字3年)以降、宝物出納の記録が残っていることから、この年までに建立されていたことがわかりますね。当初の正倉院の建物構成については不明な事が多く、記録によれば、平安末期には現存する宝庫1棟を残すのみであったようです。

床下には10列×4列の柱を建て、その上に台輪(だいわ)と呼ぶ水平材を置き、この上に北倉と南倉は校木(あぜぎ)という断面三角形の材を20段重ねて壁体をつくり、校倉造とします。ただし、中倉のみは校倉造ではなく、柱と柱の間に厚板を落とし込んだ「板倉」で、構造が異なっています。なぜ、中倉のみ構造が異なるのか、当初からこのような形式であったのかどうかについては、諸説がるようです。奈良時代の文書には、正倉院宝庫のことを「双倉」(そうそう、ならびくら)と称しているものがあります。このことから、元来の正倉院は北側と南側の校倉部分のみが倉庫で、中倉にあたる中間部は、壁もなく床板も張らない吹き放しであったため「双倉」と呼ばれたとするのが通説でしたが、年輪年代法を用いた鑑定により、当初より現在の形であった事が判明しています。

校倉の利点として、湿度の高い時には木材が膨張して外部の湿気が入るのを防ぎ、逆に外気が乾燥している時は木材が収縮して材と材の間に隙間ができて風を通すので、倉庫内の環境を一定に保ち、物の保存に役立ったという説がありました(中学校でもそうならいましたね)。
しかし、実際には、重い屋根の荷重がかかる校木が伸縮する余地はなく、この説は現在は否定されています(え~!)。実際壁面は中から見るとあちこちから外光が透けて見える「隙間だらけ」の状態であり、湿度の管理について言えば、宝物が良い状態で保管されたのは多重の箱に収められていたことで湿度の「急変」が避けられたことによる作用が大きかったようです。 現存する奈良時代の倉庫としてはもっとも規模が大きく、また、奈良時代の「正倉」の実態を伝える唯一の遺構として、建築史的にもきわめて価値の高いものです。

校倉造の宝庫は長年、宝物を守ってきましたが、1952年(昭和27年)に鉄筋コンクリート造の東宝庫、1962年(昭和37年)には同じく鉄筋コンクリート造の西宝庫が完成し、翌1963年(昭和38年)、宝物類はそちらへ移されました。現在、宝物の大部分は西宝庫に収納、東宝庫には修理中の品や、西宝庫に収納スペースのない、大量の染織品が収納されています。現在、勅封はこの宝庫に施されています(そりゃそうですね)。

【1300年前ですから勿論修理はしてますよ】

記録によれば、長元4年、承暦3年、康和2年、建久4年、寛喜2年、寛元元年から4年、建長6年、慶長8年、元禄6年、天保4年から7年、明治10年に修理がおこなわれています。大正2年3月から12月にかけては解体修理も行われています。

2010年(平成22年)8月31日に正倉院を管理する宮内庁は、平成23年~平成26年正倉院の施設整備工事を行い、改修は2011年(平成23年)9月1日より始まり、拝観停止となっていましたが、平成26年10月25日から公開が再開されています。

【国宝指定の経緯は?】

皇室用財産(宮内庁の各部局(長官官房、侍従職、書陵部、三の丸尚蔵館、京都事務所、正倉院事務所)が管理する国有財産)の一連の文化財は、「宮内庁による十分な「管理」が行われている」との宮内庁見解にもとづき、文化財保護法による指定の対象外となっています。そのため、正倉院の建物や宝物も国宝・重要文化財等には一切指定されていませんでした。
しかし、「古都奈良の文化財」がユネスコの世界遺産として登録されるにあたり、当該文化財が所在国の法律によって保護の対象となっていることが条件の重要な要因であることから、正倉院の建物も、正倉院正倉として1997年(平成9年)5月19日、文化財保護法による国宝に指定されました(国宝に指定されたのは不動産である宝庫の建物だけで、動産である宝物類は指定されていません)。

【世界遺産沖ノ島へ渡航する方法】

最後まで読んでいただいた方に、沖ノ島へ渡航する方法を約束通りにお教えいたします。先ず、沖ノ島には「沖津宮」が鎮座、「田心姫神」が祀られており、神領であるゆえ一般人は許可なく立ち入ることはできません。この沖ノ島に滞在が許されているのは宗像大社の神職ただ一人だけです。「田心姫神」は女性の神様なので、沖ノ島で古くから守られているのが「女人禁制」という掟です。

理由は女性に対して嫉妬心を抱くことや、手漕ぎ舟での渡島が女性にとって過酷であることなど諸説あります。たとえ男性であっても、沖ノ島に上陸できるのは年に一度だけ。日本海海戦(日露戦争)の慰霊を行う「現地大祭(5月27日)」のみ、参加希望の一般男性から限定200人が選ばれます。
実は、今年応募してたんですよね~私、世界遺産に成れば凄い倍率に成ってとても無理!今年ならと思ったのですが、落選してしまいました。

上陸の際には、裸(素っ裸で海に浸かります。)になって禊を行わなければなりません!それでも何時か行ってみたい、市郎右衛門でした。

いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
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リュミエールブラン ネージュ

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