2017/07/04

日本史最大級の発見!「邪馬台国 卑弥呼の宮殿か?」『纒向遺跡』

「邪馬台国見つかるか 奈良・纒向遺跡中心部を再調査へ」2009年の朝日新聞のデジタル版の題名ですf(^_^;

いかにも朝日新聞らしい、一直線な思い込みですが、これが本当ならそれは確かに凄い事ですから、一度見に行きたいというのが、今回の取材旅行の目的のひとつでした。

P7040025.jpg(現代の神社にたとえると神殿に成りますか?幅19.2m、高さは三階建ての建物クラス、柱は四角に加工されています。スゴ!)

『纒向遺跡(まきむくいせき、纏向遺跡) 』は、奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯にある、弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡(国の史跡に指定)です。
3世紀に始まる遺跡で、一帯は前方後円墳発祥の地と推定され、邪馬台国の中心地に比定する説があり、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳などの6つの古墳が分布します(ご紹介して来ました)。

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(今回の調査で発掘された建物群B・C・Dに成ります。)
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(建物Bは拝殿ですかね?)
P7040022.jpg(東西に並ぶ三連の建物群、日本初の中国を見習った近代建築都市です。)
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(現在は埋め戻されて、この状態です。看板の後ろが大建築物)
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(先の草のところ線路です。)
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(こちらは建物B方向です。凄いな~の感じが無いのが残念ですが、笑)


【纒向遺跡概要】

遺跡の名称は、旧磯城郡纒向村に由来し、「纒向」の村名は垂仁天皇の「纒向珠城(たまき)宮」、景行天皇の「纒向日代(ひしろ)宮」より名づけられたものです。

遺跡内出土遺物で最も古いものは、縄文時代後・晩期のものです。粗製土器片やサヌカイト片に混じって砂岩製の石棒破片、あるいは土偶や深鉢などが遺跡内より出土しており、この地に縄文時代の集落が営まれていたと考えられています(継続性が有るという事ですね)。

遺跡からは弥生時代の集落は確認されておらず、環濠も検出されていません(不思議ですね)。銅鐸の破片や土坑が2基検出されているのみで、この遺跡より南に少し離れた所からは弥生時代中期・後期の多量の土器片が出土しており、方形周濠墓や竪穴住居なども検出されています。また、南西側からも同様に多くの弥生時代の遺物が出土しています。ただし、纒向遺跡の北溝北部下層および灰粘土層からは畿内第V様式末の弥生土器が見つかっており、「纒向編年」では「纒向1類」とされています。なお、発掘調査を担当した石野博信氏(古墳時代を専門とされる考古学者ですが説明いるかな?)は、「纒向1類」の暦年代としては西暦180年から210年をあてておられます。

纒向遺跡は弥生時代から古墳時代への転換期の様相を示す重要な遺跡であり、邪馬台国畿内説を立証する遺跡ではないかとして注目を浴びています。しかし3世紀前半の遺構は多くなく、遺跡の最盛期は3世紀終わり頃から4世紀初めとみられます。2011年に、「卑弥呼の居館」とも指摘された大型建物跡の約5メートル東側から別の大型建物跡の一部が見つかり、建物跡は造営年代が3世紀後半以降の可能性があります(卑弥呼の死去248年といわれ時代が合わないという事です) 。

ただし年代推定には技術的に誤差が大きく、また多くの遺跡は同じ場所に弥生時代のものと古墳時代のものが見つかることが多いので、纒向遺跡で3世紀の遺物が出土したからといって、箸墓古墳自体が3世紀のものとは断定できないことに注意する必要があります。

P5190133.jpg(箸墓古墳!卑弥呼ではなくても、纒向遺跡神殿の主が眠っているのか?)


【発掘調査】

纒向遺跡は1937年(昭和12年)に土井実氏によって紹介されたのが最初です。しかし、県営住宅建設および小学校建設計画が持ち上がり、それを契機に1971年(昭和46年)より橿原考古学研究所によって事前調査が行われることとなります。その結果、幅5m、深さ1m、総延長200m以上の運河状の構造物が検出され、地元の万葉研究者である吉岡義信らが『万葉集』に登場する「巻向川」の跡ではないかと述べたことから、注目を集めることとなりました。川跡からは、吉備の楯築遺跡や都月坂遺跡で出土している特殊器台が出土しています。その後も、橿原考古学研究所の石野博信と関川尚功を中心に発掘調査がなされ、様々な遺構や出土品が広範囲にわたり確認されています。現在も調査を継続しており、調査回数は100次を超えていますが、2008年(平成20年)12月段階でも、遺跡は全体の5%が発掘調査されたにすぎません。

【纒向遺跡の遺構規模】

2011年(平成23年)現在で把握されている纒向遺跡の範囲は、北は烏田川、南は五味原川、東は山辺の道に接する巻野内地区、西は東田地区およびその範囲は約3km2になります。遺跡地図上では遺跡範囲はJR巻向駅を中心に東西約2km・南北約1.5kmにおよび、およそ楕円形の平面形状となって、その面積は3km2(300万m2)に達します。

地勢は、東が高く西が低くなっており、三輪山・巻向山・穴師山などの流れが巻向川に合流し、その扇状地上に遺跡が形成されています。

唐古・鍵遺跡の約10倍の規模を持ち、後世の藤原宮に匹敵する巨大な遺跡で、東北地方の一大軍事拠点であった多賀城跡よりも大規模です。また、都市計画がなされていた痕跡と考えられる遺構が随所で確認されています。
2009年(平成21年)にはいくつかの建物を検出し、纒向遺跡は柵や砦で囲まれた都市の一部らしいことが明らかになってきました。

【主な出土遺物】

弥生時代終末期から古墳時代前期にかけての土器が出土しており、出土した弥生土器・土師器により纒向編年がなされています。
日本全国で作られたと見なされる遺物が出土していますが、中でも大和国に隣接し、古代から交流が盛んで関係が深かった伊勢国で造られた物と、伊勢湾を挟んで東側に位置する尾張国で造られた物が多くみられます。また、搬入品のほか、ヤマトで製作されたものの各地の特色を持つとされる土器が多く、祭祀関連遺構ではその比率が高くなる(多い地点では出土土器全体の3割を占める)。また、これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、および日本海側を含み、それ以前の外来系遺物に比べてきわめて広範囲であり、弥生時代以前にはみられない広範囲の地域交流があったことを物語っています。


【特異な遺跡】

纒向遺跡は大集落と言われながらも、人の住む集落跡が確認されていません。現在確認されているのは祭祀用と考えられる建物と土抗、そして弧文円板や鶏形木製品などの祭祀用具、物流のためのヒノキの矢板で護岸された大・小溝(運河)などです。遺跡の性格としては居住域というよりも、頻繁に人々や物資が集まったり箸墓古墳を中心とした三輪山などへの祭祀のための聖地と考える学者も多い様です。

石野博信氏によれば、「2世紀末に突然現れ、4世紀中頃に突然消滅した大集落遺跡」ということに成ります。


【何故邪馬台国畿内説の候補地?】

弥生時代末期から古墳時代前期にかけてであり、『魏志』倭人伝に記された邪馬台国の時期と重なります。
当時としては広大な面積を持つ最大級の集落跡であり、一種の都市遺跡といえます。遺跡内に箸墓古墳があり、倭迹迹日百襲姫命(モモソヒメ)の墓との伝承を持つが、これは墳丘長280mにおよぶ巨大前方後円墳でです。それに先駆けて築造された墳丘長90m前後の「纒向型前方後円墳」も3世紀においては日本列島最大の墳丘規模を持っており、ヤマト王権最初の大王墓と推測される。纒向型前方後円墳は各地にも築造されており、政治的関係で結ばれていたとも考えられています。

倭迹迹日百襲姫命はまた、邪馬台国の女王・卑弥呼とする説があります。肥後和男氏は大正時代の笠井新也氏の見解を紹介して自らの邪馬台国畿内説を補強しています。それによれば、笠井は卑弥呼をモモソヒメに、弟王を10代崇神天皇としています。その根拠は、崇神天皇の崩年干支が戊寅年で卑弥呼没年に近い事、モモソヒメは三輪山の神との神婚伝説や「日也人作、夜也神作」の説話などからも一種の巫女であることは明らかで、「鬼道」を能くしたという卑弥呼の姿によく似ていると思われる。

この説に対しては懐疑的な意見も多いが、考古学者のなかには最古の巨大前方後円墳が箸墓古墳であることから箸墓は卑弥呼の墓であっても不自然はないとの白石太一郎らの見解があります。ちなみに箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160mであり、『魏志』倭人伝の「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」の記述に一致しています。

3世紀を通じて搬入土器の量・範囲ともに他に例がないほどの規模であり、出土土器全体の約15%が駿河・尾張・伊勢・近江・北陸・山陰・吉備などで生産された搬入土器で占められ、製作地域は南関東から九州北部までの広域に拡がっており、西日本の中心的位置を占める遺跡であったことは否定できない。また、祭祀関連遺構ではその割合は約30%に達し、人々の交流センター的な役割を果たしていたことがうかがえます。このことは当時の王権(首長連合、邪馬台国連合)の本拠地が、この纒向地域にあったと考えられます。
2013年になって、邪馬台国の時期の3世紀前半に建造されたと考えられる建物の柱穴が100箇所以上にわたり検出されました。建物を何度も建てたり取り壊したりしたと考えられ、卑弥呼が年数会の祭祀に用いた建物の可能性が出ています。

以上の点から邪馬台国畿内説の有力候補地と見なされている。

【更に邪馬台国=ヤマト王権の王都=纒向遺跡】

P5190099.jpg(西から東へBCDの建物が直線に並んでいます。Cが卑弥呼?の生活スペースか~?)
P5190111.jpg(もう一つ東側に発見された建物Eですが、時代が違うようです。)
P5190108.jpg(柱の穴が四角いのが良く分かりますね~四角い柱なんて何百年先の話じゃないですか?)
P5190102.jpg(供物の置き場か?倉庫ですかね?)
P5190104.jpg(伊勢神宮式の建物ということに成りますね。つまり「唯一神明造」です!)

もう一つ進めて考えてみましょう。3世紀初めに突然現れ、きわめて計画的集落で規模も大きい遺跡である事、搬入土器が多く、その搬出地は全国にまたがっています。遺跡規模は日本列島最大であり、市的機能を持っていた事も確認できます。生活用具が少なく土木具が目立ち、巨大な運河が築かれ大規模な都市建設の土木工事が行われていました。導水施設と祭祀施設は王権祭祀。王権関連建物。吉備の王墓に起源する弧帯文、特殊器台・壺などの出土が見られ、鉄器生産も行っています。。

居住空間縁辺に定型化した箸墓古墳、それに先行する纒向型前方後円墳が数多くあることが更にヤマト王権の王都の可能性を大きくしています。

また、平安時代初期の「大市」墨書土器があり、この地が『倭名類聚抄』記載の「於保以智(おほいち)」郷に相当するとみられ、『日本書紀』記載の海柘榴市も纒向遺跡南に比定されていることから、纒向が後世に至るまで市的機能を有していたことが知られており、さらに『記紀』では崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)、纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)、纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)が存在したとの伝承が記載されています。

以上の様な指摘が、纒向遺跡がヤマト王権発祥の地あるいはヤマト王権の王都であるとの見解を補強しています。

P5190113.jpg(桃は神聖な食べ物ですね、黄泉の魔物を追い払う聖なる果物、桃太郎もそこら辺か~?)

最後に、この時代は王が祭祀を行った後は「廃棄する」文化が有りました。そう宮殿も王が死ねば破壊し投棄したんですね。
日本人が持つ「穢れの文化」は当時から在ったのかもしれませんね。割りばし使ってたかな(笑)?

いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
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