2017/04/05

「丹波の赤鬼」赤井悪右衛門直正奮戦!明智光秀敗退?『黒井城攻略戦』

先日お友達がFacebookで気持ち良さそうに山城の芝生に寝そべって居られたので、私も~と思い丹波黒井城に行って来ました(登って来ましたの方が正確!)。

黒井城は戦国時代、丹波・但馬間の火種と成ったばかりか、周りの数々の大大名の思惑がぶつかりあって有名武将達が攻防を繰り広げた山城です。

P3190026.jpg(風雲急をつげる黒井城~~~!丹波の赤鬼・悪右衛門こと赤井直正、イケメンですね~。)

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P3190075.jpg(保月城は別名のようです。)
P3190027.jpg(登山!まさに登山でした(;^_^A、後ろにお稲荷が見えるのですが…)
P3190030.jpg(我が実家と同じ豊岡神社?運命感じました、笑)

黒井城の戦いは、安土桃山時代に織田信長の命をうけた明智光秀などが丹波国征討を目的に行われた、赤井氏の堅城黒井城攻城戦の事です。
天正3年(1575年)と天正7年(1579年)の2度に渡って行われました。

今回はその第一弾、猛将『丹波の赤鬼こと赤井悪右衛門』と第一次黒井城の戦いをご紹介します。



P3190023.jpg(コースが二つあります。登りはゆるやかコースですが写真は混在しています。)
P3190072.jpg(急坂コース手前に灯篭とお墓らしきものがありました。)
P3190067.jpg(もう急坂~、笑!確かですね。)

【第一次黒井城の戦い】

第一次黒井城の戦は、天正3年(1575年)10月初旬~天正4年(1576年)1月15日に行われました。

永禄13年(1570年)3月、上洛していた織田信長に荻野直正(後の赤井悪右衛門直正、荻野家養子となっていました。)と甥の赤井忠家(直正の兄赤井家清は亡くなり、忠家は家清の嫡男)は拝謁し織田方につくことを約束します。
信長はこれに対して氷上郡・天田郡・何鹿郡の丹波奥三郡を安堵しました。

これにより丹波は安定するかに思えましたが翌元亀2年(1571年)11月、但馬守護で有子山城主(現在の出石城山上の山城です)山名祐豊と但馬国人の夜久野城主磯部豊直らが氷上郡にあった足立氏の山垣城を攻城します。
黒井城の直正と後屋城の忠家はこの動きに素早く対応し、山垣城に救援に向かい山名・磯部両軍を撃退しています。

4年後の天正3年(1575年)に直正は勢いに乗り但馬の竹田城(城主は太田垣輝延で但馬山名四天王の一人です。)を攻城し手中に収め、祐豊は信長に援軍を要請しましたが、当時信長は第三次信長包囲網により(足利義昭は毛利氏の庇護下に入り、鞆に移りましたが、それ以前の紀伊にいた頃から信長包囲網の再構築を画策していた様です。当時、義昭は形式的とは言え征夷大将軍であり、将軍として御内書を出して各地の大名の糾合に務めています。この結果、長らく信長と対立していた本願寺、武田氏のみならず、中国の毛利氏、山陽の宇喜多氏、北陸の上杉氏などが包囲網に参加しました。)織田軍は、分散対応余儀なくされており援軍を出せる余裕は有りませんでした(信長さんは、どっちに見方してるのかな?)。

しかしながら同年、越前一向一揆が一段落すると信長は明智光秀を総大将に丹波征討戦に乗り出すことになります(山中祐豊が信長さんに助けを求めたって事?ん~(^^;、そのくらい複雑化してたのか~)。

信長としてみれば、吉川元春(三本の矢の1人毛利元就次男ですね。)を討つ前に京都に近い丹波を平定し、背後の憂いを削ぐのが目的だったと思われます。

光秀は越前より坂本城に帰城し、戦の準備を整えて同年10月初旬に出陣しました。
この時直正はまだ竹田城にいましたが、光秀の動きを察知しいちはやく黒井城に帰城、戦闘態勢を整えました。
光秀の出陣と並行して信長は10月1日、丹波国人衆に向けた朱印状を出し、その調略によって八上城の波多野秀治をはじめ、国人衆の大半を取り込んでいたのですが...。

P3190032.jpg(ゆるやかコースといってもゆるやかではありませんけどね~!)
P3190066.jpg(急坂コースに在る三段曲輪跡です。)
P3190033.jpg(石踏の段跡!整備が始まっていました。)
P3190035.jpg(再建された?赤門です。)
P3190036.jpg(赤井氏の招魂碑が立っていました。)

光秀は黒井城の周囲に2、3箇所の砦を築き、圧倒的兵力で黒井城を包囲します。
戦況は勿論光秀に有利であり、『八木豊信書状(八木豊信は但馬国人八木家当主、山名四天王の一人)』によるとこの戦況について光秀は「城の兵糧は来春までは続かないので落城するであろう」と楽観しており、戦いは順調に推移していたはずでした。

攻城戦開始後2か月以上が経過した翌天正4年(1576年)1月15日、明智軍は黒井城の前方(南側)にあたる「平松」という土地に移動し、黒井城の東側「大路城主波多野秀香軍」黒井城の西側「霧山城主波多野秀尚軍」黒井城の北側「八上城主波多野秀治軍」と黒井城の四方に陣取り、いよいよ黒井城を攻め立てるべく準備が整ったところに、突如波多野秀治軍が裏切り、三尾城城主赤井幸家(直正の弟)が明智軍に襲い掛かり、これに即応して波多野秀香軍と波多野秀尚軍が西、東より挟撃を加えました。
明智軍は体制を整えるべく一旦柏原方面に退却しようとしましたが、そこには高見城で赤井忠家が待ち伏せており、明智軍は黒井川に追いやられ大敗しました。

P3190039.jpg(丹波の街並み結構登っていますね~。)
P3190041.jpg(光秀も初回は攻め落とせませんでしたので、今回は東曲輪までにしましょう。次回本丸をご紹介いたします。)

この戦いは「赤井の呼び込み軍法」と呼ばれ、秀治の裏切りにより勝敗がついた訳ですが、赤井・波多野両家は姻戚関係にあり、事前に密約があった可能性がささやかれてはいるものの、はっきりした証拠や記録は無い様です。

大敗した光秀は京都に逃げ込み、その後坂本城に帰城し増した。

一方、この戦いで織田軍に土をつけたことで直正は「丹波の赤鬼」という名を広め、全国の武将から一目おかれる存在となってい来ます。

『甲陽軍鑑』によると直正は「名高キ武士」として
徳川家康長宗我部元親松永久秀らと共に、しかも筆頭として赤井直正(養子に行った荻野姓から赤井姓に戻しています。)の名が挙がっています。
つまり、後の天下人と四国の覇者・乱世の梟雄と並び紹介されるほどの武将なのです。

戦国史には大きく取り上げられてはいませんが、すごい武将がいたものですね~。
光秀を撃破したのは秀吉位だと思っていました(驚愕~~~!)


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