2017/03/01

縄文時代の定説をことごとく書き換えた『三内円山遺跡』

青森県三内丸山遺跡を御紹介致します(o^-')b !

その前に昨夜、ブログ友達のオフ会があり、夜遅くまで楽しい時間を過ごす事が出来ました!
ブログ共有もしていただいている、taka:aさんから、お誕生日プレゼントを頂きました。

そのプレゼントが、余りに素敵な「お箸」なので御紹介しますと共に、素敵なブログ友達の皆さんを紹介してくれたtaka:aさん、本当にありがとうございます(大事に使わせて頂きます(#^.^#))。
年齢は親子程違うのに、「この完成されたセンスはなんちゅうやっちゃ!」と驚かずにはおられません(驚愕~~く!)。

P3010008.jpg(めっちゃ素敵な、お蕎麦専用MY箸、木材は楢の木です~~!)

さて本題の「三内円山遺跡」ですが、「関西(兵庫県)やろ~!本当に行ったんか~?」と思われる方々も居られるかも知れませんが、行って来ました~20年前ですがf(^_^;。

古いので、デジカメも無く写真のスキャンに成ります(画質が悪いのはお許しくださいね~(^^;)。

それでは、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみください。 
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【そもそも三内丸山遺跡って何?】

三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は青森県青森市大字三内字丸山にある、縄文時代前期中頃から中期末頃の大規模集落跡です。

(地図を貼っておきますので、空からの映像と20年前を比べてください。)

今から約5500年前、集落が造られた時点での住居数は40~50棟程度、1棟に4~5人が住んでいたと仮定すると、人口は200人前後です。
その後、5000年ほど前から集落の拡大が始まり、4500年ほど前に最盛期を迎えます。
住居数約100棟、人口500人くらいの集落になっていた可能性が高いのです。

沖館川右岸の河岸段丘上に立地しており、2000年(平成12年)に国の特別史跡に指定されました(私が訪れたのは1997年でした)。

遺跡跡には住居群、倉庫群のほか、シンボル的な3層の掘立柱建物が再現されており、資料館もあります(記憶がさだかでは無くて、訪れた当時資料館が有ったか覚えていませんf(^_^;)。
2007年12月から青森県教育庁文化財保護課三内丸山遺跡保存活用推進室が、発掘調査を行っています。

SCN_0004.jpg(この細いあんちゃん誰や?笑、20年でちょうど20キロ太った!左が3層の掘立柱建物です。因みに、ブルックスブラザーズのパンツとシャツ、ラルフローレンのベストに、シェラデザイン のマウンテンパーカー!今は日本のみの販売だそうです(///ω///)♪20年経つと全てユニクロ!Σ(×_×;)!)

【遺跡保存の経緯】

この地に遺跡が存在することは江戸時代からすでに知られており、山崎立朴が弘前藩の諸事情を記した『永禄日記』(えいろくにっき、館野越本)の元和九年(1623年)正月二日条に多量の土偶が出土したことが記録されているほか、菅江真澄の紀行文『栖家の山』(すみかのやま)の寛政八年(1796年)四月十四日条に、三内の村の古い堰が崩れた場所から、瓦や甕、土偶のような破片が見つかったことが記録に残されていました。

本格的な調査は新しい県営野球場を建設する事前調査として1992年から行われました。
その結果、この遺跡が大規模な集落跡であることが分かり、1994年には直径約1メートルの栗の柱が6本出土し、大型建物の跡ではないのかと、脚光をあびます。
これを受け県では既に着工していた野球場建設を中止し、遺跡の保存を決めました。

その後、資料館を作って整備を行い、六本柱建物跡については湿度を一定に保った保存ドームを作り、柱の現物は他の場所に保存、レプリカを代わりに元の場所に置くなどの措置が行われました。
また、墓の道の遺構が非常に長く延びていることが分かったため都市計画道路建設も中止と成りました。

【遺跡の概要】

八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、標高は約20メートルで、遺跡は約40ヘクタールの広大な範囲に広がっています。
集落は住居・墓・捨て場・大型掘立柱建物・掘立柱建物・貯蔵穴・土坑墓・粘土採掘穴・盛り土・道路などが、計画的に配置されています。

この遺跡は現在の敷地から、広場を囲むように住居が造られた環状集落ではないか?と推測された事も有りましたが、住居が非同心円状に機能別に配置されているところから見て、それとは異なる形式であると考えられています。

遺跡には、通常の遺跡でも見られる竪穴住居、高床式倉庫の他に、大型竪穴住居が10棟以上、約780軒にもおよぶ住居跡、さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されています。

また、他の遺跡に比べて土偶の出土が非常に多く、板のように薄く造られた土偶は板状土偶と呼ばれています。
次の縄文後期や晩期の立体的に体の各部を表現した土偶とは大きく異なっているのが特徴的です。

遺跡から出土した栗をDNA鑑定したところ、それが栽培されていたものであることが分かり、多数の堅果類(クリ・クルミ・トチなど)の殻、さらには一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった栽培植物の種も出土しました。

これらの事実は、三内丸山の人たちが、自然の恵みのみに依存した採取活動ではなく、集落の周辺に堅果類の樹木を多数植栽しており、一年草を栽培していた可能性が考えられます(それらの分析から約1500年間続いた集落と考えられています)。

1500年という長さがいかに凄い事なのか簡単に説明致しましょう(簡単かな?)。
世界四大文明、「メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明」ですら、およばない長期間続く集落なのです。
その人口は一番多いときは500人程にもなったことになります。

世界的に見てもこれほど長く同じ土地で生活が営まれた例は少ないと言わざるを得ません。

例えば、ローマ・ん~...イスタンブール・エルサレム?とか位です(苦笑)。
日本では平安京が「鳴くよ鶯平安京(794年)」で後に京都として続き1200年と少しなのですからか、いかに凄いかお分かりですよね(笑)

【うんちく~!】
平安京っていつまで?平安京の時代は鎌倉幕府の成立で終わりだと思っておられませんか(意地悪く平安京「の」とさせて頂きました、笑)?
平安京の時代は明治に成って、天皇が東京に御移りに成るまで続いたんですよ~(^^;
約1000年間ですね!
因みに、東京は日本の首都ですが、都ではありません!?不思議に思われるかも知れませんが、遷都は天皇によって行われるもので、明治天皇は東京遷都を行っておられないはずです。
まあ天皇陛下が居られる場所を都とするならば、東京ということに成りますが。
法律上も首都が東京との明記は無いと記憶しています。

さて元に戻って「三内円山遺跡」の発掘は、これ迄の定説である小集団で食料をもとめて各地を移動しながら生活をしていたという、縄文人のイメージをまったく変えてしまう遺跡ということになります。
正に「教科書を書き換えてしまう遺跡」ということに成りますね。

三内円山遺跡からの出土品は縄文時代の文化が、従来考えられていたものよりも大きく進んだものであることを示すものでした。
遺跡は他の近くの遺跡に繋がっている可能性が高く、未だに全容は把握しきれていません(早く調べて~~(^^;)。

【遺跡の終焉の謎】

これほどの集落がなぜ終焉を迎えたのかは謎となっています。
一因としては、気候寒冷化などが挙げられますが、それだけで集落全土を手放すとは考えにくく、栗の栽培を停止しなければならない何か特別な理由があったという見解も示されてはいますが、それが何であるかは分かっていないようです。

【出土遺物】

出土遺物は段ボールで数万箱にも及ぶ量だったようです。
土器、石器が中心ですが、日本最大の板状土偶などの土製品や石製品も多く出土しています。
この他にも日本各地域を中心とした交易で得たと推測される黒曜石、琥珀、漆器、翡翠製大珠などが出土しています。
出土遺物1,958点が2003年(平成15年)5月29日に国の重要文化財に指定されています。
翡翠は糸魚川でしか産出されないので、翡翠の出土は上越地域との交易が証明される訳です。
また平底の円筒土器やけつ状耳飾りなどは遼河文明(興隆窪文化)との類似性が指摘されています(遼河文明(りょうがぶんめい)とは、満州南部、 中国東北の遼河流域で起こった中国の古代文明の一つ。紀元前6200年ごろから存在したと考えられる文明です)。

三内丸山遺跡から出土した動物遺体は、縄文集落で一般的なシカ・イノシシが少なく、7割弱がノウサギとムササビであり、三内丸山遺跡においてはノウサギやムササビの肉を食料としていたと推察でき、彼らの食生活の一端を伺い知ることができます。
背景には巨大集落を支えるシカ・イノシシ資源が枯渇していた可能性が考えられます。

【遺構『六本柱建物跡』

現在まで三内丸山遺跡で検出された遺構の中で最も重要視されているものです(私?の左に写っている巨木の建物です)。
その柱の大きさで評価されることも多いのですが、それとともに注目すべきは、柱穴の間隔、幅、深さがそれぞれ4.2メートル、2メートル、2メートルで全て統一されていることです。
これはその当時すでに測量の技術が存在していたことを示すものであり、ここに住んでいた人々が当時としては高度な技術を持っていたことを示すものです。
特に4.2メートルというのは35センチメートルの倍数であり、35センチメートルの単位は他の遺跡でも確認されている、「縄文尺」ともいう長さの単位が広範囲にわたって共通規格として共有されていた可能性が考えられます。
さらに、これほど大規模な建造物を建てるには多くの労働力を必要としたはずでですし、集落居住者の団結力と彼らを的確に指導できるカリスマ指導者がいたことも推測できますね。
また、柱本体にも腐食を防ぐため周囲を焦がすという技術が施されており、長い間腐食を防ぎ保存状態が良かった要因です。

【復元建物】

六本柱建物跡の復元に当たっては様々な意見が出された様です。
建設する場所は六本柱建物のあったと推測される場所のすぐ脇に決まったものの、ただ柱が立っていただけなのではないかと言う意見や、逆に装飾具などもある非常に凝ったものだったのではないかと言う意見も出されました。

しかし床があるのに屋根がない、もしくは床がないのに屋根があるというのは中途半端な感が否めず、後々までこれでよかったのかと疑問の声が上がる要因となっています。
私的には、物見櫓のイメージでした(縄文海進ですぐ傍が海であったと考えると、クジラや海獣を素早く発見するための櫓とイメージしました)。


【大型竪穴式住居】

三内丸山では幅10メートル以上の大型竪穴式住居跡がいくつも検出されているが、その中でも最大なものは長さ32メートル、幅10メートルのもので、これが復元されています。

SCN_0005.jpg(でかすぎて、すべてパノラマ撮影です。PCでは、少しずらして見てください。とにかくでかい!)


【竪穴式住居跡】

三内丸山遺跡では、一般の住民が暮らしていたと思われる竪穴式住居跡も多数検出されています。ています(写真でも分かるように当時まだ復元前です(;^_^A)
屋根に関しては茅葺き、樹皮葺き、土葺きの3種類の屋根を持った住居をそれぞれ想定・復元し、これも内部見学が可能だそうです。

【掘立柱建物跡(高床式倉庫跡)】

東西約75メートル、南北約18メートルの範囲に掘立柱建物のものであると推測される柱穴群が検出されています。
この掘立柱建物の柱穴の周辺及び内側には、生活の痕跡が確認できなかったため、この掘立柱建物は高床式建物であった可能性が高いと判断され、現在高床式建物として復元されていました(中に入ってきました。その後放火事件で現在は入れないようです。得したな!笑)。

SCN_0006.jpg(まだ中に入ることが出来ました。手前にもまだ調査中の跡が点在していました。)

【環状配石墓】

道の跡周辺からは環状配石墓(ストーンサークル)も検出されていました。
この墓はムラ長の墓と考えられている様です。
石の並べ方が、南方のやや離れた所にある小牧野遺跡と共通している事も注目されています。
また、1999年10月6日(私が訪ねた後ですね)にこの墓の一つから炭化材が出土したが、これは最古の「木棺墓」の跡ではないかといわれています。

とにかくまだ全然整備されていない頃です。
あらためて日本という国はすごい歴史を持っていると、感じた青森「三内円山遺跡」でした。


いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
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