2017/02/13

やはり「出雲王国」は実在した!『加茂岩倉遺跡』

今日は前回の続きとも言える、『加茂岩倉遺跡』を御紹介します。

前回「荒神谷遺跡」が凄い!とお話したのですが、荒神谷遺跡の発見から10年と少し、また山陰!それもすぐ側から凄い物(銅鐸ですけど(^^)d)がザックザックと出てきたものだから、本当にびっくりすると共に、日本の古代史がひっくり返えってしまいそうに成っています(笑)。

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(正にザックザック!ここ掘れワンワンですね~笑)

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加茂岩倉遺跡(かもいわくらいせき)は、島根県雲南市加茂町岩倉にある弥生時代の遺跡です(岩倉の名前に謂れが有る?と現地に何か記載が有った記憶が有るのですが、お宝を埋めた伝承が残っていたのかな?)。
1999年1月14日国の史跡に指定されました。



ちなみに、暑い中を苦労して歩いたのですが、松江自動車道の加茂岩倉SA下りからすぐに行けます(;^_^A。

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(こんな仕事がして見たかったと思う市郎右衛門です。)

【銅鐸の埋葬状態の復元展示】

遺跡は1996年に加茂町(現雲南市)岩倉の丘における農道建設工事中に発見されました。
重機による掘削中に、突然異様な音がしたため、直ちに重機を止めた運転者が「誰がバケツをこんなところに埋めたんだ~!」と思いつつ近づいたところバケツではなく、なんと銅鐸でした。

当時加茂町では、町長の速水雄一氏(後に雲南市長)のもとで「学問と教育の里」というテーマで町おこしを行っており、町役場にただちに遺跡発見の連絡が入ります。
速水町長号令の元、1996年より1997年の2年間にわたり、加茂町教育委員会と島根県教育委員会により発掘調査が行われました。
現在、発掘された当時の銅鐸の埋葬状態をそのまま復元展示しています。

【加茂岩倉遺跡出土の銅鐸】

発掘調査の結果、一カ所からの出土例としては日本最多となる39口の銅鐸が発見されました。
出土品は国(文化庁)が所有し、現在は島根県立古代出雲歴史博物館に保管されています。
1999年に遺跡は国の史跡に指定され、出土した銅鐸は国の重要文化財に指定されました。
2008年7月には、出土した39口の銅鐸全てが国宝に指定されました。

発見時に重機が直ちに停止されたことも幸いし、当初の埋納状態がよく残されており、配置などの詳細な学術情報が研究者にもたらされました。
また、1997年度の調査では、銅鐸が埋められていた坑から3メートル離れた場所に別の坑も発見されたが、こちらからは残念ながら、遺物は全く出土しませんでした。

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(新たに見つかった抗の様子ですがこちらは空っぽです。)
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(最初に掘った穴が良くなかったのでしょうか?)

遺跡は1984年に発見され、358本の大量の銅剣が出土した、荒神谷遺跡と山を隔てて南東に僅か3.4kmしか離れておらず、両遺跡から出土の銅鐸に「×」印の刻印があることから両遺跡は何らかの関係あることが分かり、古代出雲を研究する上で大きな手がかりとなっています
これらの二つの発見や、後に発見された「出雲大社境内遺跡」(40mもの空中神殿の存在が明らかになりました。)との関連から、古代「イズモ」には王国、あるいは文化圏が存在した、とする研究者が増えてきています(出雲王国確定と思ってます!)。

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(40mの空中神殿の柱の跡が出雲大社で発見されました。埋め戻して場所を特定するためのしるしが残っています。)
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(ほらすぐそばに在りますね~荒神谷遺跡)

【出土品銅鐸】

『入れ子銅鐸の出土』
加茂岩倉遺跡の銅鐸埋納坑からは39口の銅鐸が出土しましたが、これは1つの遺跡からの銅鐸の出土例としては最多で、古代出雲の歴史に対する見直しが迫られることとなっています。

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(大きいサイズの中に小さなサイズを入れ込んでいます。正に「入れ子」状態ですがなぜこんな埋め方なのですかね?)
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(加茂岩倉だけでは無くて、遠く離れた兵庫県の淡路島でも同じ埋め方なのが納得できませんよね~?)

大きさの点では高さ45センチメートル前後の中型鐸20口30センチメートル前後の小型鐸19口に分類され、形式においては弥生Ⅱ期からⅢ期の外縁付1式が19口、外縁付紐2式が9口、外縁付紐2式から扁平紐1式が2口、扁平紐2式が6口、扁平紐2式から突線紐1式が3口となっています。

そのうち13組26口は中型鐸の中に小型鐸が納められた「入れ子」状態で出土したことが確認されています(昨年出土した淡路島の松保銅鐸によって音を出すための、舌の状態も確認されていますね)。
銅鐸がこのような入れ子状態で出土した例は極めて少なく、内部は中空であった可能性も考えられているが、CTスキャンによる内部調査によれば、埋納坑埋内と内部を塞いでいる土砂が異なることが指摘されています。
表面からは朱が検出され、線刻で文様が表現され、袈裟襷文(けさだすきもん)銅鐸が30口、流水文銅鐸が9口ありました。
絵画の描かれた銅鐸は7口あり、シカやカメ(ウミガメ)、トンボや四足獣などの動物が描かれています。

『絵画銅鐸に描かれている動物達』
銅鐸の中には、顔・トンボ・鹿・猪・スッポンなど絵を描いた絵画銅鐸が何個か含まれていました。

顔を描いた銅鐸29号銅鐸(辟邪銅鐸)の吊り手に一番上に顔を描いている。
下に向かって開く弧線を二つに重ねた眉、下向きと上向きの弧線を組み合わせた目、入れ墨を鼻の横に上向きの弧線を二つ組み合わせ表している。
顔を描いた銅鐸はこれが初めてでなく、島根県出土と推定されている銅鐸、伝岡山県上足守銅鐸、広島県福田銅鐸などがあります。
これらの絵画銅鐸は目を描いているが、虹彩(黒目)が描かれていないのが特徴です。

蜻蛉の絵が描かれた18号銅鐸(四区袈裟襷文銅鐸)身の両方の面の上右・左区に蜻蛉の絵があります。
35号銅鐸の一面の上右区にもあり、一枚の羽を二本の線で描き羽の幅を輪郭で表しているほか、左右の羽や頭、胴もくびれを描くなど丁寧で写実的に描かれています。
区画に収まらないトンボの絵もあり、区画の上に描くのはトンボが空を飛ぶからだと解釈できるそうです。
秋津はトンボの古語で、秋津洲・秋津島(古事記では本州を大倭豊秋津島と呼んでいますね!)と呼ぶのは、トンボが「田の神」であり、豊作の神であったからと考えても良いのではないでしょうか?(黄金色に実った稲穂の上には赤蜻蛉が良く似合いますものね(#^.^#))

鹿と猪(多分?)23号と35号銅鐸に区画の中に鹿二頭と四脚動物が描かれていました(古代の動物に関してですが、鳥・鹿は神聖な生き物、猪は食料?だそうです。)。

『製作地は何処だ?』
出土銅鐸の製作年代は弥生時代中期から後期と推定されます。

出土品の一部(外縁付1式銅鐸)には近畿地方で製作されたと推定されるものもあり、12号銅鐸は大阪府東大阪市鬼虎川遺跡出土鋳型と共通する特徴をもっています。
外縁付紐2式から扁平紐1式にかけての銅鐸は、流水文銅鐸9口、袈裟懸文銅鐸2口ですが、この時期の流水文文様は、畿内南部の工人集団製作の横型流水文畿内北部の工人集団製作の縦型流水文様の2系列がありました。
本遺跡出土の流水文銅鐸9口は、全て横型流水文銅鐸なので、畿内南部(奈良周辺ですかね~?)の工人集団が製作したものと考えられています。

扁平紐式2式から突線紐1式にかけての9個の銅鐸は、3群から成り、そのうちの四区袈裟懸襷文銅鐸3口は同一工房の作品のようです。
もう一群の2口は、互いに同笵(同じ鋳型から鋳造された銅鐸)。
これら二群に比して、六区袈裟懸襷文銅鐸6口も同一工房で造られていると推定されています。
つまり、少数の工房で製作された銅鐸と推測できます。

絵画表現の独自性や荒神谷遺跡出土銅剣の線刻との類似から、大半は出雲地方で製作されたと考えられており、一部は他地域との同笵関係も認められています。
なお、埋納された時期については、現在のところ荒神谷遺跡同様特定できていません

本遺跡で出土した銅鐸には、同じ鋳型で製作された銅鐸も各地で確認されていることから、各出土地との関連を含めた今後の研究が待たれますね。

ちなみに、昨年発掘された淡路島の松帆銅鐸7点のうち、松帆3号銅鐸と加茂岩倉27号銅鐸、松帆5号銅鐸と荒神谷6号銅鐸、松帆2・4号銅鐸と慶野中の御堂銅鐸(南あわじ市日光寺蔵)、同じ石製の鋳型で造られた同笵銅鐸であることがわかりました(だんだんと解明されていく古代史に目が離せませんね)。

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歴史って本当に面白いですよね~!

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