2017/02/09

凄いぞ!神原神社古墳「景初三年銘三角縁神獣鏡」

今日ご紹介するのは島根県雲南市の「神原神社古墳」です。

出雲に帰って来ました。

所在地:島根県雲南市加茂町大字神原。
墳形: 一辺が約30mの方墳(大きくはないね!)。狭長(5.8m)の竪穴式石室を持っています。
築造時期: 4世紀中頃(西暦350頃!)
出土品:「景初三年」銘の三角縁神獣鏡(国の重要文化財)、鉄製武器や農耕具等。

赤川左岸に隣接する微高地に築かれた一辺30~35mの方墳です。
現在は赤川改修により50m南方の地点に移築されています。

三角縁神獣鏡が出土した神話時代の出雲王と思われる人物の石室を、神原神社境内に完全移築復元しています。

何が凄いかって?それは「景初三年」銘の三角縁神獣鏡ですよね~(^^;
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(「景初三年」銘の三角縁神獣鏡です(゜゜;))

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【凄いぞ!何がって?】
「景初三年」銘の三角縁神獣鏡が何故凄いかなんですけれど、「景初三年」は「三国志演義」で有名な曹操の国「魏」に卑弥呼が使いを送り、青銅鏡百枚を下賜されたといわれている西暦239年に当たるからです。
魏の皇帝は二代曹叡です(曹操の孫に当たります)

ここでちょっと失礼かも知れませんが、「鏡なのにゴツゴツで何処に私が写るの?」何て思われてる方は居られませんか?
見えているのは、後ろの模様で反対側が磨かれて鏡に成ってます。
歴史好きには当たり前の事ですが、当たり前な事が以外と一般的に当たり前でないことも有るので、あえて説明させて頂きましたm(__)m。

余談ですが、私の職場でアルバイトさんに仕事して頂いた事が有るのですが、双眼顕微鏡をどうしても、片眼を閉じないと見る事ができない方が居られました(小中学校で単眼顕微鏡しか使っていないからだそうです、笑!)。
理系の人間には出来て当たり前な事なのですが、利用しない方には当たり前でないことも有るんですよね!
ふと、今思い出して鏡の説明分を書き足しました!不要かな?(#^.^#)。

古墳から三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が出土する例は、特に珍しいことでは有りません。
現在では500を越える数の三角縁神獣鏡が見つかっています。
ところが、その鏡が「景初三年」の銘が刻まれていると話は別なんです。
しつこいようですが、景初三年は西暦239年、邪馬台国の女王・卑弥呼が魏の明帝(二代曹叡、蜀の諸葛亮の北伐に司馬懿をもって対応。諸葛亮が没すると「死せる孔明、生ける仲達を走らすの名場面が繰り広げられます(笑)」、238年に司馬懿に遼東の公孫淵を討たせました。公孫氏を滅ぼしたことで楽浪郡・帯方郡を得て、翌年の邪馬台国の遣使があったとされる。)のもとに使者を派遣し、明帝から銅鏡100枚を下賜されたとされる年だからです(うんちく語り過ぎ(^人^))。

神原神社古墳の三角縁神獣鏡が下賜された銅鏡かどうかは、学会でも異論があるところですが、景初三年銘がある神獣鏡は、現在までのところ2面だけしか出土していません
もう一面は、大阪の和泉黄金塚古墳(画文帯四神四獣鏡)からであり、そしてもう一面はここ、神原神社古墳からだけなのです



【神原神社】
神原神社は、加茂岩倉遺跡から近く、南東1.8kmのところに位置しています。
車なら数分でアクセス出来ます。
国道54号線に戻って広島方面に向かうと、まもなく赤川に架かる柳橋があり、橋を渡りきって赤川の左岸の堤防を下流に向かうと、1kmほどで神原神社の裏手に出ます。
神原神社古墳は、この神社の横手に移設して復元されています。

周囲を畑に囲まれた神原神社は、今でこそ赤川左岸の畑の中に鎮座していますが、『出雲風土記』『延喜式』の神名帳にも記載されている古社です。

祭神として、オオクニヌシノミコト(大国主命)と、イワツツオノミコト(磐筒男命)、イワツツメノミコト(磐筒女命)を祀っています。

社伝では、アマテラスオオミカミ(天照大神)がオオクニヌシノミコトの神宝や真種の甘美鏡(水底に眠る神威溢れる見事な宝)を天の八十河にいるイワツツオノミコトとイワツツメノミコトを派遣して管理させたとされています。

社殿はもともと赤川左岸の微高地の突端に建てられていました。
その微高地が実は古墳の墳丘だったのです。

度重なる社殿の改築などで古墳の存在は古くからわかっていましたが、調査の手は加えられていませんでした。
昭和47年(1972)、赤川改修工事で新堤防を築くことが決まり、堤防上にあった神社の社殿を隣接地に移すことになりました。

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(上に堤防が見えますよね~あの向こう側に古墳が有ったようです)
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(古墳の高さがあるので、ほぼ堤防と同じくらいの高さに石室が在ります。)

新堤防建設に先立って微高地を発掘調査したところ、南北方向27~30m、東西方向22~26m、周濠の底からの高さ6.9mの方墳であることが判明しました。
しかも、横穴式の後期古墳が多いこの地方にあっては珍しい、狭長の竪穴式石室を持つ前期古墳だったのです。

【移設して復元された古墳】
神原神社古墳発掘調査を進めると、石室の蓋石の上に多くの器台形土器や壺が供えてありました。
石室内には、各種の鉄製武器や農耕具が副葬されていました。
鏡も一面見つかり、それが驚くべきことに「景初三年」の銘が刻まれていました。
全国で2枚目となる景初三年銘の神獣鏡の出土で、この古墳が全国的にも貴重なものであることが判明しました。

古墳の取り扱いについて、現状保存すべきかどうか慎重な検討が重ねられましたが、最終的には、完全な発掘調査を実施して、石室を隣接地に移築して保存することになったのです。
昭和48年の暮れに墳丘と石室に対する徹底調査が行われ、翌年には移設地の用地買収が行われて、昭和50年(1975)に石室の移築・復元作業が終わっています。

現在、神原神社横の巨大な覆い屋の下に横たわっている竪穴式石室は、このような経過を経て復元されたものです(移築したとは思えない見事な物です)。

石室の規模は内法で測定して、長さが55.75m、幅は北端で1.3m、南端で0.95m、床面から蓋石までの高さは約1.4m。
石室の四隅の壁はこの付近で産出する扁平な板状石を持ち送り式に小口積みしてあります。
床面はU字型にくぼんだ粘土で、くぼみの大きさから長さ5.8mの割竹形木棺が据えられていたと推測されています。

三角縁神獣鏡以外に、素環頭大刀・木装大刀・鉄剣・槍・鉄鏃などの鉄製品や、鋤・鍬・鎌・斧・ノミ・錐・鉈状鉄器や縫針などの農耕具、土器 、玉類(ヒスイの勾玉・碧玉の管玉・滑石製臼玉など)なども、この古墳から出土しました。

石室の構造に、これらの副葬品の組み合わせや出土土器の形式を勘案して、この方墳の築造時期は4世紀中頃(もう100年早ければね~f(^_^;)と推定されました。

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(真夏のとても暑い日でした~私の影が…お許しください。)
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(しかし見事に移築されていると思われませんか?屋根が在って遠くからだと土俵と勘違いしました。)

【埋葬されていた景初三年銘の三角縁神獣鏡】

景初三年銘がある三角縁神獣鏡は、神原神社古墳の石室に安置された木棺の中央東側から見つかりました。
鏡面を上にして約40度の傾で棺壁に立てかけてある状態で発見されました。

このように、土の古墳は出雲地方の古墳文化成立を知る上で重要であり、また、多量の鉄製品はこの地域の鉄生産との関連で注目されています。
出土品は重要文化財に指定され、島根県立風土記の丘資料館に一般公開されています。

この鏡は青銅の鏡で直径は23cm。
銘帯には次の41文字が左回りに鋳出されています。


景初三年 陳是作鏡 自有経述 本是京師 杜地□出 吏人■之 位至三公 母人■之 保子宜孫 壽如金石兮 (□は判読不明の文字、■は言偏に名)

銘文中の「景初」は中国三国時代の魏の年号で、三年はちょうど邪馬台国の卑弥呼が魏に貢献した年にあたります(もう分かったって!(;^_^A)。

このため、「景初三年」銘の鏡は邪馬台国論争や三角縁神獣鏡の製作地論争などで古代史上非常に注目されている鏡です。

三角縁神獣鏡は古代史の大きな謎の一つとされています。
魏の明帝が卑弥呼に下賜した銅鏡が三角縁神獣鏡であるならば、中国本土でも出土していておかしくないのですが、現実には一枚も発見されていません


【日本だけにしか無い理由2つの説】
一つは魏朝特鋳説と呼ばれるもので、中国で出土しないのは、魏が卑弥呼のために特別に鋳造して、そのすべてを卑弥呼に下賜してしまったからだとす説です。
この説では、三角縁神獣鏡は魏志倭人伝に記載の、卑弥呼に賜った銅鏡百枚にあたります。
もう一つは国産説で、我が国でしか出土しないのは、この鏡が日本で作られたものだからであるという
今までに発掘された三角縁神獣鏡がすでに500枚を越えていている点を考慮すれば、国産説の方が蓋然性があるように思われますね。

京都産業大学森博達教授は、中国詩文の韻律の研究から、魏朝特鋳説が成り立たないことを発表しておられます(2000・9・12付け毎日新聞)。
面白い説なので、以下にその要旨を付記します。

中国の詩や銘は韻文であり、原則として韻を踏なければな ません。
後漢に流行した方格規矩四神鏡の代表的な銘文を見ると、音符と四声による平仄(ひょうそく)の法則が当時すでに確立していたことがわかります。
ところが、方格規矩四神鏡の後に現れた三角縁神獣鏡には、魏で押韻(おういん)しなくなった字を押韻字とする銘文が少なく有りません。

神原神社古墳出土の景初三年鏡に関して言えば、かすかに押韻の跡が見られるところが一箇所あるが、平仄の韻律は全く無視されていのです。
卑弥呼が使者を遣わした魏の明帝の時代は、まさに詩文全盛の時代でした。
押韻の意識すら持たない拙劣な銘を刻んだ鏡は、皇帝自身の権威を傷つけるものであり、こんな銘文の鏡を特鋳して賜わるはずがない、というものです(簡単に説明すると天才とも言われた曹操の孫ともあろう者がこんな下手くそな銘文を作って外国特使に渡すはずが有るわけないでしょ~?です)

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(中に入ってもいいようですが、ちょっと気が引けたのでカメラを工夫しました。)
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(内部映像ですが、仲に入らずにカメラを差し込んで写しています。本当に綺麗に積まれています。)

この「景初三年銘がある三角縁神獣鏡」は邪馬台国の女王卑弥呼が中国の魏王曹叡から貰った100枚の内の一枚である可能性は?皆さんはどう思われますか?更にその鏡を枕に眠るこの古墳に埋葬された人物は誰?タイムカプセルでこの時代に飛びたい、市郎右衛門です。

いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
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